客車廃車体訪問記 内地編72 福島県-3

【旧熱塩駅跡】 37.729685, 139.880681 2018年4月30日撮影
オハフ61 2752
福島県喜多方の北方、静かな山の集落の中、旧日中線終点の熱塩駅跡に、上屋付き(以前は無かった)でロキ287[仙]と一緒に保存されている。旧駅舎が「日中線記念館」になっている。近くに熱塩温泉があるので、ついでにここを訪問する人がいるかもしれないが、わざわざここだけに来る人などいないと思われる。
オハフ61 2752が日中線にゆかりがあるのかどうか知らないが、構内は十分なスペースがあるので、どうせならスハニ35も残しておいてほしかった。
◆ホロハフ(ナロハフ)22801→ナロハフ11864→ナハフ14012→(1955年鋼体化改造 長野工)オハフ61 752→(1968年電暖追設 土崎工)オハフ61 2752→1984年廃車
※ナハフ14012は、鋼体化改造直前の1955年9月20日に、山科の人間国宝さんが長岡で撮影されている(配置標記は新コテ)。

 

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甲の麓

日本100名山には勿論入っていないが、関西100名山(そんなのない?)に入れてもよいと思うのが兵庫県西宮市の甲山で阪神間のシンボル的な山である。お椀をかぶせた様な独特の山容で、前にも書いたがトロイデ式の古い死火山で標高は309mである。山陽新幹線、東海道線(JR神戸線)、阪神電車、阪急神戸線、福知山線(JR宝塚線)、阪急宝塚線何れからも眺めることができる。さぞ高い山と思われる方もおられるかもしれないが、309mなので地球のニキビのようなものだ。鉄道では阪急今津線の仁川あたりが一番近いと思っていたが、甲山をバックに写せるような場所は同線にはほとんどない。これに対して阪急神戸線夙川からの支線甲陽園線はよく眺めることができたようだ。ようだというのは昭和30年代の同線の1形、310形の写った写真を見ると甲山がよくとらえられている。今では住宅が並び撮り難いものと思う。そこで私の撮った昭和40年代の写真を暇つぶしにのせてみた。

1966年5月6日 甲陽園-苦楽園口間の夙川を渡る558。桜の頃の有名撮影地であるが甲山がかろうじて入った感じ。 なお、550形は生涯のほとんどを宝塚線で過ごした小型車で運輸省私鉄規格型で阪急タイプではない2段上昇窓が特徴で肘を外に出せる解放感が好きだった。逆に阪急タイプの下降窓は好みではなかった。▼

1969年3月4日 夙川 到着する664 雪の日でバックは甲山 ▼

保存蒸機とその現役時代(41)

横綱休場で大関の弱い大相撲や在阪球団のみっともない試合は見てられないのでコロナの巣ごもりにあって唯一の楽しみはデジ青である。最近は投稿やコメントが少ないので久しぶりに拙写、拙文を復活する。

保存蒸機は改めてその内容を見ると比較的早く消えて行ったC59~C62、D52など大型機や大正の古典機C51やD50などがあまり保存されていない。最後まで残っていた形式が選ばれたのはある面で仕方がないものと思われるがそのような中でC57は保存機でもわざわざ見に行ってみたい形式の一つである。

今回は新津鉄道資料館で保存されているC5719である。同機は1938(昭和13)年1月川崎車輛で製造(製造番号1873)され、小郡、下関、門司港等西日本、九州で活躍した。その後1956(昭和31)年11月に秋田へ転属、以降酒田、新津等へ配属されて主に羽越線沿いで活躍し、1972年9月に廃車されている。

保存車輛は駅近くに保存されていることが多いが、新津鉄道資料館は少し離れていたので孫を連れていたこともありタクシーを飛ばして行ってみた。

2018.06.30 新幹線200系と並んで展示中のC5719▼

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重文になった鉄道車両

今日の朝日新聞三重(伊賀)版に、須田寛JR東海相談役様の記事が載っていました。昨年のホームカミングデーでは「同志社から見た京都市電」という懐かしいスピーチを頂きましたが、これから「重文になった鉄道車両」ということで執筆され、当新聞に随時掲載されるようです。現在重要文化財に指定されている鉄道車両は10件あるようで、順次その全容が紹介されま

す。

びわこ号が復活する?

昨日(8・21)の朝日新聞の記事に京阪「びわこ号」

が「復活」する、という記事が載っていました。

一瞬保存車が走るのかと思ったのですがそれは

できないことのようで、HPをみると9月14日から

603+604が復活色で石山坂本線を走るようです。

「面影は楽しめる」かな。

 

 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ㉗

柳ヶ浦機関区

九州に戻って蒸機巡りを再開します。まず宮崎、大分以外で、日豊本線にあった、そのほかの機関区へ行きます。昭和42年10月まで、D50、D60の配置区として賑わいを見せていた柳ヶ浦機関区です。区は明治45年に設置され、煉瓦造りの矩形庫、給炭塔、給水塔がコンパクトに配置されていました。門司港~大分の中継地に当たり、給炭・給水、蒸機の付け替え、乗務員の交代などが行われていました。別府、大分方面、急勾配の立石峠を控え、柳ケ浦から後部補機が連結されました。区は昭和42年10月改正で日豊本線の新田原~幸崎の電化が完成、蒸機の運用を廃止。支区に格下げされたあと廃止されました(以下すべて昭和42年3月)。

煉瓦造りの矩形庫で休む、柳ヶ浦区のD50310  D50341 訪れた昭和42年3月当時、柳ヶ浦にはD50が12両、D60が2両在籍し、日豊本線の貨物、補機を担当していた。

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姫神山

C6120牽引の臨時急行「ひめかみ」号に乗ったことがあるとコメントしたところ、総本家さんから懐かしい響きだと言われた。そこで2002年11月3日に撮影した姫神山をバックにした485系の盛岡発函館行き特急「はつかり13号」の写真を掲載させていただく。調べてみると姫神山は1000mちょっとなので六甲山より少し高い程度であるが、山容が綺麗である。付近の岩手富士や青森の岩木山、八甲田山ほど有名ではないが二百名山の一つだそうである。東北と言えば今の時期は盆休みで大勢の人が帰省したことを思いだすが、私のような高齢者には帰省できない人や故郷で待っている人に同情したくなる。余命いくばくもなくなると特にそう思う。▼

コニカはコニカで信貴電 いいと思うよ!

 フィルムを手巻きをするカメラが4台ある。一番古いのは「KONICAⅡ」である。このカメラは1951年に発売したカメラで、私の生まれたのが1951年である。当時はかなり高価なカメラであったようである。それを知ったのは富山で単身赴任中に福岡町にある「ミュゼふくおかカメラ館」に展示されていてその説明文に書かれていた。どのようないきさつで購入したのか全く聞いていない。今となっては謎である。

 上の写真にある左側が「KONICAⅡ」で右側が「ペンタックSP」である。今回復活したのは「ペンタックSP」の左隣の「コニカC35フラッシュマチック」である。使えるのだろうか?裏ブタを開けてみるとスポンジのようなものがボロボロになっていた。

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客車廃車体訪問記 内地編71 香川県-2

【某医院敷地】 34.326691, 134.067782 2015年1月2日
スユニ50 2058
高松市の小児科医院敷地に台車付きで置いてある。1-3位側は建物とくっついていて往き来ができ、小児科なので、子ども用待合室のような用途であろうか。開業医の施設としては、湘南電車だったかの診察室を思い出す。
琴電長尾線に近く、電車からも見えるかもしれない。訪問時、現車は明るい青色に塗られ綺麗な状態であった。屋根上に箱状のものがやや千鳥配置に7個あるが何であろうか。
◆スハ43 207(1952年新製 日車)→1966年近代化改造 多度津工→(1981年改造 幡生工)スユニ50 2058→1987年廃車
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小田急初代3000形SE車保存車と5連時代の姿

毎年行われている海老名でのフェスティバルで最新鋭の70000形と並んだ保存車。撮影は2019(令和元)年5月26日で罵声こそ飛ばなかったが撮影場所に行きつくのに難儀した。超高齢者には危険である。▼

連接部分の台車を見てみるとかつてどこかで見たことがあるバネの多いスタイル。▼

 

晩年は5連で「えのしま」号、御殿場線乗り入れの「あさぎり」号のほか5+5の10連特急などにも使われていた。この車両は大井川にも譲渡されたがどこかで「同志社」号のヘッドマークを付けたことがあると思うがどなたか写真があれば紹介していただきたい。下の写真は1969(昭和44)年頃渋沢の新松田よりで左手の富士山に雲がかかってしまった。御殿場線からの新宿行き「あさぎり」号である。▼

車内

先日まほろばの鉄趣味住人さんから子供の頃によく宝塚ファミリーランドに行かれた話が出ました。当時阪急電車の広告は阪急グループのみと聞いたことがあります。写真は雪の日(1969年3月4日)に夙川から次の西宮北口に向かう934号の車内を撮ったものです。いつも厳しい米手作市さんが最近は寛大で優しく、多少きずがあったりボケていても投稿することが大事だとかいわれたことにつられてほん僅かの投稿をします。多分車内でフイルムを入れ替えて1枚目がご覧のとおりとなった傷物です。宝塚ファミリーランドを始め西宮球場のオープン戦や宝塚大劇場、阪急交通社など確かに阪急グループだけです。車内ではお客さんは新聞を広げています。今ならマスクにスマホでしょう。高校生の帽子は私のもそうですが白い2本線が入っていました。私の高校は男子は全員坊主頭でした。私鉄経営の遊園地もほとんど消えていきましたが、西武の豊島園も今夏で終了です。▼

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忘れられた下津井電鉄のモノクロネガ

 古いネガを調べていたら、見覚えのない下津井電鉄を写したモノクロネガがでてきた。どうもなぜか自分が撮った感じがしない。見つけてからそのままにしていたのであるが米手さんの「昭和の電車」で下津井電鉄モハ50型を見て、もう一度よく見てみた。最初に見た時はオヤジが撮ったと思ったのであるがどうもよくわからなかった。自分が撮ったのか、オヤジが撮ったのか、ようわからん。しかし、自分の写真とは作風が違うような気がするのであるが・・・

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私が撮った阪急今津線の車両(6)

井原 実さんから思わぬ2300系のコメント投稿を頂き感謝感激しております。

6000系は2200系の車体に5100系の機器を装備して130両製造され、2200系から編入の10両を加えると140両となる。1976(昭和51)年から製造され出力は140kw×4で2200系からのT形ワンハンドルマスコンを採用している。アルミ試作車が2両ある。

今津線での6000系の当初の姿は白黒のこの写真しかない。1992年4月1日 仁川-小林間の宝塚行き6114で右側の樹木の方向に熊野神社がある。▼

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私が撮った阪急今津線の車両(5)

オートカー(人工頭脳電車)と言われた当時の神戸線2000、宝塚線2100、京都線2300(2800)系は当時のエース的車両であったが、今津線ではいずれの車両も撮ったことがない。また、これらの車両は今日に至る新鋭車両まで基本的に同じようなスタイルが継承されおりそれだけ完成された車両であると思うが、画一的で面白みに欠ける。ファンというのは勝手なもので変化を好み多種多様な車両を好む傾向がある。そういう意味で2000系あたりからの車両は興味が薄れる。

さて、2000、2100を撮っていないとなると次は3000系である。最近まで現役であったことはかなり長生きした車両と思う。昇圧即応車として1964年から114両製造された。電動車の出力は170Kw×4。

 

2010.03.27 仁川駅は駅の横が川である。表示幕と尾灯、標識灯改造前で当時、行先板を付けた車両が残っていて話題になった頃である。仁川始発の西宮北口行き3058▼

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私が撮った阪急今津線の車両(4)

前回の1000形の発展型量産タイプで1956(昭和31)年より神戸線1010系35両、宝塚線1100系51両が製造された。両型式とも今津線での撮影が少なく1984.04.01小林駅の1112くらいしか記録がない。2扉車や3扉車が混在したが最終的には前照灯が2灯化され、全車3扉に統一され、1010系と1100系の違いはほとんど同じで見分けがつかなかった。▼

 

 

京都線の1600系と同じ考え方で神宝線の1010・1100形式と同じ車体に旧型車の台車、部品を流用。最終的には台車は900・920形、電気品は600形を流用したとあるが、この時代の阪急のタライまわしは難しくて理解しがたい。1200系は1956(昭和31年)から20両製造されたがその一生はほとんど宝塚線で過ごしたと言っても過言ではない。1978年3月18日門戸厄神-西宮北口間の撮影で行先板には仁川-西宮北口とあり、これも競馬開催時の臨時電車と思われる。▼

 

私が撮った阪急今津線の車両(3)

京都線710形と神宝線810形は異なる両線の車両を統一規格にしたことで有名である。再度ややこしい話をすると京都線710形のトップナンバーは711号で710号は700形である。神宝線のトップナンバーは0から始まるので810形のトップナンバーは当然810である。ナンバーを神宝線にあわせたのは5300系からである。阪急統一規格のそれ以降の車長は19mで810形はその先陣を切って今日まで続いている。製造は昭和25(1950)年で710形共々新性能電車への過度期の車両でいろいろ試行錯誤している点で興味深い。前照灯が大きく窓も900・920形、800形に比べて縦長で大きくなり私の最も好きなスタイルであった。最初の810~813(Mc)、861~863(Tc)の8両はクロスシートであり複電圧車であったが、どういう訳か運用の都合で今津線にまぎれこんできたことがある。深々としたシートにランドセル姿で乗ったことがある。当然2連であった。残念なのは台車がKS33イコライザーであったことである。814以降も細部等変更があったが台車がゲルリッツ式FS103になり乗り心地がよさそうで全体のスタイルはこちらの方が上と考えた。しかし、ロングシート車である。晩年には3扉化し前照灯のシールドビーム2個ライト化で男前を落としたのは残念である。出力は140kw×4、170Kw×4ともありよくわからないがいずれにしても大出力のMT編成であった。

 

1969.03.04 仁川 雪の日の宝塚行き後部810 ロングシート化されて年月が経つが均整の取れたスタイルはそのままである。▼

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客車廃車体訪問記 内地編70 兵庫県-3

【ブルートレインキャンプ場】 34.810668, 135.297039 2013年1月5日撮影
ナハネ20 239
ナハネフ22 25
高校2年の遠足が蓬萊峡だった。クラスの誰が発案したのか知らないが、宝塚駅から往復徒歩で文字通り「遠足」であったが、不思議と文句をいう奴や落伍した奴はいなかった。先年の福知山線廃線跡ハイクで大多田橋を通ったが、そこからの道路に歩道がないので現在はとても危険で不可能であろう。
このキャンプ場は蓬萊峡の近くで、県道51号のヘアピンカーブ付近に阪急バス「座頭谷」停留所があるが、これ以外にここにやって来る手段はなさそうである。客車以外に貨車が多数いて、車掌車なのに「ハワム583422」(書体は本格的である)と標記してあったり意図が不明なものもある。
最近キャンプ場をGoogleマップで見ると、上の画像2両のうち右のナハネフ22 25がいなくなっているように見える。
◆ナハネ20 239(1968年新製 日車)→1998年廃車
◆ナハネフ22 25(1963年新製 日車)→1998年廃車
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私が撮った阪急今津線の車両(2)

前回は車長15m級の小型車を発表したが、宝塚線用に戦後新造した運輸省規格型の半鋼製550形16両は今津線では見たことがないので割愛した。今回は車長17m級の600形、900・920形である。なお、800形(当初700形)14両も今津線での写真はないので同じく割愛した。

まず600形は1926(大正15年)川崎造船製の3扉全鋼製車で各地にこのスタイルが採用された。当初神戸線でMcが600形、Tcが800形で18両あり、一部クロスシート化されたりその後機器の変更など複雑な変遷をたどっているが、私が自覚したのは宝塚線での姿で今津線は晩年の活躍である。さらに伊丹線では大きさもスタイルも全く異なる610形と組んだ姿には驚いたものだ。

1968.11.19小林-仁川間 今津行き600▼

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