ある友人から写真を頼まれ、限りなく忘却の彼方とあって空しく探し回っていたら、肝心のものは見つからず、こんなどうでもいい写真があった。本来なら一顧だにしないところだが、偶々「ひびき」だの「クロ」だのと、タイミングが合致したのでご高覧に供する。モハ63系と70系ならバッチリ?見分けられる小生は、かような電車に全く興味がなく、先頭車がもし「クロ」なら、その旨ご教示を賜りたい。ネガは憎っくきヴィネガー・シンドロームにコテンパンにやられ、見る気もしないが、幸いキャビネにプリントしていた。撮影は確かでないが1959年頃か。
特急「ひびき」
国鉄クハ157系
こんなもんが
「こんなもんありまっせ」というより、「こんなとこにも行ってましたで」という古い写真をいくつか。先ずはこの名刺をご覧あれ。
甲斐大泉駅前とあるからには、小海線甲斐大泉駅前、それもどんな誇大広告でもせいぜい10分以内であろうとは、だれしも思うだろう。処がそうじゃないから世の中は難解である。大泉駅前なら必ず電話番号が書かれているはず。話は1962年にさかのぼり、この年1月重澤旦那と小生のコンビが真冬の小海線で野宿し、凍死こそしなかったが零下30度以下でひどい目にあった?話は以前にした。
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写真展「鉄路輝く」 滞りなく終了
5月3日から開かれていた第7回クローバー会写真展「鉄路輝く」は、86さんから報告のように、5月9日、千秋楽を迎えました。この日も朝から熱心な来場客があり、会員とともに、あの話この話に盛り上がりを見せていました。そして午後4時、この日はこれで終了、即撤収で、つぎの設営が待ち受けているため、許された時間は30分、そこは結束力で鳴らしたクローバー会、某責任者の号令一下のもと、逆らう者もなく、てきぱきと作業をすすめ、30分後にぴったり作業を完了、“立鳥跡を濁さず”のごとく、10分後には写真展会場を出て現役生の新町ボックスへ額を戻し、ゲストの写真・額は私宅へ運び込み、午後6時には、撤収作業を完了しました。お世話になりました会員の皆さんに厚く御礼申し上げます。
▲黙々と、しかし効率的に作業を進める会員たち。静岡県や三重県から遠路駆け付けた会員もいて、一糸乱れぬ作業ぶりで、予定どおりに終了した。
写真展を楽しませていただきました。
第7回写真展が本日幕を閉じました。期間中何度か受付をさせて頂きましたが、いろんな方が来られて、話も弾み、楽しませていただきました。その中での話題です。
6日に来られた方、名刺と共に一枚の写真を取り出されました。昭和38年学鉄連でカメラバスツアーが行われた時の記念写真でした。学鉄連は昭和38年4月に発足したそうで、この年の10月この年の当番校となった甲南大学が計画したツアーです。持参されたメモ書きには25名が参加、その中に同志社の方も3人おられたのだが、どなたかご存知の方はおられるでしょうかとのことでした。何せ50年以上前のこと、とりあえず写真をいただいて、聞いてみますと言ったものの全くあてはありませんでした。しばらくしてこられた大阪通信員様にこんな写真がありますが、とお見せしたところ一目見てこの右端は僕やとのこと、他の二人の方もお名前が判明し、50年以上の時空を隔てて時間がつながりました。↑ 大阪通信員様の了解を得て掲載させていただきました。
今日の最終日に来られた方、しばらくしゃべった後、カバンから本とアルバムを取り出されました。本は、交通公社昭和52年発行の時刻表復刻版、当時5000円もしたものです。アルバムはN電、蒸機の写真が満載、断捨離したいのでどなたかもらっていただきたいとのことでした。いずれも貴重なものでありがたくいただきましたが、ちょっと複雑な気持ちでした。
この他、乙訓のご老人が常々「僕の師匠や」と話されていたKさんがこられました。80代半ばと言われていましたが、お元気で、伝説の方かと思っていた方からありがたく名刺をいただきました。みなさんご熱心でゆっくり写真を見られ、長い方は3,4時間も滞在して話し込んでいかれました。私の参加した中ではいろんな意味で一番面白かった写真展ではなかったでしょうか。写真集めからプリント、額装などの事前準備、また連日会場に詰められた総本家青信号特派員様ありがとうございました。
三江線駅物語 その2 三次駅
4月15日[83825]で所木駅の記事をご紹介しました。えらく間延びした連載記事で その2の三次駅は5月3日の掲載でした。スキャンしていたのにアップするのを失念していました。
「寒中北海道見聞録10号車」のKAWANAKA氏のコメントにもあるように、「公共性」を投げ出して「経済性」しか考えなくなったこの国が 本当に住みやすい国になってゆくのかと 地方で生活していると肌で感じます。「地方創生」などと耳ざわりの良い言葉がむなしく聞こえます。
「こんなモンありまっせ!」に寄せて(2)
米手作市様より、クハ86で、流線形との合いの子の車両を見たことがあるとのことで、河 昭一郎様よりクハ86021、022ではないかとのご回答をいただきました。
当件に関して「鉄道ピクトリアル2011年7月号」に河様がお書きになっておられますが、お持ちでない方、探すのに時間がかかる方がおられると思いますので少し書いてみたいと思います。
80系は編成単位で新製されましたが、クハ86のみを取り上げると、昭和24年に001~020の20両が正面3枚窓で新製されました。
翌25年早期に東急横浜製作所で新製された021と022は、試作車として正面2枚窓で新製されました。
昭和39年8月10日、京都駅のクハ86021です。
38年10月、新前橋から高槻に転属、40年2月広島に転属して53年6月下関で廃車になりました。
昭和48年1月28日、広島駅のクハ86022です。
関東から一旦大垣に転属して47年3月広島に転属しています。53年2月下関で廃車になりました。
【参考】昭和49年1月2日、京都駅のクハ86074で、昭和30年7月近畿車両製です。
クハ86021、022との正面のスタイルの違いがお判りいただけると思います。
寒中北海道見聞録 10号車(最後尾)
京都を出て18日目、小林氏と私は青森駅から米坂線に向かいます。
・雪の米坂線を行く
4:38米沢着。米坂線一番列車は5:10発121レである。
59663[坂]+オハフ61521(坂町行)+オハユニ6145(今泉行)+オハフ61360(今泉行)+オハ61302(坂町行)+オハ61413(坂町行)+スハニ642082(坂町行)(全車秋ヨネ)
今泉までは平坦線で田園風景(と言っても夜明け前でよくわからない)の中を行く。やがて空が白み始める。夜明けはいつ見ても良いものである。今泉では30分余り停車する。大きい荷物をかついだ行商人が多く乗り込んでくる。おばさんたちはひとまず荷物を置いてホームでソバをすすっている。ホームの外れでは96が石炭と水の補給を受けている。今泉の駅はおもしろい駅で、赤湯から来た長井線が今泉で米坂線と接し再び別れて荒砥まで伸びている。
6:27今泉を発車した列車は次第に山間部に入って行く。車内には高校生が多く乗っている。あちこちで見たのであるが 人口密度の低い地方では学校も大きな町にしかなく 遠くから一番列車で通学する生徒を見るといつも感心せずにはいられない。
クローバー会写真展 あと2日!
クローバー会第7回写真展「鉄路輝く」、5月3日(水)から開催し、連休期間も終わり、展示も一区切りを迎えました。連日、多くの皆さんに来場いただいて、会員との対話の輪があちこちで生まれています。ネットの世界では味わうことはできない、双方向の交流が続いています。連休も終わって展示も残すところ、あと2日、まだの方、もう一度、その感動を味わいたい方、ぜひこの2日間にお越しいただき、二度と見られない珠玉の写真をじっくりご覧ください。
5月3日(水)~9日(火)11~19時(最終日9日は16時で終了)
京都・祇園「ぎゃらりぃ西利」(京つけもの「西利」祇園店3階)
こんなモンも有りまっせ! 特注編2
マイドの題目で申し訳ありませんがお許し下さい。
先ほど終わりました打ち上げ会(京都では伝統的に”足洗い”という)で、あの写真展担当大幹部のF田さんの作品(京都駅東方の本町跨線橋から京都駅方向を撮した夕方の写真)と同じところから撮ったものを持っている、と言うやいなや、遙か前方の議長席から「同じやないやろ?見たるから掲載してみ」とF田さんの罵声が飛んできたのでやむを得ず続けての投稿となることをお許し下さい。苦情がある方は大幹部の福Dさんへ直接お願いします。
寒中北海道見聞録 9号車
運転停車が非常に長くなり、乗客の皆様には「あるいは途中運休か?」とご心配をおかけしましたが、ようやく発車致します。8号車では北の果ての日曹炭鉱専用線をご紹介したところまででしたが、9号車は昭和44年3月9日 稚内からのスタートです。
・羽幌線を南下
さて興奮さめやらぬなか豊富から326Dで幌延へ向かう。幌延から羽幌線、留萌本線経由で深川、岩見沢へ出て 再び大雪6号で常紋を訪れるという計画であった。大雪6号は岩見沢から乗るので もし空席がなければ翌日の行動に差し支えるので 幌延での乗り換え時間を利用して 大雪6号の座席指定券を買うことにする。乗車当日ではあったが、幸いにも2枚指定券がとれた。これで明日は張り切って常紋で活動できる。
こんなモンもありまっせ!特注編
本日、大幹部のF田さんからの命令で泣き叫ぶ孫を放り投げて写真展の警備員に馳せ参じてきました。素晴らしい会場と、素晴らしい作品の数々は置いといて、入り口の絵に見入りました。著作権の関係で画はご覧に入れられませんが、鉄道画の重鎮・黒岩保美氏の作品が二点掛けてあります。一点はC54が京都駅山陰線ホームを出発するところ、もう一点は京都駅の東方にあった梅小路機関区の東駐泊所の絵です。昭和30年頃の京都駅ということで、夕日を背景に転車台に乗るC51が黒煙を上げているものです。後には当時あった貯炭庫が描かれ、さらに遠くには市電の八条変電所がうっすら見えています。
この場面の写真を持っているで!とつぶやいたのを後で聞き耳を立てていた大幹部の福Dさんが聞きつけて「今日帰ったらすぐにアップしろ!」と厳命されたので特注編としてお目を汚します。
東駐泊所に関しては少し説明しておきます。東海道線がまだ蒸機であった頃、梅小路機関区との往復が手間なため、高倉陸橋の南詰めに転車台と留置線を置いて蒸気機関車を駐泊させていました。東海道線が電化しても山陰線用や奈良線用に利用していたと思います。新幹線が開通する頃、転車台は撤去されスレート造りの電機用車庫が出来ましたが今はありません。
新幹線の出来るずっと前、昭和36年(1961年)2月の写真です。貯炭庫はすでにないようです。
こんなもんも
「こんなモンありまっせ!」に寄せて
米手作市様が貴重なクハ86015の走行写真を投稿されましたが、その後のスタイルの変化等について紹介したいと思います。
こちらは、昭和38年8月29日、京都駅の3番線と4番線の間の留置線に停車中で、快速の増結車として待機中のところです。
クハ86015は、昭和37年4月17日付で静岡から高槻に転入して、1年半後の38年11月20日付け早くも岡山に転属し、その後広島に転属後53年1月17日付で廃車になっています。
昭和50年8月10日、広島駅で撮影した画像で、河様から解説いただきました計器設置スペースを確保するための改造後です。
昭和48年1月28日、広島駅で撮影したクハ86001です。正面3枚窓のクハ86の車体更新後の標準的なスタイルです。
クハ86015との違いをお判りいただけると思います。
クハ86001は、新製時のスタイルに復元され、梅小路鉄博に展示保存されています。
❝こんなモンもありまっせ❞のクハ86015受難時
画像
古い貴重なシーンの数々のご投稿、興味深く拝見しています。
手元の「読売報道写真集 1960」にクハ86015が件の前面窓改造を受けることになる事故の写真が掲載されていましたので紹介します。書名は1960ですが、掲載されているのは前年のニュース写真で、当該事故の発生は1959.5.15です。
こんなん、出てきました。貨車航送船の写真
デジ青上では私も伊勢や東京に行った時に乗った修学旅行電車から始まって米手作市さんの「こんなモンもありまっせ!」のお宝写真で賑わっております。私も久しぶりの「こんなん、出てきました。」です。古い写真を整理していると貨車を積んで航行している船の写真が出てきました。こんな写真があるとは思っていませんでした。だれが、いつ頃、どこで撮った写真かわかりません。しかし、よく考えてみると祖母と伯母がよく四国へ三十三カ所巡礼の旅に行っていたので、その時に撮ったものではないかと思われます。その写真というのは
こんなモンもありまっせ!
実は昨年のHCDで北陸特派員氏から「車両の写真もいいが当時の雰囲気が分かる風景が写っている写真も見たい」と言われたので、鉄道写真としてはロクなものではないが当時の雰囲気が分かる風景を出します、と約束して半年になりました。そんな時に準特急氏や西村氏、893氏が”修学旅行電車”にかこつけていい写真を出して下さったのでこれをきっかけに準備していたゴミくず写真をご覧に入れる決心が付きました。
いい加減な知識しかない投稿写真に、鉄道界の重鎮・河様からのおだてのお言葉にも嬉しくて舞い上がりました。
皆様も作品のような写真ばかりでなく、キズがあっても、カビが生えていても、ピントが合ってなくても、変わった車両や今ではとれない場所からの写真などもドシドシ投稿して下さい。
広島電鉄昭和38年
広電 大増発
ひろしまフラワーフェスティバルは平和大通りを中心に5月3~5日の3日間開催される広島最大のお祭りです。昭和50年にカープが初優勝し、平和大通りで行われた優勝パレードの高揚感と成功体験が フラワーフェスティバル誕生につながり 今年で40回目を迎えました。この3日間は広電も特別輸送体制をとり、電車が大増発されます。宮島線で早朝だけしか走らない3100型なども駆り出されて走るのではないかと期待して、広島の街を歩くことにしました。特に宮島口から紙屋町経由広電本社前行きの臨時電車8本が集中して走る11時台に狙いを定めて出かけました。
臨時便の仕業を終えて千田車庫へ入庫するのが 日赤病院前行き0番系統です。「臨」の下に「フラワー会場経由」と表示されています。広島市民が「フラワーへ行く」と言えば「フラワーフェスティバルを見に行く」という意味です。「フラワー会場」とはパレードが行われる平和大通りを意味します。