秋の讃岐路 青空の下でことでん仏生山工場の主 デカ1の走行するのを見かけました。
何度か訪れましたがデカ1はいつも停まっていて走りを見ることがありませんでした。
10月21日午後お墓参りに行った後 片原町から一の宮行に乗り仏生山に到着後、奥の留置線に1000形120号が入ってきました。

いつもの留置線に行くと 先ほどの120号が停まっていました。
この車両は大正15年汽車製造株式会社製で長く琴平線で活躍後1972年から志度線、1994年から長尾線で2007年まで定期運用され現在動態保存車となっています。
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京王2600系
京阪500型は人気者であったが、京王2600系は人気者(?)であったかどうか。デジ青[14402]「元京王電車」2011年7月27日のコメントにでんかんしょまつり号さんから京王2600系は好きな電車なので公開せよと言われた。何れ、迷図作家関先生より紹介があるからその時に公開しようと思っていたが、どうも不人気なのか出てこないので今回発表することにした。私はこの電車は米手作市さん流の言い方をするなら不細工な電車と思っている。乙訓の老人さんは京阪500型は戦時中他の車両がへたった時に頑張った功労車と言われたが、京王2600系も功労車である。軌道イメージの強かった戦前の京王線14メートル車から脱皮するべく、新生京王帝都電鉄(1948年6月1日東急から分離独立)最初の新造車両として1950年に日立製110KW×4のデハ2601~2610の10両、翌年日立、日車製サハ2651~2655の5両計15両がつくられた。1950年生まれということは阪急京都線複電圧クロスシート車(一部ロングシート車あり)710系と同じ生まれ年である。710系はナニワ工機製全金19メートル車170KW×4(一部150KW×4あり)のMT編成で大阪~京都間ノンストップ特急に使われていた。この電車はスタイルがよく歌劇特急にも使われたことで京都線のプリマドンナとも言われた。一方、京王2600系は大型新造車とは言え、長さは半鋼製16.8メートル車で幅も2640ミリと狭く、車内は木製床で見劣りがした。正面非貫通3枚窓は湘南電車初期型に似るという人もいるが、ノーシル、ノーヘッダーに京王独特の前照燈2基(当初1基)の姿は不細工に感じた。台車も日立KBD-102という見慣れないウィングバネであった。阪急京都線710系は神宝線810系と共に阪急標準車両となり、特に810系は宝塚線の車両限界拡大に寄与したが、京王2600系も当時の京王線車両の大型標準化に寄与した車両と言える。しかし、両者は横綱と平幕か十両くらいの差に感じた。
1968年8月18日 まだ相模原線がない頃の京王多摩川支線からの2606他4連(回送?)が調布駅に進入するところ。この風景は昨年8月の調布駅付近の地下化により消滅した。▼
駅を旅する〈番外編〉/飯田線沢渡駅

大正2年12月27日伊那電気鉄道として開業時の駅舎が、手が加えられながらもそのまま使用されている。現在も看板が変わったくらいで健在である。 (50-11-24)
特派員さんが11回に亘り、九州の主要駅を紹介されたが、次は何処が登場するのか楽しみにしている。
思い出深い駅や印象に残った駅は数多くあるが、どうしても車両に目が向いてしまい、駅舎の撮影までは至らなかったケースが多い。
ED19、旧形国電が健在であった昭和50年11月24日に訪れた沢渡駅を取り上げた。同駅に降りたのは、この日1度だけで、目的は次の赤木駅との間に存在する40‰の急勾配、専用線のKATOのDL、同駅止まり電車の撮影であった。
開業は大正2年12月27日前身の伊那電気鉄道時代である。平成8年3月末まで、駅の豊橋寄りに秩父セメントの専用線があり、日本通運所有の加藤製作所製のDLが1両存在した。また、一般貨物は46年11月30日まで取扱っていた。
かつて運行されていた急行列車は通過していたが、今年の3月末まで駅員が配置されており「みどりの窓口」も設置され、それなりに重要な駅であった。
駅の豊橋寄りで、藤沢川という小さな川が天竜川に合流しており、長野県や静岡県の山岳地帯では川の合流点を「渡(ど)」と呼び、藤沢川と天竜川の合流点で「沢渡」という地名が付けられ、駅名もそれに従った。
尚、飯田線は3月末に大幅な駅の無人化を進め、長野県内のJR東海の駅員配置駅は、天竜峡、飯田、伊那市だけになり、伊那松島、駒ケ根、飯島、伊那大島、市田の各駅は、市や町の委託駅となった。
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保存蒸機とその現役時代C56110追加
保存蒸機とその現役時代(18)
木次機関区で撮影したC56110は思いも寄らぬ場所に保存されていた。東武伊勢崎線(今はスカイツリー線?)草加駅から西側5分の所にある氷川中公園というこじんまりとした公園が保存場所で、草加神社の参道脇のため松の木等もあり、雰囲気は悪くない。悪いのは機関車で保存状態は最悪に近い。前照灯が大きいのがついていたのがせめてもの慰めであるが、全体がぼろぼろで見るに忍びなく、やや離れて撮影の1枚のみ掲載する。
C56110は1937年三菱製造、製番210で新製後米子局、神戸局等に配置とされているようであるが、はっきりしない。記録に残る最も長く配属されていた場所は木次機関区で木次線の客貨に使用されていた。最後は浜田機関区で三江北線(江津~浜原)と入換えに使われて1972年12月に廃車されたと説明板にある。
2013.10.21 草加市氷川中公園保存のC56110▼
訪問当日のC56110は木次機関区で無火状態であった。1964.3.31▼
やむ無く正面から撮ったもので前照灯はシールドビーム▼
阪急新形式の試運転に気付く
昨21日、14:59発梅田行きに桂で乗車、ぼんやり窓外を見ていたら1000号先頭の編成が車庫線に入ってきた。末尾は1100号で、共に制御車である。阪急は踏切障害の時に先頭車を重くしておけば脱線する可能性が少ないとして、京都線では5300系以後6300系を除き、一部の増結2両編成以外の先頭車は電動車となっていた。神戸線でも5100系以後はこうした編成が基本である。ところが今回の新造車は神宝、京都線ともに先頭車は制御車となるとの事だ。軽いアルミカーだけに、かぶりつき族の一員である老人の乗車位置変更を考慮せねばならない。窓の間柱が2本となりスッキリした。
京阪500型
阪急京都線西山天王山駅12月21日開業
かねて予告されていた新駅開業日が確定、同時にダイヤ改正が実施される。未だ報道されていないが、以前工事関係者から耳にしていた「洛西口」上り線(京都方面行)の高架化も同時に実施されると思われる。今回の新駅開業の大きな特徴として阪急と京阪の連絡が便利になる事である。新駅と京阪淀駅間に路線バスが平日は朝夕30分毎、昼間60分毎に運転される。これにより大山崎ー淀間の通称「競馬バス」はどうなるのだろうか。以前は昼間もそれなりに運転されていたものが、最近は間引き運転となり運転本数が激減してしまった。愛用者とまではいかないが、競馬開催日には片方利用を時々京阪・阪急連絡便として渋滞覚悟で乗っていた。それが今回、この連絡バスはJR長岡京駅まで延長運転となる。完膚なき迄にJR島本、桂川両駅開業でジャブを食らった阪急であるが、さすがは地域住民サービスの一環として長岡京まで延長運転に合意したものだ。老人はこれで八幡さんへのお参りルートが変わるのである。自宅近くの阪急田舎バス80系統で長岡京へ出た後は、新設系統で京阪沿線に接続となる。少々歩行が困難となり、このところ「乗り鉄」になった近況報告である。
どですかでんさんの小海線の写真に寄せて
10月17日、クモハ73106東ウラさんより添付写真付メールがありましたので原文のまま報告致します。
10月17日8:19
おはようございます。デジ青にどですかでん様が投稿されていた「1970年夏のC56149」の撮影場所ですが、実は私も全く同じ場所で撮影したことがあります。清里から1kmほど野辺山方です。添付写真をご覧いただくとおわかりいただけると思いますが、真ん中の大きな木が決め手です。私の場合は、1971年(?)~72年の小海線に混合列車が走った時の撮影です。同列車に小淵沢駅から乗車し、清里で15分?くらい停車するので、走って行き、撮影しました。C56144です。どですかでん様にお知らせいただくと幸いです。どですかでん様の写真と見比べてくださいませ。▼
10月17日19:58
こんばんは。今朝、お送りした小海線の写真はモノクロの鮮明なものがありましたので、添付します。昭和47年8月19日、清里~野辺山間、清里から1Kmくらいの場所です。よろしくお願いいたします。▼
以上の内容ですがどですかでんさん、場所を思い出されたことと思います。(準特急)
1970年夏のC56149
準特急さんの「保存蒸機とその現役時代(17)」でC56を取り上げておられ、その中で小海線のC56149の保存機を見てひょっとしたら1970年DRFCに入会して初めての夏期合宿(小海線清里)で撮った写真の中にC56149があるのではないかとさがしてみたら、やはりありました。単機回送と貨物列車でした。単機回送はあの有名な西川鉄橋で撮ったものです。まずは西川鉄橋で撮ったものからご覧ください。
保存蒸機とその現役時代(17)
C57がしばらく続いたので今回はC56である。
木次線木次駅から南約1kmにある雲南市木次体育館横に保存されているC56108。雨ざらしで荒れた状態である。1937年三菱製造、製番208、1974年浜田区で廃車。
2011.7.25 西村雅幸氏撮影▼
説明板 2011.7.25 西村雅幸氏撮影▼
1964.3.31 木次機関区のC56108▼
クモハ73383と昭和50年前後の呉線の車両
広島市佐伯区に保存されていたクモハ73383の前頭部が修理されるとのこと、旧形国電ファンにとっては喜ばしい限りである。
同じ場所に保存されている筈のEF5836も気になるところである。
こちらは貴重な7枚窓機で、車体の3分の2が台車を含めて保存されている。
西村氏より「解説せよ」との要請があり、判る範囲で解説する。
昭和24年8月汽車会社でモハ63811として新製後、池袋区に配置され山手線で使用された。25年3月下十条区に転属して京浜東北線で使用され、28年7月の更新修繕でモハ73383に改番された。引続き京浜東北線で使用され、46年6月広島区に転属して呉線で使用された。53年度呉線が新性能化されると可部線に移り、59年7月12日付けで廃車になった。
クモハ73383/ (50-3-2) 広島 故芝生將行氏撮影
私は撮り損ねたので、国電研究の大先輩、故芝生將行氏が撮影された画像を奥様のご了解を得て掲載した。
![Mc73383hiro1.75.3.2Hiro.75c-24-13[1]](https://i0.wp.com/drfc-ob.com/wp/wp-content/uploads/2013/10/Mc73383hiro1.75.3.2Hiro.75c-24-131.jpg?resize=500%2C312&ssl=1)
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急電用モハ43形

豊橋19時35分発三河川合行(647M)/ (50-1-2)
三河川合で駐伯して翌朝241M上片桐行きとなる。
モハ40形の解説を書き始めたところで、次の急電用のモハ43形が登場したので、こちらを先に解説する。
昭和9年7月20日吹田~須磨間で実施された電車運転は、同年9月20日須磨~明石間、12年10月10日吹田~京都間の電化工事が竣工し、京都~明石間の直通運転が開始された。
急行電車(急電)用として11年3月にモハ52形流電の1次車が1編成、1年後の12年3月には2次車が2編成新製された。1次車は狭窓であったが、2次車は広窓となり、より洗練されたスタイルになった。引続き同年8月に3次車が登場したが、流線形ではなく、モハ51等と同じ半流となりスカートは省略、窓配置のみ引き継がれ、あたかもモハ51とモハ52の中間的なスタイルになったため「合いの子」と呼ばれた。
形式は、2扉クロスシートのため、先頭車はモハ43形となり、既存のモハ43形の追番43038~041、中間車はサロハ66018・019、サハ48032・033が付番された。
C57110,C577
鉄道が好きな者、愛している者にとって事故ほど見たくないモノはありません。人は勿論、それが鉄道車両や蒸気機関車の姿におよべはなおさらです。ここに登場するC57110は、準特急さんの記述にある通り、悲惨な事故を経験してしかも、見事に復活を遂げた機関車です。デジ青のこのページ右上に検索用テキストボックスがあります。ここに『六軒駅』と記入して検索をかけて下さい。【7158】『亀山の参宮線事故機』と題した湯口先輩の投稿記事があります。事故の詳細がよく判ります。同時に3両のC51とこのC57110の悲惨な画像が見えます。とりわけC57110の姿は目を覆うばかりです。『台枠がさして損傷がないようだ』とのコメントがありますが、よくぞ復活したものと感心しています。
さて、加太越えの補機はD51が主体でしたが、時にC57も補機役を務めていました。撮影機会が何度かありましたが、下の画像はC57110、貨物列車の補機姿です。なお、この画像は村田屋旅館の物干し台から撮ったもので、手前には10数本の電線が写っていたのですが、すべて削除処理を施したもので、実際の姿とは異なります。
▼関西本線 加太-中在家信号所 貨763レ 補機 C57110 【亀】 1967.05.07 14836
こちらは本務機として。早春の午前6時半すぎです。
▼同上区間 客725レ 機 C57110 【亀】 1966.03.06 12502
変わってC577。有名な築堤を過ぎて亀山に向かう同機です。加太会発祥の日、急行大和を撮影後、一同気が抜けた時にやってきたので、構図もなく慌ててシャッターを切った一コマでした。初冬の午前7時半過ぎ。この列車が終着和歌山市駅に着くのは21時21分でした。
▼同上区間 客742レ 機C577【亀】 1964.12.06 09708

保存蒸機とその現役時代(16)
和歌山県には3両のC57が保存されている。何れも晩年は国鉄天王寺鉄道管理局管内で活躍した機関車である。
徳川御三家の一つ紀州和歌山城の西端の一角にある岡公園にはC57119が保存されている。C57119は1939年11月三菱(製番269)で製造され、新製後は宮原→白河→高崎第一→大宮へ配属、1949年5月鹿児島→1956年11月山田→1959年5月和歌山へ来て1972年3月に廃車となり1973年3月同地へ保存されている。尚、近接して南海和歌山軌道線の321号も保存されているが、何れも高い柵で囲まれており撮影にはコンデジが必要である。保存のC57119は集煙装置を付けておりとても貴婦人には見えない。岡公園へはJR和歌山駅からバスで10分お堀端徒歩5分である。
2013.8.31和歌山市岡公園保存のC57119↓
1963.8.6 紀勢本線東和歌山(現和歌山)~宮前間を行くC57119[和歌山]牽引の2106列車準急「しらはま」天王寺発白浜口(現白浜)行き↓
JR和歌山線、南海高野線橋本駅から西側の坂道を30分ほど登った所にある橋本運動公園の奥にC57110がこれまた柵で囲まれて保存されている。C57110は1939年4月に三菱(製番260)で製造され、当初の配属は不詳で、戦後の1946年に平配属後→宇都宮→山田(伊勢)→亀山→和歌山→亀山となり廃車されている。山田時代には六軒駅の事故機となりその後復活している。ボイラ端面はC57119同様に角型となりC55に似た顔である。保存状態は悪い。
2013年8月31日 橋本市運動公園保存のC57110↓
1972年9月10日 亀山駅朝7時過ぎの伊勢市行き牽引C57110[亀山]↓
和歌山県のもう1両の保存機C577は田辺市湊(会津公園)に保存されているが、現地で撮影された方がおられたら発表なり、私の方へ添付送信いただければ有難いです。
出ました!“合いの子”43型
昭和40年代の水島臨海鉄道
西村雅幸氏より8月24日【38958】で、水島臨海鉄道の近況報告があったが、昭和40年代を車両中心に振り返ってみた。併せてK.H.生氏がコメントされているクハ16についても解説したい。
沿革
三菱重工業水島航空機製作所の貨物及び工員輸送を目的として、戦時中の昭和18年6月30日に専用線として開通した。戦後の21年5月に鉄道の管理が三菱地所に移管され、更に22年4月には水島工業都市開発に移された。当時倉敷~水島間は両備バスが運行されていたが、輸送力不足のため旅客輸送が要望され、23年6月地方鉄道免許を取得して営業を開始した。しかし企業誘致が進まず経営不振に陥ったため、27年4月倉敷市に譲渡され、市営鉄道として再スタートをきった。
45年4月1日倉敷市、国鉄、岡山県等が出資して設立された第三セクター水島臨海鉄道に移管された。62年4月1日の国鉄分割民営化により国鉄が保有していた株式はJR貨物に譲渡された。
倉敷市の株式保有割合は35.3%で、代表取締役社長には倉敷市長が就任している。
車両
機関車
DD503/ (44-3-19)
35年日立製作所製の45t機で、当時在籍していたDC501(→別府鉄道DC302)、DC502(→茨城交通ケキ104)の追番で503が付番された。機関はDMH17S(240PS)を2基搭載。

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同志社・関大・大市大対抗模型運転会
方言
特急「つばめ」や「はと」の頃、東京と大阪を同時に出発した列車は浜名湖の鉄橋あたりですれ違ったと聞いたことがある。在来線の同区間は556.4Kmでその半分278.2Kmは鷲津と新所原の中間になる。中間地点よりやや東京寄りの浜名湖の鉄橋ですれ違ったとすれば、西側に勾配区間があることと停車駅の数の影響があったものと思われる。新幹線はどこですれ違っているのであろうか。
2010.9.1新居町~弁天島の浜名湖橋梁を行く豊橋行き117系とそれを追い抜く新幹線↓
私は現在東海道五十三次徒歩の旅を続けている。これをやっていると青春18切符の早いこと、安いこと、便利なことを痛感する。さて、その徒歩の旅であるが、先日、新居と二川の間にある白須賀宿にある休憩所で地元の古老と話す機会があった。以前から興味のあった各地の方言についてこのあたりは大きく分けて関東系と関西系の言葉のかわるところではないかと思って訊いてみた。答えははっきりしなかったが、舞坂宿と新居宿の間の東海道は渡船で渡ったとのことで、多分この付近で日常の往来が途切れていたのではないかということであった。また、二川の古老は言葉は浜松に近いが買い物は豊橋であるとのこと。言葉にも山頂というものがあるような気がするが、交通が発達した現在は山頂の両側の往来が頻繁となり、さらに全国的に同じ言葉になってきたような気もする。豊橋に来ると名鉄沿線になるので名古屋弁と思っていたが、岡崎あたりは三河弁という。三河弁がどういうものかよくわからないが、名古屋とは違った言葉があるのであろう。関東でも横浜の「〇〇じゃん」と山梨の「〇〇ずら」は有名であるが全体的には関東系の言葉の範疇と私は思っている。同じ日本語でも例えば「雨が降ってきた」は関東は「あ」にアクセントがあり、関西は「め」にあり、「降ってきた」もアクセントが違うので同じことを言っても東西どちらの人間かはすぐわかる。私は個人的には名古屋弁は東西どちらとも異なる方言と思うが、テレビなどで街頭インタビューなどを聴くと名古屋の人は標準語に近い感じがする。関東のうどんは真っ黒けの汁であるが、きしめんの汁はどうであっただろう。名古屋弁は大垣までは続くが関西弁が出てくるのはどのあたりかこれも興味がある。個人的には関ヶ原か柏原あたりと思う。
























