【97963】大阪市電1001型

しばらく(約一ヶ月)このシリーズの新聞掲載がなかったので、関三平先生のお身体に故障が発生したのか、交番検査で入場かと心配のあまりお電話したところ、先生はお元気で安心しました。しかし、新聞社の勝手で掲載が4週間に一回となったとか!けしからん!!と怒りまくっております。

閑話休題

大阪市電は京都市電と違い、全く分かりません。知りません。
ご存じなのは「大阪特派員」氏でしょうか。同じ特派員氏でもこちらの方は全くアナログで、貴重な写真も投稿できないそうなので、また介護に行かねばなりません。介護士不足が身にしみます。


【97876】久しぶりの世田谷線 アジサイと共に

6月6日関東地区も梅雨入りとの報道が有りましたが 翌7日は良い天気に恵まれ アジサイがきれいであろうと久しぶりに東急世田谷線に出かけました。
田園都市線で三軒茶屋へ 少し歩いて世田谷線の三軒茶屋駅へ その昔とは比べ物にならない現代的な駅になっています。
車両はデハ300形2両連節車 10編成が在籍しています。平日の昼間でしたので6分間隔7編成での運用でした。
309F(バ-ントオレンジ)が入線してきました。折り返し高井戸行に乗車して終点まで乗車しました。

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【97830】保存蒸機とその現役時代(38)

皆さんの恵那・明知(明智)旅行前後の報告も楽しく拝見させていただいたが、私は2日目のお弁当列車を失礼して南木曾の保存機D51351の撮影に向かった。前回デジ青での保存機発表は2016.12.27付[80204]で千葉県の久留里線小櫃駅近くに保存されているC12287であった。既に忘れられた投稿であるが、西村さんから応援の声をいただき再び老骨に鞭を打って再開した。ここは駅から近かったが保存機訪問は屋敷さんのように若くないので結構大変である。

南木曾は以前三留野と言ったが駅から300mくらい名古屋寄りに戻った旧線跡の公園に雨ざらしで保存されていた。妻籠宿に向かう外国人が多数通っていく途中に保存機は鎮座している。以前の画像を見ると保存機は相当壊されたりして荒れていたが私が訪問した時は厚化粧状態であった。

 

<D51351主な経歴>

1940年(昭和15年)2月日立製作所笠戸工場製 製番1230  新製後福井、金沢、富山等に配置され北陸線方面で活躍。その後1965年(昭和40年)10月新庄、横手に転属し奥羽本線方面を走った。1971(昭和46年)年10月には木曽福島に来て1973年(昭和48年)7月まで中央西線を最後の働き場所とした。

1973.01.21 贄川のD51351[木曽福島]  集煙装置をつけているが東北からの転属機であることが前照灯横に設置された予備灯の存在でもわかる。 ▼

 

2018.05.27 南木曾のSL公園の同機で補助灯は外されており、煙突も集煙装置の関係か短い。 ▼

 

 

 


【97815】関三平先生情報

産経新聞に5月10日の「京都市電600型」以降掲載がないので心配しておりましたが、先ほど関先生にお電話で伺ったところ、「産経新聞の都合で4週に一回になってしまった」との事で、心配していたご健康に問題は無いとのことでした。皆様、ご安心ください。ただ、掲載が4週間ごと(それも確実ではない)となると話題が散漫になるのではとご心配のご様子です。

同志社クローバー会のホームページは見ているとのことで、600型の盛り上がりには感心のご様子です。ただ、お使いのタブレットが壊れて買い換えたが設定が出来ないとかで、奥様のスマホでご覧の旨、ご不便されているようです。

取りあえず、ご報告いたします。


【97663】鹿児島交通加世田の車両(1967年初秋)

西村雅幸さんが発表されたデジ青[96984]「薩摩を旅して(前編)」では鹿児島交通の機関庫のあった現在の加世田バスセンターを始めその前に廃止された支線の駅跡等が紹介された。西村さんにはDRFC-OB恵那・明知狂化合宿の場でまだ廃止される前の加世田の構内や車両について私から追加発表することをお知らせした。

鹿児島交通加世田の訪問は1967年8月に行われたDRFC麻生釣、大畑狂化合宿終了後の9月1日の訪問である。西村さんのデジ青投稿にコメントされた総本家さんも加世田に行ったが車両がボロボロで発表に及ばなかったとのことである。そのボロボロをあえて発表させていただく。9月ではあるがまだまだ暑い日であった。私鉄の蒸機には関心が薄くただ撮っただけで説明がうまくできないことをお許し願いたい。

加世田駅構内その① 右から輸入蒸機他、国鉄C12型他、キハ07タイプのキハ100▼

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【97428】O君、やっと、わかったで!C12を撮った場所が・・・難儀したがな

 ホンマに難儀したがな。ちょっとでも撮影場所を書いといてくれれば、こんな艱難辛苦をせずものを。それで電子的BOXに持って行って、これは一体どこで撮ったのか教えてもらえないかとゆうてみると、そこは地の果てまで汽車を追っかける強者たち。摂津の国に住まいする何某がC12の何番がどこにいたのかということからわかるんと違うかと。いろいろな人がBOXに来ては、なんやかんや言って行くのであるが、なかなか。最初に高森線と思いきや、どうも明知線ではないかと。そして、背後の山から恵那と東野間のどこかでないかと追い詰めると、あとはO君がどこでカメラを構えたのか。O君は道なき道をかきわけて、写真を撮りに行くような戦闘的撮影行は見たことがなかった。彼の名作(迷作か)で「珍竹林」と題した写真があったのを思い出す。かといって日和見的でもなく、それなりにカメラを構えるところを探し歩いたに違いない。前回の投稿でコメントに書いたように、萩に親戚がいるので一緒に行こうということで夜行で厚狭に、美祢線で長門市を経由して萩へというコースであった。せっかくだから美祢線大嶺支線の蒸機列車を撮ることになり、南大嶺で降りて美祢線と支線の分岐点までいっしょに必死になって歩いたことがある。冬の朝方のことである。そんなO君だから線路に沿って歩いて撮影場所を探したのだろう。

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