カラー版◆大阪通信員さんが撮った 昭和の鉄道 (1)

△ 大阪名物、スモッグが煙るなか、C57牽引、茶色の客車を連ねた急行「大和」が、関西本線の終点、湊町に到着する。B寝台(ロネ)2両の白帯が茶色に映える。

お盆のこの時期、台風の襲来もあって、一歩も外へ出ることなく、家に籠っていました。デジ青投稿に絶好のチャンスと意気込むのですが、気力の低下だけでなく、持ちネタの乏しさもあって投稿が続きません。先の投稿では、準特急さんから「あと数年早く生まれてきたら」論についてコメントがあり、「あのシーンを撮っていたらデジ青に載せられたのに」という思いもあります。私は「そんな言い訳したらアカン」と強がりを言ったようですが、心の中では七十数年生きて来た人間にも、その悔いが残ります。

そんな時、大阪通信員さんから朗報がもたらされました。大阪通信員さんは、私より7歳年上で、まさに「あと少し早く生まれてきたら」の写真を多数カラーで撮影されています。一部は昨年6月に行いました上映会でもご覧いただき、私も感嘆しながら進行をしていました。貴重な写真を一度だけの上映会で終わらせるのは、大変忍びなく、広く公開したいと思っていたところ、大阪通信員さんから、ぜひデジ青で公開してくださいと嬉しい返事がありました。快諾いただいた大阪通信員さんには厚く御礼申し上げます。

デジ青誌上では、米手さんが、投稿に困っているデジタル難民の記事・写真を代理投稿する老老介護も続いています。米手さんだけに介護を一任するのではなく、私も介護者として名乗りを上げた次第です。預かった写真は多数ありますが、まずは上映会の作品から見ていただきましょう。解説は最小限に留めて、皆さんからのコメントお願いいたします。

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駅名喫茶店(第73回:特急「はるか」で行ける駅名)

整理中のネタがいくつかあるのですが、今回は間合い運用ということで、特急「はるか」です。「はるか」という列車は、関西空港と大阪、京都、遠くは滋賀県の野洲間を乗り換えなしで移動できるのが素晴らしいですね。この点は南海「ラピート」より優位です。

ホームライナー的な役割も担う「はるか」に今回は注目しましょう。

追記:「はるか」の話題から少し外れますが、たまたまこんな記事がありました。

<独自>阪急、2031年に関空直通へ急行を乗り入れ

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2023年夏、台湾再起動(その3、西部幹線)

7月30日(日)
朝、中壢駅まで歩く。駅前はMRTの工事中であった。MRTが中壢まで延びれば桃園空港に近い在来線の駅まで直結するのでもっと便利になる筈である。中壢駅でTRパス3日券を6,000元(約8100円)で購入する。今回は乗車の比重も高いので元は取れるに違いない。

莒光510次 斗六進入 新しい自動ドア車とはいえ客車列車の魅力は十分

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2023年夏、台湾再起動(その2、東京)

7月29日(土)東京の1日
なかなか東京へ行く機会はない。出張もなくなった。大阪から東京は運賃が高く、夜行快速ムーンライトながら無き今、安く行こうとすると高速バスの青春ドリーム号か青春18切符発売時期の鈍行乗り継ぎであるが、気力体力乏しい身にはどちらもこたえる。そこで、今回、東京乗り継ぎをむしろ積極的に活用し、伊丹からは朝の羽田行きを選び、夕方の成田発桃園行きまで東京の電車を楽しむことにした。

京急1500型 京急川崎 昭和60年が製造初年とまだまだ新しいのだが、もう廃車が始まった。関西なら昭和40年代の車が珍しくないのだが。この1500型、昭和の終わりから平成への移り変わりを体現するように、制御方式が界磁チョッパから途中でVVVFインバータに変わった。なかなか好ましいスタイルと思うが如何?

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どうなるローカル線(1)

中国新聞には「鉄路のあす」というシリーズが断続的に連載されています。勿論広島県を中心に中国地方の話題がメインですが、8月15日の朝刊には「留萌線」の記事が載りました。北海道新聞との連携のようです。

令和5年8月15日 中国新聞朝刊

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2023年夏、台湾再起動(その1、序章)

3年ぶりの台湾である。前回、2020年1月の台湾行では、コロナ禍により3年にも渡って渡航が出来ず、しかも今だ新型コロナウイルスを駆逐する特効薬もないことは想定しえなかった。とにもかくにも、大手を振ってどこにでも行ける状態になった。
日本に外国人がやってくるインバウンド、これは見ての通りの勢いがあり、中国大陸からの団体客もまもなく解禁されるそうで訪日客は復活するであろう。ところが日本人の出国には、コロナ禍があったにせよ勢いがないのではないか。

変わらず活躍する台湾鉄路局のTEMU2000型、プユマ号 2023年7月30日 斗六

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駅名喫茶店(第72回:お「宝」駅名を探しにいこう!)

台風の影響で、無敵の近鉄さんも運転見合わせの可能性があります。今回の台風はなかなか猛烈です。皆様におかれましてはどうぞお気をつけください。

一方で、お盆中でありながらデジ青は通常運転で嬉しく思います。デジ青はクローバー会の「宝」です。ということで、若干こじつけではありますが今回は「宝」を含む駅名を取り上げてみました。

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~24~

2007年8月17日 阪急桂川鉄橋へ

暑い昼間は避けて、夕方あたりから急に写しに行きたい衝動に駆られたことがありました。最近は、さすがにその気力も湧いて来ませんが、空の様子を見て、きれいな夕陽になると確信すると、16時ごろ、カメラ一台を持って出かけました。前の居住地の場合は、そんな時、阪急桂川鉄橋へよく行ったものです。家から30分余りで到着できました。鉄橋上では太陽が編成全体に当たり、河原に下りると、角度は難しいものの、夕陽バックのシルエットも撮ることができました。桂川鉄橋の下り方に、歩行者・自転車専用の踏切があり、身を乗り出すと下り電車が撮れる。この時期、特急は、6300系、9300系が並存していて、前パン唯一の6330編成もまだ健在だった。

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駅名喫茶店(第71回:2023 夏の高校野球地方大会決勝戦が開催された球場の最寄り駅名)

今年の夏の高校野球は、地方大会から目が離せませんでした。ニュースを観ていると、1点差ゲームの決勝戦が多かった印象を受けましたので、実際に確かめてみると全49試合の決勝戦のうち約半分の25試合が1点差の接戦でした。

(ちなみに、2点差が4試合、3点差が7試合、4点差が13試合、延長戦が6試合、サヨナラ試合が11試合でした。)

そんな決勝戦が行われた舞台に今回は注目しました。

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~23~

2006年9月29日 YS-11(2) 最後の搭乗へ

40年以上飛び続けて来たYS-11も、2006年9月30日限りで民間航空から撤退することになった。その前の日、YS-11の書籍編集中の私は、編集長とともに、取材名目でYS-11の記念フライトに向かった。まず徳島空港へ、空港の反対側に回って待つが、機材トラブルでなかなか到着せず、やっと30分遅れで、福岡発徳島行き3563便の着陸をとらえることができた。

2000年代に入って、YS-11の命運を決定づける航空法が改正されます。旅客機への航空機衝突防止装置(TCAS)の義務付けでした。YS-11の場合、多額の改造費用だけでなく、狭いコクピットに装置の取付けが困難な問題も発生、この時点で国内運航のYS-11は、エアーニッポン(ANK)、日本エアーコミューター(JAC)の2社、TCAS取付けに当たり、ANKは運航を断念し、2003年、最後の新千歳・女満別線から撤退しました。一方、12機保有のJACは、路線網も広範囲にわたり、後継機へ移行ができない事情もあり、航空法施行の例外規定の適用を受け、しばらく運航を継続しましたが、後継のボンバルディア機が増備されて、最後は鹿児島-福岡(2往復)、福岡-徳島(1)、福岡-高知(2)、福岡-松山(1)の4路線、機体も、JA8717、8763、8766、8768の4機になっていました。初めての徳島空港、徳島行き高速バスの松茂バス停からはタクシーですぐだった。

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~22~

2006年7月13日 YS-11を求めて(1) 鹿児島空港

ちょっと、話題を変えて、この季節、鉄道以外の乗り物を。2006年の夏、国産初の旅客機、YS-11が民間航空から撤退しています。私は、その頃は会社勤めをしていて、職務のひとつとして、鉄道書の企画・編集も手掛けていました。YS-11が無くなると聞き、鉄道テーマを旨とするシリーズ本にも、ぜひ飛行機も加えようと出版社と画策し、私も編集者の立場から、現場の撮影・取材へ何度か行くこととなりました。

戦後に国産開発した初めての旅客機がYS-11、試作1号機が、昭和36年7月に、初飛行し、昨年には60周年を迎えた。182機が製造され、日本の航空会社では、日本航空、全日空、東亜国内航空、南西航空などで使用した。地方空港が次第にジェット機に置き換えられ、国内の定期便では、東亜国内航空の後継となる日本エアコミューターが、この年の9月30日に運航を終了した。その後も、航空自衛隊、海上自衛隊、海上保安庁などでは運航を続けている。写真はJA8677機と機体のスペシャルマーキング。

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食堂車のチラシ・・宮崎繁幹さんから

6月にあった「特急三百哩」を見るきっかけを作って下さった早稲田鉄研OBの宮崎繁幹さんから「駅弁包装紙の投稿を見てこれを思い出した」と原稿が送られてきました。
これまた見たことない珍品資料です。以下、宮崎さんのお話をお聞き下さい。

《さてその後、「ここどこ?わただれ?」の方は、猛暑もあってサボっていましたが、駅弁掛紙を拝見し、食べ物つながりで「食堂車チラシ」があったことを思い出しました。

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~21~

2013年8月7日 国鉄風のキハ40系に出会う

キハ40系と言われる国鉄時代の末期に登場した気動車は、総数が888両に達し、全国各地で活躍しました。製造当初からは50年近くが経過し、JR各社で独自開発された新型車との世代交代が進み、今では廃車が進んでいます。機関換装、車内改装などの改造による派生形式、番号区分が多数あり、さらに地域密着の施策から、驚くほど多くのカラーバリエーションがあります。なかには、40系新製時のカラーは「タラコ」一色で、40系ではあり得ない「国鉄色」イメージに塗られた車両も各地で走りました。この日も18きっぷで、伊勢市へ向かっていた。ホントの目的は、翌月に迫ったOB会の「しまかぜ」乗車ツアーの昼食会場の下見だったが、“帰りがけの駄賃”で、紀勢本線の多気で途中下車、近くで通過する紀勢本線の列車を写した。

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横浜市電保存館

横浜市電を投稿するにあたり7月15日に市電保存館に行ってきた。保存館は田浦の梅林を見た直後2011年3月11日の東日本大震災に遭遇して夜間横浜まで歩き通した時にチラッと見ているが実際館内に入ったのは始めてである。保存館は市電時代の滝頭車庫にあるが、磯子、根岸、京急上大岡あたりからバスに乗ることになるので便利ではない。館内には523(単車)、1007、1104,1311,1510、1601と花電車らしきものが保存されている。保存車と同一ナンバーの車両の現役時代の姿も併せて発表する。

まず、横浜と言えば単車王国でその代表である500型(501~559)は昭和3(1928)年から60両(うち15両は600型に改造)もつくられたのであちこちで見かけたことは前回に記した通りである。保存車輛のこのブルーカラーは残念ながら見たことがない。▼

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駅名喫茶店(第70回:関西本線の駅名)

今回が70回目です。ここ最近、節目となる回はテーマ選定にいつもより時間がかかりますが、悩んだ結果、今回はDRFCOBではお馴染み(?)の関西本線に注目してみました。名古屋~亀山間のJR東海区間、亀山~加茂のキハ120区間、加茂~JR難波間の大和路線区間と景色も様相も様変わりするこの路線はまさに本線にふさわしいと思います。

臨時でよいので、「急行かすが」の復活を希望します。キハ75形でもHC85系でも構いませんよ。

関西本線にまつわる話題をぜひコメント欄にお寄せくださいませ。

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駅弁包装紙・最終回

駅弁包装紙の話はこれぐらいにしましょう。
今まで誰も投稿しなかった話題ですが、鉄道ファンなら誰でも思い出のある話題です。これがきっかけとなって押し入れにしまってあったスクラップブックを開いてみてはいかがでしょうか?
そして思い出と共に投稿してみてはいかがでしょうか?鉄道趣味は広くて深いものです。デジ青はどんな記事でも鉄道につながりがあれば投稿できます。
私もまだまだいろんな切り口を用意しています。皆さんの反響を見ながらチョイだししようかと思っています。

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横浜市電

横浜は2023年時点でおよそ人口が377万人あり大都会である。昔は神戸とともに2大貿易港として君臨した。一方、我が国始めての鉄道が明治5(1872)年新橋(汐留)-横浜(桜木町)間に開通したことは誰もが承知のことである。人口は2番目であるがその印象は東京の影に隠れてもう一つ薄いような感じがする。横浜の有名な観光スポットとしては中華街、山下公園、三渓園等があるが京都、東京、大阪と比べても少ないように思う。歌の世界では美空ひばりの出身地であり、「赤い靴」など物悲しい童謡があった街である。青江美奈の「伊勢佐木町ブルース」や石田あゆみの「ブルーライト横浜」などよく知られた曲が多数ある。石田あゆみは女優、歌手でフィギュアの選手であり、姉は同競技で全国3位になったことがある同志社大学卒業生である。最近のデジ青では駅弁が賑わっているがここは崎陽軒のシウマイである。

さて、本題の市電の話であるが、大学時代の4年間実家が横浜にあった関係で学校が休みの間に時々暇を見ては撮っていたものを今回発表させていただく。従ってかなり記憶が薄れて街並みも大きく変化したので一度かつての場所を見てみたいがこの猛暑では無理である。総本家青信号さんお得意の新旧定点撮影もできず全体に曖昧な所もあるがお許しを願いたい。加えてカラーは1枚もないことをお断りしておく。

横浜市電は明治37(1904)年7月に横浜電気鉄道により開業。途中、大正10(1921)年に横浜市が買収し、昭和47(1972)年3月に廃止されるまでの約70年間市民の足として活躍してきた。従って、70年の歴史のほんの最後の5~6年間の記録であるが、それでも廃止後50年を経過しており街の風景や人々の姿は今とは変わってしまっているので記録として報告する。

横浜市電は昭和40(1965)年から撮影を始めたがいつも見慣れていた京都市電に比べて今ひとつ洗練されていないように感じた。また、都電のように車種が多くないことも面白みに欠けていた。ただ、嬉しいことに単車がゴロゴロいたことである。

<単車群>

それではその単車から見て行きたいと思う。最初はダブルルーフであった400型である。この車両は32両あり、昭和41(1966)年に廃車されて形式消滅しているのでギリギリ間に合って撮ったことになる。1965.12.21元町付近⑤系統419号▼

500型は昭和3年(1928)年に東京瓦斯電気、蒲田車両、雨宮製作所で20両ずつ計60両製造された。戦後、15両が600型に改造されたが、昭和44(1969)に廃車となった。これだけの両数があったので市内の至る所でこの500型を見ることができた。この有名な麦田のトンネルを撮っていないと横浜市電を撮ったことにならないと言われた名所である。1967.2.11雪の日の麦田町-元町間の専用軌道を行く⑤系統539。

600型は戦後空襲で焼失した500型を復旧した車両で窓が二段式となっているのが特徴である。1966.8.17反町停留所を出た①系統603号弘明寺行き。▼

700型は戦前に200型と貨車を改造して作られたとのことであるが木工に秀でた職人がいたとかで木造のようだが定かではない。昭和42(1967)年に廃車となっている。1966.7生麦車庫で廃車直前の717号▼

この他に戦後の混乱期に最後の単車800型がつくられたがお目にかかることはなかった。

<ボギー車群>

1000型は横浜市初のボギー車で昭和3(1928)年震災復興事業で20両製造された。馬力が小さいため、平坦な路線を中心に運用され昭和45(1970)年に廃車された。

1969. 市庁前を行く②系統三渓園行き1019号。この付近に平和球場があり、現在は横浜スタジアムとしてDeNA横浜ベイスターズの本拠地になっている。市庁は現在は関内地区とみなとみらい地区の結節点に移転新築されている。▼

1967.7.31 杉田線廃止の最終日の⑬系統桜木町行き1005号。杉田▼

正月を迎えると停泊中の舟から一斉に汽笛が鳴り、新年を新たに感じたものである。漁船等は大漁旗を挙げて港横浜の正月を演出してくれた。ゴチャゴチャして見にくいが桜木町駅前の橋の上を行く1000型である。バックは海であるが、現在はみなとみらい地区になっており想像できない風景である。1969.1.2桜木町駅前▼

1968.8.17  東海道線の見える反町-青木橋あたりを行く⑫系統1019号葦名橋行き。▼

1100型は昭和11(1936)年に新式中型ボギー車として梅鉢車両にて5両製造された。クロスシートが装備され「ロマンスカー」と呼ばれたこともある。昭和42(1967)年ワンマン化改造されたが、1972(昭和47)年の市電全廃まで活躍した。

1969 市庁前付近の公園をバックに走る④補系統麦田町行きの1102号▼

1150型は和製PCCを目指した1500型の使い難さ経費増などの反省から従来の考えに戻して新たに製造したものであり外観は1500型に類似している。1952(昭和27)年から1955(昭和33)年にかけてナニワ工機、宇都宮車輛、交通局で22両製造され1972(昭和47)年の市電全廃まで使用された。1967.7.18 かつては海水浴場があった間門付近を行く⑤系統洪福寺行き1166。▼

1967.7.31 杉田線最終日の装飾された最終滝頭行き1166号。▼

1200型は1942(昭和17)年に製造された3扉ボギー車。1967.7.31桜木町駅前を行く⑬系統杉田行き。船と市電が写るのも横浜らしい。 ▼

1300型は終戦直後の混乱した昭和22(1947)年に輸送力増強のため30両を製造。車体も軽く、性能も安定しており、高馬力であって③、⑦系統のでの使用が多く最後のツーマン車として昭和46(1971)年まで使用された。1969.1.2 元町停留所の②系統葦名橋行き1317号。後方右に入った所がファッションの元町商店街があるが私には全く縁がなかった。▼

1400型は昭和24(1949)年木南車輛で10両製造され昭和45(1970)年まで在籍した。ノーシル・ノーヘッダーの丸みを帯びた外観が特徴。▼1967.7.31杉田停留所で発車を待つ⑬系統1405と後続の1403▼

1500型は300型の代替として1951(昭和26)年に製造。和製PCCカーだが吊り掛け駆動の間接制御車である。台車に防振ゴムを使い振動、騒音を少なくし、電機と空気ブレーキを使用するなどした。しかし、現場の評判がよくないのか20両の製造に終わったが、市電廃止の日まで使われた。1967.7.31杉田停留所で折り返す⑬系統桜木町駅前行き1509号。▼

1969 吉浜橋付近の④系統三渓園前行きの1513号▼

1600型は昭和32(1957)年交通局で6両製造された最後の新造中型ボギー車。後部乗降口を中央に移したバス型配置で出入り口を大きくとり、4枚折り戸を採用。昭和45(1970)年に廃車。1967.7.31オート三輪が走る国道16号杉田停留所の1603号。▼

次回はその2として滝頭にある横浜市電保存館を紹介して終わりにする。

 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~20~

2009年7月20日 廃止予定の北陸鉄道加賀一の宮へ

最近、廃止問題が浮上した北陸鉄道の石川線、いまの終点は鶴来だが、2009年まで、二駅先の加賀一の宮まで伸びていた。寺院を思わせる和風建築の駅舎として知られていたが、乗客減で同年10月に廃止された。

ネットニュースを見ていると、北陸鉄道の石川線が、存廃の検討に入ったとの報道がありました。石川線は、野町(金沢市)~鶴来(白山市)の13.8kmの路線です。同線の利用者は年間89万人、輸送密度は1391人と、国鉄民営化の際のバス転換の目安4000人未満を大きく下回るなど、苦しい経営が続いていて、鉄道存続なら上下分離方式案も出たことや、廃止の選択肢には、BRT転換などが議論されたとのこと。最近でも、2009年10月31日に、鶴来~加賀一の宮間2.1kmが廃止されていますが、この年の夏に終点の加賀一の宮まで訪問しました。

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