①チュ-リッヒに続いて②ベルンをご覧いただければと思います。
ベルンはスイスの首都で自然に囲まれた落ち着いた街です。世界遺産の旧市街はア-レ川に囲まれたようなきれいな街です。トラム、バス、トロリーバスの市内交通はBERUNMOBIL社で運営されチケットも共通です。
ホテルの前にトラムの線路があり 橋を渡ると旧市街です。
早起きをしてアーレ川に架かるコルンハウス橋の上での撮影です。朝の霞の中赤いトラムが走ってきました。(2016年12月8日)
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①チュ-リッヒに続いて②ベルンをご覧いただければと思います。
ベルンはスイスの首都で自然に囲まれた落ち着いた街です。世界遺産の旧市街はア-レ川に囲まれたようなきれいな街です。トラム、バス、トロリーバスの市内交通はBERUNMOBIL社で運営されチケットも共通です。
ホテルの前にトラムの線路があり 橋を渡ると旧市街です。
早起きをしてアーレ川に架かるコルンハウス橋の上での撮影です。朝の霞の中赤いトラムが走ってきました。(2016年12月8日)
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長万部13時16分発のキハ150-13単行の2943Dに乗車して、“ヤマ線”の乗車が始まります。最後にヤマ線に乗ったのが昭和47年3月なので、44年ぶりの乗車でした。発車時に乗車人数を数えると17人、意外に乗っているなと思った瞬間、次駅、二股は、データでは一日平均乗降数0人台なのに、なんと5人も下車、黒松内でも数人が下車して、車内は6、7人になりました。現在は、上下9本の普通列車が運転されています。44年前も普通列車は、上下12本の運転で本数はやや減った程度です。しかし、当時は、優等列車が上下10本も運転され、まだ幹線の面影を残していましたが、札幌~凾館の通し運転が、すべて室蘭線に移ってしまい、現在では皆無、完全なローカル線になってしまいました。そして、いよいよ、勾配区間に掛かり始め、高度を稼ぐために右に左にカーブして、後志の山々に挑みます。今回の旅行で、いちばん確かめたかった、いまは無き上目名駅跡に差し掛かります。
▲列車の前部に陣取って上目名駅跡を注視
ヨ-ロッパではドイツを中心にこの時期クリスマスマーケットが開催されています。その多くの都市ではトラムが運行されていて その魅力にひかれここ数年各地を訪れています。今年はスイスを中心にドイツ、フランスへ行ってきました。その一部をご覧いただければと思います。
まず スイスのチューリッヒです。チューリッヒのトラムはぶんしゅうさんが詳しくレポートされていますので クリスマス風景を中心にご覧ください。(2016年12月7日)
まず ツアーバスの駐車場の横をトラムが走っていました。
連結部分が独特ですね。
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関 三平先生より私鉄の貴賓車が紹介されたが、その後の経過について自分の知っているものについてのみ書いてみた。
近鉄サ2600→サ2601→サ3018
昭和27年、一般の特急列車に使用するため、座席の転換クロス化を実施。35年に一般車に格下げ改造が行われ、扉から車端部がロングシート化されて主に急行に使用。38年にはラッシュ対策として中扉を設置して3扉化。39年8月の改番で0起番が廃止されサ2601に改番。45年3月、新製のモ2600形と車号が重複するためサ3000形のラスト、サ3018に改番。同年6月に座席のオールロングシート化。49年3月に廃車になった。
昭和44年5月1日、伊勢中川付近
前から2両目がサ2601である。
南海電鉄クハ1900→サハ1900
昭和27年より特急「こうや号」に使用。その後ソファーを撤去して通常の転換クロスシートを設置。36年、新「こうや号」20001系の完成に伴い運用離脱。
昭和38年、旧運転側を切断して客室化を行い、旧連結面に運転台を設置して一般車に大改造され、座席もロングシート化された。
モハ1201形のグループに組み入れられ、本線と高野線の平坦区間で使用されたが、編成の中間に入ることが多かった。43年には運転台が撤去されサハ1900になったが、昇圧対象から外され、47年6月廃車になった。
昭和42年5月28日、住吉東
一般車に改造されてモハ1201系の編成の中間車として使用中。
モハ1202の次、窓に保護棒があるのがクハ1900である。
名古屋鉄道トク3→モ681→豊橋鉄道モ681→モ1311
昭和23年頃一般車に改造され、モ681に改番されて渥美線に配置。渥美線は29年10月1日、豊橋鉄道に譲渡されたが、車号の変更はなかった。
ほぼ同時期に元佐久鉄道の気動車改造のサ2241と組み、モ681の連結面の運転台を移設して固定編成になりサ2241はク2241に改番された。
朝夕のラッシュ時にはMc-Tc2組の4両編成で運転されたが、直接制御のため総括制御が不可能で、運転士2人でタイフォンで合図しながらの運転であった。
【参考】ク2241について
モ681の相棒、ク2241について触れておきたい。
経歴は以下のとおりである。
昭和5年10月、日本車輌で佐久鉄道キホハニ53として新製。
9年9月1日、鉄道省に買収され、キハニ40602からハニ40703に改番。
19年6月、名鉄に譲渡され、サ2241となり瀬戸線で使用。
23年5月、大森付近の急カーブでスピードの出し過ぎで脱線転覆。
24年5月、修理後渥美線に転属。
29年10月モ681の片側運転台を移設して制御車化してク2241に改番。
34年に2扉化され自動扉化。43年廃車。
全線廃止が決定し 焦点は代替え交通手段をどうするかに移っていますが その検討が始まりました。一方 どこでも同じですが廃止が決まると「お名残り乗車」が増えているようです。
長万部駅では乗り換え時間が2時間近くあります。撮るような列車もない時は、街歩きに限りますが、外を見渡してもシャッター通りが続くばかりで、期待した成果も見込まれないようなので、駅にある、みやげ販売を兼ねた観光案内所で聞き込みをします。ここで、思いもしなかった情報が入りました。つぎのダイヤ改正で、長万部町にある7つの駅のうち、北豊津、蕨岱の2駅が廃止になるということでした。聞いたときは衝撃が走りましたが、先週発表されたJR北海道の2017年3月14日のダイヤ改正のプレスリリースで、「ご利用の少ない駅を廃止します」と明示されており、今となってはスクープでも何でもありませんが、過去に撮影もしたことのある2つの駅が廃止になるのは、驚きのニュースでした。
▲大沼~森の前後にある、東山・姫川・桂川も廃止される。写真は、車内から見た姫川駅
先に79394、79421で「糸崎に山陽鉄道の痕跡を探して」と題して 臨港線跡に残るレンガ積み橋台を中心に120年前の遺構をご紹介しました。引き続き 非常にローカルなレポートで恐縮ですが、糸崎から東に向かって尾道方面の山陽鉄道の遺構と思われるレンガ積み橋台を見て歩いた結果と そこから見えてきたこの区間の歴史に思いをはせてみました。なお大半が海岸近くですので橋台の観察は干潮時を狙わないと見れません。この日は天気の良い干潮時間帯でした。糸崎(いとざき)を出発した上り列車は山裾を左にカーブしながら糸碕(いとさき)神社の裏を抜けて海岸に出ます。この日私は糸碕神社に参拝したあと 神社の裏手にある短い糸崎川橋梁から観察を始めました。
12月16日から18日の3日間 広電白島線「縮景園前」電停前で「ひろしまドイツクリスマスマ-ケット2016inア-バンビュ-グランドタワ-」が開催されました。
その白島線でトランジュール768号が14時から3回運行、クリスマス電車238号が18時から3回運行されました。
広電白島線「縮景園前」電停で乗車し「白島」で折り返し「八町堀」行きとなりそこで折り返し「縮景園前」で下車という行程のようです。768号は有料、238号は無料 いずれも当日予約の方のみの乗車のようでした。(2016年12月16日撮影)
↓ クリスマーケット前のツリーを横目に「八町堀」へ向かう768号「TRAIN ROUGE」です。
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旅の思い出を投稿した後で体調不良(寒波襲来)となり、テレビの番人となっていた。タトラはソ連が広大な地域を支配していた時の産物で、日本が敗戦後各地にばら撒いた規格型(間に合わせ品)とは異なる。メーターゲージ採用都市も多く、そのため別設計による2軸車の量産も活発であった。タトラはPCCの特許を使ったせいか静かで、乗り心地良いのが印象に残っている。話しを日本に戻すとその3では宿場15番目が蒲原(かんばら)宿だと紹介するのを忘れていた。東海道線開通時、蒲原宿を囲むように14宿(吉原)に16宿(由比)があり、駅の建設では設置位置でいざこざがあったようだ。そして興津17宿(おきつ)、江尻18宿(えじり)に続いで府中19宿で(静岡)となる。府中の静岡への改名は明治維新によるものであった。
相も変わらずローカルな話題で恐縮ですが、JRの春のダイヤ改正は全国一斉に3月4日なのでしょうか?広島地区の目玉が新聞報道されましたのでご紹介します。
63型車輌20両の投入(1947年)で戦後の車輌不足を凌いだ山陽電鉄はその後、820、850型18両のロマンスカーを登場させ(1948年から)戦後復興をようやく果たした(以上既説)。
その矢先、1951年9月西代車庫の火災で14両もの車輌を焼失したが、小型車の車体新造による250型を誕生(既説)させるなど、再復興と車体の大型化に対応して来ました。
曲がりなりにも安定して来た1955(昭和30)年頃、神戸高速鉄道の構想が生まれ、ほぼ同時期にWN駆動の軽量高性能車2000系が登場しました。
第一次2000型2両、MM2両編成、車体長18m、ロングシートとして誕生。1960年に中間車2508を加え3連化、2001にもパンタがついた。3両共にまだ2扉の時代です。
▼2000+2508+2001 上り特急 須磨浦公園-塩屋 1965.1.31 C0808
海岸べり(右手)の国道2号線はまだ車が少ない時代です。
▼2001+2508+2000 下り特急 大蔵谷-西舞子 1965.1.31 C0811
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これまで写真の投稿が出来なかったのですが、パソコンを更新し先日投稿できることを確認しました。パソコン不通の間、載せたい写真もありましたので時期遅れとはなりますがまずは富山旅行の前後です。富山へ行くなら「富山ライトレール」と思いINUBUSE氏の案内で北アルプスの見える岩瀬浜まで行きました。観光写真でよく見かけるものですが、この日は幸運にも立山(雄山)や剱岳が見渡せました。手前にマーメイドの後ろ姿もあります6/3です。黒部の後は、万葉線ということで「ドラえもんトラム」です。小さな子供が降車する時は運転手が人形をかざして挨拶してくれます。なかなか人気のようです。
中国運輸局もデジ青の沿線レポートを見てくれたのかもしれませんが、可部線延伸区間の諸設備が基準を満たしていると合格書をJR西に交付したそうです。これで23日から試運転が始められます。
岡山県下の鉄道遺産については小西伸彦氏著「鉄道遺産を歩く 岡山の国有鉄道」という名著があり、山陽本線をはじめ津山線、宇野線、吉備線などのトンネル、橋梁、駅などの詳細な調査結果が解説されています。レンガに関しても詳しい説明があって、多くのヒントを得ています。まず松濱臨港線で発見して驚いた弧状レンガのことですが、時代の最先端であった鉄道建設には、意欲に満ちた技術者が橋台のような目立たない部分の外観や意匠にも意を払い デザイン重視で弧状レンガを使ったそうです。弧状レンガは通常レンガと違って特注品であり、当然高価なレンガでした。しかし時代が進み、路線の延伸が進むにつれて意匠よりコストが優先されて弧状レンガは使われなくなり、やがてレンガから石材に移行し 次に石材からコンクリートへと進化してゆきます。そんな技術的な流れから考えて 松濱臨港線で最も古い橋台をA1の弧状レンガだと推定しました。しかし弧状レンガが使われたのはA1の1ヶ所だけです。そこで明治30年測図の地図と考えあわせて導いたのが次の図です。
山陽鉄道が神戸から西進し、糸崎まで開通したのが1892年(明治25年)7月20日でした。もう124年も前のことになります。糸崎から広島へ伸びたのが2年後の明治27年6月10日ですから、糸崎は短期間ながら山陽鉄道の終着駅だったわけです。なぜ急にこんな古い話を取り上げるかと言いますと、私は三原市の市民学芸員活動もしていまして、三原市の近代化遺産なるものを調査していて 山陽鉄道のことを調べることになったわけです。手元に大日本帝國陸地測量部 明治30年測図の1/20000「松濱」という地図があります。山陽鉄道開業から5年後のものです。「糸」の字も「絲」が使われています。当時は貢郡東野村で瀬戸内海を往き来する船が立ち寄る松濱港を中心とした港町でした。
来年春に可部・あき亀山間1.6Kmが延伸開業予定で、今月23日からは試運転も始まることになっています。可部・三段峡間が廃止されたのは13年前の2003年(平成15年)12月1日。一旦廃止された区間が一部とは言え再び開業するのはJRになってから初めてということで話題になっています。今回延伸される区間は廃止後そのままの姿で残されていましたので、様子を見に平成23年の夏に廃線跡の一部を歩いたことがありました。それから5年が経ち、再起も近いということで再び訪ねてみました。廃線跡歩きは各地で何度も経験していますが、開業前歩きは初めてです。なお廃線跡歩きは通常路盤内を歩くことが多いのですが、今回はもちろん線路内ではなく 線路につかず離れずの道路歩きです。
まずは可部駅の風景の比較から。