今読んでも面白い老人文章

最近、2009年11月29日の大阪通信員さんの「通信だより」にコメントがあり、通信員さんの女性車両誤乗の話に加えて乙訓の老人さんの京都名物(?)のアイスクリームの天婦羅などの話に飛び、多くの方々からコメントが入っている。乙訓の老人さんは電車に関しても独特の隠語が入っているがとにかく面白い。今さら言うのも失礼かと思うがとにかく文才抜群と思う。

これだけではつまらないので吉田さんの札幌市電の続きを始めさせていただく。ローレル賞を取ったA830の一部が美濃の国に行った話をしたが早速紫の1863さんが美濃時代の写真を入れてくれた。札幌時代のA830の写真が少ないので拙写であるが、駅前の姿を発表する。1969.3.10 北24条行きA833 ▼

総本家さん程うまくないがもう1枚。1969.3.18  北24条行きA838 ▼

「あんな。札幌のA830はやなー。」 京阪、京都市電だけではなく日本全国の電車、ドイツの路面電車にも造詣が深くデジ青にも必ずと言っていいほど説明をいただいた日々が懐かしい。改めてご冥福を祈りたい。

 

愛知県の気になる乗り物

少し前の話となりますが、青春18きっぷを使って愛知県の気になる乗り物に乗ってきました。
東海交通事業城北線、リニモ、ガイドレールバスの3か所です。このうちガイドレールバスは鉄道の範疇に入るのかと気になったのであえて気になる鉄道ではなく、気になる乗り物とした次第です。
最初に訪れたのは東海交通事業城北線です。名古屋の隣の枇杷島から中央線の勝川に行く全長11.2kmの路線です。名古屋という大都会を走るのに愛知県唯一の非電化路線です。開業は1991年と新しく、当初は瀬戸までの計画路線でしたが、勝川以遠はその後工事は凍結されたままになっています。
↑ 枇杷島駅:名古屋方面と線路はつながっていますが直通列車はありません。地平の駅を出ると東海道線を越えて高架となります。
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大相撲夏場所が始まりました。

過日の日経新聞に相撲列車という記事が載っていました。車輛については書かれていませんが、裸の力士が通路に座っているというのと、やはり二人席を一人で使っている画像が面白く転載してみました。室内妻面の色から車輛は185系と思いますが、客車時代の団臨相撲列車は楽しい混成の編成が組まれていたんでしょうね。

 

2箇所で撮った名鉄モ750形

「お城と鉄道」では思わぬところで岐阜金華山の岐阜城が紫の1863さんや西村雅幸さんから市内線の電車とともに紹介があり、さらに話が谷汲線まで飛んで嬉しい限りである。岐阜市内、揖斐線、谷汲線で活躍したも510形とともに最後まで残っていたモ750形についてもその前に活躍していた瀬戸線のそれも同番号で紹介するが尾張や美濃を75年間も走り去った老優であった。

モ750形は1927(昭和2)年、旧名古屋鉄道デセホ750形として10両製造された。本線昇圧後広見線系統、その後瀬戸線に移り活躍した。そして瀬戸線昇圧で揖斐、谷汲線に転属し2001年9月30日両線の廃止とともに廃車となった。モ755は旧谷汲駅舎とともに保存されている。

 

1972.9.11 瀬戸線尾張旭₋三郷間 準急瀬戸行きモ755+ク2222 後のガソリンカー改造と思われるクハが気になる。▼

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2024年春のミニイベント「比叡山を巡る鉄道」

今回の春のイベントは、電車・ケーブル・ロープウェイ・ハインキングで、「比叡山を巡る鉄道」企画しました。実施日の2024.4.13(土)は、お天気にも恵まれて、絶好の行楽日和で、9名の方の参加をいただき、開催いたしました。
コースは、①集合 叡電 出町柳駅→八瀬比叡山口駅、②比叡山ケーブル 八瀬ケーブル駅→ ケーブル比叡駅、③比叡山ロープウェイ ロープ比叡駅→比叡山山頂駅 ④比叡山延暦寺他周辺散策(バス・ウォーキングのコースに分かれて) ⑤坂本ケーブル ケーブル延暦寺駅→ケーブル坂本駅 解散 です。
当日は、9時半に出町柳駅に集合出発し、電車・ケーブル・ロープウェイとも順調に乗車でき、また行路途中に京都市内の景色も十分に眺めることが出来ました。(前回私が来たときは、紅葉シーズンでもあったため、時間が少し遅かったのもありますが、各々の乗り物に、2便乗車待ちがありましたので) そして山頂駅到着後、①ウォーキング組4人、②バスで横川方面に行く組5人と分かれて行動することとなりました。私は約1時間のウォーキングで延暦寺を目指すコースを選択しました。
ウォーキング(ハイキング)コースで一路延暦寺へ。途中かなりの人がハイキングそしてジョギングを楽しんでいました。延暦寺では、根本中堂の改築風景見学、そばを食べて、集合場所である坂本ケーブル、ケーブル延暦寺駅へ。集合時間の14時より早い時間に到着し、延暦寺駅舎内を見学。駅舎は開業(昭和2年)当時からそのままで、重要文化財とか。駅舎の中は、資料館となっていて、また3階の屋上も整備されていて、びわ湖・大津市が眺望できます。そうしている内にバス横川チームも合流し、駅舎をバックに記念撮影。
坂本ケーブルは、全長2,025mあり、日本一長いケーブルです。びわ湖を眺めながら、坂本駅へ。坂本駅で解散して、京阪・JRへのバス組と歩きの組と分かれる予定が、日吉大社山王祭とのことで、バスは運休していました。よって全員徒歩で駅を向かうこととなりました。日吉大社の入り口あたりから、歩行者天国となっており、露店も多く出店しており、すごい人出ででしたが、枝垂れ桜をみながら、一路京阪坂本比叡山口駅へ。なお打ち上げは、京阪山科駅近くの居酒屋で開催し、疲れを癒やしてから解散となりました。皆さんお疲れ様でした! 安達

桜関東版

歳は取り過ぎてもかろうじて桜と電車を撮った。総本家さんの毎度見事な撮影に対し怖気づいているが関東では元気な快速つくばねさんが発表されてホッとした。もう新緑鮮やかな時期で今さらなんやと言われるが私の桜も見ていただきたく発表した。足腰が確実に弱くなっているので小湊鉄道や秩父鉄道にはちょっとしんどいのでワンコイン範囲内での撮影である。

近場でいつも行くのが、井の頭公園、高井戸、稲城、武蔵関、相武台前あたりであるが、今回は歳のせいか撮影回数も少なくなった。

最初は4月7日の西武新宿線東伏見-武蔵関間でここは桜がたっぷりあり駅から近いので年寄り向きだが一般客も多い。西武30000系の各停西武新宿行きでスマイルトレインと言われているがあまり好きになれない。▼

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新刊本のご案内

当会では昔から熱心な活動で時々デジ青にもバスを含めて古い車両を紹介されている藤本哲男さんがこの度この世界では有名な諸河久さんと共著(写真・諸河久、解説・藤本哲男)で「地方私鉄の記録第2巻北関東編」をフォット・パブリッシングから発行されました。

藤本さんのプロフィールには同志社大学鉄道同好会HP「デジタル青信号」に多数投稿とあります。諸河さんは路面電車に造詣が深いとご本人から聞いたことがありますが、藤本さんとの出会いは60年前のお互いが高校生時代に京都五条坂の「タカハシ写真店」で店主の高橋弘さんから講義を受けて以来とのことです。

さすがにプロと言われるだけの内容ですが、何よりも定価が安くお買い得の内容と思われますので一度ご覧ください。

 

久しぶりにお会いした親友

今年は3月が低温だったせいか桜が新入学の時期までもったようで今日は入学式があったのかランドセルを背負った小学生を見ると微笑ましく感じました。さて、皆さんもそんな桜と電車を写しにあちこちに出かけられたことでしょう。よくワクヒロさんが近鉄電車と桜を発表されていたことを思い出します。皆さんの作品も老人投稿の間隙を縫ってデジ青上で発表していただきたいですね。大体は近場でどこに行くか予め決めておられると思いますが、関東では東中野や池上線の石川台付近が定番でしたが最近は木が伐採されてアウトです。井の頭公園や高井戸-浜田山、駒場東大前などにはよく出かけますが、今日は高井戸-浜田山間の有名な定番撮影地の踏切で鉄研三田会の不錆鋼さんに出会いいろいろと話が進みました。遅い昼食もご一緒させていただき楽しいひと時が過ごせました。不錆鋼さんはDRFC-OB会に参加していただいておりますが、東急におられた関係もあり伊賀鉄道のイベントでも大変お世話なりました。(私より若い)DRFCの訪台したメンバーの話も聞かせていただきました。先日のクローバー会写真展も鉄道友の会京都支部の会合の参加の前に見学されております。湯口さんが上京された折に元三田会会長の高井薫平さんとのお酒の席に不錆鋼さんもよく同席されたそうです。それでは今日は曇天気味でしたので2年前の令和4(2022)年4月2日に撮った高井戸-浜田山間の1779先頭の急行渋谷行きを貼り付けます。

 

 

 

 

二日市・大宰府をめぐる鉄道交通の発達史 展示会開催中

昨年の西鉄宮地岳線廃線跡探訪、貝塚線多々良車庫見学の際お世話になった吉富さんが主宰されているNPO法人福岡鉄道史料保存会が「二日市・太宰府をめぐる鉄道交通の発達史」展を開催中です。西鉄大牟田線が開業100周年、3月には新駅桜並木駅も開業しました。皆様この機会に福岡、太宰府、筑紫の国へお越しください。

場所 福岡共同公文書館 JR二日市駅からバス・徒歩で約10分

開催期間 9月29日まで 5月26日13時30分~15時30分は講演会「二日市・太宰府をめぐる鉄道秘話あれこれ」も開催されます。

広島駅の大型機の思い出

最近は健康食品とかサプリメントとかやたらに老人向けの広告を見かけるが、そんなによく効くのかといつも疑いの目で見ている。ところで、今日4日の日経新聞の文化欄を見るとこんな記事が出ていた。『 認知症、うつ、孤立に【処方】と題して「絵の中にカエルがいる!」「そういえば子供の時、よくカエルでザリガニ釣ったなあ」。3月上旬の佐倉市美術館(千葉県)、認知症の自覚症状がある高齢者など十数人が絵画を前に話し合った。最初は口数が少なかったが、次第に感想があふれてくる。1時間余りの鑑賞会の後半にはみな笑顔で、昔の記憶がよみがえってくる人も。様子を見守っていた家族は「普段はこんなに話さないのに」と驚き、喜んだ。』(原文のまま)

他人から見たらうるさいなと思われるかもしれないが、懐かしい思い出話をすることは健康にいいと申し上げたことがある。懐メロに加えて最近は小学唱歌なども同様の感じがする。私は一人住まいの後期高齢者であり、認知症、うつ、孤立の予備軍であるが今日もデジ青に拙い駅撮りを出してみた。双方向であるとより楽しいが、気が付けば同年代の趣味人の方は大変少なくなったのが寂しい。勿論、若い方からのコメントは嬉しく返事を差し上げているつもりである。

さて、広島駅の大型蒸機は何回か機関区を訪問して撮ってきたが、今回は1964年4月3日、九州から帰りに広島区に立ち寄った機関区巡りの後の2~3カットを出してみた。広島と言えば三原の西村さんが思い出されるがまだ京都にお住いの頃である。当時は同駅発着の山陽本線旅客列車は特急から普通列車迄C59かC62という最高の役者がそろった駅であった。ホームで列車を撮っていたらもう一つの大型蒸機D52が堂々と貨物を牽引していた。

下り貨物のD52373[広島] 戦時設計の粗悪機であったがこの頃は大分標準装備に改装されていた。関西では吹田に長い間在籍していた。▼

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 お待たせしました。明日からクローバー会写真展

持ち場持ち場で頑張る会員たち、ご協力、ありがとうございました。

“デジ青”読者の皆さま、お待たせいたしました。クローバー会第10回鉄道写真展「鉄路輝く」、明3月20日(水)から26日(火)まで開催です。

本日は設営の日に当たり、選りすぐりの準備担当係が参集して午後1時から作業を開始しました。あらかじめ下準備はしていたものの、やはり一点ずつ、手作りで仕上げていくのは大変なこと、当日は平日のため、担当係だけでは、人手が心配でしたが、そこは協調心あふれる心優しいクローバー会会員のこと、米手さん、Tさん、Iさんと、みんな75歳超の高齢世代ですが、会場に駆けつけていただき、最後まで手伝っていただきました。お蔭で午後5時30分には、すべての準備を終えることができ、明るいうちに退出することができました。

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東急多摩川駅にて

最近は日本の人口が減少に向かい、特に地方では過疎化が進んで鉄道のローカル線や路線バスの廃止のニュースをよく見る。このような中でも東京だけは人口があまり減らないのか多くの駅で電車がひっきりなしに上下する風景が見られる。東京、新宿、渋谷、池袋、上野界隈がそうであるし先日も総本家さんが中央本線阿佐ヶ谷での複々線4列車総並びを発表されておりその一端がうかがえる。関東では私鉄に目を向けると関西の阪急十三、南海新今宮、近鉄鶴橋のような圧巻的風景は見られないが東急東横線の多摩川駅では実に多種の電車が見られる。特に最近は神奈川県内のみ(横浜-海老名間、支線の二俣川-湘南台間、厚木貨物線)の営業であった相模鉄道がJRや東急と相互乗り入れを実施して東京心部や埼玉県まで顔を出すようになったことで多摩川駅の車両のバラェティを深めている。

東急多摩川駅では東急の他、横浜高速鉄道(みなとみらい線)、東京メトロ、東武鉄道、西武鉄道、東京都、埼玉高速鉄道、そして相模鉄道が加わることにより8社の車両を見ることができる。各車両ほぼ同じ位置の単調で面白みに欠ける記録であるがこれだけの会社がそれぞれ2~3種類の車輛を投入してくるので飽きることはない。併走も含めて発表してみる。

まず最初に今回の定点多種車両撮影に至った起爆剤的な相模鉄道についても若干触れてみたいと思う。独特の単一カラーでよく目立つ相模鉄道通称相鉄は以前は準大手私鉄の位置づけであったが、1990(平成2)年4月にいずみ中央駅まで延伸されたのを機に同年5月31日正式に大手民営鉄道として認定を受けた。相模鉄道の歴史がややこしいのは相模鉄道とは現在のJR相模線のことで大正6(1917)年に創立され、現在の相模鉄道は当初神中軌道、後に神中鉄道となった鉄道でやはり同時期の創立である。昭和18年(1943)年には神中鉄道は相模鉄道に吸収合併され、元の相模鉄道自身は1944年に国有化され残った神中線が相模鉄道となって今日に至っている。その間相模鉄道は東急になったり小田急の干渉があったりして紆余曲折の歴史があったが横浜駅西口(相鉄ジョイナスや高島屋のある所)の土地買収により安定的な経営をするようになったと言われている。私が最初に見た相模鉄道には神中時代の汽車ポッポのムードが残っていた。駅の改札口は木製のラッチが多く海老名などは田圃に蛇が出てくるような田舎であった。1955年の流線形湘南窓ボディマウントの5000系や続いて登場した1961年の6000系20メートル車の導入で大手に近づいて来たように思う。5000系、6000系の写真である。

1972.2.20 大和付近を行く急行海老名行き5011。湘南窓に車体下部を覆ったスタイルに人気があったが直ぐに更新改造されて消えて行きそのスタイルが惜しまれる車両である。▼

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DF50思い出写真(10)山陰本線

DF50は北海道や関東地方を除き概ね各地で見られた。伯備線、大社線や中央本線では撮ることができなかったが、0番台スルザー形(ズルツアー形)65両、500番台マン形73両計138両の走行線区は一応網羅したつもりである。

最終回はDF50が健在であった時代にDRFC-OBの皆さんが日常よく見たり乗ったりされた山陰本線である。所属は勿論DF50が大量に配属されていた米子区である。

最初は1969.5.4京都駅山陰線ホームから撮ったDF50525である。カラーでなく残念であるが旧塗装(新製時の茶系)の方が急行を含め旧型車を牽くのに似合っており私は古い色が好みであった。▼

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東進続々

小湊鉄道は昼過ぎには切り上げて東京へ戻ります。五井からJRだけで速く戻れるのですが、せっかく東京まで来ていて、少しは時間もあるのでここは京成電鉄に乗ってみることにしました。泉北高速鉄道と同じく新京成電鉄も社名が消滅すると報じられているので、その前に乗ってみようとも思いました。またSNSにアップするような投稿ですがご覧ください。このような投稿なら日常フェイスブックに出しているものとほぼ同じですので簡単に出すことが出来ます。丁寧に過去の資料の下調べをして投稿をされる先輩からはお叱りを受けそうですが、ご容赦願います。

▲新京成電鉄8800型 京成津田沼 京成もそうですが標準軌で18メートル級車体3扉というのは関西では京阪や阪神もほぼ同様なので親しみを感じます。

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癒しの島 台湾鉄道2024年厳冬の旅 Part4 南廻線を行く

第4日目 1月26日

今日はツアー参加の皆さんと合流する日です。各自の行程がLINEで送られてきていますが、殆どの方は台東のホテルへ着かれるのが夕刻以降です。私は既に高雄に居りますので午前中でも合流は可能です。誰か早くに合流できる方はおられないかと探していましたらブギウギさんが昨夜は花蓮に宿泊されて「花蓮6:35(莒光602次)⇒9:48台東、莒光701次到着を撮影後、台東10:17(新自強372次)⇒10:46金崙」という投稿が入っていました。私もほぼ同じ行程を立てていましたので金崙大橋でお会いできるだろうとホテルを出発しました。

① 高雄 6:40(莒光701次)⇒9:12 金崙

【 ドジ一発目 】
高雄車站へはMRTで向かわなければいけませんが、ホテルの最寄り駅「巨蚕站」始発は 6:12です。高雄車站までの所要時間は約14分ですので十分間に合います。
朝5時半には起き上がりチェックアウトをして巨蚕站へと向かいました。
5:45 ホームに下りましたが始発電車なのに待っておられる客が多いようです。直ぐに電車も入線してきましたが始発にしては多い感じがします。
6:00 台鉄高雄站に着きいつものようにきっぷ自動販売機に入力して莒光701次のきっぷを購入しようとしますがモニターには表示がされません。壊れているのかと隣の販売機に同じことをしますが同様です。腕時計を見ても間違いありません。
どうしてか聞こうと有人カウンターへ行って莒光701次のきっぷが欲しいと言いますと「明日のきっぷですね。発券しますか?」とトンチンカンな返答です。
ここで初めておかしいと気づき駅の時計を確認しますと、7:00が表示されています。腕時計は6:00と1時間違っています。
どおりでMRTの乗客が多かった訳です。
台湾に着く前に飛行機の中で台湾時間に合わせていました。昨日まで間違っていませんでしたがなぜか日本時間に変わっていました。これでは何度きっぷ販売機に入力しても希望する列車は表示されません。
改めて今からでも間に合う新自強 415次のきっぷを購入しました。

① 高雄 7:48(新自強 415次)9:36 台東 
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東進続

東武鉄道を撮った翌日、あいにくの雨でしたが小湊鉄道へ向かいました。小湊鉄道はJR東日本からキハ40を導入し、さらに魅力がアップしたように思います。もちろんキハ200も車体の造形だけでなくDMH17エンジンを搭載し貴重な存在ですが、今や原型に近いキハ40が走るのはとても素晴らしいことです。午後には東京に戻らねばならなかったので、昼からは雨も上がるとの予報だったのですが、消化不良な撮影になってしまいました。こちらも次回以降再訪の宿題です。それにしても首都圏には面白い非電化私鉄がいくつもあり羨ましい、と思います。他にも数を減らしていますが関東鉄道には在来車のキハ0系やキハ532、鹿島臨海鉄道には6000系が最後の活躍を見せています。さよなら運転とかですと、人が殺到し激パ状態となり一気に戦意喪失してしまいます。そうならないうちに行くのです。行くのなら今です。

▲キハ401 五井 もとの番号はキハ402021 コイルサスなので暖地仕様です。

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東進

先日2月のはじめ、久しぶりに東京へ行って参りました。特別な列車が走るとかさよなら運転があるとかではありません。ただの日常です。東武鉄道は、車両や線区のバリエーションが広くなかなか興味深い存在だと思っています。本当は、奥地に行ってSLやうまく行けば野岩鉄道に残る6050系も、と考えていたのですが都合により叶いませんでした。次回以降の宿題です。その代わりと言っては何ですが、大師線と亀戸線に初めて乗ることが出来ました。SNSに載せる写真日記のようですが、ご笑覧ください。

▲新鋭スペーシアX、思っていたよりも白が映えます 獨協大学前

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 NYで話題になった戦前の「参宮快速」のポスター

旧twitterであるXのタイムラインを眺めていると、ある方の投稿された写真に、複数の鉄道好事家の方が集まって議論している場面に出くわした。

写真はニューヨークの美術館で開催されたアールデコの時代のポスター展に出されていた、日本のポスターに米国在住の日本人写真家が惹きつけられて、このような短い文章と写真を投稿された。

>「先日アールデコのポスター特別展を見に行ったら日本の鉄道ポスターが一枚展示されていた。1935年の黒住豊之助という方の作品だとか。説明によると京阪神から伊勢神宮までの快速列車開通の広告らしい。」

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広島から新聞ネタ3題

いつものように、中国新聞の記事のご紹介です。すべて令和6年1月27日の記事です。まずは錦川鉄道(旧岩日線)のキハ40です。

このキハ40は平成29年4月に宇都宮運転所で廃車になったキハ401009で、烏山線で使われていました。元のキハ402139で、トイレを撤去したりして1000番代になっていた1両です。廃車後に錦川鉄道に来たのですが、レールがつながっていても、廃車になった車両を甲種輸送はできないのか、陸路をトレーラーで運ばれてきました。

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梅小路区を塒(ねぐら)としたC57達

東海道本線電化後の梅小路区では旅客用機関車として名機C51最後の活躍が見られたがその後継機として北陸本線富山電化による金沢区や他区からC57が転属してきた。C51と同じように京都-園部間の旅客列車を中心に活躍していたので京都在住や近郊の方々には最もなじみのあった機関車ではなかろうか。かく言う私も4年間の京都での下宿生活の中で山陰本線京都-馬堀間は授業の合間というより授業をさぼって撮影を楽しんだ場所である。特に京都駅から僅か30分のC57牽引オハ61系客車の旅で保津川の渓谷を楽しめるとは京都に縁のある蒸機ファンには最高の路線であった。

それでは[梅]の区名の入ったC57のラインアップを若い番号順に紹介する。

C575  金沢区からの転属で正面の形式入りナンバープレートが人気を集めた。

C5715  金沢区からの転属でC575と同様当初はツララ切りが残っていた。

C5739 金沢区から名古屋区を経ての転属である。

C5743 遠く羽越本線酒田区からの転属で梅小路区在籍期間は短かった。

C5789 これも金沢区から亀山区を経ての転属である。

C57127 常磐線平区からの転属である。

C57190   同じ関西の和歌山区からの転属で戦後製の異色スタイルであった。

それでは順に彼女達(貴婦人ではなくそこらのよく働くおばはんと思っていた)の在りし日を追ってみる。梅小路区からさらに他区へ転属した機関車は可能な限りその姿も紹介する。

 

C575   1937年7月 川崎製造 製造番号1800  新製後の配置は何と梅小路区でその後宮原区、姫路区を経て戦前に金沢区に配置され64年10月福知山区へ配属されるまでずっと金沢育ちである。福知山区の後66年9月に梅小路区に配属された。71年7月豊岡区を経て72年3月に浜田区へ転出し74年7月に同区で廃車となっている。この機関車は形式入りナンバープレートが見事で美形のC57であった。71年5月23日には京都-姫路間をC575+C5739の重連で「汽車ポッポの旅」として走行している。尚、廃車後は姫路市の御立交通公園に保存されている。

1967.12.3 保津峡-馬堀間を行くC575牽引の923列車敦賀・豊岡行き。▼

1969.2.25馬堀駅発車のC575牽引敦賀行き923列車。朝降った雪が少し残っている。▼

1972.8.24  出雲市-知井宮間を行く C575の浜田区へ転属後の姿で形式入りナンバープレートもなくなっている。左の線路は今は廃止された大社線。▼

 

C5715 1938年1月川崎製造 製造番号は1869 新製後の配置は名古屋区で2年後の 1940年9月に金沢区に転属し以降63年4月に梅小路区に転属するまでずっと金沢育ちである。71年6月に梅小路区で廃車となっている。

1965.6 京都 C5715の金沢区時代からのツララ切りをアップしてみた。蒸機の専門家にツララ切りはD51にない理由を訊いてみた。D51はデフステイが少し高いこととC57の方が速度が速く運転室の窓が割れやすいからではないかとの回答を得た。飯山線のC56にもツララ切りがあったと思うがどなたかツララ切りについてご存知の方はご教示願いたい。▼

1968.10.8  馬堀駅到着前のC5715牽引敦賀行き923列車。この時はツララ切りはなくなっていた。 ▼

1968.10.8  到着前の写真を撮った後に走って出発も撮ったがピンボケで二兎を追えずやはりうまくいかなかった。若い元気なころの思い出写真である。▼

1968.11.14  嵯峨付近を行く午後の園部発1832列車京都行き。 ▼

 

C5739 1938年1月日立製造 製造番号947 新製後金沢区に配属され一時米原区にあったが44年以降はずっと金沢区にあり北陸育ちである。64年9月に梅小路に配属され山陰本線京都近郊で活躍後の71年6月遠く鹿児島区へ転属となり74年4月同区で廃車となった。

1969.2.25  保津川渓谷を行く園部発1830列車京都行き。 ▼

C5739はC575と重連で71.5.23に京都・姫路間を記念列車として往復したが、記録された方がおられたら貼り付け願いたい。

1972.5.1  同区を訪問した際に庫の中にいる姿を発見。右は翌1973年4月9日お召し列車を牽引することになる門鉄デフのC57117[宮崎]。▼

 

C5743 1938.3三菱製造 製造番号227 新製後の配置は水戸区で以降宇都宮区、白河区、千葉区、尾久区、酒田区等東日本の各地を回り65年6月に梅小路区にやってきた。しかし同機は同年10月豊岡区に転属してしまった。その後68年10月には米子区に転属し69年12月同区で廃車となった。動輪が米子駅前に保存されている。

1965.6 C5743が梅小路区にいたのは65年6月より同年10月福知山区に転属するまでの僅か4か月。ターンテーブル(転車台)にのる同機はデフレクター(除煙板)下部の点検用開口部があることと正面のシールドビームの前明灯が特色。▼

65.6 C5743のキャブ(運転室)で区名札には確かに「梅」の表示が入っている。▼

梅小路区を4か月で追い出されたC5743は1965年10月に豊岡区に転属した。同年11月12日姫路駅を出発する播但線下り貨物牽引のC5743。前照灯がLP403に換装され見栄えが良くなったがこの後直ぐに長い煙突に集煙装置を装備し再び醜い姿になった。▼

 

C5789   1939年3月日立製造 製造番号1064 新製配置は名古屋区で41年9月には金沢区に転属。以降北陸線で長く活躍した後64年10月に亀山区、翌65年10月に梅小路区入りし以降園部等京都近郊区間を中心に活躍した。71年5月には宮崎区に転属し76年6月同区で廃車されるまで日豊本線で活躍した。5、15、39号機と同じく金沢育ちである。

1967.12.7   京都駅で出発待ちの元金沢組のC5789+C5715重連の1827列車園部行き。▼

1968.9.21  夏が終わり陽が早く傾くようになってきたころ馬堀駅出発するC5789牽引の1827列車園部行き。 ▼

1973.4.10  宮崎区に転出したC5789に再会したのは日豊本線青井岳。都城発宮崎行き列車を牽引して鉄橋を渡って行った。 ▼

 

C57127   1940年3月三菱製造 製造番号277 新製配置は尾久区で54年9月に平区へ転属。常磐線育ちで63年6月に梅小路区に転属して金沢組と共に活躍した。71年4月26日園部発1828列車牽引を最後に定期列車運行を終えている。同機はさらに71年6月に宮崎区に転属し同年11月に鹿児島区へ再転し74年4月に同区で廃車となっている。

1964.5.4  京都を出発して東海道本線と分岐し梅小路区横の大カーブを行く923列車敦賀・豊岡行き。▼

1968.5.19  珍しく京都駅東海道本線ホームに到着したC57127牽引の列車。かつて東海道本線蒸機時代はこのような感じでなかったかと想像しながら夢中でシャッターを切った。臨時列車か回送ではないかと思うが詳細はわからない。▼

1972.5.1  川中さんの車で鉄鈍爺さんと九州横断旅行をしこの日の午後鹿児島入りした。鹿児島区には懐かしい梅小路から来たC5739とともに、C57127がいた。ボイラ端面が角形なのが特徴。右は宮崎区のC57117。▼

1972.5.1   C57127の斜め横のビューで三菱の銘板と[梅]から[鹿]に変わった区名表示が読み取れる。▼

 

C57190 1946年12月三菱三原製造 製造番号523 新製配置は門司港区で以降56年10月米子区、1959年10月伊勢区、61年2月和歌山区、65年10月梅小路区と前半九州、後半関西で活躍した。C57の第4次車(190~201号)は九州、北海道に多く配置され本州は当機190と亀山区の198の2両だけであった。別形式にしてもいい程のスタイルでC59似とも言われファンも多い。

1963年8月6日 C57190は梅小路区の前は和歌山区にあって準急列車なども牽引していた。この日は庫の中で休んでいたが何となくC59に似ている。左は同区の入れ換え用C50115。▼

1965.5.3  紀勢本線南部駅で交換する2106列車天王寺発白浜口行き準急「しらはま」牽引のC57190。▼

本題の梅小路時代に入る。ところで金沢区等から転属してきた梅小路区のC57は毎日やってくる福知山区のC57と外観上大きく異なるのは福知山区のC57はドーム後方に重油タンクが付いていることである。関西地区にはタンク付きが多い。これに対して梅小路区の他区からの転入車は重油タンクはなく比較的オリジナルな姿である。参考に64年5月4日梅小路区で撮った福知山区の重油タンク付きのC57128である。この機関車は大津に保存されており大津の86さんに案内していただいた。▼

一方、同じ関西の和歌山区から来たC57190は同区の他のC57と同様ドームの後ろに重油タンクがついている。さらに梅小路に来てから煙突に集煙装置を付けてしまった。写真は66年6月5日早朝の馬堀付近の園部発624列車京都行きC57190である。番号が見えなくてもその風貌で分かる。▼

続いて馬堀の定番撮影地。1968年10月8日園部発京都行き1830列車。▼

終わりに

阪神・淡路大震災、東日本大震災、熊本地震に続いて今年は元日の夕方能登半島で大地震が起こった。阪神・淡路や東日本と比べて死者は少ないが、3週間経っても復興が見えにくく趣味の投稿をやっていていいのかと思うことがある。私は多くの病気を抱えており整形外科、眼科、皮膚科等で通院し25日は要介護認定検査を控えているが一人住まいで気が滅入るのでデジ青を利用して投稿やコメントをすることが気晴らしにしているのも事実である。ただ最近は特に記憶が薄れ、何回読み直しても誤字や間違った表現が減らないのが気になる。「梅小路のC57」は今書店で販売されている「蒸機の時代No94」北陸線特集に掲載された諸先輩の金沢時代のC57等に触発されたのも事実である。蒸機を知らない方も多くなりそういう方々には迷惑をかけているような気がするがお付き合いいただき御礼申し上げる。今度はカラーでもう少し新しい車両を紹介したいと思う。

C57の履歴は交友社SLNo3を参考にした。