びわこ号がもう一度見られる?

朝のドラマで、主人公が岸和田と母方の出所の神戸を往復するシーンがたびたび出てきます。その移動に使う電車がその時代を上手く表しているのですが、どうもその電車は京阪の60・びわこ号らしいのですが誰か知りませんか?

この絵は、ちょうど今話題になっている江若の浜大津駅が後ろに見えています。ちょうど三条方向へ坂を登るところでしょう。

ところでここにも書かれていますが、本当にびわこ号はまた走るのでしょうか?澤村さんは無理だと言っていましたが、どなたか本当のところを教えてください。

南海モハ1

先回の阪急751を「お化け電車」といいましたが、それ以上のお化けが居たそうです。南海モハ1(この番号すら南海らしくない)は木造ボディーに最新型の駆動装置をつけて上下アンバランス!高速で高野山を上り下りする姿は一度見たかったですね。南海ファンの村尾君は知っていたのでしょうか?

 

間抜けな電車

間抜けな電車!失礼ながらこの記事を読んだときの感想です。カルダンドライブの車両と吊り掛けを繋いで走らせるとはなんと言うことでしょう!そりゃ乗り心地は悪いでしょうね。昔、04型気動車の5連に乗った時を思い出しました。突くは引っ張るはでむち打ちになりそうな乗り心地でした。しかし、戦後間もない頃ですでにこんな実験が行われていたのかと感心もしました。

阪神とはおもしろい電車ですね、長老様、

長老の阪神鋼製化シリーズにぴったりのお話です。関先生は「なかなかのくせ者」とは大先輩達のもっぱらの噂ですが、こんな電車の存在をご存じで、しかも絵に描いてご説明されているのを見て驚きました。最後は野上電鉄へ行ったと言うことも書かれています。

長老様、是非ともこの機会にこの電車の解説と写真のアップをお願いします。河様、turukame様、その他ご存じの方、書き込んで教えてください。

そういえば“サロン・ド・ハンシン”の総支配人だった津村君が滝本君の見舞いに行くそうです。

南海22000型とか・・・

私鉄音痴の私にとって南海電鉄は遙か彼方の電車です。と思って読んでいくと、この春乗った“天空”の事でした。なるほど第二の人生が華やかでうらやましい限りではあります。ズームカーの意味も初めて知りました。ア~恥ずかし!!

今度は阪急2100

京都線の2300に乗ったのは大宮から東へ河原町までの延伸が完成したときでした。高校の授業を抜け出して、阪急からもらった「全線無料券」を使ってのただ乗り旅行に出かけました。といっても時間の関係で梅田折り返しがせいぜいだったのが今でも残念でなりません。

このとき乗ったのが2300、京阪の2000や阪神の5200と同じ高性能電車に地下鉄の開通と相まって新時代の空気を胸一杯に吸い込んだのを覚えています。しかし、下降式窓なのがなぜか古いイメージで、市電の500型と同じやな、とおかしな感心もしました。

おまたせしました!京阪2000系

やっと京阪2000系が登場しました。新型という意識がありますが、登場が昭和34年とか。もうそんなになるのか、と感慨を持ちますが当時とすれば先進のデザインだったと改めて感心しました。薀蓄はお任せしますが澤村氏の逝去が悔やまれて仕方ありません。

阪神ジェットカー5201型

本来なら乗る機会もない阪神電車だが、この電車には思い出があります。

それは中学に入って間もない頃、叔父が阪神鳴尾に住んでいたため休みになると遊びに行っていました。大阪駅まで国鉄で行って阪神電車に乗り換えると遙か彼方だった神戸が急に身近に感じられ、大冒険に出かけたような高揚感に満たされたのです。そんなある時、茶色い古い電車に混じって明るい赤や青の帯もまぶしい新車が入ってきました。乗ってびっくり、発車すると一気に加速して身体が吹っ飛びそうになりました。次の駅に止まる各停に乗ったつもりが通過するのかと焦りかけたそのとき、駅の中間まで過ぎたあたりで急ブレーキ!(そう思えるほど驚いた)無事停止位置に止まりました。このときの驚きは今でも忘れません。その後、国鉄環状線にも90系(後の101系)が入ったので早速乗りましたが、ジェットカーほどの加減速感はなく、国鉄ファンの私はがっかりしたのを思い出しました。

久しぶりの関三平先生です。近鉄ラビットカー6800

関先生の絵を見ていて気がついたのですが、色が少し薄いように思いました。8月に佐竹先輩の写真展で乙訓の長老様とこの色の話になりましたが、この色合いを言葉で説明するのは難しい、と言うことが結論でした。また、先生の絵は後ろ姿が多いのにも気がつきました。写真を元にしておられるのかと思いますが珍しいのではないでしょうか。今回の「近鉄ラビットカー」も見送りです。ところで今回の絵の中で右遠方から接近してくる電車が気になりました。

これはなんだ?長老様!

いくら戦後の混乱期だからといってもこんな車両がお金を取って走っていたのでしょうか?

関先生が書いておられるので本当にあるのでしょうがにわかには信じられません。そこで普段から琴電のことなら俺に聞け!とばかりに薀蓄を吐露している乙訓の長老様、藤本様、これに関する情報を公開してください。

モロハ50?

関三平先生が(?)マークをつけているので正式な車番では無いのかも知れません。クモロハ50となるのでしょうか。戦後の占領期には白帯のついた車両が多く走っていました。客車の優等車はすべてGHQに差し押さえられて将軍の名前をつけて東海道を上下していました。「戦争に負けたんや」と身に染み込まされた、とは父親の思い出話でした。たしか、湯口さんがいつだったかこの掲示板に客車の写真を出されていたように記憶しています。当時の列車を実際に見ておられるのは、佐竹さん、湯口さん、沖中さんしかおられません。皆さん、今度会ったら詳しく聞いておくことをおすすめします。

再び近鉄、でも木造車 モ1型

この電車に乗ったような気がします。叔父が生駒に住んでいてよく遊びに行ったときです。たぶん鋼製化されてからでしょうが・・

ところで今夜澤村君のお通夜に行ってきました。多くの会員にお線香をあげてもらい、写真の顔がすこし煙って見えました。焼香台の横に彼が最後まで作り続けたD50(この掲示板に製作記がでていました)の完成品とEF58が並んでいます。明日葬儀に行かれた方は必ず見てあげてください。奥様と息子さんたちが選んでくれたそうです。

広島電鉄152号

この季節になると季節の挨拶のように広島・長崎が新聞テレビを賑わせます。今回は広島の“被爆電車”こと152号です。といっても私は知りません。関三平先生のコメントも今回ばかりは切れが悪いようで、意味の理解ができない部分もあります。

同じ日の同じ新聞に被爆電車に関するコラムがでていましたので併せて掲載します。

“市電の記憶、昭和の京都”展

地下鉄の御池駅ギャラリーで福田さんの写真展が開かれています。

今日の午後、市内へ出かける用事があったので足をのばしてみました。あいにくカメラを持っていなかったためお見せできないのが残念ですが上手くまとめられていて説明と写真の配置もよく、見やすいのがいいと感じました。この手の写真展は市電の車両に偏りがちなのがさすがは福田さん、湯口先輩を彷彿とさせるような人々と市電の係わりように目を向けた作品ばかりで懐かしさで長居をしてしまいました。その間、中年以上の見るから市電世代の方々が熱心に眺めたり、携帯で気に入りの作品を撮ったりメモをする人もいました。

少し残念なのは作者の年代による制約のせいでワンマン化後がほとんどで、ツーマン時代の写真があまり無かったのはやむを得ないことと納得しています。かなうならこの次は諸先輩も交えて戦後の市電写真を並べてみたらいいなと思いました。

御池ギャラリーはまもなく廃止されるそうです。黒字を求める余りどこでも金儲け用に作り替えるのでしょうか。おそらく最後の作品展になるでしょうから皆様もぜひ行って見てください。

8月2日~19日(金)※19日のみ13時閉場

お待たせしました、N電

やぼ用で、少し掲載が遅れました。お詫びします。

さて、N電と言われた北野線の市電ですがOBの中で実際に乗ったことがある人は何人いることでしょうか。戦後、酔っぱらった進駐軍の兵隊が無理やり運転して、速度超過で堀川中立売のカーブから堀川へ転落したとか聞いたことがあります。

この絵の背景は西洞院六条あたりで、薮之内千家の土塀です。

京王電車デハ2110型

東京にいた頃、縁もゆかりもなく見たこともなかった電車だが、今見るとなかなかの物ですね。オハ31にパンタとモーターをつけたような標準型より、関先生が言うところの「タコ坊主」の方に興味がわきます。どなたか写真をお持ちではないでしょうか?

※しばらく前から記事がタテ組みからヨコ組みになったため、いちいち切って貼り合わせていましたが、今回からは新聞を切らず画像処理で組み合わせました。

ドレミ電車って?

今日のネットニュースに「ドレミ電車がなくなる」との記事が出ていました。何のことやらと読んでみると次のような話でした。

関東の方たちには当たり前の話題でしょうが関西では知りませんでした。

>ドレミファ…と音階を奏でながら走る京浜急行電鉄(京急、東京~神奈川)の通称「歌う電車」が、車両の改造工事が終わり次第、姿を消すことになった。登場からわずか10年余り。人気ユニット「くるり」の曲「赤い電車」のモデルにもなった人気車両で、京急社内でも惜しむ声が上がっている。(大竹直樹)

 「ファ~ソラシ、ドレミファ~」。車体の下から不思議な音階を奏でながら電車が動き出す。音階の正体は、モーターを制御するインバーターから聞こえる“騒音”だ。平成10年に登場した2100形電車と、14年に登場した新1000形電車に搭載されている独シーメンス社製の装置で、鉄道ファンからは「ドレミファインバーター」と呼ばれ、親しまれている。

 女性客からも「音がかわいい」といった反響も寄せられているといい、「歌う電車の宣伝はしていないが、喜んでもらえるのはうれしい」と京急。登場当時、車掌をしていた京急広報課の飯島学主任(35)は「音にも愛着をもっていただき、お客さまが目を輝かせて眺めてくれるのがうれしい」と目を細める。

 音階のように聞こえるのは、偶然の産物ではない。「実は開発したドイツ人技術者の遊び心」と語るのは、シーメンス日本法人モビリティ事業部の庄司不二雄さん(60)。ソフトのプログラムを工夫することで音を出すことができ、ドイツの高速鉄道「ICE」の車両が米国内で試験走行した際は「アメリカ国歌も奏でた」という。

 だが、京急の車両に搭載されている装置は経年劣化のため、日本製インバーターへの置き換えが進み、「歌う電車」は年々減少。2100形は10編成のうち6編成がすでに改造された。残り4編成もあと1年程度で改造を終える見込みという。

 一方、新1000形も改造工事が進んでいる。残り8編成の改造時期は定まっていないが、数年以内に全車両の改造を終える見通しで、京急社内にも“歌わない電車”への改造を惜しむ声が上がっている。

 「歌う電車」に乗るにはどうしたらいいのか。京急によると、外観で判別するのは難しく「運次第」。ただ、片側に2カ所扉がある2100形の快特電車では1時間あたり1本の確率で「歌う電車」にめぐり会える可能性があるという。

 「歌う電車」を生み出したシーメンスの庄司さんは、「なくなってしまうのは寂しいが、新しい装置に置き換わるのは時代の趨勢(すうせい)なので仕方ない」と見守っている。

 京急は「すべての『歌う電車』がなくなる時期は未定だが、残すことは考えていないので、なくなるまでに楽しんでほしい」と話している。<

(以上:産経イザより転載)

藤本さんに答える

“ところで河様、昭和41年3月頃ピク誌の「読者短信」に京都駅の3番線と4番線の間の留置線で撮影されたクハ76305の写真を投稿されておられませんでしょう。古いピク誌は京都の実家にあり確認はできていませんが、多分同じ日に私も撮影しています。”

早速探しましたらこれが見つかりました。藤本さんの記憶の写真がこれなら多少違っています。茶坊主が写っているのは1966年2月号でした。前後の号ではこれしかありません。しかもご指摘のクハ76305ですからこれのことでしょう。

撮影場所は京都駅ではなく芦屋駅で、撮影者も河様ではなく山本克彦氏でした。でも周囲の写真は懐かしい物ばかりですね。