2010年12月27日にモハニ1005号を載せて以来の淡路交通です。
これはよく見るとガソリンカーの電装車らしいが今回も電車小僧の藤本兄か、軽便といえば湯口大老におまかせします。
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大阪市電 801と11
関 三平氏の「昭和の電車」は、年が明けて以降「鋼体化改造車」を取り上げられており、今回は大阪市電801形が登場した。
801形は、昭和7年木製車1001形の鋼体化改造車として801~805が製作された。路面電車としては初の前中扉を持ち、中扉はドアエンジン付の両開きであった。引続き8年から10年にかけて、正面窓を向かって左側を広くして、中扉を片開きのワイドドアにした806形(806~857)52両を鋼体化改造車として製作された。中扉は自動で半開、全開が選択できた。10年に806形と同一車体の新車881形(881~890)が新製された。
戦時中多数の車両が戦災で廃車になったため、残存車は24年の改番で前述の3形式が同一形式にまとめられ、800形801~852となった。
廃車が昭和39年と早かったので我々団塊世代の撮影は、大阪市内または周辺に居住して、路面電車に興味を持っていた人がギリギリセーフと言ったところであろう。私自身801形は辛うじて撮影できたが、流線形の901形は撮影していない。
トップナンバーの801が、森之宮車両管理事務所で保存されている。
廃車後は、神戸市交通局に20両(100形101~120)、鹿児島市交通局に4両(210形211~214)譲渡されたが、いずれも短期間で廃車された。
801/(43-7-7) 三宝車庫 廃車後保存予定車として保管されていた。
815/ (39-5-16) 港車庫前
神戸市電
昭和38年に800形20両、900形15両を譲受けた。正面窓と方向幕を改造して使用されたが、救助網が無かったことで人身事故が発生したことと路線縮小の余波を受け、43年5月1日付けで全車廃車されてしまい、僅か5年間の在籍であった。
107(元818)/ (43-4-14) 兵庫駅
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天理軽便鉄道が走った。 安堵町歴史民俗資料館
かつて天理軽便鉄道が法隆寺駅から天理まで走っていましたが、法隆寺から平端までは昭和20年(1945年)2月11日から営業休止となりました。戦争の為に線路がはずされついに昭和27年(1952年)に廃線となったのです。2月11日に天理軽便鉄道法隆寺線が走っていた安堵町歴史民俗資料館で鉄道模型運転会がありましたので行ってきました。例によって法隆寺から廃線跡を写真を撮りながら歩いて行きました。
∧ 左側に廃線跡があり、右側は大和路快速が走り抜けていく。
∧ 廃線跡に残るレンガ組み 続きを読む
冬の箱根路
箱根に行ってきました。昔から箱根の山は旅人の難所とされてきましたが。近年は小田急グループのロマンスカ、ケーブルカー、ロープウェイ、観光船、バスを利用できる「箱根フリーキップ」もあり気軽に行ける観光地となっています。ロマンスカー(はこね3号)から箱根登山鉄道に乗り継ぎ 急こう配、急カーブの線路を上っていきます。1001-2201-1002の3連の山登りの様子です。
モーターの音も軽やかに 強羅まで乗車しました。
次の電車は 旧型の104-106の2連でした。
強羅到着直前の踏切です。昔ながらのお土産屋さんが並んでいます。
その後箱根登山ケーブルカーに乗り、早雲山から箱根ロープウェイで大涌谷乗り継ぎ桃源台へ、途中富士山がきれいに見えていました。
このロープウェイはロープ2本ですので風に強いそうです。
途中の姥子駅の前に昔懐かしい「かご」が保存されていました。ロマンスカー色がなつかしいですね。
雪景色がきれいでした。
桃源台10:50発の海賊船で元箱根へ
その昔 中学校の修学旅行で観光船に乗ったことを思い出しました。159系「こまどり」と品川から富士駅までバスの旅でした。
その後バスと電車で再び強羅へ。再びケーブルカーで箱根美術館へ。
シーズンオフにもかかわらず多くの観光客を集めています。1921年開業、ケーブルカーとしては生駒に次ぐ日本2番目だそうです。2両編成の新型車になっています。
その後彫刻の森美術館に寄り、一度は行ってみたいと思っていた宮ノ下の富士屋ホテルへ、4時集合の館内案内ツアーに間に合いました。明治の香りのホテルはさすがでした。
タバコのばら売り
ぶんしゅう氏はタイでのタバコばら売りに驚いておられましたが、我等が母校同支社大生協では半世紀前(老人は1957年入学)ばら売りをしていました。普段は「いこい」(20本40円)でしたが、その日の気分で、「ピース」(フイルターつきなんぞなく両切り、10本40円)や、一番高い「富士」(10本50円だったか)なんぞを、1本とか2本とかを買いました。ところが専売公社にバレ、止めないと煙草販売資格を取り消すと脅かされ、中止になりました。神戸に就職し、自由労働者が仕事を求めて集まる場所では、やはり煙草ばら売りが行われており、懐かしく?想い出したことでした。
会長を訪ねて
梅小路公園に計画されている路面電車が蓄電池電源と分かり、お嘆きのクローバー会会長を訪ねる。会長が団体記念写真の撮影で糊口をしのいでいる西本願寺で待ち合わせ、鉄道趣味者らしく近くの東急ホテルへと向かい西洋料理の昼食とする。会長は胆嚢や腎臓を摘出しているも、お元気でにこやかで、しきりに架線集電しない路面電車計画や折角保存した市電を公園の売店に使うなどの京都市の暴挙に立腹の様子。蓄電池は流行のリチウムイオン電池らしい。梅小路の近所の電池屋が入れ智慧を和服着流し市長に吹き込んだのだらうか。B787のように火を噴かねば良いが。
この掲示板のことにも話がおよび、長老の投稿がなく如何されているのか、冬眠されてるのか、入院されてるのか、お寺参りをされているのか、ご家族から丁重に扱われているのか、ベランダに監禁されておられないか、会長の心配はつきない。かくいう通信員にも投稿が無いように思うがと、婉曲にいやみをお聞きするので、食卓の勘定書をそっと手許に曳きご馳走することでお慰めすることに。
なお、掲示板の投稿に対するコメントは製造会社が異なる二種のWinXP機からはどちらもコメントが書き込めない。別なる会社のWin7機からはコメントできることが帰ってから判明。何かの原因があるかもしれませんが、XP愛用者もお見捨てにならぬようお願いいたします。
会の運営にも会長は色々と腐心されておられる様子ですが、商人や町会長の経験を生かして、楽しめるクローバー会にしていただけるでしょう。
大宮通を南下し帰途につくと、東海道線山陰線をまたぐ高架橋を渡ることになる。何故かいまでも京都市電の架線柱が二本残っているが、なんでだろう。ここを通るときや新幹線の車窓から眺めて、在りし日の市電を思い出す。
梅小路公園の路面電車計画もただ走らすだけでは長続きせず、水族館と新しく計画の交通科学館を結ぶ移動手段になると良いのだが。
大阪市電801型
久しぶりに大阪通信員氏にお目にかかりました。
なんでもボロクチがあって京都へ来られたとか。一流ホテルで豪華なフランス料理のフルコースをごちそうになりました。
その時、「掲示板に大阪市電の801をのせますからご意見を聞かせて下さい」と申し上げましたところ、「コメントを投稿しようとしてもコメント欄に書き込めへん。どうなってるんや?」とおっしゃいますので、ちゃんと会員登録してますか?とおたずねしましたが、よくわかってられないようでした。なんでも、トップページのヘルプ欄に投稿の手順を順序を追って書いてほしい、A4サイズでプリントすることを考えてほしいなどと口走っておられるので、そのままにして帰ってきました。管理人さん、後はよろしくお願い致します。
大鉄電車
近鉄南大阪線 モ5801形
モ5805+モ5652(2両ユニット改造前)/(42-10-14) 道明寺
関 三平氏の「昭和の電車」は、年が明けて阪急201+251から始まり、阪神1001形と続き、今回は近鉄南大阪線のモ5801形の流線形モ5805・5806であった。
元々鋼体化改造車は「羊頭狗肉」の最たるものであるが、近鉄の場合は、極力お金をかけずに流用可能な部品はすべて流用したためスタイルは今一であったが、最初からショートリリーフと割り切れば、目的は十分達成したと言えるだろう。
モ5801形
南大阪線の前身、大阪鉄道が大阪天王寺~河内長野間の電車運転開始時、デイ1形として大正12年川崎造船所で13両新製された。
昭和7年デイ2、14年デイ12は、事故復旧時に鋼体化改造され、18年関西急行合併時の改番でモ5601形となり、デイ1→モ5601、デイ3~11→モ5603~5611、デイ13→モ5602に、鋼体化改造車はモ5612形となり、デイ2はモ5612、デイ12はモ5613となった。
戦後24年にモ5607が火災に遭い、復旧時に鋼体化改造され、モ5631形モ5631となった。
木製車体のまま残った10両は、30年と31年に近畿車両で鋼体化改造され、モ5801形となり、モ5601~5606→モ5801~5806、モ5608~5610→モ5808~5810、モ5611→モ5807となった。
鋼体化改造車でも奈良線のモ460形は、当時標準色のダークグリーン1色であったが、モ5801形は、車体のみであるが新車をアピールするため、関 三平氏のイラストの通りマルーンとクリームのツートンカラーであった。34年に標準色になったが、快速「かもしか号」に使用するモ5805+モ5808+モ5806は淡緑色に塗られた。尚、快速「かもしか号」は、35年に転換クロスシートのモ5820形(モ5821~5824)に置き換えられた。(モ5820形は、とんでもなく複雑怪奇な経歴も持ち主で、関 三平氏から紹介があれば解説したい)
30年に改造されたモ5801~5804は、奈良線モ460形の一部と同様、運転台側正面2枚窓であったが、42年から44年にかけて貫通扉が設置された。31年に改造されたモ5805~5810の内、モ5805と5806の2両は、張上げ屋根で当時の奈良線特急車800形類似の流線型正面2枚窓、モ5807~5810は、張上げ屋根で正面貫通扉付であった。奇数車は吉野向き、偶数車は阿倍野向きで運転台寄りにパンタが付き、元吉野鉄道の木製車デハ二100形→モニ5161形を鋼体化改造したサ5701、5702の2両を合わせた12両で、M+T+M×2本、M+M+M×2本を組んだ。ちなみに関 三平氏のイラストはモ5805+モ5808+モ5806である。(単独Mのため固定編成ではなく、中間車を外した2連のこともあった)
41年頃から奇数車+偶数車の2両ユニット化改造が行われ、モ5801+モ5802、モ5803+モ5804、モ5805+モ5810、モ5807+モ5806、モ5809+モ5808の2両固定編成となり、パンタグラフの奇数車連結面への移設、偶数車の撤去が実施された。
新型車の増備により、46年に養老線に転属して主力として活躍したが、モ5801、5802、5805~5810が54年、モ5803、5804が55年に廃車になった。
モ5801/ (42-8-20) 古市
モ5801+モ5802+モ5803+モ5804 /(45-10-4) 西大垣
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緊急メンテナンスのお知らせ
クローバー会 各位
ただ今、デジタル青信号は投稿プログラムに支障を生じたためにメンテナンス作業中です。
作業完了するまで、新規投稿をSTOPしてください。
完了して確認でき次第に、また通知を入れさせていただきます。
よろしくお願い申し上げます。
1/30 20:20追記
先ほどサーバー管理元より連絡があり、ひとまず投稿プログラム関連の問題とデータ消失から復旧いたしました。今現在動作確認中ですので、完全復旧まで今しばらくお待ちください。
1/30 22:40追記
サーバー管理元によると、掲示板の記事は30日17時45頃のバックアップから復元されたとのこと。17時45分以降に投稿された記事・コメントは反映されていませんが、その他は問題ありません。引き続き記事の新規投稿やコメント投稿をお楽しみください。
近鉄南大阪線モ5805
京都市 梅小路公園整備について
近鉄と合併前後の内部・八王子線
12月30日【27966】で、どですかでんさんより近鉄内部・八王子線の近況報告があった。年間3億円弱の赤字、車両の代替時期にきているが762㎜の特殊な車両故に多額の資金が必要等の理由から、BRT(バス高速輸送システム)への転換を地元に提案している。一方利用者数は年間360万人1日当り1万人と少ない数字ではない。ちなみに三岐鉄道に移管された北勢線は約1万3千~1万5千人で、1㎞あたりの輸送人員は内部・八王子線の方が多い。にも拘わらず収支が悪いのは、乗客の約半数が割引率の高い通学定期客であることが原因の一つと考えられる。(内部・八王子線の乗客割合は通学定期47%、通勤定期31%、定期外22%、近鉄全体では通学定期22%、通勤定期39%、定期外31%)
地元では、最も影響を受ける沿線の高校が反対しているが、近鉄はBRTに転換することにより、運営費用の半減、車両の冷房化(電車は非冷房)、停留所の増加による利便性の向上、運行本数の増加、バリアフリー化が可能となる等優位性を挙げ、心配されている通学時間帯の輸送力に対しては、連接バスで対応するとしている。現在の3両編成の電車と連接バスを比較すると、電車の方が多少有利であるがバスの増発により解決は可能である。所要時間は現在の並行路線バスは道路混雑のため電車の倍かかっているが、専用道路を走行するため、多少伸びる程度としている。
BRTに転換後の事業主体が近鉄直営になるのか、三重交通になるのか、また運賃は現在の水準が維持されるのか(並行する三重交通バスは電車より高い)、不透明な点が多いが、仮に事業主体は近鉄のままで、運賃は名古屋線、湯の山線の乗り継ぎを含めて現行と同額となれば、あえて反対する理由がなくなり、廃止されてしまう可能性が高い。あくまで鉄道の存続にこだわるならば、四日市市が近鉄から施設を買い取り、民間に委託する「公設民託」になると思われるが、そこまでの熱意は感じられない。また、762mmゲージを逆手に取り、下津井で眠っている「メリーベル号」を譲り受けて観光路線化することも考えられなくはないが、沿線に目玉となる観光施設がなく実現には困難な状況である。
近鉄は四日市市に対し8月までに回答を求めており、今後の市の対応に注目したい。
内部・八王子線は、三重電鉄時代の昭和39年12月20日、近鉄と合併後の40年5月25日、43年4月29日と3回訪れており以降は行っていない。尚、三重電鉄と近鉄の合併は40年4月1日である。(三重電鉄は39年2月1日三重交通の鉄道部門が分社して設立され、翌年4月1日に近鉄に合併されたので1年2カ月しか存在しなかった)
39年と40年は京阪沿線の高校時代で、京都からは決して交通の便の良くない四日市までわざわざ行ったのは余程物好きであったのだろう。当時の状況を写真で振り返ってみた。
近鉄との合併時に引継がれた車両は下記の通りである。(合併後の形式、車号で表示)
モニ210形4両(モニ211~214)、モニ220形2両(モニ228・229)、モ230形1両(モ231)、モ240形1両(モ241)、サニ110形3両(サニ111~113)、サ120形1両(サ121)、サ150形5両(サ158~162)、サ130形2両(サ131・132)の以上M車8両、T車11両である。
モニ210形(モニ221~224)
前身の四日市鉄道時代に昭和3年田中車輌でデ50形(デ51~54)として新製。昭和19年2月11日、神都交通を母体に三重県下の交通企業戦時統合で三重交通となった時の改番でモニ211形となり、近鉄との合併でモニ210形となった。
日永を発車したモ二211/最後尾のためパンタが下りている。(39-12-20)
モニ214/(43-4-29) 内部
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こんなんありました。「澁谷駅改良工事」
JR渋谷駅は、平成8年3月16日、埼京線のホームが新設されたが、山手線ホームの東隣に東急東横線のホームがあるため、南側の貨物駅跡に設置された。山手線ホームとは約350m離れており、私鉄各線への乗換えに時間がかかり、駅周辺の商業施設からも離れている。
3月16日、東急東横線の駅が東京メトロ副都心線との相互乗入れにより地下に移転するため、その跡地に埼京線ホームを設置することになった。
現在の渋谷駅は増改築を繰り返しているため迷路のようになっており、日常的に利用している人以外は非常に判りにくいため、駅周辺を含めて大規模な整備工事が行われ、完成は2016年とされている。
東急東横線と副都心線の相互乗入れが開始されると元町・中華街と西武池袋線飯能、東武東上線川越市(一部は森林公園)間が直通で結ばれ、横浜と埼玉県中部の都市間の利便性は格段に向上する。
かつて「犬猿の仲」言われていた「東急」と「西武」がお互いに相手路線に乗入れするのだから時代も変わった訳である。「西武VS東急戦国史」(小堺昭三著、角川文庫)に詳しく記述されているので興味のある方はお読みいただきたい。
画像は半世紀以上前、昭和30年の改良工事の時に乗客に配布した「お願い文書」である。戦後10年も経っているのに「澁」に旧漢字が使われていたり、「誠にお気の毒ですが」等の表現が興味深い。
裏面は山手線の時刻表である。ラッシュ時4分、昼間6分間隔で運転されていたことが判る。興味深いのは、内回りの恵比寿行と外回りの巣鴨行で、駅の電留線に駐泊していたものと思われる。巣鴨駅の駒込寄りに当時の電留線が残っており、保線車両の留置線として使用されている。
阪神1001型
台湾DR2700型
ブギウギさんの「2012年の暮れ台湾へ(上)」[28374]に登場したDR2700型気動車の光華号時代の姿。撮影したのは中華民国57年(1968年)で蒋介石、毛沢東が存命の時代であり、日台間に国交があった時代である。
台湾の看板列車は客車の観光号と気動車の光華号で、ヘッドマークは前者は台湾が、後者は中国大陸が描かれていた。
DR2700型は1966年に登場。東急車両製ステンレスカーで椅子は台湾製、機関はアメリカカミンズ製(世界の鉄道68朝日新聞社)。
↑1968.5.1 台中駅 台北発2001車次高雄行き 途中の停車駅台中、台南
↑ 当時の台湾の時刻表表紙に出ている看板列車光華号
↓ 44年ぶり撮影DR2700 海端付近を行く4682車次玉里発台東行き 2012.5.1
阪急 251+201
平成25年度の「昭和の電車」の幕開けは、新年にふさわしく阪急251であった。
我々の世代が現役の頃は、嵐山線専用車となっていたので桂駅で見られたり、実際に乗られた方も多いのではなかろうか。私自身小学生の頃、初めてこの電車を見た時、阪急には不思議な電車があるものだと思った。
前歴は焼失したP-5形のデロ25とフロ55の足周りを利用して昭和12年田中車輌で新製された。千里山線で使用されていたが、小型車2両固定編成のため輸送力が追い付かず嵐山線で使用された。昭和40年代になると嵐山線でも乗客の増加により朝のラッシュ時はP-6等の大型車が入り休んでいたように思う。
松尾駅の212+261+211/(39-1-25)
251+201と共に嵐山線専用車として使用されていた。前歴は新京阪から引継いだ電動貨車3000形の電装品、台車を流用して昭和31年ナニワ工機で新製された。当初は千里山線で使用されていたが、小型車3両固定編成のため使い勝手が悪く、38年頃から嵐山線専用となった。51年廃車となり212と211は広島電鉄宮島線で再起した。
桂駅停車中の131+1516/(43-8-15)
上と同じ日の撮影であるが、この日は212+261+211の代わりにP-6の2連が入っていた。
今でも気になる江若鉄道(番外編)
栗原(昭和56年1月18日)/写真の子供達は今では35~40歳になられている筈である。このバスのことを覚えておられるであろうか。
昭和44年11月1日鉄道廃止後、江若鉄道は江若交通に社名を変更してバス専業となったことはご存知の通りである。私と江若との関係はこの時点で一旦途切れたが、数年後再度江若通いが復活した。
49年秋頃だったと思うが、職場の同僚から「鯖街道を車で走っていたらボンネットバスと擦れ違った」という話を聞いた。湖西線開業後、堅田、安曇川、近江今津の各駅には何度か乗り降りしているが、ボンネットバスなど見たことがなく俄かに信じ難かったが、やはり気になるので堅田まで出かけてみた。駅到着直前左手のバスの車庫を見ると確かにボンネットバスが停まっていた。夕方になると次々出庫して、和邇行、町内循環、細川行で発車して行った。
昭和55年1月には、「滋2い1073」「滋2い1074」「滋2い1081」「滋2い1082」の4両が健在で、葛川線、和邇・途中線、栗原線、堅田町内循環線(朝・夕のみ)、浜大津線の本堅田~和邇駅間(和邇・途中線と栗原線の入出庫運用)で使用されていたが、同年2月から中型リヤエンジン車と代替で廃車が始まり、57年2月には全車姿を消した。
現役時代を写真で振り返ってみた。
滋2い1073/ (51-11-21)
41年2月初年度登録 いすゞBXD30、車体は帝国自動車製(メーカーと車体は以下の3両も同じ)、昭和55年2月13日付で廃車になった。
部品取り車として、堅田営業所、後に整備工場の片隅に置かれていたが、福山自動車博物館でレストアされ、福島県の磐梯東都バスで再起した。「森のくまさん号」の愛称で観光シーズンに桧原湖周遊線で使用されている。
滋2い1074 (55-6-1)
41年6月初年度登録で、56年2月12日付で廃車になった。廃車後、堅田の「名鉄マリーナホテル」に売却、この後近江鉄道に売却され、現在も「彦根ご城下巡回バス」に使用されてる。
滋2い1081 (57-2-11)
42年7月初年度登録で最後まで残り、57年2月16日付で廃車になった。最後の1両になった時、予備車として殆ど稼働しないのではないかと思ったが、ほぼ連日、葛川線の堅田~細川間を1往復走行した。会社主催の撮影会、趣味団体のお別れ乗車撮影会も開催され、最終営業日の2月15日には細川で折返しの間合い時間を利用して、葛川小学校の生徒を招待して葛川学校前~坊村間を往復した。廃車後は久多の小学校に寄贈されるという話を聞いたが、その後の消息は不明である。
滋2い1082
42年7月、滋2い1081と同時に登録され、滋2い1074と一緒に56年2月12日付で廃車になった。方向幕はあり得ない行先を表示しているが、このようなコマも持っていた。
廃車後は濃飛乗合自動車に売却され、ボンネット部分を古いものに取換え、扉を前部に移設等の改造を加えられ観光路線で使用されている。
【葛川線】(堅田~途中~細川)
昭和9年11月堅田~還来神社間を開業して、一足早く8年10月に個人営業の路線を譲受けて開業した和邇・途中線と還来神社でドッキングした。途中から先は花折峠前後の道路整備が遅れていたため、35年4月にやっと葛川中村まで開業して、安曇川~葛川中村間の路線と結ばれた。安曇川~葛川中村間は、8年2月安曇駅前~朽木岩瀬間、戦後の24年12月朽木栃生まで、28年2月葛川中村まで開業した。
堅田駅前に停車中細川行、隣のマイクロバスは町内循環線。(55-2-10)
途中で発車待ちの和邇行 /(56-1-25)
花折峠を登る /(56-11-22)
坊村/雪の比良山にアタックする登山客 (54-3-3)
比良リフト、ロープウェイが廃止されたため、比良の最高峰武奈ケ岳へはここから登るのが最短距離となるため、現在でも多くの登山客が利用する。
細川終点/(54-3-3)
小さな車庫があり、堅田発と安曇川発の最終バスと乗務員が宿泊した。
【和邇・途中線】(和邇~還来神社前~途中)
歴史は古く昭和8年10月に個人営業の路線を譲り受けて開業した。現在は、栗原道~還来神社前間が廃止されて、「和邇・途中線」の名称もなくなった。
出口~上龍華/ (55-3-23)
この時点での風景は戦前と変わらないような気がするが、現在はどのように変化しているだろうか。
還来神社前/ (55-4-23)
戦時中は親族の無事帰還を願う多くの人々の参拝で賑わったそうであるが、今はひっそりしている。
【栗原線】(栗原道~栗原)
昭和44年7月「和邇・途中線」の支線のような形で栗原道~栗原間を開業して和邇駅から栗原までバスの運行が開始された。その後、栗原集落の先に宗教団体の施設が開設され信者さんの輸送のために51年1月栗原~妙道会聖地間が延長された。但しこの区間にボンネットバスが営業で走った実績はない。「和邇・途中線」が廃止されたため、現在は「和邇・栗原線」と名称が変わっている。
栗原を発車して和邇に向かう/ (57-2-11)
廃車直前に1年振りにボンネットバスが栗原線を走り、栗原のバス停では地元の人が記念撮影する光景が見られた。
栗原道~栗原/ (55-3-23)
雪の比良連山をバックに走る。
【堅田町内循環線】
堅田町内循環線の経歴は複雑で、元は浜大津線のバスが町内を経由して運行されていたが、38年1月のダイヤ改正で下り便の全便と上り便の堅田以北の便が町内を経由しなくなったためサービスダウンの救済策として設定された。
48年2月専用のマイクロバスが新製されたが、朝夕のラッシュ時には捌き切れないためボンネットバスや大型車(BA20)が使用された。
【さよなら運転】(昭和57年1月17日)
「滋2い1081」の廃車日を約1カ月後に控えた1月17日、お別れ乗車・撮影会が開催され当会からは私と特派員さんが参加した。参加者は35名位で全員が着席できないため補助席代わりのパイプ椅子を積んで出発した。運転士はお名前を忘れてしまったがよく知った方、車掌兼添乗員は本社総務課長の畠中氏自らが乗務された。コースは堅田から国道161号線を北上して安曇川営業所で昼食。県道23号線から朽木に出て朽木車庫で休憩。国道367号線(鯖街道)を南下して細川から堅田行のルートで堅田に戻るというもので、距離は約75㎞、下車して撮影した個所は22カ所に及び参加者一同大満足の1日であった。ボンネットバスが走ることがない場所で撮影できたことは良かった。また「滋2い1081」の最初の配置は安曇川営業所であり、その意味でも良かったと思っている。
当時バスの営業所に鉄道から異動された方がおられて、鉄道時代の思い出話をしながらバスについてお教えいただき、車両の動きがある度に連絡をいただいた。ボンネットバス運行最終日直前の2月11日と14日には運用変更をしていただき、和邇~途中線、栗原線を走行して地元の方に喜んでいただけたこともよき思い出である。