準特急氏が“オカチメンコ”と評し、あるいは“ガイコツ”と揶揄されて、挙げ句の果ては屎尿運搬車と衝突した、などと悪評タラタラな電車でしたが、どこか懐かしいかわいらしい電車でした。
「未分類」カテゴリーアーカイブ
阪急京都線西山天王山駅12月21日開業
かねて予告されていた新駅開業日が確定、同時にダイヤ改正が実施される。未だ報道されていないが、以前工事関係者から耳にしていた「洛西口」上り線(京都方面行)の高架化も同時に実施されると思われる。今回の新駅開業の大きな特徴として阪急と京阪の連絡が便利になる事である。新駅と京阪淀駅間に路線バスが平日は朝夕30分毎、昼間60分毎に運転される。これにより大山崎ー淀間の通称「競馬バス」はどうなるのだろうか。以前は昼間もそれなりに運転されていたものが、最近は間引き運転となり運転本数が激減してしまった。愛用者とまではいかないが、競馬開催日には片方利用を時々京阪・阪急連絡便として渋滞覚悟で乗っていた。それが今回、この連絡バスはJR長岡京駅まで延長運転となる。完膚なき迄にJR島本、桂川両駅開業でジャブを食らった阪急であるが、さすがは地域住民サービスの一環として長岡京まで延長運転に合意したものだ。老人はこれで八幡さんへのお参りルートが変わるのである。自宅近くの阪急田舎バス80系統で長岡京へ出た後は、新設系統で京阪沿線に接続となる。少々歩行が困難となり、このところ「乗り鉄」になった近況報告である。
どですかでんさんの小海線の写真に寄せて
10月17日、クモハ73106東ウラさんより添付写真付メールがありましたので原文のまま報告致します。
10月17日8:19
おはようございます。デジ青にどですかでん様が投稿されていた「1970年夏のC56149」の撮影場所ですが、実は私も全く同じ場所で撮影したことがあります。清里から1kmほど野辺山方です。添付写真をご覧いただくとおわかりいただけると思いますが、真ん中の大きな木が決め手です。私の場合は、1971年(?)~72年の小海線に混合列車が走った時の撮影です。同列車に小淵沢駅から乗車し、清里で15分?くらい停車するので、走って行き、撮影しました。C56144です。どですかでん様にお知らせいただくと幸いです。どですかでん様の写真と見比べてくださいませ。▼
10月17日19:58
こんばんは。今朝、お送りした小海線の写真はモノクロの鮮明なものがありましたので、添付します。昭和47年8月19日、清里~野辺山間、清里から1Kmくらいの場所です。よろしくお願いいたします。▼
以上の内容ですがどですかでんさん、場所を思い出されたことと思います。(準特急)
1970年夏のC56149
準特急さんの「保存蒸機とその現役時代(17)」でC56を取り上げておられ、その中で小海線のC56149の保存機を見てひょっとしたら1970年DRFCに入会して初めての夏期合宿(小海線清里)で撮った写真の中にC56149があるのではないかとさがしてみたら、やはりありました。単機回送と貨物列車でした。単機回送はあの有名な西川鉄橋で撮ったものです。まずは西川鉄橋で撮ったものからご覧ください。
保存蒸機とその現役時代(17)
C57がしばらく続いたので今回はC56である。
木次線木次駅から南約1kmにある雲南市木次体育館横に保存されているC56108。雨ざらしで荒れた状態である。1937年三菱製造、製番208、1974年浜田区で廃車。
2011.7.25 西村雅幸氏撮影▼
説明板 2011.7.25 西村雅幸氏撮影▼
1964.3.31 木次機関区のC56108▼
クモハ73383と昭和50年前後の呉線の車両
広島市佐伯区に保存されていたクモハ73383の前頭部が修理されるとのこと、旧形国電ファンにとっては喜ばしい限りである。
同じ場所に保存されている筈のEF5836も気になるところである。
こちらは貴重な7枚窓機で、車体の3分の2が台車を含めて保存されている。
西村氏より「解説せよ」との要請があり、判る範囲で解説する。
昭和24年8月汽車会社でモハ63811として新製後、池袋区に配置され山手線で使用された。25年3月下十条区に転属して京浜東北線で使用され、28年7月の更新修繕でモハ73383に改番された。引続き京浜東北線で使用され、46年6月広島区に転属して呉線で使用された。53年度呉線が新性能化されると可部線に移り、59年7月12日付けで廃車になった。
クモハ73383/ (50-3-2) 広島 故芝生將行氏撮影
私は撮り損ねたので、国電研究の大先輩、故芝生將行氏が撮影された画像を奥様のご了解を得て掲載した。
続きを読む
急電用モハ43形
豊橋19時35分発三河川合行(647M)/ (50-1-2)
三河川合で駐伯して翌朝241M上片桐行きとなる。
モハ40形の解説を書き始めたところで、次の急電用のモハ43形が登場したので、こちらを先に解説する。
昭和9年7月20日吹田~須磨間で実施された電車運転は、同年9月20日須磨~明石間、12年10月10日吹田~京都間の電化工事が竣工し、京都~明石間の直通運転が開始された。
急行電車(急電)用として11年3月にモハ52形流電の1次車が1編成、1年後の12年3月には2次車が2編成新製された。1次車は狭窓であったが、2次車は広窓となり、より洗練されたスタイルになった。引続き同年8月に3次車が登場したが、流線形ではなく、モハ51等と同じ半流となりスカートは省略、窓配置のみ引き継がれ、あたかもモハ51とモハ52の中間的なスタイルになったため「合いの子」と呼ばれた。
形式は、2扉クロスシートのため、先頭車はモハ43形となり、既存のモハ43形の追番43038~041、中間車はサロハ66018・019、サハ48032・033が付番された。
C57110,C577
鉄道が好きな者、愛している者にとって事故ほど見たくないモノはありません。人は勿論、それが鉄道車両や蒸気機関車の姿におよべはなおさらです。ここに登場するC57110は、準特急さんの記述にある通り、悲惨な事故を経験してしかも、見事に復活を遂げた機関車です。デジ青のこのページ右上に検索用テキストボックスがあります。ここに『六軒駅』と記入して検索をかけて下さい。【7158】『亀山の参宮線事故機』と題した湯口先輩の投稿記事があります。事故の詳細がよく判ります。同時に3両のC51とこのC57110の悲惨な画像が見えます。とりわけC57110の姿は目を覆うばかりです。『台枠がさして損傷がないようだ』とのコメントがありますが、よくぞ復活したものと感心しています。
さて、加太越えの補機はD51が主体でしたが、時にC57も補機役を務めていました。撮影機会が何度かありましたが、下の画像はC57110、貨物列車の補機姿です。なお、この画像は村田屋旅館の物干し台から撮ったもので、手前には10数本の電線が写っていたのですが、すべて削除処理を施したもので、実際の姿とは異なります。
▼関西本線 加太-中在家信号所 貨763レ 補機 C57110 【亀】 1967.05.07 14836
こちらは本務機として。早春の午前6時半すぎです。
▼同上区間 客725レ 機 C57110 【亀】 1966.03.06 12502
変わってC577。有名な築堤を過ぎて亀山に向かう同機です。加太会発祥の日、急行大和を撮影後、一同気が抜けた時にやってきたので、構図もなく慌ててシャッターを切った一コマでした。初冬の午前7時半過ぎ。この列車が終着和歌山市駅に着くのは21時21分でした。
▼同上区間 客742レ 機C577【亀】 1964.12.06 09708
保存蒸機とその現役時代(16)
和歌山県には3両のC57が保存されている。何れも晩年は国鉄天王寺鉄道管理局管内で活躍した機関車である。
徳川御三家の一つ紀州和歌山城の西端の一角にある岡公園にはC57119が保存されている。C57119は1939年11月三菱(製番269)で製造され、新製後は宮原→白河→高崎第一→大宮へ配属、1949年5月鹿児島→1956年11月山田→1959年5月和歌山へ来て1972年3月に廃車となり1973年3月同地へ保存されている。尚、近接して南海和歌山軌道線の321号も保存されているが、何れも高い柵で囲まれており撮影にはコンデジが必要である。保存のC57119は集煙装置を付けておりとても貴婦人には見えない。岡公園へはJR和歌山駅からバスで10分お堀端徒歩5分である。
2013.8.31和歌山市岡公園保存のC57119↓
1963.8.6 紀勢本線東和歌山(現和歌山)~宮前間を行くC57119[和歌山]牽引の2106列車準急「しらはま」天王寺発白浜口(現白浜)行き↓
JR和歌山線、南海高野線橋本駅から西側の坂道を30分ほど登った所にある橋本運動公園の奥にC57110がこれまた柵で囲まれて保存されている。C57110は1939年4月に三菱(製番260)で製造され、当初の配属は不詳で、戦後の1946年に平配属後→宇都宮→山田(伊勢)→亀山→和歌山→亀山となり廃車されている。山田時代には六軒駅の事故機となりその後復活している。ボイラ端面はC57119同様に角型となりC55に似た顔である。保存状態は悪い。
2013年8月31日 橋本市運動公園保存のC57110↓
1972年9月10日 亀山駅朝7時過ぎの伊勢市行き牽引C57110[亀山]↓
和歌山県のもう1両の保存機C577は田辺市湊(会津公園)に保存されているが、現地で撮影された方がおられたら発表なり、私の方へ添付送信いただければ有難いです。
出ました!“合いの子”43型
昭和40年代の水島臨海鉄道
西村雅幸氏より8月24日【38958】で、水島臨海鉄道の近況報告があったが、昭和40年代を車両中心に振り返ってみた。併せてK.H.生氏がコメントされているクハ16についても解説したい。
沿革
三菱重工業水島航空機製作所の貨物及び工員輸送を目的として、戦時中の昭和18年6月30日に専用線として開通した。戦後の21年5月に鉄道の管理が三菱地所に移管され、更に22年4月には水島工業都市開発に移された。当時倉敷~水島間は両備バスが運行されていたが、輸送力不足のため旅客輸送が要望され、23年6月地方鉄道免許を取得して営業を開始した。しかし企業誘致が進まず経営不振に陥ったため、27年4月倉敷市に譲渡され、市営鉄道として再スタートをきった。
45年4月1日倉敷市、国鉄、岡山県等が出資して設立された第三セクター水島臨海鉄道に移管された。62年4月1日の国鉄分割民営化により国鉄が保有していた株式はJR貨物に譲渡された。
倉敷市の株式保有割合は35.3%で、代表取締役社長には倉敷市長が就任している。
車両
機関車
DD503/ (44-3-19)
35年日立製作所製の45t機で、当時在籍していたDC501(→別府鉄道DC302)、DC502(→茨城交通ケキ104)の追番で503が付番された。機関はDMH17S(240PS)を2基搭載。
続きを読む
同志社・関大・大市大対抗模型運転会
方言
特急「つばめ」や「はと」の頃、東京と大阪を同時に出発した列車は浜名湖の鉄橋あたりですれ違ったと聞いたことがある。在来線の同区間は556.4Kmでその半分278.2Kmは鷲津と新所原の中間になる。中間地点よりやや東京寄りの浜名湖の鉄橋ですれ違ったとすれば、西側に勾配区間があることと停車駅の数の影響があったものと思われる。新幹線はどこですれ違っているのであろうか。
2010.9.1新居町~弁天島の浜名湖橋梁を行く豊橋行き117系とそれを追い抜く新幹線↓
私は現在東海道五十三次徒歩の旅を続けている。これをやっていると青春18切符の早いこと、安いこと、便利なことを痛感する。さて、その徒歩の旅であるが、先日、新居と二川の間にある白須賀宿にある休憩所で地元の古老と話す機会があった。以前から興味のあった各地の方言についてこのあたりは大きく分けて関東系と関西系の言葉のかわるところではないかと思って訊いてみた。答えははっきりしなかったが、舞坂宿と新居宿の間の東海道は渡船で渡ったとのことで、多分この付近で日常の往来が途切れていたのではないかということであった。また、二川の古老は言葉は浜松に近いが買い物は豊橋であるとのこと。言葉にも山頂というものがあるような気がするが、交通が発達した現在は山頂の両側の往来が頻繁となり、さらに全国的に同じ言葉になってきたような気もする。豊橋に来ると名鉄沿線になるので名古屋弁と思っていたが、岡崎あたりは三河弁という。三河弁がどういうものかよくわからないが、名古屋とは違った言葉があるのであろう。関東でも横浜の「〇〇じゃん」と山梨の「〇〇ずら」は有名であるが全体的には関東系の言葉の範疇と私は思っている。同じ日本語でも例えば「雨が降ってきた」は関東は「あ」にアクセントがあり、関西は「め」にあり、「降ってきた」もアクセントが違うので同じことを言っても東西どちらの人間かはすぐわかる。私は個人的には名古屋弁は東西どちらとも異なる方言と思うが、テレビなどで街頭インタビューなどを聴くと名古屋の人は標準語に近い感じがする。関東のうどんは真っ黒けの汁であるが、きしめんの汁はどうであっただろう。名古屋弁は大垣までは続くが関西弁が出てくるのはどのあたりかこれも興味がある。個人的には関ヶ原か柏原あたりと思う。
梅小路でのC5711
準特急さま
「保存蒸機とその現役時代」シリーズを毎回楽しみに拝見しております。門デフC5711をたまたま梅小路で撮影しておりました。昭和39年5月24日です。中学3年生のときで 買ってもらったばかりのハーフサイズのオリンパスPen-Dで撮ったものです。
45年前の9月30日
昭和44年9月30日、京都市交通局のトロリーバスが廃止された。
当時を偲び、最終日の様子等を振り返ってみた。
(1)歴史
昭和7年4月1日、四条大宮~西大路四条間1.6kmを開業した。都市交通としてのトロリーバスは日本初であった。
33年7月1日、市電梅津線西大路四条~梅津間2.1kmをトロリーバスに置換え、四条大宮~梅津間を直通運転とした。梅津は後日高畝町に改称した。
37年5月1日、高畝町~松尾橋間1.5kmを開業した。
44年9月30日に廃止され、翌10月1日より同区間を市バス77系統が運行された。
停留所は、四条大宮、四条坊城、四条中新道、四条御前通、西大路四条、西院巽町、四条中学前、梅津車庫前、南広町、高畝町、段町、北浦町、西浦町、梅ノ宮、松尾橋の15箇所で、平日の朝7時~9時までの急行運転中(37年3月27日から市電全廃まで実施)は四条坊城、四条御前通、西院巽町、北浦町は通過となっていた。
交通局では市電と同一の扱いで、運賃は市電と同額であった。
(2)戦後新製された車両
100形6両(101~106)、200形2両(201・202)、300形18両(301~318)の26両在籍した。
100形(101~106)
戦前製の1形の代替に27年4月に101~104、28年7月に105、106が作られた。車体はナニワ工機、車台(シャーシ)は日野ディーゼル製であった。
扉は中1扉で、当初は通常のバスと同じサイズの幅の狭い2枚折戸であったが、後に4枚折戸に改造した。
廃止1年前の43年9月に廃車され、105のみ大宮交通公園で展示保存されたが、50年頃解体されてしまった。
105/(45-1-4) 大宮交通公園
続きを読む
保存蒸機とその現役時代(15)
201両のC57にあって最も有名なのが全盛期に特急「かもめ」を牽引したこの11号機。保存機の説明にも比較的物資に恵まれた時代にうぶ声をあげ、戦前型の部材の良さが目立つと好意的な表現がある。製造は昭和12年9月 製番は1503で主な配属は新製後小郡区で山陽本線で活躍。昭和18年頃に門司に移り以降門司港区が長く、門鉄デフの颯爽とした姿で鹿児島本線で活躍した。その後昭和32年豊岡、35年福知山と移り、山陰、福知山線で活躍した。晩年は豊岡区で播但線の客貨を担当し、昭和47年11月に廃車された。
2013.8.30 豊岡市豊岡中央公園(駅から東側円山川方向徒歩15分)保存のC5711↓
晩年集煙装置をつけた時に改造されたのか煙突が心なしか短く感じる。現役時代に赤ナンバーをつけたことがあったのだろうか。集煙装置と重油併燃装置が外されているのは保存には好配慮。しかし、屋根付きにしては保存状態が良好とは言えない。↓
国鉄モハ40型
60年前の宇治川の反乱
60年前1953年、中学3年であった。9月25日から10日間の出来事は今も覚えている。台風13号上陸、京都直撃の報に同志社は全校休校になった。何時のようにトースト・紅茶の朝食を摂った後、出雲路橋近くの生家から鴨川沿いに自転車を走らせ三条大橋に向った。京阪三条駅、電車の出入りウォッチングのためであった。ダイヤ改正で9月1日から7時代下り急行が4連化、9月25日奈良電乗り入れ列車の橿原神宮行急行を見るためであった。7時31分を少し廻った頃、近鉄車モ600+ク500の2連。到着後は川沿い降車ホームで折り返しまで一時の休息。宇治行普通、特急、急行、準急の後を追い7:51橿原急行は3番線から出発して行った。これが見たかったのである。この日はこれにて奈良電は不通となった。木津川鉄橋以南が強風域となったからであった。
この急行は戦後最初の式年遷宮が10月2日挙行されるに際し設定されたもので、大和八木で宇治山田行急行に連絡するが、この頃の急行は榛原通過であったので田舎へ行く便とはならなかった。何時も乗る京都駅発橿原急行は木造200系の運用であり、三条発橿原急行は格上のように思えた。この急行発車後、雲行きは怪しく風が強くなり急いで帰宅したが、ずぶ濡れになったのは言うまでもない。
昼前から風雨は一段と激しくなる。夕方自宅近くの鴨川出雲路橋の水量を見に行ったが、濁流はうねりを見せていた。翌26日朝、ラジオのニュースで宇治川南岸が観月橋下流で決壊した事を知り、奈良電が危ないと思った。それはこの時期、観月橋を渡ってからの車窓で見る稲穂満載の田圃はどうなっているのだろうか、との心配であった。27日朝刊は京阪本線でも異変があった事を報じていた。これらについては京阪電鉄50年史を転載する事にする。
保存蒸機とその現役時代(14)
奈良県西部大阪府との県境に近いJR関西本線(大和路線)王寺には少し離れているが2台の蒸機が保存されている。ここは信貴山電車や台車の研究など最近メキメキ頭角をあらわしてきたどですかでんさんのお住まいの地と聞いている。
一つは王寺駅から大和川を渡った高台にある三郷小学校校庭に保存されているC57160である。大勢の学童がいる中を場違いの高齢者がトボトボ歩くのは恥ずかしい気がするが皆挨拶をしてくれるので余計に恥ずかしくなる。
説明板には主なと断って運転区間が紀勢線、和歌山線と地元を考慮しており、東海道本線も書かれている。交友社のSLNo3を見ると新製後宇都宮、千葉、新小岩と関東で活躍し晩年の1969年に和歌山に転属してその後紀伊田辺に移動しているようだ。東海道本線は走っていたのだろうか↓
国鉄モハ30形→クモハ11100番代
クモハ11123+クハ16405/ (48-1-28) 可部線中島
東急、京王、京成と関東大手私鉄の戦災復旧車が続いたので、暫く戦災復旧車が続くのかと思っていたところ、予想に反して国電が登場した。
モハ30形は、同形の付随車サハ36形、サロ35形と共に昭和元年から3年にかけて国鉄(鉄道省)初の半鋼製車として258両製作された。内訳はモハ30形205両、サハ36形45両、サロ35形8両である。
元年製と2年製は旧称号のデハ73200、サハ73500、サロ73100で登場して、3年の称号改正でモハ30、サハ36、サロ35に改番された。
サロ35は13年11月東京地区通勤路線の2等車廃止によりサハに格下げされたが、16年から17年にかけて中扉を増設してサハ36形に編入され36046~36053となった。
戦災で60両を失い、戦後は飯田線向けセミクロス化による他形式に改造等で両数が減少、モハ30の電装解除によりクハ化(クハ38050番代→クハ16200番代)、運転台撤去による中間電動車化(モハ30500番代→モハ10)が実施された。
28年6月1日の改番時でモハ30はモハ11000番代(丸屋根改造車は300番代、後に100番代)、中間電動車化(同時に丸屋根改造を実施)された車両はモハ10、クハ38に編入された車両はクハ16100番代(丸屋根改造車は200番代)、サハ36はサハ17000番代(丸屋根改造後は100番代)となった。
二重屋根は26年から31年まで丸屋根改造(更新修繕Ⅱ)が実施されたが、未改造のまま廃車された車両も存在した。
その後も両運改造、事業用車改造が実施された車両が存在したが、文章では複雑になるため画像で解説する。