下津井電鉄の思い出

1955年3月末、初めて下津井電鉄を訪れている。前年8月、姉が四国善通寺で世帯を持ったことで、四国へ電車を訪ねる旅が始まった。最初の宇野線への踏み入れは京都21時発、四国連絡の夜行普通列車であった。東海道、山陽本線はC59牽引であったが、宇野線に入るとD50となった。途中交換の貨物列車もD50で、今から考えると乙線であったのだろう。茶屋町停車で夜目に気付いたのが荷物台付きの四角い電車、始めてみる軽便電車であった。だがこの年の乗車券は京都-高知間往復学割で、行き帰りに途中下車で善通寺に立ち寄っている。次は茶屋町下車で、軽便電車に乗って下津井から関西汽船で丸亀へ、そして琴参電車で善通寺入りしようと思った。

そして翌年春休み、茶屋町到着は深夜であった。下車した16才の少年以外は籠を担いだ行商人、岡山からの新聞であった。夜行列車到着時の駅ホームは賑やかになる。ホームの電灯は全て点灯され、荷扱い車掌と新聞配達人の大声の応酬がある。行商人は跨線橋を渡り、新聞屋は包みを担ぎ線路敷を歩き駅本屋側で待つリヤカーや自転車に運搬する。上り夜行普通列車は茶屋町交換のため、上下列車が出発した後のホームは消灯となり、夜のしじまは戻った。少年は待合室で転寝となり、駅の喧躁と共に目覚めたのだが、一番電車は出た後であった。二番電車の発車前に到着した下津井発一番は、前部の荷物台に魚のトロ箱を乗せた3両編成であった。先のthurukame君紹介の編成がその姿である。ホームに魚の匂いが立ち込める中、少年を乗せた新車2両編成は出発した。と共に睡魔が襲い気付いた時は山沿いを走っていた。窓外に下津井の甍を眺めつつ終点となった。ホーム端から見えた木造車庫には木造客車がぎっしり詰め込まれていた。車庫事務所の扉を開けたが無人で、ウロウロして怒られるのが嫌だから一旦改札を出た。港はすぐ傍で食堂も開店していた。この年カメラ持たずで、朝食後は下津井の街並みを拝見して丸亀への便船に乗った。その後来る筈が、DRFCで須磨の大人と出会い、ニブロクは彼の領域として近づかなかった。それが1961年3月thurukame君が訪問した事を知り、NEOPAN SSを借り名刺版プリントで訪問の時を探っていた。

1963年9月、富山から大阪に転勤、その翌年から四国、中国地区担当となった年の秋、午前中に丸亀で用務を果たし午後、関西汽船のフェリーボートで下津井を目指した。車庫には9年半前に見た木造客車の幾らかが残っていた。元気動車の一部は台枠足回り流用でナニワ工機タイプのMTc編成に更新改造されていた。その編成で茶屋町を目指し21km50分の快適な旅を万喫することが出来た。鷲羽山麓に取り付き、琴海から転がるように下るが、児島湾が見え隠れするうちに川沿いを児島の町に走り込んだ。児島からは田圃の中を淡々と走るが、元は児島湾であった干拓地のせいか水路をまたぐ築堤箇所が多いのに気付いた。

下津井電鉄の愛称は“しもでん”というが、仕事でも付き合いがあった。岡山市内の設計事務所から地区代理店に「電車の好きな大阪の営業マンが来たら立ち寄るように……」との伝言があった。何事ならん、と出向いたら「下電の宿舎で採用するから現場の建築屋に挨拶に行くように……」とのことであった。喜び勇んで天満屋隣のバスセンターから建築地・児島に向かった。下電のバスは当時定評があり、路線バスでもリアエンジンで快適さを売り物にしていた。四国に向かうときは岡山に立ち寄り1泊、早朝のバスで宇野へ、国道フェリーで高松上陸すれば午前中に一仕事出来た。何より連絡船の行列とは無縁であるから快適であった。岡山から高知に向かう時は下電バス→児島→下電→下津井→関西汽船→丸亀→国鉄のコースを辿ることもあった。こうした四国担当は大阪万博を前に終わった。

1966年京都転職後、四国の元得意先から呼び出しがあり出向くことがあった。その中には下電の診療所工事もあった。そして1972年4月児島-茶屋町間が廃線になった。世はバス時代で、電車の役割は鷲羽山の裾野、道路整備が遅れている地区のみとされた。それが瀬戸大橋開通を機に鷲羽山を中心に一大観光地として再開発する事業に下電は打って出た。

1988年4月10日JRの本州と四国のレイルがつながった。乙訓の老人は5月1日、下電を久しぶりに訪問した。橋の開通祝いは善通寺でやるべく、すき焼き肉と九条ねぎを背負っての出で立ちであった。この頃8ミリ撮影をしており、東下津井から始まる大カーブを畑の中から撮影することを目論んでいた。JR児島で下車したのは初めてで、西に歩くこと10分ばかりで下電児島に到着、けばけばしい装飾にびっくりした。改札内外共にも田舎の電車乗り場とは言えない装飾で、その中に1001号“赤いクレパス号”こと落書き電車が止まっていた。ほぼ満員の客を乗せ発車した。かぶりつきは先客の子供と鉄ちゃんに占拠されており、老人(この時は満50歳1日)は入り口近くで立ちん坊であった。展望電車“メリーベル号とは琴海駅で交換した。そして大カーブを辿り、ほぼ15年ぶりで下津井到着となった。

まず目についたものをOM10で撮った。今回プリントしてみたらご披露申し上げた「ざま」である。

富士カメラ店の店主はびっくり仰天、コンピュター技術駆使してやっとこさ黄色を弱く出来た、と言っている。モノクロはそれなりに見られるが、カラーは全くダメと言わねばならない。フィルムはFUJIネガカラー100で625の数字が入っている。1958年はNEOPAN SSで、30年後にまたしてもFUJIにやられた。その後、めでたく8ミリ撮影をしているが、これもFUJI COLORである。映写機が壊れたから廃棄済みである。どなたかシングル8対応の映写機お持ちでしょうか、声掛け願います。

丸亀へのフェリーは大型の新造船で、これに合わせて丸亀港も移転していた。

姉は2011年暮れに神に召されたが、今も善通寺との往来は継続中である。

投稿に並行して準特急氏から頂戴した、ナローゲージ鉄道・下電の戦後五十年“イーグルよ翔べ”を読んでいた。鉄道部門撤退、バス事業後退の中、生き残りをかけての企業の姿が画かれている。都市圏で何とか生き残っている日本の鉄道だが、百年後はどうなっているのだろうか。エネルギー効率の良い電鉄だと言っても世の中の潮流に乗れなくなると見放されるは必須である。その時のあがきが本書には説き起こされているようだ。筆者は同志社大学法学部出身である。何年度入学なのか知りたい。

これが名物落書き電車

これが名物落書き電車

掃かない車生だったメリーベル号

掃かない車生だったメリーベル号

富士フィルムは宣伝は上手、品質は一体どうなのか?

富士フィルムは宣伝は上手、品質は一体どうなのか?

べんけい号と名付けられていたが、どこを走ったのか不明

べんけい号と名付けられていたが、どこを走ったのか不明

西村君が紹介した他所で保存されたクハ6らしい

西村君が紹介した他所で保存されたクハらしい

廃線の井傘鉄道から入選したものらしい

廃線の井傘鉄道から入選したものらしい

京阪 雪景色

特派員氏のすばらしい写真に刺激されて、投稿します。京都市電もそうですが特派員氏のカメラアングルにはいつも感心します。私は高校、大学と通学に毎日墨染から三条へと京阪にお世話になったのですが、あまりに身近すぎて写真を撮っていないのです。市電や叡電も同様です。その点特派員氏は身近な日常をしっかり切り取っておられてさすがです。そんな京阪の雪景色のカラー写真が2コマだけあります。撮影日時が不明ですが多分昭和50年の2月か3月かです。このあとのコマが叡電鞍馬線なので墨染から鞍馬に向かう途中で五条駅で途中下車して撮ったようです。3000系が投入され1900が緑色になって各停運用に入っていた頃です。鴨川と疏水にはさまれて走る七条、三条間は四季おりおりの景色が楽しめてすばらしい区間でした。

京阪雪景色2

1900 淀屋橋行き各停

1900 淀屋橋行き各停

アベノハルカスⅡ

最近大阪では話題の出てきたアベノハルカスですが、最近外装工事も終わり屋上のクレーンが撤去されました。夜には一部の窓にも明かりが見られ少しはビルらしくなってきました。昭和3年生まれの阪堺線とのツーショットもいつまで見られるか気になるところです。阪堺電車の案内図には超低床ノンステップ電車「堺トラム」が2013年に登場とありました。旧型車の動向が気掛かりですね。

阪堺1

阪堺2

玉野市営電鉄制御車201号

先日、玉野市営電鉄が紹介された。荒尾市営電鉄と共に市電と言われながら一風変わった雰囲気を持つものであった。専用軌道を走る鉄道線型の車両、これが両社に共通するもので、そして戦争の落し子であったと言えるであろう。玉野の場合、制御車を導入したのは高度成長時代の一現象と思われるが、僅かの間であっただけに知る人も少ない。老人が富山で雪と格闘している時に入線し、大阪に転勤となった時には終焉期を迎えただけに、どんなダイヤで運用されたか知らない。またDC化後、訪問したことなく、どんな色をしていたのかも知らない。制御車クハ201号、野上電鉄時代の姿をお目にかけようと思う。いずれも1958年12月5日、1960年5月15日、日方車庫で調査の合間を縫っての撮影である。ツートンカラーは1958年、上半クリーム下半明るく薄いブルー。1960年は青味かかったグリーン一色であった。102号が玉野201になった由。

デハ7時代は半鋼4輪単車で、ホイルベース2438ミリのブリル21E台車に20馬力の電動機2ケで走った。1946年11月に6、7号は101、102に改番、1954年には自社で車体延長工事を施工した。約8.5m車体が11,2mになったと言うが、工事後の車体長は連結器込の全長であると思う。台車はTR26となっていたが、変芯台車であり、果たして八日市鉄道時代のものかどうか、これは須磨様の解明をお伺いを立てる事にしよう。デハ時代の自重は10トン、クハとなってからは12.4トンとなっていた。

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図面の4輪車はボギー車に改造された

図面の4輪車はボギー車に改造された

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京阪(旧)3000系を思う 〈1〉

京阪(旧)3000系の通常の営業運転が去る10日で終了した。沿線は、大変な人出だったらしいが、私はとうとう出動することはなかった。この3月、東西都市圏の鉄道ネタは、東は東急渋谷駅、西は京阪(旧)3000系が抜きん出ていたようだ。

このあとの(旧)3000系の運転は、3月中に4日間のみ、中之島発出町柳行き臨時快速特急として運転される片道一本になる。

3000系の生い立ちを見ると、私のような団塊の世代の人生とオーバーラップして見える。そのデビューは、42年前の昭和46年のこと、ちょうど私が大学4年生の時で、まさに実社会にデビューする時期だった。以来、我々世代も、3000系も、必死になって社会を支えてきた。そして、我々世代が実社会から身を引くように、いま3000系も静かに役目を終えようとしている。

それだけに3000系の引退は、特段、電車に興味を示さない私にも感慨深いものがある。3000系が、京阪特急のすべてだった時代の思い出を綴ってみたい。

3000系見学会

以前の掲示板でも、どですかでんさんが書かれているように、鉄道同好会では、昭和46年6月に、新造・搬入直後の3000系の見学会を、守口車庫で行っている。「参加24名」と青信号22号の活動報告には書かれており、やはり、3000系デビューの人気は高かったようだ。

見学したのは、3002+3102+3502の一次車3両編成だった。

外観では、なんと言っても前面のパノラミックウィンドウが衝撃だった。私鉄車輌では、名鉄5500系、京王5000系といった名車も同様のスタイルだが、関西私鉄では初である。両端に寄ったライトで、オデコが散漫になりがちだが、それをステンレス製の幌枠がうまく引き締めている。

旧3000系の車内にも入って、初の全車クロスシートの座席や自動転換機構、壁面に目を見張った。車内で撮った、たった一枚の写真には、偶然だが、亡くなられた澤村さんが写っていた。

ここで写した編成写真は、先ごろ、送られてきた、「鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション京阪電気鉄道」の表紙と全く同じ構図の写真だ。撮影者は同好会関係者ではなく、古老の鉄道ファンだが、撮影日を見ると、見学会の前日になっていた。この本は乙訓老人のご厚意で、かなりの会員に献本されていると聞いているが、巻頭企画として書き下ろし担当したのが、クローバー会会員であるほか、本文には、“同志社大学鉄道同好会”の文字が黒々と誌面に躍っている。当会の55年の歴史が凝縮された、記念号でもある。

IMG_0004守口車庫で3002編成を見学した。搬入直後の姿で、編成全体が輝いていた

IMG_0001車内は京阪特急初のオールクロスシート、真っ白な座席カバーも新車らしいIMG_0002

車内を見学する会員たち。故澤村さんの顔も見える IMG_0003 この時は、あまり写真は撮らず、鳩マークを収納した写真を撮って終わっている

下津井電鉄モハ50

これは須磨老人が優先するはずと勝手に決め込み、以下投稿に及ぶ。山陽鉄道による宇野線と宇高航路新設で、岡山一帯と四国琴平さんを結ぶ要路下津井と、途中の味野(児島)の比重に衰えを感じた地元有志が建設した。宇野線茶屋町が起点だが、倉敷との関係も昔から深く、この間の鉄道建設も何度か意図されたが実現せず、長らく国鉄バスが運行。現在では下津井電鉄バスが茶屋町-倉敷、児島-倉敷を運行し、後者は文字通り頻発である。

下津井鉄道は191928年以降ガソリンカーを投入し、当初日車21人、30人乗りの単端式車から、1931年以降60人、68人と大型化し、1934~37年にかけ6両の78人乗り大型車を加藤車輌製作所で新製。これは戦前軽便用としては最大で、これをしのぐ車輌は敗戦後の仙北鉄道キハ2406(92人)のみ。機関はウォーケシャ6MK、延べ14輌も戦前軽便では日本一である。

下津井鉄道カハ51下津井西尾克三郎撮影
下津井鉄道カハ51 下津井 西尾克三郎撮影 鮮魚台奥行きが700mmと狭いが

カハ53以降は855mmに拡大

戦時中は当然代燃で、この鉄道は途中2か所の峠があり、25‰勾配が延々と続くから、苦労は他鉄道より大きく、敗戦後電化したのも当然であった。淡路鉄道や栃尾鉄道とは違い、ガソリンカーの台車に釣掛式で30馬力×4個モーターとした。台車は鋳鋼製で、旧動台車は650+1,000mmの偏心台車だったが、そのまま使ったのである。改造は東洋電機だが、実際の作業は電機車輌株式会社なるところが手掛けたようで、出張工事だったかもしれない。

その後ナニワ工機で台車を新製して偏心がなくなり、前後荷台分車体を延長した車輌もある。

電化による蒸機全廃で、当初中古電機1輌の入手も予定したが、結局は貨車も電車が牽引た。この鉄道は客貨車の連結器は昔ながらの螺旋連環式、気動車はピンリンクから日車の簡易連結器に改めたため、大型のカハ50→モハ50型には、両方の連結器を装着し、精悍さが増した。1950年代では木製ボギー客車が健在で、ラッシュにはMTTTT編成もあった。その後の経緯は諸賢よくご存じだから省略する。

ところでこの鉄道は1925年1月22日、「起業目論見書並ニ工事設計概定書中一部変更」を願い出た。資本金50万円を60万円に増資、軌間1067mmへの拡幅と電化だけなら驚かないが、茶屋町-岡山間、すなわち宇野線の一部も「自前で」600V電化し、岡山-下津井間に電車を走らそうというものだったから、鉄道省は大騒ぎに。

運輸局、工務局は「将来運輸上ニ支障ヲ及ボスコト大ナルベキヲ以テ本件ハ承認ナサザルコトト致度」。電気局は「省(=鉄道省)ニ於テ岡山宇野間ヲ電化シ茶屋町岡山間ニ会社(=下津井)車輌ヲ乗入レシムル方技術上便利ト認ムルモ差当リ国鉄ヲ電化スルノ計画ナシ」と、潰してしまった。

結局は1926年4月20日「当線乗入運転方承認不可ノ場合ハ弊社ノ軌道改良工事ハ到底遂行出来難キ状態ニ御座候間可然(しかるべく)御処理相成度候」と取り下げ。どこまで本気だったか分からないが、その後の下津井自体の歴史にも記録がなく、ファンも一切書いていないのはどうしたことか。

「へっつい」と登山電車

25-2-22なかよし号停車中2
モデルは熱海駅前に保存展示されている「熱海軽便鉄道」7号機

昨年末、ネコパブ社より湯口先輩が執筆された「RM LIBRARY160 『へっつい』の系譜」が発刊され、購読された方も多いと思う。その中で営業線を引退した「へっつい」が横浜花月園内の遊覧列車に転用された写真が掲載されており、遊園地の乗物に転用できるほどの小さい機関車であったことが伺える。

小田原の遊園地に「へっつい」の形をした機関車が走っていることを知り、予てより見たいと思っていた。2月21日のこと、小田原での所用が、昼前に終わったので、駅の西口(新幹線側)より「いこいの森(わんぱくランド)」行のバスに乗車した。小型バス(日野リエッセ)は10人程の乗客を乗せて発車し、競輪場前を過ぎると山登りになり、尾根沿いの道にさしかかると右手に相模湾、真鶴半島が望まれ、水之尾バス停から人家が途切れ山道となり、15分で終点「いこいの森(わんぱくランド)」に到着した。

バス停のすぐ前が「わんぱくランド」の入口で、正面に「へっつい」の牽く「こども列車」の「エントランス広場駅」があった。列車は520m先の「冒険の丘駅」との間を7分で結んでいる。線路はエンドレスではなく、両端駅がループ線になっている。発車時間まで乗務員氏にお尋ねしたところ、動力は電気50A/100Ⅴで、集電は第3軌条方式とのことであった。要するに「へっつい形電気機関車」である。他に客がいないことを幸いに乗ってみたが、とても遊園地内とは思えないような所を走行した。どうせなら客車も本物っぽく作った方が良かったと思うが、そこまで望むのは無理であろう。帰りは撮影しながら歩いて戻ったが、足の速い人であれば走って追いかけながらの撮影も可能であろう。
25-2-22なかよし号走行3-2
25-2-22なかよし号走行5
25-2-22なかよし号走行8-2
軌間中央の白いベルトはゴム製で、機関車の下に着いているタイヤがこの上を走ることで粘着力を増加させている。
PICT0001
メーカーは泉陽興業と泉陽機工で2000年(平成12年)製である。
25-2-22 わくわく号
終点の 「冒険の丘」でロードトレインに接続している。
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Re.備南電鉄→玉野市営電鉄について

44-3-18 102-2
三井造船所前付近を走行するキハ102/(44-3-18) 検査中のキハ103と廃車後放置状態のクハ201が見える。

「昭和の電車」は、しばらくは山陽地方の小私鉄とのことで下津井電鉄、尾道鉄道、広島電鉄、山陽電軌が続くと思われるがで何が登場するのか楽しみにしている。

今回の備南電鉄について、早速湯口先輩より貴重なモハ102、103の写真と共に解説があった。電車から気動車に切り替わったのが昭和39年12月のため、我々団塊世代では電車時代の撮影は、地元に居住してかつローカル私鉄に興味がないと難しいと思われる。
私自身は、気動車化後の40年8月18日と44年3月18日の2回訪れている。

湯口先輩の補足と、その後の経過について述べてみたい。備南電鉄は、宇野~児島~水島間(31.4㎞)結ぶ目的で、昭和25年4月1日に設立され、28年4月5日宇野~玉間3.5㎞を開業した。この時用意された電車がモハ101、102、103の3両であった。
湯口先輩の解説通り、曰く因縁付きの車両で、蔵王高速電鉄が山形~上山間の開業にあたり日立製作所に5両(モハ3両、クハ2両)発注したが、朝鮮戦争による物価の高騰により工事が中断したためキャンセルになった車両(モハ3両)である。クハ2両は十和田観光電鉄のクハ2401、2402になり、モハ2401、2402を同形で新製して同社に納入したという噂を聞いたことがある。H.K生さんがコメントされている通り、スタイルがそっくりであることは事実であるが真偽の程は不明である。

経営難により31年3月24日付で玉野市に移管され、その後「玉遊園地前」まで延伸され営業距離が4.67㎞になった。この間に駅が11カ所、信号所が1カ所あり、駅間距離は路面電車並みで、高速運転用電車や気動車の使用は不適切であった。

湯口先輩に続き、西村雅幸氏が投稿されており重複する部分もあるが、訪れた時に撮影した写真を貼り付けた。

【気動車】
昭和39年11月17日より運転を開始し、12月24日に全面的に切り替えた。当時のピク誌「読者短信」に電車+気動車のMD編成の写真が掲載されていた記憶がある。
業績悪化により電車から気動車に転換した鉄道は、池田鉄道、栗原電鉄→くりはら田園鉄道、羽後交通御雄勝線等何件かあるが、いずれも転換後数年で廃止されている。

キハ101/上(40-8-18) 三井造船所前 下(44-3-18) 玉遊園地前
三岐鉄道より関西線四日市乗入れ中止により余剰になったキハ81を購入した。昭和9年日本車両製で元鉄道省キハ41097として新製し、26年8月に譲受け、翌年の27年9月エンジンをDMH17に換装した。入線時に変速機を液体式に変更した。
98-25.kiha101.65.8.18.maru
44-3-18 101玉遊園地

キハ102・103
昭和39年3月31日付で廃止された熊延鉄道からジハ102、102を譲り受けた。25年汽車会社製で片側(玉遊園地寄り)に荷物台が設置されており、戦後製の気動車で荷物台付は珍しい。変速機は熊延鉄道時代、33年に液体式に変更されている。
キハ102/(44-3-18)  大聖寺前
44-3-18 102
キハ103/上(44-3-18)  三井造船所前車庫で検査中 中・下(40-8-18) 玉
103 44-3-18
98-20.kiha103.65.8.18
98-21.kiha103.65.8.18
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備南電気鉄道→玉野市交通局

備南電鉄モハ103宇野1952.12.24大橋一央 関センセ紹介の、宇野から発する備南電気鉄道は、玉の三井造船所に至る専用鉄道として建設されたが、途中で敗戦、放置されていたものを、1953年動力電気で開業した。電車は日立1951年製モハ101~103の3輌ポッキリ。これは元来山形から上ノ山温泉に至る12.642kmの蔵王高速度電鉄(1948年5月7日免許、1949年7月2日工事施工認可。他に半郷-高湯間13.200kmの免許線あり)が発注した車輌と思われるが、1960年11月15日許可で起業廃止している。

この3輌の電車は1952年末にはパンタもない姿で宇野に放置されていた。この「出物」のお蔭で、備南が開業に至ったと思われる。宇野-三井造船所前3.5kmが1953年4月5日、玉まで0.2kmの延長が1955年9月10日。途中離合設備もなく、進水式などでの突発的乗客増では3輌連結し、プラットホームが1輌分しかないので3回に分け乗客扱いをしたとか。のち野上電鉄クハ102(←デハ102←デハ7)がクハ201として加わっている。

備南電気鉄道モハ102宇野1960.2.18
備南電気鉄道モハ102 1960年2月13日宇野 湯口 徹撮影 ネオパンシンドロームで見る気もしない悲惨なネガを何とかここまで回復

しかし赤字が積み重なって行き詰まり、1956年3月24日玉野市が譲り受け、1960年8月3日には玉からさらに遊園地前まで1.0km延長。この区間は市街地のため用地がなく、街の中央を流れる浅い白砂川の中にコンクリートの工作物を造り、その上にレールを敷いた。橋梁とは河川を横断するものだが、これは川の流れに沿って縦断する、世にも不思議な構造物である。なお宇野-玉野高校前間にはトンネルがあり、無人の離合設備も設けられ、2個列車走行が可能になった。

玉野市交通局キハ101-1965.4.11
白砂川(名前が泣く汚いドブ川)の中を縦に走るキハ101 1965年4月11日湯口 徹撮影  橋の数だけ踏切が出現 架線はまだ外してない

河川所管の建設省は、その断面を減ずることには無茶苦茶神経質で、かような工作物は原則許されないはずだが、なぜか罷り通ったのは、地元選出大物議員=建設族の、星島二郎の横車かと思われる。

それがまた経営不振で赤字を積み重ね、1964年10月8日動力変更認可、11月17日以降電車をやめ中古ディーゼルカー4輌に代替した。キハ101~104の前身は三岐鉄道キハ81(←国鉄キハ41097)、熊延鉄道ヂハ101、102(新製)、103(←島原鉄道キハニ104)である。

しかし経営改善には至らず、1972年4月1日廃止。両備バスに代替した。なお備南電気鉄道は水島までの免許も取得していたが、もちろん実現していない。白砂川の工作物は、廃止直後にはバラスが残り、自動車が置かれたりしていたが、今はどうなっていることか。

備南電鉄モハ100

関先生によりますと、今後しばらくは山陽地方の小私鉄シリーズと言うことで、西村さんはじめ湯口先輩や乙訓の長老様達の出番が多くなるでしょう。
最初は「備南電鉄」という聞き慣れない私鉄です。母の実家が倉敷なので宇野線沿線へは良く出かけましたが備南電鉄は知りませんでした。でもよく読むと玉野市営になった、とのことで、これなら名前だけは知っています。当時は私鉄に興味がなかったため見ることは致しませんでしたが、いまになって悔やんでおります。
後に琴電へ移ったと言うことなので乙訓の長老などはご覧になったことがあるのでしょうか。また、玉野市営では中古のディーゼルカーを購入した、とあるので、これなどは湯口先輩が先週に引き続いてご出座されるかもしれません。よろしくお願い致します。

それにしても関先生の資料はどれほどあるのでしょうか!

備南電鉄モハ100_NEW
備南電鉄モハ100(文)_NEW

伊勢志摩ライナー赤

伊勢志摩ライナーリニューアル車の赤色を載せます。曇りの日で多少条件が悪いですが、写真映りはいいようです。実際にはあまりきれいとは思えないボテッとしたイメージがあります。近鉄標準色のレッド?とも違うようですがその内慣れてくるでしょう。

伊勢志摩赤

相模クハ1110と淡路交通モハニ2007

しばらくサボっていた間に田野城会長から、関三平センセの淡路交通と相模鉄道の、いずれも旧ガソリンカー改造車が紹介アップされた。これは最近音沙汰ない後期高齢老人を狙い撃ちし、ケツを蹴り上げたのに違いないと睨んだが、黙っているわけにも参らず、その実ニコニコと、会長の誘いに乗ることに。

先ず相模鉄道のクハ1110を。時は1936年、東京横浜電鉄は川崎車輛製120人乗り―関東では最大のガソリンカーを、しかもポンと8両一挙に導入した。急行として、しかも増発でも変電所の増設が不要で、車齢は多少短くとも利息含みで投資金額が抑えられ、トータル有利との目算であった。連結器含む全長は17,694mmで、戦前私鉄では最大だった江若鉄道キニ一統の18,736mm(機関GMF13)には及ばないが、私鉄唯一のKP170(GMH17)装着車であり、かつ左右対称3扉車でもあった。

東京横浜電鉄キハ2鉄道趣味第4巻4号(33号)

東京横浜電鉄キハ8西尾克三郎撮影上=キハ2 鉄道趣味33号(伊藤東作撮影) 下=急行運転中のキハ8(西尾克三郎撮影)

実は電車線にガソリンカーやディゼルカーを投入し、投資金額を抑えるとのセールスは、日車が先駆け、予想をはるか超える広い範囲に営業活動を展開していた。その中には標準軌間の九州鉄道(現西日本鉄道大牟田線)や大阪電気軌道、参宮急行も含まれ、各種のセールス用図面が残存している。現実の売り込み成功が瀬戸電気鉄道2輌、東京支店では丸子鉄道1輌にとどまったのは、その後石油消費規正が追いかけたことが大きい。

例えば山陽電気鉄道飾磨線1937年4月6日免許取得時点では、動力瓦斯倫だった。故亀井一男氏すらご存じなかったのだから、知る人は少ない。日車はまさか東京横浜電鉄までもとは、予想しなかったのか。まんまとライバルに大魚を攫われた次第であった。

でその東横だが、わざわざ会社定款の「電気鉄道ヲ敷設シ」から「電気」を抜き「鉄道ヲ敷設シ」と改めた程、ただならぬ入れ込み様ではあった。しかしいざ導入してみると、特に勾配区間での加速性能が電車に比し著しく劣り、ダイヤを乱すことが露呈。結構勾配があり、それも急行停車駅に隣接していると、ガソリンカーには不向きなのであった。スタイルは川崎車輛ならではの欧州風であり、妻面は嵌め殺しで、コーナーの三角窓を外に開いて風を入れる。

当初重連使用を見込んだが、結局はラッシュオフの単行走行に止まった。それでも、1937年度は405,664km走行し、ガソリン消費は232,818リットルで、1リットル当たり1.74km。1輌1日160kmしか走行しなかったから、到底投資額に見合ったものではなかったことになる。その年日中戦争が勃発し、石油消費規正が始まったから、不運な車輌ではあった。

神中鉄道キハ6大谷正春1940.12厚木神中鉄道キハ6 1940年12月厚木 大谷正春撮影

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しまかぜ 他

伊勢志摩しまかぜ本日、しまかぜの試乗列車が走るとのことで伊賀神戸へ行ってきました。近鉄沿線に住んでいながら実物を見るのは初めてです。詳細はこれからも紹介されてくると思います。ついでといってはなんですが伊勢志摩ライナーのリニューアル車も撮りました。黄色の場合は外観上大きな変更はありません車体下部のラインの色が変わったのと側面にロゴが入ったくらいです。しまかぜの方は初日の指定券も20分程度で売り切れたようで今後の乗車会が楽しみです。

東急渋谷の記録今昔

昨今の鉄道写真はイベント列車ややらせの写真が多く、うんざりする。その点、天野克正さんの作品は日常の普段着の世界。予め計算されていたのか難しい逆光線をうまく使っておられ、蒸機ならではの味わいがある。天野さんの作品は当時のDRFC明徳館地下1階写真展では傑出していた。心からご冥福をお祈り申し上げます。デジ青ではどですかでんさんが蒲原電車の同種と思われる他社車両について研究し、助言を求められている。もとより私の如き単なる撮り鉄にはわからない話であるが、それでも大変興味深いものがある。さらなる研究発表を期待したい。

さて、本題であるが、先日、電車少年こと乙訓の老人さんが武州詣でに来られ、@ロギング太郎さん、藤本哲男さんと同行した。池袋より東上線急行に乗車し、越生の梅林も見ず、八高線、西武新交通システム経由で駆け足旅行を終え、渋谷道玄坂近くの高級中国料理店で宴を催した。宴に先立ち、老人さんより「この辺に玉電の渋谷駅あったな、確か谷底のような駅や」と言われ、東急、京王、営団(現メトロ)が共同開発した渋谷マークシティの道玄坂口をご案内した。玉電は1969年5月10日に渋谷~二子玉川と砧線を廃止、残存しているのは三軒茶屋~下高井戸の現在の東急世田谷線であるのは皆様ご存じのとおりである。因みにゲージは京王線と同じ1372ミリである。廃止日である1969年5月10日に撮った装飾電車デハ65の写真がある。左に井の頭線3000系が見えるが今はこのような野ざらしのホームではない。当時は4両編成で急行がない時代である。右に僅かに見えるのは営団(帝都高速度交通営団、現東京メトロ)銀座線の折り返し用引き込み線。↓s-1969.玉電渋谷花電車

これが谷底の駅玉電渋谷で停車中の電車は200形204は中間1軸の連接車。右には営団銀座線の車両が見える。多分2000形と思うが定かではない。廃線後はバスが利用し、奥にはターンテーブルがあった。↓

s-1969.玉電渋谷200

東急渋谷駅と言えば3月16日に東急東横線が東京メトロ副都心線と相互乗り入れを行うのに伴い廃止される。このため、私もその一人であるが、連日カメラを構える人で賑わっている。  ターミナル駅全体を撮り、思い出とするのが一般的であるが、マニアは現在習熟を兼ねて営業運転に入っているメトロの車両を今後見られなくなる渋谷~代官山間で記録することに主眼を置く。走らない日もあるので注意が必要である。写真は本日3月1日渋谷駅1番線に到着したメトロ7029の東横特急の到着シーンである。↓

s-13.3.1渋谷メトロ7029

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天野克正君の作品

冬隣
『冬隣』

家路
『家路』

雪の晴れ間
『雪の晴れ間』

信じられない、天野君が亡くなったなんて。まだ60歳台でしょう。
最近会ってはいないが、がっしりとした体格で筆者よりはるかに頑丈そうに見えたのに。

筆者が卒業後に、岩波君や宮本君達とよく一緒に居て、その縁で知り合ったと思う。湯口さんの写真を見ると、よく一緒に出かけていたのが判ります。

写真のセンスは湯口さんの言われる通り、筆者などは真似ができない。2006年の第一回写真展(於・大阪富士フィルムギャラリー)の出品が3点あった。デジタル青信号のギャラリーにアップされているのだが、管理人さんに無断で引っ張ってきてここに掲載させてもらった(管理人さんお許しください)。

彼の作品を見ながら、同行した時のことを思い出しています。声高らかに大騒ぎするスタイルでなく、静かであり、それでいてにこやか。穏やかな笑い声は、いつも同じでした。

筆者が特に覚えているのは、筆者の名を呼ぶとき、独特のイントネーションであった。多くの人は『つ』を高く、『る』を低く発音するが、天野君は逆で『つ』を低く『る』を高く発音した。今でもその発音が懐かしく耳に残っている。柔らかな声で、今にも呼ばれそうな気がする。それをもう望めないのは残念で仕方がありません。
ご冥福を心からお祈り致します。
またしても佳人短命、神様はいつも意地悪であると思う。

天野克正君死去

1977.61977.11974.11

天野君が亡くなったと乙訓老人からメールがあった。彼とはここ何十年も顔を合わしていない。名簿を見ると1964年商学部とあるから、乙訓老人と小生は1957年なので、卒業3年後の入学である。付き合いは社会人になり、主に車で撮影に出かけた時だったので、一緒にカメラに収まった機会は結構多かった。その内の何枚かをアップする。上から別府鉄道ハフ7車内(1974年7月13日)、「日本海」ハネ内(1977年1月14日)、木曽森林鉄道(1974年11月2日)。

彼はポッチャリした体格で、気質も同じくおおらかだった。腹を立てたとか、怒ったりした姿は見たことがない。日本海のハネに大挙乗車して津軽鉄道、南部縦貫鉄道に出かけたときは、リュックサックに何とコーヒーメーカーを背負ってきており、ハネの洗面所電源でモーニングコーヒーを入れてくれた。人数が多いから、確か3回ぐらい重ねたはずである。

写真の腕はよかった。センスというより感性といったほうが適当と思うが、何とも言えないいい写真を撮っている。それにもまして文が立った。独特というか、真似のできない、しようのない文をサラサラと書いた。

家業の魚屋を継ぎ、商店街の理事長を引き受けたと聞いていたが、あの性格で、恐らく誰からも文句のでない、穏やかで丸やかな、それでいてけじめはきっちりつけて角は立てない、立派な理事長だったはずである。