連休最終日に横浜方面へ出掛ける機会があり、その一日を藤本・INUBUSE両氏の案内で横浜近郊のJR・私鉄を体験してきました。新子安を皮切りに池上線、多摩川線、東横線、京急本線と多種に亘る車両を1日ではありましたが撮ることが出来ました。特に東横線、京急では関西では経験できない、一つの路線上をメトロをはじめ多くの会社の車両が走り回る様を目の当たりに(行き先を見ても想像がつかない)したり、伊賀線の兄弟達にも会えたりと充実した1日でした。両氏には1日時間を取っていただいて、この場をお借りしてお礼申します。写真は整理しています(正直なところ車両/鉄道会社名の区別がまだ付いていません)。さて、今回は横浜に出掛ける当日名張で偶然に出くわした「クラブツーリズムのかぎろひ」を紹介します。団体専用貸切車として12200を改造したものです。
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岳南電車の現況
4月9日「青春18」の消化を兼ねて、昨年3月16日貨物営業廃止以降、話題性が薄くなった「岳南鉄道」改め「岳南電車」を訪れた。
今年4月1日「岳南鉄道」の鉄道部門が分社して「岳南電車」が設立され、親会社の「岳南鉄道」は、不動産事業、ゴルフ場事業、物品販売事業を行い、鉄道事業は子会社の岳南電車が行うことになった。背景には貨物営業廃止による減収により経営環境の悪化があげられる。
沿線自治体の富士市は、2014年度までの公的支援を表明しているが、以降のついては不透明である。
東京駅9時15分発の快速熱海行に乗車、熱海で静岡行の待合せが24分あり、駅前に保存されている「へっつい」を見に行くと以前と向きが変わっていた。
静岡行は211系3連と313系2連の5両編成であった。東海道本線の静岡地区のローカルはオールロングシートで211系にはトイレがなく長距離を利用する場合は注意が必要である。
吉原での岳南電車との接続は6分であった。平日用の1日乗車券を購入、値段は700円で岳南江尾までの往復運賃と同額である。休日は400円で更に安い。停車中のモハ7003に乗ると乗客は20人程で、平日のためビジネスマンの姿も結構あった。車庫のある岳南富士岡でED501が見えたので降りて撮影した。パンタが2挺とも上がっており通電されていた。後にはワム380128、ワム380411、ED403、ED291の順に連結されていた。
隣にはデハ7001がパンタを上げて停車、車庫の中ではED403が検査中でこちらもパンタが上がっていた。次の電車(モハ7002)で岳南江尾に向かったが5名程の乗客が降りると一瞬車内はゼロになり私一人の貸切状態であった。次の須津、神谷の駅周辺にはそこそこ住宅が立ち並んでいるが電車の利用には繋がっていないのであろう。新幹線を潜ると直ぐ岳南江尾に到着した。ホームの反対側にはラッシュ時に使用されるモハ8001+クハ8101が停まっていた。帰りはジャトコ前で降りて富士山をバックに撮影後帰宅した。
【現 況】
〔電 車〕
モハ7000形3両、モハ8000形1両、クハ8100形1両の計5両在籍する。
モハ7000形(7001~7003)
元京王井の頭線の3000系の中間車デハ3100形を京王重機整備で両運転台付に改造した。旧車号、改造年月は次の通りである。
京王デハ3103→モハ7001(平成8年12月)、デハ3101→モハ7002(平成9年9月)、デハ3102→モハ7003(平成9年9月)
モハ7002とモハ7003は総括制御が可能であるが、モハ7001は単行運転しかできない。
大阪市営地下鉄、半世紀前
三岐鉄道北勢線立ち寄り記
東員~大泉間を走行する クモハ272+サハ147+クモハ172
2月28日名古屋での所用が午前中に片付いたので三岐鉄道北勢線を訪れた。同線を訪れたのは2回目で、前回は何と半世紀近く前の京阪沿線の高校時代、昭和40年5月9日である。
手早く昼食を済ませて近鉄名古屋駅から12時1分発松阪行急行に乗車。電車は5200系4連+1810系2連の6両編成であった。「この電車は伊勢中川で大阪上本町行急行に連絡します」のホームのアナウンスを耳にして名阪連絡急行が健在であることを再認識した。実際に伊勢中川では1分接続で上本町には15時14分に到着する。桑名には僅か20分で到着して暫くホームで撮影後、北勢線西桑名駅に行き「三岐鉄道1日乗り放題パス」を購入した。1日かけて両線を往復すると完全に元が取れるが、今日は阿下喜往復のみである。それでも行きは阿下喜まで直行し、帰りに東員で途中下車したため、通常運賃は460円+300円+300円=1060円となるため元は取れた。
13時5分発の阿下喜行に乗車。クモハ273+サハ142+サハ136+クハ141の4両編成で学校帰りの高校生でほぼ満席であった。在良で上り電車クモハ276+サハ135+クハ134と交換、次は東員で上り電車クモハ272+サハ147+クハ172と交換と車両振替えがあり全員下車。乗ってきた電車は車庫に引き上げ、替わりに入線してきたクモハ271+サハ146+クハ171に乗車。ここまで来るとさすがに乗客は少なくなりローカル線の風情となってきた。楚原でクモハ277+サハ201+サハ101+クハ202の連接車編成と交換して1時間丁度で阿下喜に到着した。
阿下喜駅では美しく整備された元モニ226が保存展示されており感激した。帰りは楚原で降りて「めがね橋」で撮影しようとも思ったが、今回は車両中心に撮影して半世紀の空白を埋めることと連接車を撮影したかったので東員で降りた。ここは阿下喜方面の電車が綺麗に撮影可能である。約1時間撮影後再訪を約して西桑名行電車に乗車した。
北勢線が近鉄から地元の三岐鉄道に経営移管後、電車の増発、駅の統廃合、駅舎の改築、パーク&ライド、キス&ライド施設の設置、車両の冷房化等乗客を増やすための様々な努力は大いに評価できる。近鉄時代減少が続いた乗客数は微増に転じているが赤字解消にまでは至っていないようである。
現在の最高速度45㎞/Hを70㎞/Hに引き上げる計画で、車両の工事は完了しており地上の工事が進められている。
平成15年4月1日、三岐鉄道は地元自治体と10年間の約束で近鉄から運営を引継ぎ、今年3月末で10年が経過した。4月1日より10周年の記念乗車券の発売、電車にヘッドマークの取付け等が行われており、約束期間満了により廃止ということにはならない。次の10年こそが正念場で、今後いかにして定期外客を増やすことが課題となるが、「軽便鉄道」と東員以遠の自然を売り物にすることにより可能と思われる。銚子電鉄やひたちなか海浜鉄道のように東員~阿下喜間を旅行会社のバスツアーコースに組み込んで集客するのも一案である。そこで一旦ボツになった下津井電鉄の「メリーベル号」の活用も是非検討をお願いしたい。
車両について
電動車(クモハ)9両、制御車(クハ)5両、付随車(サハ)11両在籍し、3両固定編成4本、4両固定編成3本に組まれている。
編成は下記の通りである。(斜字は冷房車)
←阿下喜
①クモハ271-サハ146-クモハ171
②クモハ272-サハ147-クモハ172
③クモハ273-サハ142-サハ136-クハ141
④クモハ274-サハ144-サハ137-クハ143
⑤クモハ275-サハ138-クハ145
⑥クモハ276-サハ135-クハ134
⑦クモハ277-サハ201-サハ101-クハ202
撮影した車両を中心に解説する。
クモハ270形(271、272) クモハ273形(273~276)
クモハ277形(277) クモハ170形(171、172)
近鉄時代の昭和52年北勢線近代化のため、モ270形(271~276)6両、ク170形(171、172)2両が近畿車両で新製された。従来電動車が付随車を牽引して終着駅で電動車を先頭に付替えるスタイル(機回し)から、電動車を阿下喜側、制御車を西桑名側に連結することにより機回しが不要になった。制御車の不足分は付随車の改造で補った。
平成2年に1本残っていた旧形車を置換えるためモ277が増備された。座席が阿下喜向き1人掛けのクロスシートとなり方向幕の幅が広くなった。
三岐鉄道移管後、モ271(17年5月)、272(18年6月)の運転台寄り動力台車をク171、172の連結面の台車と振替えられ自重の分散化が行われ、称号がクからクモハに変更された。
18年8月にクモハ272編成、12月にクモハ271編成が冷房化された。冷房装置が室内に置かれたためその部分の窓が埋められルーバーが設けられた。
クモハ273~277は連結されているクハが改造車のため、台車の振替え及び電装品の搭載が不可能で、冷房装置を搭載すると重量オーバーとなるため、連結相手のクハとサハのみに搭載され自車への搭載は見送られた。そのため、クモハ273~276と車内の仕様が異なるクモハ277は別形式となった。
また、クモハ276、277編成は現在のところ冷房化はされていない。
京成電鉄3300形リバイバルカラー車、寅さん電車引退
高架前の高砂~柴又間を走行する青電編成/(22-11-23)
京成電鉄3300形は4両編成8本が普通列車で運行されていたが、今年2月から3月にかけてリバイバルカラー3本(全車両)と寅さんのラッピング車が相次いで引退し、残り4本となった。
引続き金町線、千葉線等で運行されているが見る機会は大幅に減少した。特に金町線は以前は2本とも3300形のことが多かったが、2本とも3500形のことがあり乗車、撮影には注意が必要である。
ここ最近の3300形の動きを写真でまとめてみた。
2月15日寅さん電車運行終了/ 3320+3319+3342+3341(前2両44年2月日本車輌、後2両47年2月汽車会社製)
平成18年7月より葛飾区がスポンサーとなり「寅さん」のラッピングが貼付されていた。
柴又駅の高砂寄りポイント通過/ (25-2-11)
モハ3319 / (24-7-15) 柴又~高砂
モハ3342 / (24-7-15) 柴又~高砂
2月18日青電編成運行終了/ 3356+3355+3354+3353(47年3月汽車会社製でラストナンバー編成)
京成電鉄創立100周年記念行事の一環として平成21年6月に塗替えられた。過去この色の3300形は存在しなかったが意外によく似合っていた。
初日の6月30日上野発金町行の臨時特急が運転されたこともよき思い出である。(平成21年7月7日【3541】「京成電鉄創立100周年記念列車運転」を参照)
最終日の運用は、津田沼6時16分→上野着7時12分、同発7時17分→芝山千代田9時11分、同発9時15分→成田9時25分の普通列車であった。
柴又~高砂/ (21-11-23)
柴又駅発車/ (21-11-23)
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台湾一周駆け足旅行(2)
<3月21日> 台中⇒二水⇒車埕⇒集集⇒二水⇒嘉義⇒北門⇒タクシー⇒嘉義⇒高雄⇒MRT西子湾⇒高雄
虎尾サトウキビに代わり集集線乗車、嘉義で阿里山鉄道北門まで乗車、自強号で高雄に向かい、時間があれば高雄港の鉄道故事館に行くという乗り鉄に変更。
集集線乗車というよりも始めての台鉄支線乗車経験である。二水からは日本車両製DR1019に乗車。室内灯にはカバーがつき運転室横まで座席スペースがあり、そこは特等席。今にも雨が降り出しそうな天気の中、2705車次は8時3分定刻に二水を発車。8時50分に車埕に着く。折り返し9時00分までの10分間で駅舎やディーゼルロコを撮る。後でわかったことであるがここは以前ゼミ旅行の時宿泊した景勝の地日月潭の入り口である。
集集線車埕駅9時00分発車直前の2706車次台中行きDR1006↓
車埕から二つバックし集集駅で本日唯一の走行写真を撮る。走行写真と言ってもどなたか以前ここへ来られた方の情報で駅からものの5~6分も歩けば南国ムードの景色が撮れる。集集駅は日本のローカル駅そのもので、付近にハイキングコースでもあるのかお土産屋があり観光地のムード。駅前には阿里山シェイ22号が屋根付きで綺麗に保存され、若者ハイカーが盛んにシャッターを切っていた。
集集駅舎 日本のどこにでも見られた懐かしい駅舎↓
集集駅前保存の阿里山森林鉄道22号シェイ↓
名鉄パノラマカー7000系
手元に1961年7月号の「鉄道ファン」があります。そう、これは創刊号です。
最初のグラフページは、奥中山のカーブを通過する80系はつかりの試運転写真でした。次のページは特急さくらの20系、その次のページにはc62+D52で瀬野―八本松をあえぎながら上る特急かもめ、「この付近にもポールが立ち並び、この写真もいまや記念すべきもの・・」との湯口大先輩のコメントが。その次の見開き2ページには夕闇迫る山科の大カーブを通過する特急第二つばめ、人間国宝・佐竹大先輩の作品です。
さて、この記念すべき創刊号の表紙を飾ったのが新製まもない名鉄7000系でした。
オレンジバーミリオンという色調も、この時初めて知りました。中学生にとって名古屋がまだ遠い異国の地に思えた時代でした。
のせでん開業100周年、復刻塗装電車
開業当時の1号車にちなみ、グリーンブルー塗装と、車体前面及び側面に唐草模様が装飾されています。
以上いずれも、妙見口駅付近にて、4月14日撮影。
能勢電鉄は、2008年が会社設立の100周年だったが、当時は債務超過で経営再建中。会社の「100年史」を作ったほかは、既存イベントに「設立100周年」と入れて質素に祝った。その後、12年3月期決算で債務超過から脱し、今回、開業100周年を喜べる環境が整ったとして、種々のイベントを計画しているようです。
その内の一つが車両の復刻塗装。4月から1500+1550に開業時1型のグリーンブルーを、また4月14日この日から1510+1560に51型塗装を施した。前車は山下-妙見口間を、後車は山下-日生中央間をいずれも往復運転している。車内には懐かしの写真なども飾られているようですが、筆者は乗らずで見ていません。
4月14日日曜日、能勢に所用があり、通りがかりに撮影しました。
贅を尽くした通勤、通学、行楽特急・京阪3000系
今週はビスタⅡが登場した。仁連上人著のJTBキャンブックス“近鉄特急 上”89頁を開いてほしい。老人撮影の先頭部が紹介されているが、窓ガラスが1枚物であることが分かる。このパノラミックガラスはその後の増備車では片端カーブ部分は分離されてしまった。理由はともあれ、こうした正面窓ガラスの片端が曲面となった電車の日本での登場は1957年秋の名鉄5200型であると思う。老人はピクトリアル誌で知り翌年春に東京への道中、岐阜で下車して新岐阜駅に赴き現車をしげしげ拝顔したのだが、曲線部分にかかるところにステンレス縦割バーを見付け違和感を覚えた。その翌年秋、ビスタⅡは曲面1枚ガラスで登場した。やっと日本のガラス業界も一歩前進したと思った。京王電鉄5000系が1963年登場した時、東京出張の折に新宿まで正面窓を見に行った。残念ながら名鉄流であった。
それが1971年、京阪電車3000系は老人の宿願を果たしてくれた。最初に四条交差点で見た時の感動は今に至るも覚えている。かぶりつきのロマンスシートは子供たちに占領され、なかなか座れなかったが、淀屋橋から乗ると確保し易いことに気付いたのは増備車投入後であった。着席は右列通路側とした。この位置からは曲面部分の展望がまことによろしい。これは8000系においても然りである。
3000系がダブルデッカーを挟んでの試運転は夜間にあると、「ぷるぷる」氏から連絡があった。1995年12月14日出町柳22:58着、23:08発、最終特急後追いで走行試験をするとの事。この時に昼間の試運転ダイヤも教えてもらった。翌15日上り丹波橋14:33着、14:35発、これが目を引いた。この日、淀車庫拡張工事に絡む信号所新築内装工事打ち合せが15:00に設定されていた。勤務先担当者から同行を求められており、行きがけの駄賃とばかり社用車便乗で行くことにした。ダブルデッカーを横大路のカーブで迎え撃つのである。無事果たすことが出来た。
老人は1962年に向日町に転居した。この時に旦那に「裏切り者!」と言われた。それを区切りとして守口車庫に近寄っていない。従って3000系誕生の経緯など聞いていない。でも対岸から何時も観察していた。その対岸からの展望は如何にと、石清水八幡宮の参道を辿り展望台に向かったのは35年ばかり前で、住宅建設現場で大工に教えられ事による。その後、ぷるぷる氏とケーブル取替直後に便乗させてもらい、はるか天王山の下を走る鉄道3線との比較を論じた思い出を持つ。そんなこともあり3月31日の3000系お別れの日は“おたまちゃん”と2人で、八幡さんの展望台から靄のかかった2川合流地を見下ろしながら3000系と別れを告げたのであった。
近鉄ビスタカー10100系
台湾五分車のたび(その2)
虎尾を訪問した2日後、この日も早起きして午前中烏樹林休閒園区に行った後、新営鉄道文化園に行きました。この2箇所はいずれも最寄の駅は新営で、ここ新営鉄道文化園は台鉄の駅から歩いて10分ほどの場所にあって、観光糖廠の中では一番行きやすい所ではないでしょうか。台鉄の線路を左に見て歩いていくとヤードがあり、そのまま糖廠へと続いていきます。五分車乗り場の横にある芝生には1979年まで使われていた350号、382号の2台のSLとDLも並べられています。 続きを読む
テレビカー、時代祭行列が駆け抜けた。そして、越中で
総本家青信号特派員さまが「京阪(旧)3000系を思う」と題して5回の連載投稿をされていました。正月や祇園祭りの頃、雑踏の中を走る京阪3000系の写真は圧巻で、さすが総本家青信号特派員さまと思いました。これらの写真には足元にも及ばないですが、富山に再就職した京阪3000系の写真も含めて綴ってみることにしました。
まずは昭和46年(1971年)6月の守口車庫での見学会の写真から。 続きを読む
3月16日ダイヤ改正に伴う車両の動き
杉並木をバックに快走する107系4連 /(25-3-11) 今市~日光
今回のダイヤ改正で、日光線と中央本線塩尻~辰野間(通称辰野支線)の使用車両が全面的に置き換えられた。日光線にダイヤ改正前後の3月11日と25日、辰野支線にダイヤ改正前日の3月15日に訪れたので、当日の状況等を報告する。
〔日光線〕
今回のダイヤ改正で使用車両が一夜にして置換えられた。ダイヤ改正前日まで107系(Mc+Tc)×8本=16両が、時間帯に応じて、2連、4連、6連で昼間2本、ラッシュ時4本で運用されていたが、改正後は205系(Tc+M+M+Tc)×4本=16両となり終日4連になった。205系は元京葉線で使用されていた車両である。
107系4連 / (25-3-11) 今市~日光
205系4連 / (25-3-25) 今市~日光
クモハ107-4+クハ106-4 / (25-3-11) 文挟
今回の改正で2連は消滅した。
クハ204-602+モハ204-602+モハ205-602+クハ205-602 / (25-3-25) 文挟
ヘッドマークが付いたクハ204-603とクハ205-603 / (25-3-25) 宇都宮
クハ205にバリアフリー対応のトイレが設置され、その部分の窓が塞がれた。
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小田急SE3000型
下津井電鉄モハ50
関 三平氏の「下津井電鉄モハ50型」に対し、3月13日【31472】で湯口先輩、【31472】で西村雅幸氏、3月16日【31662】でtsurukame先輩、3月29日【31863】で乙訓の長老が投稿されておられるが、その中でクハ6が良好な状態で保存されているのは嬉しい限りである。また、tsurukame先輩の写真は、撮影された場所が昭和47年3月末で廃止された区間で、モハ50形の牽く貨物列車と共に非常に貴重である。乙訓の長老の「思い出」は、路線短縮後のカラー写真と共に貴重な記録である。
湯口先輩と重複する部分があるが少し補足すると、モハ50形(モハ50~55)の前身はカハ50~55であるが、50、51は昭和9年4月、52は11年3月、53は鮮魚台が拡大され同年9月、54、55は12年4月に、いずれも加藤車輌製作所で新製されている。モハ53は事故が多かったため33年2月、モハ65に改番され、その後事故は無くなったそうである。
カハ50より以前に製作された車両は、カハ5(昭和6年4月日本車輌)がクハ5に、カハ6、7(昭和6年12月日本車輌)がクハ6、7に、カハ8(昭和8年6月加藤車輌製作所)がクハ8に、単端式のカハ1、3(昭和3年日本車輌)を背中合わせに接合したクハ9に改造された。
モハ52/(44-3-18) 下津井
モハ55/(44-3-18) 下津井 鮮魚台が広くなった。
クハ6/(44-3-18) 下津井 西村雅幸氏の投稿の通り長船で保存されている。
下津井電鉄の思い出
1955年3月末、初めて下津井電鉄を訪れている。前年8月、姉が四国善通寺で世帯を持ったことで、四国へ電車を訪ねる旅が始まった。最初の宇野線への踏み入れは京都21時発、四国連絡の夜行普通列車であった。東海道、山陽本線はC59牽引であったが、宇野線に入るとD50となった。途中交換の貨物列車もD50で、今から考えると乙線であったのだろう。茶屋町停車で夜目に気付いたのが荷物台付きの四角い電車、始めてみる軽便電車であった。だがこの年の乗車券は京都-高知間往復学割で、行き帰りに途中下車で善通寺に立ち寄っている。次は茶屋町下車で、軽便電車に乗って下津井から関西汽船で丸亀へ、そして琴参電車で善通寺入りしようと思った。
そして翌年春休み、茶屋町到着は深夜であった。下車した16才の少年以外は籠を担いだ行商人、岡山からの新聞であった。夜行列車到着時の駅ホームは賑やかになる。ホームの電灯は全て点灯され、荷扱い車掌と新聞配達人の大声の応酬がある。行商人は跨線橋を渡り、新聞屋は包みを担ぎ線路敷を歩き駅本屋側で待つリヤカーや自転車に運搬する。上り夜行普通列車は茶屋町交換のため、上下列車が出発した後のホームは消灯となり、夜のしじまは戻った。少年は待合室で転寝となり、駅の喧躁と共に目覚めたのだが、一番電車は出た後であった。二番電車の発車前に到着した下津井発一番は、前部の荷物台に魚のトロ箱を乗せた3両編成であった。先のthurukame君紹介の編成がその姿である。ホームに魚の匂いが立ち込める中、少年を乗せた新車2両編成は出発した。と共に睡魔が襲い気付いた時は山沿いを走っていた。窓外に下津井の甍を眺めつつ終点となった。ホーム端から見えた木造車庫には木造客車がぎっしり詰め込まれていた。車庫事務所の扉を開けたが無人で、ウロウロして怒られるのが嫌だから一旦改札を出た。港はすぐ傍で食堂も開店していた。この年カメラ持たずで、朝食後は下津井の街並みを拝見して丸亀への便船に乗った。その後来る筈が、DRFCで須磨の大人と出会い、ニブロクは彼の領域として近づかなかった。それが1961年3月thurukame君が訪問した事を知り、NEOPAN SSを借り名刺版プリントで訪問の時を探っていた。
1963年9月、富山から大阪に転勤、その翌年から四国、中国地区担当となった年の秋、午前中に丸亀で用務を果たし午後、関西汽船のフェリーボートで下津井を目指した。車庫には9年半前に見た木造客車の幾らかが残っていた。元気動車の一部は台枠足回り流用でナニワ工機タイプのMTc編成に更新改造されていた。その編成で茶屋町を目指し21km50分の快適な旅を万喫することが出来た。鷲羽山麓に取り付き、琴海から転がるように下るが、児島湾が見え隠れするうちに川沿いを児島の町に走り込んだ。児島からは田圃の中を淡々と走るが、元は児島湾であった干拓地のせいか水路をまたぐ築堤箇所が多いのに気付いた。
下津井電鉄の愛称は“しもでん”というが、仕事でも付き合いがあった。岡山市内の設計事務所から地区代理店に「電車の好きな大阪の営業マンが来たら立ち寄るように……」との伝言があった。何事ならん、と出向いたら「下電の宿舎で採用するから現場の建築屋に挨拶に行くように……」とのことであった。喜び勇んで天満屋隣のバスセンターから建築地・児島に向かった。下電のバスは当時定評があり、路線バスでもリアエンジンで快適さを売り物にしていた。四国に向かうときは岡山に立ち寄り1泊、早朝のバスで宇野へ、国道フェリーで高松上陸すれば午前中に一仕事出来た。何より連絡船の行列とは無縁であるから快適であった。岡山から高知に向かう時は下電バス→児島→下電→下津井→関西汽船→丸亀→国鉄のコースを辿ることもあった。こうした四国担当は大阪万博を前に終わった。
1966年京都転職後、四国の元得意先から呼び出しがあり出向くことがあった。その中には下電の診療所工事もあった。そして1972年4月児島-茶屋町間が廃線になった。世はバス時代で、電車の役割は鷲羽山の裾野、道路整備が遅れている地区のみとされた。それが瀬戸大橋開通を機に鷲羽山を中心に一大観光地として再開発する事業に下電は打って出た。
1988年4月10日JRの本州と四国のレイルがつながった。乙訓の老人は5月1日、下電を久しぶりに訪問した。橋の開通祝いは善通寺でやるべく、すき焼き肉と九条ねぎを背負っての出で立ちであった。この頃8ミリ撮影をしており、東下津井から始まる大カーブを畑の中から撮影することを目論んでいた。JR児島で下車したのは初めてで、西に歩くこと10分ばかりで下電児島に到着、けばけばしい装飾にびっくりした。改札内外共にも田舎の電車乗り場とは言えない装飾で、その中に1001号“赤いクレパス号”こと落書き電車が止まっていた。ほぼ満員の客を乗せ発車した。かぶりつきは先客の子供と鉄ちゃんに占拠されており、老人(この時は満50歳1日)は入り口近くで立ちん坊であった。展望電車“メリーベル号とは琴海駅で交換した。そして大カーブを辿り、ほぼ15年ぶりで下津井到着となった。
まず目についたものをOM10で撮った。今回プリントしてみたらご披露申し上げた「ざま」である。
富士カメラ店の店主はびっくり仰天、コンピュター技術駆使してやっとこさ黄色を弱く出来た、と言っている。モノクロはそれなりに見られるが、カラーは全くダメと言わねばならない。フィルムはFUJIネガカラー100で625の数字が入っている。1958年はNEOPAN SSで、30年後にまたしてもFUJIにやられた。その後、めでたく8ミリ撮影をしているが、これもFUJI COLORである。映写機が壊れたから廃棄済みである。どなたかシングル8対応の映写機お持ちでしょうか、声掛け願います。
丸亀へのフェリーは大型の新造船で、これに合わせて丸亀港も移転していた。
姉は2011年暮れに神に召されたが、今も善通寺との往来は継続中である。
投稿に並行して準特急氏から頂戴した、ナローゲージ鉄道・下電の戦後五十年“イーグルよ翔べ”を読んでいた。鉄道部門撤退、バス事業後退の中、生き残りをかけての企業の姿が画かれている。都市圏で何とか生き残っている日本の鉄道だが、百年後はどうなっているのだろうか。エネルギー効率の良い電鉄だと言っても世の中の潮流に乗れなくなると見放されるは必須である。その時のあがきが本書には説き起こされているようだ。筆者は同志社大学法学部出身である。何年度入学なのか知りたい。
特急富士の展望車と言えば・・・
京阪 雪景色
特派員氏のすばらしい写真に刺激されて、投稿します。京都市電もそうですが特派員氏のカメラアングルにはいつも感心します。私は高校、大学と通学に毎日墨染から三条へと京阪にお世話になったのですが、あまりに身近すぎて写真を撮っていないのです。市電や叡電も同様です。その点特派員氏は身近な日常をしっかり切り取っておられてさすがです。そんな京阪の雪景色のカラー写真が2コマだけあります。撮影日時が不明ですが多分昭和50年の2月か3月かです。このあとのコマが叡電鞍馬線なので墨染から鞍馬に向かう途中で五条駅で途中下車して撮ったようです。3000系が投入され1900が緑色になって各停運用に入っていた頃です。鴨川と疏水にはさまれて走る七条、三条間は四季おりおりの景色が楽しめてすばらしい区間でした。