2013年 秋の北陸路一人旅 Part7 富山地方鉄道その2 ダブルデッカーエキスプレスを追う

第7日目 10月18日

6:00 起床。昨日朝と同様の快晴のようです。今日はダブルデッカーエキスプレスを追っかけます。インターネットで見た朝の運用は、電鉄富山6:38→7:09岩峅寺と掲載してありました。昨日は待っていても来なかったので故障でもして運用から外されたのかと思っていましたので、今日は大丈夫だろうと宿営地近くの岩峅寺~沢中山で待つことにしました。

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※ 今回の撮影にはズームレンズが大活躍しましたのでDATAを掲載します。
01▲ 7:01 14764+14763の立山行きの普通305列車がやってきました。秋らしい光景を求めて、柿がなるこの場所を選びましたが、こちら側の電柱がちょっと邪魔でしたね。
【DATA】 ズーム300㎜ F8 1/640秒 ISO400 露出補正-0.3段

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保存蒸機とその現役時代(21)

8620は687両と製造両数は多い。保存機は21両で私はほとんど撮っていない。代表的なハチロク活躍路線であった花輪線、五能線に行かなかったことも原因しているのかもしれない。

千葉県佐倉市の高崎川南公園はJR総武本線佐倉駅から北側にある佐倉城方向に向かって5分くらいの所にある。ここの保存は鳥かごよりも虫かごのようになっており、コンデジでへばりつかないと撮れない。定期的に見学日を設けている様でありそのような時の方が訪問によい。天井もあり、頑丈な虫かごに入っているので保存状態はいいはずであるが、私が覗いた時は中が整理されておらず何となくごみごみした感じであった。

2013.2.21 佐倉市高崎川南公園保存機58683▼

s-13.2.21高崎川南公園58683

s-58683ナンバープレート

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2013年 秋の北陸路一人旅 Part6 立山砂防軌道(国土交通省立山砂防工事専用軌道 )

第6日目 10月17日

いよいよ今回の旅の本番、立山カルデラ砂防体験学習会立山砂防軌道(国土交通省立山砂防工事専用軌道 )初乗車なるかの日を迎えました。但し、先日までの豪雨の影響がなければ、そして先発するパトロールカーが走り、障害がないと確認されてからという条件付きです。地図2

 立山砂防軌道は、世界でも有数の急流河川、暴れ川で有名な常願寺川の砂防施設建設工事に伴う資材や機材・人員を輸送するために建設されました。元は馬車道だったそうですが、昭和2年(1927年)着工され、昭和4年(1929年)に千寿ヶ原 -~樺平が開通。延伸が進められて昭和40年(1965年)には千寿ヶ原 -~水谷、610㎜ナローゲージによる全線18キロが開通しました。
その後も大雨による軌道崩壊を避けるためにトンネル化による改修工事が行われています。名物だったオーバーハング2ケ所は消え、42段あったスイッチバックも38段と減りましたが、標高差640m、最大83.3‰、平均35.6‰の急勾配を上がる山岳鉄道は、トータル的には世界一でもあります。管轄は国土交通省で、一般客扱いの鉄道ではなく工事用軌道です。

鉄ちゃんとしては是非とも乗車したい鉄道ですが、切符を買って簡単に乗車できるものではなく、便乗は原則として認められていません。しかし、富山県・(公財)立山カルデラ砂防博物館が企画主催される立山カルデラ砂防体験学習会に応募することで参加への道がありました。
ただ参加には、毎年指定された実施日、その締切日にはがきによる申込みを行う必要があります。参加希望者は多く、毎年数倍もの申し込みがあります。個人申込みの場合は抽選、団体コースは参加目的と団体の活動内容が分かる書類を提出しての審査が行われます。

個人申込みで抽選当選するのは至難の技、また団体では活動内容が吟味されてハードルが高いと言われています。今回参加できたのは奇跡でもありました。選ばれましたのは、すべてKさんのおかげです。参加者として加えていただきまして感謝、感謝です。

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「続・木次のC56108」によせて

米手作市様の秘蔵写真をじっくり拝見しました。この5コマの写真からいろいろなことがわかります。最初のコマ、キハ02の2連の右手は木炭倉庫で木炭の俵が積まれています。当時 各家庭の暖房には火鉢が活躍していました。線路の先の石積みの跨線橋。今も石積みかどうかはわかりませんが、跨線橋は現存しています。その後方に煙突が見えます。ヤマタノオロチ伝説で 日本で最初にお酒が造られたとされる木次。その木次で今も盛業中の木次酒造さんの煙突です。2コマ目、機関庫の前のキハ0728とC56107ですが、この機関庫は今も健在です。

IMG_3949-1

平成23年7月25日撮影。木次駅構内。奥出雲おろち号のDE15と客車が休んでいる。

細かい格子窓は波板になり、煙抜きの煙突はありませんが、4線の車庫は今も現役です。

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続・木次のC56108によせて

昭和38年~40年にかけてはたびたび木次線を訪ねました。そのうちの一回はDRFC新入生歓迎旅行として昭和39年5月に行きました。今回、キハ02の車内写真と出雲坂根での写真はその時のものです。この中に、いま一部の方々で騒がれている63年度生の“M・紘明”さんが写っています。顔を思い出さない、とか知らない、と言っている方、思い出しましたか?11月10日に天野さんの思い出を話して下さいますので天野さんと同じように思い出して上げて下さい。s-FH030006 s-FH030016 s-FH030017 s-FH030023 s-FH030032

駅を旅する 〈番外編Ⅱ〉 中部天竜駅

中部天竜駅 19-11-23
かつては佐久間ダム、佐久間レールパークの最寄駅として見学者で賑わっていた。/(19-11-3)

中部天竜駅は、かつては豊橋機関区中部天竜支区が設置されていた飯田線の拠点駅で、平成21年10月31日まで「佐久間レールパーク」が開設されていたので訪れた方が多いのではなかろうか。

駅の現在の住所は「静岡県浜松市天竜区佐久間町半場」、浜松市に合併されるまでは「磐田郡佐久間町半場」で、「中部天竜」なる地名は出てこない。と言うよりそういう地名は存在しない。駅名の由来を沿革から探ると、三信鉄道時代の昭和9年11月11日三信三輪(現東栄)~佐久間(現中部天竜)間の開業時に開設された。
10年5月24日に「佐久間」から「中部天竜」に改称されたが、読みは「なかっぺてんりゅう」であった。
「中部=なかっぺ」は天竜川を挟んだ対岸の集落名で、現住所ではなく対岸の集落名が駅名になったのは、駅及び機関支区等の鉄道用地を、中部集落の人が所有していたためと言われている。
「なかっぺてんりゅう」は語呂がよくないためか、17年5月24日、漢字の読み方を変えて「ちゅうぶてんりゅう」に改称して現在に至っている。
「なかっぺ」の読みは、戦後平凡な「なかべ」に変更され、正式な地名になってしまった。同様の例は、札幌近郊の「月寒」が「つきさっぷ」から「つきさむ」に変更されたが、駅名は「つきさっぷ」のままであるが、どうして由緒ある地名を変更してしまうのだろうか。
三信鉄道は18年8月1日付けで、豊橋~大海間の豊川鉄道、大海~三河川合間の鳳来寺鉄道、天竜峡~辰野間の伊那電気鉄道と共に鉄道省に買収され、飯田線になった。

余談になるが、飯田線の出馬から小和田までの17駅は浜松市天竜区に所在する。この地域の人が鉄道で浜松市の中心部に行く場合、一旦愛知県に出て豊橋経由で行くことになる。
信南地域と浜松は、鉄道開通以前から天竜川の水運、陸路では三州街道、秋葉街道(現在の国道152号線)で結ばれており、駒ケ根光前寺の飼い犬が磐田見付天神の妖怪退治に行ったという伝説は地域間交流が盛んであったことを裏付けている。更にこの犬は磐田市の「ゆるキャラ」になっている。

水窪と浜松市の中心部は、水窪~西鹿島間に遠州鉄道北遠本線のバスが5往復運行され、所要時間90分前後、運賃630円、西鹿島~浜松間は電車が12分間隔、所要時間32分、運賃460円で約2時間、1090円で結ばれている。
北遠本線は平成14年9月30日まではJRバスにより運行され、同区間の運賃は1470円で、遠州鉄道に移管され同社の上限運賃制により半額以下になった。
中部天竜~遠江二俣間は佐久間線として建設予定が計画され、昭和42年遠江二俣~遠江横山間の工事が開始されたが、55年国鉄再建法により路盤が約50%完成したところで中止されてしまった。

昭和40年代と平成19年の画像を貼り付けたので、時の流れを感じていただければ幸いである。
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木次のC56108 改修終わる

[40451]保存蒸機とその現役時代(17)で 準特急様にご紹介頂いた木次のC56108が綺麗によみがえり、お披露目のイベントが開かれました。平成25年11月4日付 中国新聞の記事を転載します。

H25-11-4 中国新聞朝刊

H25-11-4 中国新聞朝刊

余談ながら 山口線のC56やまぐち号 地福行きはC56+DD51の重連だったようです。

若桜鉄道寸描

国鉄若桜線時代の昭和48年に一度訪問して以来 40年ぶりに若桜を訪ねてみました。昭和48年当時はすでにDE10でしたが 混合列車は残っていて途中駅での入換え待ちをしながらの旅でした。今回は短時間の訪問でしたが、当時を思い出すには充分のドライブでした。在籍4両のDCが、全長19.2Kmを片道30分、1日10往復の若桜鉄道。こんな小さな鉄道が生き残っているのが不思議な気がします。

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鳥取発若桜行1337D WT3004+WT3003  丹比-若桜間 細見川橋梁にて

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関東便り(私鉄乗りつぶし)

関東支部員の鉄鈍爺です。
乙訓の老人氏から「京成のスカイライナーAE形に乗らへんか?」とのお誘いを受け、10月31日に関東在住の有志4人が集まりました。
ただ平日昼間の鉄活動故、常勤者の参加がしづらかったのは残念な点です。

【記念撮影】
※ 管理者により不快感を与えるものとして削除されました。
人物写真の掲載につきましては、十分な注意と配慮をお願いします。
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保存蒸機とその現役時代(20)

9600は総数784両のうち保存機は43両(イカロス出版保存車大全2012年リスト)のうち現役時代の撮影は僅かに9687の1両である。北海道ではD51、9600、C57が蒸気機関車末期まで活躍した関係か9600の保存機も北海道地区が17両と多い。

9687は1915年(大正4年)11月川崎造船製造(製番266)で説明板によると大鉄管内や五稜郭に配属され1965年9月に大宮区に来てからは川越線と入換えに使われて1969年に廃車された。

1970年1月から川口市の青木町公園に保存されているが、イカロスの保存車大全によると解体予定とあり、急遽本年(2013年)4月26日に現地に駆け付けてみた。屋根付きではあったが案の定荒れた状態でほこりを被ったような感じであった。同地へはJR京浜東北線西川口駅から北東方向へ徒歩10分程度の所にある。

2013年4月26日の9687▼

s-13.4.26青木町9687

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北陸新幹線ニュース

今日もなぜかダブルデッカーエキスプレスが通る側で美味しいお水を飲んでいます。今晩は熱燗でなくストレートです。先ほど20時と21時台に上下の元京阪3000系が通って行きましたが客は誰も乗っていません。先日この鉄道を舞台にした「RAILWAYS 愛を伝えられない大人たちへ」を改めて鑑賞したが、こんなに閑散としているようでは出演者も泣いていますね。

今日のこの地の第1面を飾った新聞を紹介させていただきます。
北國新聞北陸新幹線のニュースが1面に取り上げられています。それにしても北陸用の車両が仙台に荷上げされたとは驚きました。

これから関東方面からの観光客が大いに見込まれて地元は盛り上がっていますが、開業すれば金沢以北は第3セクターとなります。青春18きっぷを利用して新潟方面には行けません。サンダーバードは金沢止まりとなりますので、わずかな区間・時間短縮のために関西・名古屋方面からの客は面倒な乗換を余儀なくされます。そして高額な運賃が必要となります。これで良いんでしょうかね。また関西方面へのルートが決まっていませんがどうなるんでしょうね。いろいろと審議されていますが決め手がありません。
まあ全線開業時にはこの世にいないと思いますので考えるだけ無駄なようです。それより明日のリベンジが上手くいくかの方が心配な夜を迎えております。

近鉄モ6301+サ6471+ク6501+モニ6251

子供の頃、父親が「ダイキに乗って・・・」と言っているのを聞いて、何に乗るのかな?と思ったことがあります。当時は京都に近鉄は届いて無く、まだ奈良電の時代です。遙か後年になってから「ダイキ」が大軌のことで、現在の近鉄だと知ったことでした。
今回のお話を読んで、大軌や関急を懐かしく思い出します。近鉄モ6301他_NEW 近鉄モ6301他(文)_NEW

保存蒸機とその現役時代(19)

西村雅幸さんに地元で撮っていただいた保存蒸機D51860とその現役時代である。D51860は1943年11月に鷹取工場で製造(製番18)された戦時設計の機関車で説明板によると山陽、山陰で活躍とある。福知山時代が結構長かったようで最終的には1972年9月新見区で廃車となり翌年福山市に貸与されて同市曙4丁目の曙公園にワム88035とともに保存されている。保存場所は福山駅から南東方向約4~5kmくらい離れた海に近い場所である。車でないとアクセスは厳しいようだ。

2013.8.27 福山市曙4丁目曙公園に保存のD51860+ワム88035▼

s-13.8.27福山51860西村氏

この位置から見ると戦時設計の角型ドームがよくわかる。▼

s-D13.8.27福山51860後方西村氏

高校生の頃、自宅から自転車に乗り、報徳学園の前の武庫川沿いを甲武橋をめざし、橋を渡って西国街道を伊丹に向かった。伊丹駅は織田信長に攻め落とされた荒木村重の伊丹城の一部を使っているという。当時は勿論単線のローカル線であったが、今は頻繁に電車が行き交う複線の重要路線となり車窓から眺めても付近の景色は様変わりして昔日の面影はない。

1962年11月18日 福知山線伊丹駅に停車中の上り貨物D51860[福知山]        保存機と異なりシールドビームの前照灯に集煙装置と重油併燃装置付き▼

s-67.10.18伊丹D51860_

 

2013年 秋の北陸路一人旅 Part5 富山地方鉄道その1

第5日目 10月16日

いよいよ立山砂防軌道乗車が明日へと迫りました。ところが昨日に降り始めた雨は夕刻には豪雨となってきました。早くに道の駅ウェーブパークなめりかわにて就寝しましたが、午前3時過ぎにはぶんしゅう7号に振り付ける雨と風の音に起こされました。
窓を開けて付近を見てみますと並木が激しく横に揺られています。台風26号は日本の南海上を通過していますが、はるかに離れた北陸でもすさまじい風と雨です。ぶんしゅう7号も振られています。今までになかった経験です。これはまずいと駐車している場所を風の影響が少ない建物横に移動せざるを得ませんでした。

昨日から今回の立山砂防軌道訪問のリーダー、Kさんからの連絡が相次ぎます。「もし悪天候が続けば主催者の富山県・(公財)立山カルデラ砂防博物館から危険防止のために体験学習会は中止される。」といった内容でした。天気予報では、今日の午後からは雨も上がり明日は晴天となるだろうとの予報ですが、今回の台風は日本全体に豪雨をもたらせています。ただでさえ崩れやすい立山カルデラです。台風が去って雨が上がっても軌道に土砂崩れ発生やその恐れがあった場合は中止になるのは容易に推測できます。

Kさんはじめ参加される方は18名とお聞きしています。関西だけでなく東京から来られる方もあるそうで、こちらに来られることができるのかさえ案じられます。TVを見ていますと、今日の午前中のサンダーバードは上下とも運休と決定しています。高速道路も通行止めになっています。明日の立山カルデラ砂防体験学習会の開催については午前中の会議で検討され、結論が出るそうですが早くも黄色信号です。
この天候では、じっくりとの撮影は不可能です。ここでじっと待っていても仕方がないので立山カルデラ砂防博物館へと向かうことにしました。
02▲ 9:24 立山カルデラ砂防博物館へと向かう途中でキャッチした有峰口~千垣の常願寺鉄橋を渡る立山発、電鉄富山行きのダブルデッカーエキスプレス311普通です。降雨の中、屋根替わりに車の後ろドアを開けて雨を避けての撮影でした。

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2013年 秋の北陸路一人旅 Part4 氷見線、万葉線、富山ライトレイル

第4日目 10月15日

5:30 「道の駅 氷見」で、夜明けとともに目覚めました。今日も寒い朝です。港に隣接した宿泊地だっただけになおさらです。2泊目からは、シュラフを2枚重ねにしましたので寝ている間の寒さは防げましたが、車外に出ると身が引き締まります。
今日は、氷見線をちょっと撮影後、海岸線に沿って万葉線、そして新しくできた新湊大橋を渡って富山ライトレイルへと参ります。

0102コーヒーを沸かせて、ゆっくりと朝のひと時を過ごした後は、漁港をブラブラ散歩です。
漁港には続々と朝の漁を終えた漁船が戻ってきます。

6時からはセリが行われているそうで見学に行ってみました。

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2013年 秋の北陸路一人旅 Part3 北陸鉄道石川線、475系国鉄色編成その2

第3日目 10月14日

今日は鉄道記念日、各地でイベントが実施されています。北陸路ではJR北陸本線全線開業を記念しての475系国鉄色編成が昨日の敦賀から糸魚川まで走行しました。今日はこの折り返しが走行されます。
総本家青信号さんが撮影に参られますので、一緒に撮ろうと金沢駅に13時に合流することになっています。それまでは、宿泊地の山中温泉に近い北陸鉄道に初乗車、初の撮り鉄をすることにしました。

今日も5:30には目覚めました。宿泊地の「道の駅 山中温泉ゆけむり健康村」を散歩していますと、かつて北陸鉄道加南線を走行していた6010系「しらさぎ」が展示されているのが見えました。
説明書きには日本初のアルミ車体電車と記載されていますが、公式的には山陽電鉄2012の編成が最初ですよね。藤本先輩的には越後交通のモハ210だったと思いますが、どうして間違った表示になったのでしょうか。
0101_2▲ 平成17年(2006年)8月に大井川鉄道から里帰りしましたが、約8年経っての保存状態はまずまず良好です。廃車解体されていく車両にあってこういった保存がされているのは幸せものですね。いつまでも北陸路を走った栄光の姿を残してください。

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2013年 秋の北陸路一人旅 Part2 475系国鉄色編成、福井鉄道その2

第2日目 10月13日

095:30、「道の駅 パークイン丹生ヶ丘」で朝を迎えました。昨日は日中30℃近くあり、Tシャツでも汗が出るくらいの暑さでしたが、夜中はグ~ンと冷えて、10℃以下です。ぶんしゅう7号は屋根上にテント小屋ができる造りですので、風雨は防げても寒さは直接影響します。同時期に北海道で経験した寒さほどではありませんが、3シーズン用のシェラフでは朝方は厳しく、寒さで起き上がりました。

026:34、まずは朝日が昇りだした福井鉄道神明駅に立ち寄りました。
誰もおられないのでホームに向かうと駅員のおばさんがやってきて切符を見せてと迫られます。ちょっと写真を撮りたいと申しますと入場券を買ってちょうだいとの返答です。
昨日もそうでしたが、福井鉄道では入場に関してはとても厳しいようですね。

今日はこれから南今庄駅に向かい475系リバイバルの撮影です。通過するのは10時25分過ぎと推定できます。鉄ちゃん多数が来ていると思われますので早めに現地到着するようぶんしゅう7号を走らせました。ここからの距離は約30キロ、所要時間は一般道利用で約50分の予定です。
11 続きを読む

ことでん デカ1の走り

秋の讃岐路 青空の下でことでん仏生山工場の主 デカ1の走行するのを見かけました。
何度か訪れましたがデカ1はいつも停まっていて走りを見ることがありませんでした。
10月21日午後お墓参りに行った後 片原町から一の宮行に乗り仏生山に到着後、奥の留置線に1000形120号が入ってきました。
pict-ことでん1
いつもの留置線に行くと 先ほどの120号が停まっていました。
この車両は大正15年汽車製造株式会社製で長く琴平線で活躍後1972年から志度線、1994年から長尾線で2007年まで定期運用され現在動態保存車となっています。

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京王2600系

京阪500型は人気者であったが、京王2600系は人気者(?)であったかどうか。デジ青[14402]「元京王電車」2011年7月27日のコメントにでんかんしょまつり号さんから京王2600系は好きな電車なので公開せよと言われた。何れ、迷図作家関先生より紹介があるからその時に公開しようと思っていたが、どうも不人気なのか出てこないので今回発表することにした。私はこの電車は米手作市さん流の言い方をするなら不細工な電車と思っている。乙訓の老人さんは京阪500型は戦時中他の車両がへたった時に頑張った功労車と言われたが、京王2600系も功労車である。軌道イメージの強かった戦前の京王線14メートル車から脱皮するべく、新生京王帝都電鉄(1948年6月1日東急から分離独立)最初の新造車両として1950年に日立製110KW×4のデハ2601~2610の10両、翌年日立、日車製サハ2651~2655の5両計15両がつくられた。1950年生まれということは阪急京都線複電圧クロスシート車(一部ロングシート車あり)710系と同じ生まれ年である。710系はナニワ工機製全金19メートル車170KW×4(一部150KW×4あり)のMT編成で大阪~京都間ノンストップ特急に使われていた。この電車はスタイルがよく歌劇特急にも使われたことで京都線のプリマドンナとも言われた。一方、京王2600系は大型新造車とは言え、長さは半鋼製16.8メートル車で幅も2640ミリと狭く、車内は木製床で見劣りがした。正面非貫通3枚窓は湘南電車初期型に似るという人もいるが、ノーシル、ノーヘッダーに京王独特の前照燈2基(当初1基)の姿は不細工に感じた。台車も日立KBD-102という見慣れないウィングバネであった。阪急京都線710系は神宝線810系と共に阪急標準車両となり、特に810系は宝塚線の車両限界拡大に寄与したが、京王2600系も当時の京王線車両の大型標準化に寄与した車両と言える。しかし、両者は横綱と平幕か十両くらいの差に感じた。

1968年8月18日 まだ相模原線がない頃の京王多摩川支線からの2606他4連(回送?)が調布駅に進入するところ。この風景は昨年8月の調布駅付近の地下化により消滅した。▼

s-1968.8.18調布2606

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