下関駅を想う

写真展が終わって腑抜けた気持ちを引き締めるためにも、せっせと投稿へコメントを寄せていますが、やはりここらで自身の思いも披瀝してみたくなりました。以前のK.H.生さんの寄稿「山陽線西部の117系」のなかの下関駅への思いが心に残ります。
鉄道趣味人生にターニングポイントになった駅、というのがあると思います。私の場合、下関駅がそのひとつになっているのです。

今から40年以上前の昭和40年9月、高校1年生の私は山科の大築堤に立っていた。新幹線開業後で、特急こそ消えたものの、まだ急行列車は健在であった。京津線で御陵まで行き、駅前の道を南下して築堤を駆け上がって行った。今なら築堤に立ち入れば即警察沙汰だろうが、当時は自由に入れて、しかも撮影者はほんの2、3人という状態だった。そのとき、近くにいた撮影者から声を掛けられた。京都の人間だと言うと梅小路のC51の写真を交換してほしいと言う。鉄道雑誌の巻末にも必ず写真交換コーナーがあり、写真交換が盛んな時代だった。
C51の写真を送ってあげると、返礼に写真が2枚送られてきた。そのうちの1枚が、下関駅で撮影されたC62の牽く「さくら」の到着シーンだった。京都からほとんど出たことのない身にとって、彼の地の写真は実に衝撃的に映った。印刷した雑誌では得られない、ナマ写真の迫力は違っていた。135ミリの望遠で下からあおったC62の迫力、朝の斜光線を浴びた20系客車の輝き、手旗を振る作業員の表情、すべてが鉄道への憧れを満たすのに十分な内容だった。「いつかはこんな写真を撮ってみたい」、40年以上も鉄道写真を撮り続ける端緒になったのが、人からもらった下関駅の写真だった。ちなみに声を掛けてきた撮影者は、大阪市在住の広瀬さんという方で、その頃の鉄道ピクトリアルの写真コンクールの常連だった。今ごろどうされているのか…。

人からもらった下関駅のC62「さくら」。今も大事に貼ってある。

 

その1年半後、意外に早く下関駅訪問が実現する。高校2年生のとき、初めて一人で行った長距離の撮影旅行、夜行列車で迎えた早朝に下関駅に下車した。高架のホームから朝陽が昇り始めた関門海峡が望める。こんな大きな駅で海のすぐ側にある駅というのも珍しいことだ。下関は直流区間の終端で、181系特急、153系急行が続発、客車を牽くEF58は下関機関区に39両が集結し、最大のEF58配置区だった。興奮を抑え切れずに駅で写しまくったのは言うまでもない。この日は、門司区、若松区を巡って、初めてのユースホステル宿泊として、市内の火の山ユースホステルに泊まったのも印象深い。
この日のことには後日談がある。下関駅の旧駅舎が建て替えされるのを惜しんで、旧駅の思い出文集の募集があった。この日の印象を纏めて送ったところ、日の出の写真とともに掲載されたのも思い出深い。
K.H.生さんも書かれているように、三角屋根の特徴ある下関駅駅舎は、2006年に放火で全焼した。前述の文集はその建て替えに際して発行されたものだった。1999年には駅の自由通路を暴走してきた自動車に多数の乗客が轢き殺される事件が出るなど、旧駅の末期には不幸な出来事が続いた。

その後、何度も下関駅を通ったが、通過するだけで、駅に降り立つこともなくなった。しかし、下関駅を出て、機関区を眺めながらぐんぐん下っていき、関門トンネルに吸い込まれ、いよいよ九州へ踏み込むという感慨は、本州最西端の下関ならではの思い出だった。

 

ホームから関門海峡に昇る朝陽が眺められた

下関駅で発車を待つ「第一しおじ」。先頭はクハ181-1

多くの人の旧駅の思いが詰まった文集

写真展「鉄路輝く」滞りなく終了

6月6日から交通科学博物館で開催されていた、当クローバー会の写真展「鉄路輝く」は、本21日を持って終了した。本日は16時から撤収去作業を行ない、梱包作業に全生命を賭けたT会員の陣頭指揮のもと、参加会員の協力で一時間余後にはすっかり片付き、写真展は滞りなく幕を下ろした。このあと、乙訓や須磨、武庫之荘の大老のみが祝杯を上げに弁天町の歓楽街へ繰り出して行ったのであった。

最終日も日曜日とあって、人気のレイアウト運転の終了後は写真展会場も大賑わい。小さな子供が歓声を上げて写真に見入る姿にはすっかり癒されてしまった。もともと鉄道ファンの来場はほとんどなかったが、その代わりとくに目立ったのは熱心な“鉄子”の存在。彼女らは決まって二人以上で訪れ、キャプションの一言一句までも食い入るように見つめていた。漏れ聞こえてくる会話もかなりレベルが高い。

小さな子供たち、あるいは女性などに、写真展を通じて鉄道の魅力を訴えられたとしたら、これはこれで写真展の大きな成果と言えよう。3回、4回と、写真展が永続的に開催されることを期待したい。

今日も大賑わいの会場。若い世代も熱心に鑑賞

“人間国宝”も会場に。会員からの質問に熱心に答える。

“鉄子”参上。話す内容もかなり専門的。

手際よく写真の撤収を行なう会員たち。

20日(土)には打上げが行なわれた。東京、名古屋、富山からも会員が駆け付け、17名が和やかに交歓し、写真展の成功を祝った。

写真展「鉄路輝く」 中盤に入る

6月5日にスタートしたクローバー会写真展「鉄路輝く」も中盤に入り、会期も一週間を残すのみとなった。本日13日も千葉県から駆け付けた会員も含め、多くの出展者が会場に参集した。以下、写真もまじえて当日の様子を伝えよう。

いちばん気になる来場者の入りだが、土日とはいえ、正直、写真展だけを目的の来場者はほとんどいない。圧倒的に多いのは、小さな子供を連れたファミリーだ。とくに人気の模型運転会が引けると、その隣にある写真展会場は、いっときの大入りを記録し、歓声、嬌声に包まれる。それも10分程度で潮が引いてしまうが、なかには椅子に腰掛けてじっくり見学する親子連れなど熱心な来場客も見られる。

いわゆるマニアは、すでに交通科学博物館は入館済みで、入場料を払ってまで再来するのに抵抗があるのかもしれない。しかし、鉄道に縁のない女性や、将来に見込みのある子供たちに、写真展を通じて鉄道の魅力に触れてもらうことこそ、写真展の本来の目的でもあり、その点では所期の目的を果たした写真展であったといえよう。

まだの会員は、ぜひ会場へ!

企画展示室のメイン会場に並んだ会員渾身の力作

やはり人間国宝の二人の写真には重みがある。

椅子に座って熱心に鑑賞する親子連れ

この子の将来、鉄ちゃんに間違いなし!

写真展準備完了! 6日から開催

クローバー会写真展「鉄路輝く」が、いよいよ大阪・交通科学博物館で6月6日(土)から開催されます。

会員から寄せられた選りすぐりの写真は全部で90点。厳冬の北海道から、灼熱の九州から、はたまた砂塵舞う中国から、会員がヒマとカネに飽かして撮りまくった珠玉の作品が見事に揃いました。

プリントはフジカラーの極上仕上げ、大きく伸ばした写真との対話は、あたかも名画を見るような至福のひと時です。

これに先立ち、プリントのパネル貼り、会場での設営と、連日続けられた準備作業は、関係者の並々ならぬ努力と協力があってこその無事完了でした。

メール環境にある会員には、写真展の案内を配信していますので、ご確認ください。さあ、弁天町へ、交通科学博物館へ、写真展へ。

パネル貼りした写真を梱包して発送

1点ずつ実測しながらピンで貼り付ける

人間国宝の貴重な写真も展示、懐かしのマイテHMも

最後に看板を取り付けて設営完了

市電誘拐事件!?

京都市内の高架下(コンプライアンスのために場所を秘す)に保管されていた京都市電(700型、500型など)がいつの間にかなくなっているのに近くに住んでいる市電マニアが気づいて大騒ぎになっている。

いなくなったのが分かったのが10日の日曜日。散歩していた市電マニアがいつもの様に高架下に目をやると、トタン葺きの小屋は跡形もなくなりきれいに整地されていた。あわてて付近を探したが行方はようとして分かっていない。また今のところ身代金などの要求は来ていない模様。

だれか行き先を知っている方があれば編集部までご連絡願いたし。

「みんなの鉄道」写真展のお知らせ

~おいでよ!レールエンターテイメント~と題して写真展が東京の富士フイルムスクエアー1階ギャラリー「PHOTO IS」で開催中です。

6月から弁天町・鉄道科学館でDRFC写真展「鉄路輝く」が開催されますがわれわれの腕前向上にはプロの作品を見ることが欠かせません。東京の六本木なので関西在住の我々はなかなか行けませんが東京支部員の皆さんは見てきて感想などを聞かせてほしいものです。

出品者は、牛山隆信、栗原景、中井精也、真島満秀、持田昭俊、矢野直美、山崎友也

その他、特別イベントも開催されるらしい。入場料無料

【日時】5/27まで。 10:00から19:00

【場所】東京都港区赤坂9-7-3 東京ミッドタウン内 03-6271-3350

京阪のポスター???

京阪電車に乗るとき、こんなポスターに目が行きました。これってなんか変ではないですか?

快速急行・通勤快急共に3000系の三扉車で運用していますからこのポスターの言いたいことは「足下の黄色の△(8000系二扉位置)とみどりの△(特急に三扉車を使ったときの中央扉位置)でお待ち下さい」です。

「または」を使うと「どちらか」の意味になり混乱するのでは?と思いましたが皆様はいかがでしょうか?

この場合は「足下の黄色及びみどりの△位置でお並び下さい」でいいのではないでしょうか。

桜を求めて三岐鉄道へ(2)

(祝!「デジタル元祖青信号」復旧。見られないときは一日が終わった気がしませんでした。管理人さんのご苦労を偲びつつ、投稿を続けます。)

桜満開の大安駅付近で撮影を終え、ひと駅だけ戻って梅戸井へ、往きのロケハンで見つけた場所へ向かいます。まず大安寄りのJA横にある桜並木へ。車内から見る限りでは、線路と並行した桜並木はここしかありません。光線もバリ順、待っていると計ったようにすぐに貨物が通過する効率の良さ。

続いて反対側の北勢中央公園口側へ。ここにも田んぼの中をキレイなカーブが走り、午後からはインカーブで定番写真を撮ることができます。電機も去ることながら3両編成20m車の電車も二丁パンタを上げて堂々と通過していきます。

桜並木の横を行く下り貨物 梅戸井~大安

電車は自転車の持ち込みも可能

電車はすべて西武鉄道の中古電車です。2両編成と3両編成があり、先ごろ751系(元西武新101系)がデビュー、代わりに601系(元西武571系)が廃車となり、冷房化率1005%を達成しました。1編成の広告電車を除き、すべて三岐オリジナルカラーに塗られているのも好ましく感じます。
駅に戻ると、初老の駅員が迎えてくれ、あれこれと話し込みます。三岐の駅は、無人の西野尻駅を除き、あとすべての駅が駅員配置になっていて、無人化を進める他のJR・私鉄とは全く逆行する充実振りには目を見張ります。会社としては、近鉄と一体となった自動改札の導入を計画しているようですが、初期費用の高さで実行に踏み切れず、退職した職員などで人件費を抑えて、駅員配置を維持しているとのことでした。そのため、各駅とも整備が行き届き、たいへん気持ちよく駅を利用できます。そして何より、コミュニケーションのある、今では忘れ去られた駅での光景がまだ三岐には残っているのです。今日も、高校の入学式を終えた親子がさっそく駅の窓口で初めての通学定期券を買い求める、懐かしい光景がありました。
しかし、人的なサービスが充足されても乗客減少に歯止めはかかりません。四日市周辺のこの地のこと、工場に通う通勤客も多そうに思いますが、最近の工場は電車線から離れた郊外に立地することが多く、好んで電車を使っても下車駅からの移動手段がなく、電車通勤は皆無に近いと嘆いていました。そこで三岐では、自動車・自転車のパークアンドライドを実施、各駅には無料の駐車場・駐輪場が確保され、自動車・自転車からの転移に期待をかけています。見る限りでは、自動車・自転車とも相当埋まっています。また、自転車は、平日は三里~西藤原間、土日ではほぼ全区間、無料で車内に持ち込めるサービスも実施しています。空いた車内では全く問題はないと思いますが、この日見かけたのは皆無でした。
電車は、富田から車庫のある保々までは30分ヘッド、保々~西藤原間の閑散区間は、ほぼ1時間ヘッドでしたが、2003年に倍のほぼ30分ヘッドに増強、前記のパークアンドライドの実施、“ひと駅いちテーマ”で特徴のある駅、鉄道博物館などのイベントの実施などの手を打ち、下げ止まりの傾向が出てきているのでしょうか。確かに30分ヘッドだと撮影するにしても移動がたいへん楽で効率的です。

桜のなか、電機の魅力に酔い、三岐の魅力に触れた一日でした。

大カーブを行く上り貨物

20m3両編成 北勢中央公園口~梅戸井

一輪の花が印象的な梅戸井駅

 

桜を求めて三岐鉄道へ (1)

今年の桜は開花時に天候に恵まれ、近年になく花持ちが長くなりました。
今年はどこへ行こうか…。最初は、ぶんしゅうさんに刺激されて四国や、クローバー会の重鎮と小湊鉄道へと考えていたのですが、遠距離は仕事で諦めざるを得ず、以前の掲示板でぷるぷるさんが三岐鉄道の訪問記を載せられていたのを思い出し、青春18きっぷを手に関西本線は富田へと向かいました。
以前にも、クローバー会のメンバーと三岐を訪れたことはありますが、一人で走行写真を撮るのは初めて、まずはロケハンも兼ねて、1000円のフリー切符を購入し、近鉄富田駅3番ホームに停車中の電車に乗り込みます。終点の東藤原までが片道500円ですから、十分にモトの取れる切符です。まず藤原岳をバックに直線区間を俯瞰できる定番の撮影地で撮るため、丹生川で下車。ところが向かっている途中で早くも踏切が鳴り出し、ED45重連の上り貨物が通過。機材を撤収したと思ったら、隣の駅で交換した下り貨物がまた通過と、あまりの効率の良さにニンマリしてしまいます。どうやらこの3月のダイヤ改正で貨物にも変更があったようです。やはり私鉄では珍しくなった定期の貨物列車が頻繁に通過するのが三岐の最大の魅力です。

三里~丹生川間を行くフライアッシュ輸送の下り貨物

廃車の電機も見える東藤原駅構内、セメント工場が背後に迫る

ここで三岐の貨物列車の概要を…。藤原岳から産出される石灰岩を、東藤原駅近くにある太平洋セメント藤原工場で生成し、セメント原材料をJR富田まで輸送するのが、三岐の貨物の主務です。重量貨物だけにED45はすべて重連総括制御となります。戻りの列車は返空もあるものの、一部はフライアッシュ輸送も行っており、特異なスタイルをしたホキ1000を見ることもできます。一時は、中部国際空港埋立用の土砂輸送も行い、他社から電機を購入するなど盛期を迎えます。ピークは過ぎたものの、本業のセメント輸送はなお盛んに行われ、貨物収入が旅客収入を上回ります。電機はED45が8両、前歴は異なりますが、ほとんど同タイプで、重連×3組の6両使用、2両予備となっています。ただ片パンとなりますので、撮るにはパンタが前に出る富田行きの方が絵になります。
早くも上下2本の貨物を撮ったあと、丹生川から乗って終点の西藤原駅まで往復してみます。乗っていると気がつきませんが、北勢線とはほぼ1.5キロの間隔で並行しています。今は同じ会社ですが、こんな地域に元は経営体の違う私鉄が並行しているのは稀有なことです。そういえば、以前、クローバー会の面々と乗り歩きしたときは、三岐の伊勢治田駅で降り、そこから小走りに歩いて北勢線の終点、阿下喜まで行ったことを思い出します。このように歩いて行けるほどに両者は近いのです。セメント工場のある東藤原駅まで来ると、異様な山容の藤原岳が眼前に聳え、構内ではホッパ車、タンク車の入換が盛んに行われています。一転して山間区間を走った電車は終点の西藤原駅へ。駅構内には、ウィステリア鉄道と呼ばれる模型鉄道があり、実物のEL、DL、SLも保存展示されています。

西藤原から乗った戻りの電車で降りたのが大安という縁起のいい駅。駅舎は図書館に併設されており、地域のコミュニティの中心施設としての役割も果たしています。5分ばかり北へ歩くと宇賀川鉄橋があり、堤防は両側とも桜が真っ盛り。バーベキューのいい匂いを嗅ぎながら、つぎつぎに来る電車・貨物を写します。撮り鉄もほんの2、3人、最高の条件のなかで、好きな写真を撮れる至福の時間でした。

重連回送が桜満開の宇賀川鉄橋を行く

電車のカラーも青空によく映える

一時間に一本は貨物が来る電機天国

「富士」を送る (2)

151系電車の「富士」が消えた翌日、昭和39年10月1日からは、別の寝台特急に「富士」の名は受け継がれます。東京~熊本・大分間の特急「みずほ」のうち、山陽本線の全線電化を機に大分編成を単独運転することになり、その名が「富士」となったのです。客車はもちろん20系、牽引は東京~下関間がEF60500番代、門司~大分間がDF50、翌年には東京~下関間がEF65500番代(P形)に変更されたため、EF60500番代「富士」はごく短期間でした。特派員も写している訳はなく、他の特急でその姿を偲ぶことにします。

EF60に牽かれ丹那トンネルを出る「富士」、ではなく「あさかぜ」(昭和40年)

さらに同昭和40年10月改正から西鹿児島まで延長、「富士」は、日豊本線経由で東京~西鹿児島間を結ぶ日本一長距離の特急となります。蒸機を求めて九州を彷徨っていると、DF50のオレンジ・グレーと20系客車の青い車体が絶妙のバランスで、特急への羨望を抱かせたものでした。DF50が門司~西鹿児島間をロングランしたのも特筆されます。

日豊本線大神駅を通過する上り「富士」(昭和42年)

日豊本線田野の鉄橋を行くDF50+20系の「富士」(昭和42年)

 いっぽう客車も昭和50年には20系から24系に。昭和51年にはさらに24系25形に置き換えられます。さらに牽引機も昭和53年にはEF651000番代(PF形)に変更されます。趣味的に見れば、昭和40年から50年までの10年間、EF65P+20系の時代が最も輝いていた時代に見えます。

広島駅に到着の下り「富士」。20系客車は15両の長大編成だった(昭和42年)

湯河原付近のカーブを駆け、東京へ急ぐ上り「富士」(昭和49年)

その後昭和60年になるとEF66に牽引機を変更、JRになってからは、ロビーカー、個室寝台ソロなどの体質改善が図られますが、その後の凋落化に歯止めが掛からず、食堂車の営業休止、運転区間も南宮崎、大分と短縮、ついには平成17年に「はやぶさ」と併結となり、14系15形となった編成も半減となり、ついには廃止を迎えることになりました。

EF66牽引となった「富士」。ヘッドマークも戦前の展望車のバックサインに似せたデザインとなった。藤沢付近(平成7年)

「はやぶさ」と併結となった現在の「富士」。名古屋駅(平成20年)

 

「富士」を送る (1)

特急「富士・はやぶさ」が3月14日のJRダイヤ改正で姿を消します。東京駅から発着する特急寝台はすべて消えてしまうことになり、毎度のことながら激パの様相を呈しているようです。
今まで冷ややかな眼で見ていた特派員も、さすがに終わりが近づくと、居ても立ってもいられず、上京の機会があるとカメラ持参で行くようになりました。しかし、行くたびにダイヤが乱れてカラ振りばっかり。ついに18きっぷ初日に、これも定期運用がなくなる「ながら」に乗って東田子の浦でやっと最後の姿を捉えることができました。

あと10日余りの「富士はやぶさ」が東田子の浦を通過

「富士・はやぶさ」のなかでも「富士」は、「櫻」とともに最初の愛称名であり、まさに日本を代表する特急として格別の思いがあります。「さくら」は九州新幹線で復活することになりましたが、「富士」の名は地域性もあって、再び復活することはないのでしょうか。

「富士」「櫻」は、昭和4年に一般公募によって付けられた初めての愛称で、同年9月のダイヤ改正で、「富士」は東京~下関間の1・2等特急、「櫻」は東京~下関間の3等特急として走り始め、まもなく最後尾にヘッドマークも付けられます。その後、関門トンネルの開通によって「富士」は、長崎まで延長されるものの、太平洋戦争の勃発により、ほかの特急「燕」「鴎」とともに「富士」「櫻」の名は昭和19年に消えます。
戦後の特急復活は昭和24年の「へいわ」から始まります。その一年後には「へいわ」は「つばめ」に改称、続いて「さくら」が昭和26年に臨時特急で、「かもめ」も昭和28年から山陽本線の特急としてそれぞれ復活、戦前の特急愛称のうち、3列車は復活しますが、「富士」だけはその名を表しません。日本を代表する愛称であったため、それに相応しい列車が現れるまでは使用を控えたというのは有名な話です。

ようやく「富士」の名が表れるのは、昭和36年10月、“サンロクトオ”の特急増発のときです。すでに走っていた、こだま型151系の増備によって、東京~神戸~宇野間に新設された電車特急が「第1富士」「第2富士」となります。
写真は、特派員が山科でとらえた唯一のマシな電車特急「富士」です。時は昭和39年9月30日、東海道新幹線の開業を翌日に控えた、東海道本線電車特急の最後の日なのです。当時、特派員はまだ中学3年生、平日だったため、午後3時ごろ学校から帰り、それから京津線に乗って御陵で降り、築堤へ駆け上がって次々に来る本日最終の優等列車をオリンパスペンEで撮りまくりました。

最後の日の151系「富士」。明日からは新幹線が開業し電車特急はすべて東海道線から撤退する

今なら、恐ろしい数が押し寄せてくるはずの最終日にも関わらず、大カーブには誰一人として居ません。天下の名勝、山科大カーブを独り占めしてじっくり最終日をかみ締めたのでした。
井原実さんが、この「富士」に連結されていたクロ151の一等特別席であるパーラーカーに乗るために、アルバイトで溜めた資金を大枚はたいて神戸から東京まで乗り通したことが旧掲示板に記されています。写真の最後部がそのクロ151です。

門鉄デフのD50

以前の澤村達也さんのコメントに「門鉄デフのD50のバラキットを持っているので、参考になる現物機を紹介してほしい」とのご要望があり、また紹介しますと約束してから、もうかなりの日数が経ってしまいました。やっと該当するネガを探し出すことができました。 

門鉄デフはC55・C57に代表される旅客用蒸機がとくに有名ですが、D50・D60のような貨物用の太いボイラーを備えた蒸機に装備すると、まるでゼロワンを彷彿とさせるようなスタイルになり意外と似合うものです。私が蒸機を本格的に撮り出した昭和40年代の前半、D50の総数380両のうち、昭和42年度は63両、昭和43年度では21両と急速にその数を減じていきます。そのうち、撮影できた25両のなかで門鉄デフ装備は7両に過ぎません。うち1両を除いて、門鉄デフの本場、北九州に在籍していました。いずれも分類上、K-7形と称される小倉工場製の切り欠きデフですが、デフそのものの大きさは機によって少し違います。63,129、374は除煙板が比較的小さいタイプ、これに対して105は大きなタイプ、また62,90は除煙板の下辺が斜めになっています。

 

 

北九州以外のもう1両は、米原区のD50131でした。この機は長野工場製の切り欠きデフN-2形で、形はだいぶ違います。米原~田村間の交直接続に、他のD50とともに使用されていましたので、ご覧になった方も多いと思います。

模型化の参考になれば幸いです。  

 

大分区で出区待ちの05062(大)は大きな切り欠きデフ

 

門司区で見かけた〔柳〕のD5063 オーソドックスな門デフを装備

石炭車を牽いて筑前垣生のカーブを行くD5090〔若〕

電化工事の進む大分区でのD50105〔大〕。大きな切り欠きデフを装備

煙だらけの門司区で休むD50129〔柳〕は標準的な切り欠きデフ

最終ナンバーに近いD50374〔柳〕は休車中

D50131〔米〕は長工式、交直接続で活躍

 

天然色写真で巡る40年前の九州(11)

仕上げは呉線

少し間が開いてしまったが、今回でひとまず最終章としたい。

20日余りの九州滞在を終えて(大阪発の九州均一は通用16日のはず、と訝る向きもあろうが、これにはちょっとした仕掛けがあった…)、夜行の臨時急行「桜島」に乗り早暁の広島駅に到着した。

広島駅で発車を待つ呉線C6241牽引622列車(昭和44年3月27日)

呉線ホームへ行くと、もうすでに呉線の始発622列車がホームに入線している。牽引機を見に行くとC6241である。ボイラーの熱気と石炭の匂いが全身を包み込む。私は山陽本線の蒸機全盛時代は知る由もなく、電化直前の姿を辛うじて垣間見ることができた世代だが、広島駅のゆったりしたホームで発車を待つ呉線の列車は、山陽本線時代を髣髴とさせる雄姿を醸し出していた。

その始発列車に乗り、広~安芸阿賀間の鉄橋で、朝のラッシュ時に陸続として広島へ向かうC59・62列車を捕らえたのち、ラッシュの一段落した小屋浦に降り立った。呉線では広~広島間でC59・62列車を多く稼げる。小屋浦はその区間の代表的な撮影地として知られていた。ただ、ずっと国道と並行し、店舗や家屋も多く、代表的な“クサイ”撮影地としても名を馳せていた。しかし今から思えば、国道の車両の通行もわずかで、家屋も今のようなド派手なものではなく、“クサイ”など揶揄したらバチがあたりそうである。

瀬戸内に沿って走るC59161牽引622列車(昭和44年3月27日)

ここで、C59161の牽く上り列車を写した。糸崎機関区のC59は、161、162、164の3両。C59全製造数の173両のなかで生き延びたのはこの3両だけと、他の大型機、C60、61、62がまだまだ健在なのに比べると、残ったのは極めて少ない。急行旅客機らしいスマートで、蒸機のなかでは最もバランスのとれた最高の形態美だとの評価が高い。「かもめ」牽引を始めとして、C59は山陽本線を代表するカマでもあった。

この日は、夕方まで小屋浦で粘り、その日は広島ユース泊、翌日から二日間は、鉄道同好会恒例の春の大狂化合宿が、呉の国民宿舎「音戸ロッジ」で華々しく挙行され、久しぶりにクラブの面々と和やかに一夜を送ったのであった。

ところが、九州の最終日、筑豊本線で撮影中、泥沼に下半身がはまってしまい、それ以来少し風邪気味のところへ、夜遅くまでハシャギすぎたのがたたって、翌日は熱も出てかなりの重症で、動けるような状態ではない。旅行中に病気になったのは後にも先にも、この時だけである。それでも気力を振り絞ってみんなともに安登まで行き、ヘッドマーク付きの最後のC62「安芸」を捉えた。しかし、もう体力・気力も限界、雨も降ってきて寒さが余計こたえる。まだ撮り続けるみんなと別れ、這うようにして呉線を去って行った。(終)

安登付近の勾配を上る下り急行「音戸」(昭和44年3月29日)

 

掲示板記事が『レイル』に載る!

このたび発売されたプレス・アイゼンバーン『レイル』67号に、当クローバー会の重鎮、藤本哲男さんによる「法勝寺訪問記」、「山陰本線の客車たち」が24ページに渡って掲載されています。
特集テーマ「米子」にちなむ掲載で、「法勝寺」は昭和42年の自身の訪問記が記され、「客車」は山陰本線京都駅に出入りした客車が、藤本さん独自のカメラアイで綴られています。
「法勝寺」と聞いて思い出すのは、この掲示板に載った藤本さんの法勝寺の記事、そう、事の発端は、この掲示板を見ていた出版元のM氏が、須磨の老人を通じて、原稿依頼されたのが真相なのです。掲示板もクローバー会だけの連絡網でないことを改めて実感しました。趣味界のオピニオンリーダーもしっかり閲覧しているのです。
この出版の話を聞いたのは、先日、信越線へEF55の撮影に藤本さんと同行し、列車の通過を待っている間でした。鶴首して待っていた特派員は、昨日書店で発売を確認、値が張って普段は立ち読みで済ますものを、真っ先に買い求め読みふけりました。特派員も同じ年に法勝寺を訪れており、たいへん懐かしい気持ちでした。
同誌の「あとがき」で客車の例をとらえて、M氏は「日常のこまめな記録の成果」と述べています。事実、掲載されている客車は因縁のある車輌ばかりで、相当通い詰めなければ撮れないものばかりです。このスタイルを小学校の時から貫いてきた藤本さんは膨大な記録をお持ちです。掲示板でもすでにお馴染みですが、さらに出版界でもその一端が窺い知れたのです。

買って読もう『レイル』67号

 

天然色写真で巡る40年前の九州 (10)

最後は筑豊本線

九州の締めは、また筑豊である。九州に入ってまず筑豊で撮り、夜行を駆使して九州各地を転戦したあと、最後は筑豊へ戻ってくる。「筑豊に始まり筑豊で終わる」である。
そのメインラインである筑豊本線、勾配区間で狙うなら、筑前内野~筑前山家間の冷水峠を置いて他はない。両側から25‰勾配がサミットとなる冷水トンネルまで続き、多くの列車に補機が付く。旅客列車では、普通列車の大部分がC55の牽く客車列車である。白眉は、朝に峠へ向かう急行「天草」である。先頭はDD51であるが、飯塚~鳥栖間には、D50またはD60の後補機が付く。
この列車は、筑豊本線経由で熊本へ向かっている。つまり博多を通らない急行列車である。距離だけで見れば、博多経由より若干短いのに加え、沿線の直方、飯塚の下車客の配慮もあったのだろう(当時、博多~飯塚間の篠栗線は全通していない)。今のように博多に一極集中している列車体系からは考えも付かない設定である。

加えて、当時の特急「かもめ」でさえも、小倉で長崎・佐世保編成を分割、長崎行きが鹿児島本線経由、佐世保行きが筑豊本線経由で運転され、両者が再び合流する原田~鳥栖~肥前山口では、2列車が10分の違いで雁行していた。

DD51が牽き、D60が押す「天草」。客車も興味深い編成(昭和44年3月22日)

さて、峠近くの高台から「天草」を迎え打ったのが上の写真。右に見える青年は? なにを隠そう40年前の特派員そのものである。当時は、モノクロとカラー、2台のカメラで写していた。モノクロは手持ち、カラーはヘナヘナの三脚に据え、レリーズを押して写していた。本人を避けてカメラを据えたつもりが、しっかりと画面に入ってしまったという次第。
並行する国道は2、3年前までは未舗装だったが、改良工事で車線も広げられて舗装された。その際に真っ白なコンクリートで山肌が固められてしまい、随分様相が変わってしまった。
いっぽう、貨物列車は、飯塚に集結した石炭列車は、若松や苅田港へ送られるので、この区間を通ることはないが、それでも一時間に一本程度は上下列車が通過する。まだD51はごく僅か、ほとんどがD50、D60だった時代である。

大型の門デフを付けたD5090が、菜の花畑の横を下って行く

 

天然色写真で巡る40年前の九州 (9)

掲示板をご覧の皆様に新年のご祝詞を申し上げます。

新年早々、湯口先輩、藤本さん、西村さん、KH生さんの投稿も拝見し、不肖、総本家青信号特派員は今年もセッセと投稿を続けていくことにします。

鹿児島本線のC60・C61

今回の九州行きの大きな目的は、完全電化間近の鹿児島本線で、C60・C61を撮ることだった。昭和44年のこの時期、C60・C61に関しては、東北の牙城だった盛岡区は、前年の東北本線完全電化で姿を消し、奥羽本線用に青森区が残るのみ。九州は、長崎本線のDL化で鳥栖区になく、残るは鹿児島本線用の鹿児島区のみで、それも昭和45年10月に予定されている鹿児島本線熊本~西鹿児島間の電化までの命で、風前の灯だった。同じハドソン機でも、函館本線、呉線で急行列車をなおも牽いていたC62とは対照的だった。
さて、鹿児島本線の電化が迫っていたが、何ヵ所かは別線になる区間があり、まだ架線柱のない正統写真が撮れる。鹿児島に近い、上伊集院~薩摩松元間がその代表であった。単線ではあるが、旅客、貨物ともかなりの頻度で通り、しかも10~20‰の勾配が続く。

上伊集院から歩くこと10数分、いきなりやってきたのが、写真の下り急行「桜島」だった。牽引はC60102である。この時期の「桜島」は、東海道線最後の急行で名を売った「桜島・高千穂」時代のものでなく、大阪~西鹿児島間の不定期急行で、写真のようにグリーン車1両のみ、あとはすべてハザという列車であった。優等列車で蒸機牽引はこの「桜島」などの不定期・臨時列車のみ、あとはDD51牽引、普通列車はC60またはC61、貨物列車はD51、面白いのは、伊集院方から国鉄に乗り入れる鹿児島交通のDCで、車両は前記のキハ100ではなく、国鉄キハ10をベースにしたキハ300形が単行で使用されていた。また山野線の貨物を牽くC56が回送として普通列車にブラ下がっていく光景も見られた。

シラス台地を登って行くC60102の牽く「桜島」

 

天然色写真で巡る40年前の九州 (8)

鹿児島交通

指宿枕崎線に乗って南国の旅は続く。車窓から見る開聞岳は美しい円弧を描いている。終点の枕崎で鹿児島交通のキハ105に乗り換える。キハ100形101~106は、国鉄キハ07の100番台車と酷似した自社発注車で昭和27年製。赤に青帯という強烈な塗装が南国らしい。単行の車内は高校生で満員。この頃から田舎の高校生の車内マナーは悪かったが、現代のような悪態はなく、バンカラの延長ともとれる、まだ容認できるものであった。

キハ07似の鹿児島交通キハ100

鹿児島交通は、当時、枕崎と伊集院を結んでいた49.6kmの私鉄で、かつては南薩鉄道と名乗っていた。途中から分岐して知覧までの支線もあったが、水害によって訪れる4年前に廃止になっている。ちょうと中間の加世田に車庫がある。
加世田を有名にしたのは、7両の蒸機の廃車体である。いずれも自社で使用され、廃車後、10年以上前から野外に放置されたままになっている。その錆び方も尋常ではない。

下の写真の一枚目、1・2両目は、開業時に製造した大正2年製のハノーバー社製C型タンク機の2・1号機。3両目は4号機で、大正15年日車製のC型タンク機、二枚目の3両、先頭から13・14・12号機、いずれも国鉄C12形を飽和式に改めた自社機12形で、この3両が在籍していた。
加世田駅・車庫はこの放置蒸機だけでなく、オープンデッキの客車や貨車の廃車体もおびただしく、建屋も朽ち果てて末路を見る思いだったが、意外に長持ちし、昭和59年3月に廃止となった。直接の要因も、水害による不通区間の復旧困難のためで、最後までイベント蒸機の運転や軽快気動車の導入が検討されていたという。

加世田の放置蒸機。先頭はドイツ・ハノーバー社製

国鉄C12と同型の自社機12形は3両連なって放置

天然色写真で振り返る40年前の九州(7)

鹿児島市電

西鹿児島駅前に進入する400形(2点とも昭和44年3月21日)

蒸機を巡る九州の旅は続く。相変わらず夜行列車を活用した南北トンボ返りパターンだった。満員の夜行臨時急行「しろやま51号」で西鹿児島駅に降り立った。多くの蒸機が集結する鹿児島機関区でたっぷり時間を掛けて撮影し、久しぶりのユースホステルへ向かう途中の西鹿児島駅前で鹿児島市電をとらえる。
この時代の鹿児島市電、のちに廃止となる上町線、伊敷線も健在で、市電のピークを迎えていた。増加する需要に対処するため、廃止の続いていた大阪市電から大量の車両を購入していた。懐も豊かだったのだろうか、徹底的に改造され、鹿児島市電型ともいうべきスタイルに生まれ変わった。中には鹿児島では初登場となる連接車も含まれていた。
そのような中で現れたのは、412号(400形)と607号(600形)であった。
400形は、元は東京都電の木造ボギーの4000形で、鹿児島で半鋼製の正面二枚窓に改造された。東京と大阪の路面電車が在籍したのも鹿児島だけではないだろうか。しかし、この車両も大阪からの転属車両の増加に伴い、撮影したこの年には廃車されてしまう。

南国らしい駅前に停車中の600形

もう一方の600形は昭和34年の鹿児島生まれ。正面が小大小の3枚窓、方向幕上のヘッドライト、パンタ集電と、典型的な鹿児島市電スタイルである。それ以上に鹿児島を印象づけるのは、この黄と緑の塗装だろう。一見、ド派手な趣味の悪そうな塗装に見えるが、いかにも南国らしい鹿児島を印象付ける色である。事実、のちにクリームに赤帯が標準塗装となるが、リバイバル塗装として、この色が復活している。
この西鹿児島駅前、現在までに2回の路線移設を経て、九州新幹線の終点の駅前としての形を整え、電停名も鹿児島中央駅前となった。少し前、40年ぶりに駅前に立った。低床車1000・7000形が走る市電にも、観覧車がある駅前風景にも、当時の面影はなかった。

江若鉄道高島町駅のこと

しばらく掲示板から遠ざかっていましたが、年末になって思い残してきたことを書き連ねていきます。
まず、西村雅幸さんが以前に江若鉄道のDD13+オハ27を完成され、オハ27が留置してあった高島町駅構内をレイアウトに再現するための資料を求めておられる記事を読みました。
まずは模型の完成をお祝いするとともに、私の撮っていた高島町駅の写真を遅ればせながら載せたいと思います。
高島町は、終点の近江今津に近い主要駅で、一時は終点であっただけに、2面4線のホームのほか、側線も持つ広い構内でした。どうしても車両ばかりに目が行き、なかなか駅の施設にまでは目が行かないもので、私はこんな程度しか撮っていません。なにかの参考になれば幸いです。
われわれの鉄道趣味活動の原点ともいえる江若鉄道が模型で再現されることを願っています。

改札口からホームを見る。

オハ27は下り方ホームに横付けされて留置されていた。

山側から見るオハ27。もう一本側線があった。

高島町の駅名標。楷書の書体も懐かしい。

駅舎正面 (大津歴史博物館図録より転載)

列車のキー

悪評高い「2ちゃんねる」の愛読者でもある小生は、興味あるスレッドをみつけました。

函館本線での運転事故に関する新聞記事を取り上げていました。記事は次のようなものです。

>13日午前6時15分ごろ、北海道蘭越町のJR函館線蘭越駅で、蘭越発札幌行きの快速列車の男性運転士(25)が、ホームと列車のすき間に運転キーを落とすトラブルがあった。この快速など3本に遅れが出て、約70人に影響した。JR北海道によると、運転士は折り返し運転のため、先頭の運転室に向かう途中にキーを落とした。ホーム上を探したが見つからず、代わりのキーを手配して約1時間遅れで出発。
後続列車の運転士がキーが線路に落ちているのを見つけた。キーは前後の運転室の制御切り替えに必要だった。<

これに対する読者からの書き込みがこれだ。(品がないのはご容赦を!)

>電車にキーなんかあるわけねえだろw エンジンついてるのかよw

>>後続列車の運転士がキーが線路に落ちているのを見つけた
 よほどでかいキーだったんかね?

>電車ではなく気動車

>1時間遅れで70人だもんなw

と、まあこんな具合です。鉄道に趣味がないと言うことは知識もないと言うことですから一般的にはこのやりとりは普通でしょうね。でも、改めて「キー」と言われるとどんなものだったか、昔の気動車ならマスコンにモンキースパナ型のを差し込んで前進位置へ動かせればOKでしたが最近のは分かりません。誰か教えて!電車はキーになってるのかな?