長州から土佐に嫁いだ電車


803/旭駅前通
「49年前の山陽電軌」で、モ701形とモ801形が廃止後土佐電鉄に譲渡されたことを記したが、昨年10月1日、高知を訪れた時に乗車、撮影の機会を得たので現況を報告する。
当日、羽田空港8時発の飛行機で出発して、高知空港からバスで高知駅前に着いたのが10時頃であった。1日乗車券で全線、全区間を途中で撮影しながら移動したが、路線が長いため、乗車時間が結構長く、その分撮影時間が短くなり、全稼働車両を撮影するまでには至らなかった。
平成26年10月1日、土佐電鉄、高知県交通、土佐電ドリームサービスの3社が経営統合され、新たに「とさでん交通」としてスタートした。
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小松島のニ5000廃車体

西村雅幸氏に悪乗りし、1957年3月3日現在小松島に残存していたニ5000型3輌の廃車体写真をご高覧に供する。記憶は限りなく薄れているが、確か大昔?のデジ青が、まだ写真も1回3~5コマぐらいしかアップできなかった頃に、一度ご覧頂いたような気もしないでもない。ただ大方の諸兄はお忘れだろうし、小生も80歳の申し分のない爺ィに成り果てて、昔の事は忘れたよ、と開き直って、再度かもしれんがご覧頂く。耄碌も時としてかなり便利=重宝なものではある。

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三呉線とキハニ5000

西村雅幸氏お説の通り、キハニ5000は鉄道省工作局のエリート技師(大方が東大か京大機械科卒)が、お山の大将=世間知らず=苦労して先行した私鉄ガソリンカーに学ぶことを全くせず、それでいて外形だけは直近完成のドイツ国鉄2軸ディーゼルカーVT801の真似をした車輌でした。

何から何まで国産品を使う(点火栓だけは国産品がなく米国製ボッシュ)という意気込みは、それなりに評価すべきですが、国産では海軍内火艇(内燃機関動力小型舟艇)用しか床下装着できるものがなく、致命的に出力不足でした。またエリート技師はコロ軸受を使った経験がなく、高価でもあったので、通常のメタル軸受とした反面、内装=椅子や網棚、照明器具、窓などを客車と共通にするという、過度の標準化思想に囚われて、車体断面を狭めるという発想は100%欠落していたのです。

それでもある程度の軽量化配慮もしてはいたのですが、自重が15噸以上になり、その上欠陥が山ほどあったのに、使用側の研修も十分にせず、いきなり機関庫に配属するという、致命的な失敗が重なりました。運転局側は配置に対し独自の判断をし、故障してもその影響が本線に及ばない、また機関庫が近くでエンコしてもすぐ救援に行けるローカル盲腸線を主体に配備しました。

このため例えば正明市-仙崎、徳島-小松島、大垣-美濃赤坂(西濃鉄道)、長町-仙台‐岩切‐塩釜、東室蘭-室蘭などの盲腸線、先端が未開業で短い区間のみの部分開業しかしていない実質盲腸線の姫路-播磨新宮、西村氏が記された三呉線を含む糸崎-三原-須波、などに投入されたのでした。

詳細は拙著『日本の内燃動車』成山堂交通ブックス121に詳述していますので、そちらをご覧頂きたいのですが、要は自重に対する機関出力の致命的不足で勾配線には全く使えず、平坦線ばかり。絶対に自分たちの失敗を認めない工作局エリート技師たちにしては極めて珍しい事例ですが、キハニ5000に関して(のみ)は、失敗を認めています。これが私鉄なら、例えばGMF13に換装して2軸客車を1輌牽引さすところでしょうが、国鉄はせいぜいが重連使用ぐらいで、当然機関士が2名いりますから、経済的の筈のガソリンカーが、かえって無駄遣いになった例も少なくないのです。

1957年3月小生は小松島周辺でニ5000の車体を複数撮っているのは、はるか以前デジ青でも紹介しました。全12輌中機関を下してニ5000と、手荷物車になったのが8輌、3輌が救援車ヤ5010からさらにその内2輌がエ810に。1輌(キハニ5008)は1933年11月22日事故で廃車になっています。キハニ5005→ヤ5012は幸い復元され、苗穂工場に保存されていますが、復元に当たり外見だけの機関複製に苦労した由です。

なおこれは蛇足ですが、内燃機関の出力は「通常」最大出力で表示します。しかし国鉄はなぜか「標準」出力でした。従ってキハニ5000の43馬力とは、1,200回転時の出力で、最大は1,500回転時の45馬力です。この場合は大して変わりはないですが、現在の自動車用機関は4,000~5,000回転時での最大馬力表示で、標準=1,500回転程度ならぐっと落ちます。キハニ5000が致命的に出力不足は間違いなくも、現時の自動車との単純な比較は不適でしょう。

49年前の山陽電軌


山陽電軌505/昭和44年3月27日 御裳川
団塊世代より上の世代の方で、この風景に見覚えのある方がおられると思う。

Tsurukame先輩より昭和37年3月の山陽電軌をご紹介いただいたが、更に7年後の状況を紹介する。
昭和44年3月27日、九州旅行の途中、前日に下関に戻って「火の山YH」に宿泊、朝8時頃から9時半頃まで山陽電軌を撮影後、再度九州に戻った。
データは少し古いが、昭和38年6月末時点での在籍車両は、単車のモ101形8両(101~108)、109形8両(109~116)、ボギー車モ201形5両(201~205)、モ206形2両(206・207)、モ301形7両(301~305、501・502)、モ503形4両(503~506)、511形5両(511~515)、601形5両(601~605)、701形4両(701~704)、801形5両(801~805)、811形2両(811・812)で、単車16両、ボギー車39両、合計55両である。
3月27日の朝ラッシュ時に撮影したが、単車は全く見かけなかったので、使用休止になったか、完全に予備車化してしまい余程のことがない限り使用されなくなったのかもしれない。
以下、撮影した車両を解説する。
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折尾駅鹿児島本線ホーム&通路

 

年末にまたまたコネタで失礼します。折尾駅、鹿児島本線は1月2日から新しいホームに移ります。画像のホーム、ホーム下の通路はさよならになります。ホームの屋根を支えるレール、レンガ造りの通路。また一つ昭和の鉄道遺産が消えていきます。寂しい限りです。私は通勤に赤間・博多間を毎日利用していますが、中州で飲んだくれてふと気が付くと折尾・・・が年に2・3回、いや4・5回あり、折尾駅にはむなしい気分で立ち尽くしています。来年からは新しいホーム、新しい通路。なるべく行かないようにしたいものですが・・・来年もコネタですがお世話になります。皆様良いお年をお迎えください!!

保存蒸機とその現役時代(37)

今回はC56をタンク機関車にしたようなC12である。あるいはC12を簡易線向けにテンダー機関車にしたのがC56なのかもしれない。とにかく1750ミリの大動輪を持つ旅客用蒸機が好みでありC11とかC12はあまり気にする機関車ではなかった。

久留里線小櫃(おびつ)駅近くの小櫃公民館に屋根付きで保存されているC12287。

C12287 1947年9月 日本車両製 製造番号1489

製造後門鉄局、後藤寺区に所属とあるが、当初の記録に様々な説があり定かではない。1949年12月からは鹿児島区にあって入換えや指宿枕崎線に使用されており、その後1973年4月に南延岡区に転属しその1年後に廃車されているのでこの機関車は鹿児島が故郷であるといってもよい。何故千葉県君津市に来たのかよくわからない。 保存機関車のナンバープレートはそのほとんどが偽造品と思われるが大体は本物に似せてあるがこれは下手な手書きで興醒めである。2015.3.26撮影 ▼

 

現役時代は鹿児島区での撮影でこの時はkawanakaさん運転の車で鉄鈍爺さんと一緒であった。主目的はライトパシフィックC57でこの時もお召機C57117や梅小路にいたC57127等の撮影時にこのC12287もついでに撮ったもので印象や撮影の手ごたえはなく記憶にも残っていない。後に保存機関車名簿と照合してわかったくらいである。ただこの機関車は1947年昭和22年生まれで団塊の世代と同じである。当会でも団塊組は上記2名の他1900生、マルーン氏、藤本氏等々大物が多い。因みに私は終戦の年1945年生まれで戦時設計の代表D52の時代であるが要らん学校にも通ったため団塊の世代に巻き込まれてしまった。

72.5.1 鹿児島区 ラウンドハウス前のC12287[鹿児島] ▼

それでは皆様、よきお年をお迎え下さい。

sann

 秋の北海道 鉄道ひとり旅 【8】

北海道旅行記、いろいろ書きたいこともありますが、今年もあと一週間と言う時に「秋」の話では、鮮度落ちも甚だしいところで、今回を最後にしたいと思います。“ヤマ線”でもう一ヵ所確認したかったのが倶知安でした。蒸機時代、駅の裏手にユースホステルがあったため、連日、C62を追う前線基地として、よく乗降したものです。かつては倶知安機関区もあって、“鉄道のまち”として賑わっていたものの、今はすっかり無くなってしまったことは、長万部と同じですが、訪問してみると、少し違った様子が見て取れました。
倶知安駅、ここで外国語が聞けるとは思わなかった。

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クリスマスとトラム④バーゼル(スイス)

③のフライベルクに続いて④バーゼルをご覧ください。
スイスではチューリッヒ、ジュネーブに次ぐ第3の都市です。ドイツ、フランスとスイスの3国の国境が接する地点にあります。
市内交通はバーゼル市交通局(BVD)とバーゼル・ラント交通局(BLT)が運営しています。BVDは緑色、BLTは黄色だそうです。
ホテルの前にトラムの線路がありました。ホテルで一日券をいただき6系統のトラムでクリスマスマーケットに出かけます。黄色と緑のトラムが有ります。   2016年12月9日
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クリスマスとトラム③フライブルク(ドイツ)

②ベルンに続き③フライブルク(ドイツ)をご覧ください。
フライブルク(フライブルク・イム・ブライスガウ)はドイツの南西部の都市で 環境保護で先進的な取り組みをしている都市で「環境首都フライブルク」と紹介されることもあるそうです。
環境政策は廃棄物、リサイクル政策、自然エネルギー政策、交通政策、都市計画、景観政策などで特に交通面ではLRTの強化による自動車依存からの脱却、都心への自動車乗り入れの制限 パークアンドライドの整備などがあげられるようです。
都心はトランジットモールが整備されトラムやバスの利用が便利になっています。
クリスマスマーケットは市内3か所で開催されていました。
市内中心部の地図です。トラムの線路が交差しているベルトルズ・ブルネン停留所は多くの人とトラムが集まり 乗り換えに便利なようになっているようです。2016年12月9日

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クリスマスとトラム②ベルン(スイス)

①チュ-リッヒに続いて②ベルンをご覧いただければと思います。
ベルンはスイスの首都で自然に囲まれた落ち着いた街です。世界遺産の旧市街はア-レ川に囲まれたようなきれいな街です。トラム、バス、トロリーバスの市内交通はBERUNMOBIL社で運営されチケットも共通です。

ホテルの前にトラムの線路があり 橋を渡ると旧市街です。
早起きをしてアーレ川に架かるコルンハウス橋の上での撮影です。朝の霞の中赤いトラムが走ってきました。(2016年12月8日)
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クリスマスとトラム①チューリッヒ(スイス)

ヨ-ロッパではドイツを中心にこの時期クリスマスマーケットが開催されています。その多くの都市ではトラムが運行されていて その魅力にひかれここ数年各地を訪れています。今年はスイスを中心にドイツ、フランスへ行ってきました。その一部をご覧いただければと思います。

まず スイスのチューリッヒです。チューリッヒのトラムはぶんしゅうさんが詳しくレポートされていますので クリスマス風景を中心にご覧ください。(2016年12月7日)
まず ツアーバスの駐車場の横をトラムが走っていました。

連結部分が独特ですね。

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私鉄の貴賓車その後

関 三平先生より私鉄の貴賓車が紹介されたが、その後の経過について自分の知っているものについてのみ書いてみた。

近鉄サ2600→サ2601→サ3018
昭和27年、一般の特急列車に使用するため、座席の転換クロス化を実施。35年に一般車に格下げ改造が行われ、扉から車端部がロングシート化されて主に急行に使用。38年にはラッシュ対策として中扉を設置して3扉化。39年8月の改番で0起番が廃止されサ2601に改番。45年3月、新製のモ2600形と車号が重複するためサ3000形のラスト、サ3018に改番。同年6月に座席のオールロングシート化。49年3月に廃車になった。

3扉セミクロス時代の昭和42年10月14日、高安検車区

昭和44年5月1日、伊勢中川付近
前から2両目がサ2601である。

南海電鉄クハ1900→サハ1900
昭和27年より特急「こうや号」に使用。その後ソファーを撤去して通常の転換クロスシートを設置。36年、新「こうや号」20001系の完成に伴い運用離脱。
昭和38年、旧運転側を切断して客室化を行い、旧連結面に運転台を設置して一般車に大改造され、座席もロングシート化された。
モハ1201形のグループに組み入れられ、本線と高野線の平坦区間で使用されたが、編成の中間に入ることが多かった。43年には運転台が撤去されサハ1900になったが、昇圧対象から外され、47年6月廃車になった。

昭和42年5月28日、住吉東
一般車に改造されてモハ1201系の編成の中間車として使用中。

モハ1202の次、窓に保護棒があるのがクハ1900である。

名古屋鉄道トク3→モ681→豊橋鉄道モ681→モ1311
昭和23年頃一般車に改造され、モ681に改番されて渥美線に配置。渥美線は29年10月1日、豊橋鉄道に譲渡されたが、車号の変更はなかった。
ほぼ同時期に元佐久鉄道の気動車改造のサ2241と組み、モ681の連結面の運転台を移設して固定編成になりサ2241はク2241に改番された。

昭和41年9月1日 高師車庫

朝夕のラッシュ時にはMc-Tc2組の4両編成で運転されたが、直接制御のため総括制御が不可能で、運転士2人でタイフォンで合図しながらの運転であった。

【参考】ク2241について
モ681の相棒、ク2241について触れておきたい。
経歴は以下のとおりである。
昭和5年10月、日本車輌で佐久鉄道キホハニ53として新製。
9年9月1日、鉄道省に買収され、キハニ40602からハニ40703に改番。
19年6月、名鉄に譲渡され、サ2241となり瀬戸線で使用。
23年5月、大森付近の急カーブでスピードの出し過ぎで脱線転覆。
24年5月、修理後渥美線に転属。
29年10月モ681の片側運転台を移設して制御車化してク2241に改番。
34年に2扉化され自動扉化。43年廃車。

南海鉄道 電7系

よくもまあ、関先生はこんな電車をよくご存じだと感心いたします。
専門誌でもない一般の日刊新聞に載せて、どれだけの人が理解するのか不安になります。

読んでみて、クイシニの記号で聞いたことがあると分かりました。でもこんな車両だったとは全く以て知りませんでした。

広島のクリスマス電車

12月16日から18日の3日間 広電白島線「縮景園前」電停前で「ひろしまドイツクリスマスマ-ケット2016inア-バンビュ-グランドタワ-」が開催されました。
その白島線でトランジュール768号が14時から3回運行、クリスマス電車238号が18時から3回運行されました。
広電白島線「縮景園前」電停で乗車し「白島」で折り返し「八町堀」行きとなりそこで折り返し「縮景園前」で下車という行程のようです。768号は有料、238号は無料 いずれも当日予約の方のみの乗車のようでした。(2016年12月16日撮影)
↓ クリスマーケット前のツリーを横目に「八町堀」へ向かう768号「TRAIN ROUGE」です。

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東海道の電車を楽しむ-その4-

旅の思い出を投稿した後で体調不良(寒波襲来)となり、テレビの番人となっていた。タトラはソ連が広大な地域を支配していた時の産物で、日本が敗戦後各地にばら撒いた規格型(間に合わせ品)とは異なる。メーターゲージ採用都市も多く、そのため別設計による2軸車の量産も活発であった。タトラはPCCの特許を使ったせいか静かで、乗り心地良いのが印象に残っている。話しを日本に戻すとその3では宿場15番目が蒲原(かんばら)宿だと紹介するのを忘れていた。東海道線開通時、蒲原宿を囲むように14宿(吉原)に16宿(由比)があり、駅の建設では設置位置でいざこざがあったようだ。そして興津17宿(おきつ)、江尻18宿(えじり)に続いで府中19宿で(静岡)となる。府中の静岡への改名は明治維新によるものであった。

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環状線の真田丸

準特急様が言われていたようにJR西大阪環状線に真田丸はありました。今年の4月に森之宮と京橋で写したのがあります。201系94編成でした。当時はまだドラマが前半でしたがもう12月で終わってしまいました。1年は短いですね。

上田の「真田丸」号

本日18日NHK大河ドラマ「真田丸」が終了した。以前、2016.9.1付けデジ青[74602]「今夏の撮影」で南海高野線2194他の「真田丸赤備え列車」を発表した。これは主人公真田信繁(幸村)と父親が蟄居させられた地が紀州九度山であったからである。今回は真田のふるさと上田の「真田丸」号を撮ってきたので同じくJR和歌山線の105系の「真田丸」号と併せて発表する。

2016.11.28 上田電鉄 中塩田-下之郷 上田行きモハ1001+クハ1101(元東急デハ1015+クハ1015) 

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パソコン更新

これまで写真の投稿が出来なかったのですが、パソコンを更新し先日投稿できることを確認しました。パソコン不通の間、載せたい写真もありましたので時期遅れとはなりますがまずは富山旅行の前後です。富山へ行くなら「富山ライトレール」と思いINUBUSE氏の案内で北アルプスの見える岩瀬浜まで行きました。観光写真でよく見かけるものですが、この日は幸運にも立山(雄山)や剱岳が見渡せました。手前にマーメイドの後ろ姿もあります6/3です。黒部の後は、万葉線ということで「ドラえもんトラム」です。小さな子供が降車する時は運転手が人形をかざして挨拶してくれます。なかなか人気のようです。