都電5500形

関 三平氏の「昭和の電車」は、小田急SE車、近鉄ビスカー、名鉄パノラマカーと続いたので、次は東武の1720系あたりかと予想していたところ、都電5500形であった。
ちなみに今週は名古屋市電800形で、暫く路面電車の高性能車が続くのだろうか。

5500形は5501~5507の7両在籍したが、関 三平氏、乙訓の長老が書かれておられる通り本物のPCCは、WH社のパテントを買って作られた5501のみで、他の6両は国産の技術で作られたWN駆動、間接自動制御の高性能車である。
昭和28年頃PCCの研究のためアメリカからGEタイプとWHタイプ各1両輸入する予定にしていたところ、国産技術で製作可能という意見があったため輸入を取り止め国産することになった。

交通局ではPCCとは別に、WN駆動の高性能車の研究を進めており、27年度製の6000形のラストナンバーを試作車として車体を日本車輌、電機部品を三菱、台車を住友に発注したが、電機部品、台車は先に完成し、車体の完成が遅れていた。

一方PCCの方は部品の製作に時間がかかり、こちらも完成が遅れていた。交通局では広報活動で新型車の導入を告知していたため、完成を遅らせる訳にはいかず、ナニワ工機で急遽新型車と同じ車体を新製し、車体の完成が遅れていた純国産の高性能試作車の足回りを組み合わせて28年11月に完成させたのが、5502である。

5501は半年後の29年5月に完成したが、機器が特殊であることと、コントローラーが足踏式と従来の車両とは取扱が大幅に異なるため稼働率は低かったが、35年7月入場時に通常のものと取替えられた。

純国産の高性能車は車体が完成したものの足回りを5502に取られてしまったため、同じものを改めて新製して29年2月に完成したのが6501である。
車体のサイズは6000形と同じであるが、スタイルは正面2枚窓となり足回りが大幅に変わったため新形式になった。

30年11月から12月にかけて5502をベースにした5503~5507の5両増備され、1系統品川駅~上野駅間で使用された。
42年12月9日、第一次撤去に伴う1系統廃止時に全車廃車になり、この時6501も同時に廃車になった。

5501は解体を免れ、当初上野公園で保存されていたが、屋外展示のため荒廃が進み、平成2年荒川車庫に移された。平成19年5月荒川車庫の隣に作られた「都電おもいで広場」に移され、土、日、祝日に一般公開されている。
車内はギャラリーとして使用するため座席は撤去されているが、片方(道路側)の運転台は登場時のペダル式に復元されている。

「都電おもいで広場」に保存されている5501/ (20-9-27)
平成20年9月29日【345】「都電荒川線の日」記念イベントで使用した画像を再掲する。
5501

復元された運転台/右からアクセル、ブレーキ、デットマンペダルと並ぶ。
5001(運転台)

ナニワ工機の銘板
5501(銘板)

  説明板
都電5501説明板

高輪北町~品川駅前間を走行する5504/ (42-3-26)
5504 42-3-26

品川駅前に到着した5506 / (42-3-26)
5506-2 42-3-26

銀座2丁目~京橋間を走行する6501/ 諸川 久氏撮影 (39-1-1)
東京都交通局が独自に開発したWN駆動、間接自動制御の高性能車。車体完成時に先に完成した足回りを5502に取られたため、改めて足回りを新製した。
車体のサイズは6000形と同じである。
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都電5500形が完成した昭和30年前後は、戦後の路面電車の最盛期で、各都市では盛んに高性能車の研究が進められていた。
直角カルダン駆動、間接自動制御の大阪市電3001形、神戸市電1151形もほぼ同時期に登場している。京都市電は間接自動制御であったが駆動方式は従来の吊掛式であった。

6501の画像を解説する上で、どうしても掲載したく、諸川 久氏にご相談申し上げた処、快く貴重な画像をご提供いただいた。厚く御礼申し上げる。

流鉄流山線「なのはな」撮影記

流鉄のレポートが藤本氏から出たが、その中で小生の撮影記が出るであろうと書かれていた。精々、コメントくらいにしようと思っていたし、藤本氏が殆ど情報をカバーされているので最早出る幕がない、と思ったが、久し振りなので少しばかりHPを汚してみようと思う。

デカンショ祭り号さんが、出没すると公言されていたので、ひょっとすると、同行歩かねばならないかと思ったが、流山線はロケ範囲が限られているので大したことない、ロケ自体は楽かも。そこでもうすぐ無くなるのではないかと思う京成シティライナーをキャッチしてから行くことにしました。
で、小生は車重が重くなった後遺症で、ばねが痛んでおり、あまり遠距離・高速移動はできないので、のんびり撮影しながら流山まで歩いていこうと、鰭ヶ崎から撮影がてら移動をしていました。最終日は大勢の同業者がそこかしこに溢れており、どこを撮っても同じ。仕方ないので同業者を避け鰭ヶ崎の先、流山よりの陸橋の下の柵の隙間から両手でカメラを思い切り差し出して、1枚ゲット。もう少し広角があれば良かったのですが・・・。

P1690440M

そのころ藤本氏、デカンショ祭り号氏、新所沢都民氏が線路反対側の近くに居ようとは想像だにしていませんでした。目指す流山方面に移動するには線路の反対に渡らねばなりませんが、渡るには陸橋があるだけです。しかもその陸橋には歩行者用の階段がなく遥か離れた自動車専用の車線まで移動しないといけない欠陥陸橋でありました。上り下りと大回りして途中で休憩、そのときに来た流星(後追い)を1枚。線路沿いに同業者がいます。

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陸橋を越えて線路脇を場所を求めて歩いていると、3人にばったり。これから流山に行く積もりとの小生の予定を無視して、皆さん反対の鰭ヶ崎・小金城址方面に行くという。また、人の希望とは関係なく移動するようでありましたが、折角なので、さっき越えた陸橋を超えて同行することにしました。合流時、場所もパッとせず、やけくそで撮った1枚。こんな写真も意外とよろしいかと。

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あっという間に最終列車の時刻になり、哀別+惜別の表示が哀別+最終になって、2カット終了。そのときには同じようにヘッドマークをつけていた流星号のヘッドマークは既に外されておりました。

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というわけで、ばねが痛んでいる小生としては、2回陸橋を超えてのロケとなりました。来る前に京成も歩いたのであ~疲れたという1日でした。
また、行こう。

三陸鉄道 北リアス線

4月1日からのNHK朝ドラで有名になった久慈駅と三陸鉄道北リアス線の車両達です。ご覧ください。

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夕方の三陸鉄道 久慈駅の外観です。隣のJR久慈駅は工事中でした。

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内部です。ドラマに出てくるセットとそっくりです。(セットがこれとそっくりと言うべきでしょうか) 大きなポスターが貼られています。このポスターが町中に貼られ 「あまちゃん」人気が盛り上がっています。

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八戸線のキハ40 524+キハ48 1508+キハ40 551の3連を受けて久慈18:15で田野畑へ出発した916D キハ36-202です。
今年は桜の開花も遅かったようで ちょうどチューリップが満開でした。

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駅の先の車庫にはキハ36-207と36-602+36-601 36-208が留置されています。
キハ36-207はドラマに出演した車両だそうです。

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915Dで18:54到着、918Dで19:25発 田野畑行きのキハ36-101です。
三陸応援メッセージが書かれています。

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久慈駅を発車し車庫の横を抜けた所の鉄橋を渡り 次の駅 陸中宇部へ向かうキハ36-101です。

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駅のホームの横に留置されていた キハ36-1107です。いい顔ですね。

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三日月とキハ36-1107 キハ36-1103 旧色に戻されたJRキハ40 590です。

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夜の久慈駅に佇む JR八戸線 キハ40 551+キハ40 590+キハ48 1548の3連です。
当時はあまり興味の無かった色ですが、JR後さまざまな色になったキハ40系も今となればこの色が一番似合うなと 最近思うようになりました。

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翌5月17日の朝 久慈5:26発田野畑行き902Dのキハ36-202+36-101+36-207 (田野畑側)です。前2両は幌で結ばれています。

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先ほどの後ろ1両 キハ36-202が普代で切り離され久慈6:39到着の901Dで戻ってきました。
そろそろ新緑がきれいです。

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折り返し久慈6:55発904Dのキハ36-202に乗り田野畑へ向かいました。
トンネルを抜けた野田玉川駅で 903D キハ36-101+36-207の2連と行き違いです。

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このころ乗っていたのは 運転席の後ろに山形から来られた孫連れのご夫婦と地元の男の子と私、客席に女性一名の6名でした。久慈発車時満員だった高校生は陸中野田駅で降りてしまいましたので。

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途中 堀内駅でのスナップです。先ほどのご夫婦のリクエストで30秒+αの停車での撮影会でした。きれいな海です。

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田野畑駅に7:38到着です。この先2駅間は来春開通だそうで それまではバス連絡です。
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小本行きの岩手県北バスです。

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立派な小本駅です。キハ36-101と同じように応援メッセージが書かれています。中で応援グッズも売られていました。かわいいキティちゃん付きのキハのストラップを買ってきました。

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駅の応援メッセージです。手書きできれいに書かれていました。

8:10発のバスに乗り小本へ向かいました。乗客は10数名です。

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間もなく小本駅、8:40に着きます。右が宮古方面です。pict-三陸18
小本 8:50発の804D キハ36-109です。久慈方のトンネル入り口にキハとラッセル車が止まっていました。小本、宮古間は車庫もなく整備はここで行っているのでしょうか?
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9:23に宮古到着です。
増結予定のキハ36-102が待っていました。

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9:31にJR宮古駅から山田線上り盛岡行の快速が発車していきました。

pict-三陸20
三陸鉄道 宮古駅です。
以上 三陸鉄道北リアス線でした。途中に見えたきれいな海、一部の新しい線路、運転手や駅の人たちの頑張りと明るい笑顔が印象的でした。また機会があれば訪ねたいと思っています。
犬伏

 

流鉄流山線「なの花」さようなら運転

4-28 流山発車
流山駅発車

流鉄の「なの花」編成(クモハ2005+クモハ2006)が4月28日「さようなら運転」を最後に引退した。同編成は平成9年3月、西武鉄道701系の757編成を購入したもので、入線に当りクハ1757-モハ757-モハ758-クハ1758の4両編成を、クハ1757とクハ1758の運転台部分をモハ757とモハ758に接合して2両編成に改造する工事を実施している。

当日は流山発9時発から10往復し、馬橋発14時45分、流山15時7分着の列車がラストランとなった。流山発11時15分の列車からは、西武鉄道の急行「奥武蔵号」風のヘッドマークが取付けられ引退に花を添えた。

当日は当会会員4名が「なの花」の最後の雄姿を撮影するべく訪れたのでその時の模様等も含めて報告する。

前日の27日、「なの花」が運用されることが判っていたので午前中で出掛けたところ、「流星」(クモハ5102+クモハ5002)と共に運用に就いていた。
幸谷から平和台まで撮影しながら歩いたが、同業者は少なく10人位であった。
「なの花」はいつも通りの表情で走行していた。

    幸谷~小金城址間を走行(上は常磐線と武蔵野線の連絡線)
4-27 なの花1

  小金城址駅での「流星」との交換
4-27小金城址交換

小金城址駅を発車した流星
4-27 流星

最終日28日、でかんしょ祭り号さんが出掛けられると聞いていたので合流した。
新松戸駅から幸谷駅に行くと程なく窓上に「惜別」の表示がされた馬橋行の「なの花」が来た。
折返してきた「なの花」に乗り、流山駅の歩道橋上で、でかんしょ祭り号さんと合流した。
ヘッドマークの取付け風景を撮影後、平和台駅の踏切に移動。しばらく撮影後、次の鰭ヶ崎駅寄りの複線分用地の場所に移動、ここで新所沢都民さんと合流した。

世間話等をしながら撮影していると、鰭ヶ崎方向からKawanakaさんが来られた。
総勢4名となり賑やかに陸橋の上や鰭ヶ崎寄りの半切通しで撮影していると、早くも「なの花」の最終列車の時刻になり、次の小金城址駅との間で撮影した。
その後幸谷駅まで電車で移動して大反省会が開催されたが、私は野暮用のためここで失礼した。
当日の模様は、後日Kawanakaさんが、ご自身が撮影された画像と共に報告されるかも知れない。
また、この日のランニングメイトは、27日と同じ「流星」で、こちらにもヘッドマークが取付けられた。

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都電5500型

PCCカー・5500型に腹違いの兄弟があるとはしらなんだ。京都市電では900型や700型が出る時期で、はるか東京のPCCカーなるものは変な形で900型の方が断じてカッコええ!と思った程度の知識でした。具体的にはどんな電車だったのでしょうかね?都電5500型_NEW都電5500型(文)_NEW

かぎろひ

連休最終日に横浜方面へ出掛ける機会があり、その一日を藤本・INUBUSE両氏の案内で横浜近郊のJR・私鉄を体験してきました。新子安を皮切りに池上線、多摩川線、東横線、京急本線と多種に亘る車両を1日ではありましたが撮ることが出来ました。特に東横線、京急では関西では経験できない、一つの路線上をメトロをはじめ多くの会社の車両が走り回る様を目の当たりに(行き先を見ても想像がつかない)したり、伊賀線の兄弟達にも会えたりと充実した1日でした。両氏には1日時間を取っていただいて、この場をお借りしてお礼申します。写真は整理しています(正直なところ車両/鉄道会社名の区別がまだ付いていません)。さて、今回は横浜に出掛ける当日名張で偶然に出くわした「クラブツーリズムのかぎろひ」を紹介します。団体専用貸切車として12200を改造したものです。かぎろひ1かぎろひ2

岳南電車の現況

クモハ7003走行-2
吉原~ジャトコ前間を走行するモハ7003

4月9日「青春18」の消化を兼ねて、昨年3月16日貨物営業廃止以降、話題性が薄くなった「岳南鉄道」改め「岳南電車」を訪れた。

今年4月1日「岳南鉄道」の鉄道部門が分社して「岳南電車」が設立され、親会社の「岳南鉄道」は、不動産事業、ゴルフ場事業、物品販売事業を行い、鉄道事業は子会社の岳南電車が行うことになった。背景には貨物営業廃止による減収により経営環境の悪化があげられる。
沿線自治体の富士市は、2014年度までの公的支援を表明しているが、以降のついては不透明である。

東京駅9時15分発の快速熱海行に乗車、熱海で静岡行の待合せが24分あり、駅前に保存されている「へっつい」を見に行くと以前と向きが変わっていた。
熱海へっつい
静岡行は211系3連と313系2連の5両編成であった。東海道本線の静岡地区のローカルはオールロングシートで211系にはトイレがなく長距離を利用する場合は注意が必要である。
211系

吉原での岳南電車との接続は6分であった。平日用の1日乗車券を購入、値段は700円で岳南江尾までの往復運賃と同額である。休日は400円で更に安い。停車中のモハ7003に乗ると乗客は20人程で、平日のためビジネスマンの姿も結構あった。車庫のある岳南富士岡でED501が見えたので降りて撮影した。パンタが2挺とも上がっており通電されていた。後にはワム380128、ワム380411、ED403、ED291の順に連結されていた。

隣にはデハ7001がパンタを上げて停車、車庫の中ではED403が検査中でこちらもパンタが上がっていた。次の電車(モハ7002)で岳南江尾に向かったが5名程の乗客が降りると一瞬車内はゼロになり私一人の貸切状態であった。次の須津、神谷の駅周辺にはそこそこ住宅が立ち並んでいるが電車の利用には繋がっていないのであろう。新幹線を潜ると直ぐ岳南江尾に到着した。ホームの反対側にはラッシュ時に使用されるモハ8001+クハ8101が停まっていた。帰りはジャトコ前で降りて富士山をバックに撮影後帰宅した。

【現 況】
〔電 車〕

モハ7000形3両、モハ8000形1両、クハ8100形1両の計5両在籍する。
モハ7000形(7001~7003)
元京王井の頭線の3000系の中間車デハ3100形を京王重機整備で両運転台付に改造した。旧車号、改造年月は次の通りである。
京王デハ3103→モハ7001(平成8年12月)、デハ3101→モハ7002(平成9年9月)、デハ3102→モハ7003(平成9年9月)
モハ7002とモハ7003は総括制御が可能であるが、モハ7001は単行運転しかできない。

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大阪市営地下鉄、半世紀前

大阪地下鉄開業80周年イベント、100型の展示。新聞で見、どんな様子かと思っていましたら、大津の86さんが紹介して下さいました。
そこでこちらは、古い写真を引っ張り出します。
1号線あびこ-梅田間。まだ新大阪駅までが開通する前、1962年3月15日撮影です。
下の2枚は心斎橋駅。
04502
天井から大きなシャンデリア。この様子は現在も変わっていないようです。
04503

こちらは、1号線の終点梅田駅。比較的空いている時間帯の様子。
04506
混雑している時間帯。阪神電車との連絡口のある、梅田駅南側(なんば寄り)の階段上から眺めた様子。まだ島式ホームの時代で混雑の様子が判ります。
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三岐鉄道北勢線立ち寄り記

東員走行
東員~大泉間を走行する クモハ272+サハ147+クモハ172

2月28日名古屋での所用が午前中に片付いたので三岐鉄道北勢線を訪れた。同線を訪れたのは2回目で、前回は何と半世紀近く前の京阪沿線の高校時代、昭和40年5月9日である。

手早く昼食を済ませて近鉄名古屋駅から12時1分発松阪行急行に乗車。電車は5200系4連+1810系2連の6両編成であった。「この電車は伊勢中川で大阪上本町行急行に連絡します」のホームのアナウンスを耳にして名阪連絡急行が健在であることを再認識した。実際に伊勢中川では1分接続で上本町には15時14分に到着する。桑名には僅か20分で到着して暫くホームで撮影後、北勢線西桑名駅に行き「三岐鉄道1日乗り放題パス」を購入した。1日かけて両線を往復すると完全に元が取れるが、今日は阿下喜往復のみである。それでも行きは阿下喜まで直行し、帰りに東員で途中下車したため、通常運賃は460円+300円+300円=1060円となるため元は取れた。

13時5分発の阿下喜行に乗車。クモハ273+サハ142+サハ136+クハ141の4両編成で学校帰りの高校生でほぼ満席であった。在良で上り電車クモハ276+サハ135+クハ134と交換、次は東員で上り電車クモハ272+サハ147+クハ172と交換と車両振替えがあり全員下車。乗ってきた電車は車庫に引き上げ、替わりに入線してきたクモハ271+サハ146+クハ171に乗車。ここまで来るとさすがに乗客は少なくなりローカル線の風情となってきた。楚原でクモハ277+サハ201+サハ101+クハ202の連接車編成と交換して1時間丁度で阿下喜に到着した。
阿下喜駅では美しく整備された元モニ226が保存展示されており感激した。帰りは楚原で降りて「めがね橋」で撮影しようとも思ったが、今回は車両中心に撮影して半世紀の空白を埋めることと連接車を撮影したかったので東員で降りた。ここは阿下喜方面の電車が綺麗に撮影可能である。約1時間撮影後再訪を約して西桑名行電車に乗車した。

北勢線が近鉄から地元の三岐鉄道に経営移管後、電車の増発、駅の統廃合、駅舎の改築、パーク&ライド、キス&ライド施設の設置、車両の冷房化等乗客を増やすための様々な努力は大いに評価できる。近鉄時代減少が続いた乗客数は微増に転じているが赤字解消にまでは至っていないようである。
現在の最高速度45㎞/Hを70㎞/Hに引き上げる計画で、車両の工事は完了しており地上の工事が進められている。

平成15年4月1日、三岐鉄道は地元自治体と10年間の約束で近鉄から運営を引継ぎ、今年3月末で10年が経過した。4月1日より10周年の記念乗車券の発売、電車にヘッドマークの取付け等が行われており、約束期間満了により廃止ということにはならない。次の10年こそが正念場で、今後いかにして定期外客を増やすことが課題となるが、「軽便鉄道」と東員以遠の自然を売り物にすることにより可能と思われる。銚子電鉄やひたちなか海浜鉄道のように東員~阿下喜間を旅行会社のバスツアーコースに組み込んで集客するのも一案である。そこで一旦ボツになった下津井電鉄の「メリーベル号」の活用も是非検討をお願いしたい。

車両について
電動車(クモハ)9両、制御車(クハ)5両、付随車(サハ)11両在籍し、3両固定編成4本、4両固定編成3本に組まれている。
編成は下記の通りである。(斜字は冷房車)
←阿下喜
クモハ271サハ146クモハ171
クモハ272サハ147クモハ172
③クモハ273-サハ142サハ136クハ141
④クモハ274-サハ144サハ137クハ143
⑤クモハ275-サハ138クハ145
⑥クモハ276-サハ135-クハ134
⑦クモハ277-サハ201-サハ101-クハ202

撮影した車両を中心に解説する。
クモハ270形(271、272) クモハ273形(273~276)
クモハ277形(277) クモハ170形(171、172)
近鉄時代の昭和52年北勢線近代化のため、モ270形(271~276)6両、ク170形(171、172)2両が近畿車両で新製された。従来電動車が付随車を牽引して終着駅で電動車を先頭に付替えるスタイル(機回し)から、電動車を阿下喜側、制御車を西桑名側に連結することにより機回しが不要になった。制御車の不足分は付随車の改造で補った。
平成2年に1本残っていた旧形車を置換えるためモ277が増備された。座席が阿下喜向き1人掛けのクロスシートとなり方向幕の幅が広くなった。

三岐鉄道移管後、モ271(17年5月)、272(18年6月)の運転台寄り動力台車をク171、172の連結面の台車と振替えられ自重の分散化が行われ、称号がクからクモハに変更された。
18年8月にクモハ272編成、12月にクモハ271編成が冷房化された。冷房装置が室内に置かれたためその部分の窓が埋められルーバーが設けられた。
クモハ273~277は連結されているクハが改造車のため、台車の振替え及び電装品の搭載が不可能で、冷房装置を搭載すると重量オーバーとなるため、連結相手のクハとサハのみに搭載され自車への搭載は見送られた。そのため、クモハ273~276と車内の仕様が異なるクモハ277は別形式となった。
また、クモハ276、277編成は現在のところ冷房化はされていない。

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京成電鉄3300形リバイバルカラー車、寅さん電車引退

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    高架前の高砂~柴又間を走行する青電編成/(22-11-23)

京成電鉄3300形は4両編成8本が普通列車で運行されていたが、今年2月から3月にかけてリバイバルカラー3本(全車両)と寅さんのラッピング車が相次いで引退し、残り4本となった。
引続き金町線、千葉線等で運行されているが見る機会は大幅に減少した。特に金町線は以前は2本とも3300形のことが多かったが、2本とも3500形のことがあり乗車、撮影には注意が必要である。
ここ最近の3300形の動きを写真でまとめてみた。

2月15日寅さん電車運行終了/ 3320+3319+3342+3341(前2両44年2月日本車輌、後2両47年2月汽車会社製)
平成18年7月より葛飾区がスポンサーとなり「寅さん」のラッピングが貼付されていた。
 柴又駅の高砂寄りポイント通過/ (25-2-11)
3320 寅
モハ3319 / (24-7-15) 柴又~高砂
3319寅
   モハ3342 / (24-7-15) 柴又~高砂
3342寅

 2月18日青電編成運行終了/ 3356+3355+3354+3353(47年3月汽車会社製でラストナンバー編成)
京成電鉄創立100周年記念行事の一環として平成21年6月に塗替えられた。過去この色の3300形は存在しなかったが意外によく似合っていた。
初日の6月30日上野発金町行の臨時特急が運転されたこともよき思い出である。(平成21年7月7日【3541】「京成電鉄創立100周年記念列車運転」を参照)
最終日の運用は、津田沼6時16分→上野着7時12分、同発7時17分→芝山千代田9時11分、同発9時15分→成田9時25分の普通列車であった。
柴又~高砂/ (21-11-23)
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柴又駅発車/ (21-11-23)
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台湾一周駆け足旅行(2)

<3月21日> 台中⇒二水⇒車埕⇒集集⇒二水⇒嘉義⇒北門⇒タクシー⇒嘉義⇒高雄⇒MRT西子湾⇒高雄

虎尾サトウキビに代わり集集線乗車、嘉義で阿里山鉄道北門まで乗車、自強号で高雄に向かい、時間があれば高雄港の鉄道故事館に行くという乗り鉄に変更。

集集線乗車というよりも始めての台鉄支線乗車経験である。二水からは日本車両製DR1019に乗車。室内灯にはカバーがつき運転室横まで座席スペースがあり、そこは特等席。今にも雨が降り出しそうな天気の中、2705車次は8時3分定刻に二水を発車。8時50分に車埕に着く。折り返し9時00分までの10分間で駅舎やディーゼルロコを撮る。後でわかったことであるがここは以前ゼミ旅行の時宿泊した景勝の地日月潭の入り口である。

集集線車埕駅9時00分発車直前の2706車次台中行きDR1006↓

s-13.3.21車埕1006

 

車埕から二つバックし集集駅で本日唯一の走行写真を撮る。走行写真と言ってもどなたか以前ここへ来られた方の情報で駅からものの5~6分も歩けば南国ムードの景色が撮れる。集集駅は日本のローカル駅そのもので、付近にハイキングコースでもあるのかお土産屋があり観光地のムード。駅前には阿里山シェイ22号が屋根付きで綺麗に保存され、若者ハイカーが盛んにシャッターを切っていた。

集集駅舎 日本のどこにでも見られた懐かしい駅舎↓

s-13.3.21集集駅

集集駅前保存の阿里山森林鉄道22号シェイ↓

s-13.3.21集集22

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名鉄パノラマカー7000系

手元に1961年7月号の「鉄道ファン」があります。そう、これは創刊号です。
最初のグラフページは、奥中山のカーブを通過する80系はつかりの試運転写真でした。次のページは特急さくらの20系、その次のページにはc62+D52で瀬野―八本松をあえぎながら上る特急かもめ、「この付近にもポールが立ち並び、この写真もいまや記念すべきもの・・」との湯口大先輩のコメントが。その次の見開き2ページには夕闇迫る山科の大カーブを通過する特急第二つばめ、人間国宝・佐竹大先輩の作品です。

さて、この記念すべき創刊号の表紙を飾ったのが新製まもない名鉄7000系でした。
オレンジバーミリオンという色調も、この時初めて知りました。中学生にとって名古屋がまだ遠い異国の地に思えた時代でした。

名鉄7000系_NEW名鉄7000系(文)_NEW

のせでん開業100周年、復刻塗装電車

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開業当時の1号車にちなみ、グリーンブルー塗装と、車体前面及び側面に唐草模様が装飾されています。
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以上いずれも、妙見口駅付近にて、4月14日撮影。

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こちらは同日午後、山下駅構内にて撮影。

能勢電鉄は、2008年が会社設立の100周年だったが、当時は債務超過で経営再建中。会社の「100年史」を作ったほかは、既存イベントに「設立100周年」と入れて質素に祝った。その後、12年3月期決算で債務超過から脱し、今回、開業100周年を喜べる環境が整ったとして、種々のイベントを計画しているようです。

その内の一つが車両の復刻塗装。4月から1500+1550に開業時1型のグリーンブルーを、また4月14日この日から1510+1560に51型塗装を施した。前車は山下-妙見口間を、後車は山下-日生中央間をいずれも往復運転している。車内には懐かしの写真なども飾られているようですが、筆者は乗らずで見ていません。

4月14日日曜日、能勢に所用があり、通りがかりに撮影しました。

贅を尽くした通勤、通学、行楽特急・京阪3000系

今週はビスタⅡが登場した。仁連上人著のJTBキャンブックス“近鉄特急 上”89頁を開いてほしい。老人撮影の先頭部が紹介されているが、窓ガラスが1枚物であることが分かる。このパノラミックガラスはその後の増備車では片端カーブ部分は分離されてしまった。理由はともあれ、こうした正面窓ガラスの片端が曲面となった電車の日本での登場は1957年秋の名鉄5200型であると思う。老人はピクトリアル誌で知り翌年春に東京への道中、岐阜で下車して新岐阜駅に赴き現車をしげしげ拝顔したのだが、曲線部分にかかるところにステンレス縦割バーを見付け違和感を覚えた。その翌年秋、ビスタⅡは曲面1枚ガラスで登場した。やっと日本のガラス業界も一歩前進したと思った。京王電鉄5000系が1963年登場した時、東京出張の折に新宿まで正面窓を見に行った。残念ながら名鉄流であった。

それが1971年、京阪電車3000系は老人の宿願を果たしてくれた。最初に四条交差点で見た時の感動は今に至るも覚えている。かぶりつきのロマンスシートは子供たちに占領され、なかなか座れなかったが、淀屋橋から乗ると確保し易いことに気付いたのは増備車投入後であった。着席は右列通路側とした。この位置からは曲面部分の展望がまことによろしい。これは8000系においても然りである。

3000系がダブルデッカーを挟んでの試運転は夜間にあると、「ぷるぷる」氏から連絡があった。1995年12月14日出町柳22:58着、23:08発、最終特急後追いで走行試験をするとの事。この時に昼間の試運転ダイヤも教えてもらった。翌15日上り丹波橋14:33着、14:35発、これが目を引いた。この日、淀車庫拡張工事に絡む信号所新築内装工事打ち合せが15:00に設定されていた。勤務先担当者から同行を求められており、行きがけの駄賃とばかり社用車便乗で行くことにした。ダブルデッカーを横大路のカーブで迎え撃つのである。無事果たすことが出来た。

老人は1962年に向日町に転居した。この時に旦那に「裏切り者!」と言われた。それを区切りとして守口車庫に近寄っていない。従って3000系誕生の経緯など聞いていない。でも対岸から何時も観察していた。その対岸からの展望は如何にと、石清水八幡宮の参道を辿り展望台に向かったのは35年ばかり前で、住宅建設現場で大工に教えられ事による。その後、ぷるぷる氏とケーブル取替直後に便乗させてもらい、はるか天王山の下を走る鉄道3線との比較を論じた思い出を持つ。そんなこともあり3月31日の3000系お別れの日は“おたまちゃん”と2人で、八幡さんの展望台から靄のかかった2川合流地を見下ろしながら3000系と別れを告げたのであった。

名鉄5200型は豊鉄1900型に変身

名鉄5200型は豊鉄1900型に変身

出町柳で待機中の試運転発車直前

出町柳で待機中の試運転発車直前

山側のごもく捨て場は公園に整備された

山側のごもく捨て場は公園に整備された

ダブルデッカーには最初から時代祭のシールが……

ダブルデッカーには最初から時代祭のシールが……

試運転は順調に流れているようだ

試運転は順調に流れているようだ

台湾五分車のたび(その2)

虎尾を訪問した2日後、この日も早起きして午前中烏樹林休閒園区に行った後、新営鉄道文化園に行きました。この2箇所はいずれも最寄の駅は新営で、ここ新営鉄道文化園は台鉄の駅から歩いて10分ほどの場所にあって、観光糖廠の中では一番行きやすい所ではないでしょうか。img272e台鉄の線路を左に見て歩いていくとヤードがあり、そのまま糖廠へと続いていきます。五分車乗り場の横にある芝生には1979年まで使われていた350号、382号の2台のSLとDLも並べられています。 続きを読む

テレビカー、時代祭行列が駆け抜けた。そして、越中で

 総本家青信号特派員さまが「京阪(旧)3000系を思う」と題して5回の連載投稿をされていました。正月や祇園祭りの頃、雑踏の中を走る京阪3000系の写真は圧巻で、さすが総本家青信号特派員さまと思いました。これらの写真には足元にも及ばないですが、富山に再就職した京阪3000系の写真も含めて綴ってみることにしました。

MN00314-京阪3000

寝屋川車庫での5000系見学会で撮影

 まずは昭和46年(1971年)6月の守口車庫での見学会の写真から。 続きを読む

3月16日ダイヤ改正に伴う車両の動き

107杉並木           杉並木をバックに快走する107系4連 /(25-3-11)  今市~日光

今回のダイヤ改正で、日光線と中央本線塩尻~辰野間(通称辰野支線)の使用車両が全面的に置き換えられた。日光線にダイヤ改正前後の3月11日と25日、辰野支線にダイヤ改正前日の3月15日に訪れたので、当日の状況等を報告する。

〔日光線〕
今回のダイヤ改正で使用車両が一夜にして置換えられた。ダイヤ改正前日まで107系(Mc+Tc)×8本=16両が、時間帯に応じて、2連、4連、6連で昼間2本、ラッシュ時4本で運用されていたが、改正後は205系(Tc+M+M+Tc)×4本=16両となり終日4連になった。205系は元京葉線で使用されていた車両である。
ポスター
   107系4連 / (25-3-11)  今市~日光
107系日光線
205系4連 / (25-3-25)  今市~日光
205系日光線          

 クモハ107-4+クハ106-4  / (25-3-11) 文挟
 今回の改正で2連は消滅した。
 107系文挟
クハ204-602+モハ204-602+モハ205-602+クハ205-602  / (25-3-25) 文挟
205系文挟

 ヘッドマークが付いたクハ204-603とクハ205-603 / (25-3-25) 宇都宮
クハ205にバリアフリー対応のトイレが設置され、その部分の窓が塞がれた。
205ヘッドマーク
205ヘッドマーク2
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小田急SE3000型

昭和34年秋、中学の修学旅行で東京へ行った。
行きも帰りも臨時の修学旅行専用で、スハ32に補助席がついたものだった。できたばかりの東京タワーをみたり、有楽町で逢いましょうで有名になったそごう有楽町店を見たりしたが、箱根にバスで移動中にチラリッと見えた“弾丸列車”が特に印象に残った。あとで調べたら小田急の新特急・SE車だと知った。東京には知らないものが一杯ある!と感銘を受けた出来事だった。

小田急SE3000(文)_NEW 小田急SE3000_NEW

下津井電鉄モハ50

98-33.Shimotuidentetu.moha50.65.8.18                           モハ50/ (40-8-18) 下津井

関 三平氏の「下津井電鉄モハ50型」に対し、3月13日【31472】で湯口先輩、【31472】で西村雅幸氏、3月16日【31662】でtsurukame先輩、3月29日【31863】で乙訓の長老が投稿されておられるが、その中でクハ6が良好な状態で保存されているのは嬉しい限りである。また、tsurukame先輩の写真は、撮影された場所が昭和47年3月末で廃止された区間で、モハ50形の牽く貨物列車と共に非常に貴重である。乙訓の長老の「思い出」は、路線短縮後のカラー写真と共に貴重な記録である。

湯口先輩と重複する部分があるが少し補足すると、モハ50形(モハ50~55)の前身はカハ50~55であるが、50、51は昭和9年4月、52は11年3月、53は鮮魚台が拡大され同年9月、54、55は12年4月に、いずれも加藤車輌製作所で新製されている。モハ53は事故が多かったため33年2月、モハ65に改番され、その後事故は無くなったそうである。

カハ50より以前に製作された車両は、カハ5(昭和6年4月日本車輌)がクハ5に、カハ6、7(昭和6年12月日本車輌)がクハ6、7に、カハ8(昭和8年6月加藤車輌製作所)がクハ8に、単端式のカハ1、3(昭和3年日本車輌)を背中合わせに接合したクハ9に改造された。

モハ52/(44-3-18) 下津井
モハ52

モハ55/(44-3-18) 下津井 鮮魚台が広くなった。
モハ55

クハ5/(44-3-18) 下津井  窓が下降式である。
クハ5-2

クハ6/(44-3-18) 下津井  西村雅幸氏の投稿の通り長船で保存されている。
クハ6

クハ9/(44-3-18) 下津井 昭和29年7月自社工場で単端式ガソリンカーを背中合せに接合して作られた。
クハ9
クハ9-2

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