2013年 はにかみの国、ミャンマーSL撮影の旅 Part5 ナムツ鉱山鉄道(Namtu) 第1日目 その3

41_鉱山5▲ たくましい腕にお孫さんをしっかり抱いたおばあさん。はにかみ顔というより、自信に満ちた笑顔です。
41_鉱山6▲ 幼い子供さんは日焼け止めを顔一面に塗っています。ミャンマーでも色白は美顔になるのでしょうね。はにかみ顔のお母さんも大変です。

第2日目 その3

http://www.youtube.com/watch?v=wnWZEgmN5jw

▲ 動画の埋め込みコードが不調ですので上記をクリックしてください。

タイガーキャンプまでは急勾配です。DC303号機だけでは力が足りす。13号機も必死の力行を見せてくれました。コンデジでの動画撮影です。お見苦しい点はお許しください。

00_ループ_2[googlemap lat=”23.103816492828233″ lng=”97.32300341128735″ align=”left” width=”300px” height=”200px” zoom=”17″ type=”G_HYBRID_MAP”]マンダレー[/googlemap]

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のせでん開業100周年、復刻塗装電車

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開業当時の1号車にちなみ、グリーンブルー塗装と、車体前面及び側面に唐草模様が装飾されています。
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以上いずれも、妙見口駅付近にて、4月14日撮影。

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こちらは同日午後、山下駅構内にて撮影。

能勢電鉄は、2008年が会社設立の100周年だったが、当時は債務超過で経営再建中。会社の「100年史」を作ったほかは、既存イベントに「設立100周年」と入れて質素に祝った。その後、12年3月期決算で債務超過から脱し、今回、開業100周年を喜べる環境が整ったとして、種々のイベントを計画しているようです。

その内の一つが車両の復刻塗装。4月から1500+1550に開業時1型のグリーンブルーを、また4月14日この日から1510+1560に51型塗装を施した。前車は山下-妙見口間を、後車は山下-日生中央間をいずれも往復運転している。車内には懐かしの写真なども飾られているようですが、筆者は乗らずで見ていません。

4月14日日曜日、能勢に所用があり、通りがかりに撮影しました。

2013年 はにかみの国、ミャンマーSL撮影の旅 Part6 ナムツ鉱山鉄道(Namtu) その3 第1日目 その3

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00_ループ_2▲ タイガーキャンプ直前に設けられた2重ループ線です。ここを上がるとタイガーキャンプのヤードに入ります。
34_ループ3▲ 12:33、まずはDLを先行させて、続行するSLと交差するシーンとしました。鉱山最盛期には多数の蒸気機関車が稼働していました。交換できる駅もわずかでしたので続行する列車運用も組まれていたのかも・・・。
しかし、610㎜ナローゲージにループは鉄ちゃんにはこたえきれない喜びです。これだけを見るだけでも十分な価値はあります。
35_タイガーキャンプ04 35_タイガーキャンプ0235_タイガーキャンプ00▲ 12:52、タイガーキャンプに到着しました。山間の広い場所に第一選鉱所、炭住と鉄路ヤードが広がっていました。

Part7へ続く

2013年 はにかみの国、ミャンマーSL撮影の旅 Part4 ナムツ鉱山鉄道(Namtu) 第1日目 その2

21_通学の子供たち

;▲ 通学の子供さんとお会いました。カメラを向けると凛々しい顔で答えてくれました。二人は兄弟なのでしょうね。子供らしくお菓子を食べながらの通学です。鉱山が休止してしまって斜陽の町のように思えますが、元気な子供たちはたくさんいます。子供の姿が見えて声が聞こえてくるのは、これからのこの町に再興への道が開かれていると思いました。

第3日目 3月25日 その2

00_ナムツ鉱山鉄道運行線00_標高表_ナムツ~タイガーキャンプ_1

▲ 今日のフォトランの軌跡と標高表です。Wallah渓谷に沿って急坂を上がっていきます(GPSロガー;O氏より提供)。ナムツから選鉱所のあるタイガーキャンプまでの標高差は243m。路線は1部40‰あまりあって、平均勾配は33.75‰にもなる登山鉄道でもあります。空車回送とはいえ山に向かって、喘ぎながら貨車を牽引していた様子は容易に想像できます。

蒸気機関車13号機をチャーターしてのフォトランが始まりました。610㎜のナローゲージを走行する蒸気機関車を見るのは初めてです。
01_Wallah渓谷鉄橋[googlemap lat=”23.087122072726036″ lng=”97.39197015760055″ align=”left” width=”340px” height=”150px” zoom=”17″ type=”G_HYBRID_MAP”]マンダレー[/googlemap]温度8時38分▲ 7:52、ナンヨー方面からナムツ駅へは、Wallah渓谷にかかるトラス橋を渡って進入します。ミャンマーは熱帯の国ですが、海抜520mのナムツの朝は15℃と涼しく白煙が上がりました。

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“なにわ”の赤バス、消える 〈3〉

赤バスの車両

“なにわ”の赤バスは外国製である。一般の路線バスに、多数の外国製バスが在籍するのは、たいへん珍しい例だ。

2000年の赤バス運行開始時に、国内のバスメーカーでは適当な小型ノンステップバスが製造されていなかったため、外国製のバスが導入されたと言われている。

ひとつは、ボルボ関連会社で、スウェーデンのオムニノーバ社製造の「マルチライダー」。2000年の運行開始に備え20台、2002年の路線拡充時にさらに50台が導入された。

その後、オムニノーバ社が経営破綻したため、2005年の第三次路線拡充の際には、メルセデス・ベンツ・スプリンターをベースとするコミュニティバス仕様の「トランスポーター」が13台導入された。

国産バスに比べて高価な買い物だったが、故障が多く、保守する側は泣かされたという。

2012年には、2000年製赤バスが廃車となり、その代替として日野「ポンチョ」が赤バス14路線に導入される。赤バスとしては初めての国産車となった。車体の塗装は、一般路線車と同じデザインで帯のみが赤になった。

2社の外国製、1社の国産赤バスは、廃止時、酉島、住之江、長吉、鶴町、井高野の5車庫に配置されていた。

130208 (126)sy外国製の赤バス、これは、スウェーデン・オムニノーバー社製「マルチライダー」。「大正区役所前」付近130223_048syもうひとつの外国製赤バス、メルセデス・ベンツ社製「トランスポーター」。つりあがったライトが精悍な印象を与える。「淡路二丁目」付近B 130208 (30)sy赤バス廃車の代替として導入された国産車、日野自動車の「ポンチョ」。4月以降は、大阪市バスの一般車と同じ、クリーム・グリーンに塗り替えられ、旧赤バス系統などで引き続き使用されている。「鶴橋駅前」付近

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贅を尽くした通勤、通学、行楽特急・京阪3000系

今週はビスタⅡが登場した。仁連上人著のJTBキャンブックス“近鉄特急 上”89頁を開いてほしい。老人撮影の先頭部が紹介されているが、窓ガラスが1枚物であることが分かる。このパノラミックガラスはその後の増備車では片端カーブ部分は分離されてしまった。理由はともあれ、こうした正面窓ガラスの片端が曲面となった電車の日本での登場は1957年秋の名鉄5200型であると思う。老人はピクトリアル誌で知り翌年春に東京への道中、岐阜で下車して新岐阜駅に赴き現車をしげしげ拝顔したのだが、曲線部分にかかるところにステンレス縦割バーを見付け違和感を覚えた。その翌年秋、ビスタⅡは曲面1枚ガラスで登場した。やっと日本のガラス業界も一歩前進したと思った。京王電鉄5000系が1963年登場した時、東京出張の折に新宿まで正面窓を見に行った。残念ながら名鉄流であった。

それが1971年、京阪電車3000系は老人の宿願を果たしてくれた。最初に四条交差点で見た時の感動は今に至るも覚えている。かぶりつきのロマンスシートは子供たちに占領され、なかなか座れなかったが、淀屋橋から乗ると確保し易いことに気付いたのは増備車投入後であった。着席は右列通路側とした。この位置からは曲面部分の展望がまことによろしい。これは8000系においても然りである。

3000系がダブルデッカーを挟んでの試運転は夜間にあると、「ぷるぷる」氏から連絡があった。1995年12月14日出町柳22:58着、23:08発、最終特急後追いで走行試験をするとの事。この時に昼間の試運転ダイヤも教えてもらった。翌15日上り丹波橋14:33着、14:35発、これが目を引いた。この日、淀車庫拡張工事に絡む信号所新築内装工事打ち合せが15:00に設定されていた。勤務先担当者から同行を求められており、行きがけの駄賃とばかり社用車便乗で行くことにした。ダブルデッカーを横大路のカーブで迎え撃つのである。無事果たすことが出来た。

老人は1962年に向日町に転居した。この時に旦那に「裏切り者!」と言われた。それを区切りとして守口車庫に近寄っていない。従って3000系誕生の経緯など聞いていない。でも対岸から何時も観察していた。その対岸からの展望は如何にと、石清水八幡宮の参道を辿り展望台に向かったのは35年ばかり前で、住宅建設現場で大工に教えられ事による。その後、ぷるぷる氏とケーブル取替直後に便乗させてもらい、はるか天王山の下を走る鉄道3線との比較を論じた思い出を持つ。そんなこともあり3月31日の3000系お別れの日は“おたまちゃん”と2人で、八幡さんの展望台から靄のかかった2川合流地を見下ろしながら3000系と別れを告げたのであった。

名鉄5200型は豊鉄1900型に変身

名鉄5200型は豊鉄1900型に変身

出町柳で待機中の試運転発車直前

出町柳で待機中の試運転発車直前

山側のごもく捨て場は公園に整備された

山側のごもく捨て場は公園に整備された

ダブルデッカーには最初から時代祭のシールが……

ダブルデッカーには最初から時代祭のシールが……

試運転は順調に流れているようだ

試運転は順調に流れているようだ

2013年 はにかみの国、ミャンマーSL撮影の旅 Part3 ナムツ鉱山鉄道(Namtu) その1 概要と車両

01_はにかむ少女

▲ ナムツ駅のロケハンに向かう道でお会いしました露天の八百屋さんの店開きをお手伝いしていた少女。カメラを向けると、はにかみながら返してくれた素朴な笑顔がとっても素敵でした。

第3日目 3月25日 その1

日本からはるばる2日間をかけてやってきましたミャンマーのナムツ鉱山鉄道の蒸気機関車撮影は、じっくりと3日間をかけて行います。今日は13号機をチャーターして選鉱所のある山のタイガーキャンプまでをフォトランしながら向かいます。

【 ナムツ鉱山鉄道 】

ナムツ鉱山は、銀を産出する鉱山として数100年前から採掘が始まりました。当時から世界的にも有名だったそうです。
1883年、英国植民地時代に入り1903年にマンダレーからの鉄道建設がラショーまで開通しました。これに伴いナムツ鉱山への鉄道建設は、1907年に610㎜(2フィート)ナローゲージにより始まりました。難工事の末1914年に国鉄線ナンヨー(Namyao)~バドウィン(Bawdwin)の全線43.7㎞が完成しています。鉄道ができたおかげで、大規模な採掘と輸送が可能となりました。鉱山鉄道はタイガーキャンプで一次選鉱された鉱石を製錬所のあるナムツへ運びます。ナムツで精錬された各金属はナンヨーへと運搬され、ここで積み替えられて国鉄線で西海岸の港町に向かい、その後は英国本土へと海上輸送されていったと思われます。優れた精錬技術により採取される金属は鉛、銀、亜鉛や銅と増えていきました。
00_ナムツ鉱山鉄道全盛期路線図00_標高表_ナムツ~タイガーキャンプ▲ ナムツ鉱山鉄道の路線図と路線の標高図です。黄色線は現在運行されている区間です。
00_ダイヤグラム_edited-1▲ 厚かましくも指令所でいただきました白紙のダイヤグラムです。表面が7時~19時と裏面が19時~7時までの両面仕様になっています。今回のチャーター列車が運行された時はきちんと線引きがありました。

蒸気機関車時代は1980年代で終わりましたが、FarRailからの要望で13号機と42号機が現役復活されました。鉱山は約3年前に坑道水没により閉鎖されています。殆どの鉱山は湧水との戦いです。鉱山で湧き出る水をいかに効率よく排出できるかが、鉱山運営のポイントの1つで何もしなければほとんどの鉱山は水没します。水がいくら湧き出ても、それを上回る排出能力を持てば鉱山は採掘を続けられますが、ナムツ鉱山の採掘現場は、海面以下になって効率的な水の排出が困難になって休止せざるを得なくなったそうです。

現在、新たな鉱脈発見作業が続いており、鉱山の従業員は解雇されず自宅待機で再開を待っておられます。その間の給料は支払われていますのは、国営なのと解雇してしまうと熟練の従業員が山を去って町に行きますので、辺ぴな山には2度と戻ってこない心配があるからなのだそうです。鉄道も同様で、再開までの保守点検が行われています。そして鉱山労働者家族が住まれる地域までは道路のインフラはないので、1週間に3回ほどの生活物資の運搬運行がレールバスにより続けられています。

ただ数年前にバドウィン手前の路線でがけ崩れがあって線路が流出したままで放置されています。今回も近くまでしか行けませんでした。鉱山再開の見通しが立った頃には修復されると思われますが、従業員の生活を守り、鉄路を維持管理するには莫大な費用が必要でしょうから大変ですね。
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台湾五分車のたび(その2)

虎尾を訪問した2日後、この日も早起きして午前中烏樹林休閒園区に行った後、新営鉄道文化園に行きました。この2箇所はいずれも最寄の駅は新営で、ここ新営鉄道文化園は台鉄の駅から歩いて10分ほどの場所にあって、観光糖廠の中では一番行きやすい所ではないでしょうか。img272e台鉄の線路を左に見て歩いていくとヤードがあり、そのまま糖廠へと続いていきます。五分車乗り場の横にある芝生には1979年まで使われていた350号、382号の2台のSLとDLも並べられています。 続きを読む

2013年 はにかみの国、ミャンマーSL撮影の旅 Part2 ヤンゴンからマンダレー経由でナムツへ

第2日目 3月24日

① ヤンゴン7:00(Air Bagan;W9-201)→8:25マンダレー
② マンダレー10:20(チャーター車)→18:30ナム

00_地図00_edited-101_国内線01今日は、昨夜着いたヤンゴンから、飛行機で北へ約600キロ先のマンダレーへ、マンダレーからはチャーター車で、SL撮影目的地のナムツに向かいます。

早朝7時のフライトですので、5時には起床してホテルで軽い朝食後、空港へ着きました。

02_国内線ロビー

▲ 5:52、朝のフライトが多いのか狭い国内線ターミナル前は、送迎の車で一杯です。そして、観光目的の欧米人の姿が多く見かけられました。
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テレビカー、時代祭行列が駆け抜けた。そして、越中で

 総本家青信号特派員さまが「京阪(旧)3000系を思う」と題して5回の連載投稿をされていました。正月や祇園祭りの頃、雑踏の中を走る京阪3000系の写真は圧巻で、さすが総本家青信号特派員さまと思いました。これらの写真には足元にも及ばないですが、富山に再就職した京阪3000系の写真も含めて綴ってみることにしました。

MN00314-京阪3000

寝屋川車庫での5000系見学会で撮影

 まずは昭和46年(1971年)6月の守口車庫での見学会の写真から。 続きを読む

石坂線を走る800形

好天に誘われ、琵琶湖疏水に満開の桜の写真を撮りに行きました。疎水を渡る橋で撮影していると、道路の突き当りの京阪石坂線踏み切りを800形が横切るのが見えました。800形は京津線での運行ですが、時折、錦織車庫への回送があり、浜大津、近江神宮前間を走ることがあります。以前にも何度か見かけたことがあったものの、撮影できたことがありませんでした。今日はカメラを構えていたので、いそいで橋の反対側に行き、三井寺駅の手前の疎水を渡る橋のところで撮ったのがこの写真です。IMG_3718e1三井寺駅と浜大津間の併用軌道を走るのも撮りたかったのですが、回送のため三井寺駅には止まらず、追いかけたところ、浜大津交差点の信号待ちで止まっていた後姿を撮ることができました。IMG_3724e疎水を渡る風景、三井寺手前のS字カーブの併用軌道を走る風景も、800形には一風変っていて面白いので投稿させてもらいました。この回送は不定期でどの程度の頻度があるのか分かりませんが、今まで遭遇したのは浜大津付近で、近江神宮方向が15時30分ころ、逆が15時15分ころと決まっているようです。この回送の目的、運用ご存知の方ありましたらお教えください。

“なにわ”の赤バス、消える 〈2〉

A 130315_256sy塗装は正真正銘の赤、印刷用語で言う“金赤”である。外国製ともあいまって、真っ赤なバスは、ちょっと大阪離れした雰囲気を漂わせていた(加島駅前)。

赤バスのあゆみ

赤バスは、一般の路線バスではカバーしきれない、各区内の病院、駅、区役所などの公共施設をきめ細かく結んでいた。2000年に試験運行を開始。2002年に21路線で本格的な運行を開始した。

各区内で完結(一部例外あり)するルートだが、そのルートは公共施設を丹念に拾っていくため、複雑を極め、ループ、8の字、タブル8の字、なんでもありだった。運行は、交通局の外郭団体である、大阪運輸振興に委託していた。

運行時間は基本8時台から17時台、30分ヘッドが基本だが、45分ヘッドもある。その複雑なルートから、知らないものには、なかなか使いにくい乗り物でもあった。各区で完結するのも、市民の生活圏の実態からは乖離していた。運賃は100円均一、と言っても、乗客のほとんどは、敬老パスを持った高齢者だから、現金収入は知れている。

その後、中央ループ、西ループが廃止となり、廃止時には29路線が運行されていたが、乗客数の伸び悩みなどから、紆余曲折の末、3月31日で運行を終了した。

4月からは、目標乗客数を上回った天王寺、東淀川、平野区内の3路線が一般系統として存続したが、一般バスと同じ200円に値上げされている。それ以外についての廃止後の処置は各区に委ねられ、一部の区では独自にコミュニティバスを運行したり、タクシー代行を行っている区もある。

A 130322_50sy浪速区「浪速東ループ」。もっとも大阪らしい名所、通天閣を行く。外国からの観光客で賑わっている通天閣の下に乗り場がある。どの時間帯でも逆光になり、おまけに自動車に邪魔ばかりされるので、何度も通ったものだ(通天閣付近)。A 130330_115sy浪速区「浪速東ループ」。日本橋東一丁目から右折して、堺筋に入り、日本橋電気街の雑踏の中に入っていく赤バス。

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2013年 はにかみの国、ミャンマーSL撮影の旅 Part1 旅立ち、ソウル経由でヤンゴンへ

中国四川省の山奥でお会いしてより中国各地へと、また夫婦連れでアフリカのエリトリア、そしてインドネシアのシュガートレイン撮影にも同行させていただきましたO氏より「東南アジアで是非に行ってみたい所があるので一緒に行かないか。」との打診を受けたのは、昨年秋でした。
ミャンマー地図01お聞きしますと、場所はミャンマー(旧;ビルマ)です。「10数年前にはまだ現役だった蒸気機関車を撮りに行ったが、その後は政情不安定な国でもあったのと、現地を案内していただける適任のエージェントが見つからなかったので諦めて他の国に行く方を優先していた。しかし最近、民主化解放が進みだし、またミャンマーに40数回も訪問しておられるボンネットバスの巨匠丸谷さんとぶんしゅうさんを通じてお知り合いになれました。信頼できるエージェントを教えてもらえたので、OKなら話を進めていきたい。」とのお話でした。

ミャンマーについては、泰緬鉄道ビルマの竪琴アウンサンスーチーさんぐらいしか知識がありませんでしたが、万事に緻密で慎重なO氏が引率していただけるなら大船に乗ったように安心して行けます。行くことを決めました。
ミャンマーへの訪問日程はO氏にお任せして、私の方は折角行くのだから先乗りして途中どこかに立ち寄りたいと、長旅を計画することにしました。
しかし、迷ったのはミャンマーまでのルートでした。私が海外に行く時には上級会員になっているJALを利用しますが、残念ながらミャンマーへのフライトはありません。日系もう一社のANAは昨年に羽田からの直行便が飛ぶようになりましたが、調べるとビジネスクラスのみの専用機で高額チケットです。これでは年金生活者には利用できません。他の外国航空会社も、直行便はなく途中でのトランジットを必要とします。

ヤンゴンまでのトランジットルート▲ 関空からのフライトをを調べると、上の図のように大韓航空、タイ航空、ベトナム航空、中国国際航空、中国東方航空、中国南方航空、チャイナエアライン、キャセイパシフックを選択できます。他にもLCCもあります。 続きを読む

“半世紀前の電車特急”によせて

IMG_0002sytsurukame先輩の151系特急「第2富士」、たいへん興味深く拝見しました。新幹線開業前のこだま型のいちばん華やかな時代ですね。50年前とは思えない、あざやかなカラー発色には驚きました。

よく似た構図だと思って、ネガを探してみると、私も姫路駅で写した、こだま型がありました。ただし、私のはモノクロ、撮影年も、その翌年、東海道新幹線開業後の昭和40年で、新大阪発下関行き「しおじ」です。手前は、狭軌記録163km/hのチャンピオンマーク付きのクハ151-3です。「第2富士」は上りで、「しおじ」は下りですので、ホームは違いますが、上のテルハが同じで、姫路駅と分かります。

姫路駅も完全に高架化されてしまい、半世紀前の面影も全くなくなりましたね。

半世紀前の電車特急

C0210
1963年1月1日、姫路駅。上り第二富士と思われる。車番を確認しましたがはっきりと読み取れません。クロ151-のあとは、一桁番号のようです。2に見えたり、7に見えたり。7なら翌年に事故で廃車となった車ですから、貴重品である筈ですが。ちょうど半世紀が過ぎ去りました。

 

3月16日ダイヤ改正に伴う車両の動き

107杉並木           杉並木をバックに快走する107系4連 /(25-3-11)  今市~日光

今回のダイヤ改正で、日光線と中央本線塩尻~辰野間(通称辰野支線)の使用車両が全面的に置き換えられた。日光線にダイヤ改正前後の3月11日と25日、辰野支線にダイヤ改正前日の3月15日に訪れたので、当日の状況等を報告する。

〔日光線〕
今回のダイヤ改正で使用車両が一夜にして置換えられた。ダイヤ改正前日まで107系(Mc+Tc)×8本=16両が、時間帯に応じて、2連、4連、6連で昼間2本、ラッシュ時4本で運用されていたが、改正後は205系(Tc+M+M+Tc)×4本=16両となり終日4連になった。205系は元京葉線で使用されていた車両である。
ポスター
   107系4連 / (25-3-11)  今市~日光
107系日光線
205系4連 / (25-3-25)  今市~日光
205系日光線          

 クモハ107-4+クハ106-4  / (25-3-11) 文挟
 今回の改正で2連は消滅した。
 107系文挟
クハ204-602+モハ204-602+モハ205-602+クハ205-602  / (25-3-25) 文挟
205系文挟

 ヘッドマークが付いたクハ204-603とクハ205-603 / (25-3-25) 宇都宮
クハ205にバリアフリー対応のトイレが設置され、その部分の窓が塞がれた。
205ヘッドマーク
205ヘッドマーク2
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小田急SE3000型

昭和34年秋、中学の修学旅行で東京へ行った。
行きも帰りも臨時の修学旅行専用で、スハ32に補助席がついたものだった。できたばかりの東京タワーをみたり、有楽町で逢いましょうで有名になったそごう有楽町店を見たりしたが、箱根にバスで移動中にチラリッと見えた“弾丸列車”が特に印象に残った。あとで調べたら小田急の新特急・SE車だと知った。東京には知らないものが一杯ある!と感銘を受けた出来事だった。

小田急SE3000(文)_NEW 小田急SE3000_NEW

雨のトワイラ

今日は糸崎・尾道間で海を入れた遠景を考えていたのですが、生憎の雨のため急遽予定を変更して呉線忠海で近景を撮ることに。我が家から山を越えれば15分ほどの距離です。忠海港は古くからの船泊りであり、現在は大久野島と大三島へのフェリーが発着しています。大久野島は昭和初期には毒ガス工場の島として地図から抹消された秘密の島だったのですが、今は島全体が国民休暇村として憩いの島となっています。ちょうど春休みとあって 雨にもかかわらず多くの家族連れが高速船に乗り込んでいました。

143M 三原発広行き

143M 三原発広行き

電車の前方 鉄橋のたもとに常夜灯が建っているのがわかりますか。水難防止を祈願して金毘羅さんをお祭りしたもので、港や川土手など水に関係した場所によく祭られています。忠海港の常夜灯は江戸時代後期、文化十三年(1816年)に尾道の石工 塚脇和助によって彫られ200年近くを経た立派なものです。行き来する船に加えて 約80年間呉線の列車を見守ってきた常夜灯でもあります。さてトワイライトは雨の中を一路広島に向けて通過してゆきました。

雨の船溜まりを行くトワイライト

雨の船溜まりを行くトワイライト

次回は4月9日です。この日は孫の小学校入学式なので、留守番かイクジイ役が回ってきて撮りに行けるかどうか・・・。だとすると5月21日までお預けとなります。