桜前線追っかけ2010年 Part6 宮原線

もう桜前線は、北海道の末端へ行ってしまいました。旬が過ぎてしまったが、その間いろいろと書き込みをしてしまったので、ご無沙汰になりますが、来年挑まれる方のためにも記録を残しておきたいと思います。

第5日目 2010年3月31日

長陽駅15:15→17:10国鉄宮原線・肥後小国駅跡→17:29北里駅跡→17:57麻生釣→道の駅ゆふいん(泊)

長陽駅訪問後は、外輪山を越えて肥後小国へと向かいました。到着後、さて肥後小国駅は、どこにあっただろうと思い『道の駅小国』に立ち寄ると、駅名版、線路が残されています。地元のおばさんに聞くと、間違いなさそうで、駅跡を利用して道の駅ができたらしい。
▲ ここから、DRFCの1967年夏の合宿地、宮原線麻生釣へと、廃線跡を辿ってみました。郊外へと出ると、約42年を過ぎた今も、築堤跡やアーチ橋がそのまま残っていました。 続きを読む

工房便り D50の制作(3)

前回の投稿からあっという間に一月経ってしまいました。前回までで足回りの目処が立ちましたので今回は上回り、主として給水加熱器回りの太いパイピングを中心に、それに関連する工作をご紹介します。苦労して叩き戻したサンドドームでしたが、どうやら高さも高すぎたようで、結局約1mm高さを低くしました。幸い、断面がほぼ同じ部分がありましたので水平にスライスし、再度ハンダ付けで接合しました。ただしこれも1度では決まらず、2回切り接ぎましたのでご覧の通り、継ぎ目が現れています。同時にロストワックス製の蓋と砂撒き管元栓をつけておきました。なお、当社では煙突、ドーム類などに限らず、可能なパーツは出来る限りねじ止めするように心がけています。手順によってはあとで取り外す必要がでてくるからです。

シリンダーブロックの側板にシリンダ排水弁をつけ、シリンダーブロックに仮留めしたところです。ご覧のようにロストワックス製のこの排水弁はとても良く出来てはいるのですが、強度不足でご覧のようにすぐに曲がってしまいます。スケールだけを重視した製品にありがちなこの問題は困ったもので、後日裏側に補強を添えることにします。

フロントデッキには給水加熱器がつきました。ネジの頭が見えていますが、パイピングで隠れてしまうでしょう。シリンダーブロックの真上、ランボード上に突き出しているものはD50特有のバイパス弁の一部です。通常のデフレクターなら省略しても隠れてしまうところですが、門鉄デフではそうはいきませんね。ただし、少々オーバースケールとなっています。

非公式側、給水加熱器へのパイピング中。蒸気管、給水管は布巻きを模した製品で、B6では極薄の帯を真鍮線に巻き付けましたが、ショップでこれを見つけ、今回使ってみました。缶廻りのパイピング が終わっていないので、ハンドレールはノブに差し込んであるだけです。そのため、管支えの位置もずれています。
煙突は実物同様少し延長してあります。7mmのパイプがジャストフィット。前照灯も250Wの大型を奢りました。
ボイラーサイドの給水用逆止弁は下側から入って横に出るタイプ。長い間パーツ箱を暖めていました。

公式側。逆転棒、缶梯子、冷却管、そして砂撒き管もつきました。

これで随分出来て来たように見えますが、まだまだ工作が 残っています。キャブ下の主台枠後部が最大の難関です。次回は従台車廻りと共にご紹介しましょう。(つづく)

工房便り D50の制作(2)

(「D50の制作(1)」の続き) 
このキットには下回りが含まれていませんので、前回の記事通りダイカスト製の主台枠、動輪、サイドロッドとテンダー台車を別に購入していました。あとのパーツは手持ち部品から最大限の流用をはかることにして、メインロッドはAdachi製、クロスヘッドは天賞堂製を使うことにしました。問題はバルブギヤーです。使えそうなのはD51用ですが、加減リンクの位置がD50とは模型寸法で1mm程度異なるため、全体の流用を諦め、作るのが面倒な加減リンクのみ流用することにし、エキセントリックロッド、ツリリンク、同腕、芯向キ棒、合併テコ、結ビリンクを0.5mm厚の洋白板から、返りクランクは1mmの洋白板からそれぞれ切り出しました。
切り出したバルブギヤー。このうち合併テコは下部の二股部分が大きすぎ、シリンダー後蓋部に干渉するため、作り直しました。
切り出したバルブギヤー。このうち合併テコは下部の二股部分が大きすぎ、シリンダー後蓋部に干渉するため、作り直しました。 
モーションプレート組立。面倒でも製作図を描いてから作ります。

モーションプレート組立。面倒でも製作図を引いて・・。
 
 
 
これらの取付の中心となるのがモーションプレートですが、これも市販品がなく自作です。中心位置が狂うとバルブギヤーの寸法に影響するので製作図を引き各パーツを作ります。半田付けで組み上がったところがこの写真です。バルブガイドは丸棒をドリルレースで削り出しました。
             バルブガイドは丸棒をドリルレースで削り出しました。

蒸気機関車でよく目立つシリンダーブロックも自作です、手持ち品流用パーツはメインシリンダー前後蓋(挽き物)、空気弁(ロストワックス)です。

写真は弁室の後蓋とバルブガイドで、真鍮丸棒をドリルレースで削り出しました。バルブガイドの周囲を弁室の後蓋を止めるボルトの頭が取り囲んでいますが、これは丁度寸法の合う平ワッシャに、リベットを埋めるのと同じやり方で0.4mmの真鍮線を埋め、表現しました。

二枚重��で左右分を一度に加工します。
二枚重ねで左右分を一度に加工します。

スライドバーも自作しました。1mm厚の洋白板を寸法に切り出し、二枚重ねてヤスリで側面から見た形に整えますが、このときに中央部の溝になっている部分は溝を加工した後上下の滑り金の表現も兼ねて帯板を半田付けするため、細く加工しておきます。

ク��スヘッドとスライドバーを合わせます。スムーズに動くように調整します。

クロスヘッドとスライドバーを合わせます。スムーズに動くように調整します。

出来上がったスライドバーとクロスヘッドを合わせます。スムーズにしかも大きな型のないように調整します。クロスヘッドは天賞堂製のC51用(ロストワックス製)が形がよく似ているためこれを使いました。後で判ったことですが、D50のクロスヘッドは後年、多くの機がD51用に似た近代機設計のものに交換されています。しかし、今回は元設計の形にすることにしました。

クロスヘッドはメッキ処理がされていません。昔は使い古しの写真の定着液に浸して銀メッキを施したものですが、今は「メッキ工房」なるメッキキットが製品化されています。約1万円もするキットを買うが良いか・・思案中。 

シリンダーブ��ックとモーションプレートを主台車枠に取り付けます。
シリンダーブロックとモーションプレートを主台車枠に取り付けます。
バルブギヤーの組み込みが出来、上回りと下回りがドッ��ングしました。

ブギヤーの組み込みが出来、上回りと下回りがドッキングしました。

シリンダーブロックの前後板は0.8mm、側板は0.3mmの真鍮版ですが、この寸法が機の前部の高さ寸法を決定しますので慎重に寸法を決めます。外から見える側板はこの時点では必要なく、むしろ先に付けてしまうとスライドバーや各パーツの組立がやりにくいので後回しにします。次回に紹介しますが、側板には点検蓋(0.1mm真鍮版)を貼り付け、0.4mmのリベットを打ってから空気弁のパーツを半田付けし、シリンダーブロックに沿うように曲げて行きます。なお、この側板の本付けは最後にします。シリンダ排水弁、シリンダ安全弁(共にロストワックス)を購入しましたので、このあと取り付ける予定です。 

シリンダーブロック、モーションプレートを主台枠に取り付け、バルブギヤーが無事所定の位置に組み込み込めました。なお、先台車は簡単に自作できますが、ショップでAdachi製のD51用をつい買ってしまい、これで時間と労力の節約をするつもりでしたが車輪をφ11.5mmに交換しようとすると軸径が異なり、取り付け位置も異なるなどけっこう手間取りました。

主台車枠後部と従台車は自作が必要で、これ以上に手間取るので、後回しです。 

ようやく機関車らしくなってきました。
少し機関車らしくなってきました。

ようやくこれで上回りと下回りのドッキングが可能となりました。バルブギヤーも組み込んだ下回りに上回りを載せ、前部デッキ、間高さと傾斜キャブの屋根高さなど所定寸歩が得られているか良くチェックし、修正可能なところは今のうちに少々の手戻りが出ても修正しておきます。(つづく) 

工房便り D50の制作(1)

バラ��ットの外箱。値��は3950円!下の写真集はいつも参考にする小寺康��さんの「蒸気機関車の角度」

今朝も工房は稼働を始めました。このところ、工事中のSLが幅を利かせている工房ですが、今回から数回に分けてD50をご紹介します。
以前、この掲示板に「天然色写真で巡る40年前の九州」と題する総本家 青信号特派員さんの書込みに関連して、未着手のD50バラキットを組み立てるためのモデルとなる門鉄デフの参考写真をお願いしたところ、いくつかの機番の写真を見つけていただきました。そのうち129号機が門鉄デフの標準的な姿で、変わった改造もなく最も好ましいスタイルでした。偶然にもキットに入っていた3種類のナンバープレートの中に129があり、この写真の姿を参考にしながらD50129として制作を進めることとしたわけです。
宮沢模型のバラキット
この製品は1970年代初頭に宮沢模型がC54、D50を発売し、組立済みキットの他に私が入手したバラキット(上回りのみ、足回り無し)が発売されたと記憶しています。同時に別売パーツとして主台枠(ダイカスト製)、動輪、サイドロッドが入手出来、箱に入れていました。以来約40年を経過することになりましたが、形の気に入らなかった煙突をはじめとする細々としたパーツ類は良いものを店頭で見つけるたびに購入していたようで、今回それらを全て生かすことが出来ました。
サンドドーム
D50と言えばサンドドームの形状が、汽車会社製は角ばっているというのがD50を語る上で欠かせない話ですね。129号機は旧形式9900型の19928号機として竣功、川崎製です。ところがキットに入っているのは明らかに汽車会社製をモデルにしているようです。悩んだ末、木型を製作してタタキ戻すという改造を施したのですが、当初これで良いと思ったものの、写真を見ているうちに高さが高すぎることが分かり、約1mmスライスして高さを下げる手戻り工事を2度も行う前例のない難工事となりました。かなり組立が進行してからでしたが、何とか雰囲気を出せたかなと思っています。(その写真は後日) 

 

どう見ても汽車会社製?

どう見ても汽車会社製?

木型

 

タタ��戻しました

タタキ戻しましたが後日スライスして高さを低くする難工事となりました

上回りの組立と下回り
ボイラー、キャブは曲げ済みで各パーツとも寸法精度が比較的良く、特に難しいところはありません。煙突は引き物をボイラーに沿わせてプレスした製品が附属していましたが、形が綺麗でないため、見つけて購入しておいたロストワックス製を取り付けました。ボイラーサイドのハンドレールノブもこの時点で取り付けておきます。このあと、ボイラーとキャブ、ランボード・・・と大体の形になって行く過程ではそれぞれ傾きや高さ寸法を確定させる必要があります。そのため、この段階で一旦下回りの工作に移ることにしました。(つづく)

  

 

��ャブ

キャブ

 

煙突は別売の��ストワックス製

煙突は別売のロストワックス製

 

江若鉄道 白鬚駅について

白鬚駅

白鬚駅

久々に江若鉄道のことで皆さんにお願いがあります。以前から工事を続けていました高島町駅も完成に近づき(まだ大々的にご紹介するところまで至っていませんが)、そろそろ第2弾の構想を練りはじめています。お隣の白鬚駅を作ろうと考えているのですが、またしても情報がありません。特に駅舎の写真がほしいのです。プラットフォームや白鬚駅での車両の写真は散見されますが、道路側から駅本屋を写したか写っている写真をお持ちなら、あるいは何かの図書などに出ていることをご存知なら 是非お教えください。唯一 参考になるのは昭和44年9月6日付け京都新聞土曜版のカラー写真です。唐破風をもった瓦屋根がうまく作れるか自信はないのですが、護岸と湖水面、できれば鳥居を入れたジオラマを描いています。よろしくお願いします。

2009年 厳寒の大地へ Part4 調兵山 3日目

北京からも、成都の宿泊するホテルに依頼しても、購入出来なかった復路、成都→北京西の特快T8夜行寝台列車の軟座寝台の切符ですが、最後の手段として、芭石鉄道を案内してくれる現地旅行社に打診しました。

すると、『後、数枚しか残っていない。しかし、手数料が、200元必要です。航空券なら充分に席はあるが、どちらにしますか。』と、返事が返ってきました。中国鉄路では、切符の約85%が旅行社を通じて購入されています。
日本と違って、上乗せで手数料が必要ですが、北京からの往路は、手数料30元でした。今までも、切符売場に並んで購入する時間がなかったりすると、旅行社に依頼していましたが、せいぜい30~60元が相場です。1枚200元とは、ぼったくり以外ありません。

多分、1本しかない列車なので、どこかの旅行社が裏から手を回して、買い占めているのは、容易に想像できます。分っていて買うのは、しゃくですが、行程が決まっている以上、仕方ありません。OKを出しました。
日本の約45年前あたりと同様に、旅客輸送力が需要に付いていっていないので、こういった事が当たり前に横行しているのが、現状です。気分はよくありませんが、取り合えず、帰路は確定しました。

第11日目 12月2日 
足は、完全回復しましたが、願いは通じず、今日も白い世界です。白銀の世界だったら最高ですが、こればっかりはどうしようもありません。出発は、8時30分にずらして、その間に調兵山駅2階の旅行社に行って、今日のSL運行を問い合わせてもらいました。調兵山~大明間は、DL運行です。天候回復の願いをこめて、SL列車を追いました。
▲ 9:01 三家子~調兵山の無名駅から、出発する、大青からの308次
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2009年 秋の中国一人旅 Part8 瀋撫城際列車

今日から、大リーグでは、プレーオフに、日本でもCSが始まりました。鉄道に次に、大好きな野球の熱戦に見入っています。旅行記のアップロードもあります。撮影にはもってこいの秋晴れが続き、待望の車が納車されたのに、中々、出て行く決心がつかず、迷っているぶんしゅうです。

第7日目 9月23日 その2

ジテを撮り終えた頃より、空模様が怪しくなってきました。ポツポツと雨が降り出したので、撮影場所を、留置線から検車区に変えて、凸型電機を撮っていると、職員の偉いさんから、許可なし撮影は、ダメと言う風な態度で、何か言われました。

600型は、主力のELだが、休車が目立っています。

600型のトップナンバー

多分、職員輸送用と思われます。

これは、珍品です。

ここでの撮影は、切り上げて、タクシーで来た未舗装の泥んこ道を、歩きました。まず。今の日本では、存在しないような悪路です。舗装された駅前道路とは、雲泥の差です。

しばらく歩くと、自転車タクシーが、昼食に自宅に戻ってきたのを見つけました。撫順駅まで乗りたいと言うと、2つ返事でOKが出ました。5元(65円)です。濡れなくて良いので、助かりました。乗ること、約30分で、撫順駅着撫順北駅も、みて見たかったので、頼みましたが、遠すぎるので、ここで降りて欲しいと言われました。仕方なく、ここからは、普通のタクシーです。撫順北駅までは、7元(91円)でした。


撫順北駅は、立派な駅です。中国には、約25年前から来ていますが、ここ5~6年の空港、鉄道駅の変貌ぶりは、驚くばかりです。何と言っても、ホームのかさ上げ工事が、進められたのは、旅行者にとって、乗り降りが、大変楽になりました。まだ、田舎の駅では、低いホームがあって、重いスーツケースを、エイヤャーと持ち上げるのは、誰もが難儀します。

駅正面右側が、切符売場です。ぶらりと、真新しい掲示板を見ていると、瀋撫城際列車の時刻表がありました。撫順北~瀋陽を走る区間列車です。現在時刻は、14:00、丁度、撫順北駅14:39発、瀋陽行きの列車があります。ラッキーです。

蒸気は、現在運行中です。下記は、計画です。今は、1編成が往復していますが、2編成に増車されたら、運行本数も増えると。みました。

これらを考慮すると、近い将来は、下記になります。作成してみました。こうなれば、瀋陽のホテルに宿泊して、朝夕の撫順炭鉱線を撮影して、日帰り可能です。

列車番号をメモって、窓口に向かいました。撫順北駅に停車する列車は、多くありません。しかし、切符売場は、他の駅の倍以上の広さがあり、天井も高くて、明るくなっています。営業している窓口は、10数ヶ所のうち、3箇所だけでした。待っている人も数名で、ガランとしています。

女子大生と思しき4人がいる窓口が、一番早そうに見えたので、後に並びながら聞いてみました。国慶節休みに4人で、どこかに行きたいようですが、中々、求める切符がありません。窓口の職員は、キーボードをたたいて、代替の列車を探してくれますが、モニターに出てくるのは、希望列車があっても、空席は、1~2名程度です。

田舎の駅です。のんびりしています。何度も何度も、諦めずに空席を探してくれています。これは、付き合いきれないと、彼女達に断ってから、今日のこの列車の切符を1枚欲しい。できれば1等車(軟座)を言って、メモを見せました。直ぐに発券されました。

瀋撫城際列車4396列車切符 1等車 17元(221円)

購入後、正面入口から待合室に入りました。入った正面には、『貴方が、瀋撫城際列車に乗ることを歓迎します。』とのスローガンの看板がありました。良く見ますと、2008年11月に工事着手、2009年7月30日公式開通営業開始。瀋撫城際鉄路全距離は66.1キロ、列車名は、『和諧号』、最高速度120km/h、最短所要時間49分。全区間には、18の駅がある。等々の紹介文が書かれていました。

まだ、開通してのホヤホヤです。14:07瀋陽からの折返し列車が、到着しました。そして、その車両は、昨年8月に、北京北駅から万里の長城へと向かって登場した『長城和諧号と同じ車両です。


この列車は、オリンピック前に、北京北駅に行き、乗車を試みましたが、丁度北駅がリニューアルオープン3日前で、乗車できなかった悔しい思い出があります。ここで、乗車できるとは思いませんでした。

出札は、発車10分前に始まりました。乗客は、数十名とわずかです。先頭車から、写真を撮りながら、ぎりぎりで乗車しました。
編成は、両端がプッシュプルのDLで、1等車3両+餐車+2等車3両の9両編成です。
NDJ30003A+ZY010068+ZY010069+ZY010070+CA080125+ZE010071+ZE010072
+ZE010073+NDJ3-0003B


大きな窓が印象的な車両ですが、餐車は、ひときわ大きい窓になっています。ただ、最短49分の乗車時間です。餐車は、必要ありません。
天井が高く、明るい広々とした車内は、とても快適です。1等、2等とも、CRH2(はやて型)の技術を応用した座席回転シートになっています。ピッチもまずまずです。

定刻に発車、新しく線路を引き直したのが、バラスの白色で分ります。高架線をゆっくりと走行します。撫順駅は、やはり停車しません。撫順炭鉱線と並行します。
乗客が少ないのは、宣伝不足と、本数が少なく、運賃もバスの10元(130円)と比べると割高なのが原因でしょうが、バスは、最短でも1時間30分前後かかります。両都市は、渋滞が多く、これからももっと遅れることは、必死です。これに比べると、この列車の乗り心地は、雲泥の差です。車内販売が、何回も来るので、ビールを2本も飲めました。

しかし、この線は、複線電化してあります。この車両よりも、CRH2(はやて型)を走らせた方が、もっと早く、到達時間も30分以下が、可能でしょう。3倍以上もの時間のかかるバスからの、利用者移動となる事は、北京~天津間の新幹線で実証済みです。頻繁に満席で走っているバスです。需要は十分ありますので、数年後に来る時は、そうなっているでしょうね。


瀋陽到着後
、ホームで撮影をしていると、公安から注意されました。普段、こういった事は、あまりありません。やはり、建国60周年という国慶節が近づいているので、かなりナーバスになっているのでしょうね。好き好んで、注意しているとは、思えませんでしたので、目に入らぬように撮ることにしました。

明日からは、1泊2日の調兵山行きです。早く起きられるように、朝5時のモ-ニングコールを頼みました。 Part9 へ続く

【速報】湯口さん「島秀雄記念優秀著作賞」祝賀会行われる

昨8月9日(日)、当会の湯口徹さんが、鉄道友の会「島秀雄記念優秀著作賞」を受賞され、その栄誉を称えるクローバー会の祝賀会が、大阪・曽根崎「ミュンヘン」において、厳粛に、かつ賑々しく執り行われました。参加が叶わなかった皆様に当日の様子を掲示板でお伝えしましょう。
この「島秀雄記念優秀著作賞」は、もっとも優れた鉄道図書を選出し、鉄道趣味界の発展に寄与することを目的として、鉄道友の会によって創設された賞で、今回、湯口さんが著されたRMライブラリー『日本の蒸気動車』(上下)が単行本部門で選定されたものです。

受賞の記念盾を手にした湯口さん(ちなみに受賞に際しての賞金、賞品、交通宿泊費、生涯年金は一切なかったとのこと)

山科の人間国宝からは、終戦直後に出された、ガリ版の模型機関誌「テイルライト」に若き日の湯口さんの記事が載っていることが披露された

祝賀会は、まず琵琶湖のヒマ老人の司会で始まりました。あまたある鉄道図書の中から選定された理由について、「俗説や不明点の多かった蒸気動車に対して、特許や実用新案にさかのぼって、その過程を丹念に検証、これまでの誤謬を修正した点が評価された」と受賞の理由を説明。
徹底して一次資料に当たり、一つの資料の発掘のために、何日も掛けて国立公文書館に通い詰める地道な研鑽姿勢が、今回の栄誉に結実したもので、安易な鉄道図書が蔓延る最近の風潮に警鐘を鳴らすものとも言えるでしょう。
ちょうど蒸気動車では唯一の保存車両である明治村のキハ6401に、今春のクローバー会総会で訪れ、参加者全員で湯口さんの説話を聞いたのも、何かの縁を感じさせるものでした。
これに対して湯口さんからは、小学校以来の表彰を率直に享受したい、クローバー会の理解や援助があっての受賞と吐露され、好きな酒も絶って、残り少ない人生を軽便鉄道や内燃動車の研究に全身で打ち込みたいと力強いお話がありました。
その後、参加者一人ひとりが、湯口さんに祝辞を述べ、記念品を贈呈。
最後に登壇した乙訓老人からは、湯口さんとの長い付き合いの思い出が披瀝され、「ミュンヘン」が選ばれた理由も、クラブ草創期の頃のピク京阪特集寄稿で、原稿料をつぎ込んで祝杯を上げたのが、京都にあった「ミュンヘン」とのことで、湯口さんや乙訓老人にとっては、思い出の店なのでありました。
湯口さんのますますのご活躍・長寿を願って、全員でバンザイ三唱して、クローバー会会員の快挙を参加者全員で祝ったのでありました。

記念品のオロナイン軟膏を中林さんから贈られる(高齢者にしか判らない古典ギャグ)

一人ひとりの参加者と友好を深められた

乙訓老人の思い出話をしんみりと聞く参加者

最後に準特急さんの音頭でバンザイ三唱

名古屋、東京からも駆けつけた21人の参加者

「富士」を送る (2)

151系電車の「富士」が消えた翌日、昭和39年10月1日からは、別の寝台特急に「富士」の名は受け継がれます。東京~熊本・大分間の特急「みずほ」のうち、山陽本線の全線電化を機に大分編成を単独運転することになり、その名が「富士」となったのです。客車はもちろん20系、牽引は東京~下関間がEF60500番代、門司~大分間がDF50、翌年には東京~下関間がEF65500番代(P形)に変更されたため、EF60500番代「富士」はごく短期間でした。特派員も写している訳はなく、他の特急でその姿を偲ぶことにします。

EF60に牽かれ丹那トンネルを出る「富士」、ではなく「あさかぜ」(昭和40年)

さらに同昭和40年10月改正から西鹿児島まで延長、「富士」は、日豊本線経由で東京~西鹿児島間を結ぶ日本一長距離の特急となります。蒸機を求めて九州を彷徨っていると、DF50のオレンジ・グレーと20系客車の青い車体が絶妙のバランスで、特急への羨望を抱かせたものでした。DF50が門司~西鹿児島間をロングランしたのも特筆されます。

日豊本線大神駅を通過する上り「富士」(昭和42年)

日豊本線田野の鉄橋を行くDF50+20系の「富士」(昭和42年)

 いっぽう客車も昭和50年には20系から24系に。昭和51年にはさらに24系25形に置き換えられます。さらに牽引機も昭和53年にはEF651000番代(PF形)に変更されます。趣味的に見れば、昭和40年から50年までの10年間、EF65P+20系の時代が最も輝いていた時代に見えます。

広島駅に到着の下り「富士」。20系客車は15両の長大編成だった(昭和42年)

湯河原付近のカーブを駆け、東京へ急ぐ上り「富士」(昭和49年)

その後昭和60年になるとEF66に牽引機を変更、JRになってからは、ロビーカー、個室寝台ソロなどの体質改善が図られますが、その後の凋落化に歯止めが掛からず、食堂車の営業休止、運転区間も南宮崎、大分と短縮、ついには平成17年に「はやぶさ」と併結となり、14系15形となった編成も半減となり、ついには廃止を迎えることになりました。

EF66牽引となった「富士」。ヘッドマークも戦前の展望車のバックサインに似せたデザインとなった。藤沢付近(平成7年)

「はやぶさ」と併結となった現在の「富士」。名古屋駅(平成20年)

 

CRHの旅Ⅲ Part5 上海鉄路博物館

ひと休みをしたらもうお昼です。南京路の食堂に入って、大好きな上海名物、スープの入った小籠包を食しました。広州の飲茶料理にもありますが、551の豚マンサイズの大きな小籠包は、上海だけです。スープを飲むために、ストローを付けた店もあります。

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都電荒川線と阪和貨物線

[967]で都電荒川線が[1105]で阪和貨物線の話題がでましたので、
いつものごとく便乗して投稿します。
私が都電荒川線を初めて見たのは中学1~2年の頃、母方の親戚が東京都
北区の滝野川団地の近くに住んでおり、そこを訪ねるのに京浜東北線の
王子駅から歩いていくときに走っているのを見かけたのが初めてです。
それまでは写真などでしか見たことが無かったので非常に興味を持ち
親戚の家から近いこともあり、数枚撮影しました。
そのときは7020、7505、7512の写真が残っています。

都電荒川線滝野川1丁目付近を行く7505。(昭和50年前後?)


ただ、このときは7000形はすでに車体が更新されており、少しがっかりした
ことを覚えています。そのためか写欲が湧かず(下手な写真の割りに偉そう
ですが)あまり撮影することもなく、またそう東京に来る機会もなく次に
訪れたのは昭和54年の7月にひょんなことで知り合いになった秋田の
年上の鉄道ファンの方を訪ねるときに、当時は秋田新幹線どころか
東北新幹線もなく、特急「つばさ」か寝台特急「あけぼの」が一番早く秋田に
たどり着ける手段だったため大阪からの行き帰りに泊めてもらった時でした。
このときは7030、7031、7502、7505の4輌を撮影しています。
個人的には飛鳥山から滝野川あたりの下町っぽい雰囲気が好きでしたので
(というか怖くて全線乗ってみることができませんでした。今でも東京の地下鉄は
苦手です。)
藤本先輩の撮影されていた写真は子供の頃本やテレビで見た都電そのもので、
直に見られたことを羨ましく思います。

都電荒川線滝野川1丁目付近を行く7031。バックは桜丘高校か?
(昭和54年7月28日前後)

また、先日JR西日本のHPを見たときに「阪和貨物線の廃止について」の
ニュースリリースを見つけとうとう来たかという思いでした。
すでに休止状態でしたが、休止に入る前にすでに廃止が決定的との噂が
流れていたのがいよいよ来たかという気持ちでした。この線は以前阪和線の
話題のときにも書きましたが、自宅が大阪市住吉区長居にあったため
チャリンコで15分くらいで行くことができた場所でした。
子供の頃は営業列車の走らない(「あすか」はすでに走っていませんでした)
不思議な路線でしたが、頻繁に貨物列車が行き来していたので貨物の専用線
だろうなという認識しかなく、関西本線の電化後は藤本先輩の投稿にも
ありましたが時折回送列車が通るようになり、少し車種が増えましたが
それでもなお地道に貨物が走っていました。そのうえ高校が丁度この線の
横にあり授業中によく列車を眺めていました。また、冬場は風向きの関係で
夜更けになるとこの線の貨物列車の汽笛と近鉄南大阪線の大和川橋梁を渡る
列車の音がよく響いてました。結構、夜中でも汽笛が響いていたのを布団の中で
聞いていました。それだけに、感傷的になってしまうのです。
この貨物線を走る電気機関車はバリエーションがありEF52、EF15、ED61、
ED60などやEF58などが走っていました。
特に大型のEF52には重厚さをED60・61には新しさを感じておりましたが
藤本先輩のように綺麗な写真は残っていません。
特に「あすか」などは私から見れば涙物です。
貨物線の写真は殆どありませんが2枚見つけましたのでそのうちの1枚を。

阪和貨物線依羅付近を行くEF52-2牽引貨物列車。(昭和49年頃)

また、藤本先輩の掲載していたEF52-7はさよならEF52の運転となった
臨時きのくに53・54号を牽引した機関車です。そのときは撮影に行きましたので
写真が残っていますが走行写真はとても見れたものではないので、
和歌山駅の側線でファン向けに展示されたときの写真を。
国産大型機として無骨ながら均整の取れたスタイルが好きでした。

EF52サヨナラ運転和歌山駅で展示されたEF52-7。(昭和50年8月24日)

竜華区のカマは貨物にも旅客にも活躍していたためいろんな場面で見ることが
できました。ED61はよく多客期の12系臨時急行きのくにをよく牽引していました。
当時は和歌山以南は非電化のため和歌山駅でDF50からED61などへの
付け替えが頻繁に行われていました。この写真もそんなひとコマです。
よく考えるとこのころの和歌山駅はずっといても飽きない駅でしたね。
国鉄では阪和線の旧型国電・113系やEF60・61、EF52、EF15、紀勢本線の
キハ81、キハ82、キハ58、キハ35、キハ40、キハユニ16、南海電鉄のキハ55、
貴志川線の旧型電車、和歌山線のキハ52やDF50の客レや貨物など非常に
バラエティに富んで(車輌の掃き溜めとも言えましたが)ました。
和歌山駅で機関車を付け替え出発を待つ12系臨時きのくに牽引はED61-17。
(昭和50年頃)

時代の流れで廃線や休止路線がでるのは止むを得ないですが、やはり子供の
頃から馴染みのある路線が廃止されるのは残念です。
相変わらず先輩方とは異なりいい加減な記憶と下手な写真で申し訳ありません。

都電荒川線

【345】で9月27日に都電荒川車庫で開催されたイベントの模様を紹介した。ご存知の方も多いと思うが、荒川線の前身は「王子電気軌道」という私鉄で、戦時中の昭和17年2月1日付で電力統制、交通統制により、当時の東京市に買収されたものである。昭和42年都電撤去計画が策定された時、荒川線も計画に入っており、モノレール化が検討されたこともあったが、元々乗客が多く専用軌道が多いこと、沿線住民の反対等により存続が決定した。但し、併用軌道の王子駅前~赤羽間は昭和47年11月12日に廃止された。買収路線であるため、「買収都電」が存在した。旧国鉄の「買収国電」は「阪和形」以外は、車齢の若い車両も含めて早々に姿を消したが、「買収都電」は昭和43年まで在籍し、その内の1両は現在も宇都宮市郊外の企業で保存されている。

昭和40年台から現在の車両に変わるまでの間、荒川線で活躍した車両は、下記の通りである。

160形、170形

王子電気軌道200形として昭和2年から4年にかけて201~223の23両が作られた。昭和17年東京市買収時にメーカーの相違により下記の通りの形式に別けられた。

201~207 田中車輛製 → 150形(151~157)

208~215 日本車輛製 → 160形(161~168)

216~223 川崎車輛製 → 170形(171~178)

 150形は川崎市電に譲渡した1両を除き、昭和27年3000形の改造種車となり廃車。160形は事故廃車された1両を除き、昭和42年~43年に廃車。170形は川崎市電に譲渡された1両、3000形の種車となった2両を除き、昭和42年~43年に廃車となった。廃車後176が宇都宮市郊外の企業に屋根付で保存されている。

 

昭和41年3月11日    王子駅前

 昭和42年3月25日    大塚駅前

 昭和41年3月11日    王子駅前

1000形

昭和7年から11年にかけて木製車の台車、部品を使用して作られた車両である。昭和40年頃の状況では、160形、170形は主力として終日使用されていたが、昼間は殆ど見かけなかったので、ラッシュ時以外はあまり使われていなかったのかも知れない。

                 昭和41年3月11日    須田町

荒川線で撮影したものがないので20系統を掲載した。20系統は江戸川橋から護国寺、駒込千駄木町、上野公園を通り須田町を結んでいた。

2500形

1067mm軌間の杉並線の廃止に伴い、1372mmに改軌の上、転属してきた車両で、バス車体の工法で造られた。昭和33年に2501、2502が交通局芝浦工場で、昭和34年に2503~2510が富士重工伊勢崎工場で作られた。車体幅が狭く、乗客の多い荒川線には不向きのため、早々に早稲田車庫に転属した。

 

昭和41年3月11日    王子駅前

 昭和43年9月6日 早稲田(早稲田車庫に転属後) 

 昭和41年3月11日    王子駅前

3000形

昭和24年から28年にかけて、主に木製3000形、王子電気軌道からの引継車を種車として作られた車両で、一部純然たる新製車も存在する。290両在籍し、4000形、6000形と共に都電の顔として活躍した。

                 昭和41年3月11日    王子駅前

 

昭和44年9月13日    王子駅前

19系統は王子駅から飛鳥山まで荒川線を走り、駒込駅前、東大赤門前、神田明神前、須田町、日本橋を通り、東京駅八重洲口を望む「通り3丁目」を結んでいた。

 6000形

昭和22年から27年にかけて290両作られた、戦後の都電を代表する形式の一つである。製造年別、製造所別の差異、初期の車両は更新による差異があり、細かく観察すると興味が尽きない。6000形については、江本廣一氏著、ネコ・パブ社RM LIBRARY19「東京都電6000形」に詳しくかつ判りやすく解説されているので、興味のある方はお読みいただきたい。

【345】で紹介した保存車6086は、昭和24年日本鉄道自動車製で、昭和41年大栄車輌で車体の更新修繕を施工している。

 

昭和52年1月24日  荒川車庫前(荒川線で現役の頃)

 

昭和52年1月24日 荒川車庫前(昭和26年 局工場製)

  7000形

6000形に代わって昭和28年から31年にかけて93両作られた。正面2枚窓、前中扉と従来の都電スタイルから大きく脱却し、都民からも大きな関心を持って迎えられ、不満が出ないように各車庫にばらまくように配置された。製造年度によりスタイルに差があり、28年製の7021~7030の10両は旧型車の部品流用車である。現在の7000形は旧7000形の昭和31年製第3次グループ(7055~7089)の内の31両で、昭和52年から53年にかけて施工された新造車体に乗せ替え時に、旧番の若い順に7001~7031に改番したものである。

 

昭和52年1月24日   荒川車庫前

8000形

昭和31年から32年にかけて100両作られた。都電の将来を見越して耐用年数を10~12年程度に抑えたため、シンプルな作りとなっている。上記の7000形同様、各車庫に分散配置された。

 

昭和44年9月13日    王子駅前

 

昭和44年9月13日    王子駅前

7500形

昭和37年、都電が荒川線のみとなる前の最後の新車として20両作られた。ヘッドライトが2個となり台車と連動して可動した。当初は青山車庫の所属で都心で使用されていたが、路線廃止により余剰廃車となった7517、7519以外は、最終的に全車荒川車庫に集結した。昭和59年から62年にかけて、7502、7504、7508の3両以外は新造車体に乗せ替え、7502、7508は直ぐ廃車されたが、7504は朝のラッシュ専用車として平成10年頃まで使用され、現在「都電おもいで広場」に保存されている。現存車両も車体乗せ替え後20年以上経過しており老朽化は否めず、新製車と代替される予定となっている。

 

昭和52年1月24日   荒川車庫前

都電荒川線は我が家から比較的近い所を走っている。5年前までは、早稲田から徒歩15分の所に職場があり、会社の帰り、気が向くと、町屋、大塚、王子まで利用した。王子駅前を境に雰囲気が異なり、三ノ輪橋方面は下町でかつての伏見線の雰囲気とダブってくる。今は休日に町屋駅前から利用することが多いが、一日を通して乗客が多く、昼間は5分間隔で運転されているが満員である。しかも高齢者の利用が多いため座席に座ったことがない。7500形の引退が報じられているが、車齢を考えると引続き7000形も引退するものと思われる。

記憶の中の京阪電車 (2)

京阪電車で、まず頭に浮かぶのは「特急」であろう。我々の世代が現役の頃は1900形の全盛期であった。1900形の特徴は、他社の特急車両に固定編成が多かったのに対し、各車単独車両で、自由に編成が組めた点であろう。それ故、○時の特急は「1新車5ピンク」だったとか「4新車2ピンク」だったとか編成そのものが話題になった。「特急」は京阪の看板電車であり、特急を利用できない乗客にとっては「よそ行き」の電車に見えた。私の場合は通学の6年間、通勤の2年間、自宅、通学通勤先の最寄駅共に特急停車駅でないため、急行以下のいわば「普段着」の電車を利用した。その頃の思い出を断片的ではあるが紹介して、同世代の皆様に「ああ、そんなこともあったなぁ」等と思い出していただければ幸いである。

1000系の珍編成

昭和43年10月10日、昼休みにBOXに行くと、京阪で通学していたA君から「宇治行で1100+1000+1200の3両編成を見た。1100と1000は同じ向きに連結されていた」という話を聞いた。午後から授業があったかどうかは忘れたが、直ぐに自宅に戻り、カメラを持って中書島に行き、暫く待つと、1202+1005+1107の3両編成が来た。こんな編成を見たのは初めてで、この電車で六地蔵まで行き、折返しの三条行きを撮影した。

中書島に進入する 1202+1005+1107の3両編成

1005と1107の連結面

木幡~六地蔵間を走る 1202+1005+1107

1107 

市電800形連結車

この日は次のようなオマケが付いた。自宅に戻るため中書島から市電(839)で伏見線を北上し、勧進橋まで来たところで、動かなくなり、乗客は全員降ろされた。暫くすると稲荷から来た(852)を頭に連結、先ほど降ろされた乗客を全員乗せて発車して行った。

当時の伏見線は昼間オール800形、ラッシュ時に500形が応援に入り、たまに600形が入った。最新の700形はまず入ることは無く、900形は正月、節分、初午の超繁忙期のみであった。

 

故障で立往生している⑱(839)の頭に⑲(852)を連結

⑱(839)を牽引して発車

‘08孫の運動会に行ってきました

昨年に続き、茨城県笠間市立友部小学校の運動会に行ってきました。以下は、その時の成果です。 

 1.真岡鉄道、2120レと6001レ、西田井駅、’08.09.20、撮影:小6T   

 2.同、6001レ、同所、同日、撮影:小6T        

 3.同、6001レ、笹原田-天矢場間、’08.09.23、撮影:小4K       

4.同、6002レ、市塙駅、’08.09.23、撮影:小4K       

今回はお爺さんの写真に良いのがありませんでした。その代り、行きがけに寄ってきた、大井川鉄道です。
 5.大井川鉄道、101レ、福用-大和田間、’08.09.19      

(未承諾広告)その他の写真は、以下のページでご覧下さい。
真岡鉄道
 http://kabutogoe.web.fc2.com/mooka/mooka.html

大井川鉄道
 http://kabutogoe.web.fc2.com/ooigawa/5251.html  

(お節介なお知らせ)
来る1014日は、言わずと知れた鉄道記念日です。NHKFM放送では、前日の1013日(祭日)、『今日は一日鉄道三昧』を放送予定。時間は、午後1時から午前1時までの12時間。リスナーのリクエストで、鉄道唱歌、オネゲルの『パシフィック231』を始め、鉄道効果音も聞けることでしょう。ソニーのテレコやアカイのオープンリールが今も活躍する前期・後期高齢リスナーにとって必聞です。