初めにお断りしておくが、子供の頃のスクラップなので日付を記入していないものがある。そのためいつの記事か分からないものには『●年●月・・』と記入しているのでお分かりの方はコメントでお教えいただきたい。また、事件事故に関係する方、目撃者、解説できる方のコメントをお待ちしている。
では、最初は昭和35年、1960年から始めよう。
この頃からオリンピックへの建設工事が活発になってきたのに伴い、全国でダンプカーやトラックとの踏切事故が多発しだした事を念頭に置いて見てほしい。
初めにお断りしておくが、子供の頃のスクラップなので日付を記入していないものがある。そのためいつの記事か分からないものには『●年●月・・』と記入しているのでお分かりの方はコメントでお教えいただきたい。また、事件事故に関係する方、目撃者、解説できる方のコメントをお待ちしている。
では、最初は昭和35年、1960年から始めよう。
この頃からオリンピックへの建設工事が活発になってきたのに伴い、全国でダンプカーやトラックとの踏切事故が多発しだした事を念頭に置いて見てほしい。
これは再度申し上げるが蒸機の撮影の合間に撮ったDF50の気まぐれ写真である。カラーの変色、ピンボケを敢えて出したがお許し願いたい。秋田にもDF50マン形が集中配属され、奥羽本線、羽越本線の優等列車牽引等に活躍していたが、羽越本線では撮る機会がなかった。今回はやや日誌風にし、番号の分かる機関車はその変遷を記した。
1965(昭和40)年8月31日急行「八甲田」で早朝の青森に下り立ち、初めての東北の爽やかな空気を吸った。キューロクの入れ換えやC60の上野行きを撮ったあと奥羽本線の列車に乗った。一人旅で気の向くまま鶴ヶ坂で降りた。そこでC60、C61、D51の旅客列車とDF50を撮った。
8時40分大館発青森行きを牽引する秋田区のDF50549が鉄道防雪林の横を青森を目指してやってくる。
2008年10月 四国リバイバルDC急行
国鉄時代から活躍していた、四国のキハ28・58・65が,2008年10月で営業運転を終了することになり、急行(一部快速)として、国鉄急行色に復刻したキハ58+65によるリバイバル運転が行われました。キハ58の前面には、なつかしの「ヒゲ付き」が復刻され、しかも10月、11月の土休5日間、「阿波」「よしの川」「土佐」「あしずり」「うわじま」「いよ」として、四国の各線区で運転される、大盤振る舞いのさよなら運転でした。▲ヒゲ付きキハ58が、さよなら運転で四国の各線を走った。徳島線下浦~牛島 徳島発阿波池田行き「よしの川」 キハ58293+キハ65293 (2008年10月18日)
現役生会長です。
先週の土日に、京田辺キャンパスにて開催されるクローバー祭に出店させていただきました。コロナ禍後、初の出店です。
京田辺レイアウトを展示しましたが、様々な情景を表現したジオラマは、お子様だけでなく、大人の方々からも大変好評でした。
お越し頂いた皆さま、本当にありがとうございました。また、出店されていた皆さま実行委員会の皆さまも、二日間お疲れ様でした。
以前より温めていたテーマではありましたが、つい最近のデジ青コメントで「みどりの窓口」の話題がありましたので、緊急調査した次第です。年々数を減らしていく「みどりの窓口」ですが、どうやら今月(2023年11月)末にあの元町駅からも「みどりの窓口」が無くなるようです。
先ごろのクローバー会行事「岳南電車・静岡鉄道を訪ねる」は、首都圏だけでなく、東海、関西、四国からの参加者も交えて、にぎやかに楽しく、久しぶりに、みんな揃って撮影する機会となりました。清水港にある魚市場で、大盛り海鮮定食を食べたあと、清水港線の廃線跡を通り、静岡鉄道の新清水駅に向かっている途中でした。静岡生まれのTさんと、静岡鉄道清水市内線の話になって、撮影済みと言うと、“エ~ッ”と驚愕の表情を見せました。そうか、同線が豪雨で不通になったのが昭和49(1974)年7月で、来年が50年になります。復旧されることなく、翌年に廃止となっていて、たしかに30歳代にとっては、生まれる遥か前の話ですから、驚きの表情も無理はないところです。実は清水市内線は、デジ青の2016年9月にも記していますが、今回、定点対比もしましたので、再度、要点のみ記して行きます。
▲東海道線を越えて、新清水駅前に到着する静岡鉄道清水市内線の電車(昭和49年)
「DE50の思い出・磐越西線」で忘れていた城がまた一つ出てきた。同志社の方ならご存知NHK大河ドラマ「八重の桜」に出てくる名城である。綾瀬はるか主演の大河ドラマ「八重の桜」は2013年に放映されたのであれからかれこれ10年経過したことになる。
会津若松城は文禄2(1593)年に蒲生氏郷が本格的な天守閣を建てて「鶴ヶ城」と命名し、慶応4(1868)年戊辰戦争では新政府軍の1か月に及ぶ猛攻に耐えた難攻不落の城として知られる。明治7(1874)年に建物全てが破却されたが昭和40(1965)年に天守閣が再建された。
山本八重(後の新島襄の妻)は、会津藩士山本権八、佐久の両親のもと1845年というから丁度私の100年前に会津で生まれている。兄は山本覚馬で京都府議会議長、京都府顧問などを歴任。新島襄の協力者で今出川校地の敷地を譲った人物としても知られている。
慶応4(1868)年、板垣退助率いる新政府軍が攻め入った鶴ヶ城で婦女子、老人、少年兵とともに24歳の八重は鳥羽・伏見の戦いで戦死した弟三郎の形見の服を着て戦うなど幕末のジャンヌ・ダルクと言われた。さらに薙刀の名手で22歳の若さで壮烈な死を遂げた中野竹子の名も忘れられない。
「逆賊」の汚名を背負わされた会津藩は下北半島に斗南藩など貧しい土地を与えられたり苦難の道を歩んだが、その後徐々に復権されていった。山本覚馬の京都での活躍もそうであるが津田梅子らとともに日本最初の女子留学生に選ばれた山川捨松(薩摩の元老大山巌の妻)も会津藩士の娘であるなど明るい話題も出た。また、京都守護職であった9代藩主松平容保の孫にあたる松平節子は秩父宮妃勢津子殿下となられている。
198911.18 会津若松城(鶴ヶ城)▼
2013.4.10 「八重の桜」ポスター 東武下今市駅 ▼
2018.10.25 会津鉄道会津田島駅に掲載の会津宣伝ポスター ▼
2013.4.10 東武鉄道上今市で方向転換して東武日光に向う会津若松発 東武日光行き快速「AIZUマウントエクスプレス号」AT751+AT701。2010年新潟トランシス製造の車体には「八重の桜」の宣伝が入る。
新幹線や主な関西私鉄等でお目にかかれる標準軌(1,435 mm)、JR線や主な関東私鉄等で見られる狭軌(1,067 mm)、そして三岐鉄道・四日市あすなろう鉄道・黒部峡谷鉄道が採用するナローゲージ(762 mm)。忘れてはいけないのが、今回取り上げた馬車軌間(1,372 mm)です。
馬車軌間は、京王(井の頭線以外)と都営新宿線のみと思い込んでいましたが、東急世田谷線、都電荒川線と函館市電もそうだったのですね。無知でした。
写真は、準特急さんより頂戴した「下高井戸」の駅名標です。馬車軌間を採用する異会社路線の唯一の乗り換え駅でございます。準特急さん、改めましてありがとうございます! 続きを読む
昨日、セノハチで雨と落ち葉の影響で227系が立ち往生したようです。115系の時にもあったかどうかわかりませんが、空転はしても登れなくなったというのはオソマツな気がします。227系はオール電動車ですが、車体が軽いせいでしょうか?あるいは運転技能の問題?それにしても、この種のイレギュラーな事態が発生した場合の対応が国鉄時代とは大きく違う気がします。16:00頃に発生し、この日は上下線とも運休というのは情けないですね。貨物輸送の大動脈でもあり、真剣に対策を考えてもらいたいものです。例えば 昔のように、2種類の連結器を有する控車を広島か瀬野に常駐させておき、救援用の補機をすぐに差し向けるとか・・・。JR西とJR貨物と別会社なので、ダメか?
1963(昭和38)年4月1日の動力車配置表によると郡山に磐越西線用に3両(564,565,566)のDF50が配属されている。1966(昭和41)年3月21日に常磐線蒸機の撮影後、磐越西線の蒸機を撮りに行った。目的はD50であった。川桁で寒い布団で寝た翌22日に撮ったDF50の旅客列車で何れも川桁-猪苗代間の高原地帯である。
早朝の日出谷発郡山行き222列車。この時点ではまだ磐梯山の山容を見ることができた。▼
上野発喜多方行き2401列車牽引のDF50。先頭はスハフ42か。DF50のブルンブルンに続きズシン、ズシンの客車音。▼
DF50は3両しかないためか上り急行「第1ばんだい」2404列車会津若松発上野行きはD51[磐越西線管理所(会津若松)]牽引であった。珍しく蒸機牽引急行列車である。朝方見えていた磐梯山も昼前にはご覧の通りである。▼
この日は曇天であったが、目的のD50貨客共に1本づつ撮ることができた。
いよいよ開通日が近づきます。
それまでにはいろんな出来事があり、それらを全て掲載していませんが新線開通時にはどこも同じ事があっただろうと思われます。
今回、河 昭一郎様からその時期の貴重な写真を頂きましたので、まずそれからご覧頂きます。
自分で言うのもなんですが、記念すべき第90回です。お陰様で第100回もいよいよ近づいてまいりました。
今回はJR線の(旅客営業の)支線の駅名です。どこまでを支線と扱うべきか少し悩みましたが、とりあえず羽衣支線や仙崎支線等、名称がある支線は網羅したつもりです。抜け落ちがございましたらご指摘ください。【2023/11/5「藤城支線」を追記】
比較的優等列車の多い路線には500番台マン型が配属された。当時の大分運転所にその500番台が集中配属されていた。ここでもC55やC57が旅客列車や貨物列車を担当し、DF50は急行の「高千穂」、「日向」、「ぶんご」、「夕月」等に、また、ブルートレイン特急の「富士」、「みずほ」、「彗星」に使われた。
1962.10.20 修学旅行は関西汽船で別府に行き、1泊後高崎山に行った。お猿に土産物を盗られないようにしながらDF50の列車を撮った。西大分-東別府間を行く520列車南延岡発門司港行きで左手に駐車中の観光バスが見られるがこの付近を大分交通別大線(1972.4廃止)が走っていた。▼
スクラップを見る楽しみの一つに、主題ではない記事がちょっと残っていることがある。そこにおもしろい記事が載っていることがある。たとえば相撲の取り組みとか、広告とか、事件・事故などである。一度探してみてはいかがだろう。
さて、新幹線開業が近づくに伴い習熟運転が佳境に入ると、予想通りの問題が頻発する。
DF50は亜幹線の無煙化を目的に1957(昭和32)年に先行試作され1963(昭和38)年まで増備された電気式ディーゼル機関車である。1-7号機は試作機である。
DF50と言えばED60やED70等と似た顔で国鉄設計陣の思想なのか車両会社の提案なのか、はたまた両者の合作なのかよくわからないが、とてもいい顔をしていると思う。それにBーBーBの軸配置は丙線入線を考慮したようであるがこれが16mの短い車体に綺麗に収まっている。一方、同じディーゼル機でもDD13やDD51は凸型であることも影響しているのか好きになれない機関車だった。また、DD50と異なり暖房車連結不要の蒸気発生装置がついていて正しく無煙化対応がなされていた。0番台は新三菱重工、汽車、日車でスイスのズルツァー社との提携で65両、500番台は西ドイツ(現ドイツ)マン社との提携で川車、東芝、日立で73両計138両が製造された。500番台のマン型の方が僅かながら定格速度が速かったので優等列車の多い路線で使用された。機械的なこと、技術的なことはよくわからないが、マン型はドドドドという連続した音で、ズルツアー型は焼玉のようなポンポンポンというリズミカルな音だったということだが私にはの2種類の区別がわからなくいつもブルンブルンブルンという音に続くオハ61系等の客車のガタンガタンの音の記憶が強くとにかくスピードが遅い機関車という印象を持っている。当初は茶色っぽい色(こちらの方が貫禄があって好きであった)で後に明るいオレンジとグレーに変更されていったが線区によってあるいは列車種別や固定編成客車用に対しても一貫してオレンジ、グレーの色を変えなかったことが嬉しい。
1961.4.2 私が最初に撮った鉄道写真は宝塚駅手前でのDF5049[米子]牽引の門司発712列車山陰線経由大阪行き長距離鈍行であった。ご覧の通り下手な写真であるが、鋼体化改造客車のひとつ開いた窓や木製の日よけ、ドアを開けて風にあたるお客など開放的でこれが客車と思う日常いつでも見られた列車風景であった。▼
現役生会長です。
10月29日(日)に上京中学校で開催された上京区民まつりに出展させていただきました。
新町レイアウトを展示しましたが、お子様を中心に多くの方々にお越しいただき、大盛況でした。
お越しいただいた皆さま、ありがとうございました。また、主催された皆さまや出展されていた皆さま、お疲れ様でした。
駅名喫茶店では初めての企業シリーズです。YouTuberには企業案件なるものが存在しますが、本投稿は全く企業案件とは無縁のものです。
ドーミーインといえば、夜食サービスとして提供される「夜鳴きそば」だと私は思っています。あっさりしょうゆ味で美味しいんですよ。すいません、温泉ではなくて…
今回は、ドーミーイン・御宿野乃 ホテルズグループのうち、「ドーミーイン」、「御宿 野乃」が名称に含まれるドーミーインのみを掲載いたしました。さすがドーミーインさん、駅からのアクセスがよいですね。
今回の投稿にあたり、ドーミーインのホームページを大いに活用させていただきました。https://www.hotespa.net/dormyinn/list/
【2023/11/11追記:天然温泉 つつじの湯 ドーミーインEXPRESS豊橋(2023年12月開業)】