18きっぷで東海道を巡る -7-

鶴見線大川支線を訪れるには、前項のように、分岐駅の武蔵白石にはホームがないため、ひとつ鶴見寄りの安善で乗り換える必要があります。訪れたのがちょうど冬至のとき、関東では、関西より20分は早い日の入りを迎え、16時30分になると、周囲はもう薄暗くなりました。決して優れた風景ではないものの、目障りなものも隠してくれて、あたりは暮色に包まれました。そんななかに、見掛けはごく当たり前の列車ながら、異色の列車が到着しました。
高圧線を併設した背の高い架線鉄柱も、最近はあまり見かけなくなった。暮色の安善に到着したのは……。

 

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 18きっぷで東海道を巡る -6-

鶴見線の枝線を巡る ①

全JR路線のなかで、まだ相当残っている未乗車区間の踏破も、遅々としながらも継続中です。しかし、乗りこぼしの区間はアプローチ困難なところが多く、心して訪問しないと距離も伸びません。とくに関東地方には意外な未乗車区間が残っています。鶴見線もそのひとつです。過去に、ひと駅だけ乗ったものの、未乗車区間として残ったままでした。南武線の尻手から浜川崎へ向かい、鶴見線の踏破をスタート。尻手~浜川崎は南武支線と呼ばれ、貨物線として敷設され、のちに旅客営業をするようになった。3番ホームが南武支線の専用ホームで、終端部は行き止まりになっている。車両は205系の2両編成のワンマンカー、本日はクモハ205 1001+クハ204 1001

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秋の中国路 Part9 山口線 D51200号機とC571号機の重連を撮る

第9日目 11月26

昨夜も車中泊で宿営地は893-2さんお泊りの東萩駅から約2.2㌔と近い「道の駅 萩しーまーと」でした。今日は一緒に惣郷川橋梁を渡るトワイライトエクスプレス瑞風」を撮影後に山口線を走るD51200号機C571号機の重連、SLやまぐち号も撮るという豪華なスケジュールです。
▲ 東萩駅から惣郷川橋梁までは26.6㌔と近く所要時間は約34分です。7時50分前後に通過しますので7時半には現地に着きたいと6時起床で宿営地を出発しました。
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秋の中国路 Part8 山口線 D51200号機を撮る

第8日目 11月25

昨夜は「道の駅 仁保の郷」で宿営、2晩続いての車中泊となりました。もう寒くになっていますので68歳の老体が選ぶ宿泊方法とは言えませんが、何しろ年金生活者です。愛妻を亡くなってから年金支給額は約4万円も下がってしまい、余裕ある暮らしがさらにできなくなりました。趣味の鉄ちゃんを続けるためにはホテル代はできるだけ削っていかないといけない辛さがあります。

▲ 6:40 夜明けが来た「道の駅 仁保の郷」です。泊っている車の殆どは鉄ちゃんたちです。
今日合流する893-2さんは、
新山口に8:29着のさくら541号でやってこられます。
7:05 9号線を新山口駅に向かって走り、途中のマクドで朝マックです。
8:34 新山口駅で893-2さんをキャッチして、第一撮影地の宮野~仁保の「大山路踏切」を目指します。朝に脚立が設置で来ているのは確認済みですので余裕の到着でした。
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秋の中国路 Part7 山陰本線 惣郷川橋梁

第7日目 11月24

昨夜は迷った末、結局3泊目の宿営地となる道の駅「道の駅 サンピコごうつ」で早めの就寝としました。既に零下近くまで冷えるので下段寝台です。

7時過ぎに起床、併設されている6時開店のコンビニで朝食を仕入れてから西へと向かいました。ナビが教える走行予定距離は104㌔、所要時間は約1時間50分です。
7:26 
途中、海の見える「道の駅ゆうひパーク浜田」休憩をとった後、惣郷川橋梁へ向かいました。高台にある道の駅から俯瞰できるのは浜田漁港です。かつてオートキャンプ世界大会が浜田で開催された時に家族で参加しました。その時に採り立ての海産物を買い込むために朝の浜田漁港市場に行った楽しかった思い出が浮かびました。

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秋の中国路 Part6 三江線から木次線へ

今日は「ばけぺん」さんのご希望もあってから三次間で撮影します。その後木次線の坂根坂根を目指しまます。ここでお別れ、私は日本海へと向かい山陰本線の撮影予定です。

第6日目 11月23
▲ 8:29 撮影地 口羽~江平 Google座標;34.841624, 132.722262
三江線らしく赤褐色の石州瓦の屋根をバックに江の川橋梁を行く列車が川面に写る場所を探して選びました。山霧が出ていたのも良かったですね。橋梁は、江平手前の第四郷平橋梁です。
423Dは、キハ120 311+キハ120 307の編成でやってきました。


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2017年晩秋の中国路 Part5 三江線へ その3

▲ 先日12月15日、JR西日本から2018年3月17日に改定する列車ダイヤのあらましの発表がありました。その中に廃止直前の三江線も含まれ、現在最後の乗車記念にと超満員になっている424D-426Dの混雑緩和のためにもう一本、三次~江津を直通するDC運行が追加されました。運行期間は15日間、最後の荒稼ぎと言われる方もおられますが全国から押し寄せるファンにこれだけでは対応しきれないだろうと思われます。
私は「葬式鉄」を好みませんが愛妻の実家があった三次となれば思い入れもあります。見送りに参加するつもりですが廃線となる3月31日は、愛妻の一周忌(3月29日)が終わってすぐです。ぶんしゅう7号で深夜走行していくか、新幹線+レンタカー利用で行くか思案中です。
桜の季節は直ぐです。三江線の開花時期は4月上旬前後です。毎年1週間幅で前後していますが、開花が早ければ最後の桜とコラボで撮れるでしょう。
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2017年晩秋の中国路 Part4 三江線へ その2

また投稿途中で新たな訪問を入れてしまいました。途中で引き続きの投稿を行うつもりはあったのですが、動き回ったので出来ずとなり申しわけございません。戻りましたので引き続き続編を投稿させていただきます。

第4日目 11月21日
▲ 7:55 昨夜は車中泊ではなくベッドの上でまったりと熟睡することが出来ました。朝風呂に入り、三江線撮影の常宿になってきた潮温泉大和荘」の店先からの三次行きの2番列車423ので撮影です。

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 地図を携えて線路端を歩いた日々 -17-

飯田線⑧ 中部天竜のバス
飯田線シリーズの最後は久しぶりのバスネタで締めくくります。前回紹介した中部天竜駅前から、たった2台という日本最小の路線バス会社が佐久間ダムの間を結んでいました。
終点「佐久間ダム」で発車を待つ共益バス、前身は長距離用に造られた国鉄バスで、国鉄時代のナンバーは641-7901、昭和42年製造のいすゞ製。共益バスはあと1台所有するだけの事業者で、手許にあった当時の日本バス協会「会員名簿」によると、ともに香川県の鬼ヶ島観光自動車、直島バスも路線バスが2台だったが、両者は貸切バスも保有しており、路線バス2台だけの共益バスが当時、日本最小のバス会社だった(昭和52年8月)。

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思い出の明智、岩村、、、

宇都家氏の記事を大変なつかしく拝見しました。明知線と明知鉄道には何度か訪ねていますが、岩村の思い出を少しだけご紹介します。まずは国鉄時代。

昭和45年10月18日 岩村駅で発車を待つ明智行き461レ C1274

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ここは 明智、岩村、、、

国鉄明知線にも明知鉄道にも乗ったことはありませんが、明智(線名と字が違うようです)には6年前に行ったことがあります。明智は古い街並みを活かし、「大正村」として観光地となっています。施設のうちの一つのおもちゃ資料館には古い電車やSLの魅力的なブリキのおもちゃが展示されていました。北原氏ならこれらの素性もたちどころに鑑定されるのでしょうか?

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 地図を携えて線路端を歩いた日々 -16-

飯田線⑦ 中部天竜

伊那路を抜け、天竜川の渓谷美を眺めながら、中央構造線を長大トンネルで抜けて、飯田線は中部天竜に至ります。ここには、中部天竜機関支区があって運輸上の要の駅になっていて、いつも、ひと電車遅らせて、区を訪問したものです。

中部天竜機関支区を横に見て発車する辰野行き1227M、クモハ52004+サハ75102+クハ47108+クモハ54119 “流電”の活躍は中部天竜以南が多く、辰野まで足を伸ばすのは1往復のみだった(昭和45年8月)

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半世紀前の阪急神戸線(1)西宮北口-夙川間、併せて今昔対比

恐ろしく長いタイトルです。お待たせ致しました。阪急920型など1961(昭和36)年の画像が中心です。 また今回、車両解説に使用しました参考文献は、我らが青信号4号1959(昭和34)年12月発行、高橋正雄 『京阪神急行 神戸宝塚線 使用車両の現状について』です。(*)で示します

▼西宮北口-夙川間 925型4連 上り三宮発梅田行き普通車  1961年3月11日撮影
【920型の解説】一般に920型と呼ばれる一連の神戸線車両のうち920~924、950~954はその最も初期に製造されたもので、いずれもMTc恒久連結車である。昭和33年から34年にかけて全10両が提起更新を完了したが、二段シルやリベットは撤去され、雨樋も新しい形のものになっている。(中略)通風器はガーランド式で中央一列、Tc車のパンタ取付台は撤去された。
【925型925-928(M)、955型955-958(Tc)  】 通風器がガーランド式2列になっている事とM車の台車が川崎-16である他は920型と大差ない。現在920,950型に続き更新工事実施中である。(*)  ということから、画像は更新後の姿の様です。  続きを読む

 カラーで振り返る 昭和の気動車 -6-

久しぶりの“カラー版気動車シリーズ”、一般形、準急・急行形のつぎは、特急形の80系(キハ81系、キハ82系)の活躍を採り上げました。室蘭本線静狩~小幌(信)を行く「北斗2号」札幌発函館行き、トンネルを抜けて礼文華海岸沿いを疾走する。これから静狩の大カーブに掛かるところ。近くのジャンクションの長万部をも通過して、函館への道を急ぐ。もっとも、この列車に乗っても上野へ着くのは翌朝だが、まだ本州への移動は鉄路がメインの時代、82系は活躍の舞台を広げていた(昭和47年3月)。

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 地図を携えて線路端を歩いた日々 -15-

飯田線⑥ 各駅で交換列車を撮る

飯田線は、私鉄が出自のため駅は多いが、交換不能な棒線駅もある。そこで、飯田線唯一の信号場、大沢信号場が、昭和41年、伊那田島~高遠原に設けられた。一線スルーを右側通行して行くED194の牽く下り貨物(昭和45年8月)。

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 地図を携えて線路端を歩いた日々 -14-

飯田線⑤  G地点 上片桐~伊那大島
伊那大島は南アルプスの塩見岳、荒川岳、赤石岳への登山口であり、ホームにも案内の標柱が立っている。朝のホームに到着した電車、先頭クモハ51001から降りてきたのは、元祖山ガールの集団だった(昭和52年8月)。

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2017年晩秋の中国路 Part3 三江線へ その1

第3日目 11月20日

昨夜も朝方に寒さで目覚めました。これ以上の耐寒装備はできませんのでやむを得ずエンジンをかけて暖気で車内暖房です。少し2度寝してから夜明けに吉和SAを出発しました。
7時過ぎに三次I.Cを出て三次市内を走ります。この町は亡き愛妻の生まれ故郷でよく来ましたので市内の道は精通しています。
7:30.、朝マックで朝食をとってから今は住む人もなくなった旧宅に寄ってみました。近くに焼却場ができるために道路拡幅で
旧宅は解体撤去され、残った地も整地されて売られて次の住人が新しい家を建てています。立ち寄って在りし日の思い出に浸りました。

8:48 最初の訪問駅は尾関山駅です。撮影地①
▲ 駅前通りにふさわしい広い尾関山通りの先に尾関山駅があります。
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2017年晩秋の中国路 Part2 山口線へ その2

第2日目 11月19日

宿営地だった道の駅「仁保の郷」では昨夜、警官の巡回がありました。運転免許書の提示を求められましたが、道の駅でこんなことは初めてです。何しろあまり宿営している車が見当たらなかったので、用心のためのようだったようです。
その後は熱燗で温まって早くに寝ましたが午前2時に寒さで起き上がりました。ぶんしゅう7号の上段寝台は車外と車内の間はテント1枚だけですので、車外温度が車内に直結します。この夜は冷えて、何と室内温度3度の激寒です。これでは眠れません。
直ぐに下段におりて寝袋を出して2重にして、ホカロンを貼りまくり寝付きましたが、この時期にこんなに冷えるとは異常な天候です。
8:00 明るくなってきた道の駅「仁保の郷」です。鉄ちゃんらしい車が6台泊っていました。道の駅の営業準備か軽トラックも着きだしました。
洗面後は、最初に撮る予定の宮野~仁保の宮野駅に立ち寄ることにしました。
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2017年晩秋の中国路 Part1 旅立ち、山口線へ その1

TVを見ていると各地で紅葉のたよりが寄せられています。ボチボチ引きこもり生活からは脱却しなければ身体が鈍ってしまうと鉄ちゃん魂が蘇ってきました。
丁度定年まで勤めた会社の創立69周年パーティの招待状が来ています。場所は宝塚のホテルで西へ向かうにはいい位置です。車で行って翌日から西方を目指そうとなりました。

第1日目 11月18日
目的地は8月も訪問した山口線です。その時はご一緒させていただいた山室さんのお勧めで徳佐へ行きましたが、11月27日にはC571号機D51200号機との重連走行が演じられるとお聞きしました。今まで鉄ちゃんが殺到するイベントは好まず、避けてきましたが家庭環境も変わってきましたので、避けてばかりではいけないかなと思いだしました。山口線の撮影に熟達、デジ青のトップページを飾ってくれています893‐2さんにお聞きしますと、また行かれるようでしたので何回もいかれています893‐2さんにご同行させていただくことをお願いしました。
ただ、27日までは日数があります。紅葉の三江線にはまだ行っていません。三江線が迎えている最後の秋を見なければいけません。SLやまぐち号の重連走行を1週間待つ間にじっくりと行ってみる事にしました。
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京阪電車 現代版「標準化編成」

また、京阪ネタで恐縮ですが…。

半世紀以上前、500型から1200型まで様々な形式をまじえて組成した「標準化編成」が複々線上を疾走していました。特急用の1900系も新旧入り混じりバラエティに富んでいました。
編成の固定化が進むとこのような「標準化編成」も姿を消したかのように見えましたが…。 続きを読む