「北海道寒中見聞録」に大いに期待

「半世紀前の旅物語」が始まった。誰しも何回かは北海道に行っているはずだから、各人夫々の「旅物語」があって、期待すること極めて大である。それにしても3人旅とは羨ましい。小生の場合ドド田舎の簡易軌道やら、軽便やら、炭礦鉄道やらとあって、付き合ってくれる仲間などなく(誘ってもいないが)、九州などごく僅かな3人、2人旅があっただけ。佐竹先輩や、故羽村兄と1回、故高橋弘氏とは2回ごく短期間の旅を、卒業後重澤旦那とはそれこそ数えられない程同行したが。

長ずるに及んでというより、定年間近あるいは定年後のヨーロッパ軽便めぐりには、幸い好伴侶(辞書通り単なる「道連れ」だから、くれぐれも誤解のないように。この点に関し小生は断じて吉谷先輩の仲間ではない)が得られたのだが。

ところで「半世紀の旅物語」第1号車に、北海道均一周遊券が添えられている。金額が1万円を超えているではないか。学割2割引で9,680円であろう。正直絶句したが、ただ我々の時は特急は愚か急行、準急(なんて列車があった)には、当然ながら別途特急、急行、準急券が必要であった。ただ、急行しかない、などというケースはなく、夜行を含め急行が走る線には必ず各停列車もあったから、急行に乗らずとも旅はできたのである。特急に言及がないとお思いなら、小生が同ヤン生になった1957年現在、特急とは、つばめ、はと、かもめ、あさかぜ、さちかぜ=東海道、山陽、鹿児島本線と、さちかぜが長崎まで走っていた5本だけ―東京以北に特急はなかった。

続きを読む

東海道の電車を楽しむ-その6-

Wikimediaでは東海道の中間点を28宿見付と29宿浜松の中間(247,75Km)としている。それに合わせると現在のJR線では、東京~京都間513.6Kmの中間点256.8Kmは浜松257.1Kmが該当する。図らずも江戸と京都の中間点が良く似た位置にある事が分かった。その中間点から5宿離れた34宿吉田からの東海道は北に経路を取り西に向かっている。明治維新後建設された東海道線は浜辺(常滑)を辿り宮宿(熱田神宮)に向かった。後発の名古屋鉄道は旧東海道のルートを追うようにして名古屋から延伸してきた。そのため両線が肩を並べる熱田神宮前では国鉄線の経路80.7Kmに対し名鉄線62.2Kmとなり、その差は18.5Kmとなる。さて現在、JRと名鉄は豊橋~名古屋間で熾烈な速度競争をしているが本稿では取り上げない。

続きを読む

近鉄大阪線の雪

この週末は各地で雪の被害が出ており大変な思いをされていると思いますが、奈良から伊賀に掛けては比較的雪が少なく交通機関への大きな影響も無かったと思います。このような中ですが、昨日(2/11)は少しは雪の中の写真を撮ろうと近場に出かけてきました。結果として思ったほど雪は多くなく地肌が見える状態でした。赤目口と三本松の様子です。 続きを読む

電車になった気動車、気動車になった電車

デジ青2017年1月26日[81165]東海道の電車を楽しむ-その5-を投稿された乙訓の老人さんはコメントの中で豊橋鉄道渥美線について訪問した時期が1962年と1993年で1993年の訪問時には気動車改造のトレーラーは廃車後で寂しい思いをされたとある。「待てよ!その車両撮ったことがあるかもしれない」と探し回ってみたら整理のできていないフィルム箱の中に見つけることができたので報告させていただく。ついでと言っては恐縮であるが気動車→電車、電車→気動車の改造車について私の記録したものも併せて紹介させていただく。ただ撮ったというだけで特に詳しい説明ができないのでその点はご容赦願いたい。

 

①気動車→電車    1978年9月16日 豊橋鉄道高師 ク2402

この車両は元は神中鉄道の発注で1938(昭和13)年に日本車両東京支店で生まれた流線形気動車キハ40形である。ここでややこしいのは神中鉄道というのは現在の相模鉄道(通称そうてつ)のことで神中鉄道と同じ1917(大正6)年創立で茅ヶ崎-橋本間を結ぶ現在のJR相模線の前身相模鉄道(旧)という会社もあった。1943(昭和18)年に神中鉄道は相模鉄道(旧)に吸収合併されたがその後直ぐの1944(昭和19)年に相模鉄道(旧)の相模線は国鉄に買収され、残った神中線部分は東急の傘下に入った。部分的に支援の電化等を経て1947年(昭和22)年に新生相模鉄道として独立し現在は大手15社の一角を担っている。1965年夏に相鉄を始めて見た時は神中鉄道時代の面影が駅舎や木造のラッチ等に残っておりローカルな感じがしたことを覚えている。この神中キハ40形はその後客車化されたり電車化(制御車)されたりした後1956年8月に相鉄から豊鉄に譲渡された。この間改番もなされてきたが最終的には1968年にク2400形のク2402となった。廃車は1982(昭和57)年である。 ▼

この時の主目的は戦前の関西国電の雄モハ52の撮影でクモハ73106東ウラさんと織田・徳川連合軍対武田軍合戦場近くの長篠で泊まりその翌日に豊鉄を訪問した。

続きを読む

「地図を携えて線路端を歩いた日々」に期待する

総本家青信号特派員氏が投稿された記事を読んで全く同感で こうして投稿しました。私は彼ほどの枚数は無いものの 50枚以上の地図を捨てられずに持っています。私は高校時代「地学部」でハンマー片手に化石採集をしていて、近江鉄道多賀線の奥、西濃鉄道沿線、北恵那鉄道沿線、有田鉄道沿線などの山の中を歩いていたこともあって その時に買った地図もあります。DRFC時代には特派員氏と同様に旅行前には小林地図専門店を訪ねるのが常でした。ガラガラとガラス戸を開けて入る古い町屋造りのお店だったように思います。

国土地理院発行 地図一覧図

この一覧図で予め欲しい地図に当たりをつけておいてお店に行くのですが、出してもらうと線路は端の方に少しだけかかっているだけで わざわざ買うほどのものでは無かったりで 何度も出したり入れたりしてもらいながら選んだものでした。1色刷りが1枚80円でしたが、長い旅になると1枚では済まないので 財布との相談で どうしても必要なものに絞り込んで買ったものでした。

続きを読む

一畑電鉄クハ111号

最近整理をしていたら、昭和62年に走ったDRFC30周年記念列車・マイテ492の8mmビデが出てきました。早速DVDへダビングして改めて見ましたが、EF58150牽くオハなどの旧型客車の快走やマイテの中在家信号所でのスイッチバックなど貴重な記録映像が入っていました。中でも三軸ボギーの走行音がすばらしい!
おそらく一畑電鉄クハ111号もそんな走行音を宍道湖畔に響かせて快走していたのでしょう。もう聞きたくても聞けない音の一つです。

阪堺線天王寺駅前

以前にINUBUSE氏が阪堺線天王寺駅前の工事状況を載せられていましたが天王寺駅前はほぼ完成しているようです。周辺の道路はまだまだ工事中ですが軌道内はグリーン化され電柱もセンターとなり阿倍野筋もかなり近代化されてきました。

天王寺駅前には歩道橋からも直接アクセスできるようになっています。駅舎そのものも新しくなっており見違えます。※「縦」の写真を入れたのですがこの前はひっくり返っていました、今回は「プレビュー」で見る限り大丈夫なようですが寝ていたらスミマセン。
続きを読む

東海道の電車を楽しむ-その5-

正月はゆっくり過ごしたが、昔の旅人は正月をどんな思いで歩いていたのだろうか? 日本は地震国で、それに伴う地殻変動による津波の発生や到来は事前通告がないだけに旅人を惑わせるものであった。29宿浜松から西へ辿るには、30宿舞阪から渡船によるものであった。15世紀末まで浜名湖は淡水湖であったが、大津波を受けことにより塩水湖に様変わりしていた。1699年高潮、1707年宝永地震には津波、1854年安政東海地震の津波で宿場や渡船場の位置は変動していた。幕府にとって大きな事業は関所の維持で、今も遺構が残る今切(・いまきり)の関所もその一つであった。宿場(31宿新居・あらい)とは離れた位置だが往年の姿が再現されている。これとは別に津波のために浜名湖を渡ることが出来ない時のため、湖岸を北に辿る道(姫街道)が整備されたのは、非常時の代替となり重要なものであった。

続きを読む

48年前の1月26日

 

身辺整理をしていると正方形の古い天然色のコダック印画紙がでてきた。1969年昭和44年1月26日に撮影されたものである。通信員が結婚式披露宴を済ませ日本国有鉄道大阪駅4番ホームにて新婚旅行出発のときの一齣である。列車の窓が開けられなくなり、駅弁の立ち売りと共にホームで見られなくなった新婚旅行見送り風景である。

この印画紙が貴重なのは写っている当会員の方々です。中央で同志社チェアの音頭をとっておられるのは長岡京の長老で、祇園石段で鍛えた美声が聞こえてくるようである。左下の後頭部は特徴的な板状の耳殻を持つ軽便鉄道の第一人者であらせられる須磨の長老です。ともに身体の修繕をされお元気にこの掲示板に秘話や昔話また押入れの秘蔵写真を投稿されているのは喜ばしいことである。右端は名古屋の和尚さんで名鉄谷汲美濃町線など600V区間を追い続けた方です。禿頭の人は会員ではありませんがボレックスの8mmフィルムカメラを操っています。この画像をゼンザブロニカで撮影されたのはローズ山下氏で各地の大型蒸機の雄姿を中型カメラに収められられました。大勢の先輩にお見送りいただいた果報者の通信員であります。

列車は大阪17:05始発の気動車急行「丹波3号」豊岡行きで宝塚までの乗車であった。画像はキロ28で、窓下に淡緑6号の帯が入っているのが見える。4ケ月後の5月には等級制の変更でグリーン車と呼ばれるようになり窓下帯は無くなりクローバーのマークに変わった。キロ28は1961~1963年に製造された一等座席の気動車である。東海型電車サロ152で採用された二連下降窓を採用し更に張り上げ屋根なのでべっぴんさんである。急行たかやま号として99年12月まで同じ大阪駅に顔を見せていた。

一年後に大阪万国博覧会を迎える日本も国鉄も三波春夫も元気な頃でした。

少し昔の三原、糸崎駅界隈

山陽鉄道の遺構や広島地区の情報で大活躍の西村雅幸さんのお住まいの三原駅付近で撮影したものが少々ありましたので御笑覧下さい。

まず、最初は糸崎区のC59161が牽引して三原駅に進入する東京発寝台急行23列車呉線経由広島行き「安芸」。1965年4月4日の撮影。先頭は座席指定の2等でオハニ36、2両目はマロネ41、3両目の大柄な車体はオロネ10、6両目は遠くて分かり難いがマシ38と思われる。客車の大家に判定をいただきたいが要するにこういう列車が最も輝いて見えたように私には思われた。「安芸」は三原を出ると車窓左手に瀬戸内海を見て広島までの2時間近くを走る。ワイドビューとかオーシャンビューとか言われる特急列車よりも豪快な汽笛を聞きながらの蒸機急行の旅の方がずっとよかったと思うのは私だけか。なお。このC59161は広島市内に保存されている。▼

続きを読む

四日市の雪

先日は京都でも大雪となり叡電や超のつくすごい投稿がありましたが、当地名張(特に美旗は)殆んど雪がふらずちらついた程度で、期待外れの感もありました(自分がどこまでやれるかは別として)。今年一番の雪景色は諦めていたのですが、近鉄の新春限定の三日間フリー切符の一日分を手に入れることになり、一番効率(?)の良い名古屋の「リニア鉄道館」へ行こうとしたところ、途中四日市辺りでまだ雪が残っていました。名前も替わった「四日市あすなろう鉄道」の「日永」の様子です。 続きを読む

京阪800型


我々の年代が知っている京阪800型とは、パンタを付し京阪本線ローカルや、支線に働く姿である。小生がお預かりしている故西尾克三郎氏アルバムに、谷川義春氏撮影の名刺版プリントがあったので、諸兄のご高覧に供するが、ポールに換えられてはいるが、まだ石坂線に働く姿で、カウキャッチャースタイルの排障器がいいねぇ。関センセお書きの通り、800型はその後全部が本線及び支線に引き上げられた。小生は1950年代半ばごろだったか、天満橋で800型3連を見た記憶がある。

長州から土佐に嫁いだ電車


803/旭駅前通
「49年前の山陽電軌」で、モ701形とモ801形が廃止後土佐電鉄に譲渡されたことを記したが、昨年10月1日、高知を訪れた時に乗車、撮影の機会を得たので現況を報告する。
当日、羽田空港8時発の飛行機で出発して、高知空港からバスで高知駅前に着いたのが10時頃であった。1日乗車券で全線、全区間を途中で撮影しながら移動したが、路線が長いため、乗車時間が結構長く、その分撮影時間が短くなり、全稼働車両を撮影するまでには至らなかった。
平成26年10月1日、土佐電鉄、高知県交通、土佐電ドリームサービスの3社が経営統合され、新たに「とさでん交通」としてスタートした。
続きを読む

小松島のニ5000廃車体

西村雅幸氏に悪乗りし、1957年3月3日現在小松島に残存していたニ5000型3輌の廃車体写真をご高覧に供する。記憶は限りなく薄れているが、確か大昔?のデジ青が、まだ写真も1回3~5コマぐらいしかアップできなかった頃に、一度ご覧頂いたような気もしないでもない。ただ大方の諸兄はお忘れだろうし、小生も80歳の申し分のない爺ィに成り果てて、昔の事は忘れたよ、と開き直って、再度かもしれんがご覧頂く。耄碌も時としてかなり便利=重宝なものではある。

続きを読む

三呉線とキハニ5000

西村雅幸氏お説の通り、キハニ5000は鉄道省工作局のエリート技師(大方が東大か京大機械科卒)が、お山の大将=世間知らず=苦労して先行した私鉄ガソリンカーに学ぶことを全くせず、それでいて外形だけは直近完成のドイツ国鉄2軸ディーゼルカーVT801の真似をした車輌でした。

何から何まで国産品を使う(点火栓だけは国産品がなく米国製ボッシュ)という意気込みは、それなりに評価すべきですが、国産では海軍内火艇(内燃機関動力小型舟艇)用しか床下装着できるものがなく、致命的に出力不足でした。またエリート技師はコロ軸受を使った経験がなく、高価でもあったので、通常のメタル軸受とした反面、内装=椅子や網棚、照明器具、窓などを客車と共通にするという、過度の標準化思想に囚われて、車体断面を狭めるという発想は100%欠落していたのです。

それでもある程度の軽量化配慮もしてはいたのですが、自重が15噸以上になり、その上欠陥が山ほどあったのに、使用側の研修も十分にせず、いきなり機関庫に配属するという、致命的な失敗が重なりました。運転局側は配置に対し独自の判断をし、故障してもその影響が本線に及ばない、また機関庫が近くでエンコしてもすぐ救援に行けるローカル盲腸線を主体に配備しました。

このため例えば正明市-仙崎、徳島-小松島、大垣-美濃赤坂(西濃鉄道)、長町-仙台‐岩切‐塩釜、東室蘭-室蘭などの盲腸線、先端が未開業で短い区間のみの部分開業しかしていない実質盲腸線の姫路-播磨新宮、西村氏が記された三呉線を含む糸崎-三原-須波、などに投入されたのでした。

詳細は拙著『日本の内燃動車』成山堂交通ブックス121に詳述していますので、そちらをご覧頂きたいのですが、要は自重に対する機関出力の致命的不足で勾配線には全く使えず、平坦線ばかり。絶対に自分たちの失敗を認めない工作局エリート技師たちにしては極めて珍しい事例ですが、キハニ5000に関して(のみ)は、失敗を認めています。これが私鉄なら、例えばGMF13に換装して2軸客車を1輌牽引さすところでしょうが、国鉄はせいぜいが重連使用ぐらいで、当然機関士が2名いりますから、経済的の筈のガソリンカーが、かえって無駄遣いになった例も少なくないのです。

1957年3月小生は小松島周辺でニ5000の車体を複数撮っているのは、はるか以前デジ青でも紹介しました。全12輌中機関を下してニ5000と、手荷物車になったのが8輌、3輌が救援車ヤ5010からさらにその内2輌がエ810に。1輌(キハニ5008)は1933年11月22日事故で廃車になっています。キハニ5005→ヤ5012は幸い復元され、苗穂工場に保存されていますが、復元に当たり外見だけの機関複製に苦労した由です。

なおこれは蛇足ですが、内燃機関の出力は「通常」最大出力で表示します。しかし国鉄はなぜか「標準」出力でした。従ってキハニ5000の43馬力とは、1,200回転時の出力で、最大は1,500回転時の45馬力です。この場合は大して変わりはないですが、現在の自動車用機関は4,000~5,000回転時での最大馬力表示で、標準=1,500回転程度ならぐっと落ちます。キハニ5000が致命的に出力不足は間違いなくも、現時の自動車との単純な比較は不適でしょう。

49年前の山陽電軌


山陽電軌505/昭和44年3月27日 御裳川
団塊世代より上の世代の方で、この風景に見覚えのある方がおられると思う。

Tsurukame先輩より昭和37年3月の山陽電軌をご紹介いただいたが、更に7年後の状況を紹介する。
昭和44年3月27日、九州旅行の途中、前日に下関に戻って「火の山YH」に宿泊、朝8時頃から9時半頃まで山陽電軌を撮影後、再度九州に戻った。
データは少し古いが、昭和38年6月末時点での在籍車両は、単車のモ101形8両(101~108)、109形8両(109~116)、ボギー車モ201形5両(201~205)、モ206形2両(206・207)、モ301形7両(301~305、501・502)、モ503形4両(503~506)、511形5両(511~515)、601形5両(601~605)、701形4両(701~704)、801形5両(801~805)、811形2両(811・812)で、単車16両、ボギー車39両、合計55両である。
3月27日の朝ラッシュ時に撮影したが、単車は全く見かけなかったので、使用休止になったか、完全に予備車化してしまい余程のことがない限り使用されなくなったのかもしれない。
以下、撮影した車両を解説する。
続きを読む

折尾駅鹿児島本線ホーム&通路

 

年末にまたまたコネタで失礼します。折尾駅、鹿児島本線は1月2日から新しいホームに移ります。画像のホーム、ホーム下の通路はさよならになります。ホームの屋根を支えるレール、レンガ造りの通路。また一つ昭和の鉄道遺産が消えていきます。寂しい限りです。私は通勤に赤間・博多間を毎日利用していますが、中州で飲んだくれてふと気が付くと折尾・・・が年に2・3回、いや4・5回あり、折尾駅にはむなしい気分で立ち尽くしています。来年からは新しいホーム、新しい通路。なるべく行かないようにしたいものですが・・・来年もコネタですがお世話になります。皆様良いお年をお迎えください!!