#84524西村雅幸氏「三重。岐阜の旅(3)」に出てきた可動橋に関し、80.6歳老人が禿筆を以ってコメントしたギリシャの水没橋が、メーターゲージの鉄道橋と記したのは全くの記憶違いで、単なるケチな道路橋でありました。TVアナではないが、「謹んでお詫びし訂正致します」。
ギリシャは間違いなくヨーロッパ大陸だが、その南部ペロポネソス半島は、6キロ足らずだけでつながっているため、コリントス運河が掘削され、東のミルトア海と、西のイオニア海を結んでいる。上の写真のように切り立った崖で有名で、これだけ掘り下げるのは大変だったろうが、メーターゲージの国鉄線がこの鉄橋を渡り、国道と高速自動車道路がそのすぐ横で渡っている。運河の幅はさして広くないから、当然通過できる船もそう大きくはない。
この運河の西端は全くの平地で、シケた地方道がその河口(運河だから河口とは言わないか。要は西口)を渡っているのだが、その橋の中央桁を船の通行時水没させるのである。
これが完全水没直前の件の橋桁。
その通過時間中―詳しくは忘れたたが、1時間以上待たされたか。何しろここで渡らないと、国道まで戻らなければならないし、結構面白かった記憶がある。
何分河口?だから、ここだけ運河底を掘り下げたと思われるが、確かに安上がり工法ではあろう。しかしあんまり他では見られない景色であった。
という訳で、鉄道とは全く関係ない橋でスンマヘン。
地図を携えて線路端を歩いた日々 -7-
▲夕方の西舞鶴駅、盛大な煙を吐いて、重連の牽く列車が発車して行った。まだ暑さが残る。窓は全開だ(昭和45年8月)。
B地点〈西舞鶴〉
つぎの撮影地はB地点、と言っても駅間ではなく、西舞鶴の駅構内です。機関区の所在する西舞鶴へは高校生時代に訪れて以来、何回か行き、宮津線への乗換え時間に発着する列車も撮影してきました。駅は宮津線用の切り欠きホームも含む二面四線構造、西側に機関区、東側に広大な貨物側線があり、地方の中枢駅の典型的な駅構造でした。また地図を見ても分かるように、臨港線や工場の引込線が多くあり、貨車の出入りも活発でした。
広島から小ネタ2題
またしても中国新聞ネタです。ひとつは三江線関係です。以前にもご紹介した廃止後の資産の処分問題です。
どう考えても「タダほど高いものはない」わけで 慎重姿勢は当然でしょう。✖✖学園や〇〇学園をこういう土地に建てれば 安上がりで かつ地方創生になるのでは?
三重・岐阜の旅(4)
塩浜からバスであすなろう鉄道泊駅に向かう途中 予定していなかった南四日市駅での山九DB20との出会いに気を良くして泊駅まで歩き、あすなろう鉄道全線に乗車しました。今年4月に下津井で保存中のナロー電車に乗り込んでいたとは言え、現役のナロー電車は久しぶりの乗車体験で興奮しました。各車両とも更新工事が施され、車内のフロアスペースを犠牲にしてエアコンを設置したり、紫外線カットガラス?にするなどサービス向上への取組みの跡が見られました。きれいな車体とは不似合いな吊掛けの何とも言えないモーター音を堪能しました。あすなろう鉄道にも満足し、近鉄富田へ向かいました。三岐鉄道に乗り換えて、まず車庫のある保々で下車。短時間ながら、車庫周辺を歩いて 居並ぶ電機を撮影しました。セメント列車が運休期間中なので、多くの電機が休んでいました。
ここで珍しいものを見つけました。
地図を携えて線路端を歩いた日々 -6-
▲“昼寝”している寝台車を活用した全車指定の海水浴列車、臨時急行「はしだてビーチ」。冷房付き客車はグリーン車、寝台車、食堂車に限られ、座席車では皆無だった時代、いちばん暑い時期に冷房付きの列車に乗れるのは画期的で、乗車率も高かった。舞鶴線内は福知山区のC57が牽いた(昭和44年8月)。
A地点 〈真倉付近〉
写真展も終わって二週間余り、まだ高揚感が覚めやらぬところですが、少し間の開いたデジ青投稿に集中することにします。「地図と撮影地」シリーズの第二回目は、京都からは日帰り圏内の舞鶴線真倉~西舞鶴~東舞鶴としました。高校生の時から機関区訪問で西舞鶴などに下車することはあっても、駅間の走行中を撮影に行ったのは、昭和44年の大学2年の時でした。添付の地図は、その後に購入の多色刷りですが、当時買った地図は、まだ右書きの一色刷りの旧版地図で、未知への土地へのイメージを大きく膨らませたものです。
伊賀の水鏡
桜の次は鯉のぼり、水鏡ですが当地伊賀地方は田植えが比較的早く、五月の連休頃から始まります。このため五月中頃を過ぎますと田植えも終わり水田は水がはられた状態となります。今日は近場で撮ってきました、築堤も入れての構図となりましたが線路のすぐ横に水田のある場所はまだ田植えが終わっていないので映り具合は100%とはいかなかったです。午前中ですがあまり鮮明には映り込んでいません。 続きを読む
「国鉄157系」に寄せて
関 三平氏のイラストともに米手作市様と湯口先輩が撮影された「ひびき」が公開されたが、いずれも短かった非冷房時代の貴重な画像である。
157系は、昭和34年にクモハ157、モハ156が1~5の5組、サハ157が2両(1・2)、サロ157が2両(1・2)の14両、35年にクモハ157、モハ156が6~10の5組、サハ157が3両(3~5)、サロ157が3両(3~5)の16両、38年にサロ157が1両(6)の計31両新製された。尚、貴賓車のクロ157は35年に新製されている。
35年製と36年製は、準急用ということで冷房の設置は見送られ、準備工事のみであったが、37年度予算で取付けが行われ、38年1月から工事が始まった。38年製のサロ157-6は当初から冷房付で新製された。
関 三平氏のイラストの「ECAFE SPECIAL」号が運転されたのは、昭和38年4月15日のことで、編成は下り方向からクモハ157-1+モハ156-1+サロ157-6+サロ157-4+モハ156-2+クモハ157-2であった。
以上のことから「関さんのイラストは冷房がついてまへんで、おかしいのとちゃいまっか」とツッコミを入れる方がおられるかもしれないが、「鉄ファン」「ピク」のバックナンバーは京都の実家の物置のため確認できていない。手近に取り出せる方は是非確認をお願いしたい。
冷房改造後の157系をご覧いただきたい。
クハ157-6/(39-8-23)
正面のデザインは、185系、117系に踏襲されたのかどうかは判らないが、似ていることは確かである。
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スイスのカートレイン
この老人も我が家の実力者(ヨメ様)のお供で、スイスツアーに参加し、行程にカートレイン乗車があるのがウリの一つだった。団体旅行だから勿論大型バスで、サイドミラーを畳み、そのまま貨車に乗り込むだけでなく、連結した貨車を何両も走り続けるのは結構迫力があった。時は2002年8月で、もう15年前になる。
これは貨車に乗る入口。やっぱりランプというのかな
これは下車する車。こに1枚だけ色補正を誤り、乞うご容赦
別段貨車の内側サイドにプロテクターの類はなく、幅は標準軌間とはいえぎりぎりで、よく車体を擦らないもんだと、運転手の技量に感心した記憶がある。下の写真では、当方のバスは下車するが、左側にこれから乗り込む乗用車が列をなしている。
青信号特派員氏の疑問を解く
拙稿の上り「白鳥」に関しての疑問が投稿されていました。
とりまとめると、
①下りの後追い写真ではないか?(つまり南側二線は下り用)
②その時だけの臨時運行ではないか?
撮影後六十年も経って写真の検証をするとは思いも寄りませんでした。いくら頭を絞っても確実なことは思い出せません。そこで当時の写真を撮影コマ順に並べて時系列で検証しました。その写真をご覧に入れますが、全く補正などはしていませんので見にくいのはお許し下さい。
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三重・岐阜の旅(3)
日本石油四日市製油所に出入りするタンク車は塩浜貨物駅でJR貨物のDD51と受け渡しされます。その様子を見てみましょう。塩浜駅着発のタンク車は篠ノ井線南松本駅間に不定期を含め5往復が設定されています。内陸部へのガソリン輸送はやはり鉄道輸送が最適なのでしょう。
上の写真は 先ほど日通のDLに牽かれて到着した満タンのタンク車の先頭に愛知機関区のDD51889+DD51857が連結さたところです。このあと一旦本線上に引き上げて、近鉄線に近い側の出発線に転線します。
北欧の旅(カートレイン)
少し日が経ってしまいましたが、3月初めより2週間北欧に行ってまいりました。日本から一番近いヨーロッパと言われるヘルシンキから北欧3か国とエストニアを訪れ、ドイツ経由で帰国、主に乗ることを楽しむ旅でした。この中で今までデジ青に載ったことがない話題についていくつか報告させていただきます。1回目はカートレインという車と乗客を一緒に運ぶ列車についてです。
私は見たことがありませんが、1980年代から90年代にかけて日本でもカートレインが運行されていました。当初は人気があったものの、10年余りで廃止され短命に終わったようです。日本のものは自動車を運ぶク5000形とは異なり、ワキ10000形を改造し1両につき3台の車が運べるというものでした。積み込みの方法は自走してまずパレットに載せ、このパレットをフォークリフトでワキ10000に積み込むというものです。これに対しフィンランドのものは2種類の専用車があって、私の見たものは二階建てで1両に12台が運べる本格的なものです。妻面が開くと隣の車両とは踏面がつながって、内部を車が自走することができます。スロープから自走して奥から順番に収納されるため積載にかかる時間は短くて済みます。ヘルシンキを中心に南部地方からからラップランド地方を結ぶ路線でおおむね3往復、週末は加えて2往復運行されており、寝台列車に併結されます。
↑ 1両の長さは31.6m、中央部が蛇腹状になっていてカーブに対応しているようです。 続きを読む
三重・岐阜の旅(2)
名松線の乗り鉄を楽しんだあとは、松阪から近鉄で塩浜に向かいました。西日本では見ることができなくなった石油類輸送のタンク列車とそのタンカーを受け渡す小型ディーゼル機関車とDD51を見るためです。近鉄塩浜駅はJR貨物塩浜駅に隣接しています。この塩浜貨物駅の先に日本石油の製油所があり、小型のDLがタンク車を牽いて塩浜貨物駅まで出てきます。
デハボ1201様に答える
私の無責任投稿をご覧になった”デハボ1201”様から「白鳥上りが下り線を走っているのでは?」とのご質問を頂きました。現在は緩行線と列車線が平行して上下に分かれています。当時の写真を見ると上下別に二組走っていたようです。私は設備に詳しくありませんので誰か線路配置に詳しい方が代わって説明して下さい。
またまた山科
また山科でっかいな、ええ加減にしなはらんかいな、との「うんざり」声が少なからず?聞こえそうだが、今回はひと味違った山科である、と最初に言い訳しておこう。東海道本線は1956年11月19日全線電化が成り、当然に蒸機の姿が消えた。しばらくは特急やらモハ80系、貨物のEH10なども珍しかったが、そのうち見飽き?て大築堤にも上らなくなった。
しかし待てよ、ここに住んでいる以上、誰にも撮れない写真が撮れないか。折角カメラのレンズがf2なのだから、夕景あるいは未明の写真が撮ってみようじゃないの、と考えたのである。
今のデジタルカメラなら、感度がいくらでも挙げられ、多少画面は荒れたとしても知れているだけでなく、感度を上げることによって画面コントラストが上がらない。既に京都駅未明に足を運ばれ、ご苦労なさった写真も紹介されている。
アナログ写真では、当時ネオパンSSSが感度200で、現像により800ぐらい。無理すれば1600までは上げられても、粒子の荒れとコントラストのきつさが不可避。つまり列車写真では空が完全に飛んでしまうのである。それを感度はさほど上げずに、普段滅多に使うことのない開放絞り=f2で撮ってみようという訳だ。
以上が前置きで、早速やってみた。先ずは夕刻ヘッドライト点燈後を狙う。焦点深度が浅いし、シャッター速度もせいぜい1/125ぐらい、貨物なら1/60でもいけるか。あんまり寄れないのが残念だが、先ずは撮ってみるしかない。
三重・岐阜の旅(1)
写真展の最終日に祇園を訪ねたあと、近鉄特急で伊勢方面に向かいました。主目的は三重県下の私鉄・専用線訪問です。まずは訪ねたことのないJR名松線の乗り鉄から開始です。
平成21年の台風18号による被災によって 家城駅から伊勢奥津駅まではバスによる代行運転が続けられ、鉄道の存続も危ぶまれた名松線ですが 平成28年3月26日に不通区間は復旧し、何とか運行が続けられています。松阪発9:38の411Cで名松線初乗りです。
松阪駅を出てすぐに紀勢本線から分岐するのかと思いきや、かなり本線上を走ったところでようやく分岐点があり、またそこから本線とかなり並走してからようやく本線と離れてゆきました。
こんなモンもありまっせ!
しばらく写真展の話題で持ちきりでしたがどうやら一段落、またぞろツナギの写真で間を持たせます。
特急ひびきの先頭クロ
特急「ひびき」
国鉄クハ157系
こんなもんが
「こんなもんありまっせ」というより、「こんなとこにも行ってましたで」という古い写真をいくつか。先ずはこの名刺をご覧あれ。
甲斐大泉駅前とあるからには、小海線甲斐大泉駅前、それもどんな誇大広告でもせいぜい10分以内であろうとは、だれしも思うだろう。処がそうじゃないから世の中は難解である。大泉駅前なら必ず電話番号が書かれているはず。話は1962年にさかのぼり、この年1月重澤旦那と小生のコンビが真冬の小海線で野宿し、凍死こそしなかったが零下30度以下でひどい目にあった?話は以前にした。
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