会員諸氏にお尋ねするが、よもや大畑ループ、姨捨スイッチバックと木次三段スイッチバックに行ったことがない、などという者はいないだろう。
ところがいたのである。だれあろう我がDRFC会長のマルーン氏である。
ことの始まりは今年四月の木次線旅行でのこと。突然の崖崩れで予定の備後落合から木次へ行く列車が運休になり、JRが代行バスをだしたことで肝心の三井野原-出雲坂根のスイッチバックに乗れなくなった。マルーン会長様は当該区間は齢七十にして初めてのスイッチバックであったそうで、密かな期待で胸をときめかしていたそうな。ところが代行で乗れなくなったため泣きたくなるのを堪えながら「代行バスに乗ったからスイッチバックを通ったことと同じやな」と風呂につかりながら独りごちたのを居合わせた会員に聞かれてしまったのだ。
「夜行列車で通っても、寝ていたら乗車距離には入れてもらえない鉄の掟も知らぬ会長よ、三段スイッチバックも乗ったことのない会長よ」と後ろ指を指されるこれからの余生思うとき、マルーン会長様の屈辱はいかばかりか。
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「紀行文」カテゴリーアーカイブ
紅葉の赤沢森林鉄道 2017年 Part2 ボールドウィン号を撮る
10月21日 その2
13:20、「皆さんおつきになられましたよ。」と再びW田さんのお声で起きました。当日は大型台風が来ているので案じられた天候でしたが、小雨が時折降る程度で嵐の前の静けさ状態でした。
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紅葉の赤沢森林鉄道 2017年 Part1 中央西線を撮る
小竹先生と中国鉄ちゃん仲間との写真展に行った折に見学に来られていた神谷武志さんから赤沢森林鉄道のボールドウィン号の夜撮をするので参加しないかとお誘いを受けました。実は以前にざっくりした計画のお誘いメールを受け取ってはいたのですがその後に詳細が来なかったため、問い合わせもしないでいました。
紅葉の鉄道写真は11月になったら撮りに行こうと思っていましたが、赤沢ならそろそろ紅葉を迎えている頃です。同じメンバーのW田さんも奈良から来られるという事なので一緒に車に乗って行くことにしました。
赤沢森林鉄道は2000年の5月15日の新緑の季節に行きましたので7年ぶりの訪問です。次回は紅葉時に訪問したいと思っていましたので望みどおりです。
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ある日の京阪電車 2017
白棚(はくほう)鉄道跡を訪ねて
今年6月に佐竹大先輩が企画された三陸鉄道の旅に参加した際、気仙沼から盛までのJR気仙沼線BRTに乗りました。気仙沼線BRTとは東日本大震災で寸断されてしまった気仙沼線の代行バス(バス高速輸送システム)のことで、舗装された線路跡をバスで盛に向かいました。この気仙沼BRTに乗っていて思い出したのが、白棚鉄道のことでした。かつて東北本線の白河と水郡線の棚倉を結んでいた鉄道で、国有化された挙句に廃線となり、国鉄バス白棚高速線として生き残った異色の線区です。学生時代に東北本線は北海道への往き帰りなどで何度も乗っていますが、殆どは夜行列車での通過が多く、ましてや水郡線は関西人にはなじみが薄い路線で、私にとって白河や棚倉あたりは永年空白地帯となっていました。そこでこの空白エリアを埋めるべく、小旅行をしてきました。とは言え家内との鉄分少な目の旅であることと、雨に降られっぱなしでしたが、知らない土地を訪ねるのは新鮮で、充実した旅を楽しみました。
半世紀前の神戸市電-併せて街の今昔対比(4) 長田
シリーズ4回目は、長田交差点付近です。神戸市電が山陽電車と平面交差する交差点の直ぐ北側に下の絵ハガキのような赤鳥居があり、商店街が連なります。市電はその前で直角に曲がり、上沢通りを東に進み湊川公園に向かいます。
▼長田神社鳥居前
出展:株式会社くとうてん発行、もふもふ堂 絵ハガキ『市電の走る風景』
vol.3 より『長田神社前商店街』 (株式会社くとうてん様より掲載許可受け済み)▼4系統須磨駅発循環須磨駅行き 700型720号車 実際の市電はこんな風に、直角に曲がっていました。長田交差点を渡って来て、これから湊川公園、下山手に向かい、三ノ宮、元町、中之島、東尻池を経て須磨駅に戻ります。この日は祝日らしく、屋根の日の丸が旗めいています。鳥居を入れて撮ってはいませんが、似た文字の看板があります。絵の時代より写真の方が新しそうでお茶屋の看板は違います。
1967.3.20撮影 14422
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昭和46年 46年前の飯田線合宿(3)
翌7月28日は温田発6:35の電車で七久保へ向かいました。七久保でED19牽く貨物を撮ったあと伊那本郷まで歩いたようです。
半世紀前の国鉄・富山港線-今昔対比-
デジ青で最近、富山港線の話題を眼にしたので、半世紀前のアルバムを思い出し、ひっくり返してみました。1960年の11月、同志社EVEの最中でした。この年、同好会はEVEには参加せず、10人前後のグループで高山線の夜行に乗り、高山機関区や富山港線を訪ねていました。帰りは、信越線・中央線経由でした。
それから半世紀以上経った今年2017年、5月に今度は工業化学・高分子化学専攻のゼミの仲間11人と富山県・八尾と岩瀬浜の街を歩きました。この仲間もDRFC同様、半世紀以上付き合いの同志社仲間です。数年に一度旅行に出掛けています。2年前は筆者が幹事で大井川鉄道の客車に乗せ寸又峡、接阻峡に向かいました。
さて半世紀前の富山港線。画像と記録メモはあっても、詳細説明は難しく、鉄道ピクとリアル誌他を参考にしました(下記参照)。ピク誌は丁度富山港線を訪れた時に同じくした発行でした。筆者が国電、それも買収国電の投稿などこれが最初で最後です。何せ、下記文献の拾い読みですから、間違いも多いと思います。読者のご指摘をお願い致します。
参考文献:鉄道ピクトリアル 第10巻第11号 通巻112号 1960年11月 鉄道図書刊行会
国鉄電車のあゆみ-30系から80系まで- 1968年2月 交友社
▼クハ5502+クモハ2011 富山駅6番ホーム 1960年11月25日 00601
元鶴見臨港鉄道サハ210型(1942年川崎車輌製)→国鉄鶴見線クハ5500型5502→1957年当線へ。塗り分け塗装なし、行き先表示板挿入枠無設置。1967年1500Vに昇圧時廃車(以下の車両もほぼ同時期に廃車)
たった一度の東濃駄知線
関三平先生の昭和の電車「東濃モハ100型」が登場しました。今度ホムカミでお目にかかれるのを楽しみにしておりますが、このモハ100のイラストを見て、あれっ?と思いました。実は昭和45年10月に一度だけモハ101に対面しているのですが、てっきり最初から貫通車だと思い込んでいました。駄知線にデビューしたときには非貫通だったことを初めて知りました。
昭和46年 46年前の飯田線合宿(2)
温田ユースで泊まった翌日7月27日は雨もあがってまずまずの天候だったようです。
各自思い思いの場所へ向かいましたが、私は天竜峡、飯田を過ぎて市田まで行ったようです。なぜ市田で下車したのか覚えがありません。
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46年前 昭和46年の飯田線合宿(1)
やや乗り遅れた感のある投稿になりましたが、総本家青信号特派員氏、wakuhiro氏などが飯田線の懐かしい力作を連発され、昭和46年の飯田線合宿を思い出しながら拝見しました。当時撮影したネガは手元にあるものの、殆どプリントすることなく眠っていましたので、丁度良い機会と思いスキャンしてデータ化することにしました。予想した通り、特派員氏の作品のような情景をうまく切り取った写真はなく、また駅撮りのイージーなものが大半でしたが、当時の雰囲気がわかればそれも良いかと思い、投稿することにしました。ここで昭和46年11月25日発行の「青信号27号」にKo氏、Ki氏が寄稿された「飯田線 温田合宿の巻」が貴重な行動記録として役に立ちました。では車中1泊+温田ユース1泊の短期合宿ではありましたが、旅程に沿って撮影した拙作をご紹介したいと思います。旅は46年前の昭和46年7月25日の夜の大垣行きの113系で始まり、大垣駅で仮眠後、大垣発3:26、豊橋着6:01着という、若さあふれたスケジュールだったようです。写真は早朝の豊橋駅から始まります。
地図を携えて線路端を歩いた日々 -13-
飯田線④ F地点 飯島~伊那本郷
五万分の一の地形図を眺めていると、先述の田切~伊那福岡とウリふたつの地形が、3キロ南の飯島~伊那本郷にも存在することが分かります。地図上で等高線を赤線でなぞると、同じ田切地形と分かり、飯田線は急カーブで上流へ回り、与田切川を渡り、またもとに戻ります。前後のカーブは、こちらの方が開けていて、撮りやすい感じがします。鉄橋の長さは74m、長さも様式も田切~伊那福岡と同じですが、下路ガーダーが逆台形であること、橋台が一部煉瓦積みであることが違っています。
本掲示板の前項で“どですかでん”さんが、地図から推測して撮影区間を特定されていますが、私もよく似た田切~伊那福岡、飯島~伊那本郷は、手帳を見返しても、どちらで撮ったのかよく分かりません。地図と見比べて、ようやく判明しました。▲快晴のもと、与田切川を渡って行く1251レ、ED193が牽く
北欧のたび7(イェーテボリのトラム)
スウェーデンには前回ご紹介したストックホルムの他、ノルショーピンとイェーテボリの3都市でトラムが運行しています。その中で規模の大きいイェーテボリを訪れました。イェーテボリはスウェーデン第二の都市、ボルボの本社があることでも有名で、ストックホルムから約470㎞、特急列車で3時間20分のところにあります。スウェーデンの鉄道の予約もネットで簡単にできるのでどの列車に乗ろうかと調べていると、早期割引で2等車と変わらない金額で1等に乗れるのがありました。443SEK(約6100円)ためらうことなく購入、1等はストックホルム駅のラウンジが使えると書いていたので朝食は控えめに、30分ほど前に駅に着きました。目指すラウンジに行くと何と土曜日は休み、がっかりでしたがその分ホームで撮影時間が取れました。
↑ SJ2000型特急列車、最高時速210㎞ 続きを読む
地図を携えて線路端を歩いた日々 -12-
飯田線③ E地点 伊那福岡~田切
飯田線、しばらく続けます。一昨日行われた三条京阪イベントに参加すると、1900生さんや、どですかでんさんから、飯田線への思いをたっぷり聞かせてもらいました。車両だけでなく、飯田線独特の車窓風景や線形が魅力を持った線区であることを改めて思いました。
今回は5万分の1地形図「赤穂」の最南端、伊那福岡~田切の撮影地を見て行きます。この区間は、例のオメガカーブの線形で、飯田線北部では、いちばん有名な撮影地でした。鉄道ファンの撮影地ガイドにも初期の号に紹介済みで、私も初めて訪問の時は、ファン掲載の地図を自分で書き写して持参しました。
▲オメガカーブの頂点、中田切川を渡るED195の牽く貨物列車。建設費が安い短い鉄橋で済むよう、上流にさかのぼって川を渡り、また元に戻る。
韓国の鉄道
去る8月、韓国に行く機会を得た。鉄道旅行ではなかったので、ソウル釜山のKTXくらいしか乗る機会はなかったが、このデジタル青信号でも韓国の鉄道は、あまり登場しないようだ。そこで、少しだけだが報告させていただきたい。
半世紀前の神戸市電-併せて街の今昔対比(3)大橋9丁目-板宿
須磨駅前から出発し鷹取町までが前回の記事でした。次の本庄町を過ぎればトライアングル交差点、大橋九丁目です。ここから北方向に板宿線が分岐します。
下の地図は1967(昭和42)年人文社発行、京阪神市街詳細地図です。左(西)の須磨駅前から海岸に沿い、南東向きに進み、右端(東)下部に大橋9丁目が見えます。中央に国鉄鷹取工場がありました。余談ながら中央上部(北)に上細沢町がありますが、筆者が11歳から27歳まで過ごした所です。鷹取工場の操車で蒸機の音が昼夜を問わずによく聞こえたものです。ここは、神戸市の西部、須磨区です。
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北欧のたび6(ストックホルムの市内交通)
地図を携えて線路端を歩いた日々 -11-
飯田線② B・C地点:宮田~大田切 D地点:駒ケ根駅
五万分の一の地形図「赤穂」を見直して興味深いのは、三州街道(伊那街道)と飯田線がほぼ完全に並行していることです。旧街道沿いに鉄道が敷設されることはよくありますが、たとえば例のΩカーブでも、旧街道がちゃんと寄り添っていて、ここまで完全並行は珍しいことです。あくまで地形に忠実に敷設された、明治期の私鉄らしいところです。そもそも開通当時の伊那電気軌道の辰野~伊那松島は、三州街道上にレールを敷いてポール電車が走る、まるで路面電車だったとのことで、大正12年になって現在の専用軌道となったと言いいます。
先の沢渡から2つ目、宮田(みやだ)も三州街道沿いの宿場町でした。最初は宮田村で、町制施行で町となり、そのあと合併で駒ヶ根市となり、2年後には分離独立して村に戻るという珍しい変遷があります。読みも昭和31年に「みやた」から行政名と同じ「みやだ」に変更されています。
▲宮田駅は、大正2年の開業当時のままの駅舎、駒ケ根の近くで乗降は多い。
地図を携えて線路端を歩いた日々 -10-
飯田線(1) A地点:沢渡駅
地図シリーズ、今回は趣向を変えて、蒸機区間をやめて、電車・電機の走っていた飯田線に移ります。飯田線が前身の四つの私鉄をつないで全通してから80周年を迎えたとのこと、鉄道雑誌の記事特集を見て初めて知りました。飯田線はかつて旧型電機・国電の宝庫として注目されましたが、それが終わると、あまり顧みられない線区となりました。改めてチェックしてみると、私も過去4回、飯田線に行っていますが、“撮りっぱなし”の典型で、ほとんど振り返ることもなくネガは眠ったままでした。今回、80周年を迎えて、自分なりに過去の思い出を掘り返してみたいと思った次第です。▲辰野から乗って12番目の駅、沢渡で待望のED19の牽く貨物列車と交換した。キロポストは190を示すが、実際の営業距離は173.4キロ、たび重なる渓谷区間の路線改良・短縮に対応していないようだ。
半世紀前の神戸市電-併せて街の今昔対比(2)天神下-鷹取
国道2号線、須磨駅前を東に向け出発。間もなく綱敷天満宮の天神下です。
▼ここに架かる天神橋で山陽本線を跨ぎます。2017.7.22撮影
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