準特急さんの保存蒸機とその現役時代(5)に関連ある蒸機を、『奥山さんの機関区巡り』から選んでみました。同名のHPはC62,C61,C60,C59が済んで、次にD51,C57の順番でしたが、準特急さんの記事に合わせC57を先に編集を開始します。撮影者は1958年度生、奥山直秀さん、画像編集担当は鶴です。
▼C57200【築】 小樽築港機関区、1968.08.17
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保存蒸機とその現役時代(5)
函館本線神居古潭駅。そのロマンチックな名前に憧れて過去2回訪問している。神居古潭駅は1969年9月30日、函館本線滝川~旭川間の複線化、電化に伴う別ルート化により廃止された。石狩川とアイヌの伝説を秘めたこの景勝の地旧神居古潭駅付近に3両の蒸機が保存されている。真ん中の横綱がラストナンバーC57201で、露払いに29638、太刀持ちにD516を従えるように展示されている。C57201は小樽築港区時代に狩勝峠でも撮影しているが今回は保存場所と同じ神居古潭駅で撮影した旭川区時代のC57201の最晩年の姿である。ラストナンバー201号機はC57の4次形で1次~3次までのC57とはスタイルが異なり、C59戦後型を小さくした感じで人気があった。しかし、そのほとんどが九州と北海道に配置され本州では見る機会が少なかった。それでも、関西地方には190号機が和歌山から梅小路に転属され、また、198号機が亀山に配属されていたので我々関西系中高年のファンには比較的近くで目にすることができた。
2013.7.2 神居古潭旧駅付近に保存のC57201 昭和22年三菱製↓
1969.3.17神居古潭駅に進入する322列車稚内発小樽行きC57201[旭川]↓
名寄区で廃車された29638 大正7年小倉工場製 当機の現役写真なし↓
北見区で廃車されたD516 昭和11年川崎製 当機の現役写真なし↓
現役時代の神居古潭駅のC57201の写っている位置はホームが左へカーブしており、現在のホームは直線相対式で残されているので当時の札幌よりのカーブしたホーム部分はカットされたものと思われる。3両の保存機を撮影したあたりがカットされたホーム先端部分と推察したが如何であろうか。↓
神居古潭へは旭川駅前から沿岸バス、道北バスで25分程で到着できる。バス停から石狩川にかかる吊り橋を渡ったところが現地で徒歩10分。
人と鉄道と-通行人と車内-
人と鉄道と-通行人と車内-
急行「やまと」にレンズを向けた記憶のない老人は、鉄・復活後は路面電車のスナップ中心に楽しんでいる。フランスで2度オッサンに怒鳴られた事を紹介したが、貴夫人は如何なりやと写真を探してみた。1996年GWの欧州低床路面電車探訪で、フランス中西部の元炭鉱街であったサンテ・チェンヌでの光景だが、中心街は京都市・都市計画道路1期線の幅員10間より狭い。恐らく15m幅であると思われるもので、標準レンズでは歩道部分も視野に入ってしまう。画1:左右の貴婦人は怖い顔してレンズを睨んでいる。画2:左の貴婦人は旧型電車到着を前にしてプイッと横を向いてしまった。そして反対方向から来た電車にレンズを向けたら画3:左側に貴婦人が2人、撮って会釈をしたら右側青コートの貴婦人は手を振ってくれた。画4:老人が立っていた乗り場は歩道で、ノンステップ電車と歩道天端の高低差15㎝で、右のお嬢さんにっこりでヤレヤレ!
人と鉄道と-働く人びと-
今回は、鉄道員と、鉄道に協力して働く人びとです。
▼1967年1月2日朝、山田線区界駅。盛岡発釜石行き客630Dを見送る駅員。
小止みなく降り続く雪の中をDCが出発して行きます。気がつけば犬までが線路上で見送っていました。
昨夜、つまり1967年元日の夜は、区界駅の待合室でステーションホテルでした。待合室の木造外壁と入り口は二重にできていました。外壁の内側に50cmほどの空間を空け、二つ目の入り口扉を設けていました。起床後驚いたのは、二重の入り口の内側にまで夜来の雪が入り込んで隅に積もっているではありませんか。どこからどうして入って積もるのか、想像できません。首をかしげながら、自炊の朝食前に撮ったのがこの一枚でした。
▼同日、同駅。雪が小止みになり所々に青空も見え始めた頃、616D急行『そとやま』を迎える駅員。急行『そとやま』は盛岡発山田・釜石線・東北本線経由盛岡行き、全283km、6時間の中距離急行列車です。
▼同日、同駅。急行は当駅で客扱いしません。(左)627Dとの交換待ち停車です。急行の車掌はホームに降り立ち、中央と右には除雪作業員の姿が見えます。
富岩鉄道セミボ20、21号
人と鉄道と-乗務員編-
その昔ワンマンカーになる前のバスの車掌さんはほとんどが女性でした。路面電車はさて あまり覚えていませんが男性が多かったような気がします。さて鉄道となると運転手も車掌さんも男性社会だったと思います。
最近は JRや私鉄共に女性が大活躍し、特に山手線は運転手さん 車掌さんの多くが女性になってきています。
次の写真は 浜松町での山手線の運転手さんです。(2011年11月)
山手線などの231系は乗務員扉の窓の位置がちょうどいいところにありますが 光の加減でなかなか良い写真は撮れません。新型の233系や郊外型の231系は乗務員扉の位置が違うためほぼ不可能です
次の写真は名古屋駅での乗務員交代の場面です。下り特別快速313系を待つ車掌さんです。
キリリと緊張感みなぎる 姿です。
そこへ 大垣行特別快速が入ってきました。313系朝の8連です。
C5756 急行「大和」を曳く
人と鉄道と -乗客編
KAWANAKAです。
デジ青の先輩の「人と鉄道と」編の言わば番外編として、まったく車両が写っていない)人と鉄道を掲載しようと思いつきました。tsurukame先輩の格調ある写真の狙いとは違って人間だけの表情を捉えて見ました。
対象はお金を払った人、すなわち乗客に絞っています。なかなかチャンスが来ないのと、肖像権の問題があって、撮っていいものかどうか悩ましいですが、カメラを出して意識して特にNoがなければOKと勝手に解釈し、失礼のないようにすれば良いかなあということで何枚か載せました。デジ青は公開すればその気になれば法的に問うことができると思いますが、そこまで悪意もないので許されると思います。
まず、最近の写真といっても房総にC61が走ったときの写真。発車までの間になにやら話をしていますが、(これは乗客と違いますね。失礼しましたが、きれいな女性はすぐに撮っておく癖があるものですから)でもこれは肖像権に当たらないと思います。
きれいと言えば、TVで活躍している知花くららさん。正真正銘の美人でありますが、ミュンヘン駅頭で偶然見かけました。旅サラダのロケをしていて、オクトーバーフェスタのロケだったそうです。スタッフに撮影OKを貰ってから撮りましたが、何と関係のないオッサンが現れ、彼女の腰に手を回し2ショット。
(うまく写真が配置できなくて恐縮)ですが、おっさんの満足そうな顔が印象的です。
ミュンヘンといえばその時期、ぶんしゅう氏の投稿にもありましたが、どーんと人が集まります。そんな幸せそうなカップルを捉えました。腰の位置にカメラを持って撮った1コマですがうまくフレーミングできました。
まだまだありそうですが、国内に戻りましょう。女の子はこれがおしまいです。梅雨が明けましたが、ちょうどウインドウガラスが曇りそうな中に、佇む貴女を見つけました(ごめんなさい)。場所は嵐電嵐山です。
申し訳ないが次も女の子(若いですが)。窓が反射して車内が見えませんが、中にはおじいさんがいます。また来てねというとことでしょうか。背伸びしないと車内までまだ見通せません。来年はもう少し大きくなるからね。
次は、女の子ではなく女の親と子です。場所は九州大村線。子供がこっちを見たりしていたが、きょろきょろして中々決まらない。お母さんは、なにか一生懸命字を教えているのかな。
こんなに勉強しても、やがては大人になって賑やかな仲間になります。カメラを意識しているのか、どうでしょうか。既に出来上がっているのでしょうか、まったく気にしません。電車で帰る楽しい宴の終わりです。東海道線島田付近にて撮影。老年切符を使ったときの収穫です。
賑やかも良いですが熟年の旅も捨てがたい。北陸線内でちょうど老夫婦が旅に出る。特急を使わずに、近場へ行くのでしょうか。画像処理が今ひとつですが、フレーミングが良くないですがまあこんなものでしょうか。
鉄道写真はなにも線路に噛り付いて撮るものではないと思いますが、とくに最近、魅力ある列車が減っているなかで、こんなものも被写体として面白いのではないか、と思い、いくつか載せてみました。今度はもう少し車両を入れたものも考えておきましょう。
保存蒸機とその現役時代(4)
関西本線加茂駅は愛称大和路線の終点でこれから先亀山側は非電化区間でキハ120が1~2両で走るローカル線である。うっかりしていたが、ここは京都府であり、関西本線が京都府を走るイメージは頭になかった。不勉強であったと反省している。その京都府木津川市立加茂小学校にC5756が保存されていることを知り、会ってきたので報告する。場所は駅から木津、奈良方面に向かって7~8分歩いたところに屋根付きで保存されている。小学校の校庭ではなく関西本線の線路際である。しかし、学校の横であることは間違いなく、小学生の歌声が校舎のどこからか聞こえてきて随分昔の幼き頃を思い出した。たまにはこういう旅もいいものである。C5756は新製後糸崎、高崎等の配置を経て戦後は奈良を始め当時の天王寺鉄道管理局管内で活躍した。従って加茂小学校に保存されていることはこの機関車にとっても幸せなことであろう。
2013.5.9 C5756 赤ナンバーで保存状態も良好であった。煙突が本来の姿より短く感じたが、集煙装置を装備していたのかもしれない。↓
同機のナンバープレート 保存機では盗難予防のためか本物でないものが多く製造番号まで表示されている例は少ない。↓
小学生を意識した説明板であるが、昭和12年生まれとありプレートには昭和13年とある。交友社発行のSLNo3では昭和13年4月30日三菱製造製番1920とある。どれが正解なのかよくわからない。プレートが正解と思うが。↓
さて現役時代であるが、これは1964年8月15日和歌山方面に出かけた時に天王寺駅で撮影した203列車東京発湊町行き急行「大和」を牽引して到着した奈良区所属の同機である。加太峠の存在を知らない時代で気楽に駅撮りした記録である。真夏で暑いので窓を開けざるを得なかった時代の汽車旅であるが、煤が入ってきても最高の旅を味わえた。見えている客車はスハフ42でウイングバネのズシンズシンという重量感あふれる台車音と上下振動が心地よく、スハ43系のファンは多かった。加太会を始め急行「大和」の蒸機時代の写真をお持ちの方の発表を期待したい。私の加太走行の「大和」はDF50になってからの姿しかない。
↓
番号がわかるようにもう少し機関車に近づいたのがこの写真。関西地区のC57はドームの後ろに重油タンクを付けているタイプが多かったが、全体にきれいであった。↓
人と鉄道と 近鉄 オーストリアに寄せて
ぶんしゅうさんが1フレームに複数の写真を表示する方法を投稿されましたので、同じようにやってみました。お会いした時にPhoto shopで出来ると聞いたので、早速にマニュアル本を頼りにテスト的にやってみました。その後、投稿記事があったので、これも参考にして本格的にやってみました。まったくいっしょの方法でありませんが、ちょっと見てください。文字も入れてみました。また、新しい技を習得できたのでうまく組み合わせていきたいと思っています。せっかくだから手持ちの写真で最近の投稿に因んだものにしてみました。
「人と鉄道と」をベースに写真を拾って見ました。古い写真から順番に。まずは近鉄からです。
近鉄橘寺駅で撮った写真です。中学生の時に飛鳥へハイキングに行った時に撮った写真です。カメラはオリンパスペンSです。ハーフサイズカメラです。
上の4枚の写真は4番の写真以外は高校生の時のものです。4番はDRFC現役時代です。さて、これらはどこで撮ったのでしょうか?全て有名な?所です。当ててみましょう。
大津の86さんがオーストリアに行かれたそうで、それに因んで少しばかり。オーストリアの写真は仕事をしていた頃、会社からヨーロッパの工場視察のツアーに行った時に自由行動の日にウィーンから日帰りで行って撮って来ました。現在のチラタール鉄道がどうなのか投稿を楽しみにしています。
ところで鉄道写真といえばDRFCに入った1970年7月に発行された青信号24号に写真班が「鉄道写真とは何か」というアンケートの結果がまとめてあります。読み返すと面白いもので、「6×6判は正しくない!」とか「乱写は間違っている」とか「一発至上主義は間違っている」と喧々諤々と好き勝手なことを当時は吼えまくっていたのです。私も新人であるのにアンケートを書いてくれと言われて、これが私の最初の青信号投稿記事になりました。ところでこの中でなぜか「カメラは蛇腹が最も正しい!!」というのが印象に残っていて、富山にいる頃に商店街に写真屋さんショーウィンドにあの「パールⅢ」が置いてあるのでム、ム、ムッムでありました。いつもその店の前を通るとしげしげと眺めていました。今でもあるのでしょうか。富山に行くことがあればのぞいてみたいと思います。
近鉄モ5621形
前回のモニ6201形に引き続き、飾り窓付の近鉄電車が登場した。
経歴等は、関 三平氏が記述されておられる通りであるが、若干補足するとデロ21~25(後のモ5621~5625)が川崎造船所製、26、27(後のモ5626、5627)が大阪鐵工所製である。
関 三平氏は「5621~5624は『高松琴平電鉄』に譲渡され」と記されているが、譲渡されたのは車体のみである。
昭和35年、南大阪線に特急用車両を作るため、モ5621~5624の4両が廃車された。
特急用車両を作るために廃車とは?と不思議に思われる方がおられると思うが、当時はメインルートの大阪~名古屋・伊勢間や名古屋~伊勢間の特急の増強で忙しく、2線級の南大阪線までとても手が回らず、南大阪線、吉野線を管轄する天王寺営業局では、車体が新しいモ5805、モ5806の色を塗り替えて優等列車に使用したものの所詮ロングシートの通勤型車両であった。
当件は、1月29日【29414】「近鉄南大阪線モ5805/羊頭狗肉なりに大健闘」と2月3日【29597】「近鉄モ5801形」を参照いただきたい。
吉野山に向かう観光客、大和上市ら大台ケ原、下市口から大峰山、弥山に向かう登山客への対応と、何となくダサい感じがする天王寺営業局のイメージアップのためにも特急用車両は必要不可欠であった。
そこで苦肉の策として考えられたのが、名古屋線のクニ5421形(元伊勢電のモハ二231形〔関西急行成立時の改番でモニ6231形に改番〕で、昭和34年モ6441形に電装を譲りTc化された車両)の5421~5424の4両を転換クロスシート化の上、南大阪線で最も車齢の高いモ5621~5624の台車、電装品を組み合わせて特急用車両モ5821形を作るというものであった。
戦時中「足りぬ足りぬは工夫が足りぬ」という言葉があったが、モ5821形は、正に「工夫の産物」であった。
モモ5821形については、関 三平氏からの紹介があった時に改めて解説する。
モ5621~5624は廃車されたとは言え、車体は高松琴平電鉄に譲渡され、21~24として再起。台車、電装品はモ5821~5824に活かされた。
琴電では反流正面5枚窓を切妻貫通扉付に改造され、別に信貴生駒電鉄から譲り受けた広軌台車と組み合わせて使用された。
幸いにも23が動態保存車に選ばれ、時折讃岐路に釣掛けモーター音を響かせ快走する姿を見ることができるのは喜ばしい限りである。
近鉄南大阪線に残ったモ5625~5627の3両は、昭和40年頃はモ5625+モ2627の2連で道明寺線、モ5626は単行で荷電として使用されていた。
道明寺線で使用中のモ5625+モ5627/ (42-10-14) 道明寺(車両交換で古市に回送時)
モ5626/上:(42-10-14) 下:(43-8-23) 道明寺
道明寺駅ではホームのない場所で荷扱いをしていたことが判る。
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掲示板の写真複数を1コマに投稿方法
掲示板に投稿しています2枚以上の写真を1フレームにまとめるのはどうしているかの質問を受けましたので、私の処理方法を紹介させていただきます。
【 用意するもの 】
① まとめたい写真 2点以上
② 画像加工・編集ソフト・・・・私は、Adobe Photoshop Elementsを使用していますが、画像のサイズ変更・加工ができるソフトなら他でもOKです。
Adobe Photoshop Elementsは、比較的に安いソフトで、価格.comなら10,000円前後から購入できます。
今回はこのソフトを使っての処理方法を説明します。
人と鉄道と-機関士編-
「人と鉄道と」3回目は蒸気機関車の機関士です。
▼1962年3月23日、日豊線・竜ヶ水-鹿児島間、機D51687【人】の単機運転。機関士らしき右側の人、ヘッドライト装着で保線区員らしき左の人。二人して敷物に座り、線路や設備の移動点検でしょうか。まさか、右手の噴火湾見物とは違うでしょう。こんな光景の出会いは最初の最後でした。
▼1965年8月29日、福知山線・篠山口駅、ホームに写る機影は逆行運転のC11280【吹一】、上り客736列車の機関士がC11の日陰で、下り準急『丹波1号』との離合を待っていました。
▼そして今度は5ツ先の駅、福知山線・相野駅。急行『白兎』との離合待ちで機関士は一服。真夏の車内は暑くて、子供はホームに出たが、ホームもかんかん照り、思わず頭に手を。
▼1966年10月1日、関西本線・加太駅、京都発亀山行き、上り客728列車、急行『かすが3号』との離合待ち。腕章を巻いた機関士と助士がホームの片隅で一服。出発時刻は20時59分です。
▼同上、728列車全景。さしずめ「夜も撮る」でした。ホームには駅員の姿も見えます。
▼1964年3月17日、東北本線・小繋駅、本務機の機関士と助士が動輪周りを点検中です。前に2両のD51補機を付けた、所謂蒸機機関車「三重連」です。
七夕電車
広島電鉄では 毎年恒例の「七夕電車」が今年も6月27日から7月7日まで運転されるとのことで、7月4日夜遅く 見に行きました。今年2月の新車1000形が使用され 1001(PICCOLO)が「ひこぼし号」、1002(PICCOLA)が「おりひめ号」となっていました。
豪雨の中 江波からの1001「ひこぼし号」が横川駅に到着です。
当日は大雨警報が発令されJRはかなりダイヤが乱れていました。
横川駅に停車中の同車です。折り返し広電本社前行きとなります。
せっかくなので乗車してみました。
地元の幼稚園児の手作りの短冊や装飾できれいに飾られています。
夜遅いため乗客も少なく ゆっくりと新型車の乗り心地を広電本社前まで楽しみました。途中で1002「おりひめ号」とすれ違いました。
小康状態の雨の中 広電本社前で折り返しを待つ1001号です。ひこぼしと星空のラッピングがされています。その後豪雨の中 横川駅へと走り去っていきました。
1002号を待ちましたが 夜も遅いため車庫に入ってしまったようで来ませんでした。
翌朝 少し時間が有りましたので 明るい中で待つこととしました。
朝早く 原爆ドーム前へ行くと1002「おりひめ号」がやってきました。定番撮影地での1002号です。広電本社前発 横川駅行きです。かわいい「おりひめ」のイラストが付いています。
アニバーサリーレッドと言われるこの車両の色は なかなか写真写りがむつかしいですね。
十日市町に停車中の1001「ひこぼし号」です。
きれいなラッピングの電車です。晴れるとまたきれいな色になると思いますが 梅雨の曇り空の朝でした。
京都、大阪、神戸、福岡からの電車を始めさまざまな電車が行き交う広島は 見ても、乗っても楽しい所です。
犬伏
速報!E653系「いなほ」と金町界隈の貨物列車
北松戸を通過するEH500-32牽引の土浦貨物/ (25-6-29)
E653系「いなほ」
6月29日土曜日、所用で松戸まで行った帰り、土浦貨物が来る時間帯であったので北松戸で撮影後、暫くすると上り快速線を見慣れぬ色のE653系が通過した。先頭方向は下りの緩行電車に被られてしまったが、何とか後追いで撮影できた。
E653系は、3月16日のダイヤ改正で「フレッシュひたち」から引退後、一部の車両は修学旅行臨や臨時列車に使用されているが、7両編成は8編成全部が順次「いなほ」用に改造される。
この車両は元「K301」編成で、2月28日に郡山総合車両センターに入場して改造工事完了後、6月25日に一旦元の勝田車両センターに回送され、29日に上野駅経由で新潟車両センターに回送された。
E653系は元々寒冷地仕様で製作されているため、改造工事の主体は車内のリニューアルと下り向き先頭車のグリーン車化である。
第2陣として6月4日「K302」編成が郡山総合車両センターに入場した。
4本ある4両編成はいわき~仙台間の特急に転用される予定であったが、東日本大震災で常磐線不通区間の復旧の目途が立たないため今後の動向が注目される。
近鉄6201系
関 三平氏は大の近鉄ファンと思われる。
今まで登場した近鉄の電車は、モ2303、モ1→モ200、モ6800ラビットカー、モ5201、モ6601、モ5805、10100系ビスタカー、そして今回の6201系、次のモ5621形、奈良電のクハボ600とデハボ1200を加えると11形式に及ぶ。
特に興味深いのは、南大阪線が4形式あり、近鉄の中でも南大阪線がお好みなのであろう。近々モ5821形「かもしか号」が登場するかも知れない。
元伊勢電の車両は今回が初めてで、関 三平氏の解説の通り、昭和3~4年にかけて、M車2両(改番後のモ二6201、6202)、T車6両(改番後のク6251~6253→サ6251~6253、ク6261~6263→サ6261~6263)新製され、イラストの通り窓上にはアーチ形の飾り欄間が設置され、ステンドグラスがはめられていた。
車内はロングシートながら扉横の柱の上部に彫刻がされている等凝った作りであったが、欄間は戦後鉄板張りになり、車体更新時になくなってしまった。
モ二6201形
昭和3年12月日本車輌製で、制御器の相違から当初形式はデハ二201形とデハ二211形に分けられていた。7年に記号を変更してモハ二になり、16年3月関西急行成立時の改番で実質的に同じであることからモニ6201形に統一され、モハ二201がモ二6201、モ二211がモハ二6202に改番された。
昭和34年名古屋線改軌時に改軌されたようであるが、36年に伊賀線に転属となり、主力車として活躍した。49年6200番代を南大阪線の新型車に譲ったため、モニ5201形に改番されたが52年3月廃車になった。
モニ6201/上:(48-4-8)下:(46-1-24) 上野市
伊勢電の電動車は乗務員室扉がないのが特徴であった。上の場合は荷物室扉から出入りすればよいが、下の場合は客室扉から出入りしなければならず不便であったと思われる。
モニ6202/(48-4-8) 上野市
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近鉄モ5621
富士山と鉄道(特別編)
「富士山と鉄道」につきましてはtsurukame様より御殿場線の蒸機機関車D52時代の写真を投稿いただきました。その後私の古くからの友人であるSさんより小海線と川越線の写真があるとの連絡がありお願いしました。Sさんはタイ、三道嶺にはぶんしゅう旅日記さんと行動を共にされ、先日は神足(長岡京)で共に飲んだとも聞いております。また、デジ青に時々コメントを投稿されている村樫四郎様からは御殿場線に加えて中央線の未電化時代の作品をいただきました。今回は特別編として両名の貴重な記録を発表させていただきます。
まず、Sさんからの小海線と富士山の写真です。私の不確かな情報を確かに証明していただきました。1972.4.1小海線甲斐小泉~甲斐大泉↓
1972.9.1 小海線小淵沢~甲斐小泉 高原には早くもススキが見られる↓
1965.3.5 川越線 指扇~南古谷 珍しく雪の降った日のキューロクの旅客列車 富士山は左にあるはずですが厳しい↓
富士山と鉄道(山梨他編)
静岡編に続き山梨他を紹介したい。まず、山梨県側であるが、山容が綺麗で河口湖など湖と絡めた美しい風景写真をよく見かける所である。しかし、山梨県側は全体には裏側にあたり逆光気味になるので、特に鉄道写真は少ないようで、古い写真はほとんど見かけない。最近は果敢に挑戦した作品も出てきたので私もその真似事をしてみた。順光でない場所では雪の白さなどがつぶれてしまい難しい撮影になるが、これを乗り越えると思わぬ好作品が生まれるのかもしれない。
JR中央線も新府~穴山l~日野春~長坂~小淵沢あたりも右に八ヶ岳、左に甲斐駒と抜群の風景が続く。この中で穴山~日野春には僅かであるが富士山をバックにした写真が撮れる場所がある。有名撮影地であるが、徒歩で行くと30分はかかる。時間帯にもよるがここも逆光気味である。2002.1.6穴山~日野春 437M甲府発松本行き115系↓
この場所も有名撮影地で富士山がよく見える。列車が大カーブするのでいろいろな角度から撮影ができる。新府駅からすぐの場所。甲府盆地内でも富士山が見えるので今後さらに注意して撮影場所を探してみたい。2002.1.6 新府~穴山上り183系回送↓
富士山の世界遺産登録で株価急騰の富士急。JR東もシーズン土日にE257系による快速「山梨富士号」を新設するとのこと。(13.5.21日経) また、富士急社長は富士山5合目までの延伸構想を明らかにし、その中で成田空港からの直通運転も目指すとのこと。(13.6.20日経) 道路より環境問題の負荷が少ないことはいいのだが、問題は収支が合うのかということである。富士山の独立峰としての美しさを前編で述べたが、例えばスイスのユングフラウ鉄道のように連続した車窓風景の売り物が通年提供できるかどうかここが疑問である。リゾート事業は魅力的にうつる部分もあるが、雨の日、風の日、寒い日もあり、通年営業の覚悟ができるかどうかである。
富士急は富士山を入れて撮れる場所が限定されている。写真は寿~三つ峠の定番地で工場敷地に入ることにもなるのでその場合は注意が必要である。他にも工夫すれば見つけることは不可能ではないが、全体に好撮影地は少ない。むしろ付近の山などに登れば思わぬポイントが見つかるのかもしれない。2010.5.21寿~三つ峠大月行き1308+1208↓
富士山と鉄道(静岡編)
6月22日富士山は世界文化遺産に登録された。諦めていた三保の松原も認められ、諸外国の登録委員に完璧に支持されたのでまずはめでたし、めでたしである。今後はその文化遺産の維持の大変さが予想されるので登録抹消にならないようにしなければならない。
私は富士山を始めて見た時のことを覚えている。修学旅行中、梅雨空であったが箱根の芦ノ湖で雪を抱いた山容が雲間に現れた時にワーと歓声があがりしばらく興奮の眼で眺めていた思い出がある。今でも新幹線の窓からその秀麗な姿を見るとお客が写真に撮ったりしているのでやはり他の山とは違った魅力があるのだと思う。世界的に見れば3776mというのはそれほど高くはないが、コニーデ式(円錐)火山であり、その堂々とした独立峰が印象的で世界的にも素晴らしい山といえる。富士山は「登る山でなく、見る山だ」という人もいる。私は1970年8月に登山をしたが、9合目を越えて御来光を仰ぐ段階で高山病にやられた。引き返す訳にはいかないので頂上まで登り噴火口だけ見てさーと降りたが、高山病というのは当然下へ降りれば降りるほど回復するものであることを実感した。冒頭に静岡側、山梨側、飛行機から見た富士山を3枚を並べてみた。
2012.3.29身延線沼久保付近の早春の富士山↓
2010.11.10 秋深まる頃の富士山 右に見えるのは山中湖↓
2007.5.28 北京行きの飛行機から見た富士山 余談であるが翌日チベットのラサに向かったがここの標高は富士山に近い3600mで多少の高山病にかかった↓
さて、本題の富士山と鉄道であるが、まず終日順光で眺められる静岡県側を紹介したい。紹介なんて偉そうなことをいっても天下の富士山なのでほとんどの場所が有名撮影地であることをお許し願いたい。例によって古い写真が登場するが、毎度の劣悪な保存状態のフィルムのため見苦しい点も併せてお許し願いたい。