青春18快適区間

2014年10月5日デジ青投稿の[青春18忍耐区間]では熱海~浜松間を我慢の乗車区間として紹介した。それでは忍耐の反対の不忍耐区間はどこか。大阪(神戸でもよい)~名古屋間を挙げてみたい。不忍耐という言葉は恐らくないので我慢しなくてよいというよりももう少し積極的に楽しく乗車できるという意味で快適乗車区間とした。その理由は同区間は

①列車速度が速い。特に大阪~米原間は前回紹介した通り特別に速く快適である。

②クロスシート車両で旅の楽しみが倍増される。

③車窓からは多くの歴史的名所旧跡が見られる。例えば安土城址、彦根城、佐和山城址、稲葉山城、名古屋城、山崎天王山古戦場、関ヶ原古戦場等々。

④自然豊かな景色が展開される。例えば河川で言えば淀川、桂川、鴨川、瀬田川、揖斐川、長良川、木曽川等がそれで、山で言えば東山、比叡山、比良山、伊吹山、養老山系等が該当する。それに日本一の琵琶湖。

さらに個人的には

⑤車両基地が頻繁に見られ全く飽きることが無い。吹田、高槻、向日町、京都(梅小路)、野洲、米原、大垣、稲沢と車両を眺めるのに忙しいくらいで、とても本を読んだり、ゲームをする気にならない。

⑥私鉄との併走区間が比較的長く続いたり、複々線での追い抜き等の楽しみが多い。

⑦かつて撮影した場所を車窓から眺めその当時を思い起こすことができる。例えば、高槻~山崎~神足(現長岡京)、山科、瀬田川の鉄橋、近江長岡~柏原~関ヶ原等々。これは大阪~名古屋間に限ったことではないが「あのあたりで撮ったなー」と一瞬当時を思い出すことができる。

大阪~名古屋間は4~5時間かかったC59(小学生で機関車種別を認識できる能力はなかったが先達の記録からC59でまちがいない)の客車列車や電化して到達時間が半分近くに短縮された80系、153系の準急「比叡」等をよく利用した区間で強いて言うと当時は湖東平野が忍耐区間であった。そこで本題から少し脱線するが、快適区間で特に快適に感じた場所を紹介したい。

 

大阪を出た列車は淀川を渡りしばらく走ると進行左手に吹田操車場が見える。大操車場にはハンプという人工的につくった丘を利用した貨車の行く先別仕分けの施設がありキューロクあたりが貨車を押し上げている風景が見られた。広い操車場なので蒸機の煙も至る所で見られた。

1964.5.21 岸辺駅 ドームに戦時スタイルを残すD51841[竜華] ▼s-64.5.21岸辺D51841竜華

続きを読む

小田急1700系

小田急は関西からは遠い存在です。
思い出は、昭和33年の中学時代の修学旅行だけです。
未舗装の国道を富士急観光バスで走っていると、傍らの石垣の上に関西では見つけないスマートな電車が止まっていました。それが小田急の急行でした。貫通扉に手すりのようなものが出ていて、変わったイメージがありました。小田急1700系_NEW 小田急1700系(文)_NEW

青春18忍耐区間

少し、時期外れな話題であるが、今夏台湾好きのブギウギさんが上京され私の準ホームグラウンド高尾~相模湖間で撮影をされた。その時に「今日は青春18きっぷで帰るが熱海と浜松の間が時間的に長く、短い編成のロングシート車でよく混み合いうんざりする」というようなことを言われた。全く同感である。熱海~浜松間では富士山を眺めることができ、富士川、大井川、天竜川を渡り景色も悪くはないが、長時間のロングシート車乗車が東海道本線の忍耐乗車区間になっているのは否めない。私のよく利用する東京6時34分発でみると大阪までの556.4kmを9時間11分かけて15時45分に到着するので表定速度は60.6km/hである。参考に1964年10月の交通公社時刻表によると東京8時30分発の急行「六甲」は7時間30分かけて大阪に16時に到着し、表定速度は74.2km/hである。翌年11月の時刻表の急行「第1なにわ」東京9時30分発大阪17時30分着では8時間かけて表定速度は69.6km/hである。いろいろな見方があるが、過去の153系急行電車に比べ青春18切符の東海道の旅は5回の乗り換えがあるにしては善戦しているように思える。この善戦も米原~大阪の新快速の激走が寄与している。因みに東京6時34分発を利用した時の6乗車区間のそれぞれの表定速度は東京~熱海59.2km/h、熱海~浜松61.4km/h、浜松~豊橋64.4km/h、豊橋~大垣新快速70.5km/h、大垣~米原61.5km/h、米原~大阪新快速78.0km/hである。熱海~浜松間がロングシートで乗車時間も長く、それほどスピードが速くないこともあり忍耐区間になるようだ。大阪からの上り利用もほぼ同じことが言える。何れにしても格安切符であるので忍耐区間は忍耐せざるを得ない。他にも各地に忍耐乗車区間(個人的には大宮~高崎間)があるが、各人の感じ方もそれぞれあると思う。

<参考写真>

忍耐乗車区間の始まり熱海駅                                       2014.9.9 右737M熱海止めクハE231-8058と左島田行きクモハ211-6009 ▼

s-14.9.9熱海

  続きを読む

阪急710系

阪急764桂1954年サイズ小

これは1954年の確か5月の撮影=高校3年の時だったと思う。場所は桂であろう。実を言えば、小生は1960年12月の押し迫った頃山科から塚口に引越し、それから2000年まで 京都と神戸に阪急で通学、通勤したのに、なぜか阪急は1954年のこの1枚しか撮っていないのと同然である。この頃から電車、それも高速電車にはソッポを向いていたのか。性格は至って円満なのに、である。

撮影地今昔-播但線-

知人から青春18きっぷを譲り受けたので、9月の初旬、兵庫県内の乗り鉄ついでに、昔の撮影地を訪ねた。尼崎-姫路-(姫新線)-津山-(18切符圏外の智頭急行)-智頭-(因美線)-鳥取-(山陰線)-和田山-(播但線)-姫路-尼崎の乗り鉄。撮影地は、播但線・生野-長谷間の鉄橋と川沿いの大きなカーブである。

キハ41など最近のワンマンDCは、運転席横の正面窓や右の窓からは前方が極めて見難い。運転席の機器類が中央部にまではみ出し、料金回収箱が中央にあり、時には右側にトイレがある側が先頭になったりで眺めはほとんど不可能に近い。

仕方なく、生野-長谷間7.7kmは徒歩となった。所要2時間、線路沿いの町道を歩いたのだが、長谷までに出会ったり、追い越された車が日中にも関わらずわずか2台。
途中「注意・熊出没」の看板があったり、人気のない寂しい道であった。
409061 生野駅。瀟洒な佇まい。写真右手方の踏切を渡り、町道を南に向かう。

▼播但線 上り客612レ生野を出発 1963年8月13日
08203h 続きを読む

京阪1708+1758/1709+1759

サイズ小

これは1953年4月26日、淀鉄橋での撮影だから、61年半前―老人がまだ高校生だった時である。京阪1700系の増備1708+1758、1709+1759は妻面のみ7-8、7-58、7-9、7-59との省略レタリング?でデビューしたのであった。その斬新さはファンの中でもちょっとした話題になったが、なぜかそう長くは続かず、通常通り1708、1758、1709、1759と書き直されたから、これの写真を撮った人はそう多くはない筈である。詳しくは乙訓ご老人の出番というより、黙っては居れまいが。

なおついでに付記すれば、この4輌の端面連結器が、恐らく我国最初の「日鋼式軽量密着自動連結器」であった―キハ45000系より少しだけだが早かったと記憶するのだが。

京阪1700系特急車

突然親族の訃報が入り、この数日パソコンの前に座れませんでした。月曜日の夕刊を見たら京阪特急が目に飛び込み、あ、月曜日や!と気がつきました。これにつきましては一家言ある方ばかりでしょうからおまかせいたしましょう。

その時に、文の最終部分にある、「登場時正面側のみそれぞれ7-9、7-59、7-8、7-58と新しい表示方式で左右上下段違いに手描きされていた」の部分が理解できませんし想像もできません。どうか詳しい方、教えて下さい。京阪1700型_NEW 京阪1700系(文)_NEW

今日の5200

9/13の登場以来、夜には見かけることがあったのですが今日昼間に捉まえることが出来ました。朝から榛原・三本松辺りをうろうろしていたのですが先日と同場所(榛原~室生口大野:榛原寄り)で会えました。時間的には榛原11時20分発の上本町行き急行の中川寄り4両です。近鉄色2両+4となっています。先頭2両とも連結面にトイレ付きです。バックがごちゃごちゃしていますが何しろ何時やってくるか判らないので「もう帰ろう」としたタイミングでした。5200-1

5200-2

新京成電鉄の新塗装

P1110935
 新塗装第1号の8816編成 三咲~滝不動間を走行する千葉中央行 (26-9-6)

新京成電鉄の新塗装車が8月29日より運用を開始した。
新塗装はご覧のようにピンク(正確にはジェントルピンク)である。
車内がピンクの電車は、京阪1800形、営団地下鉄丸ノ内線300形、近年では小田急4000系等が存在するが、外装がピンクというのは珍しいと思われる。
新塗装になったのは現在のところ8800形の8816編成と8900形の8911編成の2編成(いずれも6両編成)のみであるが、4年間で全編成塗り替え予定となっている。

6月1日に新しいシンボルマークが制定され車体の中央扉横に貼付され、駅の看板等もピンクのものに取り換えられた。
続きを読む

近鉄の話題

本日9/13は所用もあり、京都まで行けなくて残念な思いでしたが近場で近鉄5200の旧特急色を見てきました。近鉄の「室生・赤目・伊賀上野」エリアキャンペーンが本日より始まっています。その中で2250の特急色に塗られた5200を京都や大阪からは遠い「近場」で見ることができました。榛原では日陰となり、美旗では16時過ぎの光の中でイメージが異なります。5200榛原

続きを読む

名鉄3900系

名鉄が西と東でちがっていたとは知りませんでした。更には電圧まで違っていたとは近鉄といっしょですね!
阪急でも十三で同じようなことがあったので、この時代はあちらこちらでみられたのでしょう。
それにしても車番が独特の文字ではないようですね。因みに、あの文字はいつ頃からなのでしょうか。

名鉄3900系_NEW 名鉄3900系(文)_NEW

私の撮った南武線過去車両

来月10月からJR南武線にE233系8000番代が登場することになった。本年前半の横浜線のE233系6000番代への置き換えに続くもので、南武線も205系・209系はあっという間に消えてしまう。そこでこの機会に過去に写した南武線の代表的車両をデジ青に取り上げてみた。

南武線は川崎~立川間35.5Kmは戸建て、マンション等が密集しており撮影に適した場所は殆んどない。唯一といっていい場所が、府中本町~南多摩の多摩川橋梁で、それでも背後には武蔵野貨物線が一段高く併走しているのが気になる。

2014.8.22 川崎行き205系6連 ▼s-14.8.22南多摩川崎行き

続きを読む

京急500形・550形

[50758]京急500型・550型について関連写真を投稿する。迷図作家関三平先生は関西の方であるが、関東他の車両にも非常にお詳しい。しかし、皆さん関東系の車両には興味がないのか殆んどコメントがなく、紹介される米手作市さんも見たことがなく思い出もない車両についてはイントロの部分をカットされているようだ。今回の京急500形は半鋼製吊り掛けモーターのクロスシート車両で丁度京阪1700、阪急710、810の頃の車両で全金製、カルダン車への移行期の車両で興味深いものがある。発表写真は最晩年の頃でクハ550形がサハ化されて2連から4連になった姿である。尚、このあと2代目700形(高松琴平電鉄に譲渡されて今でも見ることができる)に近いスタイルの4扉ロングシート車に改造されたが、残念ながら撮影していない。あまり書くとお叱りを受けるのでこのあたりで。

 

1968.7.18 安針塚 急行浦賀行き502 ライトがシールドビーム化 ▼s-68.7.18安針塚502

 

1968.9.9 南太田を通過する通勤時間帯の特急運用 神奈川新町行き510~505の8連 ▼s-68.9.9南太田510

新幹線を走った阪急電車。

INUBUSEです。
新幹線を走った阪急電車が話題となっていますがその昔 名古屋に住んでいた時に乗った記憶がありましたので アルバムを探してみました。1963年(昭和38年)11月10日と書かれていました。中学3年生の時です。当日「比叡1号」で京都へ行き、駅前で市電を写し四条から阪急電車(2300形特急)で梅田に行ったようです。新幹線線路を走る阪急電車に乗るのが目的だったようです。
写真は河原町発車前の大阪梅田行き特急2300形です。
2302-2352+2313-2333-2363の5連です。
この特急に乗車しました。
19631110 2300-2

続きを読む

奈良電デイボ1024号

奈良電にも進駐軍専用車両があった、との話が以前出ていたが、こんなデザインとは思いませんでした。京阪にもなかった車両が、奈良電にはあるとはおもしろいではありませんか。
寺田に住んでいた同級生が小学校の頃、国道24号線沿いの田んぼで稲の刈り取りを手伝っていると、走ってきた観光バスが止まり外国人の親子連れがゾロゾロ降りてきて自分たちを撮影し始めたそうで、あっけにとられているとチョコレートやら百円札やらをくれて走り去ったそうです。どうも敗戦国の貧しい百姓一家を撮影して祖国への土産にしたようです。因みにお金はすべてオヤジに取られたそうです。

奈良電デイボ1024_NEW 奈良電デイボ1024(文)_NEW