モニ13027

「昭和の電車」シリーズは、京阪、近鉄、東武の「ガラクタ編成」が続き、南海モニ1045、国鉄モニ13027と荷電が続いている。

国電に興味をお持ちの方は、今回の解説文を読んで「?」と思われたに違いない。
関さんや新聞社には既に訂正依頼が届いているかも知れないが、誤り部分を中心に解説したい。
最後の段落「この後、鋼体化改造されて他の仲間と同じ平凡なロクサンスタイルの荷電となり」とあるが、ここまではその通りである。(細かいことにこだわる方から見れば、この車は乗務員扉の上までヘッダーがあったので他の車とは違いまっせ、と言われるかも知れないが、そこまで言う必要はない)

その次からが間違いの部分で「阪和線に転じたのも束の間、再度改造されて中間部が切り開かれ無蓋化され、凹形の転用車となり中部圏に転じていった。」とあるが、これはイラストの「モニ13027」ではなく全く別の「モニ13027」のことである。

国電ファン以外の方は「何のこっちゃ」と思われるだろが、「モニ13027」は初代と2代目が存在し、関さんはこの部分を混同されておられる。

具体的に解説すると、初代モニ13027(関 三平さんのイラスト)は大正15年日本車輌製のモハ10110が昭和16年3月吹田工場で荷電に改造されて宮原区に配置。27年7月鋼体化改造でモニ53023に改番。28年6月の改番でモニ13023となり53年6月に廃車になった。ずっと本線筋で使用され阪和線に転属したことや他形式に改造された事実はない。
車号の変遷は次の通りである。
デハ63208→モハ10110→モニ13027→モニ53027→モニ13023→クモニ13023

2代目モニ13027は、大正12年汽車会社製のモハ10153が28年1月日本車輌で鋼体化改造され品川区に配置。2月に鳳区に転属して阪和線で使用。36年6月豊橋区に転属。同年10月豊川分工場で配給車クモル23050に改造され60年2月に廃車になった。
車号の変遷は次の通りである。
デハ63253→モハ10153→モニ13027(2代目)→クモニ13027→クモル23050

 初代モニ13027→モニ53023→クモニ13023/ (38-11-23) 大阪
この車とクモニ13022は吹田工場で鋼体化改造され、乗務員扉の上までヘッダーがあるのが特徴である。
クモニ13023 38-11-23
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原鉄道模型博物館に行って

期限が切れそうなJALのマイレージ特典航空券を使って、日帰りで東京方面に出かけ、横浜の原鉄道模型博物館に行って来ました。原鉄道模型博物館は、昨年の7月にオープン、すでに行かれた方も多くあるのではと思いますが、原信太郎氏が製作・所蔵している膨大な鉄道模型を中心に、鉄道関係の写真、収集した希少なコレクションを集めて公開したものです。館内は撮影禁止でしたが、この11月からストロボ、三脚を使わない写真の撮影が解禁となりましたので、写真を交えて少し紹介させて頂きます。横浜駅から歩いても5分くらい、横浜三井ビルという高層ビルの2Fにこの博物館があります。ビルの玄関正面に専用のエスカレーターがあり、これを登ると展示室です。

博物館の入り口

博物館の入り口

全部で12のコーナーがあって、模型の展示、氏の鉄道の旅の一端を紹介したコーナー、一番切符、時刻表のコレクションも紹介されています。 続きを読む

国鉄モニ13027号

韓国では美女は整形で作られているが、この電車は改造なのになんでこうもブサイクなんだろうか?改造するにも何か意味があるデザインなのだろうか?
こうなると、最後に書いてある前面傾斜二枚窓の凹型への再改造後のスタイルも是非とも見たいものだ。
国鉄モニ13027号(文)_NEW 国鉄モニ13027号_NEW

 

保存蒸機とその現役時代(24)

48640 1921年(大正10年) 汽車 製番519

2012.6.25 弘南鉄道弘南線新里駅構内 ▼

s-12.6.25弘南鉄道新崎48640

1969.3.31 川部駅 クモハ73106東ウラ氏撮影 ▼

s-48640 S44.3.31 川部

C5096 1929年(昭和4年) 日車 製番240

2013.1.5 静岡県焼津市小石川公園 ▼

s-130105焼津C5096

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都電ニュース

25-11-22
      飛鳥山/ (25-11-22)

7000形のトップナンバー7001号車が、黄色に赤帯の昭和40年代をイメージした塗装に変更されて、11月10日から運行されている。

7001の車歴は下記の通りである。
昭和30年12月日本車輌で7055として新製。
53年3月アルナ工機で車体を新製して7001に改番。
平成2年2月アルナ工機で冷房改造。

7000形は現在の黄色に青帯の7022、それ以外の標準色と3種類の塗装が揃ったが、標準色車の約半数はラッピングが施されている。

町屋駅前/ (25-11-22)

7001町屋

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芝山鉄道

25-10-31芝山千代田駅

10月31日、乙訓の長老が上京され、芝山鉄道を訪れた時の様子は、【40870】「関東便り(私鉄乗りつぶし)で鉄鈍爺様からの報告の通りである。
芝山鉄道は、関東地区在住の方以外は馴染みがないと思われるので紹介する。

〔沿革〕
成田空港開港時に、地元対策として東成田~芝山千代田間、2.2kmを開業した鉄道で、会社の設立は昭和56年5月1日、開業は平成14年10月27日である。

資本金は1億円で、主要株主は成田国際空港が68.39%、千葉県が14.59%を出資している。
当初は小型電車により線内折返し運行を予定していたが、京成電鉄との直通運行に変更された。

〔運行〕
平日64本、休日58本運行され、昼間の運転間隔は40分である。
昼間の運行は芝山千代田~成田間であるが、平日朝のラッシュ時に普通上野行3本、快速特急西馬込行、通勤特急上野行が各1本、夜間普通上野行3本が運行されている。また下りは、夕方のラッシュ時に西馬込発快速特急2本、羽田空港発通勤特急2本、上野発快速3本、上野発普通4本、朝方上野発普通3本が運行されている。
運行は京成電鉄に委託しており、京成の乗務員が芝山千代田まで乗務する。

〔運賃〕
自社線内の運賃は190円である。京成線内東成田~成田間の運賃は加算運賃適用で250円のため、芝山千代田~成田間は440円である。今回乗車した成田空港~成田~芝山千代田間は410円で、乗車距離が長いのに30円安く、成田空港周辺の運賃計算の複雑さを表している。尚、芝山千代田~上野間は1120円でそれほど割高感はない。

〔車両〕
自社所有の車両はなく、京成電鉄からリースしている。
開業から25年3月31日まで3600形8両編成1本を、4月1日からは3500形4両編成1本をリースしているが、京成電鉄の車両と共通運用のため、自社線を走行する機会は少ない。

25年3月31日までのリース車両
3611-3612-3613-3606-3607-3616-3617-3618
3600形は昭和57年から平成元年にかけて6両編成×9本=54両新製された車両で、平成9年から11年にかけて編成替えが行われ、8両編成×6本と6両編成×1本になった。
窓下の帯をグリーンに、正面に社紋、扉横に「芝山鉄道」のステッカーを貼り付けていた。

京成電鉄返却後は、窓下のクリーンの帯はそのままで、アクセス特急以外の8連運用に就いているが、両端がTcのため京浜急行には乗入れしない。

都営地下鉄西馬込検車区公開イベントで北総9001との並び/ (22-11-5)
3611 23-11-5
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保存蒸機とその現役時代(23)

D51146 1938年(昭和13年)日車 製番670

2013.9.10 静岡市城北公園 ▼

130910静岡D51146

1969.6.18 室蘭本線洞爺~豊浦 上り貨物 D51146+D52 ▼

s-690618洞爺D51146

 

D51428 1940年(昭和15年) 日車 製番803

2013.1.9 大田区東調布公園 ▼

s-13.01.09東調布D51428

1965.9.4 常磐線浜吉田 下り貨物 D51428[長町] ▼

s-650904浜吉田D51428

 

東武鉄道クハユ299号

昭和43年ごろ東京にいましたが、休日には疲れ果てて乗り回しにも行っていませんでした。いま考えると残念至極。それより以前の中学生時代に特急「はつかり」と「あさかぜ」を撮るために親戚の家に泊まって見に行ったことがあります。そのとき東武の西新井まで行ったらしいのです。なんで東武に乗ったのか、なんで西新井なのか、さっぱり思い出しませんが写真を撮っているので間違いありません。それが唯一の東武の写真です。寒い2月のどんよりした日でした。

東武クハユ290型_NEW 東武クハユ290型(文)_NEW s-FH000013 s-FH000014

呉線-蒸機牽引区間列車

呉線の蒸気機関車牽引の写真は、これまでに湯口先輩、青信号特派員さん、その他沢山の方が投稿されています。モノクロやカラーで美しい瀬戸内の風景も同時に見せて戴きました。筆者も人並みに、呉線を訪れていましたが、海岸線を行く画像は二番煎じ、出涸らし茶ですので、少し変わった画像を紹介しましょう。夕刻から早朝にかけ多数運転された、広島-広間(糸崎-竹原、竹原-広島間も含む)の、蒸機牽引区間列車です。

1966年当時区間列車が、広島→広間(上り)の5本、広→広島間(下り、内2本は広→宇品間)の5本がありました。この他、糸崎→竹原、竹原→広島間にも各1本がありました。これらは通勤・通学列車でしょう。早朝と夕刻の運転です。1960年代高度経済成長期時代の呉、海田市、広島、宇品など工業地域への通勤列車でしょう。この他に広島←→糸崎間の通し運転の蒸機列車やDC、区間列車のDCを含めると、たいそうな列車本数の呉線でした。

この内、夕刻の広駅折り返し列車については、広駅にターンテーブルが無い為、上りもしくは下りのいずれかで大型蒸機のバック運転が見られました。呉駅に回送、方向転換の時間的・ダイア上の余裕が無かったためです。蒸機はC59、C62、D51でした。残念ながらC59のバック運転の写真が撮れていませんが。

また、夜間の列車は正位運転で広駅に向かい、到着後機関車を呉駅にバック運転で回送、呉駅のターンテーブルで方向転換し、翌朝再びバック運転で広駅へ。ここで客車を連結、正位で広島に向かうという、手の込んだ方式でした。

▼上り客926レ、広行き、坂駅に到着。機C6218【広島(運)】、1966.05.03    C2710C2710 続きを読む

警告!ネオパンシンドロームはどっこい続く

かまいたち
1950年代のネオパンフイルムのベースが、化学分解し抽出した酢酸が強烈な臭気を発し、次いでフイルムにカビの如き不気味なものが発生し、フイルムベースが縮むだけでなく、他のフイルムにまで伝染し、結局は使い物にならなくなる―猛威を振るったネオパンシンドロームは、1960年の製品までと思われてきた。小生も学生時代の一番脂が乗りきっていた時期の35mmフイルムが100本以上やられてしまい、再起不能である。

ところが、1961年のフイルムもやられ出したことに昨今気付いた。早目に処理すれば表面に発生した「鎌鼬=かまいたち=小生が名付けた現象」をフイルムクリーナーで力任せにこそぎ落とし、デジタル修正で何とかレスキューも可能だが、ある時点を過ぎると見るも無残=救出不能になる。掲載は1961年2月撮影の福島電気鉄道軌道線である。

今回気付いたのは、1960年以前のやられ方と少し違い、フイルムベースがペラペラに薄くなっていること。化学専門の鶴兄によれば、一旦この現象が現れると、元には絶対戻らない由。

諸兄!1961年以降のネオパンを、至急点検し、早めにデジタル化されることをお勧めする。他に対策はない。それにしても日本を代表する大企業の富士フイルムは、一体どこまで「知らぬ顔の半兵衛」を決め込むのか。企業モラルの欠如はJR北海道や諸々の(一流)外食産業だけではない!

保存蒸機とその現役時代(22)

11月10日のホームカミングデイ並びに天野克正様を偲ぶ会に出席できなかったことをお詫び申し上げたい。この時期は写友5人で東北をまわっており、10日は雨の中を弘前市の城北公園に保存されているD51892に再会した。再会というのは今年1月29日に雪の中を同機保存の現地に駆け付けたが肝心の同機は青いビニールシートで覆われており泣く泣く諦めた因縁の機関車に2回目の対面をしたからである。この機関車は現役時代に撮影しておらず、駅からも2kmも離れた公園に保存されており、もう行くこともないと諦めていた。ところが、今回の東北旅行で弘前にも立ち寄ることになり、クモハ73106東ウラさんの巧みなハンドル捌きで難なく現地に到達して目的を果たすことができた。D51892は1944年4月日立製造、製番1830、1948年7月弘前、1968年4月東能代、1972年4月秋田へ配属され、1972年6月に廃車されている。奥羽本線、とりわけ弘前区での活躍が長く、地元中の地元に保存されて同機も満足のことと思う。

2013.11.10 弘前駅北方約2kmにある城北公園保存のD51892▼

s-13.11.10城北D51892

今年1月29日のビニールシートを被った同機の姿▼

s-13.1.29城北公園
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保存蒸機とその現役時代(21)

8620は687両と製造両数は多い。保存機は21両で私はほとんど撮っていない。代表的なハチロク活躍路線であった花輪線、五能線に行かなかったことも原因しているのかもしれない。

千葉県佐倉市の高崎川南公園はJR総武本線佐倉駅から北側にある佐倉城方向に向かって5分くらいの所にある。ここの保存は鳥かごよりも虫かごのようになっており、コンデジでへばりつかないと撮れない。定期的に見学日を設けている様でありそのような時の方が訪問によい。天井もあり、頑丈な虫かごに入っているので保存状態はいいはずであるが、私が覗いた時は中が整理されておらず何となくごみごみした感じであった。

2013.2.21 佐倉市高崎川南公園保存機58683▼

s-13.2.21高崎川南公園58683

s-58683ナンバープレート

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駅を旅する 〈番外編Ⅱ〉 中部天竜駅

中部天竜駅 19-11-23
かつては佐久間ダム、佐久間レールパークの最寄駅として見学者で賑わっていた。/(19-11-3)

中部天竜駅は、かつては豊橋機関区中部天竜支区が設置されていた飯田線の拠点駅で、平成21年10月31日まで「佐久間レールパーク」が開設されていたので訪れた方が多いのではなかろうか。

駅の現在の住所は「静岡県浜松市天竜区佐久間町半場」、浜松市に合併されるまでは「磐田郡佐久間町半場」で、「中部天竜」なる地名は出てこない。と言うよりそういう地名は存在しない。駅名の由来を沿革から探ると、三信鉄道時代の昭和9年11月11日三信三輪(現東栄)~佐久間(現中部天竜)間の開業時に開設された。
10年5月24日に「佐久間」から「中部天竜」に改称されたが、読みは「なかっぺてんりゅう」であった。
「中部=なかっぺ」は天竜川を挟んだ対岸の集落名で、現住所ではなく対岸の集落名が駅名になったのは、駅及び機関支区等の鉄道用地を、中部集落の人が所有していたためと言われている。
「なかっぺてんりゅう」は語呂がよくないためか、17年5月24日、漢字の読み方を変えて「ちゅうぶてんりゅう」に改称して現在に至っている。
「なかっぺ」の読みは、戦後平凡な「なかべ」に変更され、正式な地名になってしまった。同様の例は、札幌近郊の「月寒」が「つきさっぷ」から「つきさむ」に変更されたが、駅名は「つきさっぷ」のままであるが、どうして由緒ある地名を変更してしまうのだろうか。
三信鉄道は18年8月1日付けで、豊橋~大海間の豊川鉄道、大海~三河川合間の鳳来寺鉄道、天竜峡~辰野間の伊那電気鉄道と共に鉄道省に買収され、飯田線になった。

余談になるが、飯田線の出馬から小和田までの17駅は浜松市天竜区に所在する。この地域の人が鉄道で浜松市の中心部に行く場合、一旦愛知県に出て豊橋経由で行くことになる。
信南地域と浜松は、鉄道開通以前から天竜川の水運、陸路では三州街道、秋葉街道(現在の国道152号線)で結ばれており、駒ケ根光前寺の飼い犬が磐田見付天神の妖怪退治に行ったという伝説は地域間交流が盛んであったことを裏付けている。更にこの犬は磐田市の「ゆるキャラ」になっている。

水窪と浜松市の中心部は、水窪~西鹿島間に遠州鉄道北遠本線のバスが5往復運行され、所要時間90分前後、運賃630円、西鹿島~浜松間は電車が12分間隔、所要時間32分、運賃460円で約2時間、1090円で結ばれている。
北遠本線は平成14年9月30日まではJRバスにより運行され、同区間の運賃は1470円で、遠州鉄道に移管され同社の上限運賃制により半額以下になった。
中部天竜~遠江二俣間は佐久間線として建設予定が計画され、昭和42年遠江二俣~遠江横山間の工事が開始されたが、55年国鉄再建法により路盤が約50%完成したところで中止されてしまった。

昭和40年代と平成19年の画像を貼り付けたので、時の流れを感じていただければ幸いである。
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保存蒸機とその現役時代(20)

9600は総数784両のうち保存機は43両(イカロス出版保存車大全2012年リスト)のうち現役時代の撮影は僅かに9687の1両である。北海道ではD51、9600、C57が蒸気機関車末期まで活躍した関係か9600の保存機も北海道地区が17両と多い。

9687は1915年(大正4年)11月川崎造船製造(製番266)で説明板によると大鉄管内や五稜郭に配属され1965年9月に大宮区に来てからは川越線と入換えに使われて1969年に廃車された。

1970年1月から川口市の青木町公園に保存されているが、イカロスの保存車大全によると解体予定とあり、急遽本年(2013年)4月26日に現地に駆け付けてみた。屋根付きではあったが案の定荒れた状態でほこりを被ったような感じであった。同地へはJR京浜東北線西川口駅から北東方向へ徒歩10分程度の所にある。

2013年4月26日の9687▼

s-13.4.26青木町9687

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近鉄モ6301+サ6471+ク6501+モニ6251

子供の頃、父親が「ダイキに乗って・・・」と言っているのを聞いて、何に乗るのかな?と思ったことがあります。当時は京都に近鉄は届いて無く、まだ奈良電の時代です。遙か後年になってから「ダイキ」が大軌のことで、現在の近鉄だと知ったことでした。
今回のお話を読んで、大軌や関急を懐かしく思い出します。近鉄モ6301他_NEW 近鉄モ6301他(文)_NEW

保存蒸機とその現役時代(19)

西村雅幸さんに地元で撮っていただいた保存蒸機D51860とその現役時代である。D51860は1943年11月に鷹取工場で製造(製番18)された戦時設計の機関車で説明板によると山陽、山陰で活躍とある。福知山時代が結構長かったようで最終的には1972年9月新見区で廃車となり翌年福山市に貸与されて同市曙4丁目の曙公園にワム88035とともに保存されている。保存場所は福山駅から南東方向約4~5kmくらい離れた海に近い場所である。車でないとアクセスは厳しいようだ。

2013.8.27 福山市曙4丁目曙公園に保存のD51860+ワム88035▼

s-13.8.27福山51860西村氏

この位置から見ると戦時設計の角型ドームがよくわかる。▼

s-D13.8.27福山51860後方西村氏

高校生の頃、自宅から自転車に乗り、報徳学園の前の武庫川沿いを甲武橋をめざし、橋を渡って西国街道を伊丹に向かった。伊丹駅は織田信長に攻め落とされた荒木村重の伊丹城の一部を使っているという。当時は勿論単線のローカル線であったが、今は頻繁に電車が行き交う複線の重要路線となり車窓から眺めても付近の景色は様変わりして昔日の面影はない。

1962年11月18日 福知山線伊丹駅に停車中の上り貨物D51860[福知山]        保存機と異なりシールドビームの前照灯に集煙装置と重油併燃装置付き▼

s-67.10.18伊丹D51860_

 

ことでん デカ1の走り

秋の讃岐路 青空の下でことでん仏生山工場の主 デカ1の走行するのを見かけました。
何度か訪れましたがデカ1はいつも停まっていて走りを見ることがありませんでした。
10月21日午後お墓参りに行った後 片原町から一の宮行に乗り仏生山に到着後、奥の留置線に1000形120号が入ってきました。
pict-ことでん1
いつもの留置線に行くと 先ほどの120号が停まっていました。
この車両は大正15年汽車製造株式会社製で長く琴平線で活躍後1972年から志度線、1994年から長尾線で2007年まで定期運用され現在動態保存車となっています。

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