都電荒川線と阪和貨物線

[967]で都電荒川線が[1105]で阪和貨物線の話題がでましたので、
いつものごとく便乗して投稿します。
私が都電荒川線を初めて見たのは中学1~2年の頃、母方の親戚が東京都
北区の滝野川団地の近くに住んでおり、そこを訪ねるのに京浜東北線の
王子駅から歩いていくときに走っているのを見かけたのが初めてです。
それまでは写真などでしか見たことが無かったので非常に興味を持ち
親戚の家から近いこともあり、数枚撮影しました。
そのときは7020、7505、7512の写真が残っています。

都電荒川線滝野川1丁目付近を行く7505。(昭和50年前後?)


ただ、このときは7000形はすでに車体が更新されており、少しがっかりした
ことを覚えています。そのためか写欲が湧かず(下手な写真の割りに偉そう
ですが)あまり撮影することもなく、またそう東京に来る機会もなく次に
訪れたのは昭和54年の7月にひょんなことで知り合いになった秋田の
年上の鉄道ファンの方を訪ねるときに、当時は秋田新幹線どころか
東北新幹線もなく、特急「つばさ」か寝台特急「あけぼの」が一番早く秋田に
たどり着ける手段だったため大阪からの行き帰りに泊めてもらった時でした。
このときは7030、7031、7502、7505の4輌を撮影しています。
個人的には飛鳥山から滝野川あたりの下町っぽい雰囲気が好きでしたので
(というか怖くて全線乗ってみることができませんでした。今でも東京の地下鉄は
苦手です。)
藤本先輩の撮影されていた写真は子供の頃本やテレビで見た都電そのもので、
直に見られたことを羨ましく思います。

都電荒川線滝野川1丁目付近を行く7031。バックは桜丘高校か?
(昭和54年7月28日前後)

また、先日JR西日本のHPを見たときに「阪和貨物線の廃止について」の
ニュースリリースを見つけとうとう来たかという思いでした。
すでに休止状態でしたが、休止に入る前にすでに廃止が決定的との噂が
流れていたのがいよいよ来たかという気持ちでした。この線は以前阪和線の
話題のときにも書きましたが、自宅が大阪市住吉区長居にあったため
チャリンコで15分くらいで行くことができた場所でした。
子供の頃は営業列車の走らない(「あすか」はすでに走っていませんでした)
不思議な路線でしたが、頻繁に貨物列車が行き来していたので貨物の専用線
だろうなという認識しかなく、関西本線の電化後は藤本先輩の投稿にも
ありましたが時折回送列車が通るようになり、少し車種が増えましたが
それでもなお地道に貨物が走っていました。そのうえ高校が丁度この線の
横にあり授業中によく列車を眺めていました。また、冬場は風向きの関係で
夜更けになるとこの線の貨物列車の汽笛と近鉄南大阪線の大和川橋梁を渡る
列車の音がよく響いてました。結構、夜中でも汽笛が響いていたのを布団の中で
聞いていました。それだけに、感傷的になってしまうのです。
この貨物線を走る電気機関車はバリエーションがありEF52、EF15、ED61、
ED60などやEF58などが走っていました。
特に大型のEF52には重厚さをED60・61には新しさを感じておりましたが
藤本先輩のように綺麗な写真は残っていません。
特に「あすか」などは私から見れば涙物です。
貨物線の写真は殆どありませんが2枚見つけましたのでそのうちの1枚を。

阪和貨物線依羅付近を行くEF52-2牽引貨物列車。(昭和49年頃)

また、藤本先輩の掲載していたEF52-7はさよならEF52の運転となった
臨時きのくに53・54号を牽引した機関車です。そのときは撮影に行きましたので
写真が残っていますが走行写真はとても見れたものではないので、
和歌山駅の側線でファン向けに展示されたときの写真を。
国産大型機として無骨ながら均整の取れたスタイルが好きでした。

EF52サヨナラ運転和歌山駅で展示されたEF52-7。(昭和50年8月24日)

竜華区のカマは貨物にも旅客にも活躍していたためいろんな場面で見ることが
できました。ED61はよく多客期の12系臨時急行きのくにをよく牽引していました。
当時は和歌山以南は非電化のため和歌山駅でDF50からED61などへの
付け替えが頻繁に行われていました。この写真もそんなひとコマです。
よく考えるとこのころの和歌山駅はずっといても飽きない駅でしたね。
国鉄では阪和線の旧型国電・113系やEF60・61、EF52、EF15、紀勢本線の
キハ81、キハ82、キハ58、キハ35、キハ40、キハユニ16、南海電鉄のキハ55、
貴志川線の旧型電車、和歌山線のキハ52やDF50の客レや貨物など非常に
バラエティに富んで(車輌の掃き溜めとも言えましたが)ました。
和歌山駅で機関車を付け替え出発を待つ12系臨時きのくに牽引はED61-17。
(昭和50年頃)

時代の流れで廃線や休止路線がでるのは止むを得ないですが、やはり子供の
頃から馴染みのある路線が廃止されるのは残念です。
相変わらず先輩方とは異なりいい加減な記憶と下手な写真で申し訳ありません。

阪和貨物線廃止

JR西日本は11月17日付けで近畿運輸局に関西本線八尾と阪和線杉本町を結ぶ通称阪和貨物線(正式には関西本線の一部)の廃止届を提出した。「問題なし」と認められれば、1年後の平成21年11月18日付けで廃止となる。理由は「平成16年7月以降使用を停止しており、今後も使用する予定がないため」としている。

阪和貨物線は関西本線と阪和線の短絡を目的として昭和27年9月1日に開通した。当線を走った定期旅客列車は、名古屋発着の「くろしお」の車両基地への回送を兼ねて、昭和40年3月1日から昭和42年9月30日まで東和歌山~名古屋間を運転された特急「あすか」のみであったが、臨時列車、団体専用列車は時折運転されていた。記憶に新しいところでは、昭和62年に京都から奈良線、関西線、阪和貨物線、阪和線経由で紀勢本線白浜まで381系で運転された「ふれ愛紀州路号」がある。また、昭和48年9月20日、関西本線湊町~奈良間が電化された際、当初線内に電車区がなく、昭和60年3月奈良電車区が開設されるまで同区間に使用される電車は日根野の所属で、当線を経由して送り込みが行われた。(これが原因で奈良電車区の103系は向きが逆になっている)

 杉本町駅から阪和貨物線に入る東和歌山発名古屋行特急「あすか」   (昭和41年5月27日撮影)

途中の停車駅は、堺市、王寺、奈良、伊賀上野、亀山、四日市であった。和歌山、奈良から名古屋へのビジネス客を意識した時間設定であったが、乗り換えが伴っても新幹線や近鉄特急を利用した方が速かったため乗車率は低迷した。また、「あすか」の停車に合わせて「金岡」は「堺市」改称した。

 クハ111-32を先頭とする回送電車で吹田工場からの出場車           (昭和48年11月11日)

 ED608の引く和歌山方面行貨物列車 (昭和48年11月3日)

ED60のラストナンバーで、昭和35年川崎重工兵庫工場製。新製以降昭和61年廃車になるまで、一生を阪和線で過した。

 

 EF527の引く竜華操車場行貨物列車 (昭和48年11月3日)

昭和2年川崎重工兵庫工場製。最初の配置は国府津区で東海道本線東京口で活躍。その後中央東線用として甲府区に転属、昭和32年鳳区に転属した。昭和51年廃車となったが、生れ故郷の川崎重工業兵庫工場で保存されている。 

 EF15120の引く竜華操車場行貨物列車 (昭和48年11月18日)

昭和29年三菱重工三原工場製。最初の配置は新鶴見でその後宇都宮に転属、再度新鶴見に戻り、昭和45年に竜華に転属してきた。昭和58年に廃車となったが、摂津市の新幹線公園に保存されている。

 

 ED604の引く竜華操車場行貨物列車 (昭和48年11月3日)

昭和33年汽車製造大阪工場製。当初作並機関区に配置され、仙山線の直流区間で使用、2年後の昭和35年鳳区に転属、以降昭和60年廃車になるまで阪和線で活躍した。

 

 ED6117 (昭和49年1月4日)

昭和34年東芝府中工場製。当初甲府区に配置され中央東線で使用、昭和47年に竜華区に転属、昭和53年、浜松工場で飯田線用のED6216に改造された。阪和線のED61は、17、18の僅か2両の在籍で、しかもED62に改造のため昭和53年に姿を消したため、あまり目立たなかった。

行橋区のC5058のこと

以前にK.H.生さんからのコメントで行橋のことが話題になり、行橋機関区の名物だったC5058の写真を載せますと約束してから随分時間が経ってしまいました。やっとネガを探し当てましたので、ここに掲載いたします。
撮影した昭和42年当時、行橋機関区には、C50が5両配置され、田川線、日豊本線で旅客列車を牽くほか、入換用としても使われていました。当時、日豊本線は新田原まで電化が完成していましたが、一部はまだ蒸機牽引で残っていたのです。
写真のC5058には、門鉄デフに波と千鳥の装飾が入っています。門鉄デフ機に装飾のあるカマは九州で何両かあり、いちばん有名だったのは「かもめ」牽引用のC5711です。我らが山科の人間国宝が撮られた最盛期の貴重な写真が雑誌にも発表されています。ほかにも数両がありましたが、すべて旅客列車の先頭に立つC55、C57ばかりで、C50のような入換用が主務のカマに装飾が施されたのは唯一この58号だけと思います。
C50の牽く旅客列車は小山区の両毛線・水戸線が有名でしたが、ほかには行橋だけでした。それだけに客車列車の先頭を行くC50に少しでも華やかさを演出してやりたいという区の思いがあったのでしょうか。
蒸機の中ではいちばん地味で目立たなかったC50ですが、他区のようにトラ模様に塗られた入換のC50とは、別形式のような整備の行き届いた好ましいスタイルです。行橋に限らず、若松、直方、後藤寺と、筑豊の機関車はたいへん美しかったのです。
最近、「ばんえつ物語」用のC57180が門デフになり、しかも波と鴎の装飾入りと取って付けたような姿になったのには驚かされました。

デフに波に千鳥の飾りをつけたC5058

門司港発柳ヶ浦行1529レを牽いて夕方の行橋を出発(昭和42年3月)

 

おじん2人ヨーロッパ軽便 その23-10

THE GREAT LITTLE TRAINS of WALES その3 TALYLLYN RAILWAY その1

TALYLLYN はウエールズ語だから、L が二つ重なった場合に限り先のL はスと発音するので、タリスリンと読む。軌間は2フィート3インチ(685.8mm)という半端な、実に可愛い軽便鉄道で、ウエールズ編最初に入れた The Great Little Trains of Wales パンフからの地図では⑤である。

後日紹介する幾つかの鉄道と同じく、これはウエールズ特産のスレートを港まで搬出するための産業鉄道であった。1866年12月に開業し、1950年10月廃止されたが、翌年保存鉄道として再開し、かような分野では最古参になる。延長は約12.5km、起点の Tywyn (どう発音するか分からない)Wharf をゼロとすると、ほぼ上り勾配が続くが、終点の Nant Gwernol は269フィート(82m) だから大したことはない。

日本の建築用材料でスレートというとセメントやガラスウールで作った人造素材だろう(乙訓老人よ、解説を)が、本来は天然素材で、結晶板を薄く削ぎ、石造や木造建築物の屋根、壁面などに貼り付ける。南部の石炭(ジョン・フォードが都合4回アカデミー監督賞を得たそのひとつ「我が谷は緑なりき」を思い出す人もいるだろう)と共に、ウエールズ北部はこのスレートが特産物で、採石場がいっぱいあった。当初の橇や馬車から、軽便鉄道を敷設して港まで本格的に搬出されだしたのだが、本来大規模な綿織物業者だったこの鉄道の創始者は、南北戦争のため米国から原綿の輸入が止まって商売が出来ず、スレートに転進した由である。

ヨーロッパの軽便鉄道といってもいろいろある。日本でなら例えば伊予鉄道がドイツ系、小坂鉄道が米国系の車両・流儀で建設され、英国系は青梅鉄道が代表であった。諸兄頸城鉄道自動車に廃止まで健在(実はその後何十年も六甲山中で生き残っていたのに、先年他車両搬出時壊れてしまった)だったニフ1という2軸客車をご記憶か。これは本来青梅鉄道の客車が魚沼鉄道を経たもので、これがいわば英国軽便鉄道系というべき小型客車である。

機関車も写真で見ると可愛いが、軌間に比し9~12トンと、そうは小さくなく、メーカーはフレチャー・ジェニングス、カー・スユアート、アンドリュー・バークレイなど。番号だけでなく、各タリスリン、サー・ハイドゥン、エドワード・トーマス、ペーター・サムなどの固有名詞を持つ。中にはお子様向けに煙室扉に「機関車トーマス」のお面?を付けたものもいた。


客車は4輪車とボギー車だが、その4輪車の可愛い事。特に1等車は2コンパートメントで、我々は共通乗車券に加え1ポンドの「お直り券」を奮発し、道後温泉に行く「坊ちゃん」気分を味わった。車内は当然狭いが、隣のコンパートメントとは高い背もたれと鏡で完全に仕切られ、窓は皮ベルトの穴に車体側のポッチをはめ、適当な位置に止められる。これは完全に馬車の名残で後自動車にも用いられたが、ずっと以前ドイツはキームゼー・バーンの客車で説明した時は写真がなかった。今回写りこんでいる不要な人物は無視して、「窓を途中好きなところに止められるシステム」のみご覧を。なお拙老の記憶に誤りなければ、関西国電に初登場した湘南=クハ86の運転席小窓がこれだった。パンタグラフ式バランサーが普及して姿を消した。



お直り券表裏 1ポンドとるにしてはお粗末

我が家の江若鉄道に仲間が増えました

8月3日にDD1352とオハ4連、8月15日にワフ450の写真をご笑覧頂きましたが、その後YAHOOオークションで天賞堂のDD13を手に入れて、江若DD1351に改造しました。改造前のDD13DD1352、オハ4連、ワフ450の塗装も終えたのですが、特にワフには江若の社紋がないと ただのワフにしか見えず、思い切ってオリジナルの江若インレタを特注し お化粧してやりました。今後の江若車両の増加を見越して いろんな大きさの社紋を作り、全車に貼って ぐっと江若らしくなりました。更にYAHOOオークションで珊瑚のキハ05キットを入手しましたので、これをキハ14に仕立てようとたくらんでいるところです。作りかけのオハ27 3両の完成がいつになるか・・・ 今年のスキーシーズンには間に合いそうにありません。車両ばかりでなく レイアウトセクションも作りたいと考えていて オハの留置されていた高島町駅を再現したいのですが、駅舎や駅構内の写真が少なく、行き詰まっています。諸先輩方で高島町駅の写真をお持ちであれば、是非お知らせ下さい。

おじん2人ヨーロパ軽便 その23-9

ウエルシュプールで

THE GREAT LITTLE TRAINS of WALES その2  Welshpool & Llanfair Railway 2

この鉄道は1903年開業、1923年にはGWR(Great Western Railway)のグループになり、1931年旅客取扱を停止、1948年には British Railways の傘下になったものの1956年1956年11月2日最終に廃止。その後有志の手で1963年再開されたものである。運行は8月がフル、6月に7日、7月に5日の非運行日があり、4月は14日、5月12日、10月9日、11月5日のみ運行=1999年現在。現時点の運行日はインターネットのサイトで確認頂きたいが、大体同じようなもの。

現在ではボランティアによるレストアの結果可動車両も増加し、さらに客車を含め仲間入りした車両も増えている。我々が覗いた時点列車は3往復だが、ここでも Special Timetable will operate on BANK HOLIDAYS として、年間6回6往復の日がある。この Bank Holiday はマン島の Groudle Glen Railway でもお目にかかった表現だが、銀行休日というのがいまいち理解できない。ボランティア・スタッフに銀行員がいるから、というのでもなさそうで、どなたかご存知の方、解説してくだされ。

さて列車撮影にかかる。ここも沿線に羊の放牧地が多く、例により厳重な生垣で線路両側が閉ざされて撮影場所選定は厄介である。それでも車を走らせているうちに好適地を何か所か発見。列車速度が遅いので、ある程度追っかけも可能であった。また踏切は無人停留場に隣接するよう設定されており、駅に接近した列車から機関助手が降りて線路を塞いでいた柵を90度回転させ道路を閉鎖。


なお車両基地には8号(Dougal)なる、キャブ屋根・前後妻板のないチッポケな機関車がいる。1946年バークレイ製、グラスゴーの瓦斯会社で1958年まで働いていたが、滅多やたらと背が低いのは、元来極めて狭苦しい環境で就役するための特注車両だったからだが、時には動くこともある。


第133回同志社EVEのご案内

本日(?)のホームカミングデー、懇親会では、とても有意義な時間を過ごさせていただきました。現会長の田中と申します。

さて、寧静館ではあがってしまって、えらくしどろもどろな回答になってしまいましたが、ここで改めまして同志社EVEのご案内をさせて頂きます。

なお、今後下表の内容に変更が生じた場合、こちらで改めて告知いたしますので、定期的にご覧頂けると幸いです。

問合せ先:田中健文(bth1109@mail4.doshisha.ac.jp)

<場所>

同志社大学今出川キャンパス、寧静館402号室(N402)

<出展期間>

11月25日(火) (16時半~20時半)

26日(水)、27日(木) (10時半~20時半)

28日(金) (10時半~18時半)

※ただし、括弧内に記載した出展時間帯は昨年実績のものであり、今年度スケジュールは11月15日に同志社EVE実行委員会よりアナウンス予定。ですので、時間帯について正式なご案内ができるのはそれ以降となります。・・・が、多分昨年度と似たような時間帯になるかとは思います。

<出展内容(予定)>

・現役生による写真展示

・鉄道模型(Nゲージ)公開

・前面展望ビデオなどの上映

速報! 山科の人間国宝 元気にご帰宅!

本日行われたカミングデー後の懇親会で、突然床に伏された“山科の人間国宝”は、無事お元気で帰宅されました。皆さま、ご安心ください。人間国宝からも、ご心配を掛けた出席の皆さまによろしくお伝えくださいとの連絡をいただきました。搬送に当たっていただきましたS本さん、付き添っていただきましたT田さま、ありとうございました。

なお、本日行われましたカミングデーの様子については、管理人よりのちほど写真特集で配信されますので、お楽しみに。

天然色写真で振り返る40年前の九州(6)

由布岳山麓のD60

九州山地を横断する久大本線にはD60が使われていた。久留米側では朝夕に鳥栖区のハチロク牽引の列車もあったが、山間部は大分区のD60が客貨を一手に受け持っていた。D50を二軸従台車にしたD60は、少し前まで、九州では筑豊本線、日豊本線、本州では山口線、紀勢本線、磐越東線と各地で使用されていたが、次第に減じて、当時では、大分区と直方区に残るだけだった。
久大本線は高校生のときに全区間乗車して撮影に適した線であるとの認識はあったが、いざ行こうとしても撮影地ガイド的な情報がない。五万分一の地図で探し求め、見つけたのが由布院付近のΩカーブだった。今でこそ由布院付近は名立たる撮影地となり、また観光地としても著名になっているが、当時はまだ山間の秘湯であった。
由布院駅前に立つと、春霞に包また由布岳が聳え立つ。つい数日前の春の雪で頂上付近は白く化粧している。ここから、野矢、南由布に両方向へ90度近いカーブを描いている。野矢へは25‰勾配が続き、サミットとなる水分峠はトンネルで越えて野矢へ至っている。南由布方面とは線路がほぼ平行しており、はるか眼下に南由布を発車するD60が見え、以来、由布院を通って峠へ向かってくるブラストが延々と聞こえてくる。ひたすらトンネル方向へ歩き、やって来た下り列車をとらえた。門デフを備えたD6061の牽引であった。
余談ながら、この写真の一本前の列車を手前付近でとらえ、当時の「鉄道ピクトリアル」の鉄道写真コンクールに応募したところ、推選に入賞した。縦位置にして由布岳を大きく入れ、登ってくるD60を135mmで正面に入れた構図だった。応募したなかで、本命視していた写真が選外になり、なかばアテ馬的に応募した写真が推選となった。選者の高松吉太郎さんから「日本画を見るような柔らかさの中に力強さを感じる」とコメントをされ、なるほどそんな見方もあるのかと思ったものだ。以来、写真の評価など、十人十色だと思うようになった。

由布岳を見て25‰に挑むD60(昭和44年3月18日)

おじん2人ヨーロッパ軽便 その23-8

THE GREAT LITTLE TRAINS of WALES その1 Welshpool&Llanfair Railway 1 

1999年7月20日、我々は早朝リバプールのタウンウオッチングを兼ね、昨夜「素面」の内に確かめた河底トンネルでの町脱出ルートを再度確認。レンタカーを借り出し、先ずは銀行を探したが見付からず。走り回っている内に方角を失うなどし、約1時間遅れて出発。昨夜、今朝と確認を重ねたややこしくやたら狭いインターチェンジで見事間違ってやり直すなどややパニック気味で30分をロス。河底トンネル通行料は1ポンドだった。

これから4日間はウエールズの軽便鉄道を巡るのだが、英国の中の異国と称せられるウエールズは、未だにウエールズ語が健在で、道路標識も先ずウエールズ語、その下に英語での地名が表示されている。文字はアルファベットでも、発音が独特で、まず読めない。例えば最初に訪ねた鉄道はWelshpool&Llanfair Light Railway だが、頭はウェルシュプールで文字通りでも、次がいけない。常識的?にはランフェアと読みたくなるだろうが、これをスランベイルと読まねばならない。

ウエールズに展開し、互いに競いかつ協力し合っている小鉄道は The Great Little Trains of Wales というグループをつくり、パンフレットの置き合いや、共通乗車券の発行をしている。我々が買ったのは有効期間8日、中4日どの鉄道でも使用可能の Great Little Breaks Ticket で、大人32ポンドと一見高いが、個別に買うともっと高いし、その手間も省ける。現在では10鉄道が加盟しているが、1999年時点では8社(バラ・レイク、ブリーコン登山、フェスティーニオグ、スランベリス・レイク、タリスリン、ヴェイル・オブ・ライドル、ウエルシュ・ハイランド、それにウェルシュプール・スランベイルの各鉄道)であった。購入時は年号のみ記入してくれ、あとは自分で日付を書き込む。

最初に入れたパンフでは8番がウエルシュプール&スランベイル鉄道である。英国では珍しい762mm軌間で、古くは馬車鉄道だったものを蒸気鉄道に改めたもの。元来が農産物や羊の運搬を主目的とする鉄道だったが、1960年、保存鉄道として再発足した由。訪ねた時点では本来の車両は散逸あるいは廃棄されていて、各地―といっても世界的規模?で掻き集めている。それもその日走行していた機関車14号は英国ハンスレット1954年製1C1だが、何とシエラ・レオーネ(アフリカ)から購入したのだからいささか驚く。



同様客車もオーストリーのチラッタール鉄道はじめ、アフリカなど各地から買い集めた由。新旧取り混ぜである。


現在では随分車両も揃い、整備が行き届いている様子だが、1999年でも機関車などは結構どっさり集めていて、一応外見は綺麗だが整備が追いついていないようだった。

先頭はハンスレット製DL

No.10 Sir Drefaldwyn号 これはフランス製

No.12 Joan 西インド諸島で砂糖黍を運んでいた機関車でカー・スチュアート1927年製

No.2 The Countess バイヤー・ピーコック1902年製で、Great Western鉄道823号

何度もお断りするように、このときは原因不明のレンズ不具合?で、発色もピントもヌケも著しく悪い。見苦しいがお許し下さい。なお当鉄道のサイトhttp://www.wllr.org.uk/もご覧あれ。 

先回の[860]マン島の最後で、4コマ目マンクス電気鉄道のオープン客車を連結している電車を1号と記した。実は老眼鏡をかけるのを怠っていたのだが、その報いは歴然で、クリック拡大したら7号でありました、というお粗末。歳に免じてこれもお許しあれ。

都電荒川線

【345】で9月27日に都電荒川車庫で開催されたイベントの模様を紹介した。ご存知の方も多いと思うが、荒川線の前身は「王子電気軌道」という私鉄で、戦時中の昭和17年2月1日付で電力統制、交通統制により、当時の東京市に買収されたものである。昭和42年都電撤去計画が策定された時、荒川線も計画に入っており、モノレール化が検討されたこともあったが、元々乗客が多く専用軌道が多いこと、沿線住民の反対等により存続が決定した。但し、併用軌道の王子駅前~赤羽間は昭和47年11月12日に廃止された。買収路線であるため、「買収都電」が存在した。旧国鉄の「買収国電」は「阪和形」以外は、車齢の若い車両も含めて早々に姿を消したが、「買収都電」は昭和43年まで在籍し、その内の1両は現在も宇都宮市郊外の企業で保存されている。

昭和40年台から現在の車両に変わるまでの間、荒川線で活躍した車両は、下記の通りである。

160形、170形

王子電気軌道200形として昭和2年から4年にかけて201~223の23両が作られた。昭和17年東京市買収時にメーカーの相違により下記の通りの形式に別けられた。

201~207 田中車輛製 → 150形(151~157)

208~215 日本車輛製 → 160形(161~168)

216~223 川崎車輛製 → 170形(171~178)

 150形は川崎市電に譲渡した1両を除き、昭和27年3000形の改造種車となり廃車。160形は事故廃車された1両を除き、昭和42年~43年に廃車。170形は川崎市電に譲渡された1両、3000形の種車となった2両を除き、昭和42年~43年に廃車となった。廃車後176が宇都宮市郊外の企業に屋根付で保存されている。

 

昭和41年3月11日    王子駅前

 昭和42年3月25日    大塚駅前

 昭和41年3月11日    王子駅前

1000形

昭和7年から11年にかけて木製車の台車、部品を使用して作られた車両である。昭和40年頃の状況では、160形、170形は主力として終日使用されていたが、昼間は殆ど見かけなかったので、ラッシュ時以外はあまり使われていなかったのかも知れない。

                 昭和41年3月11日    須田町

荒川線で撮影したものがないので20系統を掲載した。20系統は江戸川橋から護国寺、駒込千駄木町、上野公園を通り須田町を結んでいた。

2500形

1067mm軌間の杉並線の廃止に伴い、1372mmに改軌の上、転属してきた車両で、バス車体の工法で造られた。昭和33年に2501、2502が交通局芝浦工場で、昭和34年に2503~2510が富士重工伊勢崎工場で作られた。車体幅が狭く、乗客の多い荒川線には不向きのため、早々に早稲田車庫に転属した。

 

昭和41年3月11日    王子駅前

 昭和43年9月6日 早稲田(早稲田車庫に転属後) 

 昭和41年3月11日    王子駅前

3000形

昭和24年から28年にかけて、主に木製3000形、王子電気軌道からの引継車を種車として作られた車両で、一部純然たる新製車も存在する。290両在籍し、4000形、6000形と共に都電の顔として活躍した。

                 昭和41年3月11日    王子駅前

 

昭和44年9月13日    王子駅前

19系統は王子駅から飛鳥山まで荒川線を走り、駒込駅前、東大赤門前、神田明神前、須田町、日本橋を通り、東京駅八重洲口を望む「通り3丁目」を結んでいた。

 6000形

昭和22年から27年にかけて290両作られた、戦後の都電を代表する形式の一つである。製造年別、製造所別の差異、初期の車両は更新による差異があり、細かく観察すると興味が尽きない。6000形については、江本廣一氏著、ネコ・パブ社RM LIBRARY19「東京都電6000形」に詳しくかつ判りやすく解説されているので、興味のある方はお読みいただきたい。

【345】で紹介した保存車6086は、昭和24年日本鉄道自動車製で、昭和41年大栄車輌で車体の更新修繕を施工している。

 

昭和52年1月24日  荒川車庫前(荒川線で現役の頃)

 

昭和52年1月24日 荒川車庫前(昭和26年 局工場製)

  7000形

6000形に代わって昭和28年から31年にかけて93両作られた。正面2枚窓、前中扉と従来の都電スタイルから大きく脱却し、都民からも大きな関心を持って迎えられ、不満が出ないように各車庫にばらまくように配置された。製造年度によりスタイルに差があり、28年製の7021~7030の10両は旧型車の部品流用車である。現在の7000形は旧7000形の昭和31年製第3次グループ(7055~7089)の内の31両で、昭和52年から53年にかけて施工された新造車体に乗せ替え時に、旧番の若い順に7001~7031に改番したものである。

 

昭和52年1月24日   荒川車庫前

8000形

昭和31年から32年にかけて100両作られた。都電の将来を見越して耐用年数を10~12年程度に抑えたため、シンプルな作りとなっている。上記の7000形同様、各車庫に分散配置された。

 

昭和44年9月13日    王子駅前

 

昭和44年9月13日    王子駅前

7500形

昭和37年、都電が荒川線のみとなる前の最後の新車として20両作られた。ヘッドライトが2個となり台車と連動して可動した。当初は青山車庫の所属で都心で使用されていたが、路線廃止により余剰廃車となった7517、7519以外は、最終的に全車荒川車庫に集結した。昭和59年から62年にかけて、7502、7504、7508の3両以外は新造車体に乗せ替え、7502、7508は直ぐ廃車されたが、7504は朝のラッシュ専用車として平成10年頃まで使用され、現在「都電おもいで広場」に保存されている。現存車両も車体乗せ替え後20年以上経過しており老朽化は否めず、新製車と代替される予定となっている。

 

昭和52年1月24日   荒川車庫前

都電荒川線は我が家から比較的近い所を走っている。5年前までは、早稲田から徒歩15分の所に職場があり、会社の帰り、気が向くと、町屋、大塚、王子まで利用した。王子駅前を境に雰囲気が異なり、三ノ輪橋方面は下町でかつての伏見線の雰囲気とダブってくる。今は休日に町屋駅前から利用することが多いが、一日を通して乗客が多く、昼間は5分間隔で運転されているが満員である。しかも高齢者の利用が多いため座席に座ったことがない。7500形の引退が報じられているが、車齢を考えると引続き7000形も引退するものと思われる。

永年の謎が解けました

昭和44年に初めて片上鉄道を訪れたとき、国土地理院1/25000の地図「片上」を入手したのですが、その地図は昭和31年発行版で まだ赤穂線もなく、片上鉄道だけというものでした。よく見ると 片上駅の先の煉瓦工場から西に向かって「特殊軌道」が伸びており、伊部の煉瓦工場に向かっているのがわかります。この特殊軌道がどんなものだったのかという疑問を永年抱いていたのですが、この度ようやく謎が解けました。とは言え、軌間、車両などはまだ判っていません。この軌道は「品川白煉瓦」の専用軌道であることが判ったのです。

先月 備前焼まつりに出かけたとき、東片上の郷土資料館を訪ねて 手がかりを掴み 岡山県総合文化センターから「品川白煉瓦株式会社100年史」を取り寄せて、このトロッコ軌道のことが見えてきました。

伊部にある煉瓦工場は当時 備前陶器株式会社の工場で 明治39年には製品を片上港(浦伊部)まで運ぶために3.2Kmの手押しのトロッコが敷設されていたそうです。 備前陶器は日本窯業株式会社を経て 品川白煉瓦の岡山第一工場と名前を変えてゆきますが、昭和3年に浦伊部 すなわち片上駅の先に第二工場が建設されると、第一工場と第二工場間の専用軌道となり、昭和32年頃まで使用されたようです。従って昭和31年版の地図に載っていてもおかしくないことになります。

明治38年当時は「中村組」が請け負って人力でトロッコ輸送していたが、明治末期には馬12頭を持って 常時5~6頭でトロッコを曳かせていたらしい。大正7年頃「難波組」に引き継がれ、御者1名を乗り込ませ馬にトロッコ2台を曳かせたが、単線のため 中間地点の殿土井橋付近に上下退避線を設け、御者と馬の休憩所とした。昭和4年頃には馬15~16頭を持ち、トロッコ台数も42台と増えている。ところが昭和6年に満州事変、12年の日華事変で次々と軍馬として徴発されてしまったため その代替としてガソリン機関車を購入したとある。社史には馬の曳くトロッコやガソリン機関車の写真は見当たらず、未だ謎のままです。どなたかこのトロッコや機関車についての情報をお持ちの方は教えてください。

なお第二工場には昭和19年10月に片上鉄道の側線0.6Kmが入り、その後製品は片上鉄道で出荷できるようになり、特に後年ワム80000などのパレット対応型貨車の登場で 効率化が図れたとの記事もありました。片上駅に多くのワム80000がたむろしていたのもうなずけます。

それにしても燃料が枯渇する戦時にあって 馬からガソリン機関車に切り替えるというのも、不思議な気がします。なおこの軌道跡は県道となっており、遺構を見つけることはできませんでした。広大だった片上駅跡には かつて柵原鉱山から到着した硫化鉱を船に積み込むためのハンプのような登り勾配の線路が一部残されていました。

記憶の中の京阪電車 (2)

京阪電車で、まず頭に浮かぶのは「特急」であろう。我々の世代が現役の頃は1900形の全盛期であった。1900形の特徴は、他社の特急車両に固定編成が多かったのに対し、各車単独車両で、自由に編成が組めた点であろう。それ故、○時の特急は「1新車5ピンク」だったとか「4新車2ピンク」だったとか編成そのものが話題になった。「特急」は京阪の看板電車であり、特急を利用できない乗客にとっては「よそ行き」の電車に見えた。私の場合は通学の6年間、通勤の2年間、自宅、通学通勤先の最寄駅共に特急停車駅でないため、急行以下のいわば「普段着」の電車を利用した。その頃の思い出を断片的ではあるが紹介して、同世代の皆様に「ああ、そんなこともあったなぁ」等と思い出していただければ幸いである。

1000系の珍編成

昭和43年10月10日、昼休みにBOXに行くと、京阪で通学していたA君から「宇治行で1100+1000+1200の3両編成を見た。1100と1000は同じ向きに連結されていた」という話を聞いた。午後から授業があったかどうかは忘れたが、直ぐに自宅に戻り、カメラを持って中書島に行き、暫く待つと、1202+1005+1107の3両編成が来た。こんな編成を見たのは初めてで、この電車で六地蔵まで行き、折返しの三条行きを撮影した。

中書島に進入する 1202+1005+1107の3両編成

1005と1107の連結面

木幡~六地蔵間を走る 1202+1005+1107

1107 

市電800形連結車

この日は次のようなオマケが付いた。自宅に戻るため中書島から市電(839)で伏見線を北上し、勧進橋まで来たところで、動かなくなり、乗客は全員降ろされた。暫くすると稲荷から来た(852)を頭に連結、先ほど降ろされた乗客を全員乗せて発車して行った。

当時の伏見線は昼間オール800形、ラッシュ時に500形が応援に入り、たまに600形が入った。最新の700形はまず入ることは無く、900形は正月、節分、初午の超繁忙期のみであった。

 

故障で立往生している⑱(839)の頭に⑲(852)を連結

⑱(839)を牽引して発車

旧満鉄のジテ

[880] 早川昭文氏投稿の3コマ目写真を要望書込をしたところ、田野城氏からお尋ねが出た。これは拙老に花を持たせようとの温かいお気遣いに違いないが、当方は待ってましたとすぐさま反応し、お誘いにのることにして以下の講釈を。

清朝の廃帝溥儀を傀儡皇帝として強引に満州国の建国宣言をしたのが1932年3月1日。南満州鉄道(以下「満鉄」とする)は1930年以来ガソリンカーを導入していたが、1935年に到り、一挙6編成1~6のディーゼル電気列車を登場させた。一端に500馬力ディーゼル機関と発電機、暖房ボイラーを搭載、手荷物室も備えた流線型ジテ、次いでロハフ、ハフ、他端にやはり流線型の端面を持つハフセの4両が固定編成で、ジテ、ハフセの端面側台車に計4個の150馬力電動機。ジテを除く客車部分は3車体4台車の連接式である。ハフセの「セ」とは制御室の意味である。

右からジテ+ロハフ+ハフ+ハフセ

6両中4両のジテにスルザー(スイス)製6LDT25、2両が新潟鐵工所製KD6を搭載し、同じ馬力(標準460、最大550)でも前者が4.2t、後者5.88tの中速(現在なら低速)機関である。定員は2等28、3等260、計286人、製造は6編成とも日車で、電気関係は1~4が芝浦、5、6は日立。

勿論これは我国及び満州国の国威発揚を目的とした猛烈な「背伸び」での大デモンストレーションで、鳴り物入りの華々しい登場ではあったが、運転整備132t、電動機が150馬力×4とあっては、そんなに速度が出るはずがない。定員乗車時の重量1t当り機関出力(馬力)で比較すると、登場時点の特急「はつかり」5.78、キハ43000系が3.88、キハ42000が4.69、キハ41000が3.86という数字になり、これに比しこのジテは3.42だった。江若キニ9~13ですら3.45、出足が悪くラッシュに使えなかった東京横浜電鉄キハ1~8が5.00だったのである。キハ42000はご存知東海道線の試験走行で空車だが108kmの記録(1935年7月16日)があり、キハ41000でも100kmに達した記録がある。

多大の期待を背負いながら、現実にジテが投入されたのは特急ではなく、大連-大石橋間の各停仕業=表定速度47.1kmの運行である。その後日本で出現したキハ43000系も機関の未熟と出力不足(上記数値は3.88)が主因でものの役に立たず、国鉄工作局エリート技術者はすべてを燃料事情に帰してウヤムヤに誤魔化してしまった。

なお満鉄と国鉄工作局技術者とは犬猿の仲で、国鉄側はキハ43000に期待をかけたはずだが、結局派手な試験をすると馬脚が表れると知った工作局は、ロクな走行テストもせずに、2両のキハ43000は戦災後浜松工場通勤客車代用に落ちぶれていた。中間のキサハ43500だけは電車の仲間入りし、飯田線で予備、最終キサハ43800→キサハ04301として関西線で生涯を終えている。

なお満鉄では1943年になって、2編成のジテ列車からハフセを外して背中合わせにし、かつ両端のジテの両台車を動台車として試験走行した。すなわち機関出力1000馬力、電動機1200馬力で、ジテは当然スルザー機関搭載車を選んだ筈である。この際は時速100kmを保てたのだが、あくまで試験に止まったのは、到底経済的に成り立つものではなかったからである。

そのジテ列車だが、中華人民共和国になって、ジテを捨て、両端を旧ハフセに、各車3扉と多客化改造し、撫順炭坑の通勤電車に化けていたのであった。ベンチレーターもグローブ式に替えられている。誕生以来実に73年が経過しているから、その長命ぶりというか、保ちの良さ、いや保たせの良さにはホトホト関心嘆息するほかはない。写真で見る限りそう荒れ果ててもおらず、面影は充分に残している。

最新! 中国東北部・韓国駆け足紀行

毎回、DRFC-OBの力作、歴史的遺跡調査研究、掘り出し物、最近のニュース、クイズ等々を拝見させていただいています早川昭文です。パソコン音痴で、米手作市氏、元祖青信号特派員氏並びに小西Jr氏にご教示を賜わりながら、苦手はどうしようもなく、ここに再度元祖青信号特派員氏に助けていただきました。内容は9月20~24日の中国東北部(旧満州)と韓国ソウルに駆け足撮影旅行した時の一部です。
写真1 2008.09.22 調兵山蒸機
中国特派員氏に刺激を受けて瀋陽郊外調兵山の上遊型蒸機を見に行った。ガイドしてくれたのはこの間まで立命に語学留学していた謝さんという若い女性。これは朝の風景だが久しぶりに煙のある活気に満ちた駅に懐かしさを感じた。
写真2 2008.09.22 王千蒸機
これは王千駅に停車中の上遊型蒸機1772号で、この後、2~3分運転をさせてもらった。動いていたのは3両で一部ディーゼル機関車牽引の列車もあった。
写真3 2008.09.23 ジテ
撫順炭鉱砿務局駅に到着した旧満鉄ジテ。最近は殆ど稼動していないと言う事で車庫にでも見に行こうとしていたら幸運にもやって来た。
京阪の複々線を行く流線型1000型を思い出す。この1本前に来た電車は綺麗に塗装され、車内にはテーブルが置かれ、花やご馳走が並んでいたが、大勢の幹部がこの駅で乗り込んだ。公安か職員か忘れたが撮影するなと言われた。

写真4 ハルビン路電
今回、大連では有名な日本製の路面電車を撮影。 他に長春にもあると聞くが今回は素通りして、10年前の厳冬期に訪問したハルビンの松花江を見に行った。この時ガイドにハルビンの昔の路面電車の話をしたら、路上に保存してあると言う。行ってみると結構往来の激しい路上に鎮座しており、この様な保存もあるのかと感心した。
ハルビンでは流線型の単車などが有名であったが、これは本当にハルビンを走っていたのか、何処で製造されたのか、定かではない。

12/6は中之島へ

先日、乙訓老人に引っ張られて、京阪中之島線の終点に聳え立つリーガロイヤルホテルを訪れた。ここで来たる12月6日(日)に「昭和と京阪電車とドイツの路面電車」と題する京阪中之島線開業記念の講座が開かれる。講師の名前を見てほしい。なんと我が乙訓老人である。
この日は、会場の下見をするために訪れ、帰路に「掲示板に載せといてくれ」とチラシを渡されたのである。講座の内容は、老人が三歳のときから京阪に親しみ、「将来は京阪の社長になる」と小学校の卒業文集にまで綴った、京阪への愛惜の思いを吐露し、合わせて電車の母国たるドイツの路面電車も加えた、絢爛豪華なスピーチとなっている。リーガロイヤルホテルと言えば、大阪を代表する格式あるホテルである。乙訓老人の品格と、ホテルの格式が見事に一致した、稀代の講座と言えよう。
大は数百人から小は2、3人まで、老人は多くの講演を経験してきた。ところが、それらはすべてタダであった。今回は、金3300円を徴収する有料のセミナーである。さしもの老人も構えが違う。まだ一ヵ月以上も時間があるのに、老人の顔には心なしか緊張感があふれていた。
3300円が惜しくない会員、あるいはヒマを持て余している会員、12月6日は中之島線に乗ってリーガロイヤルホテルまで足を運んでほしい。

昭和の京阪がよみがえる

おじん2人ヨーロッパ軽便その23-7

マン島鉄道その7 ダグラス馬車軌道とマンクス電気鉄道~リバプール

場所が前後して申し訳ないが、ダグラスの町の蒸気列車が発する高台から急坂を下ると海岸に出、そこから町の北端、ダービー・キャッスルまで、超高級・高級・一般ホテルや貸別荘が切れ目なく連なる海岸線沿いに1.6マイル(約2.6km)、軌間3フィート・複線のダグラス馬車軌道 Douglas Horse Tramway が伸びている。創業は1876(明治19)年というから古い。客車には屋根もない完全オープン車、2階のみオープン車など何種類かが車庫に収まっているようだ。


これは晴天用オープン客車

目隠しをされたたくましい馬が、それも結構な速さ―ギャロップで客車を引く。それも天候や気温で客車を使い分けているようで、オープンカーだったのが、天候急変で何時の間にか密閉式の客車に交換されている。その雨天用車だが、御者の部分は手綱を持つから妻面の風防はなく、向かって右方のみ、3枚窓が1/4円弧を描くようにして客室に雨が入らないようにしてある。



これが雨用車両で御者は雨衣を着ている。バックは高そうな、やたら古そうなホテル

その終点では、同じ3フィート軌間のマンクス電気鉄道と路上で接続する。開業は1893年9月7日で、1、2号電車はその創業以来の車両というから驚きである。勿論木製車体は部分的に木材を交換するから、現実に100年以上経過しているのは台枠、台車、主要電気器具などであろう。直接制御だがエアブレーキは備えている。

これは創業以来100年経過の1号電車。留置してあったオープン付随車を連結し、これから車掌がポールを回す

バックは貸別荘らしい

車体はスネイフェル登山鉄道も同様だが、赤・白に塗られた部分以外ニス仕上げ、乗降は妻面向かって左側から行う。随分長い車体だが、ポールは1本で、終点では車掌が回す。


スネイフェル登山鉄道との接続停留所

古風な石積陸橋

終点ラムゼイ駅

先回のスネイフェル登山鉄道のサードレール方式手用ブレーキの構造・動作が説明不足でさっぱり分からんとお叱りが。写真を撮っていないので、また 「The Railways and Tramways of the Isle of Man 」から借用してお目にかける。運転席で小さな丸いハンドルを回すと、ネジが菱型状の枠の頂点角度を狭め、下方のブレーキシューがサードレールを締め付けるという、到って単純(野蛮)な仕掛けである。

我々は2泊3日のマン島滞在最終日、猛烈な霧で撮影をあきらめ島を1周。こんな狭い島の、しかも通常道路でマン島自動車レースは行われているのである。空港でレンタカーを返却し、4発プロペラ機でリバプールへ。この飛行機では食事は出なかった。

リバプールは小規模でボロッちい田舎空港で、通常の路線バスが30分毎に空港にまで足を伸ばし、住宅地をぐねぐね曲がって45分かかって市内中心部へ着くのは、伊丹市バスと同じである。相棒=先達のツアコンが予約していたのは国鉄リバプール駅隣接のホテルで、窓から列車がバッチリ見える。これが気に入って、数日後再泊の際も同じ部屋番号を指定し予約。

夕食の外出時、河底トンネルを抜け東岸に渡る、狭く複雑でややこしく迷いそうな自動車専用道路を外周から視察し、一生懸命この標識で右に曲がって次を左に、と記憶し明日に備えた後とてつもなくでっかいビヤホールへ。ビールの銘柄が10種以上、夫々値段が違い、各銘柄専用の(当然だが)サーバーを備えたカウンターが何箇所もあり、皆の衆男女共大方は丸テーブルで立って飲んでいるが、こっちはやはり椅子がいい。エビフライナゲットがややこげ気味だったが意外に旨く、ビールを3パイントお代り。

天然色写真で巡る40年前の九州 (5)

日豊本線の撮影を終え、また夜行に乗り大分に着いた。早朝の到着のため列車に乗って時間を潰したあと大分区で写し、午後には中津にやって来た。中津からは守実温泉まで大分交通耶馬渓線36.1kmの路線が伸びている。山国川に沿って、青の洞門などの名所もある耶馬溪へ向かう鉄道である。
大分交通にはほかにも、日豊本線杵築から国東まで国東線が、同じく宇佐からは豊後高田・宇佐八幡へ宇佐参宮線が伸びている。3線とも非電化で、緑とクリームに塗り分けられた気動車には、それぞれ愛称が付けられている。現在、紀州鉄道に残るキハ603は、耶馬溪線用として昭和35年に製造され、同線の廃止後、紀州鉄道へ転じたものである。
さらに大分と別府を結ぶ軌道の別大線も大分交通である。もちろん出自は様々だが、戦後の陸運統制で大分交通に一元化された。その後、大手バス会社に成長した大分交通は、鉄軌道部門の経営意欲を失い、昭和40年には宇佐参宮線、同41年には国東線が廃止となった。この2線の廃止で、在籍していた車両のほとんどがここ中津の車庫に集められ、写真で見られるような光景が出現した。DCあり、客車ありと、すごい数の車両が車庫を埋め尽くしている。建屋の中にはクラウス社製の蒸機1444号機も保存されていた。

手前はガソリンカーを客車化したハフ16 2・3両目は木造Wルーフのホハフ101・102

客車は宇佐参宮の団体列車など波動用として多くを保有していた。ボキーあり、二軸あり、片ボギーありで、そのほとんどが木造車である。この時代でも、木造車は地方のローカル私鉄に辛うじて残っている程度で、これほどのズラリ並んだ木造車は、たいへん珍しい光景だった。しかも、訪問するつい4年ぐらい前までは、これら二軸車が現役で走っていたというから驚きで、今も整備状態も良く留置されている。ほとんどの車籍はなかったが、男子更衣室、女子更衣室といった札が各車両に掲げられ、有効に活用されている様子だった。
その後、この耶馬溪線も昭和46年に山間部の野路~守実温泉が部分廃止され、残る中津~野路も昭和50年に廃止、軌道の別大線も昭和47年に廃止され、大分交通から鉄軌道はすべて消えてしまうのである。

オープンデッキ、木造、Wルーフ、二軸のハフ27 新宮鉄道の開業時に造られ、鉄道省に買収された後、耶馬溪線に転じた

 

記憶の中の京阪電車(1)

10月19日、中之島線が華々しく開業し、関西在住のクローバー会の皆様の中には初日に乗りに行かれた方も多いのではなかろうか。私自身、京阪電車とは昭和35年4月から6年間通学で、昭和54年5月から2年間通勤でお世話になった。毎日乗っている電車は、いつでも撮影できると思い込み、結果的に撮影しないというのが通例と言われているが、私も例外ではではない。とは言うものの、肝心なことは忘れても、些細なことは意外と覚えていることがある。そんなことを時折思い出しながら書いてみた。

 天満橋行

中之島線開業の影で、天満橋発着の定期列車がひっそりと姿を消した。天満橋行の行先板が黄色であったことはよく知られているが、それ以前は通常の行先板の他に向かって右側に「天満橋」の円板を付けていた 写真は昭和39年9月19日土曜日、学校帰りに寝屋川車庫を訪問した時に撮影したものである。

当時、本線の昼間のダイヤは20分サイクルで、淀屋橋~三条間の特急、急行、普通各1本、淀屋橋~枚方市間の区間急行が1本、天満橋~萱島間の普通が1本であったと思う。朝のラッシュ時も基本的に20分サイクルで深草(一部八幡町または三条)~淀屋橋間の準急が1本、枚方市から先は、枚方市始発の急行が1~2本加わった。この急行は白地に赤文字の円板で、時刻表には「大急」と表示され、枚方公園と寝屋川市にも停車した。また、淀屋橋開業以前、枚方市始発の区間急行で、枚方公園、光善寺を通過するものが1本あり、枚方市を発車する時は「臨」の円板を表示し、香里園で正規の区間急行の行先板に差し替えた。 

 

 

 

1300形と1600形の整った4両編成、

 1301は昭和36年3月8日、樟葉駅大阪寄りの渡り線付近で発生した脱線事故復旧時に、雨樋の位置が若干高くなりスタイルが変化した。この事故は23時40分頃現場を通過した三条発天満橋行急行(1306+1657+1658+1301)が脱線、最後尾の1301が築堤から転落したもので、隣の1658との連結器が切れなかったため、宙ぶらりん状態となった。翌日の3月9日、いつも通り中書島7時9分発の急行(1203+1505+1204+512+511)に乗車すると、八幡町で事故による枚方市まで単線運転のため暫く停車、同駅の大阪寄りの渡り線をバックして上り線へ、そのまま枚方市に向けて出発した。樟葉の渡り線は事故のため使用できず、枚方市までの単線運転となったのであるが、列車本数が少なかったのでこのようなことができたのであろう。(車号は当時のメモによるが文字が消えかかっているため誤りがあるかも知れない)帰りは未だ復旧しておらず、枚方市~八幡町間はバス代行であった。ちなみにその3カ月程前にも橋本駅の八幡町寄りで脱線事故があり、この時は八幡町~樟葉間が単線運転であった。

その後、大きな事故に遭遇したのは、昭和55年2月20日の枚方市~御殿山間で発生した置石による脱線事故で、勤務先からの帰宅時であった。萱島から普通に乗り香里園で乗換えた急行がこの列車で、枚方市で座れて一息ついたところで急ブレーキがかかり、大きく2回揺れ、車内灯が消えて停車した。前を見ると電柱が曲がっているではないか。最後部に乗っていたので事なきを得たが、先頭車両に乗っていたらと思うと今でもゾッとする。電車から飛び降りて線路から道路に出て駅に戻ったが、バスターミナルは乗客で溢れており、高槻、茨木方面のバス、運転を始めた代行バスともに超満員でとても乗れそうになく、諦めて樟葉まで歩こうと思い、牧野まで来たところで代行バスが停まり、降りた人がいたので乗ることができた。樟葉からの三条方面の電車はオール各駅停車で、行先札は付けずに「臨」の円板を付けていた。

寝屋川車庫 

事故の話題になってしまったが、当日寝屋川車庫で撮影した画像を紹介する。

1807

 

 

1852

 

1307

601 

651

632 

1659 

309

310 

601の台車

651の台車

【参考】昭和36年頃、朝の中書島発下り電車の編成

 6時48分急行 1000(1100)+1500+500+1500+1000(1100)

7時 9分急行 1200+1500+1200+500+500  (後2両は700+700のこともあり)

7時28分急行 1650+1300+1300+1300+1650

普通は2分、22分、42分発、八幡町で急行退避

3両編成で1000(1100)+1500+1000(1100) が多かった。

準急は16分、36分、56分発、枚方市で急行退避

4両編成で 600+500+1500(160016)+600が多かった。 

何分にも半世紀前の話で思い違いがあるかも知れない。