この投稿を始めてから気がついたこと・・・
一つは、自分は電車、とりわけ私鉄については何にも知らないこと。
二つは、この会にはこんなにも詳しい人がたくさんいたのか!ということでした。
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東武鉄道/東京都内のローカル線
スカイツリーをバックに北十間川鉄橋を渡る (25-5-23)
東武鉄道は野田線に60000系新型車が入線したことで注目を集めているが、話題に上がることが極めて少ない亀戸線と大師線の現状を紹介する。
亀戸線
浅草を出ると直ぐ隅田川の鉄橋を渡り「とうきょうスカイツリー」に到着する。その次の曳船から分岐して亀戸までの間3.4kmを結び、中間に小村井、東あずま、亀戸水神の3駅が存在する。
駅間距離は曳舟~小村井間が1.4km、以遠東あずま間0.6km、亀戸水神間0.7km、亀戸間0.7kmと短い。
曳船駅構内のごく僅かな区間が単線の他は複線で、昼間10分間隔(平日朝のラッシュ時は7~8分)でワンマン運転されている。
朝ラッシュ時3本、それ以外の時間帯は2本使用で、朝のラッシュ時が終わると1本は亀戸駅に留置されている。
車両は、8000系2連で昼間でも座席がほぼ埋まる程度の乗客数である。
(1)歴史
開業は古く明治37年4月5日で、この日同時に開業したJR総武本線の前身、総武鉄道が開業し、同社に乗入れ両国橋(現両国)まで乗入れ、曳舟~吾妻橋間を廃止してこちらが本線格になった。
明 治40年9月1日総武鉄道は国有化されたが、乗入れは43年3月27日まで続けられた。一方、曳舟~吾妻橋間を明治41年3月貨物線として復活。43年3月には吾妻橋を浅草に改称して旅客営業を再開し、曳舟~亀戸間は支線になった。
(2)車両
南栗橋車両管区春日部支所所属のワンマン改造された8000系2連5編成(8565-8665、8568-8668、8570-8670、8575-8675、8577-8677)が大師線と共用で使用される。
「8568-8668、8577-8677の2編成は「下町トレイン」として戸袋部分に亀戸線と浅草、東向島、北千住の各駅のラッピングが貼られている他、床にもラッピングが貼られている。車内アナウンスはスカイツリーのキャラクター「ソラからちゃん」をイメージした子供(実際は大人の声優と思われる)の声で行われている。
下町トレイン[モハ8568-クハ8668]/ (25-6-8)
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だいぶん前の、ちょっと前の、ついこないだの路面電車
乙訓の長老様が投稿されていましたが、6月8日の日に阪堺電車あびこ道にある車庫で「路面電車まつり」がありました。目的はデト11の台車でしたが、イベントの舞台に使っていたので写真撮影や詳しく調べることができませんでした。しかし、乙訓の長老様から資料や写真を提供していただいたので調べたい内容はほぼわかりました。また、ここでお会いした日本路面電車同好会関西支部の皆様にはいろいろなことを教えていただきありがとうございました。この場をかりて厚く御礼申し上げます。
「路面電車まつり」に因んで、今までに撮った路面電車の写真を新旧おりまぜて少しばかり。まずは「だいぶん前の路面電車」から。といっても45年ぐらい前と思いますが、見ていただきたいと思います。
東急玉川線デハ200形
朝のラッシュ輸送が終わり入庫するデハ202/(43-9-7) 大橋
昭和30年前後の3大都市の最新鋭路面電車のラストとして東急玉川線デハ200形が登場した。
24年3月14日【18443】「連接車7」で準特急先輩が「東急デハ205」を紹介されており重複する部分があるが、当時玉川線に在籍していた他形式と併せて紹介する。
同線の撮影は、DRFC入会直前の昭和41年3月11日と現役時代の43年9月7日の2回で、その他に上野発夜行列車に乗るまでの時間潰し乗車が2回ある。
41年3月は渋谷駅の乗場が判らず、溝の口行の東急バスに乗り、適当に降りたところが三宿であった。ここで暫く撮影後電車で二子玉川まで行き渋谷に戻った。
朝のラッシュ時が過ぎていたため電車は全部単行で目的のデハ200形は走っていなかったが、30形から40形に改造したデハ52が撮影できたので満足した。
43年9月は前回の経験から朝のラッシュ時間帯に行ったため、デハ202と204の2編成と30形等他形式の連結運転を撮影した。
デハ200形(201~206)
昭和30年東急車両で201~206の6編成が新製された。当時としては画期的な超低床構造の車体で、中空軸平行カルダン駆動、HSC-Dブレーキ、応荷重装置等最新の設備を備えた高性能車両であった。関 三平氏も記述されておられる通り、先進過ぎた装備が仇になり、44年5月10日玉川線廃止時に廃車となり、デハ204のみ「電車とバスの博物館」に保存、展示されている。
富山、高岡、岡山の新型車がデハ200に似ていると思うのは私だけだろうか。
デハ202/(43-9-7) 大橋
デハ204/(43-9-7) 大橋
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新京阪デイ100と阪和モヨ100
保存蒸機とその現役時代(3)
東海道本線や京浜東北の電車に乗り東京に向かう時に大森駅の少し手前進行右側にC5766が保存されているのが見える。東京には案外多くの保存蒸機があるが、電車から直接見ることができるのはここと新橋のC11292くらいではなかろうか。場所は大森駅から蒲田より徒歩7分くらいのところにある入新井西児童公園という小さな公園である。66号機は1938年川崎製で門司港、大分、宮崎等九州で活躍した機関車であり、縁のない東京に保存されているのは不思議である。スタイルは標準的で九州の機関車に多い門鉄デフ装備ではない。C5766は思い出のある機関車なので一度撮ってやろうと思いながら結局実現したのは今年(2013年)1月9日のことであった。↓
その思い出というのは1972年4月末から5月初旬にかけてKAWANAKAさんのスカイラインでロギング太郎さんと3人で九州旅行をした時、最も多く撮影したのがC57であり、中でもこのC5766は接した時間が一番長い機関車であったからである。撮影したのは5月2日でまず国分付近の貨物列車を牽引する66号機を併走して8ミリで撮影した。残念ながらその後湿気でアウトになってしまった。次に霧島神宮駅に休息中の姿をコダックのネガカラーで撮影したがかろうじて色が残っていたのでそれを現役時代の姿とした。それにしても凄い色の煙である。下2枚がそれである。↓
霧島越えというのがあるのかどうか知らないが、国分~霧島神宮間をあえぎながら登る上り貨物列車牽引中のC5766[宮崎]↓
『雨も撮る』に寄せて-加太、大井川編-
今年の梅雨は空梅雨でしょうか。梅雨入り宣言を聞いた途端、晴れの日が続いています。
総本家青信号編集特派員さんによる、この時期ぴったしの記事『雨も撮る』に刺激を受け、真似しで、加太会などの写真を引っ張り出しました。題名を拝借して寄稿します。
地形の関係からか、曇りや雨の日が多かったのが加太です。快晴の記憶や青空の写真はほとんど残っていません。以下の記事も1966年夏から秋にかけて3回連続で雨の中、『恒例加太会』催行の一部です。
▼1966年5月22日、朝から雨です。それでも早朝の列車を撮るべく、朝食前に村田屋から駅まで片道20分を歩き、撮影しました。時刻は7時44分、722レ、機C57145【亀】。雨に洗われて機関車と客車の埃や汚れが洗い落とされたせいか、そして『カラスの濡れ羽色』か黒色が綺麗に見え、雨の日の特典に預かります。肉眼では木々の緑も鮮やかに感じます。一方、後方の山々は低い雲に隠されてしまいます。 撮影機は二眼レフのリコーフレックスでした。普段でも撮影し難い二眼レフをしかも雨の日に。▼その二眼レフで、雨中に722レを見送りました。この列車、草津を6時10分に出発。柘植・亀山・多気経由和歌山着21時34分。延々15時間24分の長距離列車。1966年3月25日の時刻改正から登場しました。わざわざこの列車に乗り込み、車内で撮影した写真を、しかも2枚も第1回のDRFC写真展『鉄路輝く』に出展した御仁がいました。タイトルは『普通列車』と『無題』です。早朝から一日同じ車内で、見知らぬ乗客の姿を窺っていたようです。当HPの、クローバー会/リンク/クローバー会写真展から、第1回写真展画像をご覧ください。なお現在、第2回目までの出品作がweb展示されています。
▼村田屋に戻り朝食後も、話が弾み雨を口実に誰も外出しません。邪魔草そうに村田屋の2階、物干し台からやっと一枚、電柱や電線があろうがお構いなし。。煙は高く上がらず列車にまとわりつきます。風向き次第では絵にならないこともあります。 続きを読む
保存蒸機とその現役時代(2)
前回の保存蒸機とその現役時代(1)のD51重連2両目のD51201も保存対象機であった。高山から中津川に転属して中央西線で最後の活躍をした山国育ちの機関車であるが今は海辺に保存されている。場所はJR・名鉄蒲郡駅から海に向かいやや南西方向へ10分程歩いた蒲郡市博物館でオハフ332424とともに展示されている。2012.12.26↓
D51は民間会社のほか国鉄工場でも228両(大宮30、浜松70、鷹取58、小倉30、長野9、土崎9、郡山10、苗穂12)製造された。D51201は鉄道省濱松工場昭和13年製造とある。↓
前回と同じ贄川付近を単機で上るD51201[中津川]。1973.1.15↓
東京にも以前撮ったD51272が保存されていた。場所は東急田園都市線三軒茶屋駅と同東横線祐天寺駅の中間にある世田谷公園で徒歩30分くらいかかる。こD51272は昭和14年度川崎車両製で門鉄デフを装備しているので九州育ちである。2012.11.28↓
1963.3.28 熊本駅および同機関区周辺で大型旅客用蒸機C59、C60、C61等を撮影中、駅の博多よりからD51の貨物列車が入ってきた。よく見ると門鉄デフで貴重品を撮れたような気がして嬉しかったことを覚えている。高校生のピンボケ写真をお許し願いたい。↓
大阪市電が走る?
6月8日は阪堺【路面電車の日】であった。どですかでん氏と阪堺電車我孫子道にある車庫で15時に待ち合わせる事になった。その理由は彼が語るとして、2年前の手術後、総本家氏が阪堺沿線で撮影会をするから参加しないかとの誘いがあった。それに乗って久しぶりに車庫に出向いた。今回はどですかでん氏の情報に乗り、まず浜寺公園駅へと、恵美須町から352号で懐かしいモ101型のモーター磁気騒音に耳を傾けた。我孫子道を出て工場建屋横から大和川橋梁への勾配に向け全力を挙げた時、ふと留置線を見ると大阪市電3001型の装いをまとった顔が見えた。
浜寺に向ったのは2年前、駅高架化の工事予告が掲示されていたからで、その後の進展は如何なりやと、確認のためであった。しかし、折り返し車庫に戻る事にした。大阪市電が留置されている、何事ぞ!と思ったからである。車庫に到着するや日本路面電車同好会関西支部のテントに向った。久しぶりの顔があった。「大阪市電色が見えたがどないしたんや?、まさか大阪市長がスポンサーになったんとちゃうやろなぁー?」。返ってきた返事は351型が走り出した50年記念で、大阪市交通局の協力を得て外部塗色を復元したのだとか。留置位置には354号が懐かしい装いとなっていた。
南霞町駅から東へ徒歩三分、じゃんじゃん横丁入口、パチンコ屋の地下、居酒屋【大吉】が2次会会場である。ここで知ったのはその354号を貸し切り電車に仕立てると言う。その日は6月15日(土)午後だとのこと。以前256(元京都市電)号、125(元大阪市電)号を有志で借切って、お別れ運転をした。今回は駄目だ。ボランティア先の年次総会当日で、老人はそこで【サヨナラ挨拶】をすることになっている。今回のオーナーである工藤さんから当日の計画を知らされた。それでは回送で我孫子道14:00頃出庫、浜寺駅前14:30頃着、折り返し貸切(乗車)となり我孫子道15:10頃着。入庫して撮影会の後、我孫子道15:50頃貸切で発、恵美須町16:10頃着。折り返し16:20頃発、我孫子道16:40頃着、入庫。我孫子道17:00発、浜寺着17:30頃着で下車となり、これで貸切運行は終わる。参加費は3000円を目途にしているとの事。詳しくは工藤さんに直接メールでkudoh-miyanoshita@flute.ocn.ne.jp問い合わせると分かる。電話は090 5969 1058です。残念ながら上町筋には今回出てこない。
保存蒸機とその現役時代(1)
2010年8月26日、残暑厳しい木曽福島でホーム横にD51775が保存されているのを見て1枚だけシャッターを切ったのがこれ。あとで調べてみると現役時代の同機を撮影していることがわかった。その後いろいろ調べてみると全国各地で結構な数の蒸気機関車が解体されずに保存されていることを知った。皆さんも旅の途中どこかの駅前、公園、学校等に保存されている姿を目にしたことが一度や二度ではないと思う。それなら全国で保存されているのを片っ端から撮ってやろうと思い、最近撮影を始めた。こういう鉄道趣味のジャンルでは元大洋、巨人で俊足好打で鳴らした屋鋪要選手が有名であるが、私の場合は特に現役時代に撮ったものと比較掲載をしてみたい。D51775号は1942年度汽車製造会社製である。
D51は大きく分けてナメクジドームの初期形、標準形、戦時形に分けられ、標準形が圧倒的に多い。この775号機も標準形であるが、煙突がやや短い。C57にも煙突の短いのを見かけたが、多分、下3枚の現役時代の写真に見られる集煙装置をつけた影響ではないかと思う。
2010.8.26 中央本線木曽福島 D51775ゆかりの地の保存である↓
糸魚川時代のD51775
DRFC同期生のSさん、Tさんに見送られ夜行で北陸・信州に向かった。翌朝、筒石で下車。この時の日誌には「D50、C57を期待したが、C57は1回来ただけ、D50は休車状態。殆んどがD51でうんざりした。雪も期待したが冬の日本海の冷たい風に悩まされ早々と切り上げる。」とある。1966.2.12北陸本線筒石付近 直江津8時16分発236列車米原行き20分遅れで通過。因みにこの列車の米原到着予定時刻は18時14分である。↓
中央本線(西線)重連仕業
1973.1.21中央本線贄川付近を下るD51775[木曽福島]+D51201[中津川]↓
1973.1.21 中央西線贄川付近を上る上り貨物D51775[木曽福島]+D51201[中津川] この日は大糸線の旧型国電を撮った後現地入り。既に客車列車はDD51が牽引し、蒸機も晩年の姿であった。直ぐ上の写真と同じカマなので塩尻で折り返してきたのだろうか。冬は日が暮れるのが早く、駅に向かう途中で撮ったものと思われる。2台目の機関車は斜め光線を受けてつぶれている。↓
「JRおおみや鉄道ふれあいフェア」と「神奈川臨海鉄道/創立50周年記念イベント」
5月25日(土曜日)に大宮総合車両センターで「JRおおみや鉄道ふれあいフェア」が、翌26日(日曜日)に神奈川臨海鉄道横浜本牧駅で「創立50周年記念イベント」が開催され、両方を覗いてみたので報告する。
「JRおおみや鉄道ふれあいフェア」
当初行く予定はなかったが、午前中時間が空いていたのと、2度と見られないと思っていた107系0番代が展示されるので急遽出掛けた。
展示車両はEF5893、EF8036、EF81133、EF651115、EF60510、DE101539、クモハ107-4+クハ106-4、その他検査中の真岡鉄道C11325を見ることができた。展示状況は写真の通りである。
EF5893/かつては大人気であったEF58も時代の流れとともに凋落した。EF58の現役時代を知る人口が減ったからであろう。今回は架線のない場所に展示され、他の展示電機とは明らかに差を付けられていた。
EF8036/かつての常磐線の主力機関車である。この機関車は昭和37年日立製作所製である。61年までに全機廃車になったためJRに引継がれた車両はないが36と碓氷峠鉄道文化村に63が保存されている。
EF81133/田端運転所には80、81、95、97、98、133の5両が配置されているが定期運用はない。133は昭和51年9月日立製作所製で、新製後38年経過している。
EF651115/田端運転所には1102~1107、1115、1118の8両が配置されているが定期運用はない。133は昭和53年8月川崎重工製で、新製後36年経過している。
EF60510/昭和38年11月川崎重工製、61年2月高崎第2機関区で廃車後、大宮工場で保存。パンタを上げての展示は嬉しかった。
以前は機関車を適当に並べているだけの感があったが、最近はある程度撮影者にも配慮しているようである。
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大阪市電3001形
3014と3008/市電最終日(昭和44年3月31日) 都島車庫前
湯口先輩、今出川浄福寺氏が述べておられる通り、故Y先輩を抜きにして大阪市電3001形は語れない。
Y先輩ご逝去後発刊された著書「第二すかたん列車」(昭和62年12月日本経済評論社発刊)の「大阪すかたん電車/3001形バンザイ」で「乗り心地のよいこと、静かなことは天下一品で、海外で何度も乗ったPCC、DUWAG、LRV等の高性能の市電よりも勝っていると感じるのは決してヒイキ目で見ているわけではなく、厳然たる事実である。20年前(現在に直すと58年前)にすでにこんなすばらしい電車が出来ていたのに、その後、我が国では市電を冷遇してしまったのでアカンようになった。近頃、軽快電車が脚光を浴びて登場したが、『今頃、何を言うとおんねん』ということになる。」
と記されておられるが、全くその通りである。
都電の最新鋭8800形も決して悪くはないが、3001形の滑るような走りと比べるとツーランクくらい落ちる。
また、他の都市では縮小過程の中で、高性能車は保守に手間がかかるという理由で、早々と姿を消したところが多かったが、市電最終日(昭和44年3月31日)まで活躍したことも特筆される。
イラストのZパンタを「?」と思ったが、3001~3005は登場時の僅かな期間装備していたことが判明した。
米手作市氏が書かれている米国旗と日章旗の件について、Zパンタと共に気なったので調べてみたところ、昭和32年10月7日大阪市とサンフランシスコ市が姉妹都市協定を締結しており、それを記念して両国の国旗が掲げられたのであろう。そういえば「交通科学館」にサンフランシスコ市が大阪市に寄贈されたケーブルカーがあった(今もあるかも)ことを覚えておられる方も多いと思う。
ラストナンバーの3050が、緑木町検車区内の市電保存館に保存され、特定日に一般公開されている。
3004/ (41-3-17) 長柄橋
玉電デハ200型
外国製コミニュティバスによせて ザルツブルグ(オーストリア)のバス
特派員さん記事の大阪の赤バスに似たバスをザルツブルグ(オーストリア)で見かけましたので 紹介させていただきたいと思います。また藤本さんが紹介された国内でのコミニュティーバスが各地にあったことも知り 本場ドイツ、オーストリアあたりでもっとあったのではと思いつつご覧ください。またザルツブルグでいろいろな乗り物に出会いましたのであわせて紹介させていただきます。
モーツアルトの生家を見学し教会を見た後 歩いているときれいなバスに会いました。
右側通行に慣れず ドア側と思いついこちらを写してしまいます。
右側面には 大きなドアが付いています。
きれいなカラーリングのデザインです。ドア位置は違いますが 大阪のバスに似ています。
その後歩いていると救急車が走ってきました。
先ほどのバスに似ています。ライトまわりフロントなど そっくりですね?
ザルツブルグではトロリーバスがたくさん走っていました。この写真にも架線が写っています。
「『なにわ』の赤バス消える」によせて/他の都市の外国製コミュニティバス
特派員さんより3月31日から4回に亘り大阪市の赤バス廃止に関する投稿があったが、廃止に至った要因は、①乗客が予想外に少なかった。=乗客のニーズに合った運行ルートではなかった。②車両が外国製のため予想外にメンテナンスに費用と時間がかかった。=修繕費が高額になり、かつ車両の稼働率が低かった。ということではないだろうか。
他の都市でも外国製を導入したところは、ことごとく国産車に置換えられ、現存車は恐らくないと思われる。
他の都市の事例を知る範囲で紹介する。
浜松市
中心部の活性化を目的に平成14年4月から「く・る・る」の愛称で運行を開始した。運行は遠州鉄道に委託している。当初は大阪市と同じ「マルチライダー」を使用していたが、僅か6年足らずで国産車(日野ポンチョ)に置換えられた。
浜松200あ 19/(14-6-24) 浜松駅前
浜松200あ 20/(14-6-24) 浜松駅前
浜松230あ3032/(14-6-24) 浜松駅前
金沢市
市内の公共交通機関空白地域の足の確保のため、「金沢ふらっとバス」の愛称で、平成11年3月から運行開始した。(北陸鉄道に委託)
車両は、オーストリアの車体メーカー、クセニッツ社製で、エンジンはフォルクスワーゲン製を搭載した。平成20年にポンチョに置換えられた。
石川22う293/ (13-3-26) 金沢駅前
名古屋市電800形
本題については、湯口先輩が詳しく解説されており、更に今出川浄福寺氏が乗車記を書かれておられるので写真のみとする。ワンマン化が早かったため、ツーマン時代に乗車されたということは、昭和39~40年頃であろう。
本文に出てくる1800、1900、2000形についても判る範囲で解説するが、名古屋に住んでおられた方から補足のコメントをいただけると有難い。
800形
昭和31年に801・802、32年に803~807、33年に808~812が新製され、港車庫に配置された。41年にワンマン改造され、44年2月20日港車庫及び担当系統廃止により全車両廃車になった。
810/(41-9-1) 築地口
1800形
昭和28年9~10月に1801~1815が、29年10月に1821~1830が新製された。局内では前車をA車、後車をB車と呼んでいた。
1815を除き吊掛式ながら、間接自動制御、セルフラップの電空併用ブレーキを持つ高性能車で「無音電車」(1815を含む)と呼ばれた。
1815は、地下鉄東山線の車両のデータを得るため、直角カルダン駆動が採用され、1801~1814とは異なるため、29年7月1900形1901に改番された。
A車は路線縮小に伴いワンマン改造されることなく46年に廃車、B車は44年にワンマン改造されたが、47年3月浄心、稲葉地車庫及び担当系統廃止により廃車された。
1807/ (43-8-29) 笹島町
A車はワンマン改造されることなく廃車された。
台車は従輪にドラムブレーキ付の住友FS60を履いていた。
1814が豊田市交通公園で保存されている。
1823/ (41-9-1) 名古屋駅前
B車のツーマン時代で、扉は前後が通常の乗降口、中央は乗車専用であった。台車は両軸ドラムブレーキ付の住友FS61を履いていた。
1824/ (46-5-26) 名古屋駅前
ワンマン改造後で、前扉が乗車口、中扉が降車口、後扉が締切となった。京都市電のような扉位置改造工事をすることなく、3扉を有効に活用してワンマン化された。
1900形
1901の改良車として29年12月から30年12月に1902~1922が新製された。
間接自動制御、直角カルダン駆動の高性能車で、足回りをスカートで覆った独特のスタイルであった。
41年から43年にかけてワンマン改造され、路線廃止により徐々に廃車されていったが、1910~1915の6両は市電全廃1カ月前の49年2月16日沢上車庫廃止による担当路線廃止時まで活躍した。
1918 /(41-9-1) ツーマン時代 名古屋駅前
1903/(46-7-25) ワンマン改造後 沢上町
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台湾一周駆け足旅行(5)
3月25日 台北⇒三貂嶺⇒台北⇒MRT⇒台北松山⇒東京羽田
最終日はまず地上時代の台北中華商場付近に昔の撮影地点の痕跡を求めて歩いた。台北~萬華間の台北駅手前で現在の中華路一段のあたりに撮影した場所があったと思われる。台北駅を出た列車は直ぐに左へカーブして直線区間を萬華に向けて走行していた。特にディーゼル機関車のバリバリと大きな音をたてて走行する姿が印象的であった。ここでも付近の古老に確認をとり、間違いないと言われたあたりの新旧対比写真である。
1968.3.19 台北駅を昼頃に出発し、左カーブにさしかかる米国GM製S316牽引列車。↓
2013.3.25 台北駅前の忠孝西路一段から左へカーブして中華路一段に入るあたり。近くには台北府城北門(承恩門)がある。右手徒歩5分に現在の台北駅がある。↓
1968.3.25 当時の台北の代表的な鉄道風景である中華商場付近を行く2002車次海線経由光華号DR2700形6連。 高雄7時15分発で途中台南、彰化のみに停車して台北に12時に到着する。この日は雨であった。↓
2013.3.25中華商場のあったあたりで現在の中華路一段 45年前と同一日の撮影↓
大阪市電3001型
名古屋市電800型
台湾一周駆け足旅行(4)
台湾今昔日記さぼっておりましたが、今回とあと1回ご辛抱下さい。
<3月24日> 台北⇒高鉄台中(新烏日)⇒台中⇒高鉄(新烏日)⇒板橋⇒山佳⇒桃園⇒台北
この日からは単独行動である。今回の旅行の初日(3月20日)は台中駅だけの撮影であったので台中駅から南下した烏日方面で昔(1968年3月)撮影した場所が気になり、再度高鉄で台中に向かった。線路に沿った大きな道路を歩き始めたが、やはり風景が激変している。雨が降ってきたこともあり、諦め気分になってきた。途中で自家用車に乗り込もうとする私の半分くらいの年齢の人に例によって古い写真を見せた。英語がよくできる人で車で2~3分走った盛土上の線路に登る小道を案内してくれた。単なる線路への小道であった。この場所で1~2枚撮るには撮ったが、私の意図した場所ではないので完全に諦めることにした。御礼を申し上げたがこの人はお医者さんであった。台中と烏日の間には大慶という駅ができており、単線が複線化され、さらに高架化工事中であるため、場所がわからなくなっていることは再三述べた。唯一カーブしている場所を電車から撮影してみた。その場所が多分当時の観光号を撮影した場所であろうとして古い写真と比べてみたが、何れにしても長い年月を経たことだけは事実である。
2013.3.24 大慶付近 南下する韓国大宇製区間電車500系の先に左カーブが見える↓
1968.3.23 台中~烏日 米国GM製R63牽引2車次高雄発台北行き観光号 上の写真奥にあるカーブがこの場所ではないかと思われる。↓
1968.3.23 台中~烏日 R12牽引77車次基隆発彰化行き 日本製で12両在籍。日本国鉄でDF91という試作車で登場。調子がよくなくローカル列車を担当していた。↓
1968.3.24台中~烏日 北上貨物牽引DT681 DT650(D51)形は37両在籍した。このDT681はテンダーが船底型で所謂戦時設計スタイルである。↓
台中での新旧対比撮影を早々と諦め再び高鉄で台北の一つ手前の板橋に向かった。ここは台鉄、高鉄ともに地下化されており、台中以上に対比撮影が無理なことはわかっていた。何か昔の痕跡でも発見できないかと下車したが、これまた無理であった。現在の板橋駅の駅ビルと昔の板橋駅を見比べていただきたい。当時、ここで私は記念に人力車を運転する私自身と突然現れた蛇を撮影している。とても考えられない板橋付近の現在の姿である。