【JR嵯峨嵐山駅前】 1997年5月28日撮影
嵯峨嵐山駅南側のレンタサイクル店「トロッコおじさんのレンタサイクル」
↑右(北側):オハフ50 223 受付兼車庫 2位寄り窓2個分を切り取って入口にしている。
左(南側):オハフ50 241 車庫。
【JR嵯峨嵐山駅前】 1997年5月28日撮影
嵯峨嵐山駅南側のレンタサイクル店「トロッコおじさんのレンタサイクル」
↑右(北側):オハフ50 223 受付兼車庫 2位寄り窓2個分を切り取って入口にしている。
左(南側):オハフ50 241 車庫。
【上板町 子供体験学習館】 34.132359, 134.395771
スハ43 275 2010年11月20日撮影
板野郡上板町の上板町立歴史民俗資料館の北隣の「子供体験学習館」として利用されていた。
風の便りでは、2016年に撤去されたらしい。
◆スハ43 275(1953年日支製)1965年2月7日蛍光灯化 幡生工→1966年7月16日近代化改造 幡生工→1969年12月10日FRP窓枠試験車 幡生工→1971年3月25日体質改善B3 幡生工→台車TR47A化 幡生工→1985年廃車
【津軽鉄道芦野公園駅裏】 40.912294, 140.4516
オハ31 1 1986年9月24日撮影
オハ31 1のまわりは松ばかりであるが、芦野公園はゴールデンウィークの頃には多数の桜が満開になってたいへん美しい。
今はこの車両は番号を国鉄時代のオハ31 26に戻して、鉄道博物館で保存されている。
【浜松市西区入野町(いりのちょう)】 34.698070, 137.696580 2019年6月17日撮影 最寄り駅:浜松(強いて言えば高塚)
マニ50 2032とマニ50 2164(といわれている)
本日、天気がよろしいので、リハビリをサボって浜松へ行ってきました。
時節柄、鮮度の落ちないうちにお届けします。
入野町にある地元の有名な製麺業の会社のものと思われる駐車場に、3両のワキ8000、ワムかワラ1両と得体の知れない謎の車両1両と、合計7両置いてある。全て台車は無い。
▲北東から望む
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客車廃車体訪問記北海道編から暫く中断しましたが、再開して内地編をお届けします。北海道のようにできるだけ調べて訪問したわけではなく、まだ見に行けていない所も多数ありますが、それはそのうちに行くことにして都府県順不同でご紹介することにします。
まず、昔は北海道から本州に渡るのは青函連絡船がメインルートでしたので、その本州側の青森港からスタートしたいと思います。
【青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸】40.831683, 140.736488
◆スユニ50 509 スユニ50 510 2018年5月30日撮影 最寄り駅:靑森
青森駅の旧青函連絡船桟橋に係留されている八甲田丸の車両甲板3番線に、航送時を再現した状態で保存されている。他にキハ82 101やDD16 31等も展示されていた。船内はなんとなく油臭い。
最近、別件で本棚をさがしていたところ、『国鉄京都自動車工場十五年史』(昭和37年8月1日発行)がでてきましたので、米手作市さんの 2019年1月17日投稿 「【103398】西村さんへの借りを返すの巻」 に関連して、ご参考に供します。
キハ141系、キハ33に続きまして、客車改造の気動車キサハ34をご紹介します。
キサハ34は、0番代の1~2(オハ12 1000番代からの改造),500番代の501~502(スハフ12 1000番代からの改造)の合計4両の小グループでした。
1992年3月14日の時刻改正から運用開始しました。冷房付きキハ58・28とで氷見線列車が冷房化されました。
通常、朝のラッシュ時にキハ58とキハ28に挟まれた4両で氷見線を走りました。
廃車は1996年3月31日で、キサハ34は約4年という短命な形式でした。
キハ141系に続き、客車改造の気動車キハ33をご紹介します。といいましても1度撮りに行っただけの簡単なものです。
キハ33は1988年後藤車両所でオハ50から改造されて1001,1002の2両が誕生しました。いきなり1000番代なのはトイレがないからだそうです。
2004年に鳥取に移り、山陰本線で走っていましたが2010年廃車されました。朱色に塗られた1001が津山まなびの鉄道館で保存されています。
オハ50 5→キハ33 1001
オハ50 6→キハ33 1002
客車に限りませんが鉄道車両には銘板が取り付けられています。外妻や車内クシ桁にネジ止めされている多くは楕円形のプレートで、これによって製造・改造などがわかります。標記されている形式番号の他に現車の素性を知る手かがりにもなります。ですから通常は一度取り付けられたら廃車解体されるまでそのままのはずなのですが、なかにはいつの間にか違う銘板が付いていたという奇っ怪な例をご紹介します。
キハ141系の編成がわかる列車写真も少し撮影しました。走行写真は、人工物ができるだけ写らない石狩太美駅から北東方向の踏切付近で何回か撮影しました。初めて行った時、撮影後そのまま石狩当別まで行こうと思って石狩太美駅前のタクシーを呼んだら女性の運転手で驚きました。
キハ143のうち、1995年1月31日に苗穂工場でオハフ51 34から改造された104には着雪防止対策を施して登場しました。781系電車の運転室上と同様のスタビライザーや後位妻面の装置が目立ちました。他には床下機器箱の変更などで、落成後効果の検証が行われたそうです。いつ撤去したのでしょうか。
1994年3月に新形式の中間付随車キサハ144 101~103,151が登場しました。101~103はオハフ51 7,9,10から、151はオハフ51 33から4両すべて苗穂工場で改造されました。101~103は戸袋窓が小さいのが特徴です。
101~103にはトイレがなく、151はトイレ付きでしたがのちに撤去され104に改番しました。
また、登場時は非冷房でしたが、その後冷房化されました。
北海道の国鉄がJR北海道になって少したった1990年3月、オハフ51を改造したキハ141-1,キハ142-1が試作車として登場し、札沼線を走り始めました。そして1995年夏まで増備され形式も増え総勢44両の所帯になりました。
気動車ではありますが客車改造でしたので興味がわき、時々出張で札幌へ行く仕事がありましたので、出張をできるだけ土日の前後にしたりして全車現車調査をしたのですが写真も少し撮りました。その後札沼線の電化により10両のキハ143がワンマン化改造・ATS変更・保全工事を受け苫小牧に移り、JR東日本の「SL銀河」用としてさらに変身した仲間が4両あって、残りは廃車になったりミャンマーに譲渡されました。
現在ではキハ141が形式消滅し国内では14両が残るだけになりましたが、札沼線を走っていた頃に撮影した(出張のついでに撮影しましたので全車を網羅できていませんが)キハ141系をご紹介します。
なお、「キハ141系」とは、キハ141形,キハ142形,キハ143形,キサハ144形計4形式11番代(SL銀河用含む)のグループの便宜上の呼称です。当初、「キハ140系」と呼んだことがあったようですが、JR九州に出自の異なる「キハ140形」がありますので「キハ141系」とします。
大阪市電1001型からOSミュージックの話になっていましたが、私も阪急東口で撮ったことがありましたのでご覧にいれます。地震があったので遅くなりました。撮影メモがなく、撮影日は不明です。大阪市電や市バスについては全く知識がなく解説はできませんので画像をただ並べるだけで申し訳ありません。
▲朝のラッシュのピークが過ぎたところですが市電がひしめき合っていて、空気がこんなに汚れていたのでしょうか。OSミュージックの袖看板も霞んでいます。左端2681の向こうにトロリーバスがいます。 続きを読む
この分野の泰斗である西村氏を差し置いて恐縮であるが身近な所をレポートする。見つけ方や撮影のコツなどをご教示いただきたい。また、総本家青信号特派員氏はJTBのキャンブックスでたいへんなご苦労をされたと仄聞している。
1.高橋交差点 茨木市駅前3丁目 34.816891, 135.569586
2017年12月7日【90965】で紹介したオハフ51 5002の事故について、少し調べたので補足する。
鉄道ピクトリアル675号1999年10月号p.72「7月のメモ帳」に「7月27日江差線で脱線事故」の記事があった。そこで図書館で『朝日新聞縮刷版』1999年7月を見ると、28日に下記のとおり記事があった。この記事の右横には、TBSの記者が調布市の民家に忍び込んで入浴中の女性をビデオカメラで撮影して逮捕されたという記事があった。それはともかく、台車が脱落した珍しい事故だったらしい。写真はオハフ51 5002の後位側である。車体裾にそれほど損傷がないのは、速度が速くなくて引き摺られた距離も短かったからではないか。事故現場は現在現車がある最寄り踏切より1つ函館寄りの踏切(41.696038, 140.454778)ではないかと推定する。
▼1999(平成11)年7月28日水曜日 朝日新聞朝刊31面