東京スカイツリーから見る鉄道

毎日、通勤で東京スカイツリーの足元を通っていますので、折角ならば、早めに上りたいと思い、東京スカイツリーの事前予約にインターネットでチャレンジしたところ、第八希望の6月30日土曜日午前8時30分に当選したので、東京スカイツリーに上ってきました。

通勤で、毎日見れるはずですが、着席通勤なので、押上あたりは、夢見心地で通過しています。建設途上も、できてからもじっくり見たことありませんでした。

今から、25年前、何の因果か浅草支店に勤務を命じられ、ここらあたりは、セールステリトリーでした。自転車でよく営業に廻ったものです。

当時は、コンクリート工場があり、東武鉄道のED5000形が出入りしていました。よく仕事をサボって眺めたものです。

当時は、まさかここにこんなものができるとは、思いもよりませんでした。

当日、地上350メートルの天望デッキまでは、ほとんど待たずに昇れました。ここまで、2500円です。(通常は、2000円)

さらに、先の地上450メートルの天望回廊を目指します。天望回廊の切符を買うのに約10分。追加で1000円かかります。

合計3500円かけて到達した地上450メートルからの鉄道です。


浅草~東京スカイツリー間 300系と通勤電車(東武の車両に詳しくないので、形式がわかりません。)

 

東京スカイツリー~曳舟間  スペーシア100系と6050系快速

字左が東武鉄道。右が京成電鉄です。京成電鉄の下を東武鉄道 亀戸線が走っています。

京成線は、京成曳舟付近高架工事中です。

 

業平橋(東京スカイツリー)の電留線 200系と300系と6050系快速

一度は、昇る価値はありますが、何度もは・・・

天望回廊へは、天望デッキでチケットを買う必要がありますので、待ち時間を気にされる方は、早めの時間に昇られたほうが良いと思います。

アメリカ鉄道のたび(その5)デュランゴシルバートン鉄道

デュランゴシルバートン鉄道はアニマス川沿いの渓谷を走る景色が人気で標高1984mのデュランゴから標高2836mのシルバートンまでの72.6kmの区間を3時間半かけて走ります。デュランゴはデンバーと同じコロラド州にあり、デンバー、フェニックス、ダラスからの飛行機便があって、比較的行きやすい場所にあります。このため、この鉄道の乗車をコースに入れている日本の一般ツアーもあり、恐らく日本でも一番知られた保存観光鉄道ではないでしょうか。この鉄道はシルバートンで発見された銀鉱のためのもので、1882年にデンバーまでの鉄道が開通しました。その後、鉱山の閉鎖とともに鉄道も一時期廃止されましたが、1940年代に銀に変わってウラン鉱石の精錬のために再開され、1960年代には国の歴史遺産に登録されたこともあって、観光鉄道に姿を変えて運行が続けられました。ある時期にはハリウッドがこの鉄道に目をつけ、いくつかの映画がここを舞台に作られました。「80日間世界一周」の映画も一部のシーンがここで撮られたそうです。

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伊予鉄での出会い

 いささか古い話で恐縮であるが、昨年末、趣味仲間と車で一畑、伊予鉄、琴電等を訪問したのでその中で伊予鉄との出会いについて報告したい。その時の最大の目的は一つには1963年、1964年にローレル賞を連続受賞した井の頭線3000系、京王線5000系の生き残りを並べて撮ること、もう一つは京都市電であった2000形を撮ることであった。

 2011年12月3日伯備線、4日一畑、琴電を撮影後、松山市内勝山町のホテルに投宿。道後温泉も行かずにホテル前で三脚を立てて市内線電車の夜間撮影を試みたが、結局元京都市電は現れなかった。翌日も早朝からねばってみたが、ラッシュアワーに重なったのか2003、2005、2006に出会うことができた。正面の前照灯が2灯から1灯となり、多少面構えが変わっていたが、全体の面影は残っており懐かしい感じがした。JTBキャンブックス「京都市電が走った街今昔」(沖中忠順著、福田静二編)によると京都市電2000形は1964、65年に6両が登場し、1両は保存、5両は伊予鉄市内線で旧番号のまま冷房化の上、活躍中とある。2003、2005、2006の京都時代の同番号の2000形はないものかとネガを探してみたが残念ながら全くなく、唯一、卒業前の1969年2月の雪の降る日に京都駅近くで後姿を撮った2002があったので掲載する。  

        2012.12.5 勝山町 2003↑

 

        2012.12.5 大手町2006↑

 

 1969.2.28 京都駅近くの烏丸通と思われるあたり2002↑

 

 元京王3000系、5000系の出会いであるが、当日の運行状況から大手町駅で離合することがわかったので光線状態を考えて同駅の松山市駅側に陣取る。時間になりやって来たのは横河原行きクハ3506(元井の頭線クハ3775)で高浜行き後部のクハ765(元京王線クハ5777⇒クハ5857)と並んだところをキャッチ。朝陽に輝く出会いはよかったが、朝の斜め光線は架線や電柱の影の処理が難しい。それに元京王5000系自身いつまで残るのか予断を許さない時期に入ってきたように思う。古い写真は1968年5月27日聖蹟桜ヶ丘を出て多摩川橋梁に向かう京王八王子~調布間の各駅停車デハ5107+クハ5857吊りかけ車で松の木の影になっている後ろの車両が伊予鉄クハ765になるクハ5857である。新しい写真は2008年11月16日井の頭公園駅に進入する急行運用に入ったクハ3775で現在の伊予鉄クハ3506である。伊予鉄の3000系は譲渡に際し、VVVF化されて井の頭線時代よりも性能のグレードアップ化がなされている。京王線と井の頭線は明大前駅で上下交差しているが、路線の生い立ちやゲージの違いによりお互いが同じ会社の車両でありながら顔を会わせることはない。もっとも井の頭線の1800、1700、1710、1400、1200等は改軌して京王線に転属していった時代がある。その一部も伊予鉄に譲渡されており、京王と伊予鉄は縁の深い関係がある。本年5月1日に彩流社という出版社から発行された「京王線、井の頭線昭和の記録」の編著者三好好三さんは井の頭線と京王線の接点という項目の中で伊予鉄の同じ線路を走る元京王3000系、5000系のことを「本家でも実現しなかった夢の競演である」と述べられている。譲渡車両の今昔を記録してみたが、同じ車両を対比することは大変興味深いものがあり、私のような老人ファンならではの楽しみである。

 2012.12.5 大手町横河原行きクハ3506と高浜行き後部クハ765↑

  1968.5.27 聖蹟桜ヶ丘~中河原 デハ5107+クハ5857↑

 

 

   2008.11.16 井の頭公園 3775先頭急行渋谷行き↓

本日の183系 185系

足利フラワーパークの藤の花も満開だそうです。毎年この連休に各地から臨時電車が運転されています。その中で平日にも運転されるのは少なく 上野8:04発の全車指定席の快速「足利藤まつり号」は5月1日2日も運転されましたので通勤途中で写してきました。
大宮所属のOM103編成183系6連です。

OM103 (クハ182-102 モハ182-1054 モハ183-1054 モハ182-1032 モハ183-1032 クハ183-1527)
きれいな国鉄標準色ですが上野界隈で見られるのはもうわずかでしょうか?(鴬谷にて)

次は上野1840発のホームライナー鴻巣3号 185系(157系色)OM08です。帰宅途中の鴬谷です。
明日からは特急「草津83,84号」に運用されますので昨日、本日と夕方の軽い運用に入っていました。本日夕方から雨が強くなり明日も雨予報ですが、その後は良い天気のようですのできれいな写真が期待されます。

大宮の185系はあと1編成クラシックカラーになるようですが、近いうちに別の系列に置き換えになるようで間もなく見納めになりそうです。また183系の波動用も置き換えられるようですので来年はもうこれらの写真は撮れそうにありません。
ほぼ毎日のように見ていた185系は何となく愛着があり残念です。

連接車9

今回はヨーロッパの路面タイプではない連接車とする。連接車については鉄道ピクトリアル789 2007年5月号にその特集が組まれているが、巻頭の説明では「連接車は車両同士の連結部分に台車を配置し、隣接する2つの車両を1つの台車で賄っている車両である」と書かれている。ところが、その特集記事の中で専門家は上記定義に当てはまらないものと断って最近普及しているLRVを広義の連接車として説明している。広島電鉄5000形のようなLRVはヨーロッパ各都市では以前から多く見られるが、このような5車体3台車の車両では台車のない車両は隣の車両が吊っている様である。この連接車特集号では日本のLRVの写真がどんどん紹介されているし、旧東ドイツでは2車体2台車もある。連接車の定義、範囲はよくわからなくなった。ということで連接車最終回は標準型で有名な車両を選んでみた。

最初はイタリアの元TEE「セッテベロ」ETR300で小田急NSE等に影響を与えたといわれる車両。1952年生というから恐れ入るが実に思い切ったデザインの車両である。2車体3台車の間に3車体4台車の中間車を挟む7両編成。2000年5月5日ミラノ~ボローニャ間にあるFidenzaでの撮影。

 

これも有名なフランスのTGV。8車体9台車の中間車に両端はボギー式で10両で1編成。2005年8月7日南仏Antheorの高級別荘地から撮影。パリリヨンとニース方向を結ぶ上下列車。↓        

     

 

1997年8月17日ベルギーのローゼンタール~アントワープ間のKijkuit付近で撮影のタリス。アムステルダム発ブラッセル行きで両端動力車中間8車体9台車はTGVと基本的に同じ考え。↓

          

ユーロスターも連接台車を採用しているが、動力車と客車間、編成中央の客車間は非連接で4分割可は海底トンネル内での異常時対応。1997年8月20日ベルギーのフランス国境に近いMonsで撮影したブラッセル発ロンドンウォータールー行き。↓

 

最後はスペインのタルゴ。2000年5月7日スイスチューリッヒ郊外のMurgenthal~Rothrist間を行くRE/44に牽引されるバルセロナ発チューリッヒ行きEN273列車。客車間の台車が1軸であるのが特徴で標準型の変わり種。↓

         以上で連接車9回の連載を終わる。

 

連接車(ミラノにて)

準特急様の連接車の連載、さすが見事な写真を毎回楽しませていただきました。「個人的には車両と車両の間に台車が丸見えの古いタイプが好きです」とのコメントで思い出したのがイタリアのミラノの路面電車でした。2009年6月の撮影です。ツアーの間のわずかな時間で写した写真ですがご覧ください。

2車体連接車です。こちらは扉の無い側面になります。

先ほどの写真のほぼ同じ車両の扉のある側面です。ドゥオモの屋上展望台からの写真です。

色違いの2車体連接車です。

これはみごとな3車体連接車です。進行方向は右です。
左の奥に新型車が見えます。
ミラノ市内には連接車や新型車のほかに「ベントット」とよばれる1928年から製造された古典的な電車が多く走っています。

ミラノの街並みを行く「ベントット」

右側通行ですのでこちら側に扉がありません。ミラノのスカラ座の前にて。

扉のある側面です。こちらの色はリバイバルカラーだそうです。ミラノ中央駅近くにて

標準色です。一番上の写真と同じ場所です。緑がきれいでした。

以上 イタリアのミラノの連接車と古風な路面電車の紹介でした。

ムスカウ森林鉄道訪問記

初めて投稿させていただきます。諸先輩方の投稿、毎日楽しみにしており、私も何か投稿したいと思っていたのですが、皆様方のレベルの高い内容に見合うものがなく、月日が経ってしまいました。今年3月で退職し、自由な時間もでき、6月終わりから7月にかけて8日間、ドイツの旧東ドイツザクセン地方の狭軌SL鉄道を訪問してきましたので、恥ずかしながら思い切って記事にしてみました。今回の旅行の一番の目的はムスカウ森林鉄道(以下WEMと略)を訪問することで、まずはこれから紹介させていただこうと思います。
ドレスデンから東に2時間余り行ったヴァイスヴァッサーという町から、ポーランドとの国境にあるバドムスカウと、クロムラウという町への2系統の路線があり、観光路線として今年の場合、422~103日までの間、週末の土日、78月には加えて木金曜日にも運転され、その中で主に月初めの土日だけがSLの運転日、それ以外はDLの運転となります。SLが見られるのは特別のイベント日を含め今年は18日間のみの運転となります。7月は23日の土日に運転されこれに合わせて訪問したわけです。

WEM600mmゲージで、ヴァイスヴァッサー周辺に点在する工場に資材を運ぶため、1895年に設立されました。19783月に廃止され、車両は売却、線路も撤去されましたが、1984年に愛好家が保存に乗り出し、まず、ヴァイスヴァッサー付近の300mの線路を使い、ディーゼル機関車による運行を始めました。その後、徐々に路線を延長、1995年のWEM百周年にヴァイスヴァッサーとバドムスカウの間を復活、さらに静態保存されていた1918年製99-3317号を復元し観光路線として再開しました。その後、1998年に1912年製99-3312号を加え、現在は、この2台のSLと数台(3台?)のディーゼル機関車が運行され、さらに2台のSLが保存されています。

私がここを知ったのは今から34年前のこと、勤めていた硝子会社から硝子製造機械のプラント建設で当時東ドイツであったヴァイスヴァッサーに行った時のことでした。ホテルはバドムスカウにあり、工場への行き帰りの車の中から、並行する線路に小さなSLが走っているのを見つけたのです。当時は共産党政権下で、ポーランドとの国境に近いこのあたりでは、我々資本主義者はいつも当局の監視のもとにあって、とても写真を撮れる環境ではありませんでした。2か月余りの滞在の後帰国しましたが、どうもその後もこの小さなSLの存在が気になっていました。それから20数年後、何がきっかけだったのかは忘れましたが、ウェブサイトでこの鉄道のHPを発見、それ以来何とか機会を見ては訪問したいと思いながら、やっと今回その夢が果たせました。

訪れた73日はあいにくの雨、日本の猛暑が恋しくなるような肌寒い天気でした。駅から10分ほどのところにあるWEMの駅は発車の20分前なのに人影はまばらです。雨のせいかと思っていると、駐車場にバスが入ってきてぞろぞろ人が降りてきて、10:00発のバドムスカウ行きは30人くらいが乗りこみました。

ヴァイスヴァッサーで発車を待つ99-3312号

ク繝・?ラウ行き99-3317

 

途中5つの駅に停まりますが、乗り降りする人は無く、森の中を走り、35分で終点のバドムスカウに到着。ここは周りに何もなく、水を補給して機廻しし、10分ほどで出発します。ここから歩いて20分位のところに、世界遺産の城がありますが、雨も激しくなり、全員がそのまま乗車したようです。この後も雨は止まず、めげてしまって沿線からの撮影はあきらめ、駅付近で発車の様子を撮るだけになってしまいました。

バドムスカウ終点

バドムスカウで水の補給する99-3312号

二便、三便のバドムスカウ行き、クロムラウ行きはほとんど乗る人がなく、この鉄道は、ボランティアによって運営されているので、採算は関係ないのかもしれませんが、100年前の車両が現役で走るという貴重なものなのに少しさびしい気がしました。

このほかこの時のドイツ旅行ではチタウ狭軌鉄道、フィヒテルベルグ鉄道を訪問、その後1011日から20日までドイツを再訪、ハルツ狭軌鉄道、モリー鉄道などを訪れました。また、機会があれば発表させていただきたいと思います。

阪神ジェット・カー、御影-石屋川間高架上

 前回に続き、5100系、5200系です。デジタル青信号の投稿ついでに、保存の阪神フォルダ内を見ていたら、新しい発見がありました。
 1962.3.25撮影、
御影駅西方、石屋川駅まで続いている留置線、施設完成前の高架上です。 また、このフィルムは、ビネガーシンドロームなど、全く影響がない正常な状態のFuji Neopan ss safty  です。たくさんのビネガーシンドローム被害のフィルムの中に、こんなのがあるから、いよいよもってビネガーシンドロームが解らなくなります。 1. 5100系、5101 、石屋川駅寄り

 関係者でもない私が、どのようにしてこの地点に行ったか覚えていません。昨今では撮影不可能な位置です。当時とは言え、まさかホーム端から歩いたとは思えず、高架下の昇降階段から昇ったのではないかと思われます。また、この場所も阪神大震災では大きな被害を受けました。

 

 

2.  52005214他、石屋川-御影駅の中間辺り

 3.  5200系5212他、御影駅近く

高崎駅周辺が騒がしい

KAWANAKAです。

久し振りに投稿します。高尚な記事を持ち合わせていませんが、現住所が大阪、税金は千葉県に納めている関係上、両方に少しづつジャブを入れています。

高崎辺りが騒がしいとコメントが出ていましたので参加します。

23日の用事を済ませて東下りしたのですが、家内が高崎にいる愚息夫婦+孫に会うので付き合えという。仕方がないので折角の休日、高崎(実際は新前橋)の愚息宅へお邪魔することになった。

家内を家に残し、愚息の車で折角来たのだからC58位見せろ!ということで孫を家に放ったらかしで出ました。愚息の運転でとにかく線路脇に行け、いうことで、まず1枚。詰まらん拙写でC58というのがわからん。

 

場所は残念ながら車で移動のため見当がつきません。記録を見ると11:49の時刻がありますので大体は分かります。名古屋からの同業者が1人だけ居て、ススキが伸びすぎているからとハサミでチョキチョキキ切ってごらんのようになりました。最近は脚立を持って大汗かいている御仁が増えているが、はさみはなるほどと感心した次第。

水上では物凄い人。近寄ることもできず、駅の反対側に回って、今度は転車台で回るC58とD51を。ついでに秋の雰囲気と言うことでススキを入れた写真を。人が多くて小生の腕ではこの位しか撮れませんでしたが・・。

 

その後、新前橋の家に戻り、孫の相手をして飽きたころ、帰ってくるD51+C58を撮って終わりとしました。今度はC58というのが分かりますね。

ま、じいじの役は不完全かも知れんが果たして、煙のにおいも嗅げたし良かったと言うべきでしょう。そのほかの戦果もクローバー会のメンバーが補足しているので良いとしましょう。

翌日は帰る前に、今度はC61+D51というので、迂回のカシオペアをキャッチしたから帰阪した。C61は元祖青信号を飾っているので拙写は省略。また、お別れの113系も行きたかったのですが、佐倉にいた関係でゲップが出るほど下手な写真を撮ったので自分を慰めることとします(機会を見て、追悼の平常拙写を投稿します)

また、突然出没しますのでよろしく。

追憶の旅(その4)

防府で泊まった翌朝は 徳山に向かう。途中 富海、戸田あたりの海岸線はかつて大型蒸機の撮影ポイントだったところだが、糸崎ー尾道間と同様 海岸の景色はあまり変わっていないように思えた。徳山で岩徳線に乗り換える。キハ40の単行である。乗客14人で発車、櫛ケ浜から岩徳線に入る。海岸を走る山陽線が艦砲射撃で不通になったときのバイパスとして作られたと聞いたことがあるが、そのため線路規格は幹線並み、途中の交換駅もDC1両には不似合いな長いホームや有効長がある。それ以外には特徴の少ないローカル線であった。意外だったのは 乗降客が多いことで、確かに高校生(もう夏休みに入っていたのでクラブ活動?)が多かったが、岩国に近づくほど乗客は増えて立っている人もいたほどだった。私以外に徳山から乗り通した人(鉄ちゃんではない)がいたのも驚き。西岩国で下車。西岩国の駅舎は昭和4年に建てられた洋風のしゃれた駅舎なので 錦川鉄道に乗り換えるのはこの駅と決めていた。乗り換えまでの12分ほどのあいだに 駅前に停まったバスが動いてくれず 駅舎だけの写真を撮り損ねたが これも時代の記録と思ってパチリ。駅正面玄関上や窓の上のアーチは錦帯橋をイメージしたデザインである。バスは各地で増えている コミュニティーの巡回バスである。無人駅のため広いコンコースは殺風景だが、非常に良い雰囲気の駅だった。立派な跨線橋を渡って 錦川鉄道に乗り換える。

やってきたのはNT3002 ひだまり号だった。錦川鉄道はかつての国鉄岩日線で錦川に沿って北上し 錦町まで約1時間の旅である。営業上の起点は岩徳線川西駅だが、実際の分岐点は川西駅から1.9Km先の森ケ原信号場である。信号場と言っても遠隔操作のポイントがあるだけで 詰所も何もない。

このトンネルを抜けると森ケ原信号場。場内信号機左上が岩徳線で赤、右下が錦川鉄道で青を現示している。

森ケ原信号場

 

この信号場を過ぎて 最初の駅が御庄(みしょう)である。車内では「山陽新幹線はお乗換え」とアナウンスはあるが 乗り換える人などいない。駅名が新岩国ではなく御庄であるように 全く別の駅である。無人駅で ホームにはヨ8000の車体が待合室になっている。駅の少し岩国寄りに新幹線の軌道基地に入ってゆく引込線が残っているが、途中 レールは撤去されて使われていない。

あとはただただ錦川を左手に見ながら川を遡ってゆくのみ。眺めの良い個所では徐行し、景色をお楽しみくださいとアナウンスがある。観光客には良いかもしれないが、いつも乗ってる地元の人にはありがた迷惑かも。ほぼ中間点の北河内で岩国行きと交換し 錦町へひた走る。

殆どこのような景色が続く。なぜか線路際に電柱がなく、非常にすっきりしている。錆止め色に塗られた線路際の柵が細いレールで作られているのが気になった。森林鉄道は無かったはずなので、岩日線建設当時のトロッコのレールか?

 

終点錦町から先にもトンネルや路盤は続いていて、「とことこトレイン」なるバッテリーカーというか遊園地のこども列車のような乗り物が雙津峡(そうづきょう)温泉まで運行されていて 観光客はほとんどそれに乗り換えるが、私はトロッコもどきに興味はないので 8分後に折り返し発車する岩国行きを撮るべく 錦川鉄橋まで駆け足で戻る。

 

錦川鉄道には現在NT3000型の4両しかなく このピンク色は桜をイメージした3002 ひだまり号、青はアユやヤマメをイメージしたせせらぎ号3001、薄みどりがカワセミをイメージしたこもれび号3003、黄色が蛍をイメージしたきらめき号3004で 殆んど単行で運用されている。

駅か駅前に食堂か店屋ぐらいあるだろうと何も食べ物を持たずに行ったのが間違いで、かつて営業していたであろう食堂や店屋はあっても 駅の売店にパンもなく 仕方なく少し離れた錦町の集落まで歩く。幸い農協が開いていて弁当を手に入れられたが 余計な時間を費やし 次の列車も同じ鉄橋で撮るハメになってしまった。今度は青い3001がやってきた。

錦川鉄道の本社や車庫はここ錦町にあり、この日は3003と3004は車庫で休んでいた。これらも撮影して全車両を撮り終えて満足。岩国行きの発車まで駅で時間つぶしするが、駅の売店のおばさんが 弁当もパンもなくてゴメンとリンゴをむいてくれたのには恐縮してしまった。お礼に錦川鉄道の絵はがきを買う。

 

40Km弱の路線に4両のDC,全駅無人、保線も含め何人で運営されているのか聞きそびれたが、発車までの時間 若い運転士が洗車を始めた。ワンマン運転のため車内アナウンスなどは当たり前の仕事だろうが、このような弱小鉄道ではひとりで何役もこなしているのだろう、鉄道が好きでないと務まらないだろうと思いながら 若い運転士が頼もしく見えた。

岩徳線や錦川鉄道は初めての訪問で、追憶の旅ではなかったのですが、一応鉄道マニアとしての旅はここまでで、岩国から大畠経由周防大島に渡って 4日目は島の旅でしめくくることになります。

2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part18 上海の路面電車 上海トランスロール(現代有軌電車)

第15日目 3月8日

①成都17:15(D358次)→8:50上海虹橋
②火車虹橋駅9:53(上海地铁10号線)→10:33豫園
③豫園11:55→南京東路(2号線)→12:25張江高科
④張江地铁駅12:55(路面電車)→13:25張東路金春路
⑤張東路金春路駅(原動自転車タクシー)→14:10張江地铁駅
⑥張江高科14:28(2号線)→15:11浦東国際空港
⑦上海浦東空港17:50(JL898)→20:55関西空港

上海は昨年11月以来、4ヶ月ぶりです。トランスロール撮影前に豫園で小籠包を食べたいと前回は未開通だった10号線に乗車して向かいました。やはり長蛇の列でしたが、美味しいものを食べるのには苦になりません。デイト中の若者と話しながら順番を待ちました。


▲ 蟹肉小籠包16個で20元(約390円)、朝兼昼食です。
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2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part16 成都地鉄1号線全線乗車

第14日目 3月7日

①鉄路北駅11:09(地铁)→11:12升仙湖11:23→12:00世紀城
②世紀城12:17(地铁)→12:29鉄路南駅12:54→13:07天府广場
③天府广場(地铁)→13:55鉄路北駅
④成都17:15(D358)→8:50上海虹桥

今日は、CRH1Eに乗車して成都を去り上海へと向かいます。発車は17:15と十分時間がありましたので、ゆっくりと帰り仕度をして、まだ全線乗車をしていない成都地铁に乗ろうと出かけました。地上走行区間があれば撮影するつもりです。

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山陽電鉄道路併用軌道追加

 豚か猪かそういう類の動物はおだてられると木に登ると聞いたことがありますが、TSURUKAME先輩からお前の撮ったのも投稿せいと言われ、恥ずかしながらコメントで書いた住友生命をバックにした、人がうろついている古い写真を掲載します。何れも1966年7月27日の撮影で電鉄兵庫駅付近と思われます。

1966.07.27 822急行

 3両目は更新車、所謂偽新車と思われますが、よくわかりません。

 

1966.07.27 後270の各駅停車

画面が見づらくて恐縮です。右に女子高生、左に神戸のお兄さんと買い物のおばあさんが写っています。路面電車の風景ですね。

 

1966.07.27 3002急行

右の建物が住友生命。因みに今でも保険は住友生命に入っております。この頃、山陽の3000系は南海の6001系、7001系と同じようなシールドビーム2個のライトでそれが離れている豚鼻。関係者や好きな人が居たら申し訳ありませんが、好きになれませんでした。しかし、アルミ合金の電車は数少なく、高級な車両に見えました。

毎度の弁解になりますが、フィルム保存が悪く、スキャン等の技術力が無いので恥ずかしい写真で、申し訳ありません。米手作市さんがおっしゃられるようにこの時は全くのついでの写真で、感激はありませんでしたが、後にその車両や風景がえらい貴重になることもあるようです。国鉄で言えば103、113系、キハ58系等は撮る対象ではなく、単なる移動車両でした。それが、なくなる頃になると新製時からの度重なる改造等で変化に富み、昔の旧型国電を追っかける気分になっていることに気づきます。さらに今、反省していることは車両以外に駅舎や人物や車等ももっと入れておけばよかったと言うことです。デジカメ時代なのでコンデジを含めて乱写しておくのも後々撮っといてよかったと言うことになると思います。失礼しました。

厳寒の中国蒸機撮影速報

 最近、海外の蒸機ファンに脚光を浴びている新彊ウイグル自治区三道嶺の運炭鉄道を訪問したので報告する。今回は中国通第一人者のぶんしゅう旅日記さんに引っ張られる形で現地入りした。途中から小生の友人2名も加わり、賑やかで楽しい撮影となった。ここは撫順と同様に露天掘りがあり、そのスケールの大きい眺めは誠に素晴らしく、さらに遠くには天山山脈も横たわり、久々に爽快な撮影ができた。その一部を紹介するが、詳細は2月28日朝、氷点下17度のウルムチのホテルで別れ、49時間の連続夜行(但し日本の一等寝台に当たる軟臥車)で成都へ向ったぶんしゅう旅日記さんにお願いする。

2011.02.25 久し振りに見た晴天快走の蒸機走行風景 83682011.02.25 天山山脈をバックに8314

2011.02.26 露天掘りを登る姿 ここでもバックに薄っすらと天山山脈が見える

2011.02.26 建設型8314のサイドビュー

 

                       2011.02.26 夕陽の築堤を行く

 

大連に行ってきました。

先週の金曜日から日曜日にかけて、会社の旅行で大連に行ってきました。

土曜日一日自由行動の時間がありましたので、午前中は、満鉄本社とアジア号。午後は、バス約一時間かけて旅順まで行き、「坂の上の雲」で話題の二百三高地や水師営などを見学した後、一日二往復しかない列車で、二時間弱かけて戻ってきました。

朝一番に、宿泊したフラマホテルから歩いて10分ほどの旧満鉄本社にある満鉄の資料館へ。事前に調べたところ、無休とのことでしたがカギがかかっており開いていません。棟続き隣に行っても、手で追っ払われる始末。そうこうしている内、駄目もとでガイドブックに書かれていたところに電話をしたところ、日本語のできる方が出て、やっとカギを開けてくれました。ひとり入場料として50元払って入場。中では、日本語がとても上手なガイドさんが付っきりで、満鉄の歴史をガイドしてくれました。

展示物がある部屋は、撮影禁止でしたが、総裁室は撮影可能でした。

そののち、金庫や会議室を見学。満鉄のグッズがあるみやげ物販売コーナーへ。

残念ながら、どれもなかなかのお値段で手が出せませんでした。一つだけ満鉄のマークが入った帽子掛けを3000円で購入しました。

旧満鉄本社を後にして、タクシー(8元)で勝利橋をわたり、パシナが保存されている鉄路錫炉安装工程公司へ。

アーチをくぐった先の扇形庫の中に、お目当てのパシナが居ます。ここもカギがかかっており、カギを開けて見学させてもらうのに50元かかります。カギを開けるだけで何の案内もなく、50元もとられます。きっと、ここの人たちのこずかいとなっているのでしょう。それにしても高いです。

雨の当たらない庫に入っていますが、撮影に不向きです。なんとか前面だけは、撮影できました。

運転台にも上れますが、やはり日本のSLと比べると一回りも二回りも大きい感じです。

感動のパシナの見学ののち、再びタクシー(8元)で、大連駅に出て、バス(7元)で旅順に・・・駅前で交渉して、戦跡めぐりのタクシーをチャーター約3時間で100元です。

最後は、中国で現存する最古駅舎といわれる旅順駅に車をつけてもらい、大連から来る快速 K7329次の到着を待ちます。定刻は、旅順着15:58ですが、少し遅れて到着しました。

到着後、機回しして、旅順発16:25 大連着18:14の普快6332次となります。編成は、前から6両硬臥+1両軟臥+6両硬座+1両行李車の14両編成です。長距離列車の間合い運用のようで、旅順~大連に関係ないようなサボがつけられていました。   旅順大連間の硬座は、4.5元で、硬臥や軟臥には、乗車できないようでした。車内では、地元民がトランプ賭博をやっており、さながらギャンブルカー状態でした。

定刻に、大連に到着。隣には、和諧と書かれたHX30680という電気機関車に牽引された快速 ウルムチ行が停車していました。

いつか、機会があったら乗ってみたいものです。

墓参りに行って来ました

 当掲示板に近頃、「高野山」の話題がたくさん見受けられます。米手作市さんが旧婚旅行に出かけたり、乙訓の老人が『関西の電車巡察』で巡ったり、はたまた青信号特派員さんによる「厠」の話などなど・・・。遅ればせじと「元祖高野山 」も墓参りに行って来ました。例年5月の中旬、寺の特別天然記念物・石楠花(シャクナゲ)が満開となる頃に出かけるのですが、本年は叶わず、延びに延びて、とうとう11月28日(日)になってしまいました。秋の高野山1day チケット最終日の3日前でした。買っておいた代金3,000円券を払い戻すと、何もせずに500円失うのが勿体なくて、重い腰を上げました。
 先週と違って、この日は曇り空、肌寒い日でした。阪急塚口を午前6時23分、快速急行にて出発。地下鉄を乗り継ぎ、難波発7時12分橋本行きに乗車。車両は6000系。車齢40年を越えた車両とか。いかにも重そうで、幅広の片開き扉だが、開閉は比較的にスムーズに見えました。橋本着8時2分。
  8時6分発に乗り替え、44分極楽橋着、ケーブルで54分高野山着。山上バスで今日は真っすぐに奥の院バス停へ。高野槇を500円で買い、裏参道を急ぐ。公園墓付近を左に折れ参道に入る。丁度芭蕉碑の前である。折りたたみ式手桶に水を汲み、そこから100mほどの墓に参る。参道右手、加賀前田家、伊勢藤堂家を通り過ぎて間もなく、参道の右手。小さな空き地と、美濃加納城主松平家墓所と書かれた、白い角柱標識に接して左が鶴家の墓。参道から3~4mの距離ですので、すぐに判ります。奥の院にお越しの節はどうぞお参りください。但し、『鶴』は『靍』と彫刻されています。苔がこびり付き少し見難いです。墓は明治36年(1903)の建立です。「日暮れに握手、日と英」と習い憶えた1902年の日英同盟の翌年になります。この頃神戸で羽振りの良かった曾祖父が建てたとか。南海高野線が全通80周年ですので、それより27年古いことになります。ご先祖様はどのような交通手段で登山されたのでしょうか。
 ご先祖には申し訳ないが、この日は菩提寺・金剛三昧院に立ち寄らずにまっすぐにバスで高野山駅へ戻ります。10時40分発ケーブルで山を下りました。ケーブルカーは確か3代目の車両。2代目にも乗ったと思うが記憶は不確か。ケーブルカーから見えた向かいの山は紅葉していました。山上は時季外れで樹木はすっかり葉が落ち、枯れ木になって風情無しでした。

 下は、先ほど山に登る時に撮影しておいた勾配標識ですが、最急と最緩の勾配標識を見落としました。南海電鉄のホームページによると、最急は562.8‰、斜度29度22分、最緩は273.9‰、同15度19分とか。同じ事を考える人もいるもので、乙訓の老人も8年ほど前に乗った時、順番に撮影したそうです。

 下は、2008年6月、新緑の頃、下りのケーブルカーです。緑豊かでした。これに反して今回は時季外れで、もの足りません。来年は、やはり石楠花が満開の頃に行くことにします。 

 極楽橋に着くと、11時26分発のこうや4号(11000系)が停車中。私は向こう側の快速急行に乗車です。まもなく下りこうや5号 (この日は30000系)が到着するので、その時には2編成が揃うことになります。

2編成が揃った2008年の時です。時刻は13時30分前後だと記憶します。向う側には乗車する2300系が見えました。

快速急行難波行きで10時49分に出発。途中紀伊細川で下り「天空1号」と交換。今日は土・休日ダイヤで運行です。今日の私の第2の目的は、天空の撮影です。

  上古沢で下りこうや5号と交換。11時21分紀伊清水で下車。天空を撮影すべく、紀の川鉄橋付近まで歩くことにしました。鉄橋のこちら側に大きなカーブがあり、内側が畑で障害物が無く、良い撮影地であり、かねてから一度出かけてみたいと思っていた場所です。約2km歩いて目的場所に到着しました。上り天空2号まで30分近くあります。
 乙訓の老人が、「らくさい便り」で『天空の名前の由来についてtsurukame さんの解説を待とう』とかありましたが、墓があるだけで高野山密教を知る訳ではありませんので、解説できませんが、南海電車のHPで「天空」に関して曰く、『弘法大師「空海」が開いた世界遺産・高野山は、標高約900mに位置し、周りを奥深い山々に囲まれたその街並みは、まさに天空都市の趣です。列車の愛称は、その高野山が醸し出す印象に由来します』とあるから、その辺りではないでしょうか。チベットや中国の3~4,000mの高地で、天と空が迫ったような場所や都市には、よく「天空」なる表現を使うようです。高野山はそれほどの髙地ではありませんが。なお余談ながら、「天空のシンフォニア」なるパチンコ台があるとか。
 間もなく「天空2号」が下ってきました。オープンデッキ設置とかで、橋本寄りのドアが開いています。外観上、少し違和感が残りました。左手方向に紀ノ川を渡って橋本駅へ、後方が紀伊清水駅。正面の山々は和泉山脈。

 撮影場所を、先ほどより300m程離れた紀ノ川鉄橋の袂に移動しました。列車間隔は30本近くに1本ですが、上下ともなれば、結構頻繁に列車に巡り会いました。高野下駅折り返しの上り2300系が通過。橋本駅に向かう

そして、上り「こうや6号」です。12月からは、橋本発となり、冬季の山登り・下りはお休みの列車です。

 最後に、お目当ての「下り天空3号」です。日曜午後ですが、乗車率は高いように見えました。人気の電車なのでしょうか。次回、墓参りは来年5月中旬に戻します。その時の撮影は、大変ですが中古沢の鉄橋にしようかと思います。

鉄道スケッチ

重い腰を起こして漸く青信号に投稿しようという気になりました。 先輩諸先生や同期のF氏のような奥深い記事、K氏のような外国の紀行は書けませんが、幼い頃に鉄道に憧れたそんなプロモートが出来たら、ええやないかと思うに至り、またやはりJ氏の尻叩きもあって、拙写を披露するところから始めることになりました。 ヨロシク!! 暫くは、鉄道の季節を追っていきます。1年くらいはクオータリー+臨時便を出して行き、その後、色々書いていこうと考えています。 なに、大した学術的なものは一切ありませんから、適当にあしらって頂いて結構と思います。 さて、もう季節は冬に突入ですが、ちょうど秋が終わったので秋からの風景。目的も無く、思いつきで感じた写真を投稿します。 本格的に秋が深まるころ、同期のJ氏に声を掛けました。小生は長らく関東に勤務していて、関西は浦島亀太郎状態であったので、何年ぶりかに加太に行きまへんかと。30年いやもっと経っています。どないなっているやろうかと訪れた写真です。 すでに加太は無人駅で野猿の天下。駅の横になっている柿を食べてホームを我が物に歩く様子に驚きました。あの築堤にも猿の姿が・・・。 この写真は、昔よく通った場所から少し高い禁断の場所から捕ったものです。

休みの日にふと、同期のM氏の大和川での阪堺電車の写真を思い出し俄かにどないなっているか見に行きたくなりました。その写真とは40年前のものですので、60前後の人は見たことがあるかもしれません。すでに高速道路の橋が架かっていて往年の風景はありませんでしたが、空が高く、秋やなあ!という天気に恵まれました。歩くのが面倒くさいので、橋のたもとで、空を撮ってみました。

住吉さんへ戻ってみました。ちょうど神輿が練り歩いていました。そんな日本の風景を境内からスナップしました。 メタボになって膝が弱っているのでタイコ橋からの撮影は怖かったですが、神輿の向うにちょうど電車がきました。そんなこととは関係なしに神輿は通過していきます。

秋は抜けるような青空が魅力です。仕事で帰ったときについでに寄りました。 1つめは、ひたちなか海浜鉄道。田んぼの中にある中根駅辺りの風景です。 何?国鉄色ではない?ま、あまり気にしない、きにしない。次の那珂湊には、「たま」ほどではなけど、駅員のねこがいます。そのおさむ君に餌をやって家路につきました。 北関東で天気が良いときは、赤城山がよく見えます。上毛電鉄の赤城山は有名ですが、JRだって裏赤城?が見えます。 快晴の中を115系が走ってきました。 *赤城山と思いますが・・・。違えばばゴメンです。 せっかくここまで来たのですから、吾妻線に行かねばなりません。ちょうどダムの建設場所辺りが川原湯温泉です。車中のおばさんは、この温泉も客が減ったねえ、と言っていました。その近所、渓谷を見下ろす鉄橋に来ました。日本最短のトンネルのあるところにはあと2kmくらいのところです。おりしも湘南色の185系がくるので、写真を撮っていた観光客にお「どうせ撮るなら電車もどうですか}と一緒に撮りました。ちょうど一陣の風が吹いて山間で残り少ない紅葉を散らせて行きます。

関西は秋がもう少し長いようです。 またまた休みの日に。能勢電鉄を訪れました。1時間ほどで大阪に仕事で戻ってきましたが、4連でワンマンなのですね。びっくりです。光風台から坂を上って見ましたが、季節を感じさせるものはkの黄色い花くらいです。あとはポジションがあいません。まあ、これでも秋かな、と1枚撮りました。

さて、小生の自宅は、東海道線、トレインビューの場所に ありますが、実は関東勤務の時に無理して購入した自宅が佐倉にあります。写真は今年(ということにしたかったのですが)ではなく1年前ですが載せます。我が家は丘の上にあり、総武線と成田線の分岐近くにあります。そのためにバラエティーには富みませんが、やはりある意味でトレインビューです。佐倉は朝霧が多いのですが、ちょうど通勤時、霧が上がりかけた中を今はなき初代成田エキスプレスが成田からの客を運んで来ました。乗客はまだ寝ているかも。霧が明けたら晴天です。手持ちのエクスリムで来た瞬間をスナップしました。

こちらは東海道の秋。自宅は線路脇なので、いつでもふらりと出かけることができます。このときも天気が良かったので、JRと阪急を撮りにチャリンコで出ました。ススキがきれいです。

まもなく、ススキの季節が終わり白い冬になります。 冬も鉄道はいろんな表情を見せてくれます。 そんな、景色を拙写ではありますが、お届けしたいと思います。

北の大地へ2010年初夏編 Part7 釧網線

第8日目 2010年7月1日
① 釧路9:05(快速「しれとこ」3728D)→9:36塘路
② 塘路9:36(4725D)→10:07釧路

今日も雨です。さすが湿地帯が近い街だけあります。総本家さんは部屋で洗濯をしたのに靴下が乾いていないと嘆いていましたので、「備え付けのドライヤーを使うと速乾しますよ」とアドバイスを送ったら早速実施していました。昨日の雨の中を草むらに入っての撮影でしたので、ぐしょぐしょになった靴もついでにやってますが、これは長期戦になります。出発する前に長靴があった方が便利ですよと購入を薦めたのですが、必要ならと買わずじまいでした。もう我慢できずホームセンターに寄って欲しいと、ロケハン乗車後に行くことにしました。私も前回同じく痛い目にあいましたので、既に現地購入済みで活躍中です。由良川・厚別川の水の中や、晴天でも雑草生い茂る中での撮影に大変役に立ちました。皆様も是非に購入をお薦めします。
ホテルの美味しい無料朝食をたっぷりと食べてから、車をホテルの駐車場に預けて釧路駅に向かいました。

▲ 快速「しれとこ」は、釧路運輸車両所管轄でヘッドマークがついていました。一方、釧路~根室間を走る花咲線運輸営業所管轄の快速「のさっぷ」「はなさき」はヘッドマイクがついていませんでした。同じ釧路駅発着なのになぜなんでしょうね。 

釧網線は、ラムサール条約にも登録された「釧路湿原国立公園」の特別地域内を走行します。トロッコ列車も運行されていますが、展望には降りて高台に登らなければ壮大な湿原を見る事ができません。鉄道撮影も同様で、約40年前は今のような観光客向けの見晴らし台まで整備されていなかったので探して登りましたが、無数の蚊の大群に襲われ、堪らず退散した苦い経験がありました。

撮影はいずれも1969年(昭和44年)9月1日、細岡駅です。今は、山小屋風のかわいい駅舎待合室に変わり1面1線の単なるローカル駅になってしまいましたが、当時は相対式2面2線で頻繁に列車交換が行われていました。3両・5両編成また混合列車をC58が牽引していました。長編成はC58重連でした。



▲ 貨物列車はDE10牽引になっていました。DC急行もあり、変化に富んでいました。

▲ この日も霧がたちこめていました。その後も数回行きましたが、晴天は一度もありませんでした。

▲ 昭和44年の道内時刻表からの釧網線時刻表です。

時間の関係で塘路までの往復乗車ロケハンでしたが、復路の列車は塘路で交換します。時刻表では同時刻発車で交換する列車への乗車が、可能かどうか分りません。釧路駅のみどりの窓口のお姉さんに聞いてみましたが、答えられないとの返事です。別の駅員さんに聞くと、相対式2面2線でのスロープ横断式通路までは分りました。乗車前に総本家さんが運転手に聞きに行ってくれましたが、ハッキリと分かりません。しばらくして、私から2度目の確認に行くと、先ほどもお聞きしましたので早めに着くようにしていますが、鹿が出てきた時は諦めてくださいとの事でした。どうやら鹿出没に備えて、予め余裕を加味した運転時間をひいているようです。総本家さんの問い合わせも効いたようです。

▲ 根室本線厚岸~根室間と違って、湿地を避けるようにカーブが多い遠矢~塘路間です

乗車後幸いにして急ブレーキ発生はなく塘路に発車時刻前に余裕の到着でしたが、復路列車は既に着いています。大急ぎでスロープ通路を横断して乗りましたがヒヤヒヤものでした。ついでながら、釧網線も鹿出没は日常的で、昨日は2頭が天国行きになったと言っておられました。


11:45
釧路に戻りホームセンターに寄ってから再び塘路駅に着きました。観光バスが駅前に数台います。丁度釧路からの「釧路湿原ノロッコ2号」が到着した直後で、団体観光客がバスへ乗換えていました。11:58、川湯温泉行きの4730Dが発車後、折り返しのトロッコは「釧路湿原ノロッコ1号」となって12:07釧路に戻っていきました。


撮影地ですが、霧が幾分晴れてきたとはいえすっきりとした写真は期待できません。でも折角来たからと、通称二本松と言われるポイントを目指しました。サルボ展望台方面へ向かい、途中で左折して久著呂(くったろ)道路の砂利道を走りますが、右折する道が見つかりません。

冬場なら枯れ木となっているので容易に見つかると思いますが、夏場はこれでもかと緑一色です。先まで行ってしまったようで、Uターンして再度見直し、多分ここだろうと思われる道を見つけましたが、左折しようにも大きな水溜りが行く手を阻みます。総本家さんが降りて、長靴で深さを調べてくれますが走行は難しいそうです。ここで車を降りて徒歩で山道を向かいましたが、途中で道別れしていて間違いました。

12:48、撮影地に着いた時は既に列車は通過した後で徒労に終わりました。撮影地には、30分前に必着しないとアングルが決められません。それ以前に撮影地に着けなかったのですから釧路湿原の撮影は失敗に終わりました。試し撮りを見ると、やはり霞んでいました。場所は申し分ありませんが、雨や霞が出る時の撮影は無理です。次回に期待する事にしました。

次の撮影地に総本家さんは北浜駅付近を熱望しておられますが、約130km以上あります。道は高速道路同様ですのでP6並みの高速走行は可能ですが、シカの出没やネズミ捕りを考慮しての運転となると、ぶんしゅう7号走行前に道内ナンバーの車が2台は走ってくれないとできません。これは道内ドライブでの鉄則です。

北浜前に私が希望するのは、エゾマツ・トドマツの林の中を走る光景です。勤務時代に仕事で行った時に、川湯温泉辺りに見た記憶がありました。摩周国道と呼ばれる391号線は釧網線に沿って走っているのですが、木々に囲まれて鉄道線の様子を見る事ができません。

ナビを見ながら交差する農道を見つけては右折左折を繰り返して、ロケハンします。交差する道の全部を辿る事は不可能ですので、後は自分の嗅覚と感を信じて探します。最初の撮影地は標茶から分かれた13号線の高架橋でした。上下両方が狙えます。

着いて直ぐの14:09川湯温泉発の4733D(キハ54-117)がきました。慌てながらカメラを取り出して向けましたら、なぜか霞んでいます。しまった、車内は空調しているので湿度が抑えられているのですが、外気は湿気100%状態です。一瞬にしてレンズが曇っていたのです。外気と車内に温度差がある時にも起こります。忘れていました。
しかし、標茶で交換した4736D(キハ54-515)がきます。こちらは万全体制で撮りました。

次は、美留和~川湯温泉間で、4736D変じて「摩周&川湯温泉足湯めぐり号」(摩周~緑間を9/30まで期間運転)という粋な列車となった8736Dを追い抜いて撮りました。

摩周駅川湯温泉駅では約20分間、足湯に入っていただくために停車します。ヘッドマークも付いていました。

川湯温泉~緑間には難所の釧北峠が待っています。しばし川湯温泉駅で休憩としました。

川湯温泉から緑方向に硫黄岳をバックに入れて撮れる撮影地があるというので、また砂利道を進んでみました。ここも踏切がポイントですが、遮断機が邪魔します。雑草も刈り取りたかったのですが、ご覧のように硫黄岳は霞んだ状態ですので、やる気が起こりませんでした。

までは391号線と釧網線は大きく離れて走ります。国道も折り曲がる急坂が続く峠道となって難所です。緑を過ぎると牧歌的な丘陵地帯が続き、撮影意欲を呼び起こしてくれますが、また釧網線とは離れていきます。総本家さんに確認すると、北浜は夕焼けが是非とも撮りたいと言っています。

18:00以降の到着で良いと了解が取れましたので、右折して南斜里駅を目指しました。列車通過時刻を見てもらうと余裕はありません。見渡す限りの丘陵の野菜畑の中を一直線に伸びる農道には、走っている車は全くありません。これなら大丈夫と、P6で参りました。

先ほどの足湯号を抜きたかったのですが、知床斜里駅を出た斜里川鉄橋がやっとでした。後方の斜里岳1,547mが広い裾野を見せてくれています。夏場ですので陽は西寄りに沈みます。夕刻は逆光となりますのでここでの最適撮影時刻は、午前中なのでしょう。知床斜里駅に立ち寄りました。

年間観光客約100万人(平成21年度実績)の知床の玄関口だけあってモダンな駅で、過疎地では珍しい駅員配置駅です。そしてローカル駅には見られないバリアフリー駅、駅前には知床等へのバスターミナル、道の駅もあり、交通の中心地となっています。多分原生花園花のシーズンでは、知床帰りの観光バスはこの駅で観光客を降ろして原生花園臨時駅まで列車に乗せるのでしょう。

始めの駅名は「斜里駅」でした。1998年(平成10年)に改名されています。
斜里駅はかつて国鉄ローカル線建設華やかし折に、逆行するかのように廃止された根北線の起点駅として強く印象に残っています。大赤字が増大する国鉄再建のため国鉄諮問委員会が発足し、1968年(昭和43年)9月に営業係数が高く、「使命を終えた」と見られる赤字83線2590.6kmものローカル線がノミネートされました。その中に根北線が含まれており、地元と調整了解後の1970年(昭和45年)に廃止されていました。

当時は町から過疎地へとレールがつながる事の意味は精神的に大きく、沿線住民の願いでもありましたので、延伸も予定され一部着工されていた路線での廃線は、意外なことでした。

まだ時間に余裕がありましたので、知床斜里駅を釧路方面に出て90度方向を変える釧網線沿いの砂利道を走り、17:35青々とした野菜畑を前景に斜里岳の麓を行く4739Dを撮りましたが、晴天なら素晴らしい光景だったでしょうね。必ずリベンジします。

北浜駅までは約30km、18時過ぎには北浜駅に到着しました。今日の宿泊は、昨年10月にお世話になった湧網線卯原内駅交通公園スハ47-508を電話予約しました。今回は同宿者がおられるそうで、19:30までは待ちますがそれ以降なら明日9:00にお支払をお願いしますと、管理されておられる喫茶店のマスターのお返事でした。

北浜駅で18:33発の4740Dを撮影後に向かう予定でしたが、駅舎内の軽食&喫茶「停車場」で、夕食を済ましてからに決めました。が、ここで話し好きなママに捕まってしまいました。カメラ撮りも得意なようでこの時間にこの場所で撮るのが雰囲気が出て1番と、我々のカメラを持ってバシャバシャと写してくださいました。話が弾んで、20:05発4745Dを撮るまでいました。

北浜駅での鉄道写真は撮りましたが、ピントが甘くお見せできる仕上がりではありませんでした。どうも愛用カメラを使いこなせていません。Nikonお客様窓口へ電話をしてアドバイスを求めましたら、丁度鉄道写真を撮っていらっしゃる担当者が応対してくださいました。原因は列車のライトがAF機能に影響するようです。3Dトラッキング機能にセッティングすれば防止できる等々、いろいろと対策を教えていただきましたが、最善の策は鉄道写真家の山崎友也氏が言われているように①カメラを三脚に固定しAF機能を解除する。②液晶モニターをライブビュー撮影設定にする。③画面を拡大してピンをあわせて、列車がその位置を通過する時にシャッターを押す。といったほぼ完全マニュアルで撮影することで問題は解決すると言います。

聞けば当たり前のことですが、ライブビュー設定をして拡大してピントを合わすのは、デジタル一眼なればこその技です。ただこれでは、連写や撮影地点前後のショットはボケピンになります。三脚使用もやりたくありません。狙っている列車の通過地点より前後に予想だにしなかった良いショットが撮れる事があります。

確実な一発勝負にこだわるか、連写を生かして意外性も期待するかの選択です。勿論後者は、AF機能が付いていなかった以前のカメラと同様なカメラマンの腕前が要求されます。老眼になって暗いシーンは苦手となった老体には厳しい要求です。どちらを選ぶかは難しい選択です。皆様でしたら、どちらを選択されますでしょうか? それとももっと良い方法はあるのでしょうか?

北浜駅を出発後の卯原内駅への途中で、総本家さんが新婚旅行に泊まられた網走湖畔荘の温泉に入浴後、同宿者の方には迷惑な到着時間になりましたが22:00近くに着きました。  Part8   へ続く

桜前線追っかけ2010年Ⅱ Part4 のと鉄道

第2日目 2010年4月18日

① 越中国分7:09(525D)→7:21氷見7:29(524D)→7:41越中国分
② 能登中島13:28(135D)→13:41能登鹿島15:16(140D)→15:29能登中島

9:00雨晴駅付近での撮影後、富山湾に沿った160号線を七尾市方面に北上しました。
カーブ高低差の多い道路ですが、ベタなぎの湾内は静かで、運転していてもすがすがしく感じます。
昔、41年前になりますが、この道を能登半島突端の狼煙の灯台まで、歩いた経験があります。それも出発は、京都三条大橋からでした。元気そのものだったのですね。
今は、気持ちだけで身体は正直です。ましてや一人旅、無理は禁物です。今日は朝早かったので、急激に眠気が襲ってきました。眺めの良い所で車を止めて朝寝をしました。

12:17のと鉄道田鶴浜駅着。降りて、駅構内をゆっくり見学しました。
▲ 12:30七尾行きのNT204、134Dが到着。続いて穴水行きのNT202の133Dが到着しました。
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桜前線追っかけ2010年 Part9 徳島線、土讃線 2の1

第8日目 2010年4月3日

佃14:06-(4466D)→15:06阿波川島15:30-(457D)→16:49阿波池田16:55-(476D)→17:02佃

昨日は、18:00佐賀関港から九四行動フェリーに乗船して、19:10に四国の佐田岬三崎港に着きました。豊後水道を横切る航路距離は31km、わずか70分の乗船時間で、運賃は、九州~四国間フェリーでは最も安い8400円でした。
日豊本線側は、高速道路が未整備なので、四国に渡るには、高速通行料、燃料代、運転時間や疲労を考えると、こちらの方が早く楽なので選択しました。

三崎港からは、東へ向かい松山高速道路に乗って、松山市内が眼下に見える伊予灘SAで宿泊し、朝を迎えました。昨日までの雨模様とは違って、晴天の撮影日和です。
今日の撮影地は、琴電旧車両運転時にお世話していただいた、高松にお住まいのK氏に前もって桜と鉄道を取りたいとお聞きしましたら、徳島線小島駅、土讃線箸蔵駅と黒川駅付近を勧めていただきました。

伊予灘SAを早朝に出発し、小島駅には9:05の到着です。駅前からして、桜満開で期待が持てます。
▲ 9:12、小島駅を発車するキハ471097+キハ47118、437D。

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