▲北海道か?いやバンコクですよ。方向幕にも「バンコク」!
2024年夏、タイからラオスへ(その2)
2024年7月26日、MM091便は、定刻通り19時15分に関西空港を離陸、10分程早着の23時45分にはバンコクスワンナプーム国際空港に到着しました。日本とタイとは2時間の時差があります。大阪を出る前に夕ご飯は食べていたのですが、あまりに腹が減ったので、空港でタイ風の焼きそばとコーラを食したのですが380バーツ(約1900円)もします。いくら円安といってもここまでとは、と驚きましたが、これは空港価格で、市中ではそれほどでもなかったので少し安堵しました。
▲巨大空港スワンナプーム国際空港 朝方なのでだいぶ人が抜けていますが、夜中はベンチの殆どで人が仮眠していました。私もその中の一人に。
2024年夏、タイからラオスへ(その1)
▲ラオス、ターナレーン駅 2020年2月3日 4年前、タイからラオスへの鉄路への入国は、貨物コンテナと客車の混合列車でした。
都電も定点対比してみる 2 ~路面電車あれこれ噺 (23)
上野駅前
昭和の時代、東北・北海道からの帰途は、必ず夜行に乗って上野に着いたものです。その日は帰るだけ、節約のため、在来線に残っていた急行で帰ったとしても、まだ時間の余裕があります。そんな時、上野駅の周辺で都電を撮るのが、格好の時間調整でした(以下、昭和46・47年撮影)。
▲この時期、「上野駅前」では、浅草通り・中央通りを行く24・30系統と、昭和通りを行く21系統が交差していた。写真の中央2線が24・30系統で、手前方は中央通りを通って須田町方面に向かう。向こう方は右に折れていて浅草方面に向かっている。あと右に2線が見える。これは昭和通りを三ノ輪橋~水天宮を結ぶ21系統が発着していた。両系統を連絡する渡りはなく、交差したあと4線が並行して、3面4線の電停となった。
7年半のトレインビューを振り返って 7
⑦ 夏季早朝撮影可能貨物
M250系はモーダルシフトの推進を目的に、2002年から走り出した16両編成電車貨物列車。愛称は「スーパーレールカーゴ」の佐川急便(SAGAWA EXPRESS)専用車。下りは51列車で東京貨物ターミナル(23:14発)~大阪の安治川口(翌5:26着)間を6時間少しで結ぶ。上り下りとも日曜発は運休になる。

撮影:2017年5月20日
コメント画像の不具合
以前より一部の記事のコメント欄において、以下の不具合が報告されています。
・本来画像が表示されるはず部分が空白になっており、画像が表示されない
・空白部分をクリックすると、拡大画像は表示される(画像外の部分をクリックすると元の画面に戻る)
該当プラグインを中心に原因を調べておりますが、今現在修正が難しい状況です。
利用者の方にはご迷惑をおかけしておりますが、上記ご了承のほどよろしくお願いします。
都電も定点対比してみる 1 ~路面電車あれこれ噺 (22)
京都、大阪と来れば、つぎは東京しかないでしょう。はい、先日もネタ仕込みに行って来ました。京都のように縦横がきっちり決まっていて、曲がる時でも90度にしか曲がらない律儀な路線に比して、放射状に、好き勝手に路線を延長したような東京は、なかなか馴染めませんでした。旅の途中、列車待ちの間に撮った程度で、乗車したことは数えるほどしかありません。それでも、段階的に廃止が進んでくると、腰を据えて撮ったことがありました(以下、都電は昭和46年2月撮影)。
▲まずは日本の道路の起点となる「日本橋」へ。東海道など五街道すべてが日本橋を起点として、全国から人が集まり賑わいを呈した。現在も架かる石造りアーチの日本橋は、1911年にできた。市電(のちの都電)も同時に開業し、軌道の中心に架線柱を兼ねた「道路元標」が設置された(のちに移設)。その後、昭和38年に日本橋の直上に首都高速道路が通って、都電時代の姿になった。日本橋のある中央通を行くと銀座線とつながっていて、栄えある1系統(品川駅前~上野駅前)も走っていたが、銀座線は昭和42年に廃止されていて、撮影時は、次の「通三丁目」で線路はぷっつり切れていて、19系統、20系統、22系統が走っていた。▲▲現在の日本橋、背後のビルが全く変わらないのに驚いた。長年叫ばれて来た首都高速の地下化は、解体工事の様子がテレビ番組でも紹介されるなど進捗してきた。
大阪駅前 65年前と今(下) ~路面電車あれこれ噺 (22)
大阪駅前の中央郵便局跡の今昔対比に続いて、本家の大阪駅前の対比に移ります。(市電時代の写真は、特記以外、すべて昭和31年、藤原寛様撮影)
▲市電が走っていた頃の大阪駅(右)は3代目で、戦前の昭和15年の3階建て建築、4、5階にホテルが計画されていたが資材難で中止、戦後もそのままの姿で武骨な姿を見せていた。東京駅は煉瓦造りの歴史的な建築、京都駅はシャープな近代建築なのに、なぜ大阪だけが古臭い姿をさらしているのかと思ったものだ。さらに市電も、京都のようなターミナル方式ではなく、通過式で、安全地帯以外の設備もなく、単なる乗降の多い電停に過ぎなかった。車両は1001形1038号、大正時代に製造の大型木造車、深い屋根、アーチ状の側面窓と、優美なスタイルだった。▲▲現在の4代目大阪駅、当初の昭和58年完成のアクティ大阪の本体建築に、のちに南面に大丸梅田店などが増床されたため、駅全体が前へ張り出している。奥は前回紹介のJPタワー。
送り火に京都市電を想う~路面電車あれこれ噺〈21〉
昨日16日は、京都では大文字の送り火の日でした。小さい頃から、慣れ親しんできた行事は、暑い夏も、朝夕は少しは涼しくなる季節の変わり目、また小学生の頃なら、そろそろ宿題も気になる、それがDRFCの現役時代なら、送り火を見届けてから、北海道などへ1ヵ月近い撮影旅行に出かけると言った節目ともなる行事、長じてこの歳になると、亡き人を送る宗教的な行事としての気持ちも持ったものでした。
▲「大文字と市電」、むずかしいテーマだった。点火の20時台、撮影適地の今出川線百万遍~銀閣寺前の市電は8~10分ヘッドだったと思う。点火後、最初の白煙がなくなり、太い炎だけになるのは10分程度。その間に市電が来たとしても、クルマに邪魔されず撮れるかが大問題。そこで選んだのは「北白川」の安全地帯、ただ考えるのは誰も同じで、前方は撮影者が占めている。安全地帯のいちばん後ろに陣取って、銀閣寺方面の電車が停車したのを幸いに、その後部から軌道に一瞬飛び出して撮影する、決死の行動だった。今出川線の廃止が昭和51年3月、これを撮った昭和50年の8月16日が最後だった。
大阪駅前 65年前と今 (上) ~路面電車あれこれ噺⑳
ぶらり旅 岡山~広島 ③
ここらで ボンネットバス 近畿編 〈5〉
京阪バス⑤ 「おいでやす」再び定観に
定期観光50周年を記念して、当時のカラーに復元された「おいでやす京都号」は、京阪バスでただ1台生き残ったボンネットバスで、定観の役目を終えたあとも、事業用の白ナンバーとなって、昭和50年代の後半まで生き延びます。これで終わりと思っていたら、また救いの手が差し伸ばされます。なんと、元の京阪バスカラーに戻されて、再び定期観光バスとして京都を走り始めました(以下、昭和62年11月)。
▲二条城の周囲を回る、京阪バスカラーのボンネットバス。昭和60年代になって、突然、京都市内で見られるようになった。昭和62年、京都で第一回世界歴史都市会議が開かれて、そのイベントとして、伏見区のパルスプラザで同年の11月8~29日に「世界歴史都市博覧会」が開かれ、その送客を兼ねて、三条京阪、京都駅前から二条城、金閣寺を回り、パルスプラザへ向かうものだった。
ここらで ボンネットバス 近畿編 〈4〉
京阪バス④ 定期観光バスで復活
京都、滋賀、大阪、3府県の京阪バスのボンネットバスの活躍は、昭和51年9月で終了しますが、そのあと京都市内で、定期観光の貸切としてボンネットバスが復活することになります。ちょうど東海バス「伊豆の踊子」号をはじめ、観光資源としてのボンネットバスに着目され始めた頃でした(以下、昭和53年)。
▲大津営業所の「滋2い887」が、路線バスとして用途廃止された昭和51年9月に、事業用の白ナンバーとして、「京22や180」に改番され、京都営業所に転属した。以前同所に所属の「京22や‥6」と同様、乗務員の移送、社内部品の輸送に使われたが、昭和53年3月に京都の定期観光バスが50周年を迎えるのを記念して、営業用に復活することになった。「京22か19-81」の緑ナンバーとなり、車内のシートも改装された。外部塗装も昭和3年に、定期観光が始まった頃の塗装に復刻され、上部が濃いクリーム、下部がグリーン、ボンネット部が紺、窓枠は茶に塗装され、「おいでやす京都号」の愛称がついた。
ここらで ボンネットバス 近畿編 〈3〉
ぶらり旅 岡山~広島 ②

岡山駅前に岡山電気軌道の停留場があり 折り返し清洲橋行きの7701号がやってきました。7701号は元呉市電700形の機器流用車です。ホーム向側には東山本線の東山・おかでんミュージアム駅行きがやってきます。
ここらで ボンネットバス 近畿編 〈2〉
KE52
ネタに窮すると、つい総本家青信号特派員氏の記事に頼ってしまう。「鉄道少年の時代に戻ってみる〈7〉」の山科のカーブを行くつばめ号の何と美しいことか。ブレーキホースや元ダメホース、KE3ジャンパ栓等が、10日後の西下の準備も万端であることを物語っている。「せっかく連結器にカバーをつけてまで見た目に拘っているのに」とお嘆きの方もいらっしゃるかもしれないが、連結解放により輸送需要に対応できるのは他の交通機関に真似のできない鉄道の最大の長所であると思っている。それだけに連結面はとても興味深く、ついつい見入ってしまうものである。
実は、私もつばめを撮影したことがある。
7年半のトレインビューを振り返って 6
⑥ 見られなくなった車輌
7年半の間には車輌更新やダイヤ変更などがあり、いまでは見られなくなった車輌がある。一番はEF66だろう。引っ越した当初の2017年はレアながらも比較的良く見かけた。朝、貨物のスジの多い時間帯には確率が高まった。

撮影:2017年4月4日
ここらで ボンネットバス 近畿編 〈1〉
古い鉄道ネタばかり続きました。目先を変えて、バスについて記すことにしました。ボンネットバスのあれこれです。昭和50年代前半、ポスト蒸機・京都市電として、鉄道ネタよりも、ボンネットバスに傾注していました。この時代、別に地方へ行かなくても、京都や滋賀でボンネットバスを見ることができました。もう50年近くが経つと、蒸機も市電もボンネットバスも、ひと塊の思い出としてよみがえります。まずは近畿地方を走ったバスを、府県別、バス会社別に見て行くことにします。
京阪バス① 京都
京都、大阪、滋賀でバス輸送を担っている京阪バスには、かつて、それぞれの府県でボンネットバスが走っていました。京都では、山科区にある京都営業所に、昭和50年初頭には、3台のボンネットバスが使われていました。うち2台は営業用の緑ナンバー、1台は事業用の白ナンバーのバスでした(以下、昭和49、50年撮影)。
▲山科を走っていた京阪バスのボンネットバス、山科区内の渋谷街道の狭隘区間を走るボンネットならではの区間で、京都では最後の路線バスとして、昭和50年ごろまで活躍が見られた。
鉄道少年の時代に戻ってみる 〈7〉
新幹線開業前の山科で撮る(1)
今までの「鉄道少年」の時代は、昭和39年のことですが、この年には、東海道新幹線の開業がありました。天下の東海道本線の輸送体系が一夜で全く変わってしまう歴史的な日が迫っていて、夏休みを終えた中学3年生も記録に忙しい毎日です。新幹線の開業を10日後に控えた山科の大築堤を行き交った列車を見てもらいます(以下、昭和39年9月20日、一部掲載済み)。
▲新幹線開業で、151系の電車特急7往復すべてがなくなるのが、大きなニュースだった。151系「こだま」が登場したのは昭和33年、旺盛な輸送需要に「つばめ」「はと」「富士」が相次いで登場した。いっぽうで、新設の交流電化の広軌鉄道を建設し、抜本的な改善をするため、昭和34年に東海道新幹線が起工された。東海道本線では、電車特急の増備を続けながら、新幹線の建設を進める二重投資をしていたわけだが、それほど輸送力の改善が急務だった。「つばめ」のヘッドマークは、ほかは白地にスミ文字のシンプルなものだが、「つばめ」だけは上下のバック地がグレーになって由緒正しき「つばめ」の矜持に感じられた。




