営団地下鉄03系5扉車に寄せて

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東武スカイツリーライン西新井~竹ノ塚間を快走する03-820編成/(27-6-30)

「昭和の電車」に「平成の電車」が登場した。
営団地下鉄(現東京メトロ)03系は日比谷線3000系の後継車として昭和62年から平成6年にかけて8両編成42本が新製された。
そのうち平成2年製の第9編成から平成5年製の第28編成までの20編成が8両編成中両端の2両ずつの4両が5扉車として新製された。

京阪の5000系のように1編成全部を5扉にしなかったのは、日比谷線の駅の構造がホームの両端に改札口に通じる階段のある駅が多く、前後の車両が特に混雑が激しいためである。

6月17日東京メトロ、東武鉄道の連名で日比谷線の20m車化とホームドアの設置が発表され、来年度から3年間で18m車8両編成から20m車7両編成に取替えられる予定である。
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新京阪デハニ5001に寄せて

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5001→4301 / (41-7-27) 正雀

昭和3年梅鉢鉄工所製で、両端に客室、中央に魚菜室がある珍しい構造であった。
荷物の積卸し時間短縮のため、このような構造になったものと思われる。
戦後は客室の座席が撤去され救援車になった。
昭和39年4月の改番で4501になり、57年971を救援車に改造した4052と交替して廃車になった。

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リニア館のモハ1形に寄せて

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モハ301+クハ502 / (42-4-5)千頭

大津の86様、INUBUSE様より「リニア館のモハ1形」の報告があったが、大井川鉄道での現役時代を報告する。

大井川鉄道に転入したのは、僚車のモハ302と共に昭和28年5月であるが、改めて経歴を振り返ると下記の通りである。
鉄道省デハ33509(大正11年日本車輌)→モハ1035(昭和3年改番)→三信鉄道デ307(13年転入)→鉄道省デ307(18年8月買収)→27年7月廃車→大井川鉄道モハ301(28年5月)
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国鉄阪和線クハ6210に寄せて

モタ3000→モハ2250 → モハ20100番代に続いてクタ600→クハ6210→登場した。

関 三平氏は阪和形について詳細までご存じで、クハ6210がモカ2001→モニ3200と組んで荷電代用であったこともきちんと把握されておられる。
記録によれば期間は昭和25年7月13日~28年3月3日となっている。

グリーンとクリームの阪和特急・急行色に塗り替えられた時期は昭和31年と記されているが、もう少し詳しく見ると下記のようである。

ライバルの南海電鉄に対抗すべく70系が投入された。しかし南海は平行カルダン駆動に対し、旧態依然の吊掛式、ゆったり転換クロスシートに対し、シートピッチの狭い直角クロスシートと見劣りはしたが、利用者には好評であった。

最初に投入されたのは次の3編成である。
クハ76073+モハ70069+モハ70070+クハ76072 (31.11.30到着、31.12. 9使用開始)
クハ76075+モハ70071+モハ70072+クハ76074 (31.12. 1到着、31.12 .8使用開始)
クハ76077+モハ70073+モハ70074+クハ76076 (31.12. 9到着、31.12.14使用開始)

翌32年2月から理由は定かではないが、1両ずつ工場入りすることになったため、モハ61001とクハ6210が阪和特急・急行色に塗り替えられ入場車の穴埋めに連結された。
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北総開発鉄道7000系に寄せて

北総開発鉄道(平成16年7月1日北総鉄道に社名変更)7000系は、昭和54年3月9日小室~北初富間開業時に新製した電車である。
関 三平氏の解説文は「新鎌ヶ谷」となっているが、これは誤りで「北初富」が正しい。
開業時より新京成電鉄と相互乗入を行い松戸まで直行し、都心との連絡は、新京成電鉄、常磐線を介して行われた。

6両編成3本が新製され、両端が制御車7000形、中間が電動車7100形で、編成は下記の通りであった。車体メーカーは3編成ですべて異なっていた。
←北初富           →小室   製作
7002-7104-7103-7102-7101-7001  川重
7004-7108-7107-7106-7105-7003  日車
7006-7112-7111-7110-7109-7005  東急

昭和59年3月19日住宅・都市整備公団が小室~千葉ニュータウン間を開業し、その運営を受託した。 続きを読む

新京成電鉄8000系に寄せて

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滝不動~三咲間を走行する8510編成/(26-9-6)

「昭和の電車」は、長野電鉄OSカー、上信電鉄1000系、新京成電鉄8000系、北総鉄道7000系と中小私鉄の高性能車が続いている。

新京成電鉄8000系は、昭和53年から60年にかけて6両編成9本が新製された。スタイルの特徴は正面の2枚窓で沿線の人や利用者から「狸」或いは「くぬぎ山の狸」と呼ばれている。
関 三平氏は「ふくろう顔」と言っておられるが、なるほど「ふくろう」にも見える。ちなみに乗物に全く興味の無い我が息子は、子供の頃「パンダ電車」と呼んでいた。本人は新京成電鉄で通学しており、やはり「狸」と呼んでいる。
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上信電鉄1000系に寄せて(Ⅱ)

3月17日【57081】で、西村雅幸氏より1000系のその後の経過について報告いただいたが、同社が新製時に作成したパンフレットが手元にあり、それを基に概要を紹介する。

新形車両新造について
当社、上信電鉄は、輸送力増強と旧形式車両の近代化への脱皮の一環として、今度1000形電車を新造することになったが、この新造車は、現在通勤輸送列車増加及びスピードアップ計画に大きな力となるべく、将来充分な性能を発揮出来得る近代化された最新の機器を搭載しました。
そして、現在の旧形式車両の代替車両として、随時増備される予定です。

この車両を新造するにあたり、特に考慮したことは、鉄道車両の使命として、安全、正確、迅速の原則に基づき、これからの大量輸送機関として、より一層の性能の向上、サービスの向上、安全確保を目標とし、未来の鉄道車両構造と致すべく、在来の車両のイメージを大きく変えたスタイルとした、その概要はざん新な先頭形状をもった近代的なスタイル、乗心地の向上をはかった空気バネ付台車、制御性良好な電気指令式空気ブレーキ、操作性の良いワンハンドルマスコンなど最新のデザイン、技術をとり入れたユニークな車両にしました。
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国鉄阪和線モタ3000系に寄せて

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クハ25105+クモハ20+クハ25+クモハ60 / (42-5-28) 長居

「昭和の電車」は「モハ54003~54005」に続いて関西の国電が登場した。

今回、関 三平氏が紹介されたモタ3000系は、一段上昇窓のため開口面積が狭く、夏暑かったこと、日除けがブラインドとカーテンを併用して構造が複雑であったこと等が災いし、早めに廃車されたため42年中に姿を消した。

新製からの廃車までの経過
戦時色が濃厚になった昭和16年にクタ3001、3002が日本車輌で、クタ7001、7002が帝国車輌で新製された。
クタ3001、3002は両運、7001、7002は片運であった。
クタ3001、3002は電動車として竣工すべきところ電装品の調達遅れにより制御車として竣工し、12月に電装され本来のモタ3001、3002となった。
7001,7002以外は両運車であったが、戦後片運化され、モハが上り向き、クハが下り向き運転台になった。

全鋼製のノーシル、ノーヘッダーの車体は、上部にRの付いた2枚1対の客室窓の斬新なスタイルで戦時色を感じさせないものであった。

小学校4年生の時、天王寺で初めて見たが、京阪の新車にソックリだと思った。京阪の新車とは1650形のことである。

発注したのは阪和電鉄であったが、完成は南海電鉄と合併後であった。(阪和電鉄は昭和15年12月1日南海電鉄と合併し、更に19年5月1日鉄道省に買収された) 

17年にクタ3003~3007が日本車輌で、クタ7003~7007が帝国車輌で新製された。
クタ7003~7007は電装される予定であったが、鉄道省買収後の19年6月クタ7003、7004の2両のみ電装され、モタ7003、7004になった。

18年にクタ7008~7013が日立製作所で新製された。

戦後、阪和線に輸送力増強のため国鉄標準型電車が転入すると、混結の必要性から制御器の省形化、連結器の密連化、運転室の拡幅工事が実施された。
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京成電鉄モハ3300形 営業運転終了

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臨時特急「成田山号」(3301-3302-3303-3304+3333-3334-3343-3344)/大佐倉

京成電鉄モハ3300形は、2月28日臨時特急「成田山号」で営業運転を終了した。
当日のダイヤは、回送列車で宗吾車区発車して、高砂9時58分、青砥10時頃通過して上野に10時13分に到着、上野10時23分臨時特急「成田山号」として発車して、成田に11時39分に到着予定の処、途中混雑のため実際には約10分遅れで到着した。
到着後運転士に花束贈呈等のセレモニーが行われた後、宗吾検車区に回送され、12時15分に入区した。 続きを読む

モハ54003~54005に寄せて

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クモハ54004+サハ78+クモハ54107+クハ68060 /仙石線陸前富山~陸前大塚 (49-4-29)

「昭和の電車」に久し振りに国電が登場した。
モハ54の内、ノーシル、ノーヘッダーの24003~54005を取り上げて解説されておられるが、モハ54のオリジナル車全体について解説する。(以下戦後の動きについては、昭和36年6月1日の称号改訂以降のクモハを使用する)

戦後クモハ60の座席をセミクロス化したクモハ54100番代の解説は今回割愛する。

クモハ54について
昭和12年モハ51の主電動機を128kwのMT30に変更した形式で、001、002の2両新製された。スタイル、室内等はモハ51と同じである。

15年003~005の3両が増備され、スタイルはノーシル・ノーヘッダー、張上げ屋根、ヘッドライト埋込となった。(関 三平さんのイラスト、解説)
003は、20年6月淀川電車区で戦災に遭い廃車された。この3両は全車奇数向き(上り向き)であった。

16年006~009の4両が増備されたがスタイルは元に戻された。
向きは、001、002と共に奇数車奇数向き、偶数車偶数向きの車号通りであった。

戦災で廃車となった003を除く8両は、本線緩行(京都~西明石間の各駅停車)に使用されていたが、41年以降飯田線、大糸線、仙石線に転属し、それぞれの地域で活躍後廃車になった。
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保存蒸機とその現役時代(34)C11244に寄せて

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          昭和49年9月16日撮影

準特急先輩より1月27日【55451】で会津柳津駅前に保存されているC11244が紹介されたが、何となく気になるナンバーであり、記憶を辿ってみた。

昭和49年のゴールデンウィークのこと、京都を「きたぐに」で出発し、長岡で信越本線の旧形国電、越後交通栃尾線、長岡線を撮影後、加茂から蒲原鉄道を訪れ、五泉で会津若松まで行く最終列車に乗り、上野行夜行急行「ばんだい6号」に乗車、郡山駅で仮眠をして上野発夜行「あづま」2号で仙台入りした。
仙石線と市電を撮影後、磐越西線の川桁で宿泊して、翌朝の一番列車で喜多方に行った。
この日の目的は日中線の乗車と撮影であったようである。
朝の列車には間に合わず、次の列車は夕方の16時4分で、日中の運行は無い。
当時1時間に1本程度運行されていた喜多方~会津坂下間のバスで会津坂下に行った。この区間は鉄道はU字形に迂回するのに対し、バスは最短距離で結ぶため所要時間、運賃ともに優位であった。

会津坂下に行っても只見線は列車本数が多い訳でもなく、その辺をブラブラしていると、貨物列車が来る時間でもないのに汽笛が聞こえ、門デフのC11254とC11244の重連がやってきた。
C11244は綺麗に整備されていたが無火であった。暫く停車後只見方面に発車して行き、暫くするとC11254が単機で戻ってきた。

バスで喜多方に戻り、夕方の日中線の列車で熱塩に行き、発車を撮影。最終列車で喜多方に戻り、会津若松から上野行夜行急行「ばんだい6号」に乗車、翌日は青梅線と南武線の稲城長沼で撮影後、新幹線で帰京した。
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