続・宇高連絡フェリーに乗る

瀬戸内銀座に入ると、360度展望の効くデッキは楽しいが、あまりの暑さに船内正面中央の座席で行きかう多彩な船影を楽しむ。老人以外の17人は客室中央で転寝を楽しんでいる。国鉄連絡船は航行時分が65分であった。民間フェリー3社は55分、60分毎運航で3社ピストンやると20分毎運航だと聞いたことがある。備讃大橋開通後もしばらく四国フェリー、国道フェリー、本四フェリー3社が頑張っていたが、先ず日通系の本四フェリーが脱落、その後、鳴門大橋開通や備讃大橋通行料金値下げに伴う利用者減で、国道フェリーは四国フェリーに集約されたらしく、1社運航となったようだ。今は競争相手なしで60分運航、名物のサウナ風呂サービス、温かい讃岐うどんもなくなった。快適な連絡便で定評あった宇野バスは?どうやら利用者激減でフェリー路線連絡は無いようだ。

JR宇野線との競合もないと言って良いだろう。マリーンライナーは遠回りであるのに岡山-高松間を60分前後で運転しており、これでは「参った」となる。また宇野線とフェリーの接続も考慮されていない独自の時刻表によって運航されている。5分で接続というのもあるが、たまたま老人が出くわしたのは岡山12:45発・児島行の筋で宇野13;35着であった。駅ホームから徒歩5分ぐらいで高松行フェリーに到着するが、ヨロヨロ歩きの老人は10分ばかり要した。

14:30、高松着。搬送された自動車の数をウォッチングに行く。22台の乗船であった。トラック17台の運転手で17人、乗用車5台の運転手と助手席の乗員で7人。客室にいなかった7人のお客様、どこで猛暑を凌いでいたのだろう。「乗船されました方は2階の船室でご休憩下さい」と、何度も繰り返し案内していた。老人は残照がきつい中を高松駅へ1杯のうどんを求めてヨロヨロ歩き始めた。その後は琴平行を捕まえるのが本日の残る仕事となった。

お詫びを1件、JR213系ワンマンカーを211系と記してしまった。ごめんなさい。

宇高連絡フェリーに乗る

猛暑の京都を逃れようと四国善通寺に向けて出発したのは7月30日であった。この時期愛用の青春18切符利用で長岡京7:23発、快速播州赤穂行の人となる。高槻で後追いの新快速に乗り換え、姫路で播州赤穂行に乗り、相生始発の岡山行に乗り換えると岡山10:39着となる。自宅近くの阪急バス初発を利用すると、岡山に安く早く到着する筋となるが、今回は高槻で座れたのでそのまま播州赤穂直行とした。相生を出てトンネルを抜けると雨となり、そぼ降る赤穂駅に10:13、遅れ3分着となった。赤穂駅を後にしたのは10:41、まっ黄の115系4連であった。この時間帯となれば211系ワンマンカーと思っていたが、体質改善車で転換クロスになっており足を伸ばす事ができた。海岸縁を離れ、西片上からは高校生中心に乗客が増える。なるほど4連が必要なのだと思っているうちに岡山12:01定時着となった。何時もは岡山電軌をウォッチングした後、14:45発琴平行とするのだが構内放送は「遅れている南風5号の前にマリンライナーが先発となり、茶屋町で宇野線と接続する」と言っている。なに、宇野線と接続、久しぶりに聞く線名だ。宇高フェリー利用で高松へ、うどん一杯賞味して善通寺に行こうと気変わりした。

茶屋町着、接続する筈の宇野線列車はいない。岡山駅の構内放送のミスか、老人の聞き間違いか、どちらか分からない。ただ言える事は、この日は津山地区でゲリラ豪雨があり、津山線中心にダイヤの乱れがあったようだ。13:04何事もなかったように211系2連ワンマンカーが中線に到着した。扉が開きバラバラと乗客が降りる。13:06児島行、13:08岡山行がいずれもまっ黄の115系3連で到着、宇野線接続となる。これなら岡山でカレー、生中1杯やれたのにと思うが後の祭りである。彦崎、備前片岡と懐かしい駅名が続く。片岡は倉敷方面への受け口になっているのか駅前が整備されている。追川、常山と繋がる沿線の西側は、戸建ち住宅が繋がり住宅地として開発されている。線路の東側は干拓地で、松林や丸く盛り上がった元小島の跡地の地形がそのままだ。穂はまだ早いが今年の稲の生育は良いようだ。どの駅も交換設備がそのまま残され、特に交換線の延長が長かった八浜が目立つ。宇野に到着。広大な敷地だった宇野駅構内はホーム1本と僅かな留置線があるさびしい終着駅になっていた。デジ青で以前話題になった玉野市営電鉄の乗り場は位置すら特定できない。

連絡の児島行きを待ち受ける

連絡の児島行きを待ち受ける

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富士身延鉄道モハ100形/その後の変遷

関 三平氏の「昭和の電車」は、富士山世界遺産登録に関連して、元富岩鉄道セミボ20、21、富士山麓電鉄モハ603、今回の富士身延鉄道モハ100形と富士山周辺の電車を取り上げられた。それも買収国電にこだわられた点が、関氏らしいところである。

電車については、関氏の解説文、K.H.生氏のコメントの通りであるが、国鉄から私鉄に譲渡後についてもう少し詳しく解説する。

昭和16年5月1日鉄道省に買収時に富士身延鉄道から引継がれた車両は、2年6月の富士~身延間の電化時に新製されたモハ100形5両(100、101、103~105、モハ102は12年9月事故により廃車)と翌年甲府までの電化開業時に新製されたモハ110形6両(110~115)、クハユニ300形4両(300~303)、クロハニ310形2両(310、311)、非電化時代大正6、7年に新製され、電化後も引き続き使用されていたサハ50形4両(50~53)、サハ60形3両(60~62)、サハ70形3両(70~72)の27両であった。
買収時の改番で、モハ100形とモハ110形はメーカーの違いのみで実質同形であったため同一形式にまとめられ、車号順にモハ93形93001~93011に、クハユニ300形はクハユニ95形95001~95004に、クロハニ310形は社線時代に「ロ」が廃止され、クハニ310形になっており、クハニ96形96001、96002に、サハ50形、サハ60形、サハ70形は同一形式にまとめられ、車号順にサハ26形26001~26010となった。

28年6月1日の称号改正で、私鉄買収車は、「阪和型」を除き、買収元私鉄単位に1000~9999に付番され、元富士身延鉄道は電動車が1200番代、制御車の中で合造車は7200番代になった。その結果、モハ93形は、モハ1200形1200~1210に、クハユニ95形は、郵便室が撤去されていたためクハニ7200形7200~7203に、クハニ96形は、クハニ7210形7210、7211に改番された。
サハ26形は、この時期までに事業用車に改造や廃車になっていたので改番の対象にはならなかった

話が前後するが、買収直後から輸送力増強のため、東京地区から木製省電が入線、昭和18年には木製車の鋼体化改造車として車体を新製された2扉セミクロスのモハ62形(62001~62003)とクハ77形(77001~7003)が登場した。戦後も省型の投入が続き、モハ93、クハユニ95、クハニ96は、飯田線伊那松島区に転属し、伊那電気鉄道買収車の大部分を置換えた。
モハ93形は、24年から26年にかけて両運の片運化と運転台撤去側の貫通化が行われたが、扉は手動のままであった。

31年から33年に廃車になったが、モハ1200(←モハ93001←モハ100)、モハ1209(←モハ93010←モハ114)、モハ1210(←モハ93011←モハ115)、クハニ7200(←クハユニ95001←クハユニ300)の4両以外は、弘南鉄道に7両、長岡鉄道に1両、大井川鉄道に3両、高松琴平電鉄に2両譲渡された。

国鉄時代の写真は、佐竹先輩の「私鉄買収国電」(2002年10月1日初版/ネコ・パブ社)を参照いただきたい。

弘南鉄道
モハ1200形4両、クハニ7200形1両、クハニ7210形2両が入線した。

モハ2250/昭和3年新潟鐵工所
モハ112→モハ93008→モハ1207と改番して32年5月に廃車になった。34年2月に譲り受け、51年に大鰐線に転属したが、終始ほぼ国鉄時代のスタイルで活躍し、56年2月廃車になった。(上:43-9-2 南弘前 下:大鰐線転属後 50-4-28 新石川)
43-9-2モハ2250
50-4-28 大鰐2250
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保存蒸機とその現役時代(10)

電車少年から最近蒸機が多いということで火つけ役の一人としてどうしようか悩んでいる。電車も面白いので機会をみて無い知識を振り絞って、また投稿させていただくとして「保存蒸機」は走り出したテーマなのでしばらくご勘弁願いたい。ところで先日広島県三原市にお住まいの西村雅幸さんから「こんなんあるでー」と保存蒸機の一覧表を頂いた。広島や四国にはそう簡単に行けそうもないので、その一部の提供をお願いした。大型機D52はしばらくお休みとして今回は愛媛県の内子駅前に保存のC12231を取り上げてみた。説明板によるとC12231は1939年9月に日本車両で製造され、1940年4月仙台局小牛田機関区、1967年6月仙台局会津若松機関区、1969年四国支社宇和島機関区転属により内子線で活躍、1970年退役とある。仙台局内の移動は省略されていると思うが、現役時代はほとんど宮城県や福島県で活躍したと思われ、晩年に宇和島に移動して一生を終えている。何となく仙台藩の伊達家が宇和島藩にも行ったのとよく似ている。

2007年10月8日内子駅前に保存のC11231  廃車後内子小学校に保存され、駅前整備とともに現在地に再保存された 下の3枚が保存機 西村雅幸撮影↓

s-07.10.8内子C12231-1西村氏s-07.10.8内子C12231-2西村氏

s-07.10.8内子C12231-3西村氏

現役時代であるが、1966年9月13日北海道からの帰りに「はくつる」を利用し仙台で下車し、急行に乗り継いでC51133が転覆した松川事件の松川で下車した。ED71、ED75の列車等を撮影後支線である川俣線に乗車した。メモには725列車10時16分発 C12231[福島]+貨車5両+スハニ642298仙フクとある。下の写真は岩代川俣駅での折り返し726列車で貨車は2両となっている。↓

s-66.9.13岩代川俣C12231

松川駅到着後の726列車 途中貨車2両を切り離したのかスハニ64だけになっている。↓

s-66.9.13松川C12231

川俣町の一部は福島第一原発事故の放射能汚染地区なっており、当時の平和な時代の写真を見ると心が痛む。なお、川俣線は1972年に廃止されている。

西村さんからは1976年8月に撮影した内子線終点時代の地上駅の写真も頂いたので併載する。写っているのはキハ52の2連と思われる。内子駅は1986年3月に予讃本線の短絡線として向井原までつながった際に高架駅になったとのことである。西村雅幸撮影↓

s-76.8内子駅キハ52

大夕張鉄道のTシャツ

残暑お見舞い申し上げます。

近年は、若い人たちが鉄道や、それを取り巻いていた社会の仕組みや成り立ちについて、少し興味を持たれる傾向が出て来ました。
私たち鉄道マニアは、常識と思っている、鉄道と従事していた人々や、それを取り巻く家族、共同体的な社会に関して、ゼロから学ぶ平成生まれ中心の人たちが、何に興味関心を抱いているかと言うと、昭和以前の鉄道の時代は、ワンダーな世界観のようです。
今日はそんな中から、マニアパレルさんという会社が、ユニークなTシャツを出しているのに、気が付きました。彼らは、元々廃線や、廃墟風景が好きで、そこから北海道の炭鉱鉄道のことを知り、今興味津々なのですが、最近は産業遺産や産業考古学と言った、比較的まじめに歴史のことを研究し、発表するグループも現れています。この作品、単なる昔の社章のリプリントでなく、工夫や今的な価値加工がされている点が、私は気に入りましたので、紹介する次第です。こういう記事に対して、批判が多ければ削除いたします。
でも、私は袋小路に入って、伸びなくなった鉄道趣味より、何か新しい動きをしている所の方が、面白いと思う方なのです。

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戦時スタイルのD52

私と同じ終戦時期に生まれたD52で戦時設計とか戦時スタイルとか呼ばれていた。この時期は資材がなく劣悪な環境で生まれたが、C11の角形ドーム共々昭和40年ごろまでは見られた。EF13という電気機関車も同じように戦時スタイルの凸型であったがこちらは見たことがない。いずれにしても粗悪な機関車であったと思うが、その後標準改造され幹線の大型貨物用機関車として君臨した。山科の人間国宝が最も好きな蒸気機関車として挙げられていたのがこの機関車である。先日、大宮(京都でなく埼玉の大宮)でお会いした時にデジ青を御覧になられているかを訪ねましところ「見てない」とのことでした。

1963.3.27 下関で見た上り貨物を牽引するD52460[柳井]↓

s-63.3.27下関D52460

1964.4.1 小郡区にいた給水過熱器が煙突前にないD52126[小郡]↓

s-64.4.1小郡D52126

保存蒸機とその現役時代(9)

JR横浜線淵野辺駅南口から徒歩5分くらいにある鹿沼児童交通公園にも北海道五稜郭にいたD52が保存されている。大きな公園に比較的きれいな状態でD52235が保存されているが、これが少しややここしい。D52235のナンバープレートをつけているが他機ではないかとも言われている。詳細はよくわからないが、ロッドの刻印を見る限りD52235であるという報告とキャブが標準型であること、先輪がスポーク車輪であること、ドーム前デッキの手すりがないこと、煙室扉のフックの形状等々からD52138の可能性が高いという報告が錯綜している。電車でも例えばパンタグラフ等を廃車した車両から流用する話は聞いたことがあるし、台車などもたらい回しの例はよくある。蒸気機関車は先に廃車された同型機などから部品等を流用することが多かったのでなかろうかと推察する。手元にあるイカロス出版の保存車リスト2012を見ると、大井川鉄道のC11312とC12208は部品取り用とある。蒸機が廃車されるまでいろいろな経緯があったとは思うが、保存にあたって主要な本体部分がつけていたナンバーで保存されているものと思うのでこのD52についてはよくわからない。従って今回はD52235とD52138の現役時代を併載する。235号機については今回も総本家青信号特派員さんの作品を使用させていただいのでここに御礼申し上げる。

2013.6.8 相模原市鹿沼児童交通公園に保存のD52235

s-13.6.8淵野辺52235

D52235のキャブ(機関車運転室)は標準型で密閉式ではない↓

s-13.6.8D52235キャブ

児童用の説明板であるがやや補足すると新製後新鶴見、1952.9稲沢、1953.11吹田、1956.11姫路一、1960.10五稜郭、1973.5廃車となる↓

s-13.6.8D52235説明板

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保存蒸機とその現役時代(8)

D52は広島のトップナンバー、梅小路のラストナンバー(468)を含め全部で7両保存されている。1と468以外は神奈川県に3両と静岡県に2両である。この2県に集中しているのは御殿場線で使用されたD52が関係していると思っていた。調べてみると御殿場線関係は3両で他の2両は意外で北海道から来ている。今回取り上げるのは北海道から来たD52136で保存場所は沼津駅北西10分にある高澤公園である。D52136は1944年汽車会社で製造され、稲沢区に配置。1946年から1960年までは姫路に配属、その後廃車される1973年までは五稜郭にいた。前半関西、後半北海道、保存は静岡ということになる。2013.7.28沼津市高澤公園の保存機D52136↓

s-13.7.28沼津D52136

現役時代の姿であるが、仁山越えでD51710[五稜郭]が前補機についた重連の2両目本務機がD52136[五稜郭]で136号機の写真はこれっきりである。1966年9月12日仁山~渡島大野下り貨物↓

s-66.9.12仁山D52710+D52136

まともな写真がないので、総本家青信号特派員さんに応援を求めたところ、即、快諾をいただいたので以下に発表させていただく。撮影は何れも1968年8月30日である。

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紀伊神谷駅-2013年5月の姿です

どですかでん様。今年5月通りすがりに下車して撮影しました。あれから39年、同じ角度の画像ですが、ほとんど変わっていないのが判りますね。ホームには昔通り、右手わずかに見える階段を上がります。人影のない新緑の駅は、すがすがしい空気に満ちていました。
紀伊神谷駅2013

直立不動で各列車を見守る律儀な駅長さん。(向こう側)上りこうや号(手前)下り極楽橋行き
紀伊神谷駅03

駅構内、極楽橋方向を背にして、紀伊細川方向を見ます。丁度橋本行きが下って行きました。
紀伊神谷駅02

お山には、時々墓参りに出かけますので、今後もお便りができると思います。昨年は極楽橋、上古沢、紀伊細川で撮りました。

はしーる電車は緑の電車、なーんなーん南海電車

総本家青信号特派員様のおかげで幼い頃の南海電車を思い出しました。加太線ではありませんが、よく祖母と一緒に学文路にいった時のことです。難波より緑の電車に乗って行ったのです。森林鉄道みたいな紀見峠越えを緑の森の中を緑の電車がくねくねと走っていったのをはっきりと覚えているのです。私の場合は南海電車といえは高野線でした。そして少しばかりの写真を。

まず、最初に緑の電車です。鉄道友の会に入っていた時に千代田車庫見学会に撮ったものです。ポジカラーですが保管が悪く、カビだらけになってやっとデジタル処理で何とか見れるようにしました。色は少し悪いですが緑の電車の雰囲気があると思います。

南海千代田-01

修正南海千代田-02

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保存蒸機とその現役時代(7)

東京には現在3両のC57が保存されている。大森の入新井公園の66号機は[35453]「保存蒸機とその現役時代(3)」で、小金井公園の186号機は藤本哲男さんが[25967]「保存されているEB10」の中の周辺の保存車両で紹介されている。今回はもう1両57号機を取り上げてみた。

57号機は新製後の配置は不明であるが、戦後北海道で長く使用された。引退後はどういう縁があったのかよくわからないが東京で保存されている。保存場所の大蔵運動公園は小田急線祖師ヶ谷大蔵駅から南に徒歩15分くらいの所にある大きな公園である。57号機は雪国育ちのため、旋回窓やスノープローを装備しているが、デフの切り詰めがないので貴婦人を保っている。保存状態も良好に見えるが、前照灯とテンダーのライトには電球がなかった。また、現役時代のドームの後ろにある重油併燃装置は保存機では外されており、保存にはこれの方が望ましいと思う。

2013.5.28 世田谷区大蔵運動公園の保存機C5757↓

s-13.5.28大蔵C5757   C5757説明板↓

s-13.5.28大蔵C5757説明

1966年9月10日早朝5時33分網走からの急行「石北」518列車を岩見沢で降りる。5分停車の間に牽引機C6232を撮る。続いて5時44分に釧路からの急行「まりも」28列車が到着する。この牽引機がC5757[小樽築港]であった。雨の中での撮影で、C5757はこの時に出会ったのみでその後の再会は47年後であった。

s-66.9.10岩見沢C5757

以前、保存蒸機とその現役時代(2)で門鉄デフのD51272を取り上げたが、そのD51272が保存されている世田谷公園にはC5757の庭園列車があったので、併せて取り上げてみた。撮影は2012.11.28↓

s-12.11.28世田谷公園C5757模型

 

富士山麓電鉄モハ603→富士急行モハ3604

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車体更新でモハ3604に改番後で、正面に貫通扉が設置された。/富士吉田

セミボの次は富士山麓電鉄→富士急行が登場した。それにしても関 三平氏の電車好きは、筋金入りで、私等話題に付いていくのが精一杯で足元にも及ばない。
今回のモハ603は、関 三平氏が記述されておられる通り、経歴が複雑で、車体更新して改番後で解説する。
明治32年日本鉄道大宮工場製で客車として新製され、鉄道院に買収後の改造でナユニ5420となり、昭和16年青梅線の前身、青梅電気鉄道に払い下げられた。
青梅電気鉄道は、同時に払い下げられた2両の木製客車と共に木南車輌で半鋼製車体を新製して電車に生まれ変わった。全長18.8mの大型で広い窓と共に当時としては軽快な車両で、台枠、台車も新製されて、サハ700形サハ703となった。
(他の2両は鉄道省ホヤ6703→サハ701、ホハニ4053→サハ702)

車体、台車、台枠が新製されているので、車両新製が認可されないため、苦肉の策として、改造名義にしたものと思われる。
サハ701と702は社線時代に、サハ703は19年4月1日鉄道省に買収後運転台が設置され、クハ700形クハ701~703となった。
クハ703は20年1月事故により休車になり、戦後24年1月富士山麓電鉄に譲渡された。

富士山麓電鉄では譲受け後直ぐに汽車会社で電動車に改造して26年1月モハ22として再起した。その後の改番でモハ603(関氏のイラスト)、39年に日本車輌で車体更新時に、貫通扉の設置、車内の蛍光灯化、自動扉化が実施され、モハ3604に改番された。

後ろに連結されているロハ901は、書類上は昭和25年小糸車輌製となっているが、実態は昭和3年川崎造船所製の元青梅電気鉄道モハ100形モハ103で、鉄道省買収後モハ100形モハ103となり、車号は同一であった。
青梅電気鉄道の電動車は、機器配置が特殊であったこと等により、早い時期に制御車代用になり、この車両も23年には早くも休車になった。
24年にサハ状態で富士山麓電鉄が譲受け、半室を2等車に改造してロハ300となり、その後の改番でロハ901となった。
44年に流山電鉄に譲渡され、西武所沢工場で運転台を設置してクハ53となり56年まで使用された。
ロハ901、流山電鉄クハ53共に撮影していないため、撮影された方は是非発表していただきたい。
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信貴電の不思議 じぇじぇじぇ、じぇ~ 大和川の橋脚が

  じぇじぇじぇ、じぇ~ 大和川橋梁の橋脚が~~~なんと・・・・。

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最初の「信貴電の不思議」で書いたように大和川橋梁の橋脚が開業当初のものかどうかわからなかったのです。社史に書かれていた橋桁数が現在の橋梁と異なっていたのでわかりませんでした。ところで、例の信貴電に関する奈良県公文書の中に大和川橋梁の図面がありました。これで開業当初の大和川橋梁がどんなものかわかりました。それを簡単に図にすると下のようになります。

 開業時の大和川橋梁の図

      開業時の大和川橋梁をデハ100が王寺に向かって走っていくの図

ご覧のように王寺側の橋脚数が現在と違っています。また橋桁の高さと長さが王寺側の6連と信貴山下側の5連では違っていることがわかりました。現在の橋脚は王寺側が3本抜けているのもわかりました。そして、その橋脚が抜けたところに痕跡があるか調べに行きましたが、その痕跡はありませんでした。ところが、偶然にも他の重要なことが発見できたのです。

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保存蒸機とその現役時代(6)

神居古潭に続き、同じ日に訪問した岩見沢市のみなみ公園に保存されているD51である。デフレクターを短く詰めた晩年の北海道の機関車の姿である。どうして短くしたのか理由はよくわからないが、原形を損なっており個人的には好きになれない。

岩見沢みなみ公園は駅から東側およそ15分くらいの公園で当日は私と同年齢の老人がゲートボールを楽しんでいた。保存機はなめくじドームのD5147で屋根付きのためか保存状態は比較的良好とみた。2013.7.2 岩見沢みなみ公園のD5147↓

s-13.7.2岩見沢南公園D5147

 

同機の説明板によると前配属機関区は東鉄局高崎機関区とある。↓

s-13.7.2D5147説明板

 

鷲別区に憩うD5147[岩見沢]の現役時代。煙突にクルクルパーといわれた回転式火粉止をつけているが、デフレクターも短くされる前でこの方が好みのスタイルである。↓

s-66.9.4鷲別D5147

 

 

岩見沢みなみ公園にはもう1両のC57144が保存されている。同機もデフレクターが短くなっている。この機関車は現役時代撮影していない。↓

s-13.7.2岩見沢南公園C57144

 

C57144の説明板  同機は新製後高崎、富山を経て昭和37年頃に北海道に渡り室蘭本線等で活躍した。↓

s-C57144説明

 

人と鉄道と-乗り易い電車-

前回のサンテ・チェンヌ、中心街の停留所背後はバスターミナルで、電車とバスの結節点となっている。ふと気付いたのが連接トロリーバス。11乳母車の母親が車内の人に何か話している。やがて12白髪の紳士が身を乗り出し乳母車を受け取り、ヤレヤレとなった。子供を乗せたままの最近の乳母車、どこの国でもバスに乗せるには苦労している。ドイツに入国して季節運行のナウムブルグ市電を訪ねた。市電は駅前ではなく徒歩10分の公園前からの運行であった。路上から車内への乳母車搬入は電車でも大変である。この時は13運転手君が父親に協力していた。

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画11,12、13

画11,12、13

 

今回の探訪テーマはノンステップカーの品定めである、快適性トップはカールスルーエの3車体連接車、14形式はデユワグGT-70/Nである。快適としたのは、最後尾部が展望室構造になっていたからである。それとは関係ないが客室の床高が超低床車の中では少し高く、出入り口部に勾配が15生じる。電車の乗り場(安全地帯)とステップ先端と歩道面の段差が15㎝と大きく、乳母車に乗っている子供も16少し気にしているようだ。歩道がない道路面からだと3840㎝となる。同じメーカーであるボンの6xGe13ZR NTは、中間車の構造が異なり乗降部と道路での段差が30㎝、17,18これならご婦人でも気軽に乗り降りできる。

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人と鉄道と-沿線の人々-

5回にわたる『人と鉄道と』は今回でお終い、沿線の人々が写っている風景です。

▼八十八夜の茶摘み、ここ静岡県榛原郡川根町・崎平地区の茶摘みは手摘みで始まり、その後機械摘みに移るそうです。気候温暖な川根茶の本場も、最近は天候の変動が大きく、殊に八十八夜前後に霜や、酷い時には氷も張る異変が多いそうです。一昨年は静岡県全体で大変な被害額に上りました。傍を走るかわね路号から、茶摘みの様子を見ることができます。
大井川鉄道、かわね路14号、崎平-青部間、2013.05.04305045

▼栃木県芳賀地区の八十八夜は田植えの季節です。機械植えではなく、一本一本手で植え付けて行きます。折から近所の益子では陶器祭りが開かれ、普段は一両編成のDCも2両編成の運行です。
真岡鉄道、2123レ、益子-北山間、2008.05.03
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