形式または車号が「26」の車両

明けましておめでとうございます。
今年も、チョット古い話と自宅周辺の話題を書込みしたいと思いますので、よろしくお願い致します。

平成26年に因み、形式または車号が「26」の車両を集めてみた。

旧国鉄車両
(1)電気機関車
ED26
初代と2代目があり、初代から解説する。

ED261 / (43-8-30) 西長岡
富山港線の前身富南鉄道のロコ2で、大正14年WH社製で昭和15年日本鉄道自動車で改造されたと言われている。
昭和32年にED261に改番され、引き続き富山港線で使用されていた。
昭和35年1500Ⅴ昇圧により廃車になり、越後交通に譲渡され長岡線、来迎寺線で使用されていた。
ED261 43-8-30
ED261-2 43-8-30
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フキ500

12月16日【42376】「フロ50形54号」で米手作市様より「フキ」ついてのご質問があったので、私の知る範囲で回答する。

昭和3年1月16日天神橋~高槻町間開業時に電動車20両(101~120)、制御車10両(501~510)の30両が新製された。

昭和3年11月10日より昭和天皇後御大典が京都で執り行われることになり、これに間に合わせるべく同年11月1日高槻町~西院間を開業した。
この時電動車13両(121~133)、制御車11両(511~521)、付随車5両(522~516)と共に貴賓車として付随車500が新製された。

昭和4年6月貴賓用付随車は「フキ」と形式称号が制定され、「フキ500」となった。
京都寄りから随員室、客室扉、貴賓室、洗面所、化粧室、給仕室、給仕室扉と並び、貴賓室には6脚の豪華な1人掛けソファーが並んでいた。

稼働する機会は少なく、昭和24年2月一般車に改造され、貴賓室の大阪寄りに客室扉を増設、貴賓室の窓4個分に固定クロスを設置、その他はロングシートに改造されたが、天井、壁面はそのままであった。

昭和25年4月、神戸、宝塚線車両と車号重複を避けるため1500に改番された。

昭和34年7月車体更新が行われ、座席のロングシート化、天井、内装を他車並みに改装が行われ、貴賓車の面影は広い窓のみとなった。

一般車への改装以降、P-6の中間車として使用されたが、窓の高さがP-6と同じであったため、それほどの違和感はなかった。

京都寄り(元随員室、貴賓室側)/ (43-8-7) 吹田 続きを読む

フロ54 その後

29 40-10-21[ 
鼓滝駅を発車した妙見口行 28+29 / (40-10-21)

「昭和の電車」シリーズは「フロ54」で今年の締めくくりとなったが、同車のその後の経過等について述べてみたい。
昭和32年12月能勢電に譲渡され29となり、同時に譲渡された電動車28(元デロ28)とコンビを組んだ。
廃車直前に阪急からの借入車24+25と車号を振替え、41年9月30日付けで廃車になった。
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都電 「クリスマス号」

9001
クリスマス号/ (25-12-10) 荒川車庫前

西村雅幸さんより、11月26日【41625】で広島電鉄の「クリスマス電車」運行に関する報告があったが、都電荒川線でも12月10日~25日まで「クリスマス号」が運行される。

車両は9001号(平成19年アルナ車両製)で、車内にささやかなクリスマス装飾を施し、イルミネーションが点灯、窓や車内にサンタクロース等のステッカーが貼られている。

広島電鉄とは異なり、ダイヤは決まっていないが、交通局のH.P上の車両検索で現在の走行場所が判り、乗車、撮影には便利である。
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モニ13027

「昭和の電車」シリーズは、京阪、近鉄、東武の「ガラクタ編成」が続き、南海モニ1045、国鉄モニ13027と荷電が続いている。

国電に興味をお持ちの方は、今回の解説文を読んで「?」と思われたに違いない。
関さんや新聞社には既に訂正依頼が届いているかも知れないが、誤り部分を中心に解説したい。
最後の段落「この後、鋼体化改造されて他の仲間と同じ平凡なロクサンスタイルの荷電となり」とあるが、ここまではその通りである。(細かいことにこだわる方から見れば、この車は乗務員扉の上までヘッダーがあったので他の車とは違いまっせ、と言われるかも知れないが、そこまで言う必要はない)

その次からが間違いの部分で「阪和線に転じたのも束の間、再度改造されて中間部が切り開かれ無蓋化され、凹形の転用車となり中部圏に転じていった。」とあるが、これはイラストの「モニ13027」ではなく全く別の「モニ13027」のことである。

国電ファン以外の方は「何のこっちゃ」と思われるだろが、「モニ13027」は初代と2代目が存在し、関さんはこの部分を混同されておられる。

具体的に解説すると、初代モニ13027(関 三平さんのイラスト)は大正15年日本車輌製のモハ10110が昭和16年3月吹田工場で荷電に改造されて宮原区に配置。27年7月鋼体化改造でモニ53023に改番。28年6月の改番でモニ13023となり53年6月に廃車になった。ずっと本線筋で使用され阪和線に転属したことや他形式に改造された事実はない。
車号の変遷は次の通りである。
デハ63208→モハ10110→モニ13027→モニ53027→モニ13023→クモニ13023

2代目モニ13027は、大正12年汽車会社製のモハ10153が28年1月日本車輌で鋼体化改造され品川区に配置。2月に鳳区に転属して阪和線で使用。36年6月豊橋区に転属。同年10月豊川分工場で配給車クモル23050に改造され60年2月に廃車になった。
車号の変遷は次の通りである。
デハ63253→モハ10153→モニ13027(2代目)→クモニ13027→クモル23050

 初代モニ13027→モニ53023→クモニ13023/ (38-11-23) 大阪
この車とクモニ13022は吹田工場で鋼体化改造され、乗務員扉の上までヘッダーがあるのが特徴である。
クモニ13023 38-11-23
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都電ニュース

25-11-22
      飛鳥山/ (25-11-22)

7000形のトップナンバー7001号車が、黄色に赤帯の昭和40年代をイメージした塗装に変更されて、11月10日から運行されている。

7001の車歴は下記の通りである。
昭和30年12月日本車輌で7055として新製。
53年3月アルナ工機で車体を新製して7001に改番。
平成2年2月アルナ工機で冷房改造。

7000形は現在の黄色に青帯の7022、それ以外の標準色と3種類の塗装が揃ったが、標準色車の約半数はラッピングが施されている。

町屋駅前/ (25-11-22)

7001町屋

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芝山鉄道

25-10-31芝山千代田駅

10月31日、乙訓の長老が上京され、芝山鉄道を訪れた時の様子は、【40870】「関東便り(私鉄乗りつぶし)で鉄鈍爺様からの報告の通りである。
芝山鉄道は、関東地区在住の方以外は馴染みがないと思われるので紹介する。

〔沿革〕
成田空港開港時に、地元対策として東成田~芝山千代田間、2.2kmを開業した鉄道で、会社の設立は昭和56年5月1日、開業は平成14年10月27日である。

資本金は1億円で、主要株主は成田国際空港が68.39%、千葉県が14.59%を出資している。
当初は小型電車により線内折返し運行を予定していたが、京成電鉄との直通運行に変更された。

〔運行〕
平日64本、休日58本運行され、昼間の運転間隔は40分である。
昼間の運行は芝山千代田~成田間であるが、平日朝のラッシュ時に普通上野行3本、快速特急西馬込行、通勤特急上野行が各1本、夜間普通上野行3本が運行されている。また下りは、夕方のラッシュ時に西馬込発快速特急2本、羽田空港発通勤特急2本、上野発快速3本、上野発普通4本、朝方上野発普通3本が運行されている。
運行は京成電鉄に委託しており、京成の乗務員が芝山千代田まで乗務する。

〔運賃〕
自社線内の運賃は190円である。京成線内東成田~成田間の運賃は加算運賃適用で250円のため、芝山千代田~成田間は440円である。今回乗車した成田空港~成田~芝山千代田間は410円で、乗車距離が長いのに30円安く、成田空港周辺の運賃計算の複雑さを表している。尚、芝山千代田~上野間は1120円でそれほど割高感はない。

〔車両〕
自社所有の車両はなく、京成電鉄からリースしている。
開業から25年3月31日まで3600形8両編成1本を、4月1日からは3500形4両編成1本をリースしているが、京成電鉄の車両と共通運用のため、自社線を走行する機会は少ない。

25年3月31日までのリース車両
3611-3612-3613-3606-3607-3616-3617-3618
3600形は昭和57年から平成元年にかけて6両編成×9本=54両新製された車両で、平成9年から11年にかけて編成替えが行われ、8両編成×6本と6両編成×1本になった。
窓下の帯をグリーンに、正面に社紋、扉横に「芝山鉄道」のステッカーを貼り付けていた。

京成電鉄返却後は、窓下のクリーンの帯はそのままで、アクセス特急以外の8連運用に就いているが、両端がTcのため京浜急行には乗入れしない。

都営地下鉄西馬込検車区公開イベントで北総9001との並び/ (22-11-5)
3611 23-11-5
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駅を旅する 〈番外編Ⅱ〉 中部天竜駅

中部天竜駅 19-11-23
かつては佐久間ダム、佐久間レールパークの最寄駅として見学者で賑わっていた。/(19-11-3)

中部天竜駅は、かつては豊橋機関区中部天竜支区が設置されていた飯田線の拠点駅で、平成21年10月31日まで「佐久間レールパーク」が開設されていたので訪れた方が多いのではなかろうか。

駅の現在の住所は「静岡県浜松市天竜区佐久間町半場」、浜松市に合併されるまでは「磐田郡佐久間町半場」で、「中部天竜」なる地名は出てこない。と言うよりそういう地名は存在しない。駅名の由来を沿革から探ると、三信鉄道時代の昭和9年11月11日三信三輪(現東栄)~佐久間(現中部天竜)間の開業時に開設された。
10年5月24日に「佐久間」から「中部天竜」に改称されたが、読みは「なかっぺてんりゅう」であった。
「中部=なかっぺ」は天竜川を挟んだ対岸の集落名で、現住所ではなく対岸の集落名が駅名になったのは、駅及び機関支区等の鉄道用地を、中部集落の人が所有していたためと言われている。
「なかっぺてんりゅう」は語呂がよくないためか、17年5月24日、漢字の読み方を変えて「ちゅうぶてんりゅう」に改称して現在に至っている。
「なかっぺ」の読みは、戦後平凡な「なかべ」に変更され、正式な地名になってしまった。同様の例は、札幌近郊の「月寒」が「つきさっぷ」から「つきさむ」に変更されたが、駅名は「つきさっぷ」のままであるが、どうして由緒ある地名を変更してしまうのだろうか。
三信鉄道は18年8月1日付けで、豊橋~大海間の豊川鉄道、大海~三河川合間の鳳来寺鉄道、天竜峡~辰野間の伊那電気鉄道と共に鉄道省に買収され、飯田線になった。

余談になるが、飯田線の出馬から小和田までの17駅は浜松市天竜区に所在する。この地域の人が鉄道で浜松市の中心部に行く場合、一旦愛知県に出て豊橋経由で行くことになる。
信南地域と浜松は、鉄道開通以前から天竜川の水運、陸路では三州街道、秋葉街道(現在の国道152号線)で結ばれており、駒ケ根光前寺の飼い犬が磐田見付天神の妖怪退治に行ったという伝説は地域間交流が盛んであったことを裏付けている。更にこの犬は磐田市の「ゆるキャラ」になっている。

水窪と浜松市の中心部は、水窪~西鹿島間に遠州鉄道北遠本線のバスが5往復運行され、所要時間90分前後、運賃630円、西鹿島~浜松間は電車が12分間隔、所要時間32分、運賃460円で約2時間、1090円で結ばれている。
北遠本線は平成14年9月30日まではJRバスにより運行され、同区間の運賃は1470円で、遠州鉄道に移管され同社の上限運賃制により半額以下になった。
中部天竜~遠江二俣間は佐久間線として建設予定が計画され、昭和42年遠江二俣~遠江横山間の工事が開始されたが、55年国鉄再建法により路盤が約50%完成したところで中止されてしまった。

昭和40年代と平成19年の画像を貼り付けたので、時の流れを感じていただければ幸いである。
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駅を旅する〈番外編〉/飯田線沢渡駅

駅舎
正2年12月27日伊那電気鉄道として開業時の駅舎が、手が加えられながらもそのまま使用されている。現在も看板が変わったくらいで健在である。  (50-11-24)

特派員さんが11回に亘り、九州の主要駅を紹介されたが、次は何処が登場するのか楽しみにしている。
思い出深い駅や印象に残った駅は数多くあるが、どうしても車両に目が向いてしまい、駅舎の撮影までは至らなかったケースが多い。

ED19、旧形国電が健在であった昭和50年11月24日に訪れた沢渡駅を取り上げた。同駅に降りたのは、この日1度だけで、目的は次の赤木駅との間に存在する40‰の急勾配、専用線のKATOのDL、同駅止まり電車の撮影であった。

開業は大正2年12月27日前身の伊那電気鉄道時代である。平成8年3月末まで、駅の豊橋寄りに秩父セメントの専用線があり、日本通運所有の加藤製作所製のDLが1両存在した。また、一般貨物は46年11月30日まで取扱っていた。
かつて運行されていた急行列車は通過していたが、今年の3月末まで駅員が配置されており「みどりの窓口」も設置され、それなりに重要な駅であった。

駅の豊橋寄りで、藤沢川という小さな川が天竜川に合流しており、長野県や静岡県の山岳地帯では川の合流点を「渡(ど)」と呼び、藤沢川と天竜川の合流点で「沢渡」という地名が付けられ、駅名もそれに従った。

尚、飯田線は3月末に大幅な駅の無人化を進め、長野県内のJR東海の駅員配置駅は、天竜峡、飯田、伊那市だけになり、伊那松島、駒ケ根、飯島、伊那大島、市田の各駅は、市や町の委託駅となった。
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クモハ73383と昭和50年前後の呉線の車両

広島市佐伯区に保存されていたクモハ73383の前頭部が修理されるとのこと、旧形国電ファンにとっては喜ばしい限りである。
同じ場所に保存されている筈のEF5836も気になるところである。
こちらは貴重な7枚窓機で、車体の3分の2が台車を含めて保存されている。

西村氏より「解説せよ」との要請があり、判る範囲で解説する。
昭和24年8月汽車会社でモハ63811として新製後、池袋区に配置され山手線で使用された。25年3月下十条区に転属して京浜東北線で使用され、28年7月の更新修繕でモハ73383に改番された。引続き京浜東北線で使用され、46年6月広島区に転属して呉線で使用された。53年度呉線が新性能化されると可部線に移り、59年7月12日付けで廃車になった。

クモハ73383/ (50-3-2) 広島 故芝生將行氏撮影
私は撮り損ねたので、国電研究の大先輩、故芝生將行氏が撮影された画像を奥様のご了解を得て掲載した。
Mc73383hiro1.75.3.2Hiro.75c-24-13[1]
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急電用モハ43形

53008 50-1-2
                     豊橋19時35分発三河川合行(647M)/ (50-1-2)
三河川合で駐伯して翌朝241M上片桐行きとなる。

モハ40形の解説を書き始めたところで、次の急電用のモハ43形が登場したので、こちらを先に解説する。

昭和9年7月20日吹田~須磨間で実施された電車運転は、同年9月20日須磨~明石間、12年10月10日吹田~京都間の電化工事が竣工し、京都~明石間の直通運転が開始された。
急行電車(急電)用として11年3月にモハ52形流電の1次車が1編成、1年後の12年3月には2次車が2編成新製された。1次車は狭窓であったが、2次車は広窓となり、より洗練されたスタイルになった。引続き同年8月に3次車が登場したが、流線形ではなく、モハ51等と同じ半流となりスカートは省略、窓配置のみ引き継がれ、あたかもモハ51とモハ52の中間的なスタイルになったため「合いの子」と呼ばれた。
形式は、2扉クロスシートのため、先頭車はモハ43形となり、既存のモハ43形の追番43038~041、中間車はサロハ66018・019、サハ48032・033が付番された。

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昭和40年代の水島臨海鉄道

98-07.Kurashikishikou.ohafu3011.65.8.17Mizu
  40-8-17   水島

西村雅幸氏より8月24日【38958】で、水島臨海鉄道の近況報告があったが、昭和40年代を車両中心に振り返ってみた。併せてK.H.生氏がコメントされているクハ16についても解説したい。

沿革
三菱重工業水島航空機製作所の貨物及び工員輸送を目的として、戦時中の昭和18年6月30日に専用線として開通した。戦後の21年5月に鉄道の管理が三菱地所に移管され、更に22年4月には水島工業都市開発に移された。当時倉敷~水島間は両備バスが運行されていたが、輸送力不足のため旅客輸送が要望され、23年6月地方鉄道免許を取得して営業を開始した。しかし企業誘致が進まず経営不振に陥ったため、27年4月倉敷市に譲渡され、市営鉄道として再スタートをきった。

45年4月1日倉敷市、国鉄、岡山県等が出資して設立された第三セクター水島臨海鉄道に移管された。62年4月1日の国鉄分割民営化により国鉄が保有していた株式はJR貨物に譲渡された。
倉敷市の株式保有割合は35.3%で、代表取締役社長には倉敷市長が就任している。

車両
機関車

DD503/ (44-3-19)
35年日立製作所製の45t機で、当時在籍していたDC501(→別府鉄道DC302)、DC502(→茨城交通ケキ104)の追番で503が付番された。機関はDMH17S(240PS)を2基搭載。
DD503 44-3-19
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45年前の9月30日

My beautiful picture
「さようなら」装飾の305/ (44-9-30) 松尾橋

昭和44年9月30日、京都市交通局のトロリーバスが廃止された。
当時を偲び、最終日の様子等を振り返ってみた。

(1)歴史
昭和7年4月1日、四条大宮~西大路四条間1.6kmを開業した。都市交通としてのトロリーバスは日本初であった。
33年7月1日、市電梅津線西大路四条~梅津間2.1kmをトロリーバスに置換え、四条大宮~梅津間を直通運転とした。梅津は後日高畝町に改称した。
37年5月1日、高畝町~松尾橋間1.5kmを開業した。
44年9月30日に廃止され、翌10月1日より同区間を市バス77系統が運行された。
停留所は、四条大宮、四条坊城、四条中新道、四条御前通、西大路四条、西院巽町、四条中学前、梅津車庫前、南広町、高畝町、段町、北浦町、西浦町、梅ノ宮、松尾橋の15箇所で、平日の朝7時~9時までの急行運転中(37年3月27日から市電全廃まで実施)は四条坊城、四条御前通、西院巽町、北浦町は通過となっていた。
交通局では市電と同一の扱いで、運賃は市電と同額であった。

(2)戦後新製された車両
100形6両(101~106)、200形2両(201・202)、300形18両(301~318)の26両在籍した。
100形(101~106)
戦前製の1形の代替に27年4月に101~104、28年7月に105、106が作られた。車体はナニワ工機、車台(シャーシ)は日野ディーゼル製であった。
扉は中1扉で、当初は通常のバスと同じサイズの幅の狭い2枚折戸であったが、後に4枚折戸に改造した。
廃止1年前の43年9月に廃車され、105のみ大宮交通公園で展示保存されたが、50年頃解体されてしまった。
105/(45-1-4) 大宮交通公園
My beautiful picture
105 45-1-4
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国鉄モハ30形→クモハ11100番代

664-11.KaheseD-forKahe.11.16hiro.73.1.28Naka.B
クモハ11123+クハ16405/ (48-1-28) 可部線中島

東急、京王、京成と関東大手私鉄の戦災復旧車が続いたので、暫く戦災復旧車が続くのかと思っていたところ、予想に反して国電が登場した。
モハ30形は、同形の付随車サハ36形、サロ35形と共に昭和元年から3年にかけて国鉄(鉄道省)初の半鋼製車として258両製作された。内訳はモハ30形205両、サハ36形45両、サロ35形8両である。

元年製と2年製は旧称号のデハ73200、サハ73500、サロ73100で登場して、3年の称号改正でモハ30、サハ36、サロ35に改番された。
サロ35は13年11月東京地区通勤路線の2等車廃止によりサハに格下げされたが、16年から17年にかけて中扉を増設してサハ36形に編入され36046~36053となった。

戦災で60両を失い、戦後は飯田線向けセミクロス化による他形式に改造等で両数が減少、モハ30の電装解除によりクハ化(クハ38050番代→クハ16200番代)、運転台撤去による中間電動車化(モハ30500番代→モハ10)が実施された。

28年6月1日の改番時でモハ30はモハ11000番代(丸屋根改造車は300番代、後に100番代)、中間電動車化(同時に丸屋根改造を実施)された車両はモハ10、クハ38に編入された車両はクハ16100番代(丸屋根改造車は200番代)、サハ36はサハ17000番代(丸屋根改造後は100番代)となった。

二重屋根は26年から31年まで丸屋根改造(更新修繕Ⅱ)が実施されたが、未改造のまま廃車された車両も存在した。
その後も両運改造、事業用車改造が実施された車両が存在したが、文章では複雑になるため画像で解説する。

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柏崎に保存されていた「D51-1」

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柏崎駅前公園に保存されていたサハリンの「D51-1」

準特急氏が「保存蒸機とその現役時代」のタイトルで、保存機の現状と過去の活躍を紹介されておられるが、両方を撮影されているは50歳代後半から70歳代前半くらいの方ではないだろうか。
保存機の現役時代の雄姿は、準特急氏や特派員氏のように余程熱心に撮影していないと無理で、正にクローバー会ならではの内容である。
柏崎で保存されていた「D51-1」を紹介する。昭和24年2月日本車輌で新製され、ソビエト連邦国鉄樺太線用として輸出された機関車(D51-1~D51-30の30両輸出された)で、昭和43年頃までユジノサハリンスク(豊原)~ポストーチヌイ(元泊)間で使用されていたようである。

柏崎市出身で北海道交通の社長、北海道日ソ友好文化会館理事長をされていた柴野安三郎氏が柏崎市市制施行50周年を記念してロシアから買い戻し、柏崎市に寄贈された。
平成2年9月2日ホルムスク(豊原)港をロシアのカーフェリーで出発して、小樽港で日本の貨物船に積み替え、同月12日柏崎港に到着した。陸揚げ後整備が行われ、11月4日に保存場所の駅前公園芝生広場に運ばれ、18日に柴野夫妻、柏崎市長等関係者により除幕式が執り行われた。

ところが、車体断熱にアスベストが使用されていることが判明。車体の老朽化により飛散の恐れがあり、修復には多額の費用がかかるということで、平成23年6月25日に「お別れ会」を開催してあっさり解体されてしまった。
市の幹部に、機関車の歴史的価値、此の地に保存されている意義が理解できる人がいなかった悲劇であろう。尚、柴野安三郎氏は平成7年1月に永眠されている。

撮影は平成5年9月5日で、「ぶんしゅう旅日記」で時折お名前が登場する丸谷洋一氏にバスを含めてご案内いただいた。

サハリンのD51は、廃止された富内線振内駅跡の「振内鉄道記念館」にD51-23、標津線西春別跡の「別海町鉄道記念館」にD51-27が保存されている。
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富士急行ロハ901→流山電鉄クハ53

7月23日【37790】「富士山麓電鉄モハ603」で関 三平氏は後ろに連結されている「ロハ901」についても触れておられるが、準特急氏より流山電鉄に譲渡後の画像をご提供いただいたので関連事項を含めて記述する。
【38044】「富士山麓電鉄モハ603→富士急行モハ3604」と重複する部分があるが、改めてロハ901について解説する。
青梅電気鉄道モハ100形モハ103として昭和3年川崎造船所で新製され、19年4月1日鉄道省買収時にモハ100形モハ103となった。(書類上は25年小糸車輌製となっている)
鉄道省買収後、青梅電気鉄道の電動車は機器配置が特殊であったこと等により、早い時期に電装解除され制御車化、この車両も19年11月には制御車となった。その後、五日市線で客車代用になり24年3月28日付で廃車となった。富士山麓電鉄が譲り受け、半室を2等車に改造してロハ300となり、25年10月の改番でロハ901となった。

44年3月流山電鉄に譲渡され、西武所沢工場で運転台を設置してクハ53となり、元京浜急行デハ400形の旧車体を利用して43年8月西武所沢工場で作られたモハ1101とMT編成を組んで活躍したが56年6月廃車になった。

クハ53+モハ1101/ (45-10-20)  準特急氏撮影
撮影場所は赤城台(現平和台)~鰭ヶ崎間と思われる。
s-70.10.20流山53+1101
s-70.10.20流山53+1101横

〔参考〕クハ52+モハ101/ (45-10-20)  準特急氏撮影
クハ52は元西武鉄道クハ1213で昭和2年日本車両製、武蔵野鉄道モハ1321として新製された車両。
モハ101は元国鉄モハ107で昭和3年汽車会社製、南武鉄道モハ107として新製され、19年4月鉄道省に買収された。
s-70.10.20流山52+101
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富士身延鉄道モハ100形/その後の変遷

関 三平氏の「昭和の電車」は、富士山世界遺産登録に関連して、元富岩鉄道セミボ20、21、富士山麓電鉄モハ603、今回の富士身延鉄道モハ100形と富士山周辺の電車を取り上げられた。それも買収国電にこだわられた点が、関氏らしいところである。

電車については、関氏の解説文、K.H.生氏のコメントの通りであるが、国鉄から私鉄に譲渡後についてもう少し詳しく解説する。

昭和16年5月1日鉄道省に買収時に富士身延鉄道から引継がれた車両は、2年6月の富士~身延間の電化時に新製されたモハ100形5両(100、101、103~105、モハ102は12年9月事故により廃車)と翌年甲府までの電化開業時に新製されたモハ110形6両(110~115)、クハユニ300形4両(300~303)、クロハニ310形2両(310、311)、非電化時代大正6、7年に新製され、電化後も引き続き使用されていたサハ50形4両(50~53)、サハ60形3両(60~62)、サハ70形3両(70~72)の27両であった。
買収時の改番で、モハ100形とモハ110形はメーカーの違いのみで実質同形であったため同一形式にまとめられ、車号順にモハ93形93001~93011に、クハユニ300形はクハユニ95形95001~95004に、クロハニ310形は社線時代に「ロ」が廃止され、クハニ310形になっており、クハニ96形96001、96002に、サハ50形、サハ60形、サハ70形は同一形式にまとめられ、車号順にサハ26形26001~26010となった。

28年6月1日の称号改正で、私鉄買収車は、「阪和型」を除き、買収元私鉄単位に1000~9999に付番され、元富士身延鉄道は電動車が1200番代、制御車の中で合造車は7200番代になった。その結果、モハ93形は、モハ1200形1200~1210に、クハユニ95形は、郵便室が撤去されていたためクハニ7200形7200~7203に、クハニ96形は、クハニ7210形7210、7211に改番された。
サハ26形は、この時期までに事業用車に改造や廃車になっていたので改番の対象にはならなかった

話が前後するが、買収直後から輸送力増強のため、東京地区から木製省電が入線、昭和18年には木製車の鋼体化改造車として車体を新製された2扉セミクロスのモハ62形(62001~62003)とクハ77形(77001~7003)が登場した。戦後も省型の投入が続き、モハ93、クハユニ95、クハニ96は、飯田線伊那松島区に転属し、伊那電気鉄道買収車の大部分を置換えた。
モハ93形は、24年から26年にかけて両運の片運化と運転台撤去側の貫通化が行われたが、扉は手動のままであった。

31年から33年に廃車になったが、モハ1200(←モハ93001←モハ100)、モハ1209(←モハ93010←モハ114)、モハ1210(←モハ93011←モハ115)、クハニ7200(←クハユニ95001←クハユニ300)の4両以外は、弘南鉄道に7両、長岡鉄道に1両、大井川鉄道に3両、高松琴平電鉄に2両譲渡された。

国鉄時代の写真は、佐竹先輩の「私鉄買収国電」(2002年10月1日初版/ネコ・パブ社)を参照いただきたい。

弘南鉄道
モハ1200形4両、クハニ7200形1両、クハニ7210形2両が入線した。

モハ2250/昭和3年新潟鐵工所
モハ112→モハ93008→モハ1207と改番して32年5月に廃車になった。34年2月に譲り受け、51年に大鰐線に転属したが、終始ほぼ国鉄時代のスタイルで活躍し、56年2月廃車になった。(上:43-9-2 南弘前 下:大鰐線転属後 50-4-28 新石川)
43-9-2モハ2250
50-4-28 大鰐2250
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富士山麓電鉄モハ603→富士急行モハ3604

3606 50-3-23
車体更新でモハ3604に改番後で、正面に貫通扉が設置された。/富士吉田

セミボの次は富士山麓電鉄→富士急行が登場した。それにしても関 三平氏の電車好きは、筋金入りで、私等話題に付いていくのが精一杯で足元にも及ばない。
今回のモハ603は、関 三平氏が記述されておられる通り、経歴が複雑で、車体更新して改番後で解説する。
明治32年日本鉄道大宮工場製で客車として新製され、鉄道院に買収後の改造でナユニ5420となり、昭和16年青梅線の前身、青梅電気鉄道に払い下げられた。
青梅電気鉄道は、同時に払い下げられた2両の木製客車と共に木南車輌で半鋼製車体を新製して電車に生まれ変わった。全長18.8mの大型で広い窓と共に当時としては軽快な車両で、台枠、台車も新製されて、サハ700形サハ703となった。
(他の2両は鉄道省ホヤ6703→サハ701、ホハニ4053→サハ702)

車体、台車、台枠が新製されているので、車両新製が認可されないため、苦肉の策として、改造名義にしたものと思われる。
サハ701と702は社線時代に、サハ703は19年4月1日鉄道省に買収後運転台が設置され、クハ700形クハ701~703となった。
クハ703は20年1月事故により休車になり、戦後24年1月富士山麓電鉄に譲渡された。

富士山麓電鉄では譲受け後直ぐに汽車会社で電動車に改造して26年1月モハ22として再起した。その後の改番でモハ603(関氏のイラスト)、39年に日本車輌で車体更新時に、貫通扉の設置、車内の蛍光灯化、自動扉化が実施され、モハ3604に改番された。

後ろに連結されているロハ901は、書類上は昭和25年小糸車輌製となっているが、実態は昭和3年川崎造船所製の元青梅電気鉄道モハ100形モハ103で、鉄道省買収後モハ100形モハ103となり、車号は同一であった。
青梅電気鉄道の電動車は、機器配置が特殊であったこと等により、早い時期に制御車代用になり、この車両も23年には早くも休車になった。
24年にサハ状態で富士山麓電鉄が譲受け、半室を2等車に改造してロハ300となり、その後の改番でロハ901となった。
44年に流山電鉄に譲渡され、西武所沢工場で運転台を設置してクハ53となり56年まで使用された。
ロハ901、流山電鉄クハ53共に撮影していないため、撮影された方は是非発表していただきたい。
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近鉄モ5621形

前回のモニ6201形に引き続き、飾り窓付の近鉄電車が登場した。
経歴等は、関 三平氏が記述されておられる通りであるが、若干補足するとデロ21~25(後のモ5621~5625)が川崎造船所製、26、27(後のモ5626、5627)が大阪鐵工所製である。
関 三平氏は「5621~5624は『高松琴平電鉄』に譲渡され」と記されているが、譲渡されたのは車体のみである。

昭和35年、南大阪線に特急用車両を作るため、モ5621~5624の4両が廃車された。
特急用車両を作るために廃車とは?と不思議に思われる方がおられると思うが、当時はメインルートの大阪~名古屋・伊勢間や名古屋~伊勢間の特急の増強で忙しく、2線級の南大阪線までとても手が回らず、南大阪線、吉野線を管轄する天王寺営業局では、車体が新しいモ5805、モ5806の色を塗り替えて優等列車に使用したものの所詮ロングシートの通勤型車両であった。
当件は、1月29日【29414】「近鉄南大阪線モ5805/羊頭狗肉なりに大健闘」と2月3日【29597】「近鉄モ5801形」を参照いただきたい。
吉野山に向かう観光客、大和上市ら大台ケ原、下市口から大峰山、弥山に向かう登山客への対応と、何となくダサい感じがする天王寺営業局のイメージアップのためにも特急用車両は必要不可欠であった。
そこで苦肉の策として考えられたのが、名古屋線のクニ5421形(元伊勢電のモハ二231形〔関西急行成立時の改番でモニ6231形に改番〕で、昭和34年モ6441形に電装を譲りTc化された車両)の5421~5424の4両を転換クロスシート化の上、南大阪線で最も車齢の高いモ5621~5624の台車、電装品を組み合わせて特急用車両モ5821形を作るというものであった。
戦時中「足りぬ足りぬは工夫が足りぬ」という言葉があったが、モ5821形は、正に「工夫の産物」であった。
モモ5821形については、関 三平氏からの紹介があった時に改めて解説する。

モ5621~5624は廃車されたとは言え、車体は高松琴平電鉄に譲渡され、21~24として再起。台車、電装品はモ5821~5824に活かされた。
琴電では反流正面5枚窓を切妻貫通扉付に改造され、別に信貴生駒電鉄から譲り受けた広軌台車と組み合わせて使用された。
幸いにも23が動態保存車に選ばれ、時折讃岐路に釣掛けモーター音を響かせ快走する姿を見ることができるのは喜ばしい限りである。

近鉄南大阪線に残ったモ5625~5627の3両は、昭和40年頃はモ5625+モ2627の2連で道明寺線、モ5626は単行で荷電として使用されていた。

道明寺線で使用中のモ5625+モ5627/ (42-10-14) 道明寺(車両交換で古市に回送時)
5625
42-10-14 5627

モ5626/上:(42-10-14)  下:(43-8-23) 道明寺
道明寺駅ではホームのない場所で荷扱いをしていたことが判る。
42-10-14 5626
43-8-23 5626
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速報!E653系「いなほ」と金町界隈の貨物列車

25-6-29 EH500-22 土浦貨物
北松戸を通過するEH500-32牽引の土浦貨物/ (25-6-29)

 E653系「いなほ」
6月29日土曜日、所用で松戸まで行った帰り、土浦貨物が来る時間帯であったので北松戸で撮影後、暫くすると上り快速線を見慣れぬ色のE653系が通過した。先頭方向は下りの緩行電車に被られてしまったが、何とか後追いで撮影できた。
25-6-29 いなほ回送

E653系は、3月16日のダイヤ改正で「フレッシュひたち」から引退後、一部の車両は修学旅行臨や臨時列車に使用されているが、7両編成は8編成全部が順次「いなほ」用に改造される。
この車両は元「K301」編成で、2月28日に郡山総合車両センターに入場して改造工事完了後、6月25日に一旦元の勝田車両センターに回送され、29日に上野駅経由で新潟車両センターに回送された。
E653系は元々寒冷地仕様で製作されているため、改造工事の主体は車内のリニューアルと下り向き先頭車のグリーン車化である。
第2陣として6月4日「K302」編成が郡山総合車両センターに入場した。

4本ある4両編成はいわき~仙台間の特急に転用される予定であったが、東日本大震災で常磐線不通区間の復旧の目途が立たないため今後の動向が注目される。

修学旅行臨/上:(25-6-4) 金町 下:(25-6-1) 馬橋
25-6-4 653金町
25-6-1 e653馬橋

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