やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ㉑

宮崎機関区(1)

また投稿が途絶えてしまいましたが、《区名板》めぐりを再開します。つぎは宮崎区へと行きます。宮崎にも砲金製の区名板を装備したC55・C57がいて、「宮」に相応しい高貴さを漂わせていました。私が初めて訪れたのは昭和42年、この時はC55が幅を利かせていて、臨時急行を牽く姿も見られました。この時は機関区で撮影するだけで、本格的に走行中を駅間で写したのは、その翌年、宮崎にこだわりを持つI原さんと現地で合流し、田野へ向かったものでした。まずは形式別にC55から見ていくことにします。

C55

昭和42年の宮崎区の配置は、C55が14両、C57は4両で、C55の配置区としては、いちばん多く、文字どおり“C55の牙城”でした。仕業は、南延岡~宮崎~鹿児島で、旅客だけでなく、貨物も牽引していました。

宮崎区のC55には、流線型改造機が多かった。その特徴は、キャブの出入り口(寒冷地ではないため扉は撤去していた)と、下の“ヒレ”と呼ばれる三角形の突起で、砲金製の区名板とあいまって、宮崎区のC55を印象づけていた。雨の田野~門石(信)、清武川橋梁を行くC55の牽く貨物列車(機号不明)。

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西鉄福岡市内線の痕跡

また小ネタで失礼します。昨日九大医学部(九大病院)から箱崎(筥崎宮)界隈を歩いていたら懐かしい風景に出会いました。福岡市内線の貫通線(貫線)の面影が今に残るポイントです。街の中心、天神町を出発、東中州、博多部の中心呉服町を通過した後、千代町を過ぎると専用軌道に入り大学病院前、東車庫前、馬出、箱崎まで専用軌道が続きました。その馬出(まいだし)電停が今もバス停に使われています。線路跡はバス専用道路になっています。

箱崎本通りと電車が交差する場所がここです。箱崎、馬出は九大の街、子供のころは本当ににぎやかな街でした。残念ながら医学部(病院)を除く全学部がJR筑肥線の沿線に移動、寂しい街になってしまいました。以下は昨日フェイスブックに投稿した文章です。皆様の想い出、ありましたらお寄せいただけますか。お待ちしてます!!

『箱崎本通りをまたまた歩いていたらここ! 昔の市内電車の馬出電停。40年以上前の面影、今に残っています。バスじゃなくて電車が来んかねぇ、さっきからずうっと待っとうばい・・はよ来んね』

 やっぱり蒸機が好き! 《区名版》で巡る九州の蒸機 ⑳

人吉機関区(3) 8620 & 肥薩線川線をカラーで偲ぶ

人吉機関区の蒸機としてD51、C57を紹介しましたが、地味ながらも、もう一形式がありました。それは8620で、つねに2両が区に配置されていました。おもな運用は、湯前線の貨物牽引で、人吉~湯前を一日3往復していました。ほかには人吉駅での入換が仕事で、2両はデフ付き、パイプ煙突と、地味で目立たない8620でしたが、なんと、そのうちの一両が、現役復帰して「あそBOY」「SL人吉」などを牽くことになる58654なのです。そして、もう一両も来歴を調べていくと、今回と同じように球磨川の増水、土砂流入で土砂に埋まるという、今回と同じような災害に見舞われていたことも分かりました。夜の人吉機関区で憩うハチロク ちょっと不似合いな大型の切取り式デフ、パイプ煙突と、どちらかと言えば冴えないスタイルだが、なんとこのカマがJR九州の復活蒸機であり、「あそBOY」「SL人吉」を牽く58654の50年前の姿 昭和46年12月(以下同じ)

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑳

人吉機関区 (2)  C57

人吉には、もうひとつ注目すべきC57がいました。前記のように、肥薩線の人吉~八代、球磨川に沿った“川線”と通称される線区で、旅客、一部の貨物も牽いていました。“美しき南九州のパシフィック”などと賞賛されるC57です。その両数においても宮崎区のC57を指す言葉でしょうが、その影に隠れて、黙々と客貨を牽いていた人吉区のC57のほうに、愛着を感じていました。昭和45年時点で、7両いたC57ですが、砲金製の区名板、手入れの行き届いた機体、そして、番号ごとに個体差があって、“何番”と言うとすぐに姿が思い浮かぶのもC57の良さでした。八代~人吉は昭和48年3月改正でDL化が完了し、C57は撤退しています。

夜行鈍行1121レをC57 9が牽いて一勝地で交換列車を待つ。ひと桁ナンバーのC57は貴重で、特に憧れを持った。門司港区の時代は「かもめ」も牽いた。昭和44年3月

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑲

人吉機関区 (1)

《区名板》シリーズの象徴のような機関区です。「人」の文字から、「蒸機は、もっとも人間に近い機械」の常套句を思い出し、何とも暗示的です。しかも実際に区名板を見ると、通常は鉄板にペンキ書きに対して、人吉区のものは、大部分が砲金製の特注で、しかも、書体は、隅丸ゴシックの国鉄書体ではなく、楷書体であり、その品格が、より強く感じられます。この砲金製は、鹿児島工場へ入場の際に取付けられたもので、近隣の鹿児島、吉松、宮崎でも見られますが、「人」だけに、そのインパクトは他区の比ではありません。金文字の「人」を付けた蒸機の顔ぶれも、肥薩線という特徴ある線形に適した、手入れの行き届いた、独自の蒸機ばかりでした。

人吉駅で発車を待つ589レ 牽くのは「人」のD51 545 人吉のD51は、重装備の蒸機の代表でもあった。昭和45年9月 

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四半世紀ぶりにタイに行った(その5)

▲特急46列車パダンプザール駅入線

(再びバンコクへ戻る)

17時にパダンプザールを発車するバンコク行きの特急寝台の46列車に乗る。この列車は、別のタイ・マレーシア国境の町スンガイコーロクを14時20分に発車する38列車とハジャイ(ハートヤイジャンクション)で併合し、バンコクには10時10分に着く。いわば、かつての特急さくらが肥前山口で分割併合し、長崎行きと佐世保行きの二手に分かれていたようなものである。今なら関西空港を出た関空快速と和歌山を出た紀州路快速が日根野で併合し大阪京橋をめざすようなものだが、19時間近く走る長距離寝台特急のスケール感とは印象が異なる。 続きを読む

四半世紀ぶりにタイに行った(その4)

(ペナン島からタイ国境の町パダンプザールへ)

▲コタバルの街並み

 

2月5日、タイからマレーシアに入り、東海岸近くのコタバルに着く。コタバルは、1941年の開戦時、真珠湾攻撃とほぼ同時に日本陸軍が上陸し、侵攻を開始した地点である。24年前の1996年、ペナン島からバターワースに渡り、夜行バスに乗ってコタバルに着いたが、今回はその逆である。コタバルは、イスラム教色の強いマレーシアの中でもとりわけ目立つところであり、カラフルなヒジャブを被った女性が行きかい、モスクの尖塔も目立つ。 続きを読む

 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑱

吉松機関区 (2)

吉松には、前回のC55以外にも、C56、D51が配置されていました。C56は、栗野から分岐する山野線の貨物を牽引、D51は吉都線の客貨の牽引でした。付近では、矢岳越えの重装備のD51が有名でしたが、これは人吉区のD51が担当しており、吉松のD51が矢岳越えをすることはありませんでした。

蒸機の時代が終わってから、何度か吉松を経由することがありましたが、列車の接続が良すぎて、ホームで1分接続で乗り換えるため、途中下車すらできずに、50年近くが経過しました。しかし、2年ほど前に、待望の乗り換え時間が発生し、やっと下車して、機関区跡や駅前をゆっくり歩くことができました。機関区の跡は、広大な空き地となり、煙と人が渦巻いていた駅前は、静かな山里に還っていました。駅前に保存展示してあったC55 52は、国鉄OBの手でキレイに整備されて展示されているのが、慰めになりました。

機関区は駅の横にあって、広くて、ゆったりした構内だった。ホームからも蒸機の動きがよく見えた。 続きを読む

四半世紀ぶりにタイに行った(その3)

▲メコン川を列車で渡る

(ラオス)
1995年の夏、今回と同じようにノーンカーイまで寝台特急に乗り、ラオスの首都ビエンチャンをめざしていた。「いた」というのは結果としてビエンチャン入りが果たせなかったのである。当時はノーンカーイの旅行代理店というよりブローカー?を通して、ラオス入りのビザを取得し、タクシーかトゥクトゥクに乗ってメコン川に架かる友好橋を通ってラオス入りを果たす計画だったのだが、ノーンカーイでいつまで経ってもビザを取る目途が立たず、泣く泣く諦め、バスで長駆、タイ南東、カンボジアに近いウボンラチャターニーまで行き、緑濃い中をトヨペットコロナのタクシーで回ったのだが、これはこれで思い出深い旅行となった。恐らく1960年代製と思われるかみそりのコロナは窓が破れ、シートも底つきを起こしていて何とか前へ走るという状態だった。あれから四半世紀経ち、ぱっと見でも20年も前の古い車は走っていない。最近の日本製だけでなく韓国のヒュンダイやデーウも結構走っている。経済成長の証左とも言えるだろう。 続きを読む

四半世紀ぶりにタイに行った(その2)

(ホワランポーンから寝台車に乗る)
ホワランポーンからは2月1日の夜、寝台列車の乗るので、いったん出てもう一つのバンコクのターミナルであるウォンウィエンヤイ駅まで行き、メークロン線に乗ることにする。また地下鉄からBTSウォンウィエンヤイまで行き、国鉄駅まで歩くのだが、何しろ暑い。タイは冬時期乾季にあたり、雨にあまり当たらないのはいいのだが、真夏そのもの、しかも都心の渋滞の横を排気ガスを吸いながら歩くので結構こたえる。しかもBTS駅の出口を間違ってしまったので、これでかなりのロスタイムとなってしまった。始発駅をゆっくり楽しむことも出来ず、駆け込み乗車で汗だくになったが何とか間にあった。▲今回は乗らなかった非冷房の2等座席車

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四半世紀ぶりにタイに行った(その1)

▲バンコクホワランポーン駅

 

昔ながらの客車の旅が好きだ。ここ暫く、日本では失われた客車列車を追って台湾に通ってきた。台湾の急行「莒光号」は、機関車けん引の客車列車の魅力を大いに味わえる存在だが、台湾には無いものが2つあった。寝台車と食堂車である。日本から比較的近いところで寝台車と食堂車が日常的に運行されているのは、中国かタイであろう。冬なら中国は寒く、かつては軟臥車(1等寝台)の指定券は入手し難かった。かといって硬臥車(2等寝台)は体を横たえることは出来るが、シーツなしのビニールレザー、カーテン無しの3段ベッドで、快適な寝台列車の旅を堪能できるかとは言い難い。筆者の主観かもしれない。中国の寝台車にはもう20年ほど乗っていないが、新幹線網が発達した今どうなっているのか。判らないので中国行きは今回、見送ることにしたのだが、これが奏功した。 続きを読む

 こんな時こそ 元気に活動したい ‥‥‥‥ ⑪

京福嵐山線、夕方の「車折神社」、駅の赤い柵、神社の木々、背後の愛宕山、そんなシーナリーが好きで何度が定点撮影しているが、当たり前の風景のなかに、人が戻ってくると、鉄道はさらに活き活きとしてくる。
前稿でも記しましたが、この時期は、日没の方位が300度ほどあって、太陽が北側から射し込みます。と言うことは、通常は逆光の場合も、半逆光で陰影のある写真も期待できます。形式写真で高名な鉄道写真家は、各部に光が回るためには、時間帯だけでなく、季節も熟慮して、機関区で撮影を行なったと聞きます。ほぼ東西に走っている嵐電は、この時期にしか撮れない写真もあるはずと、以前の撮影地に“復習”に出掛けました。

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 こんな時こそ 元気に活動したい ‥‥‥‥ ⑩

先週、自粛後に初めて梅田へ行って来た。ほかの府県へ行ったのは約二ヵ月ぶりだった。いつもと変わらない人出で、賑やかな街は、年寄りが行ってもやっぱりいいものだ。活動自粛のあとの初撮影は、今までの撮影の勘を取り戻すための“復習”として、梅田から十三大橋を歩いて渡り、淀川の右岸にやって来た。梅田のビル街をバックに、トワイライトタイムの阪急電車の撮影から復帰することにした。

やっと日常生活が戻って来ましたね。皆さんも活動を再開されたことと思いますが、私も先週あたりから、巣籠もり生活を終えて、そろりと活動を再開しました。“新しい生活様式”が求められていますが、私の場合は、以前と変わりません。公共交通と自分の足だけで撮影地に向かい、自分の求めるテーマだけを撮って、すぐ戻る、年齢に応じた活動ですが、やっぱり外はいいですね。本日から府県を越えた移動もできるようになりましたが、すぐに遠方とは行かず、もっぱら今までも行ったことのある近郊の撮影地へ“復習”に行っています。自粛後の“こんな時こそ”シリーズを二ヵ月半ぶりに再開することにしました。

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風通し対策(続報)

米手作市様より「エルム」のご紹介があったところで、飯田線で見かけた風通し対策をご紹介します。今を去ること約46年前の7月、DRFCの飯田線合宿の際のひとコマです。まずは飯田駅で追い越したED196です。

昭和49年7月27日 飯田駅にて ED196

デッキ付き電機の場合、正面扉は貫通扉ではなく運転室扉ですから、駅で停車中に入換えなどもあるので 扉が開いていても不思議ではないのです。

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JR日田彦山線の今後は?ちょっとひと回り

久々の投稿です。5月21日(木)、まさしく不要不急の外出ですが現地の様子が気になり出かけました。赤間~久留米(鹿児島本線快速)、久留米~日田(久大本線)日田~添田(日田彦山線代行バス)添田~田川後藤寺(日田彦山線)田川後藤寺~新飯塚(後藤寺線)新飯塚~直方(筑豊本線)直方~自宅(西鉄バス)、所要約8時間でした。

久留米から久大本線、昔は久留米を出ると次は御井(みい)でしたが久留米高校前、南久留米、久留米大学前と久留米が4つも並んでいます。その昔の白滝、旧白滝、上白滝、下白滝(順番は定かでありません)を思い起こします。東へ進んで田主丸駅、ここまでが久留米市、次の筑後吉井からはうきは市になります。

 

 

 

 

 

 

日田からは運転休止中の日田彦山線代行バスに乗車、日田添田間は現在約100分、鉄道の時は約50分でした。バスは大行司、筑前岩屋駅から線路を離れ沿線の主要自治体東峰村の中心小石原を経由します。見どころのアーチ橋、代行バスの車窓からようやくです。お許しを・・・

 

添田から日田方面の錆びついたレールです。かっては急行列車も走るにぎやかな路線でした。3年前の九州北部豪雨で運転休止、こちらでは復活に向けたJR九州、福岡県、地元自治体との協議が連日報道されています。前述の東峰村村長も鉄道による復活を断念、福岡県、JR九州が推すBRTでの再建に合意したもようです。

また1ヶ所、鉄路が消えていくのでしょうが令和の時代の新しい地域再生の姿を時折足を運んで応援して行きたいと思います。

追伸 この地区のお手元の画像、ぜひぜひ投稿をお願いします。九州のなかでも一二を争うスポットかと思います。

山口線から山陰へ

今回のコロナ禍で、かれこれ1か月、カメラを持たず外出していない。近場で阪急や近鉄、JRを撮ることも含めると1か月も撮影に出なかったのはここ暫くで記憶に無い。鉄道を撮りに行く、ということが如何に仕事のストレスやらを発散する効能が大きく、自分の中で重い位置を占めていたかを改めて思い知ることになった。今、それを悔しがっても仕方ないが、過去の撮影など振り返り、新たな展開への英気を養うこととしたい。 続きを読む

 北のC62 全記録 〈23〉

昭和46年3月26日 最終日、何度も通った上目名、長万部へ
北海道での最後の日を迎えました。通用25日の北海道均一周遊券も期限切れが近づき、今晩に函館を出なければ、期限までに帰宅ができません。夜行鈍行に乗って早朝4時45分に倶知安に着いたあとは胆振線へ回って、二つ目のキュウロクを撮ったあと、今期5回目の上目名~目名となりました。最後をどこで撮るか、何度も行った撮影地で写したい思いが湧き、やはり足は151キロポスト付近へ。通い慣れた道のように線路上を歩いて、カーブの先の具合まで見通せるようになりました。天気はどんよりした空で、時折、降るのは、水分を含んだボタン雪で、雪が消えた道床は、さらに黒々として続いています。151キロ地点に着いて、高台に上がり、この場所を初めて訪れた3年前のことを思い出していました。
3年前など、今なら一瞬のことだが、ウラ若き20歳にとっては、3年の歳月は、ずいぶん昔のことだ。C62も顔ぶれが違うし、列車名も違う。その3年前を思い出して、ほぼ同じ構図で撮ることにした。例によって延々とドラフト音が続いてきて、顔を見せたのは、今日も2号だった。

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 北のC62 全記録 〈22〉

昭和46年3月25日 定番の上目名、倶知安へ

大沼公園のユースに泊まった翌日、列車を乗り継いで、またまた上目名にやって来ました。この日は天気も良く、山々もよく見えます。ただ最終日近くになって、やる気も失せてしまい、明確に撮影地も決めないまま、呆然と歩いて、お馴染みの151キロ地点まで歩きました。151キロ地点から先、目名寄りは、大規模な築堤になっていて、東を望むと、なだらかな傾斜地が広がっていて、目名の集落が見えます。西を望むと、冠雪した後志の山々がよく見えます。急に“山バックのロクニ真横”構図を思いつき、築堤をどんどん下がっていきます。雪があるので、泳ぐようにして、滑り降りて行くことができます。編成全体は捨てて、135ミリの望遠でC62重連をやや俯瞰できるところまで来ました。太陽の反射で暑いぐらいで、汗びっしょりでした。背後の後志の山々も、しっかり見えます。それをさらに強調するため、Y2フィルタを装着して、「ニセコ1号」の通過を待ちました。
例によって、野太い汽笛二声が、目名の通過の頃に聞こえて来て、ブラスト音がどんどん近づいて来る。この日も2号を先頭にした「ニセコ1号」が眼前を通過して行った。真横から見ると、ランボードの白線がずいぶん強調されていることが分かる。

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 北のC62 全記録 〈21〉

昭和46年3月24日 C62単機区間で写す

1000キロ離れた地で、山科人間国宝さんとの奇跡的な出会いに興奮して、夜行列車で眠りにつき、まだ明けやらない大沼駅に降り立ちました。今までは、山線の重連区間でしたが、今期では初めてC62の単機の区間で写すことになります。C62の運用を見ても分かるように、朝の通勤列車、大沼発函館行きの126列車が、C62の間合い運用で唯一、普通列車を牽くC62となります。ただ連日の強行軍、夜行列車の連続で、やる気、元気も失せて来ました。4時33分、寝過ごさずに何とか列車から降りたものの、待合室でまた寝てしまい、ハッと起きると外はもう明るくなっています。あわてて外へ出てみると、五稜郭区から単機で回送されてきたC6215が、安全弁を吹き上げて、モクモクと煙を上げて、側線で待機していました。
大沼7時05分発の126列車、雪に覆われた駒ヶ岳をバックにして、C6215が発車して行く。点灯したヘッドライトが格好のアクセントとなった。

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 北のC62 全記録 〈20〉

昭和46年3月23日 奇跡の遭遇?
北海道へ入って、ちょうど2週間が経ちました。均一周遊券の残りをフル活用して、C62重連に集中します。塩谷で撮った翌日は、上りを小沢、下りを二股で撮ることになりますが、忘れられない撮影、出会いを果たすことになります。倶知安ユースで泊まり、倶知安からひと駅乗って小沢へ向かいます。小沢は、夏に来たことはあるものの雪の時期は初めて、20‰勾配が続くものの、夏は、両側に山が迫って、引きのある撮影ができない線区ですが、雪があれば、自由に撮影地が選択できます。ただ、さすがにこの季節、豪雪地帯ながらも黒々とした道床が見えています。C62重連の魅力のひとつが、“人間に最も近い機械”を実感することだ。その機械を操るのが、二組の機関士・機関助士で、ナッパ服に帽子、ゴーグル、首に巻いた手ぬぐいと完全武装、まさに“男の世界”だった。その一端を表現したいと思い、少し前から編成全体だけでなく、キャブ周りも写すことにして、機関助士も、タブレットの授受でキャブ左に位置することが多く、二人のコンビネーションを公式側から狙うようにしてきた。あとはシチュエーションだが、幸い、雪が降り出し、135mmで狙ってみた。雪の斑点がボケて、にっこり笑ってくれた。“おい、頑張れよ”の励ましなのか、“こんな時に好きやなぁ~”の軽視なのか、それは分からない。とにかく、自分の存在に気が付いてくれたのは事実で、それがたいへん嬉しかった。 続きを読む