京阪京津線の運休について

 

先日の台風18号による大雨では大津市内でも小さな川があちこちで氾濫し、人的被害は無かったものの中心部で広範囲に浸水の被害が出ました。鉄道でも琵琶湖線が膳所駅西側で築堤が崩れたため2日間運休、京阪大津線では御陵駅、追分駅の浸水、大谷から浜大津間の浸水と土砂の浸入で、16日から現在に至るまで不通になっています。今日現在水は引いて、地下三階部分が水没した御陵駅も昨夜復旧、地下鉄東西線は運転再開しました。唯一残っている大谷駅から上栄町にかけては、横を流れる吾妻川が氾濫して、逢坂1丁目の国道1号線と161号線の分岐するところから、161号線の踏み切り(旧上関寺駅)あたりまでが被害がひどく、まだ土砂で埋まったままです。この部分は洪水によって流れが変わってしまって土砂の流入が止まらず、まず河川の改修を先にやっているため開通が遅れています。現場は私の家から歩いて15分くらいのところなので、今日様子を見て来ました。 続きを読む

保存蒸機とその現役時代(13)

保存蒸機との再会はどちらかというと入場料を払って入る博物館のような専門の展示場所よりも小学校の校庭とか、田舎の駅前とか、公園の片隅のような所の方が好きだ。こんな所に保存されていたのかとその対面の場所に一喜一憂することがある。勿論、雨ざらしやいたずらで荒廃した機関車は見るに堪えないし、鳥かごやおりに入っているのも窮屈な感じで気の毒である。さて、小樽総合博物館であるが、ここは北海道最初の鉄道発祥の地である旧手宮駅の構内を使っており、敷地が広い。北海道で活躍した車両が50両以上あり、中には鉄道遺産に登録されている貴重な車両等がある。しかし、残念なことに屋外展示の車両の多くは雨ざらし状態で塗装が剥げ、錆びが出て、ナンバーが剥ぎ取られた機関車も見受けられた。私よりも少し前に訪問された西村雅幸さんも同様のことを述べられている。小樽総合博物館は平成19年7月旧小樽交通記念館に小樽市博物館と小樽市青少年科学技術館を統合して開館したとのことであるが、鉄道発祥の地という場所柄北海道鉄道総合博物館の印象であった。訪問目的はC5550でこの機関車は1937年汽車会社製造、製番1458で当初仙台に配属され、1955年に旭川に転属後1974年廃車までずっと北海道で活躍した。この機関車は当初C5530のナンバープレートを付けて保存されていたということで若し本当であるならとんでもない話である。家の表札を取り替えたようなもので何を考えているのだと言いたい。

2013.7.4 小樽総合博物館 C5550↓

s-13.7.4手宮CC5550

1969年3月18日 函館本線深川~妹背牛間 331列車小樽発名寄行きC5550[旭川]  小樽行き322列車から撮影 C5550の現役写真はこの1枚のみ↓

s-69.3.18深川C5550

 

 

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八月だ、もっと熱くなろう! 2013年 赤道直下のインドネシアSL撮影の旅 Part15 タクシマド(PG.Tasikumadu)製糖工場 夜撮編

日目 8月3日 その3 タクシマド製糖工場 夜撮編

00_おばちゃま

▲ イスラム教徒は、ラマダン期間中の日の出から日没までの間、飲食はしません。飢えを経験することで食べ物のありがたみを身をもって知り、自らが恵みを受けていることを感謝する事に行う意味があるそうです。
16:44、ボチボチ日没が近づいてきました。チマキや焼き鳥やらの食材、ソースを入れた大きなトレイを頭に乗せて、おばちゃまが歩いてこられました。カメラを向けると、珍しくはにかんでおられます。直径約70㎝はある丸いトレイです。真っ直ぐに歩かれるバランス感覚は、抜群です。姿勢良く歩くスタイルは、日本の女性も見習うべきかも・・・。

00_地図

15:18、TJさんIMさんを、お見送りしてから再びタクシマド製糖工場に戻りました。
これから夕刻の『ギラリ』と、日没後の『花火』を期待しての夜撮開始です。

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百済貨物駅

少し前になりますが、大阪杭全(クマタ)の近くに行く用事があり、初めて「百済貨物ターミナル」に行って来ました。もともと実家の近くであり関西線に乗った時には通り過ぎに眺める程度でしたが、今年からは梅田貨物駅も無くなったこともあり変わっているかな?という思いでした。近くまで行くとまず目に入ってきたのが大きな「歩道橋」というか「テラス」というか新しい透明感のある高架橋らしきものと新しい駅舎でした。

百済貨物駅舎

ターミナル駅は2013.3のダイヤ改正から本格的に稼動しているようでテラスも貨物駅全体を見晴らせるように駅西側に張巡らされています。ターミナルとしては電化され、着発線が4線、出発が2線、留置が5線、26両1300トン対応となっているようです(貨物時刻表参照)。最寄の駅はJR大和路線の「東部市場前」から5分程度または、市バスの杭全停留所の目の前です。大阪南部に来られた時は一見の価値はあると思います。百済貨物1

上の写真では右側(南側)に大和路線が見えます。百済貨物2

構内はテラスから俯瞰できます。

 

三岐鉄道その後で

先日【しまかぜ】次の日Part2で三岐鉄道を紹介しましたが、そのコメントに三岐鉄道の貨物鉄道博物館の南野様から書き込みを頂きました。

ご案内によると10/6にイベントがあり、先日修理されていたワフ21000の内部も公開されるようです。さらに三岐線でもイベント列車が運転されるようで詳細はHP http://frm.kans.jp/ をご覧くださいとありました。私は残念ながら自治会の文化祭があり(今年は役員をしています)行けませんが興味のある方はぜひ訪問してあげてください。今回に限らず記事にも書きましたが次回は晴れたジャガイモの花の咲くときに訪れたいものです。博物館の横の道からは鉄橋を渡る列車も撮れます、写真は故S氏の車で連れってもらった時のものです(2008.12.12)午後で逆光ですが、もう少し近づけば電柱等も避けられるかなと思います。三岐旧

【しまかぜ】次の日 Part2

先の稿では、四日市に戻って来たところでしたがここでは桑名まで移動し、三岐鉄道に乗車した内容になります。西桑名から阿下喜まで行き、長老の情報では阿下喜から三岐線までは連絡バスがあるとのことで、帰りは近鉄富田まで一周してこよう、ということになりました。

西桑名①

「一日乗り放題パス」(1000円)を求め、10:35発楚原行きに乗ります、先頭車は非冷房でしたが「かぶりつき」です。西桑名②

楚原の駅からは約20分程度で「めがね橋」に着きます。ただ残念なことに木々がおおい茂り三つ眼は一つ眼になっていました。ただ一面のジャガイモ畑があり花の咲く時期を期待します。そろそろお腹も空いてきたのですが回りにはなにもなく長老が自販機で売っていた!というポッキーをいただきました。楚原からは12:51発で阿下喜に向かいます。保存車を眺めた後駅前のうどん・そば屋さんに入りました。阿下喜

実はF氏が駅のチラシで見た「一日乗り放題パス持参の方、みたらし無料!」に釣られて入ったのですが「おたくらどこから来やはったん?」「この前来た人写真おいていかはった」と会話がはずみ、お姉さま方との記念撮影も実現しました。食事後は「いなべ市」の無料バス(BONGOタイプ)で伊勢治田まで移動です、当市は自動車関係の企業が多くあり色々と恵まれているようです。

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【しまかぜ】次の日

しまかぜ乗車はその豪華さ、乗り心地の良さに感動し素晴らしい体験ができました。世話役の皆様お疲れ様でした、本当にありがとうございました。さて【しまかぜ】次の日ですが、長老を筆頭にシルバー世代4名(長老、I氏、F氏、W)の乗車・撮影会となり、せっかく伊勢まで来たので「ナロー」に乗ろうということで近鉄内部・八王子線と三岐鉄道を選びました。朝8時にホテルを出発し近鉄四日市から出発です。四日市乗車

四日市8:25発で西日野に向かいます。西日野ではすぐに折り返し日永で撮影します。

日永①

この線の車両はカラフルで一両毎に色が違うかなと思えます。この後日永8:54の四日市行きを写していましたがちょうど幼稚園の通園時間らしく先生を先頭に「カルガモ」の親子が電車の前を横切って行く姿が撮影できましたが、私は手ブレでピンボケとなってしまいました。※幼稚園児でありWeb上で公開するのはこの理由も含めて遠慮します。この日は朝から雨で傘をさして電車(262)の前を横切る姿は本当に可愛かったです。ここでATSの車上子と地上子をみてください。地上子は線路の外側にあります。日永②

この後は内部まで乗車し、近鉄のオリジナル車(I氏間違ってたら修正願います)を写して四日市へと戻りました。四日市からは近鉄5200で桑名に向かいます。しまかぜ当日も松阪から四日市までは5200でしたが名古屋線は5200が多いですね、今年の3月から大阪線でも多くなったように思います、全部で何編成なのか要確認です。ちなみに松阪から乗った急行の中で「車内検察」がありました。ICカードをどうするのか?と思っていましたが端末にかざすと乗車駅等が判るようです。IT技術は大したものですね。内部・八王子線はどんな目的で建設されたのかという話も出ていましたがナローでよく残っていると思います。近鉄も伊賀線や養老線は手放しましたがこの線はよく残していると思います。さて、この後の三岐は別稿とさせてください。

保存蒸機とその現役時代(12)

デジ青[37564]「保存蒸機とその現役時代(5)」2013年7月20日投稿の北海道神居古潭保存の3台の蒸機のうち29638とD516は現役時代の写真なしとお断りしたが、クモハ73106東ウラさんから「持ってるでー」との連絡をいただいた。クモハ73106東ウラさんとは飯田線クモハ52、東北本線ED71の撮影以来、ヨーロッパ、台湾、中国、インドネシア、タイ等ご一緒させていただいた。以前発表した「いすみ鉄道」や最近発表の「会津鉄道八重の桜」もクモハ73106東ウラさんの車運転による撮影である。ここに改めて2台の保存機の現役時代の写真と保存機とは直接関係はないが、神居古潭の新旧写真を発表する。

2013.7.2 神居古潭 一番手前に配列されている29638↓

s-13.7.2神居古潭29638

名寄本線はこの時点で既にDC化されていたが、7月下旬から8月上旬にかけて海水浴臨時列車が運転されたことがある。その後保存機となった29638が客車列車を牽引してやってきた貴重なワンカットである。1969.7.27 上名寄 クモハ73106東ウラ氏撮影↓

s-69.7.27上名寄29638S氏

2013.7.2 神居古潭 一番奥に配列保存のD516↓

s-13.7.2神居古潭D516

 

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「しまかぜ」乗車報告

9月1日のDRFC現役・OB合同伊勢半日ツアーに参加させていただきました。

女房には日曜日は出かけるので昼飯はいらないよとだけ言っていて出かけたのですが、帰ってから「しまかぜ」で伊勢に行って来たと言うと、「“しまかぜ”って最近できた豪華な特急なんじゃないの?じゃあ私も行きたかった。」と鉄女とは全く無縁の女房も知っていたようで、知名度が高いことが伺えました。IMG_5279-1

各車両にはアテンダントさんが乗車しており、お出迎えを受けて乗り込むと、車内は落ち着いたクリーム色に、革張りの黄色いシートが3列並んで、まだ皮のにおいがぷんぷんしています。座席はもちろん電動リクライニングで腰の部分をマッサージしてくれるエアークッション機能までついていて、われわれの乗った5号車はこの3列シートが10列並び、1両の定員はわずか30人と贅沢なものです。通路扉上の液晶テレビでは沿線案内などの他に時折前面の走行カメラの映像が写され、前方の展望が楽しめます。大阪方3両目はグループ車両で、サロン席と個室があります。サロン席はヨーロッパのコンパートメント車両と同じような感じで、3人がけのシートはベンチ型で革張りではありませんが、個室は別料金取るだけあって洋風個室はソファータイプでゆったりとしているようです。

配布された乗車記念証(表)

配布された乗車記念証(表)

難波を発車してしばらくして隣のカフェ車両を覗きましたが、すでに1,2階とも満席で通路にも待つ人が並んでいたのであきらめて車内販売で我慢することにしました。車内販売は品揃えが多く、ビールなど次々と買い求める人があり(われわれのメンバーが主かもしれませんが)売り上げも多そうです。私もビールとつまみを頼みましたが、「伊勢の地ビールもありますよ。おいしいですよ」という商売上手な売り子さんに釣られてつい高いほうの地ビールなんぞを頼んでしまいました。

宇治山田駅に到着 (総本家様より提供いただきました)

宇治山田駅に到着
(総本家様より提供いただきました)

難波から宇治山田までは1時間40分、乗り心地も良く、この1時間40分の乗車時間が本当に短く感じられました。

宇治山田駅での記念撮影(総本家様より提供いただきました。)

宇治山田駅での記念撮影(総本家様より提供いただきました。)

当日帰宅して「しまかぜ」の空席状況見ると、1ヶ月先までほぼ満席、発売と同時に売り切れているようです。この人気の中、OB,現役約40名分の席を確保することに大変なご苦労されたことと思います。後になってしまいましたが、お世話いただいた方々に改めて御礼申し上げます。

「八重の桜」号

NHK大河ドラマ「八重の桜」も新政府軍の猛攻撃により会津が降伏し、舞台は京都に移った。これからは同志社人としては目が離せないが、どういうストーリーになるのか楽しみでもあり、心配でもある。

ところで、昨年福島県内を車でまわった時に会津鉄道の車両を少しだけ撮ってみた。あとでその写真をよく見ると「八重の桜」のPRが車体にあった。大河ドラマで放映されるのを機会に地元に震災で減った観光客を呼び込もうとの試みである。また、東武鉄道に乗り入れの「AIZUマウントエクスプレス」の車両にも同じようなPRがあったので今夏再度撮影したものを含め「八重の桜」号を発表する。

2012.7.21 会津鉄道芦ノ牧温泉17:00 快速「AIZUマウントエクスプレス」鬼怒川温泉発会津若松行きAT601+AT651↓

s-12.7.21芦ノ牧温泉AT601+AT651

2012.7.21 17:40 会津鉄道会津長野~養鱒公園 会津田島発会津若松行きAT551+AT501↓

s-12.7.21 会津長野AT551+AT501←
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柏崎に保存されていた「D51-1」

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柏崎駅前公園に保存されていたサハリンの「D51-1」

準特急氏が「保存蒸機とその現役時代」のタイトルで、保存機の現状と過去の活躍を紹介されておられるが、両方を撮影されているは50歳代後半から70歳代前半くらいの方ではないだろうか。
保存機の現役時代の雄姿は、準特急氏や特派員氏のように余程熱心に撮影していないと無理で、正にクローバー会ならではの内容である。
柏崎で保存されていた「D51-1」を紹介する。昭和24年2月日本車輌で新製され、ソビエト連邦国鉄樺太線用として輸出された機関車(D51-1~D51-30の30両輸出された)で、昭和43年頃までユジノサハリンスク(豊原)~ポストーチヌイ(元泊)間で使用されていたようである。

柏崎市出身で北海道交通の社長、北海道日ソ友好文化会館理事長をされていた柴野安三郎氏が柏崎市市制施行50周年を記念してロシアから買い戻し、柏崎市に寄贈された。
平成2年9月2日ホルムスク(豊原)港をロシアのカーフェリーで出発して、小樽港で日本の貨物船に積み替え、同月12日柏崎港に到着した。陸揚げ後整備が行われ、11月4日に保存場所の駅前公園芝生広場に運ばれ、18日に柴野夫妻、柏崎市長等関係者により除幕式が執り行われた。

ところが、車体断熱にアスベストが使用されていることが判明。車体の老朽化により飛散の恐れがあり、修復には多額の費用がかかるということで、平成23年6月25日に「お別れ会」を開催してあっさり解体されてしまった。
市の幹部に、機関車の歴史的価値、此の地に保存されている意義が理解できる人がいなかった悲劇であろう。尚、柴野安三郎氏は平成7年1月に永眠されている。

撮影は平成5年9月5日で、「ぶんしゅう旅日記」で時折お名前が登場する丸谷洋一氏にバスを含めてご案内いただいた。

サハリンのD51は、廃止された富内線振内駅跡の「振内鉄道記念館」にD51-23、標津線西春別跡の「別海町鉄道記念館」にD51-27が保存されている。
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京成モハ2000型

高校生だった頃、TMSに13mmゲージというのができて、これからの国鉄型はこれがスケールと書いてありました。なるほど鉄道模型社のEF58は、前から見ると“出っ歯”でブサイクそのもの。これにしよう!と決めましたが車軸をどうしたら13mmにできるのかわかりません。いろいろ考えたあげく、車軸を中央部で3.5mm短くして、内径が車軸と同じサイズのパイプを13mmに切断して差し込むことにしました。
実験は成功しましたが、量産が面倒くさくて計画は中止しました。

これを思い出させた京成モハ2000でした。
京成クハ2000_0001_NEW京成クハ2000(文)_NEW

富士急行ロハ901→流山電鉄クハ53

7月23日【37790】「富士山麓電鉄モハ603」で関 三平氏は後ろに連結されている「ロハ901」についても触れておられるが、準特急氏より流山電鉄に譲渡後の画像をご提供いただいたので関連事項を含めて記述する。
【38044】「富士山麓電鉄モハ603→富士急行モハ3604」と重複する部分があるが、改めてロハ901について解説する。
青梅電気鉄道モハ100形モハ103として昭和3年川崎造船所で新製され、19年4月1日鉄道省買収時にモハ100形モハ103となった。(書類上は25年小糸車輌製となっている)
鉄道省買収後、青梅電気鉄道の電動車は機器配置が特殊であったこと等により、早い時期に電装解除され制御車化、この車両も19年11月には制御車となった。その後、五日市線で客車代用になり24年3月28日付で廃車となった。富士山麓電鉄が譲り受け、半室を2等車に改造してロハ300となり、25年10月の改番でロハ901となった。

44年3月流山電鉄に譲渡され、西武所沢工場で運転台を設置してクハ53となり、元京浜急行デハ400形の旧車体を利用して43年8月西武所沢工場で作られたモハ1101とMT編成を組んで活躍したが56年6月廃車になった。

クハ53+モハ1101/ (45-10-20)  準特急氏撮影
撮影場所は赤城台(現平和台)~鰭ヶ崎間と思われる。
s-70.10.20流山53+1101
s-70.10.20流山53+1101横

〔参考〕クハ52+モハ101/ (45-10-20)  準特急氏撮影
クハ52は元西武鉄道クハ1213で昭和2年日本車両製、武蔵野鉄道モハ1321として新製された車両。
モハ101は元国鉄モハ107で昭和3年汽車会社製、南武鉄道モハ107として新製され、19年4月鉄道省に買収された。
s-70.10.20流山52+101
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保存蒸機とその現役時代(11)

最近、何かとトラブルの多いJR北海道であるが、今回もその北海道の保存機関車とした。

まず、宗谷本線の和寒駅に近い郷土資料館恵み野ホール前に展示されているD51337。 晩年の北海道スタイルそのものである。↓

s-13.7.2和寒D51337

s-13.7.2和寒D51337説明板

この機関車は1966年9月6日稚内6時45分発324Dで旭川に向かう途中、和寒で撮影したものと思う。思うといういい加減な表現で恐縮であるが、和寒で6分停車の間に交換する321列車C5548を撮影しており、その時に側線にいたD51337[名寄]を撮影した記録メモがある。しかし、D51の写真にはターンテーブルが写っており、名寄で撮影した可能性もある。和寒にターンテーブルがあったのかどうか定かでない。現地のファンに確認を求めたが古い時代のことであり、名寄か和寒かは確認できていない。↓

s-66.9.6和寒D51337

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続・宇高連絡フェリーに乗る

瀬戸内銀座に入ると、360度展望の効くデッキは楽しいが、あまりの暑さに船内正面中央の座席で行きかう多彩な船影を楽しむ。老人以外の17人は客室中央で転寝を楽しんでいる。国鉄連絡船は航行時分が65分であった。民間フェリー3社は55分、60分毎運航で3社ピストンやると20分毎運航だと聞いたことがある。備讃大橋開通後もしばらく四国フェリー、国道フェリー、本四フェリー3社が頑張っていたが、先ず日通系の本四フェリーが脱落、その後、鳴門大橋開通や備讃大橋通行料金値下げに伴う利用者減で、国道フェリーは四国フェリーに集約されたらしく、1社運航となったようだ。今は競争相手なしで60分運航、名物のサウナ風呂サービス、温かい讃岐うどんもなくなった。快適な連絡便で定評あった宇野バスは?どうやら利用者激減でフェリー路線連絡は無いようだ。

JR宇野線との競合もないと言って良いだろう。マリーンライナーは遠回りであるのに岡山-高松間を60分前後で運転しており、これでは「参った」となる。また宇野線とフェリーの接続も考慮されていない独自の時刻表によって運航されている。5分で接続というのもあるが、たまたま老人が出くわしたのは岡山12:45発・児島行の筋で宇野13;35着であった。駅ホームから徒歩5分ぐらいで高松行フェリーに到着するが、ヨロヨロ歩きの老人は10分ばかり要した。

14:30、高松着。搬送された自動車の数をウォッチングに行く。22台の乗船であった。トラック17台の運転手で17人、乗用車5台の運転手と助手席の乗員で7人。客室にいなかった7人のお客様、どこで猛暑を凌いでいたのだろう。「乗船されました方は2階の船室でご休憩下さい」と、何度も繰り返し案内していた。老人は残照がきつい中を高松駅へ1杯のうどんを求めてヨロヨロ歩き始めた。その後は琴平行を捕まえるのが本日の残る仕事となった。

お詫びを1件、JR213系ワンマンカーを211系と記してしまった。ごめんなさい。

宇高連絡フェリーに乗る

猛暑の京都を逃れようと四国善通寺に向けて出発したのは7月30日であった。この時期愛用の青春18切符利用で長岡京7:23発、快速播州赤穂行の人となる。高槻で後追いの新快速に乗り換え、姫路で播州赤穂行に乗り、相生始発の岡山行に乗り換えると岡山10:39着となる。自宅近くの阪急バス初発を利用すると、岡山に安く早く到着する筋となるが、今回は高槻で座れたのでそのまま播州赤穂直行とした。相生を出てトンネルを抜けると雨となり、そぼ降る赤穂駅に10:13、遅れ3分着となった。赤穂駅を後にしたのは10:41、まっ黄の115系4連であった。この時間帯となれば211系ワンマンカーと思っていたが、体質改善車で転換クロスになっており足を伸ばす事ができた。海岸縁を離れ、西片上からは高校生中心に乗客が増える。なるほど4連が必要なのだと思っているうちに岡山12:01定時着となった。何時もは岡山電軌をウォッチングした後、14:45発琴平行とするのだが構内放送は「遅れている南風5号の前にマリンライナーが先発となり、茶屋町で宇野線と接続する」と言っている。なに、宇野線と接続、久しぶりに聞く線名だ。宇高フェリー利用で高松へ、うどん一杯賞味して善通寺に行こうと気変わりした。

茶屋町着、接続する筈の宇野線列車はいない。岡山駅の構内放送のミスか、老人の聞き間違いか、どちらか分からない。ただ言える事は、この日は津山地区でゲリラ豪雨があり、津山線中心にダイヤの乱れがあったようだ。13:04何事もなかったように211系2連ワンマンカーが中線に到着した。扉が開きバラバラと乗客が降りる。13:06児島行、13:08岡山行がいずれもまっ黄の115系3連で到着、宇野線接続となる。これなら岡山でカレー、生中1杯やれたのにと思うが後の祭りである。彦崎、備前片岡と懐かしい駅名が続く。片岡は倉敷方面への受け口になっているのか駅前が整備されている。追川、常山と繋がる沿線の西側は、戸建ち住宅が繋がり住宅地として開発されている。線路の東側は干拓地で、松林や丸く盛り上がった元小島の跡地の地形がそのままだ。穂はまだ早いが今年の稲の生育は良いようだ。どの駅も交換設備がそのまま残され、特に交換線の延長が長かった八浜が目立つ。宇野に到着。広大な敷地だった宇野駅構内はホーム1本と僅かな留置線があるさびしい終着駅になっていた。デジ青で以前話題になった玉野市営電鉄の乗り場は位置すら特定できない。

連絡の児島行きを待ち受ける

連絡の児島行きを待ち受ける

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富士身延鉄道モハ100形/その後の変遷

関 三平氏の「昭和の電車」は、富士山世界遺産登録に関連して、元富岩鉄道セミボ20、21、富士山麓電鉄モハ603、今回の富士身延鉄道モハ100形と富士山周辺の電車を取り上げられた。それも買収国電にこだわられた点が、関氏らしいところである。

電車については、関氏の解説文、K.H.生氏のコメントの通りであるが、国鉄から私鉄に譲渡後についてもう少し詳しく解説する。

昭和16年5月1日鉄道省に買収時に富士身延鉄道から引継がれた車両は、2年6月の富士~身延間の電化時に新製されたモハ100形5両(100、101、103~105、モハ102は12年9月事故により廃車)と翌年甲府までの電化開業時に新製されたモハ110形6両(110~115)、クハユニ300形4両(300~303)、クロハニ310形2両(310、311)、非電化時代大正6、7年に新製され、電化後も引き続き使用されていたサハ50形4両(50~53)、サハ60形3両(60~62)、サハ70形3両(70~72)の27両であった。
買収時の改番で、モハ100形とモハ110形はメーカーの違いのみで実質同形であったため同一形式にまとめられ、車号順にモハ93形93001~93011に、クハユニ300形はクハユニ95形95001~95004に、クロハニ310形は社線時代に「ロ」が廃止され、クハニ310形になっており、クハニ96形96001、96002に、サハ50形、サハ60形、サハ70形は同一形式にまとめられ、車号順にサハ26形26001~26010となった。

28年6月1日の称号改正で、私鉄買収車は、「阪和型」を除き、買収元私鉄単位に1000~9999に付番され、元富士身延鉄道は電動車が1200番代、制御車の中で合造車は7200番代になった。その結果、モハ93形は、モハ1200形1200~1210に、クハユニ95形は、郵便室が撤去されていたためクハニ7200形7200~7203に、クハニ96形は、クハニ7210形7210、7211に改番された。
サハ26形は、この時期までに事業用車に改造や廃車になっていたので改番の対象にはならなかった

話が前後するが、買収直後から輸送力増強のため、東京地区から木製省電が入線、昭和18年には木製車の鋼体化改造車として車体を新製された2扉セミクロスのモハ62形(62001~62003)とクハ77形(77001~7003)が登場した。戦後も省型の投入が続き、モハ93、クハユニ95、クハニ96は、飯田線伊那松島区に転属し、伊那電気鉄道買収車の大部分を置換えた。
モハ93形は、24年から26年にかけて両運の片運化と運転台撤去側の貫通化が行われたが、扉は手動のままであった。

31年から33年に廃車になったが、モハ1200(←モハ93001←モハ100)、モハ1209(←モハ93010←モハ114)、モハ1210(←モハ93011←モハ115)、クハニ7200(←クハユニ95001←クハユニ300)の4両以外は、弘南鉄道に7両、長岡鉄道に1両、大井川鉄道に3両、高松琴平電鉄に2両譲渡された。

国鉄時代の写真は、佐竹先輩の「私鉄買収国電」(2002年10月1日初版/ネコ・パブ社)を参照いただきたい。

弘南鉄道
モハ1200形4両、クハニ7200形1両、クハニ7210形2両が入線した。

モハ2250/昭和3年新潟鐵工所
モハ112→モハ93008→モハ1207と改番して32年5月に廃車になった。34年2月に譲り受け、51年に大鰐線に転属したが、終始ほぼ国鉄時代のスタイルで活躍し、56年2月廃車になった。(上:43-9-2 南弘前 下:大鰐線転属後 50-4-28 新石川)
43-9-2モハ2250
50-4-28 大鰐2250
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保存蒸機とその現役時代(10)

電車少年から最近蒸機が多いということで火つけ役の一人としてどうしようか悩んでいる。電車も面白いので機会をみて無い知識を振り絞って、また投稿させていただくとして「保存蒸機」は走り出したテーマなのでしばらくご勘弁願いたい。ところで先日広島県三原市にお住まいの西村雅幸さんから「こんなんあるでー」と保存蒸機の一覧表を頂いた。広島や四国にはそう簡単に行けそうもないので、その一部の提供をお願いした。大型機D52はしばらくお休みとして今回は愛媛県の内子駅前に保存のC12231を取り上げてみた。説明板によるとC12231は1939年9月に日本車両で製造され、1940年4月仙台局小牛田機関区、1967年6月仙台局会津若松機関区、1969年四国支社宇和島機関区転属により内子線で活躍、1970年退役とある。仙台局内の移動は省略されていると思うが、現役時代はほとんど宮城県や福島県で活躍したと思われ、晩年に宇和島に移動して一生を終えている。何となく仙台藩の伊達家が宇和島藩にも行ったのとよく似ている。

2007年10月8日内子駅前に保存のC11231  廃車後内子小学校に保存され、駅前整備とともに現在地に再保存された 下の3枚が保存機 西村雅幸撮影↓

s-07.10.8内子C12231-1西村氏s-07.10.8内子C12231-2西村氏

s-07.10.8内子C12231-3西村氏

現役時代であるが、1966年9月13日北海道からの帰りに「はくつる」を利用し仙台で下車し、急行に乗り継いでC51133が転覆した松川事件の松川で下車した。ED71、ED75の列車等を撮影後支線である川俣線に乗車した。メモには725列車10時16分発 C12231[福島]+貨車5両+スハニ642298仙フクとある。下の写真は岩代川俣駅での折り返し726列車で貨車は2両となっている。↓

s-66.9.13岩代川俣C12231

松川駅到着後の726列車 途中貨車2両を切り離したのかスハニ64だけになっている。↓

s-66.9.13松川C12231

川俣町の一部は福島第一原発事故の放射能汚染地区なっており、当時の平和な時代の写真を見ると心が痛む。なお、川俣線は1972年に廃止されている。

西村さんからは1976年8月に撮影した内子線終点時代の地上駅の写真も頂いたので併載する。写っているのはキハ52の2連と思われる。内子駅は1986年3月に予讃本線の短絡線として向井原までつながった際に高架駅になったとのことである。西村雅幸撮影↓

s-76.8内子駅キハ52