七里の渡し他

乙訓の老人さんの東海道シリーズ[82419]「東海道の電車を楽しむ-その7-」では冒頭で七里の渡しの話がありました。旅人はワクワクしたそうです。私などは乗る前から船酔いに悩まされそうですが、当時はどうだったのでしょうか。用を足すのはどうしたのでしょうか。

さて、七里の渡しの前に前回の[81902]のコメントで触れさせていただきました御油の松並木とこのあたりの名鉄電車を見ていただきます。御油の松並木は見事なもので江戸時代にタイムスリップしたような感じがします。坂本龍馬も八重さんもここを通ったことであろうと思いながら歩けるのが五十三次の徒歩の旅の面白いところです。2013年12月7日▼

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阪急96型

今回は忘れずに速攻!掲載します。

そう言われれば中学時代に大阪まで阪急で行くと、十三からのろのろ運転で「先行列車が混み合っているのだな」とばかり思っていましたが電圧の関係でしたか!

ところでどなたか教えて頂きたいのですが、関先生は理由を書かれていませんが96型は両開き扉だったのですか?

伊那電気鉄道サハユニフ

関センセお書きの伊那電気鉄道サロハユニフだが、この電鉄は元来軌道でスタートし、辰野-伊那町間、伊那電車軌道と称していた。一方伊那町以南は鉄道で1913年以降に開業し、軌道区間も1923年鉄道に変更。社名は1919年に伊那電気鉄道に改称している。

2等は1937年に廃止していてサロハユニフの図はないが、その後のサハユニフをご覧に供する。監督局技術課件名簿には次のようにある。1924年3月10日設計認可、1925年9月4日自連取付認可、1926年4月23日空気制動機取付認可、1932年9月7日郵。便室入口引戸改造認可、1937年9月1日郵便積載量増加認可。中央扉右の仕切が、旧2、3等仕切であろう。なおサロハユニフ→サハユニフは100~102、最初から2等がないサハフ312→サハユニフ110もあった。

 

関先生、ごめんなさい!伊那電鉄サロハユニフ100型

関先生から久しぶりにお便りを頂きましたが、なんと!今年最初の記事を掲載し忘れているぞ!とのお叱りでした。そんなことない、と確認したところ、確かにスキャンしたまでは確かなのですが掲載を忘れていたようです。遅ればせながら投稿いたします。お許しを!

こんな車両が実際にあったのですね。大阪通信員さんの往年の傑作模型・ケコキハを思い出しました。

東海道の電車を楽しむ-その7-

宮(熱田神宮)宿に着いた旅人は、次は船で海越えとなる事に胸をときめかせていたであろう。那古野(なごや)と言われていた地域の西方(美濃)は大河が集積しており、海に繋がる地であることは今に至るも変化がない。幕府が川越ではなく、船で伊勢湾を乗り越える経路を東海道としたのは賢明であった。その渡船の事を七里の渡しと言っていた。七里とは乗船地から下船場所までの距離で、ウィキペデアでは27.5Kmとしている。このコースは上手く設定されており、東海道最大の宿場と言われた宮宿で神社参拝を済ませ、僅かな陸路を辿れば渡船場に到着、又は下船場となっていた。後は船の揺れにわが身を任せば何時の間にか対岸に到着、一丁上りとなる。到着地点は現在の鉄道各社が集積している桑名駅東側の浜であった。所要時間は日替わりメニュウで、分からない。

桑名から京都までの宿場は13ヶ所となっており、電車と関係ない宿場には*印をつけ分類すれば42宿桑名、43宿四日市、*44宿石薬師、*45宿庄野、46宿亀山、*47宿関、*48宿坂下、*49宿土山、50宿水口、51宿石部、52宿草津、53宿大津、54宿京都三条となる。電車と関係ある元宿場には今も電車が出入りしているが、ここ10年余りの間に経営主体、電鉄名が変わるだけでなく車両の外部塗装が変更されることもあり、頭の整理が必要となった。

1956年6月、田舎(父の生誕地)から中川経由で四日市を経て桑名駅に降り立った。四日市では三重交通湯の山線、内部線の訪問が目的で、そのため養老線、北勢線はホームで観察するだけとなってしまった。帰宅後、奥野利夫さんから桑名には路面電車が走っていた時期があり、営業距離は1Kmだったと知らされ驚いた。京都市電河原町通では、四条河原町~河原町二条ぐらいになる。この話を野崎さんに持ちかけたら、掲載の写真を頂いた。

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「北海道寒中見聞録」に大いに期待

「半世紀前の旅物語」が始まった。誰しも何回かは北海道に行っているはずだから、各人夫々の「旅物語」があって、期待すること極めて大である。それにしても3人旅とは羨ましい。小生の場合ドド田舎の簡易軌道やら、軽便やら、炭礦鉄道やらとあって、付き合ってくれる仲間などなく(誘ってもいないが)、九州などごく僅かな3人、2人旅があっただけ。佐竹先輩や、故羽村兄と1回、故高橋弘氏とは2回ごく短期間の旅を、卒業後重澤旦那とはそれこそ数えられない程同行したが。

長ずるに及んでというより、定年間近あるいは定年後のヨーロッパ軽便めぐりには、幸い好伴侶(辞書通り単なる「道連れ」だから、くれぐれも誤解のないように。この点に関し小生は断じて吉谷先輩の仲間ではない)が得られたのだが。

ところで「半世紀の旅物語」第1号車に、北海道均一周遊券が添えられている。金額が1万円を超えているではないか。学割2割引で9,680円であろう。正直絶句したが、ただ我々の時は特急は愚か急行、準急(なんて列車があった)には、当然ながら別途特急、急行、準急券が必要であった。ただ、急行しかない、などというケースはなく、夜行を含め急行が走る線には必ず各停列車もあったから、急行に乗らずとも旅はできたのである。特急に言及がないとお思いなら、小生が同ヤン生になった1957年現在、特急とは、つばめ、はと、かもめ、あさかぜ、さちかぜ=東海道、山陽、鹿児島本線と、さちかぜが長崎まで走っていた5本だけ―東京以北に特急はなかった。

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東海道の電車を楽しむ-その6-

Wikimediaでは東海道の中間点を28宿見付と29宿浜松の中間(247,75Km)としている。それに合わせると現在のJR線では、東京~京都間513.6Kmの中間点256.8Kmは浜松257.1Kmが該当する。図らずも江戸と京都の中間点が良く似た位置にある事が分かった。その中間点から5宿離れた34宿吉田からの東海道は北に経路を取り西に向かっている。明治維新後建設された東海道線は浜辺(常滑)を辿り宮宿(熱田神宮)に向かった。後発の名古屋鉄道は旧東海道のルートを追うようにして名古屋から延伸してきた。そのため両線が肩を並べる熱田神宮前では国鉄線の経路80.7Kmに対し名鉄線62.2Kmとなり、その差は18.5Kmとなる。さて現在、JRと名鉄は豊橋~名古屋間で熾烈な速度競争をしているが本稿では取り上げない。

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近鉄大阪線の雪

この週末は各地で雪の被害が出ており大変な思いをされていると思いますが、奈良から伊賀に掛けては比較的雪が少なく交通機関への大きな影響も無かったと思います。このような中ですが、昨日(2/11)は少しは雪の中の写真を撮ろうと近場に出かけてきました。結果として思ったほど雪は多くなく地肌が見える状態でした。赤目口と三本松の様子です。 続きを読む

電車になった気動車、気動車になった電車

デジ青2017年1月26日[81165]東海道の電車を楽しむ-その5-を投稿された乙訓の老人さんはコメントの中で豊橋鉄道渥美線について訪問した時期が1962年と1993年で1993年の訪問時には気動車改造のトレーラーは廃車後で寂しい思いをされたとある。「待てよ!その車両撮ったことがあるかもしれない」と探し回ってみたら整理のできていないフィルム箱の中に見つけることができたので報告させていただく。ついでと言っては恐縮であるが気動車→電車、電車→気動車の改造車について私の記録したものも併せて紹介させていただく。ただ撮ったというだけで特に詳しい説明ができないのでその点はご容赦願いたい。

 

①気動車→電車    1978年9月16日 豊橋鉄道高師 ク2402

この車両は元は神中鉄道の発注で1938(昭和13)年に日本車両東京支店で生まれた流線形気動車キハ40形である。ここでややこしいのは神中鉄道というのは現在の相模鉄道(通称そうてつ)のことで神中鉄道と同じ1917(大正6)年創立で茅ヶ崎-橋本間を結ぶ現在のJR相模線の前身相模鉄道(旧)という会社もあった。1943(昭和18)年に神中鉄道は相模鉄道(旧)に吸収合併されたがその後直ぐの1944(昭和19)年に相模鉄道(旧)の相模線は国鉄に買収され、残った神中線部分は東急の傘下に入った。部分的に支援の電化等を経て1947年(昭和22)年に新生相模鉄道として独立し現在は大手15社の一角を担っている。1965年夏に相鉄を始めて見た時は神中鉄道時代の面影が駅舎や木造のラッチ等に残っておりローカルな感じがしたことを覚えている。この神中キハ40形はその後客車化されたり電車化(制御車)されたりした後1956年8月に相鉄から豊鉄に譲渡された。この間改番もなされてきたが最終的には1968年にク2400形のク2402となった。廃車は1982(昭和57)年である。 ▼

この時の主目的は戦前の関西国電の雄モハ52の撮影でクモハ73106東ウラさんと織田・徳川連合軍対武田軍合戦場近くの長篠で泊まりその翌日に豊鉄を訪問した。

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「地図を携えて線路端を歩いた日々」に期待する

総本家青信号特派員氏が投稿された記事を読んで全く同感で こうして投稿しました。私は彼ほどの枚数は無いものの 50枚以上の地図を捨てられずに持っています。私は高校時代「地学部」でハンマー片手に化石採集をしていて、近江鉄道多賀線の奥、西濃鉄道沿線、北恵那鉄道沿線、有田鉄道沿線などの山の中を歩いていたこともあって その時に買った地図もあります。DRFC時代には特派員氏と同様に旅行前には小林地図専門店を訪ねるのが常でした。ガラガラとガラス戸を開けて入る古い町屋造りのお店だったように思います。

国土地理院発行 地図一覧図

この一覧図で予め欲しい地図に当たりをつけておいてお店に行くのですが、出してもらうと線路は端の方に少しだけかかっているだけで わざわざ買うほどのものでは無かったりで 何度も出したり入れたりしてもらいながら選んだものでした。1色刷りが1枚80円でしたが、長い旅になると1枚では済まないので 財布との相談で どうしても必要なものに絞り込んで買ったものでした。

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一畑電鉄クハ111号

最近整理をしていたら、昭和62年に走ったDRFC30周年記念列車・マイテ492の8mmビデが出てきました。早速DVDへダビングして改めて見ましたが、EF58150牽くオハなどの旧型客車の快走やマイテの中在家信号所でのスイッチバックなど貴重な記録映像が入っていました。中でも三軸ボギーの走行音がすばらしい!
おそらく一畑電鉄クハ111号もそんな走行音を宍道湖畔に響かせて快走していたのでしょう。もう聞きたくても聞けない音の一つです。

阪堺線天王寺駅前

以前にINUBUSE氏が阪堺線天王寺駅前の工事状況を載せられていましたが天王寺駅前はほぼ完成しているようです。周辺の道路はまだまだ工事中ですが軌道内はグリーン化され電柱もセンターとなり阿倍野筋もかなり近代化されてきました。

天王寺駅前には歩道橋からも直接アクセスできるようになっています。駅舎そのものも新しくなっており見違えます。※「縦」の写真を入れたのですがこの前はひっくり返っていました、今回は「プレビュー」で見る限り大丈夫なようですが寝ていたらスミマセン。
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東海道の電車を楽しむ-その5-

正月はゆっくり過ごしたが、昔の旅人は正月をどんな思いで歩いていたのだろうか? 日本は地震国で、それに伴う地殻変動による津波の発生や到来は事前通告がないだけに旅人を惑わせるものであった。29宿浜松から西へ辿るには、30宿舞阪から渡船によるものであった。15世紀末まで浜名湖は淡水湖であったが、大津波を受けことにより塩水湖に様変わりしていた。1699年高潮、1707年宝永地震には津波、1854年安政東海地震の津波で宿場や渡船場の位置は変動していた。幕府にとって大きな事業は関所の維持で、今も遺構が残る今切(・いまきり)の関所もその一つであった。宿場(31宿新居・あらい)とは離れた位置だが往年の姿が再現されている。これとは別に津波のために浜名湖を渡ることが出来ない時のため、湖岸を北に辿る道(姫街道)が整備されたのは、非常時の代替となり重要なものであった。

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48年前の1月26日

 

身辺整理をしていると正方形の古い天然色のコダック印画紙がでてきた。1969年昭和44年1月26日に撮影されたものである。通信員が結婚式披露宴を済ませ日本国有鉄道大阪駅4番ホームにて新婚旅行出発のときの一齣である。列車の窓が開けられなくなり、駅弁の立ち売りと共にホームで見られなくなった新婚旅行見送り風景である。

この印画紙が貴重なのは写っている当会員の方々です。中央で同志社チェアの音頭をとっておられるのは長岡京の長老で、祇園石段で鍛えた美声が聞こえてくるようである。左下の後頭部は特徴的な板状の耳殻を持つ軽便鉄道の第一人者であらせられる須磨の長老です。ともに身体の修繕をされお元気にこの掲示板に秘話や昔話また押入れの秘蔵写真を投稿されているのは喜ばしいことである。右端は名古屋の和尚さんで名鉄谷汲美濃町線など600V区間を追い続けた方です。禿頭の人は会員ではありませんがボレックスの8mmフィルムカメラを操っています。この画像をゼンザブロニカで撮影されたのはローズ山下氏で各地の大型蒸機の雄姿を中型カメラに収められられました。大勢の先輩にお見送りいただいた果報者の通信員であります。

列車は大阪17:05始発の気動車急行「丹波3号」豊岡行きで宝塚までの乗車であった。画像はキロ28で、窓下に淡緑6号の帯が入っているのが見える。4ケ月後の5月には等級制の変更でグリーン車と呼ばれるようになり窓下帯は無くなりクローバーのマークに変わった。キロ28は1961~1963年に製造された一等座席の気動車である。東海型電車サロ152で採用された二連下降窓を採用し更に張り上げ屋根なのでべっぴんさんである。急行たかやま号として99年12月まで同じ大阪駅に顔を見せていた。

一年後に大阪万国博覧会を迎える日本も国鉄も三波春夫も元気な頃でした。

少し昔の三原、糸崎駅界隈

山陽鉄道の遺構や広島地区の情報で大活躍の西村雅幸さんのお住まいの三原駅付近で撮影したものが少々ありましたので御笑覧下さい。

まず、最初は糸崎区のC59161が牽引して三原駅に進入する東京発寝台急行23列車呉線経由広島行き「安芸」。1965年4月4日の撮影。先頭は座席指定の2等でオハニ36、2両目はマロネ41、3両目の大柄な車体はオロネ10、6両目は遠くて分かり難いがマシ38と思われる。客車の大家に判定をいただきたいが要するにこういう列車が最も輝いて見えたように私には思われた。「安芸」は三原を出ると車窓左手に瀬戸内海を見て広島までの2時間近くを走る。ワイドビューとかオーシャンビューとか言われる特急列車よりも豪快な汽笛を聞きながらの蒸機急行の旅の方がずっとよかったと思うのは私だけか。なお。このC59161は広島市内に保存されている。▼

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四日市の雪

先日は京都でも大雪となり叡電や超のつくすごい投稿がありましたが、当地名張(特に美旗は)殆んど雪がふらずちらついた程度で、期待外れの感もありました(自分がどこまでやれるかは別として)。今年一番の雪景色は諦めていたのですが、近鉄の新春限定の三日間フリー切符の一日分を手に入れることになり、一番効率(?)の良い名古屋の「リニア鉄道館」へ行こうとしたところ、途中四日市辺りでまだ雪が残っていました。名前も替わった「四日市あすなろう鉄道」の「日永」の様子です。 続きを読む

京阪800型


我々の年代が知っている京阪800型とは、パンタを付し京阪本線ローカルや、支線に働く姿である。小生がお預かりしている故西尾克三郎氏アルバムに、谷川義春氏撮影の名刺版プリントがあったので、諸兄のご高覧に供するが、ポールに換えられてはいるが、まだ石坂線に働く姿で、カウキャッチャースタイルの排障器がいいねぇ。関センセお書きの通り、800型はその後全部が本線及び支線に引き上げられた。小生は1950年代半ばごろだったか、天満橋で800型3連を見た記憶がある。