「日本海」「きたぐに」を送る (4)

「きたぐに」 -4-
  ▲定期列車としては残りわずかとなった「きたぐに」(保内付近)
2年前、「きたぐに」の乗車ルポを書くようにとの依頼が出版社から入り、大阪から自由席に乗って新潟まで行ったことがある。一年を通じて流動の少ない冬のこと、車内はガラガラだったが、仔細に観察するとさまざまな発見があった。
  ▲大阪駅で発車を待つ。駅改良工事のため10番線からの発車
旅客の流れにも、単に関西と新潟を結ぶ夜行と結論づけられないものがある。定期券でも乗れるため、彦根・米原・長浜などへの最終電車的な役割がひとつ、北陸本線内では一番電車的な役割があり、例えば、直江津で北越急行乗り換えで上越新幹線で首都圏へ向かえば、8時44分に東京着が可能だ。また上りで見ると、「はるか」に乗り換えて早朝の関空便搭乗という手もある。料金においては、夜行列車は夜行バスに勝ち目はないが、大阪~新潟間で見ると、バス9450円(通常期)、きたぐに自由席9675円(往復割引適用)と、唯一拮抗している例であり、バスに比べて格別に車内が広い「きたぐに」に軍配が上がるはずだ。
  ▲金沢では、留置中の485系と顔を合わした

  ▲信濃川が見えてきた
末端区間の新津~新潟間では、下りが昭和63年3月から快速となっている。新潟着が8時29分で、多くの通勤客の乗車がある。その観察も今回の出版社からの要請であった。確かに、自由席車4両を目掛けて、各駅からの乗車がある。ただ、不可解だったのは、夜が明けて、長岡、見附、東三条あたりからも、一見して通勤客と判る乗車がある。しかし、ここはまだ急行区間だ、果たして急行料金の収受が正しく行われているのか疑問に思わざるを得ない。と言うのも、西日本区間では、乗車のある都度、過剰なくらいに車内改札を行っていた専務車掌が、東日本区間に入った途端、ぱったり車内改札を止めてしまった。もともと東日本では、無人駅区間でも、車内改札が全くないどころか、車内巡回すらないのは、前から気になっていた。まるで東日本に遠慮したかのように弱気になってしまったのが今でも気に掛かる。
新潟駅に到着して、続々と降車する客を見ていると、「きたぐに」は当分安泰で、北陸新幹線の開業時までは現状維持かと推測して、そのルポを締めたものの、フタを開けてみると、定期列車の廃止という、意外な終幕が巡ってきた。

 

 

 

 

快速区間の新津以降の自由席車内
  新潟に到着、ホームは下車客で賑わう

本日の草津1号

3月17日改正で上野駅朝7時20分発の草津1号が無くなるようです。(10時発が草津1号となります)
通常は朝7時過ぎに上野に着きますので、毎日「あけぼの」と「草津1号」を見に行くのが日課になっていましたので残念です。
「7時20分発の特急草津1号は16番線より発車します。ご乗車の方は16番線でお待ちください」という案内放送も聞こえなくなります。
昨年12月から本日2月27日までの写真をご覧ください。

本日は曇っていましたので ふつうの写真です。鴬谷にて


1月24日です。前日雪が降りましたが当日は朝から良い天気で雪景色の草津1号となりました。
この冬は寒い日が多いです。


1月13日は後ろ7両が湘南色の編成(OM03)でした。上野駅16番線です。


その後鴬谷を通過する 湘南色の編成です。

1月6日 今年の初撮影です。冬のこのころだけいい位置に太陽が昇りますので太陽を入れた写真が撮れます。


昨年12月12日の湘南色の編成を前にした14連です。(あまり後ろは写っていませんが)後ろの7連は定期特急だった水上1号のなごりです。特急草津は今後すべて7連になるようですのでさびしくなります。3月3日の上州踊り子号と3日4日のあまぎ号は157系を模したあまぎ色の185系(OM08)が登場するそうです。今後185系は上野口 東京口ともに置き換えが予定されています。中途半端な特急車と言われた車両ですが国鉄の電車が無くなっていくのはさびしいものです。
犬伏

「日本海」「きたぐに」を送る (3)

  

583系電車になった「きたぐに」(山崎、平成4年)

「きたぐに」 -3-
14系客車の「きたぐに」は、昭和60年3月改正からは、向日町運転所の583系電車12両編成に置き換えられる。583系は、夜行特急の廃止、他形式への置き換えにより、主な働き場所であった山陽・九州地区からは、昭和59年2月改正で撤退しており、大量の余剰を抱えていた。一方の14系客車は、まだ車齢が若く、ほかへの転用が可能だった。「きたぐに」から捻出された14系客車は、20系の急行「銀河」を置き換えた。
「きたぐに」にはA寝台の固定的な需要があることから、ロネを連結することになり、3段寝台のサハネ581を2段式A寝台に改造したサロネ581が誕生した。特急形電車では、初の”格上げ車”である。また形式はそのままで、寝台機構をロックした座席専用車も誕生した。
ところで「きたぐに」のネーミングだが、昼行急行の愛称は、旧国名、観光地などの地名が原則であることと照らすと、「きたぐに」という抽象的な名詞は、その範疇からは外れるように思われた。ところが、本で由来を見ると、京から新潟へ向かう古道の北国街道が由来で、これを訓読みしたのが「きたぐに」だと言う。どうも眉唾ものだが、これなら固有名詞だから理にかなっているとは言える。しかし、それなら正しく「ほっこく」とすべきだろう。
 

当初は583系12両編成だった(山崎、昭和61年)。昭和61年11月改正から10両に減車された。
 

平成4年度からシュプール&リゾート色へ変更され、翌年には全車の変更が完了した(山崎、平成6年)
 

さらに平成9年度からはJR西日本の特急の標準色である、現在の塗色に改められた(山崎、平成20年)

「日本海」「きたぐに」を送る (2)

「きたぐに」 -2-

12系化された「きたぐに」。ただし後部のハネ・ロネは10系のままだった(山科/昭和55年9月)

米原区のEF58が牽く、14系化された「きたぐに」、よく整備された大窓機だった(神足~山崎/昭和58年11月)
大阪~青森間の客車急行となった「きたぐに」には、一度だけ全区間乗ったことがある。昭和47年2月のことだが、当時は途中下車して撮りたいところがヤマほどあって、全区間を乗り通すようなことはしなかった。その時は、途中下車は帰途にすることにして、一気に北海道まで行ってしまう算段をして、大阪22時13分発の「きたぐに」に乗り込んだ。5号車ナハ102012だった。大阪・京都でほぼ10割となったが、糸魚川、直江津、新潟で大量の下車があって、以降はガラガラだった。後年の新潟以北の廃止も納得できたものだった。同じボックスに座った一人旅の男も北海道行きで、話が弾んだことを覚えている。青森着は17時38分だった。
昭和47年10月、日本海縦貫線の全線の電化が完成し、牽引機はすべてELになった。その直後の11月6日、深夜の「きたぐに」に悲劇が起こる。北陸トンネルでのオシ17の火災だ。焼死者30人が出る惨事となった。会社の同僚で、敦賀出身のものがおり、たまたま当日は帰省していて、事故直後の様子を敦賀駅で目撃していた。会社で会うと、息せき切って生々しい様子を話してくれた。原因となったオシ17はその日から欠車となった。そして、昭和48年10月には、ハザは旧型客車から12系客車になった。
昭和57年11月の改正で、運転区間は大阪~新潟間に短縮された。編成も座席車・寝台車ともオール14系客車化された。
翌昭和58年4月には牽引機関車の運用が変更され、米原~田村間交直接続のDE10に代わってEF81〔富二〕が米原~新潟の牽引に就く。さらに翌昭和59年2月からは、大阪~米原間はEF58〔米〕に代わり、EF65〔宮〕がその任に就くものの、客車の時代は長くは続かなかった。

     安土駅を通過する「きたぐに」。湖西線開業後も「きたぐに」だけは米原経由だった(昭和58年9月)
 

 EF65PFに代わってからは時折ヘッドマークが掲げられた。これは正月の「頌春」(神足~山崎、昭和60年1月) 

 客車最終日となった大阪駅、「北国」のヘッドマークを付けたEF65PF(昭和60年3月10日)

雨の朝の211系

犬伏です。東海道線東京口の211系は田町に15両編成14本分が配置されていましたが 11月より233系の新車に置き換え中で現在10編成の新車が配置され211系は間もなく消えようとしています。長野、新潟へ転用とうわさされていますがサハやサロは廃車のようです。113系と231系の間であまり目立った車両ではありませんでしたが 登場時のその乗り心地は113系と比べて空気ばねの良さが目立っていました。いい顔つきで個人的には好みの車両です。本日朝の雨の中での写真をご覧ください。

雨の新子安駅を駆け抜けるN5編成ほかの15両編成です。

浜松町での出会いもあとわずかですね。

田町の233系です。小便小僧さんよろしくお願いします。

「日本海」「きたぐに」を送る (1)

「きたぐに」 -1-

3月のJRダイヤ改正で消える列車・車両は多いが、なかでも「日本海」「きだぐに」の定期列車からの撤退が話題を集めているようだ。今日も阪急に乗っていると、例の名神クロスは「日本海」狙いの人間が多く見受けられた。先日のクローバー会の写真展打ち上げで、大津の86さんから聞いた話では、「日本海」の寝台券を求めて発売初日に最寄り駅へ行ったところ、午前10時にもう売り切れ、A寝台だけ残っていると言われ、少しの間逡巡していると、もうA寝台も売り切れと言われたそうな。
「日本海」「きたぐに」は、臨時では残るものの、一昨年臨時となった「能登」が、今春には設定がなくなったように、完全廃止は目に見えている。
関西では「日本海」「きたぐに」は馴染みの列車だけに、いくつかの記録を残してきた。「きたぐに」から、その足跡を辿ってみよう。

田村付近を行く初代「きたぐに」(昭和41年)。新潟行きの昼行気動車急行だった。「奥能登」を併結した12両編成
昭和36年10月改正で金沢~新潟間の気動車急行が誕生、「きたぐに」と命名された。今まで同じ日本海縦貫線上にありながら、石川県と新潟県を結ぶ急行はなかった。さらに、福井~金沢間の交流電化が完成した昭和38年4月改正で大阪まで延長され、「きたぐに」は、大阪~新潟間600kmを結ぶ幹線の急行へと成長する。編成も8両編成となり、輪島発の「奥能登」(下りは和倉着)と併結する大阪~金沢間では12両もの長大編成となり、幹線急行にふさわしい列車となった。

雪の米原~坂田間を行く「きたぐに」(昭和42年)。当時はもちろん湖西線は未開通(と言うか、江若がバンバン走っていた時代)、北陸へ向かうすべての列車は米原経由で、運転頻度はすこぶる高かった
 昭和43年10月改正では、日本海縦貫線に寝台特急が新設された。従来、大阪~青森間の客車急行であった「日本海」の愛称を、そのまま新設特急に召し上げた。玉突き式に客車急行を「きたぐに」501レ502レと改め、気動車急行は「越後」と改められた。
大阪~青森間の客車急行に生まれ変わった二代目「きたぐに」の編成は、ロネ、ハネの寝台車は夜行区間の大阪~新潟間に連結され、新潟以北はロザ、ハザ、シの編成となった。ちなみに牽引機は、大阪~米原EF58〔宮〕、米原~田村DD50・DE10〔米〕、田村~糸魚川EF70〔敦二〕、糸魚川~新潟DD51〔東新〕、新潟~秋田DD51〔秋〕、秋田~青森DD51〔秋〕であった。

矢立峠を越える二代目「きたぐに」(陣場~津軽湯の沢、昭和44年)。この区間では、座席車に食堂車の昼行急行の編成だった

唯一補機が付いたのが大館~弘前間で、矢立峠を越すために、上下とも後部にD51〔弘〕が付いた(陣場~津軽湯の沢、昭和44年)

笹川流れを行く「きたぐに」(昭和44年)。ロザ、ハネ、ハザ、シ、ユと、何でもありの典型的な急行列車だった。

写真展アンケートから

▲集まったアンケート、貴重な意見が多く、今後の指針となる
開催して一週間が経過した写真展、先週末には会場近くで打ち上げも行われ、14名の会員が集合して賑やかに楽しく行われたのであった。
時間が経過すると”ボロ”も出てくる。写真の不備やキャプションの間違い、それにガラス張りの中で照明の光源で熱せられた写真は、どうしても変形が生じてしまう。
本日、その補修作業を進めていると、立会いのギャラリー運営者から「ごっつ来てまっせ」と言われて示されたのは、アンケートの束であった。なるほど用意したアンケート用紙はすべてなくなっている。
そこで今回は、回答の中から、今後の参考になりそうな事柄を選んで紹介してみよう。
「来場のきっかけは」
「たまたま通ったから」が約半数で第1位、これが不特定の人を集めることができる通路にあるギャラリーの長所でもある。「駅のポスターを見て」が第2位、今回は地下鉄烏丸線の全駅にA3ポスターを貼ってもらった。さすがは一日十数万人が利用する地下鉄駅だけの効果はある。次いで「知人の紹介で」、各会員から呼びかけをしてもらったお蔭である。意外と少なかったのが「鉄道雑誌の案内を見て」で、雑誌によってはページ左上と最上位の位置に掲出してもらうなど、かなりの期待値があったが、あまり動員には結びつかなかった。
「お気に入りの作品は」
これはさまざまで、個別のタイトルを挙げておられるケースも多かった。印象に残った言葉は、人間国宝の撮られた東北の古い写真に「素晴らしいのひと言」。他の会では、決して真似できない、当会の至宝だと改めて認識した。
「性別・年代は」
アンケートを記入してもらえるのは、どうしても高齢者が多い。今回も、「60歳代以上」が3分の2程度を占めたが、中には「20歳代女性」というケースも見られた。男女別では、3:2の比率であった。
「お気づきの点は」
さまざまな意見があったが、「テーマを絞ったほうがいい」が数件あった。これも悩ましいところで、テーマを絞れば、確かに写真展としての主張は明確になるものの、逆に応募の減少が懸念される。その折衷案として、今回のようなフリーテーマとテーマ展示の2本立てに落ち着かざるを得ないところだろうか。そのほか、キャプションの位置や、プリント用紙の光沢に言及される意見もあり、今後の大きな指針となった。

▲突如会場に現われた高齢者集団! 実は、過日の打ち上げ集合時の様子

▲打ち上げで、乙訓老人の講話をしんみり聞く会員

クローバー会写真展 続報

好奇心が旺盛な子どもは間違いなく興味を示してくれる。この子は、カラーは顧みず、モノクロの東北の鉄道に興味を示す渋い子だった。

女性の観客が多くなったのも、最近の特筆すべき現象だ。しかも一様に仔細に見定めている。この女性、一点一点カメラに収めていた
開場して4日目を迎えたクローバー会写真展、もうご来場いただけただろうか。さきほど山科の人間国宝からも電話が入った。案内を出された方から連絡があって、皆さんから称賛の声があったと喜んでおられた。一昨日は、はるばる関東から準特急さんが、バスと近鉄を乗り継いでご来訪、じっくりと鑑賞された。さすがは慧眼の士、キャプションの間違いを即座に見つけられた。
しばらく会場で定点観察していると、通り過ぎる人の様子がよく分かる。会場は地下鉄駅の通路だが、数年前と比べると、地上にビルが集積してきたせいか、ずいぶん人が増えた。通行のみが99%だろうが、写真展を無視して通り過ぎるのはほとんどいない。みんな一様にチラリと瞥見して行く。そのうち短時間でも足を止めて見入るのは2割程度と言ったところで、年代、性別はさまざまだ。朝5時の始発から晩24時の終電まで開いている会場だから、見学者の総数はかなりに上るのではないか。専門のギャラリーでは、敷居の高さに阻まれて、こうは行かない。このようなことが可能なのも自由通路にあるギャラリーだからこそと納得した。

クローバー会写真展「鉄路輝く」明日から開催!

会員の一致協力で準備が進められてきた当会の写真展「鉄路輝く」、14日の開催を前に、本日いよいよ設営となった。
午前中、写真展の秘密基地となった、京都は壬生屯所近くの某会長宅に集結した精鋭部隊は、最後の仕上げを行った。昼は上にぎり+おまけの豪華昼食で英気を養ったあと、午後1時、地下鉄烏丸御池駅にあるギャラリーへ勇躍乗り込んだのであった。
そこには、最近、会社を放免になった部隊が待ち受け、100点余の写真が通路上に並べられ、壁面への貼り付けが開始された。そうこうするうち、山科の人間国宝がゆっくりとお見えになった。「心配で心配で」とおっしゃりながら、我々の作業を暖かく見守っていただいた。
さらにそこへ、手ぬぐいをマフラー代わりにした乙訓老人までが姿を現した。こちらは、写真の傾きを厳しくチェック。もうこれ以上望むことができないほどの豪華メンバーが揃った。聞くところによると、老人は明日、わざわざ東京都庁の地下まで行って、写真展のPRに務めるとのこと、老人の思慮深い思いやりに、全員いたく平伏したのであった。
途中、取付けピンがなくなり、あわててぶんしゅう号で買出しに出かけるなどの想定外の出来事があったものの、午後5時にはすべての作業が終了した。終始、一糸乱れぬ団結ぶりで作業をやり遂げるのは、やはりクローバー会のよき伝統であると痛感した。山科の人間国宝をして、「すごいですなぁ」と言わしめた今回の写真展、いよいよ明日から開場だ。

設営作業に汗を流す会員、金槌を叩き続ける音が地下鉄の駅に響いていた

きれいに設営されたギャラリー、さっそく足を止める人が多く見られた

感動 ふたたび!

写真展の準備で忙しく、掲示板投稿もままならない当特派員のところに、嬉しいニュースが飛び込み、思わず手はキーボードを叩いてしまいました。

昨年11月に行われ、その感動が覚めやらない、西村さん「江若鉄道復元模型運転会」の様子が、いま発売中の「とれいん」2月号に、ご本人による復元記が掲載されています。会場の様子も、わざわざ取材に来られたMさんの手で撮影されており、当日の様子がリアルに伝わってきます。Mさんは、ご自身のコラムにも、関連記事を寄せられ、江若の思い出とともに、西村さんとの出会いについても、言及されています。

今回はプロローグで、全体の概要を記されていますが、「友人たちの協力」と題して、クローバー会のネットワーク・レスポンスについて言及されている点、お手伝いした私としても、たいへん嬉しい思いで読みました。

今後も連載が続き、製作記へも入ってくるようで、これからが楽しみです。

「江若鉄道復元記」の載った「とれいん」2月号、まだの場合は、売り切れないうちに書店へ直行!

小田急消滅車両補正

 デジ青[17357]「小田急消滅車両」でJR東海の371系小田急乗り入れ車両も掲載したが、これは小田急の車両ではなくJR東海の車両であり3月に消滅するという情報はない。3月17日ダイヤ改正で消滅する小田急の車両は10000形、20000形、5000形で、同時にJR東海371系の小田急乗り入れがなくなるということを早とちりしてしまった。お詫びしたい。なお、JR371系はまだ使われるようで団体専用なのか他の使われ方があるのか注目される。また、小田急は気動車5000形、5100形や3000形(SE車)以来の伝統を守り、どうも御殿場までは乗り入れを継続するようだ。その車両は地下鉄乗り入れに使われている60000形との情報も流れている。お詫びの続きで有名撮影地で申し訳ないが、私自身始めて行った御殿場~足柄の371系と今後御殿場線乗り入れに使用されるとの噂のある小田急60000形を掲載する。

 

 2012.1.13 JR御殿場線御殿場~足柄 2M 特急「あさぎり2号」新宿行き

金曜日であったが、付近には車10台が並び、和歌山、滋賀の関西ナンバー、豊田、浜松の中部ナンバー、品川、所沢の関東ナンバーなどを見かけた。駅から徒歩25分。歩いて来たのは私一人。

 

2011.11.5 小田急小田原線鶴川~玉川学園前 60051 箱根湯本発特急「メトロはこね22号」北千住行き

この車両が乗り入れ予定の60000形MSE

小田急消滅車両

新幹線100系、300系、日本海、十和田観光等今年の3月は消える車両、電鉄会社が多く、忙しい。1月5日付け日経新聞によると小田急電鉄でも3月17日のダイヤ改正で10000形Hiseと20000形RSEを引退させ、同時に1969年からの通常車両5000形も引退させるとのこと。JR東海の小田急乗り入れの取りやめと小田急の沼津乗り入れを御殿場まで短縮するという話は聞いていたが、小田急は今後乗り入れに何形を充当するのだろうか。デジ青巻頭写真で大活躍の893-2さんも8日兵庫県宝塚市から小田急撮影に来られたようです。私も関係写真をのっけてみました。

2011.11.6  JR御殿場線谷峨駅を通過する沼津発新宿行き「あさぎり4号」 20001

 

2011.2.10  相武台前~座間 箱根湯本行き「はこね25号」10051 ここは桜の季節は好撮影地となる。一部長野電鉄に譲渡され、撮影済みの方もおられよう。

 

2011.11.7 鶴川~玉川学園前 沼津発新宿行き「あさぎり2号」 JR東海371系

 

2010.2.20 伊勢原~鶴巻温泉 5255~8551 小田原発急行新宿行き 所謂小田急顔の最後。 昨年の東武顔8111に続きその会社を代表する顔が減っている。

本年もよろしくお願いします

頑張ろう2012年。甦らそう日本!
本年もよろしくお願い致します。

山陽電鉄2012号他3連。1963年1月3日、須磨浦公園近くにて。

1962年7月1日、プレス公開、電鉄姫路にて。2012+2505+2013。

本邦最初のオールアルミカー。山陽の3扉車モデルの先駆車。性能比較の為同時に、ステンレス車2014+2506+2015を製造し運用、その後のアルミカー採用の先駆車ともなった車両。

2010年以来、山陽電車と共に新年のご挨拶をして来まして早や3年目。しかも、2013、2014、2015と用意が出来ていますので、これからもまだまだ続きます。お楽しみに。

大井川鉄道、新金谷駅に転車台新設

            千頭からのSL 列車 バック運転解消へ 

 大井川鉄道の新金谷駅構内に新しい転車台が、20119月末に完成し、107日からのSLフェスタにあわせ供用を開始しました。 

 静岡県島田市が、市の観光施策の一環として設置するとし、その工事業務を大井川鉄道に委託し、今回完成したものです。 

  完成した転車台は、
  全長 17.5メートル
  自重 22.8トン
  駆動方式 人力、電気式併用
  総工事費 9,000万円  
  
 転車台に使う橋げたは、既存の橋げた(
1988 年製)を改造。この橋げたは、製造からしばらくたっているが、使用期間は短く、新品に近い状態であった。また工事費の圧縮及び工期の短縮、並びにリユース等の観点から、新品で作り込むのではなく、既存の橋げたを改造使用しました。 

 また、千頭駅の転車台は、イギリス製のもので、1897(明治30)年に日本に輸入されたのち国鉄で使われ、1980(昭和55)年千頭駅にやって来たものです。
                       (以上、大井川鉄道公式アナウンスより)
 

 これで千頭駅からの帰り(上り列車)も、機関車のバック運転をすることがなくなりました。観光客にも喜ばれそうです。実は観光客にはバック運転の意味が判らずに、不評だったようです。鉄道愛好家にとっても、新しい撮影アングルが発見されそうです。 

 写真、転車台上の機関車は、10月のSLフェスタ期間中展示された日本ナショナルトラスト保有のC12164です。本務機の転車台使用に際しては、都度移動させた(筆者撮影)

 暗いニュースの多かった2011年、せめてもの明るいニュースの一つでした。
                                   

澤村さんのお導き!

12月9日夕方、京都市内の某所で討ち入りならぬ秘密の打ち合わせが開かれるとの情報を得て、押っ取り刀で駆けつけた。そこには初老の男が7名、なにやら酒を飲みながらヒソヒソではなく大声でわめきあっている。一番年長らしい男に聞くと、まず自分はここで一番年下だと断った上で「DRFCのOBで、澤村氏の葬儀で会えなかったか、行けなかった者達の再会」とのこと。

DRFCのOBといえば、我が国鉄道趣味界における奇人変人の集合体としてとみに有名である。その会員とあらば並大抵の人格とは思えない。予想通り、話題は鉄道などかすりもせず、もっぱら年金とかつての仕事の話、さすがは奇人変人狂人の仲間である。

呼びかけの労を執って下さったパール田淵氏の心配をよそに、飲み放題をいいことに飲むは飲むは、ビールと焼酎お湯割りのやま。初参加のナポレオン山室氏や先ほど顧問の教授に間違えた稲毛氏、一人現役のサラリーマン・P6久我氏、などの怪気炎が夜の東山にこだましていた。

鉄道関連の土木遺産について

土木学会中国支部が創立70周年記念として今月発刊された「中国地方の選奨土木遺産」という冊子を取り寄せました。土木学会は毎年 全国で20件程度の 歴史的価値がある土木遺産を選んでいるらしく、中国地方分をくわしく解説した冊子でした。その表紙が山陰本線須佐ー宇田郷間にある惣郷川橋梁です。

私はこの橋を含む宇田郷駅周辺の海岸線が気に入って 何度か訪ね、蒸機、DF50,DCなどを撮影した思い出があります。童謡「汽車」の歌詞 「今は山中、今は浜、今は鉄橋渡るぞと 思う間もなくトンネルの・・・・」のごとく まさに日本ののどかな風景がそこにあったからです。

この2枚は昭和49年1月5日の撮影です。ゆるい弧を描き、あたりの風景に溶け込んだこの橋が昭和6年に着工され、昭和8年2月の山陰本線全通の最後の難工事だったとは、全く知らず この冊子を見て知った次第です。平成13年に土木遺産として認定されています。

ということで、鉄道関連の歴史的遺産は各地に多く残されていますが、これらを訪ねる旅もまた一興と思う次第です。ちなみにこの中国地方分ではその他に 

(1)岡山市 岡山電軌も上を走る京橋 (2)山陽本線三石周辺のレンガ橋梁群(山陽鉄道の遺産)  (3)浜田市郊外の未成線(今福線)のコンクリートアーチ橋群 が登録されています。

では全国ではどうなのかと調べてみたところ、中国地方以外で18件の鉄道関連土木遺産が登録されていました。「阪急大宮駅と大宮・西院間の地下線路」「梅小路機関車庫」なども含まれています。興味のある方は「土木学会」のホームページですぐに調べられますので、見てください。

 

 

 

江若鉄道イベント 盛況のうちに閉幕しました

会員諸兄のご支援、ご協力のおかげで5日間のイベントは無事終了いたしました。毎日感動の場面があり、製作者冥利に尽きる展示会でした。また遠路にもかかわらず 多くの会員諸兄が浜大津に来て頂き、感謝申し上げます。さて 来場者へのアンケートを簡単に集計しましたので 概要をご報告しておきます。

1.来場者の年齢分布 (滋賀鉄道模型愛好会の運転会との併設での来場者です)

80歳以上   13名                                                                             70歳代    12名                                                                 60歳代    35名                                                                  50歳代    38名                                                                 40歳代    43名                                                                30歳代    22名                                                                20歳代     2名                                                                20歳未満   18名   計183名  

江若が廃止されたのは昭和44年で 42年前のことですから40歳代前半の人は生まれたばかり、40歳代後半の人は幼稚園から小学校低学年です。従って江若をかすかにでも覚えているのは50歳代以上と言えます。当然ですが「なつかしい」という感想は50歳代以上の多くの方が書いておられます。特筆すべきは80歳以上の方が車椅子やつえを頼りに会場に来ていただいたことです。60歳代以上の方は通学に利用していた方も多いようです。

2.来場者の住所は?

大津市内     99名                                                             滋賀県内     30名                                                             滋賀県外     55名  計184名                                                      県外では京都市30名、京都府下10名、大阪府下 6名、東京都 2名、最も遠い方は盛岡市(仕事で来ていた)の人でした。

3.イベントを何で知ったか?

大津市の広報         50名                                                             インターネット         15名                                                            新聞               60名 (京都新聞 21名、産経、読売各2名、毎日1名、なぜか福井新聞1名)                知らなかった。通りがかり  16名                                                      その他(知人・友人から 10名、チラシ 5名、テレビの広報 5名、大津線感謝祭のパンフ 3名  など)  

大津市の広報を見た大津市民が多かったが、京都新聞の影響も大きかった。

4.江若鉄道を知っているかどうか?

見たり、乗ったりしてよく知っている        88名                                            あったのは知っているが 詳しくは知らない   73名                                            知らなかった                     20名   計181名

江若鉄道の名前だけでも知っている人を含めれば161名と多く まだ忘れ去られていないのは喜ばしい。

自画自賛になりますが、特に中高年、高齢者の記述には 「感激した」「涙が出た」「年甲斐もなくはしゃいでしまった」「また来年も見たい」などのうれしいお言葉が多く見られました。

以上

あと1日! 江若鉄道再現模型運転会

当会K副会長 感涙にむせぶ
絶好調の江若鉄道再現模型運転会、小雨に見舞われた本日も、朝から来場者が引きも切らず、老若男女、家族連れから独り者まで、続々の来場となりました。
そんななか、午後まもなく、一人のご老婦人がお見えになり、袋から何やら取り出されたものは、なんと遺影でした。聞くと、数年前に亡くなられたご主人は、永く江若にお勤めだった方とのことで、本日は、江若の再現された姿を亡きご主人にも見せるため、遺影を持って来られたとのこと。
周りでこの話を聞いていた一同は、感動にひたり、なかでも、乙訓老人と同じく、ちょっとのことでは動じない、副会長さんも思わず、目頭を押さえられ涙した、という次第。
これほど左様に、来場者を感動と涙の渦に巻き込んだ江若鉄道再現模型運転会、残された日は、6日(日)一日のみ、まだの方はどうぞお見逃しなく!

西村さんは今日も来場者に丁寧な説明をされていた

江若運転会 いきなり絶好調

「江若鉄道再現模型運転会」、いよいよ本日29日(土)からオープンしました。事前の予告に加え、当日朝に地元紙で大きく紹介されたこともあって、開場直後から続々の人出です。
当時を懐かしむ江若OB、熱心に質問するご婦人、食い入るように見つめる子どもなどなど、会場は熱気に包まれました。少々のことでは動じない、あの乙訓老人をして、「つい涙ぐんだ」の言葉を漏らすほど、見るものに感動を与えました。まさに鉄道の持つ、限りない魅力でしょう。新聞社の取材も引きも切らず、ついには今季セ・リーグ優勝チームの親会社の新聞社まで駆けつける始末でした。
夕方、ようやく人並みは途絶えましたが、入りも入ったり、同館のイベントで最高の有料入場者を記録しました。製作者の西村さんも応対に大童でしたが、”この疲れは、快い疲れ”と言い残し、夜の巷に消え行ったのでありました。

京都新聞、産経新聞の紹介記事。取材に当たってもクローバー会のネットワークが発揮された

江若記事 お詫びをふたつ

江若運転会の様子を報告する前に、お詫びをふたつ。
〔15737〕でDC5連回送のダブレット授受通過を、「ひら」号回送とお伝えしましたが、本日、その写真に載っておられた元駅員氏に、再度、館の方が取材したところ、この回送は、「県立膳所高校の全校登山行事が比良山であり、その下山輸送のための回送」であるとの証言を得ました。「ひら」号回送ではありませんので訂正します。
改めて写真を見返すと、「ひら」の場合、回送時から「ひら」のヘッドマークを掲げていました。ここで、気になるのは、膳所高校なら、国鉄貨物線を通ってそのまま膳所まで行ったのかとも妄想しますが、やはり浜大津で乗り換え石坂線で戻ったのでしょうね。

「ひら」号の回送でなく、高校団体輸送の迎え回送でした

もうひとつの訂正は、〔15824〕の写真キャプションで、「鉄道模型雑誌の編集長」などと書きましたが、本日、ご本人から”編集長ちゃいまっせ、雇われ編集部員でっせ”と言われました。なにか、私の会社時代の哀歓をそのまま生き写すようで、思わず感じ入りました。謹んで訂正します。