ここはどこ?私はだれ?(3)

最初の写真で年末までは行くだろう、とタカをくくっていましたが、準特急さんの言うとおり土俵際まで攻め込まれ苦戦をしております。

この手の写真はどなたでもお持ちでしょうから気楽に投稿してほしいとの考えで載せたのですが、オッとどっこい、我が会員は情け容赦もなく蹴散らし、穏やかな気持ちで新年を迎えようとしていた病いの身をパソコンに括り付けています。

では、第三問。

 京都駅にまつわる小ネタ集 〈4〉

山陰本線ホーム先端で出会ったC51たち

当時の京都駅では、本線1番ホームの延長部に、島式ホームの山陰1番、山陰2番ホームが、ずっと西まで延びていました。架線も無く、一挙にローカルムードあふれた雰囲気になりました。その先端部に行くと、乗客に邪魔されることもなく、屋根も途切れて順光下で、発車待ちする山陰線の列車、また東海道本線を上下する列車もとらえることが出来ました。鉄道少年だった昭和40年前後、よく通ったところでした。梅小路機関区にはC51が健在で、これを目当てに、よく終端部を訪れたものです。ことし最後の小ネタ集は、ここで出会った列車の思い出としました。
山陰本線ホームを発車するC51 271の牽く胡麻行き2323レ、昭和40年当時、C51は、全国で5両しか残っていなかった。そのうち、124、271の2両が梅小路機関区に残り、山陰本線で最後の活躍をしていた(昭和40年4月3日)。

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年末臨時どですかでん ここはどこ

 阪神のなんば線淀川橋梁で戌年の運行を終了しようと思ったのですが、西村さんと1900生さんのご希望で臨時列車を運行します。コメントの写真ではわかりにくいので大きく拡大して見ます。


キロポストが写っているのですが、見えますかね。ちょっと読めませんのでヒントですが1両目と2両目のところに7と書かれたキロポストがあります。しかし、西村さんと1900生さんはさすがに鋭いです。かなり近いところを指摘されています。

ここはどこ?私はだれ?(2)

瞬殺です!

甘く見ていました。せめて正月明けまではお茶を濁せると思いましたが、ここの諸兄はただものではない。

今次大戦で日本海軍は米国の16吋砲に対してそれを凌駕する18インチ砲を装備した大和級を建造しましたが、時はすでに航空戦力に主役の座を奪われていたのでした。
つまり、二次元の想定に対して世界の主力は三次元になっていたのです。
今回の企画はまさに同一線上の間違いをしておりました。インターネットやgoogleの衛星写真という近代兵器に完敗しました。

それではベトコン戦術で衛星からも識別不可能な場所での写真を繰り出して応戦します。準備不足のため予備役招集です。

予備役の応召部隊ですから多少まだ甘さがありますが、しばらく時を稼いでくれるでしょう。まだ後には精強な部隊が控えていますから油断めさるな!

 北のC62 全記録 〈12〉

C62ゴールデンコンビの牽く「ニセコ1号」に乗る 昭和44年9月10日

いえいえ、私は店仕舞いしませんよ。まだ続けます。
上目名151km地点で撮ったあとは、北海道各地を転戦し、“現地闘争”と称した撮影会を抜海、常紋で行いました。当時のメモ帳を見ると、12人のDRFCメンバーが記されていました。均一周遊券を握りしめて、夜行列車を何日間も乗り継いで、やって来たのです。こんな時代に、12人もの仲間が集まったこと、当時の連帯感を感じました。
私は、ほかの撮影地にも寄って、10日ぶりに札幌に戻って来ました。後半は、C62重連に集中することにしました。まず撮影地の下見も兼ねて、札幌から長万部まで「ニセコ1号」に乗車することにします。窓を開けての撮影に適した座席を確保するために、早めに並びますが、難なく、右手進行方向の席をゲット。札幌からのヤマ線経由の乗車客は少ないことを改めて知りました。
札幌10時05分発、つぎは小樽に停車で、電機はここまで、C62に交代する。いそいそと先頭へ行き、近づいて来た牽引機を確認すると、「2」と「3」のプレートが。

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ここはどこ?私はだれ?

年末はお忙しいのか、常連の重鎮諸氏が相次いで早々と年末のご挨拶をされて店じまいされました。
それではご覧の皆様が「もう休むのか!他へ行こう!」と言われるのではないかと一人気をもんだあげく、年始に重鎮からの投稿が始まるまでのつなぎに肩の凝らないお話しをご覧頂きます。

歳をとると題目のごとく「私はだれ?」はありませんが「ここはどこ?」はたびたび思い当たります。そこで古い写真の中で今では思いも付かない場所で撮ったものがあるので何処で撮ったものか、撮影場所を当ててください。皆様もお持ちでしょうから続いてくだされば面白い企画になるのでは?

では、ご覧下さい。
場所は大体で結構です。そこだと思う根拠もお書きください。東京の皆さんにはむつかしいかな?

かつての阪神伝法線だった阪神なんば線の淀川橋梁

 12月9日にテレビを見ていると阪神なんば線淀川橋梁の架け替え起工式が行われたというニュースをやっていました。水面すれすれの淀川橋梁がいよいよ架け替えです。それで次の日に写真を撮りに行きました。ところがです。

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タクアンも賞味期限が・・・ (続々)

最後に呉線のタクアンをまとめてみました。

平成23年12月10日 三原・須波間 沼田川橋梁

タクアンに変色する前の「新広島色」と呼ばれた3扉新製の105系です。青帯は広島県木の「モミジ」を、赤は山口県木の「アカマツ」を意味しているそうですが、かなり無理がありますね。

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 クローバー会写真展まで 一ヵ月足らず!

第8回クローバー会写真展の開催まで、あと一ヵ月足らずとなりました。
 クローバー会 第8回写真展「鉄路輝く」
 2019年1月23日(水)~29日(火) 
 京都・祇園「ぎゃらりぃ西利」(京阪祇園四条駅下車東へ5分)
会員の皆さんからからは、続々と写真が寄せられています。早い人は、まだ暑いうちから応募があったほか、いまも滑り込みの応募が続いています。ご協力いただいた皆さんには、改めて御礼申し上げます。皆さんの熱心さに押されて、のんびり構えていた担当者もやっと本格的に動き出しました。明日には、第一回のプリントが出来上がる予定で、どんな写真が出来上ってくるかワクワクしています。
写真展の告知も計画的に進めています。本欄でも鉄鈍爺さんから、鉄道雑誌社のWEB版告知を案内してもらっています。21日発売の主要鉄道雑誌にも、すべて写真入りで案内が掲載されていますので、ご確認ください。会員の皆さんには、お願いごとや、期間中のイベントなどのご案内を追って差し上げますので、よろしくお願いします。期間中は無休、出入り自由、冷やかし歓迎、そして入場無料。また祇園でお会いしましょう。 鉄道雑誌の案内
皆さんから送られてきたデータやネガなど、中央は特製はがき。なかには歴史の感じられる、酢酸臭プンプンのネガもあって、担当者は酔いしれています。

 

タクアンも賞味期限が・・・ (続)

山陽本線のタクアンに続いて、福塩線のタクアンもご紹介します。以前にデジ青に登場した写真も含まれていますがご勘弁を。

平成28年5月19日 福山駅8番ホームにて

三原城と同様に、山陽鉄道が福山城内に線路を敷設し、駅を作ったため駅とお城が隣接しています。福山城は昭和20年8月8日の福山大空襲で建物の大半は焼失し、写真中央の月見櫓、少し低い鏡櫓、右の天守閣とも戦後再建されたものです。線路上の鉄骨屋根の陰に隠れているのが戦災を免れた伏見櫓で、伏見桃山城から移築された櫓です。一方の現在の三原城趾は石垣だけしか残っていないため、新幹線や山陽本線の車窓からは全く見えません。

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 京都駅にまつわる小ネタ集 (3)

平面クロスを渡って1番ホームに到着した特急列車

いつもコメントをいただく1900生さんから、京都駅にあった平面クロスについての思い出コメントがありました。私も、その豪快な通過音をよく覚えています。昭和40年代前半まで、京都~向日町の複々線は、南側2線が旅客線、北側2線が貨物線でした。このため、1番ホームに入線する上り旅客列車は、貨物線を横断しなければならず、下り貨物線、上り貨物線の2線分を平面クロスして、1番ホームに入線する珍しい構内配線になっていました。これは、何としても、京都駅の顔である本屋側の1番ホームに、特急などの優等列車を入線させたいとの思いがあったのでしょう。
昭和47年に構内配線が改良されて、下り貨物は、本線と奈良線の間の12番線(当時)に変更され、複々線の列車種別も変更されて、平面クロスは解消されました。現在でも、0番ホームに入線する列車は、当時の面影を残した入線シーンを見せていますが、あくまで分岐ポイントであり、豪快な平面クロスを聞くことはできなくなりました。貨物線と平面クロスして京都駅1番ホームに入る「白鳥」。まだ上野・青森行きの分割編成時代だったが、親不知付近だったと思うが、大規模な土砂崩れで北陸本線が不通となり、富山行きに変更されていた(昭和40年9月)。

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 岡崎公園で 一人クリスマス?

まるで京都のどこかの停留場で、信号待ちしているような雰囲気に浸れる。

日ごろのデジ青投稿の疲れ(?)を癒やすため、昨日、久しぶりに撮影に出掛けました。同じ撮るなら、この時期しか撮れないものと思い、歩いて京都は岡崎公園に向かいました。交番の裏の公園に、「岡崎・市電コンシェルジェ」として京都市電1860号が置かれています。前にも紹介しましたが、大宮交通公園に置かれていた同号を、整備のうえ、岡崎公園に移設、訪れる市民や観光客の案内所として使われています。“この時期”というのは、夕景を撮るためです。車内は白熱灯風の照明で、灯ともし頃となると、なかなかの風情となります。18時までの営業ですので、このシーンを撮るには秋冬しかありません。

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 京都駅にまつわる小ネタ集 (2)

三代目京都駅の塔屋にあった食堂街

もうひとつ、コメントに対するご返答を‥。河さん、米手さんから、三代目京都駅の塔屋にあった、食堂街についての思い出や解説がありました。私にも思い出があります。京都タワーもポルタも何も無かった時代の京都駅前、家族でマシに食事すると言えば、京都駅塔屋の食堂街か、丸物百貨店の食堂しか無かったと思います。京都の北部に住んでいた私ですので、旅行以外で、京都駅前に行くことはほとんどありませんでしたが、これらの食堂は数少ないハレの場でした。お知り合いの方から、この食堂街を運営していた京都駅観光デパートの年史・新聞記事を見せていただきましたので、この中から、少し様子を探って見ました。

京都新聞に載った京都駅観光デパート開業(昭和27年10月)の全面広告、右下に食堂街の店舗が紹介されており、3階から上へ、輿太呂、ハマムラ、江戸川、若狭屋、丸物食堂が入っていた。2階には、都ホテル直営のレストランがあったと思う。2階の売り場の店舗名も懐かしい(京都駅観光デパート20年史より転載)。

 

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 京都駅にまつわる小ネタ集 (1)

1900生さん思い出の山陰線機回し線の写真を発掘!

デジ青投稿に対して、多くのコメントをいただき、返答を心掛けていますが、いい返答材料が見つからず、保留のままのものもあります。いつもコメントを頂戴する1900生さんからも、何かの投稿で、京都駅山陰本線ホームの終端部にあった機回し線についてコメントがありました。少し前のことで、いま検索しても、どの記事だったのも定かではありませんが、付近の写真は撮っているものの、ホームで隠れたりして、公開するような写真がなく、気掛かりになったままでした。本日、クローバー会写真展の準備のために、乙訓老人さんから預かったネガをスキャンしていると、“これや!”と、飛び上がるような、スバリの写真を見つけました。1900生さん、これでしたね。
京都駅山陰本線11番ホームの終端部にあった機回し線、ホームもカーブしていて、長い編成の到着だと、カマがカーブ上に停車していた。すぐにカマだけ切り離されて機回し線を通って、編成の後部に連結、区や客車ヤードへ回送された。逆の角度から撮ったことは何度もあるが、終端部そのものを撮った写真は見たことが無い。しかも、牽引機が試作のDF411というのも貴重だ。さすがに、何でも撮っておられる乙訓老人さんだ。そして、つぎのコマをスキャンしてみると…。

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写真展「鉄路輝く」の開催、近づく

来月23日から始まりますが、在阪の友人からWebに紹介記事が載っているとの連絡を受けました。

鉄道ホビダスの該当記事(部分)

http://rail.hobidas.com/news/info/article/post_1088.html

総本家青信号特派員さん、いよいよ追い込みですね!

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 北のC62 全記録 〈11〉

大沼のYHで久しぶりにぐっすり寝て、生気を取り戻し、普通列車に乗り続けて、一年ぶりに上目名に下車しました。一年を経てもC62の聖地は、まだ穏やかなもので、ほんの数人が降り立った程度です。今回、写真を見返して分かりましたが、この日は、ぶんしゅうさん、1900生さんとご一緒でした。そして、向かった先は、歩いて約一時間の151kmポスト付近。昨年も一度来たところで、周囲が急に開けて、右手にはちょっとした高台があって、ここだけブッシュもなく、難なく上まで到達できます。

上目名~目名151km地点の上り「ニセコ3号」。高台からでも写せるが、C62の迫力を出したかったので、レールよりやや低い位置から狙ってみた。去年と違うのは、この爆煙だ。サービスなのかどうかは知らないが、去年のスカのような煙とは、大きな違い、あまりの煙で、編成が隠れてしまった。

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 北のC62 全記録 〈10〉

大沼で上下の「ニセコ」を撮る   昭和44年8月28日

五稜郭で上り「すずらん6号」を写したあとは、大沼へ向かいました。昨年も行ったことがある、駒ヶ岳・小沼を展望する、線路と国道に挟まれた小高い丘に登り、眼下を行く列車を撮りました。函館が北海道の玄関口の時代、続々と列車が走り抜けます。交通の便もよく、大沼はホントに恵まれた撮影地でした。
14時45分ごろに通過する、「ていね」改め「ニセコ3号」を、湖畔に沿ってカーブに掛かるのをとらえる。牽引するのはC6244〔築〕。時刻は「ていね」時代とほぼ変わらないが、大沼は通過、つぎの大沼公園には停車する。「ていね」時代と比べると、食堂車がなくなり、優等車両はグリーン車1両のみで、急行列車としての格が落ちた感じがする。昭和44年5月から、称号が二等車からグリーン車に変更されている。

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