木次線ツアーご報告

4月8日、9日にDRFCクローバー会木次線ツアーが催行されました。参加したのは’56年度生から‘85年度生まで、30年の世代を超えた17名です。皆さん思い思いのルートで新見に集まってこられ、備中神代から乗車されたYさんを最後に全員が予定の列車に乗車しました。この日は桜のシーズンで、青春18きっぷの使える最後の土日という事もあり、1両の芸備線の列車は、つり革が埋まるくらいの立ち客でにぎわっていました。列車は順調に走りましたが、東城を出たあたりでしょうか「備後落合から木次線に乗り継ぐ方はおられますか?木次線は落石のため備後落合と出雲横田の間で不通になっています。」との車内アナウンスが入りました。その後代行バスを手配するとのことで、一安心して備後落合に到着しました。
↑ 備後落合にはこの時間三方向から来た列車が集まるはずのところ木次線の列車は姿が見えず。 続きを読む

異形式連結電車ー3ー

扉の数やそのスタイルから明らかに異形式とわかるものを集めてみた。

南海特急サザンは座席指定のクロスシート車と一般の特別料金不要4扉ロングシート車を連結している。

2015.9.6 孝子 和歌山市行きサザン10904~7037 ▼

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異形式連結電車ー2ー

ステンレス車両同士や外観上見分けがつき難い異形式連結電車である。

2017.1.7 和泉多摩川 急行小田原行き 3465~1063 通常よく見られる小田急線のステンレス車同士の連結である。角張って人気のない3000形の後方4両はステンレスながらやや丸みを帯びた1000形である。▼

2015.10.26 南大沢-京王堀之内 準特急新宿行き7425~9756 車体横のコルゲートの有無で形式の違いがわかる ▼

2014.12.7 御影-岡本 特急梅田行き8035~7123 阪急電車は伝統のマルーンカラーで統一されているので見た目には異形式の連結は判別し難いが、編成表などを調べてみると結構ある。ラッシュ時の増結などでそのようなケースが生じるが撮影したこの編成は常時異形式連結のようである。▼

JR東E233+E231も見た目には判別し難いが写真は割愛する。

元米坂線39685号関連の展示コーナー

さいたま市中央区役所(与野本町駅より約350m)に永年保存され近年解体された同機の関連展示コーナーです。同市浦和区在住のクモハ73106東ウラさんが早速訪問されたのでその様子を報告させていただきます。DRFC-OB会クローバー会のtsurukameさんの貴重なカラー写真も並べられております。

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異形式連結電車ー1ー

国鉄90系、後の101系以降の新性能電車は同一系列の車両で組成された長編成が基本であり、大手私鉄でも最近は8~10両(一部12両もある)の長編成が当たり前で中には中間に運転台のない固定編成も数多く見られる。ところで最近電車を撮影していると異なった形式で編成された列車を見ることがあり多少気にし始めた。特に鋼製車とステンレス車は異形式連結の典型であり編成美は崩れるがそれはそれで興味深いものがある。その一部を発表してみたい。なお、吊り掛けモーターの旧型電車の時代には元電動車を付随車化するなどして異形式を中間に挟んだり異形式電動車同士の編成も結構見られたがここでは新性能電車の異形式連結を中心にしたい。

まず、ステンレス車と鋼製車の連結である。小田急や名鉄等に数多く見られる。

2011.11.9 相模川橋梁を渡り厚木を通過する急行新宿行き5255~3559 5000形は既に消滅しており鋼製車は8000形が残っているだけである▼

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寒中北海道見聞録-半世紀前の旅 6号車

暖かい車内から北浜駅に降りると一段と寒さが身に沁みる。先ずはユースに向かうことにしました。今回の6号車はここからです。■ 寒い中のロケ

北浜付近(KAWANAKAの昔のアルバムの絵を流用)

ユースは原生花園YHという割と有名なユースらしいです(今は知りませんが)。また駅から近くまことに便利な立地です。ユースで一休みした後、数少ない列車を如何に効率よく多く撮るかということが大事やとなり、その結果、原動力を確保するために自転車を借りることになったのです。このことをペアレントのおばさんに言うと怪訝な顔をします。それでも小屋の中にあると教えてくれたのです。乗れるなら乗ってみろという感じでしょうか。呆れてものが言えんみたいです。雪の積もった中、小屋へ行ってみるとまともなのは1台きり。仕方ないので誰が乗る幸運を得るかということになりましたが、その幸運な人は西村氏に決まりました。結果論ではありますが断れば良かったのに。寒中の自転車はデジ青のネタにしかならなかったわけだからね。以下は西村氏の後悔の告白であります。

:::先ず、上りの貨物を1本撮って一旦ユースに引き返しました。何しろトーフツ湖は南極越冬隊訓練の場所に選ばれたくらいであるので、凄い寒さです。鼻毛は勿論、まつ毛(2号にもあったが眼の毛という意味)まで凍ってしまって息をすれば鼻の奥が痛く、瞬きをすると目がしょぼしょぼし、手袋も今回こそ何の役にも立たないのである。足は感覚がなくなっていく。次に下りの627レと上りの650D 、630Dを撮りに出たが最後の630レだけはどういう訳か小林センセはストーブの傍から動こうとされませんでした。なお断っておきますが写真は確かに北浜ですが2日にわたるロケのどちらの日の写真かは特定しません、悪しからず。ストーリーになりにくいので、イメージとしてご覧ください。

というわけで、自転車に乗ろう作戦は失敗になったのであります。その後、冬の北海道で自転車を走り回るというのは聞きたことはないですね。冬に行かれる皆様、参考になりましたでしょうか? 続きを読む

保存蒸機39685と山形の鉄道その一部

さいたま市は浦和、大宮、岩槻、与野の各市が合併してできた政令指定都市であるが、保存機39685が展示されていたのはさいたま市中央区役所で、ここは元の与野市役所である。撮影は2013年4月26日である。

正面アップ ▼

 

後方俯瞰 ▼

 

左横 雨ざらしの展示で機関車の荒れが目立つ ▼

 

説明板 ▼

 

なお、さいたま市にはデジ青投稿や撮影旅行等でお世話になっておりますクモハ73-106東ウラさんが浦和区にお住まいです。

ところで山形地方は関西からは本当に遠くて行き難い所であったが、新幹線ができて便利になり特に東京からは日帰り圏である。このためtsurukameさんの投稿へのコメントで山形方面に出かけることが多くなったことを申し上げたがこの場を借りて山形方面での若干の拙写を見ていただこうと思う。

2016.2.2 雪の日の今泉駅 山形鉄道(元国鉄長井線)荒砥行きYR883とJR米坂線米沢行き1130Dキハ110-224 ▼

 

2014.6.25 初夏の今泉駅 坂町行き1129D キハ112-201+キハ111-201 左後方の山には残雪が見られる 冬場はこの駅からさらに豪雪地帯に入る勇気がない▼

 

2014.6.25 左沢線羽前金沢付近を行く寒河江行き1337D キハ101-5+キハ101-11 ▼

 

大阪近況

恒例の写真展も近づき、何を出そうかと迷いはじめました。ことしは桜の開花時期が遅くこれを待っていては締め切りに間に合うかどうか気になります。桜はまだにしてもいつもの場所の下見に出かけました。まず阪堺線の天王寺駅前です。阿倍野筋は道路が拡幅され、阪堺線の軌道も緑化が進んでいます。 続きを読む

未来の関西鉄道網への空想

こんばんは。最近は公私ともに慌ただしくなかなか更新できませんでしたが、少し余裕ができたので久しぶりに投稿をします。

2015年の北陸新幹線、2016年の北海道新幹線と大規模な新線開通が一段落し、次はオリンピックへ向けて車両は駅施設の整備へと進もうとする雰囲気を東京では強く感じております。あと3年半で首都圏の鉄道模様がどれほど変化するかが楽しみです。

一方、関西は自分の在学中には車両の動きが大半で、新路線の話というのは殆どなかったように記憶しています。しかしながら、この1年間で夢物語かと思われていた路線が一気に具体化して非常に驚いています。人口減少や建設費の高騰、環境問題など鉄道をめぐる環境が厳しいなかでここまで動くとは思いもしませんでした。

JRの路線のなかで最も歴史の浅いおおさか東線。今のところは古参の103系も行き交うのどかな路線です(2013年3月、高井田中央駅)

 

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小湊鐵道キハ5800型

かつて、ホームカミングデーで湯口先輩が講演会で、「日本の気動車は国鉄(鉄道省)が独占的に開発したため、ヨーロッパに比べて著しく遅れてしまった。それは現在の出力不足につながっている」と話されたように思います。
今回のキハ5800でそのお話を思い出しました。

寒中北海道見聞録-半世紀前の旅物語 3号車改

倶知安(暫くは紀行文だけ。翌号になるまでは、先ず読んでくれ給え。写真が見つかれば挿入します) ※写真を3枚追加して、タイトルを改としました。見てあげて下さい。

「ニセコ3号」は雪の吹き荒ぶ倶知安に4分遅れで到着しました。零下10何℃の風雪が容赦なく舞い込み、煙とシンダーが飛んでくるキャブで奮闘した機関士、機関助士の皆様、大変だったと思います。感謝の念も言わない間にまたしても、川中がTri-Xで発車の時を撮るのだという。こんな馬鹿者は放っておくしかないので、好きなようにさせ、2人の荷物を誰もいないホームで見張っているときに、ワタシに少なからず好奇の色を浮かべた「ニセコ3号」の車掌が2人近づいてきた。「山登りか?」「いや、汽車の写真を撮りに来たんです」さらに「今、仲間の2人がこの発車を撮りに行ってます」と言うと、「こんな寒いときにご苦労なことや。 いつ来たん?・・関西弁ではないので少し違うがまあそういう内容」と聞き返してきた。ちょうどそのとき2人は「まだ、出よらん。おお寒」言って戻ってきた。2人のうち少し太っちょで眼鏡を掛けている方の車掌が、多分専務車掌なのであろうが、「寒いはずや。今、北海道は何十年振りかの大寒波に見舞われているんやで。昨日(すなわち北海道についた日)の函館なんか-15℃まで下がったそうやで(まだ、関西弁であるが、この温度は編集者が気象庁からデータを取っているので専務車掌の言は間違いはない。2号車のページをご参照)。「えらいときに来たなあ」とえらく同情してくれた。我々3人も内心、ほんまにえらいときに来た、と思っていると、遅れていた対向車(写真=探し中)が入ってきた。これで「ニセコ3号」は発車できることになったので、車掌さんに礼を言ってユースへ向かうことにした。別れ際に「趣味で汽車撮るのは構わんけど、こんな寒さやさかいに気い付けんとあかんで。凍死したらあかんで」と言って客車に戻られた。少々オーバーな感じがせんでもなかったけど、それ位気をつけな、あかんのかと思い車掌さんらと別れたのであります。「ニセコ」は吹雪の中、汽笛2声、煙と湯気(蒸気ではない、これは白く見えるのでユゲ)を身に纏い、闇の中に消え去って行った。 続きを読む

富山の架線修理車

「82801」 さんの投稿の中で京都の架線修理車の写真を見て、最近どこかで似たような車を見かけたなと思い探してみました。2015年7月8日 富山地方鉄道軌道線の南富山車庫の横に止まっていた 架線修理車と思われる車両の写真です。色は京都の様ですが 京都市電が廃止されてもう何年経ったことでしょうか?その当時の車両が残っているとも思われず?はてと困っています。どなたかご教示ください。

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 「東北展」の途中に寄りたい 市電遺跡ふたつ

佐竹さん「東北展」は12日(月)まで好評開催中ですが、ある方からは「ぜひ行きたいが、写真展に付加して、“こんなもん、おまんねん”とクローバー会らしい、いちびり企画はないのか」と厳しい叱責をいただきました。それならと、ひと・まち交流館京都のすぐ近くで見られる、あまり知られていない京都市電関係の遺跡を紹介しましょう。会場への行き帰り、ちょっと寄って見られたら、どうでしょうか。
橋の下に見えているのは?

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阪急96、97

関センセお書きの通り、阪急96、97は半鋼製ボギー客車加越鉄道ナハフ101、102の改造である。加越鉄道は1929年に日車から購入し、設計認可は1929年9月20日、竣功届11月24日。定員104人、内座席72人、自重24.32噸。シルや側板裾のリベットがいささか古めかしい。

加越鉄道ナハフ101日車竣功写真 台車はTR11を短軸にしたもの

ところが不景気の最中で、加越鉄道も他社に倣い1931年ガソリンカーを採用。しかも翌年にはディーゼルカーを、先ずは江若キハ7、8と同型(ステップ構造違い、座席がロング)車を購入して使いこなし、1937年には120人乗り大型車2輌を追加。このため折角の客車も出番がなくなって、加越鉄道は小島栄次郎工業所に売却を依頼した。この時点非電化鉄道ではガソリンカーなら買うが、いくら出物でも客車はいらんというところばかり。しかしそこが小島栄次郎の才覚で、彼はこれを「電車に改造できまっせ、安おまっせ」(彼は和歌山出身だが東京暮らしが長く、関西弁は使わなかっただろうが)と、電鉄に売り込んだのである。手を上げたのが大手の阪急=阪神急行電鉄で、1940年8月購入。甲種輸送で到着した福知山線池田で標準軌間仮台車に履き替え、能勢電気軌道線を経て西宮北口に搬入。 続きを読む

七里の渡し他

乙訓の老人さんの東海道シリーズ[82419]「東海道の電車を楽しむ-その7-」では冒頭で七里の渡しの話がありました。旅人はワクワクしたそうです。私などは乗る前から船酔いに悩まされそうですが、当時はどうだったのでしょうか。用を足すのはどうしたのでしょうか。

さて、七里の渡しの前に前回の[81902]のコメントで触れさせていただきました御油の松並木とこのあたりの名鉄電車を見ていただきます。御油の松並木は見事なもので江戸時代にタイムスリップしたような感じがします。坂本龍馬も八重さんもここを通ったことであろうと思いながら歩けるのが五十三次の徒歩の旅の面白いところです。2013年12月7日▼

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阪急96型

今回は忘れずに速攻!掲載します。

そう言われれば中学時代に大阪まで阪急で行くと、十三からのろのろ運転で「先行列車が混み合っているのだな」とばかり思っていましたが電圧の関係でしたか!

ところでどなたか教えて頂きたいのですが、関先生は理由を書かれていませんが96型は両開き扉だったのですか?

伊那電気鉄道サハユニフ

関センセお書きの伊那電気鉄道サロハユニフだが、この電鉄は元来軌道でスタートし、辰野-伊那町間、伊那電車軌道と称していた。一方伊那町以南は鉄道で1913年以降に開業し、軌道区間も1923年鉄道に変更。社名は1919年に伊那電気鉄道に改称している。

2等は1937年に廃止していてサロハユニフの図はないが、その後のサハユニフをご覧に供する。監督局技術課件名簿には次のようにある。1924年3月10日設計認可、1925年9月4日自連取付認可、1926年4月23日空気制動機取付認可、1932年9月7日郵。便室入口引戸改造認可、1937年9月1日郵便積載量増加認可。中央扉右の仕切が、旧2、3等仕切であろう。なおサロハユニフ→サハユニフは100~102、最初から2等がないサハフ312→サハユニフ110もあった。

 

関先生、ごめんなさい!伊那電鉄サロハユニフ100型

関先生から久しぶりにお便りを頂きましたが、なんと!今年最初の記事を掲載し忘れているぞ!とのお叱りでした。そんなことない、と確認したところ、確かにスキャンしたまでは確かなのですが掲載を忘れていたようです。遅ればせながら投稿いたします。お許しを!

こんな車両が実際にあったのですね。大阪通信員さんの往年の傑作模型・ケコキハを思い出しました。

東海道の電車を楽しむ-その7-

宮(熱田神宮)宿に着いた旅人は、次は船で海越えとなる事に胸をときめかせていたであろう。那古野(なごや)と言われていた地域の西方(美濃)は大河が集積しており、海に繋がる地であることは今に至るも変化がない。幕府が川越ではなく、船で伊勢湾を乗り越える経路を東海道としたのは賢明であった。その渡船の事を七里の渡しと言っていた。七里とは乗船地から下船場所までの距離で、ウィキペデアでは27.5Kmとしている。このコースは上手く設定されており、東海道最大の宿場と言われた宮宿で神社参拝を済ませ、僅かな陸路を辿れば渡船場に到着、又は下船場となっていた。後は船の揺れにわが身を任せば何時の間にか対岸に到着、一丁上りとなる。到着地点は現在の鉄道各社が集積している桑名駅東側の浜であった。所要時間は日替わりメニュウで、分からない。

桑名から京都までの宿場は13ヶ所となっており、電車と関係ない宿場には*印をつけ分類すれば42宿桑名、43宿四日市、*44宿石薬師、*45宿庄野、46宿亀山、*47宿関、*48宿坂下、*49宿土山、50宿水口、51宿石部、52宿草津、53宿大津、54宿京都三条となる。電車と関係ある元宿場には今も電車が出入りしているが、ここ10年余りの間に経営主体、電鉄名が変わるだけでなく車両の外部塗装が変更されることもあり、頭の整理が必要となった。

1956年6月、田舎(父の生誕地)から中川経由で四日市を経て桑名駅に降り立った。四日市では三重交通湯の山線、内部線の訪問が目的で、そのため養老線、北勢線はホームで観察するだけとなってしまった。帰宅後、奥野利夫さんから桑名には路面電車が走っていた時期があり、営業距離は1Kmだったと知らされ驚いた。京都市電河原町通では、四条河原町~河原町二条ぐらいになる。この話を野崎さんに持ちかけたら、掲載の写真を頂いた。

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