ほぼ同月同日 50年前のあの日に還る 〈8〉

 

宿泊した向山から、ひと駅先の三沢へ。発着する十和田観光電鉄へ。駅から巨大な温泉旅館の近くまで歩き、モハ3401+クハ4401を撮る。いかにも電車らしい電車で、塗装がまたいい。東北地方初の全金製である。東急ステンレス車に置き換えられたあとも3401だけはオリジナル塗装のままイベント用として残っていた。平成24年に十和田観光は廃止になったが、いまでも七百駅跡に残っていると言う。

2月9日(水) 二年前のリベンジへ?

向山 6:30→三沢 6:36 533レ  スハフ42 2247

三沢 7:55→野辺地 8:19 急「十和田3号」

野辺地 9:15→青森 10:15  535レ  スハ32 2618

青森 10:21→弘前 11:26  442レ  オハ35 2176

弘前 12:54→大館 13:37  急「きたぐに」  スハ43 2231

大館 14:40→鷹ノ巣 15:08 444レ  オハフ61 2293

鷹ノ巣 15:10→上杉 15:38  231D  キハ20 261

上杉 17:24→鷹ノ巣 17:48  234D キハ11 110

鷹ノ巣 18:08→東能代 18:56  844レ  オハ61 2887

東能代 20:10→大館 20:51  急「しらゆき」「きたかみ」  キハ58 274

大館 21:23→米沢 4:38  急「津軽2号」  オハ47 2092

続きを読む

 ほぼ同月同日 50年前のあの日に還る 〈7〉

暖かくて快適な青森駅の連絡船待合室で一泊、と言っても4時過ぎに起き出してホームへ向かった。本日の見ものは、82系と583系の並び、82系は大阪行き「白鳥」、583系は「オリンピア」、この期間中、札幌では冬期オリンピックが開催中で、観客輸送のため、札幌~函館~青森~上野を結ぶ臨時特急が運転され、青森~上野は583系「オリンピア」が運転された。

2月8日(火) 八戸線を初乗車

青森 5:20→八戸 6:42  急「十和田1号」  オハ47 2242

八戸 7:11→本八戸 7:23  627D  キハ17 266

本八戸 9:51→久慈 11:38  631D  キハ17 270

久慈 11:46→種市 12:36  636D  キハ17 253

種市 13:01→陸中八木 13:15  633D  キハ17 267

陸中八木 14:43→陸奥湊 15:48  638D  キハ17 268

陸奥湊 16:41→八戸 16:58  640D  キハ17 265

八戸 17:06→向山 17:26  47レ  オハフ33 2564

(グリーンユースホステル宿泊 一泊二食640円)

続きを読む

 ほぼ同月同日 50年前のあの日に還る 〈6〉

深浦の旅館に泊まって、翌日は5:10に起床(手帳による)、始発の1725レに乗って鰺ヶ沢へ、10分停車ののち、7:22発車の同列車を撮影。化粧煙突のきれいな58666が牽引。

2月7日(月) 雪の五能線を堪能

深浦 5:50→鰺ヶ沢 7:12  1725レ  オハフ61 345

鰺ヶ沢 12:24→五所川原 12:57  1731D  キハ22 339

五所川原 13:16→鰺ヶ沢 13:53  1734D  キハ17 369

鰺ヶ沢 14:40→鳴沢 14:47  1735D  キハ11 104

鳴沢 16:11→川部 17:44  1739D  キハ11 103

川部 19:04→黒石 19:14  143D  キハ22 155

黒石 19:28→川部 19:38  144D  キハ22 155

川部 20:06→青森 20:40  急「むつ2号」  キハ28 502

(青森駅待合室 ネ)

続きを読む

 ほぼ同月同日 50年前のあの日に還る 〈5〉

弘前から乗った五能線の列車は雪原を走り続けた。例によって、交換があると、周りの迷惑も顧みず、窓を開けて写真を撮り続けた。藤崎で交換の混合1725レ 美しい弘前区の28683の牽引。

2月6日(日) 五能線へ乗り鉄・撮り鉄

青森 6:38→弘前 7:15急「しらゆき」「きたかみ」 キハ58 1532

弘前 8:07→深浦 11:43  1730レ  オハフ61 122

(深浦旅館に宿泊 1200円)

青森駅の待合室でゆっくり寝て、急行で弘前へ。弘南電鉄のホームへ行くと、待っていたのは、待望の阪和社型のモハ2025だった。

続きを読む

 ほぼ同月同日 50年前のあの日に還る 〈4〉

東北編④ 2月5日(土) 北上線、釜石線、山田線、田沢湖線を乗り鉄

(2/4)郡山 22:59→横手 4:40  急「津軽1号」(車中泊)

横手 5:20→北上 7:11  722D  キハ22 281

北上 7:32→花巻 7:43  急「いわて4号」  クハ455-8

花巻 9:16→釜石 11:49  633D  キハ51 11

釜石 12:25→盛岡 16:08  急「陸中」  キハ58 1521

盛岡 16:35→秋田 19:08  急「たざわ2号」

秋田 19:18→青森 22:12  急「しらゆき」  キハ28 389

(青森駅待合室 ネ)

「津軽1号」に乗って4:40横手に到着、北上線の始発列車722Dに乗車して早暁の雪原を走り、交換のため陸中川尻に停車 キハ22の2連。

続きを読む

2022年新春初旅は、ローカルバス乗り鉄旅 Part2

第2日目 1月8日

朝6時には起床、内湯の岩風呂に入浴して眠気を覚ましました。持ってきた温度計で外温を計測するとなんとー6℃です。コロナ前には中国ウルムチに毎年行っていましたのでー20℃以下はいつも経験していましたので大したことはありませんが久しぶりのマイナス外温です。紀州山地は京都より冷え込むようです。

 

部屋から見える十津川温泉の中心地です。山間に静かに朝がやってきた雰囲気でした。

続きを読む

2022年新春初旅は、ローカルバス乗り鉄旅 Part1

コロナ感染者数が全国で 2,452人と終息に向かっていた昨年12月4日にいつも中国ナローゲージ鉄賂への訪問お誘いを受けております一路順風さんから「ちょっと面白そうな路線バスの乗車イベントがあります。家内と行こうと思っていたら『興味がないのに長時間小さな路線バスに乗り詰めなのは耐えられない。』と、断られてしまった。代わりにご一緒いただけませんか。ぶんしゅうさんと一緒なら積もる話もありますので長時間の乗車は苦になりません。いかがでしょうか。」とのご要請を受けました。

面白そうなイベントとは、全長169.8㎞、高速道路を使わない路線では、日本一の走行距離を誇る路線バス『八木新宮特急バス』の乗車です。
ちょうどこの時期には十津川温泉の対象の宿に宿泊するとバス往復の運賃 6,900円が無料になるというキャッシュバックキャンペーンが開催されていました。
子供たちが幼少期、毎年正月明けには新宮に近い川湯温泉の大塔川河原に設けられる冬季限定の大露天風呂「仙人風呂でのキャンプ生活を恒例にしておりましたので途中で通る十津川温泉に一度は宿泊したいと思っていました。勤務時代は十津川村はクライアントでもありましたので年に2~3回は訪問していましたが宿泊の機会はありませんでした。マイカーや社用車では来ておりましたがこんなに長い路線バス乗車の経験はありません。今は暇だしコロナ騒動も落ち着いてきた様子なので行ってみるかと即決OKを出しました。

続きを読む

尾道鉄道跡をたどって(その4)

尾道鉄道の山越え区間であり、昭和32年にいち早く部分廃止された石畦(いしぐろ)・市間について大事故の慰霊碑、現存するトンネル、スイッチバックの諸原駅跡の様子を3回に分けてレポートしました。終点市駅周辺の取材ができていなかったので旧銀山街道宿場町としての街歩きも兼ねて、昨日歩いてきました。諸原から国道184号線を下ってゆくと右手に中国バスの車庫が見えてきます。そこが尾道鉄道市駅跡です。国道はほぼ線路跡であり、駅裏側になりますので、駅の正面側 即ち銀山街道とも呼ばれる旧道側から駅前に入ってゆくことにしました。

旧道から入るとすぐに橋があり、その先に古風な2階建ての民家が見えます。

令和4年1月29日 旧尾道鉄道終点 市駅前付近

続きを読む

尾道鉄道跡をたどって(その3)

国道184号線の坂道を登り切った峠の切通しに交換駅でもあった畑駅があったのですが、今は全く面影はありません。ここを過ぎると2つトンネルがあり、終点市駅に向かって下ってゆきます。このあたりの拡大地図を載せます。

諸原駅近辺詳細図

続きを読む

尾道鉄道跡をたどって(その2)

事故慰霊碑をあとに、国道184号線を北上することにします。まさに超満員の電車が逆走した勾配を登ってゆきます。

国道184号線開ノ木トンネルと尾鉄2号トンネル(北側出口側から)

左手が国道ですが、右手の歩道トンネルがかつての尾道鉄道の2号トンネルを修復したものです。ちょうどこの撮影地点付近に、「西校上駅」がありました。ここから坂を下りてゆくと、木ノ庄西小学校があります。

続きを読む

尾道鉄道跡をたどって(その1)

広島県内で過去に発生した大きな人的被害のあった鉄道事故は、明治28年7月25日に糸崎・尾道間で発生した軍用列車転覆事故(死者11、負傷者97)、大正15年9月23日に安芸中野・海田市間で発生した特急列車脱線転覆事故(死者34)、昭和6年1月12日河内駅構内での急行列車脱線転覆事故(死者34)が挙げられます。軍用列車と特急列車の事故は自然災害関連でしたが、急行列車の事故は人的ミスに起因していたようです。後者2件については、2020年11月に現地レポートを掲載しました。もう一つ、忘れてはならないのが尾道鉄道の脱線転覆事故です。死者37名、負傷者56名の大事故でした。それは終戦から丁度1年を経た昭和21年8月13日に発生しました。もう75年も前のことであり、話題になることもなく忘れ去られようとしています。明治の軍用列車事故と特急列車事故については慰霊碑が建立されていますが、急行列車の事故には慰霊碑はありません。この尾道鉄道の事故はどうかというと、慰霊碑が建てられているということは書物に出ていたのですが、まだ現物を確かめていなかったので、慰霊碑探しを兼ねて久しぶりに尾道鉄道跡をたどってみました。その慰霊碑は簡単に見つかりましたが、探すのが目的で行きましたから見つかったものの、通りすがりでは何の石碑かわからない、注意を引くことのない質素なものでした。

尾道鉄道事故慰霊碑    令和4年1月7日撮影

続きを読む

昭和43年 平機関区のD60など

米手氏からの「元祖青信号特派員氏への業務連絡」のなかで、平機関区が登場しました。私も昭和43年3月末に一度だけ平機関区を訪ねていますので、53年も前のネガを引っ張り出してみました。高校の卒業式を済ませ、DRFCに入学するまでの宙ぶらりんの時期に友人と東北を旅し、花輪線でハチロクを堪能して京都へ戻る最後に平に立ち寄りました。雨模様のため、今一つ楽しめなかった記憶がありますが、D60をま近かに見れて満足でした。短時間でしたが、何枚かの写真を撮っていますのでご紹介します。例の給砂機はチラッとしか写っていません。

昭和43年3月30日 平機関区にてD6047  ネガに傷あり

続きを読む

琴電旧型車最終走行

去る11月3日、高松琴平電鉄の旧型車両120型と300型の最終走行がありました。もともとは8月9日の設定でしたが、新型コロナウイルス感染拡大により各地で緊急事態宣言、まん延防止措置が発出されたため、延期になっていたものです。長尾-公文明

続きを読む

四国松山のディーゼルカー ~その3

下灘で2時間弱滞留した後、12時31分に出る八幡浜行きの4917Dで伊予大洲をめざします。今回の一番の狙いは、キロ47の伊予灘ものがたりです。47系での運行は令和3年末までと報じられています。後継は、四国まんなか千年ものがたり(多度津-大歩危の特急グリーン車)、志国土佐時代の夜明けのものがたり(高知ー窪川の特急グリーン車)のようにキハ185が改造種車になるようです。そうです。四国でキハ47系のジョイフルトレインに親しむのは、今しかありません。

下灘駅に入る伊予灘ものがたり

続きを読む

四国松山のディーゼルカー ~その2

松山周辺のディーゼルカーは、国鉄時代からのキハ54、キハ32、キハ185の3100番台、JRになってから就役した2000型。加えて2021年末での引退が報じられている、伊予灘ものがたり用のキロ47となります。キハ54は、国鉄最末期の昭和61年に登場したローカル用のステンレスカーで全車両運転台車です。他の国鉄ディーゼルカーと同じく21.3m、ロングシート、2枚折戸で250psのDMF13エンジンを2基積んでいるのでなかなか鋭い加速をします。12両全車が松山運転所に配置されています。

キハ54 0番台 松山駅

続きを読む

四国松山のディーゼルカー ~その1

十数年ぶりに四国松山へ行ってまいりました。四国でも高松や徳島へは年に最低1回は行ってきたのですが、松山は大阪から少し気分的にも遠かったのです。今回の狙いは、松山周辺で活躍するJR四国のディーゼルカー。新幹線+特急しおかぜでも航空機、バスでもなく、はじめて大阪南港から東予港までのオレンジフェリーを選びました。

大阪南港は22時出港ですが、20時から乗船することができます。早く入れば、ゆったりと船内のレストランと大浴場を楽しむことができ、出航後も船に乗っているのを忘れるほど揺れもなく、ホテルのように快適でした。2018年に就航したばかりの最新の船らしく、昔ながらの雑魚寝の桟敷はありません。最もリーズナブルな2等も個室で、誰に気兼ねすることなくゆったりと休むことができます。2等の片道で、乗船した日は7700円でした。2等のデラックスにすると料金は9600円になりますが、窓と洗面台が付き、部屋も広くなるので更にホテルのシングルルームと遜色ないゴージャス感が漂います。

大阪南港フェリーターミナル

続きを読む

北海道は遠かった、広かった(その4)

今回は初めて渡道した昭和44年3月に訪ねた名寄本線です。この時はKAWANAKA先輩と別れたあと、1900生先輩と2人連れの旅でした。札幌から「大雪6号」で早朝に遠軽に着き、名寄本線の一番列車で中湧別、紋別、興部、名寄と138Km全線を乗り通し、すぐに一ノ橋まで折り返しました。一ノ橋・上興部間は11.0Kmあり、その中間地点のサミットまで歩こうという計画です。丁度北見と天塩の境で、天北峠と言われる場所です。並走する国道239号線をひたすら歩き、腰までの深い雪をラッセルしてようやく線路まで登り、2本の貨物列車を待ちました。まずやってきたのが名寄側から登ってきた49699牽く貨物列車です。

昭和44年3月7日 一ノ橋・上興部間

続きを読む

北海道は遠かった、広かった(その3)

昭和50年2月に標津線を訪ねています。札幌発21:30の狩勝4号のハザで6:15に釧路に着き、多分駅弁でも買って、6:34発釧網線622Dで標茶に着いたのが7:36でした。標津線根室標津行き323Dの発車8:31までの小1時間をどうして過ごしたか、まったく覚えがありません。323Dで次の駅泉川で下車しています。丁度泉川で標茶行き324Dとの交換風景を撮ったのがこの写真です。それぞれキハ22の単行。民家もまばらな根釧原野の小駅にも国鉄職員が勤務されていた時代でした。

昭和50年2月13日 標津線泉川駅での交換風景

この泉川駅から次の光進乗降場へ向かって線路を歩きました。幸い好天に恵まれたのは良いのですが、サングラスなどしゃれたものは持ち合わせておらず、まぶしい雪中行軍でした。

続きを読む

 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 (29)

宗谷本線の貨物列車

もう終わったはずの“やっぱり”シリーズですが、あと一回だけ割り込みます。南稚内~抜海のカラー版を見ていただいた際に、廣瀬さん、紫の1863さんから、同区間で見られた貨物列車に対するコメントを頂戴し、貨車の形式や積載について、詳細な情報をいただきました。私も写真は撮っていたものの、あまり続けるのも、という思いでお蔵入りしていましたが、少しでも参考になればと思い、追加で載せることにしました。宗谷本線の貨物を牽いていたのは、南稚内にあった稚内機関区の9600で、“現地闘争”で行った昭和44年には12両の9600が配置されていました。また名寄機関区にも9600が15両配置され、名寄本線などと共通で運用されていました。南稚内~抜海で見られた昼間の貨物は2往復あり、11~12時に通過の396レ、391レと、13時30分ごろ通過の3371レ、15時30分ごろの1354レでした。

南稚内~抜海の原野を行く396レ、29607〔稚〕牽引。ランボード上に載った切り詰めデフ、2個ライトと、北海道ではスタンダードスタイルの9600、貨車のあとに続くのは、ンッ! Wルーフの客車が2両、昭和44年とは思えない光景が‥‥。

 

 

 

 

続きを読む

 なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道”  〈8〉

広島の路面電車

一ヵ月に渡って開催の写真展「思い出の七条大橋」も本日9月30日で幕となります。来場いただいた皆さまには、改めて御礼申し上げます。京都市電関係の写真展を、飽きもせず何度も続けて来ました。初回の写真展から数えると、もう10年以上昔になるでしょうか、来場の皆さんと話をしていると、“時代も変わった”と思わせることが多々あります。市電の写真を指して説明していると、「広島へ行ったら走っとるでぇ」とか「この前、広島へ行って子供と一緒に京都市電に乗って来ましたわ」と、特段に鉄道に詳しくないオッちゃん、オバちゃんから聞くことがよくあります。よく言われるように1900(900)型は、京都で約20年、広島では43年で、すっかり広島の電車になりました。いまや、“京都を走った京都市電”ではなく、“広島を走っている京都市電”ととらえる世代が多くなったことを痛切に感じます。

約50年前の広島駅前、まだ旧型車両が幅を利かせていた時代、左の700形701は、戦後の車両不足を補うため、被爆した旧京王の木造車500形の下回りを流用して、車体を新調した。中央扉もある大型の3扉車で、昭和55年までに廃車されている。現在の700形は二代目に当たる。右の900形907は、大阪市電2600形で、901~914の14両がいた。まだツーマン、非冷房の時代、そのあとワンマン、冷房化されて、一時は市内線の主力となったが、急に廃車が進み、いまは1両だけが残っているとか(以下、昭和45年)。

続きを読む