1955年3月末、初めて下津井電鉄を訪れている。前年8月、姉が四国善通寺で世帯を持ったことで、四国へ電車を訪ねる旅が始まった。最初の宇野線への踏み入れは京都21時発、四国連絡の夜行普通列車であった。東海道、山陽本線はC59牽引であったが、宇野線に入るとD50となった。途中交換の貨物列車もD50で、今から考えると乙線であったのだろう。茶屋町停車で夜目に気付いたのが荷物台付きの四角い電車、始めてみる軽便電車であった。だがこの年の乗車券は京都-高知間往復学割で、行き帰りに途中下車で善通寺に立ち寄っている。次は茶屋町下車で、軽便電車に乗って下津井から関西汽船で丸亀へ、そして琴参電車で善通寺入りしようと思った。
そして翌年春休み、茶屋町到着は深夜であった。下車した16才の少年以外は籠を担いだ行商人、岡山からの新聞であった。夜行列車到着時の駅ホームは賑やかになる。ホームの電灯は全て点灯され、荷扱い車掌と新聞配達人の大声の応酬がある。行商人は跨線橋を渡り、新聞屋は包みを担ぎ線路敷を歩き駅本屋側で待つリヤカーや自転車に運搬する。上り夜行普通列車は茶屋町交換のため、上下列車が出発した後のホームは消灯となり、夜のしじまは戻った。少年は待合室で転寝となり、駅の喧躁と共に目覚めたのだが、一番電車は出た後であった。二番電車の発車前に到着した下津井発一番は、前部の荷物台に魚のトロ箱を乗せた3両編成であった。先のthurukame君紹介の編成がその姿である。ホームに魚の匂いが立ち込める中、少年を乗せた新車2両編成は出発した。と共に睡魔が襲い気付いた時は山沿いを走っていた。窓外に下津井の甍を眺めつつ終点となった。ホーム端から見えた木造車庫には木造客車がぎっしり詰め込まれていた。車庫事務所の扉を開けたが無人で、ウロウロして怒られるのが嫌だから一旦改札を出た。港はすぐ傍で食堂も開店していた。この年カメラ持たずで、朝食後は下津井の街並みを拝見して丸亀への便船に乗った。その後来る筈が、DRFCで須磨の大人と出会い、ニブロクは彼の領域として近づかなかった。それが1961年3月thurukame君が訪問した事を知り、NEOPAN SSを借り名刺版プリントで訪問の時を探っていた。
1963年9月、富山から大阪に転勤、その翌年から四国、中国地区担当となった年の秋、午前中に丸亀で用務を果たし午後、関西汽船のフェリーボートで下津井を目指した。車庫には9年半前に見た木造客車の幾らかが残っていた。元気動車の一部は台枠足回り流用でナニワ工機タイプのMTc編成に更新改造されていた。その編成で茶屋町を目指し21km50分の快適な旅を万喫することが出来た。鷲羽山麓に取り付き、琴海から転がるように下るが、児島湾が見え隠れするうちに川沿いを児島の町に走り込んだ。児島からは田圃の中を淡々と走るが、元は児島湾であった干拓地のせいか水路をまたぐ築堤箇所が多いのに気付いた。
下津井電鉄の愛称は“しもでん”というが、仕事でも付き合いがあった。岡山市内の設計事務所から地区代理店に「電車の好きな大阪の営業マンが来たら立ち寄るように……」との伝言があった。何事ならん、と出向いたら「下電の宿舎で採用するから現場の建築屋に挨拶に行くように……」とのことであった。喜び勇んで天満屋隣のバスセンターから建築地・児島に向かった。下電のバスは当時定評があり、路線バスでもリアエンジンで快適さを売り物にしていた。四国に向かうときは岡山に立ち寄り1泊、早朝のバスで宇野へ、国道フェリーで高松上陸すれば午前中に一仕事出来た。何より連絡船の行列とは無縁であるから快適であった。岡山から高知に向かう時は下電バス→児島→下電→下津井→関西汽船→丸亀→国鉄のコースを辿ることもあった。こうした四国担当は大阪万博を前に終わった。
1966年京都転職後、四国の元得意先から呼び出しがあり出向くことがあった。その中には下電の診療所工事もあった。そして1972年4月児島-茶屋町間が廃線になった。世はバス時代で、電車の役割は鷲羽山の裾野、道路整備が遅れている地区のみとされた。それが瀬戸大橋開通を機に鷲羽山を中心に一大観光地として再開発する事業に下電は打って出た。
1988年4月10日JRの本州と四国のレイルがつながった。乙訓の老人は5月1日、下電を久しぶりに訪問した。橋の開通祝いは善通寺でやるべく、すき焼き肉と九条ねぎを背負っての出で立ちであった。この頃8ミリ撮影をしており、東下津井から始まる大カーブを畑の中から撮影することを目論んでいた。JR児島で下車したのは初めてで、西に歩くこと10分ばかりで下電児島に到着、けばけばしい装飾にびっくりした。改札内外共にも田舎の電車乗り場とは言えない装飾で、その中に1001号“赤いクレパス号”こと落書き電車が止まっていた。ほぼ満員の客を乗せ発車した。かぶりつきは先客の子供と鉄ちゃんに占拠されており、老人(この時は満50歳1日)は入り口近くで立ちん坊であった。展望電車“メリーベル号とは琴海駅で交換した。そして大カーブを辿り、ほぼ15年ぶりで下津井到着となった。
まず目についたものをOM10で撮った。今回プリントしてみたらご披露申し上げた「ざま」である。
富士カメラ店の店主はびっくり仰天、コンピュター技術駆使してやっとこさ黄色を弱く出来た、と言っている。モノクロはそれなりに見られるが、カラーは全くダメと言わねばならない。フィルムはFUJIネガカラー100で625の数字が入っている。1958年はNEOPAN SSで、30年後にまたしてもFUJIにやられた。その後、めでたく8ミリ撮影をしているが、これもFUJI COLORである。映写機が壊れたから廃棄済みである。どなたかシングル8対応の映写機お持ちでしょうか、声掛け願います。
丸亀へのフェリーは大型の新造船で、これに合わせて丸亀港も移転していた。
姉は2011年暮れに神に召されたが、今も善通寺との往来は継続中である。
投稿に並行して準特急氏から頂戴した、ナローゲージ鉄道・下電の戦後五十年“イーグルよ翔べ”を読んでいた。鉄道部門撤退、バス事業後退の中、生き残りをかけての企業の姿が画かれている。都市圏で何とか生き残っている日本の鉄道だが、百年後はどうなっているのだろうか。エネルギー効率の良い電鉄だと言っても世の中の潮流に乗れなくなると見放されるは必須である。その時のあがきが本書には説き起こされているようだ。筆者は同志社大学法学部出身である。何年度入学なのか知りたい。