北の大地へ2010年初夏編 Part7 釧網線

第8日目 2010年7月1日
① 釧路9:05(快速「しれとこ」3728D)→9:36塘路
② 塘路9:36(4725D)→10:07釧路

今日も雨です。さすが湿地帯が近い街だけあります。総本家さんは部屋で洗濯をしたのに靴下が乾いていないと嘆いていましたので、「備え付けのドライヤーを使うと速乾しますよ」とアドバイスを送ったら早速実施していました。昨日の雨の中を草むらに入っての撮影でしたので、ぐしょぐしょになった靴もついでにやってますが、これは長期戦になります。出発する前に長靴があった方が便利ですよと購入を薦めたのですが、必要ならと買わずじまいでした。もう我慢できずホームセンターに寄って欲しいと、ロケハン乗車後に行くことにしました。私も前回同じく痛い目にあいましたので、既に現地購入済みで活躍中です。由良川・厚別川の水の中や、晴天でも雑草生い茂る中での撮影に大変役に立ちました。皆様も是非に購入をお薦めします。
ホテルの美味しい無料朝食をたっぷりと食べてから、車をホテルの駐車場に預けて釧路駅に向かいました。

▲ 快速「しれとこ」は、釧路運輸車両所管轄でヘッドマークがついていました。一方、釧路~根室間を走る花咲線運輸営業所管轄の快速「のさっぷ」「はなさき」はヘッドマイクがついていませんでした。同じ釧路駅発着なのになぜなんでしょうね。 

釧網線は、ラムサール条約にも登録された「釧路湿原国立公園」の特別地域内を走行します。トロッコ列車も運行されていますが、展望には降りて高台に登らなければ壮大な湿原を見る事ができません。鉄道撮影も同様で、約40年前は今のような観光客向けの見晴らし台まで整備されていなかったので探して登りましたが、無数の蚊の大群に襲われ、堪らず退散した苦い経験がありました。

撮影はいずれも1969年(昭和44年)9月1日、細岡駅です。今は、山小屋風のかわいい駅舎待合室に変わり1面1線の単なるローカル駅になってしまいましたが、当時は相対式2面2線で頻繁に列車交換が行われていました。3両・5両編成また混合列車をC58が牽引していました。長編成はC58重連でした。



▲ 貨物列車はDE10牽引になっていました。DC急行もあり、変化に富んでいました。

▲ この日も霧がたちこめていました。その後も数回行きましたが、晴天は一度もありませんでした。

▲ 昭和44年の道内時刻表からの釧網線時刻表です。

時間の関係で塘路までの往復乗車ロケハンでしたが、復路の列車は塘路で交換します。時刻表では同時刻発車で交換する列車への乗車が、可能かどうか分りません。釧路駅のみどりの窓口のお姉さんに聞いてみましたが、答えられないとの返事です。別の駅員さんに聞くと、相対式2面2線でのスロープ横断式通路までは分りました。乗車前に総本家さんが運転手に聞きに行ってくれましたが、ハッキリと分かりません。しばらくして、私から2度目の確認に行くと、先ほどもお聞きしましたので早めに着くようにしていますが、鹿が出てきた時は諦めてくださいとの事でした。どうやら鹿出没に備えて、予め余裕を加味した運転時間をひいているようです。総本家さんの問い合わせも効いたようです。

▲ 根室本線厚岸~根室間と違って、湿地を避けるようにカーブが多い遠矢~塘路間です

乗車後幸いにして急ブレーキ発生はなく塘路に発車時刻前に余裕の到着でしたが、復路列車は既に着いています。大急ぎでスロープ通路を横断して乗りましたがヒヤヒヤものでした。ついでながら、釧網線も鹿出没は日常的で、昨日は2頭が天国行きになったと言っておられました。


11:45
釧路に戻りホームセンターに寄ってから再び塘路駅に着きました。観光バスが駅前に数台います。丁度釧路からの「釧路湿原ノロッコ2号」が到着した直後で、団体観光客がバスへ乗換えていました。11:58、川湯温泉行きの4730Dが発車後、折り返しのトロッコは「釧路湿原ノロッコ1号」となって12:07釧路に戻っていきました。


撮影地ですが、霧が幾分晴れてきたとはいえすっきりとした写真は期待できません。でも折角来たからと、通称二本松と言われるポイントを目指しました。サルボ展望台方面へ向かい、途中で左折して久著呂(くったろ)道路の砂利道を走りますが、右折する道が見つかりません。

冬場なら枯れ木となっているので容易に見つかると思いますが、夏場はこれでもかと緑一色です。先まで行ってしまったようで、Uターンして再度見直し、多分ここだろうと思われる道を見つけましたが、左折しようにも大きな水溜りが行く手を阻みます。総本家さんが降りて、長靴で深さを調べてくれますが走行は難しいそうです。ここで車を降りて徒歩で山道を向かいましたが、途中で道別れしていて間違いました。

12:48、撮影地に着いた時は既に列車は通過した後で徒労に終わりました。撮影地には、30分前に必着しないとアングルが決められません。それ以前に撮影地に着けなかったのですから釧路湿原の撮影は失敗に終わりました。試し撮りを見ると、やはり霞んでいました。場所は申し分ありませんが、雨や霞が出る時の撮影は無理です。次回に期待する事にしました。

次の撮影地に総本家さんは北浜駅付近を熱望しておられますが、約130km以上あります。道は高速道路同様ですのでP6並みの高速走行は可能ですが、シカの出没やネズミ捕りを考慮しての運転となると、ぶんしゅう7号走行前に道内ナンバーの車が2台は走ってくれないとできません。これは道内ドライブでの鉄則です。

北浜前に私が希望するのは、エゾマツ・トドマツの林の中を走る光景です。勤務時代に仕事で行った時に、川湯温泉辺りに見た記憶がありました。摩周国道と呼ばれる391号線は釧網線に沿って走っているのですが、木々に囲まれて鉄道線の様子を見る事ができません。

ナビを見ながら交差する農道を見つけては右折左折を繰り返して、ロケハンします。交差する道の全部を辿る事は不可能ですので、後は自分の嗅覚と感を信じて探します。最初の撮影地は標茶から分かれた13号線の高架橋でした。上下両方が狙えます。

着いて直ぐの14:09川湯温泉発の4733D(キハ54-117)がきました。慌てながらカメラを取り出して向けましたら、なぜか霞んでいます。しまった、車内は空調しているので湿度が抑えられているのですが、外気は湿気100%状態です。一瞬にしてレンズが曇っていたのです。外気と車内に温度差がある時にも起こります。忘れていました。
しかし、標茶で交換した4736D(キハ54-515)がきます。こちらは万全体制で撮りました。

次は、美留和~川湯温泉間で、4736D変じて「摩周&川湯温泉足湯めぐり号」(摩周~緑間を9/30まで期間運転)という粋な列車となった8736Dを追い抜いて撮りました。

摩周駅川湯温泉駅では約20分間、足湯に入っていただくために停車します。ヘッドマークも付いていました。

川湯温泉~緑間には難所の釧北峠が待っています。しばし川湯温泉駅で休憩としました。

川湯温泉から緑方向に硫黄岳をバックに入れて撮れる撮影地があるというので、また砂利道を進んでみました。ここも踏切がポイントですが、遮断機が邪魔します。雑草も刈り取りたかったのですが、ご覧のように硫黄岳は霞んだ状態ですので、やる気が起こりませんでした。

までは391号線と釧網線は大きく離れて走ります。国道も折り曲がる急坂が続く峠道となって難所です。緑を過ぎると牧歌的な丘陵地帯が続き、撮影意欲を呼び起こしてくれますが、また釧網線とは離れていきます。総本家さんに確認すると、北浜は夕焼けが是非とも撮りたいと言っています。

18:00以降の到着で良いと了解が取れましたので、右折して南斜里駅を目指しました。列車通過時刻を見てもらうと余裕はありません。見渡す限りの丘陵の野菜畑の中を一直線に伸びる農道には、走っている車は全くありません。これなら大丈夫と、P6で参りました。

先ほどの足湯号を抜きたかったのですが、知床斜里駅を出た斜里川鉄橋がやっとでした。後方の斜里岳1,547mが広い裾野を見せてくれています。夏場ですので陽は西寄りに沈みます。夕刻は逆光となりますのでここでの最適撮影時刻は、午前中なのでしょう。知床斜里駅に立ち寄りました。

年間観光客約100万人(平成21年度実績)の知床の玄関口だけあってモダンな駅で、過疎地では珍しい駅員配置駅です。そしてローカル駅には見られないバリアフリー駅、駅前には知床等へのバスターミナル、道の駅もあり、交通の中心地となっています。多分原生花園花のシーズンでは、知床帰りの観光バスはこの駅で観光客を降ろして原生花園臨時駅まで列車に乗せるのでしょう。

始めの駅名は「斜里駅」でした。1998年(平成10年)に改名されています。
斜里駅はかつて国鉄ローカル線建設華やかし折に、逆行するかのように廃止された根北線の起点駅として強く印象に残っています。大赤字が増大する国鉄再建のため国鉄諮問委員会が発足し、1968年(昭和43年)9月に営業係数が高く、「使命を終えた」と見られる赤字83線2590.6kmものローカル線がノミネートされました。その中に根北線が含まれており、地元と調整了解後の1970年(昭和45年)に廃止されていました。

当時は町から過疎地へとレールがつながる事の意味は精神的に大きく、沿線住民の願いでもありましたので、延伸も予定され一部着工されていた路線での廃線は、意外なことでした。

まだ時間に余裕がありましたので、知床斜里駅を釧路方面に出て90度方向を変える釧網線沿いの砂利道を走り、17:35青々とした野菜畑を前景に斜里岳の麓を行く4739Dを撮りましたが、晴天なら素晴らしい光景だったでしょうね。必ずリベンジします。

北浜駅までは約30km、18時過ぎには北浜駅に到着しました。今日の宿泊は、昨年10月にお世話になった湧網線卯原内駅交通公園スハ47-508を電話予約しました。今回は同宿者がおられるそうで、19:30までは待ちますがそれ以降なら明日9:00にお支払をお願いしますと、管理されておられる喫茶店のマスターのお返事でした。

北浜駅で18:33発の4740Dを撮影後に向かう予定でしたが、駅舎内の軽食&喫茶「停車場」で、夕食を済ましてからに決めました。が、ここで話し好きなママに捕まってしまいました。カメラ撮りも得意なようでこの時間にこの場所で撮るのが雰囲気が出て1番と、我々のカメラを持ってバシャバシャと写してくださいました。話が弾んで、20:05発4745Dを撮るまでいました。

北浜駅での鉄道写真は撮りましたが、ピントが甘くお見せできる仕上がりではありませんでした。どうも愛用カメラを使いこなせていません。Nikonお客様窓口へ電話をしてアドバイスを求めましたら、丁度鉄道写真を撮っていらっしゃる担当者が応対してくださいました。原因は列車のライトがAF機能に影響するようです。3Dトラッキング機能にセッティングすれば防止できる等々、いろいろと対策を教えていただきましたが、最善の策は鉄道写真家の山崎友也氏が言われているように①カメラを三脚に固定しAF機能を解除する。②液晶モニターをライブビュー撮影設定にする。③画面を拡大してピンをあわせて、列車がその位置を通過する時にシャッターを押す。といったほぼ完全マニュアルで撮影することで問題は解決すると言います。

聞けば当たり前のことですが、ライブビュー設定をして拡大してピントを合わすのは、デジタル一眼なればこその技です。ただこれでは、連写や撮影地点前後のショットはボケピンになります。三脚使用もやりたくありません。狙っている列車の通過地点より前後に予想だにしなかった良いショットが撮れる事があります。

確実な一発勝負にこだわるか、連写を生かして意外性も期待するかの選択です。勿論後者は、AF機能が付いていなかった以前のカメラと同様なカメラマンの腕前が要求されます。老眼になって暗いシーンは苦手となった老体には厳しい要求です。どちらを選ぶかは難しい選択です。皆様でしたら、どちらを選択されますでしょうか? それとももっと良い方法はあるのでしょうか?

北浜駅を出発後の卯原内駅への途中で、総本家さんが新婚旅行に泊まられた網走湖畔荘の温泉に入浴後、同宿者の方には迷惑な到着時間になりましたが22:00近くに着きました。  Part8   へ続く

1955/57年北九州福岡3

前々回挿入し忘れがあり、話が前後し申し訳ないが、トシの所為としてご寛容の程を。東小倉の廃車体で、1932年廃車後小倉鉄道に払い下げられ、1943年5月1日同鉄道買収で復籍した客車。経歴は鉄道作業局11(新橋工場1900年製造)→鉄道院ホロ5516(形式5510)→ホロハ5740(5740)→ホロハ1460(1460)→ホハ2440(2440)→小倉鉄道ホロハ1→ホハニ1→再買収ホハニ4097となる。


ホハニ4097廃車体←小倉鉄道ホハニ1←ホロハ1

ナハ2457廃車体 吉塚

吉塚にも廃車体が3つあった。ナハ2457は1951年4月30日門鉄で廃車になったもので、鉄道作業局ホボ41→鉄道院ホロハ5725(形式5720)→ホロハ1458(1450)→ナハ2457(2450)。神戸工場1909年製である。車体中央に外釣引き戸が設けられているのは、戦時中の多客化改造=通勤用客車になっていたから。


ナハフ14121廃車体 トラス棒がついたままなのが珍しい 吉塚

筑前参宮鉄道ハ3~6のどれか 菱形の神戸工場銘板が残る 前身はロ524~527=4扉が二等車を示すのは加悦保存(復元)車と同じだが こっちは両端デッキ式に改造 吉塚

何もこんな苦労してまでヘンな場所に据え付けなくてもいいと思うが

かつては線路や道路も松林だったんだろう 今ではどんな風景になっているのか

西鉄福岡市内線126

同じ西鉄でも門司~折尾の北九州線が半鋼車と連接車で固めていたのに、福岡市内線にはクラシックな高床ボギー車がどっさり。それでもデッキには折り戸がつき、窓は下段上昇に改造されて入るが。お客は折り畳みステップと踏み段を上がらねばならない。流石にデッキ・客室間の仕切は撤去されている。


西鉄福岡市内線128

西鉄福岡市内戦132

西鉄福岡市内線135 これは2段目の踏み段が車外にあり、車内へは都合4段上る

西鉄福岡市内線138

西鉄福岡市内線143

西鉄福岡市内線507

西鉄福岡市内線576

前々回入れた到津遊園のコッペル機の、4年後の悲しい姿のネガが偶然出てきたので、事のついでにお目にかける。全体を錆止めペイントで灰色に塗装されているのはいいとして、キャブがこの有様。ロープかワイヤーをかけて自動車で引っ張りでもしないと、こうはならないだろう。これは6番目の政令指定都市北九州市誕生(1963年4月1日)に合わせ、この遊園地(つまりは西鉄)が指定都市展なるものを企画し、東京都と各指定市に出品を勧誘。そのため展示会場にあわせた出品物の検討に、就職1年半の新米(小生)が派遣され、その折撮影したと記憶している。幸い現在では修復されて別の=機関車にゆかりのある場所に保存されているそうだが。機関車に限らないが車両にせよ、建築物、文書にせよ、保存に熱心だった人がやめたり、転勤したりすると、大方がこんなことになる。


痛々しいコッペル機

ロッドも失われているのか 盗難を避け別に保管しているのか

厳冬決死の蒸機撮影

 猛暑お見舞い申し上げます。梅雨明け後の連続酷暑で、日頃お元気な皆様もバテ気味のことと思います。こういう時は極寒の写真でもご覧下さい。1996年暮れ、某私鉄系大手旅行会社主催で中国東北部(旧満州)の蒸気機関車撮影の団体旅行に参加した時のことである。この旅行では2回えらい目に遭った。1回目は北京到着後ホテルで両替中に若い女性の窃盗グループに買ったばかりのペンタックス67とTCトラベラーズチェックを盗まれたこと。ホテル側に盗難証明を書かせ、TCは盗難対策用の金券であり、保険にも入っていたので被害は少なかったが、最初はショックであった。このため、撮影機材は補助として持参したキャノンEOS55である。2回目は掲載写真の撮影当日がこの地区でも20数年ぶりの大雪で氷点下20度を下回り、チャーターバスの異常低温による運行不能で遭難しかかったことである。この日は元日で、非常に寒い日であった。撮影の合間には凍傷にやられないように線路に近い民家に入れてもらったくらいである。貧しい家であったが、元日(1997年1月1日)と言うことか餃子をつくってくれた。線路際でずっと撮影した若い仲間には凍傷にやられた者も出た。そして夕刻牡丹江のホテルに向かうバスが発車して30分もしないうちに故障。外は真っ暗で車内は後で聞いたら、氷点下10度であったとのこと。やばい、本当にここで満州の露と消えるかと思った。生き証人の一人に鉄道ピクトリアルに時々顔を出す山陽電鉄乗務員のY氏も居る。さて、厳冬極寒の写真は牡丹江の東約50kmくらいの所にある大観嶺(正式な地名は定かでない)と言う勾配区間での撮影である。

蜜山7:57発98車次ハルビン東行き22:00到着前進型重連

この列車は時刻表でみると98車次特快で、勾配の複線区間ではあるが、昔のニセコのC62重連を思い出す。但し、C62重連は全長42mに対して前進型は58mある。

猛吹雪で視界悪い中を登ってくる前進型重連の貨物

貨物の前補機や旅客列車の一部には東風4型ディーゼル機が入っていたが、やはり、形は不細工でも大型蒸機はいい。

 この旅行は死が予想される異常低温と猛吹雪で冷え切ったバスの中でこれは本当に死ぬかと思った。たまらず1時間に数台しか通らない車のヒッチハイクを考える。中国人ガイドは「中国の車は停まってくれない」と言ったが、そんなことを言っておれず、人民解放軍のジープを停める。運転台に運転手を入れて5人乗り込み夜中の2時頃にホテルに着く。救援バスも30分遅れて到着。翌日はナロー蒸機は諦める。最終日の北京空港も雪で中国国際機は9時出発が18時まで待たされた。この旅行では旅行会社が一人2万円の見舞金を出した。ハルビンの勝利橋で滑って骨折した北九州の友人はそのまま成田の病院へ入院した。

初夏の北海道 余話-3-

最後の運炭鉄道

今回の北海道行きの楽しみの一つに、釧路の太平洋石炭販売輸送の訪問がありました。日本最後の炭鉱、釧路コールマインの運炭部門として、採炭地の春採から、積出港の知人までの4.0kmを結んでいます。ただ、JR線と連絡しない自社線完結の路線とあっては、今まで訪れる機会もありませんでした。
ぶんしゅう号で釧路市内へ入り、地図と見比べながら行っても目的地が分からず、ぶんしゅうさんに叱咤されながら、ようやく機関区のある春採駅にたどり着きました。
ぶんしゅうさんのレポートと重複しますが、車両を中心に報告します。

この鉄道は、大正14年に釧路臨港鉄道として春採~知人間が開業。釧路川の左岸で路線を延伸し、石炭・一般貨物だけでなく、旅客営業も行なっていた。内燃動車も導入されたが、昭和38年に旅客営業を廃止、昭和54年には太平洋石炭販売輸送に吸収され、石炭輸送の専業となった。
釧路市沖の太平洋の海底から採炭していた太平洋炭鉱は、平成14年に採炭を中止し、以降の事業は釧路コールマンに継承されるが、事業規模は大幅に縮小された。写真は、機関区のある春採駅の全景、背後にある丘の上から太平洋の海底に向けて坑道が伸びている。以前は、この丘の上に、610mm軌間の専用線があり、三笠鉄道記念館に保存されているヒョロ長い電機が使われていた。

春採駅に待機している編成がシャトルトレインだ。DLが前後に付くプッシュプルとなって連接式の石炭車を牽引する。最盛期は機回しの時間もないぐらい忙しくて編み出された運転手段だろうが、大幅に事業が縮小された現在では、意味を成していない。事実、訪問した日も、午前の1便だけで当日の列車は終了しており、念のためと思って再訪問した翌日も同様であった。

シャトルトレインの先頭に立つのがDE601、日本ではたいへん珍しくなった電気式のディーゼル機関車。片運転台式で車体の背の高い日本離れしたデザイン、それもそのはず、GE社製のライセンスで日本車輌により製造された。ライトブルーに黄色のライン、”ShuttleTrain”と書かれた英文字も実によく効いている。DEとは言うものの、軸配置はB-Bであり、Eは電気式を指すようだ。

D401 昭和39年製で、車体はDD13後期型と同じだが、珍しいロッド式。赤白く塗られたロッドはよく目立つ。予備機扱いのようだが、訪れた日は、ロッドの音が響かせながら入換に励んでいた。ぶんしゅうさんが尋ねられていたボンネット部にある覆いは、石炭積込時にホッパーから漏れてくる選鉱液がファンの中に入り込まないようにする覆いとのことだ。

D701 昭和52年製、日本車輌の私鉄向けDD型で、DD13と類似している。軸バネ台車が特徴。防寒のためボンネット端部が密閉式になっている。通常は、シャトルトレインの春採側に付く。


D801 元は雄別鉄道YD1301で、昭和41年製。雄別鉄道の廃止後、釧路開発埠頭のKD1301となり、ここも廃止となって平成12年に入線、D801とした。

廃車のD101 昭和33年製で、北海道としては初の大型DL。ロッド式の台車が特徴、DD13と似ているが、細部は異なる。前照灯は1灯だったが、2灯に改造された。10年以上前に廃車となったが、錆びを浮かべながらも、留置されていた。

連接式の石炭車セキ6000 昭和41年から製造され14組28両ある。現役の貨車としてはわが国唯一の連接式。機関車からの遠隔操作により、側扉開閉、連結解放を行う。

春採駅の奥にある石炭ホッパー。海底から採掘された石炭は選炭のうえ、ここで石炭車に積み込まれる。ただ現状は、海外からの採炭技術者の研修を兼ねた採炭を細々と続けている程度に過ぎず、行く末が心配されている。

北の大地へ2010年初夏編 Part6 根室本線

第7日目 2010年6月30日
① 厚岸6:47(快速「はなさき」3625D)→8:13根室
② 根室8:22(5628D)→9:49厚岸

昨夜からの小雨が続く朝を迎えました。起きて直ぐにTVをつけて、昨夜のワールドカップの結果を聞きました。結果はご存知の通りですが、もし見ていたら興奮して寝られなかったでしょうね。
友は「天候に恵まれない雨の日こそ、めったに見られない光景を写せるチャンスがある。」と、有名な鉄道カメラマンの言葉を言いますが、小雨に加えて霧も出れば、白い世界しか写らない。どうしたらいいんだと言いたくなります。しかし行動を起こさないと、チャンスは生まれてきません。他のオートキャンパー達が眠る道の駅「厚岸グルパーク」を出発して厚岸駅に向かいました。
続きを読む

北の大地へ2010年初夏編 Part5 根室本線、太平洋石炭販売輸送㈱臨港線

第6日目 2010年6月29日
朝起きると、「道の駅しほろ」の駐車場は、車で寝泊りしながら道内を観光する全国各地からの車が数多くありました。立派なキャンピングカーもあれば、小型車で簡単な窓隠しをしただけの車もあり様々です。その方々のご年齢層は、私達より高く70歳前後以上です。男性一人の方もおられれば、ご夫婦もおられます。どなたも約1ヶ月かそれ以上をかけて、ゆっくりと道内を見て回ると言っておられました。ようやく日本も、退職後の余暇を楽しむ方が増えだしたなあと感じました。
6:00、ゆっくりと朝食準備されている方々を見ながら、我々は早朝からの撮影に出発です。

6:50池田駅着。1番ホームに新得行きキハ40-1723、2番ホームには、浦幌行きキハ40-1774、芽室行きキハ40-722+キハ40-1778+キハ40-751が縦列で停車中。

▲ 7:31豊頃駅を通過して、池田方面に向かう特急「スーパーおおぞら2号」を73号線の高架橋から撮影しました。

7:50新吉野駅着。ここで、先行する2523D新吉野駅で追いつきました。

8:00浦幌駅着。帯広~浦幌の区間列車が走るだけに駅周辺は、住宅街です。きっと池田や帯広に通勤通学客があるのでしょう。


次の上厚内駅は、木造駅舎ですので、じっくり訪ねることにしました。国道側に駅舎はなく反対側です。行き過ぎてから踏切を渡ろうとすると、良い感じのカーブとなっています。丁度釧路からの特急「スーパーおおぞら4号」が通過する時刻です。振子式を撮るにはカーブが1番です。1つ邪魔なハエタタキがありましたが、まずまずでした。

8:26上厚内駅着。待合室にFRP製椅子が設置されていますが、ドアや窓もアルミ製ではなく、外観は純木造駅舎です。この後もぶんしゅう7号での各駅停車の旅は続きます。


上厚内
からの道路はJR線と分かれたので、直別駅まで行ってしまいましたが、手前で逆Ⅴ字形に折り返して、厚内駅へと海岸沿いをロケハンしながら向かいました。

丘陵が海岸近くまでせり出して、わずかな間に根室本線と側道が走っています。丘陵上から海岸線を入れて撮りたいのですが、土砂崩れ防止コンクリート壁が設置されているので、これが邪魔です。また電柱・太い電線もあります。邪魔物がなく丘陵が途切れる間を見つけては止まって、撮影可能か確認しますが、なかなか条件が揃った場所はありません。
それでも1ケ所、何とか撮れそうな場所が見つかりましたが、たどり着ける道がありません。こうなれば、2人で道を開拓するしかありません。庭バサミを取り出して、線路を横切り丘陵の多い雑草を刈り取りながら道を作り、滑りやすい斜面を上へと登って行きます。二人いたからこその作業です。一人ですと、途中で滑り落ちて動けなくなったら最後、誰にも見えず分らずで天国行きです。
約30分をかけての作業で適当な撮影地にたどり着きましたが、快晴でなく水平線が見えません。しかし雨が降らなかっただけでも良かったと、列車を待ちました。
10:14釧路行きの特急「スーパーおおぞら1号」が通過。

アングルに収めきれない通常より1両多いありがたくない8両編成です。

約30分後に貨物列車が追走してきます。音別~古瀬間に絶景ポイントがあるので移動しようと向かいました。途中の尺別駅は、かつて尺別鉄道の起点駅なので立ち寄ってみました。約40年前は数千人が居住していた駅周辺は、廃屋が数軒あるのみで、跡は自然へと戻っていました。駅構内もC12形機が往来したヤードの面影は、全くありませんでした。

絶景ポイントに到着しましたが、手前の音別駅で交換のため約40分間停車するのを忘れていました。急いで引き返しましたが、貨物列車が来てしまいました。ベテラン二人がいても、疲れていると考えられないミスをしてしまいます。

11:04音別駅着。駅員の方が、丁寧に交換する列車と時刻を教えてくださりました。ありがとうございます。
音別駅で2093コンテナ貨物列車は、入換作業をします。久しぶりに途中駅での作業を見ました。約半分のコンテナ車を切り離して、留置貨物線に牽引します。音別駅近くには、Kioskで販売されるオロナミンCの製造工場があって、この輸送のための停車だったようです。



入換光景を撮影後、音別~古瀬間の丘陵地帯へと戻り、まず釧路行きの特急「スーパーおおぞら8号」を待ち受けます。次に音別駅で交換した2093貨物列車を待ちました。
12:05キハ40系2連の2525Dを撮影後は霧がたちこめてきて、撮影不可能となりました。


自然には勝てません。撮影は諦めて釧路へと走り釧路運輸車両所に立ち寄りますと、国鉄色キハ183系4両編成が留置されていました。これには、総本家さん大喜び、他に休車等の留置車両多しで予定を変えて撮影会としました。



今回の訪問希望地の1つだった太平洋石炭販売輸送㈱臨港線には、14:40着。事務所によってダイヤを聞くと、残念ながら今日の運行は終わっていました。運行は、当日の採炭量によって決まるとかで、石炭輸送専用ですので炭鉱トロッコと同様扱いです。撮影許可を取って、構内のDL・石炭車を撮りましたが、総本家さんGE製DE601の美形にうっとりです。私は、初めて見る連接式の石炭車セキ6000形にびっくりです。走っているシーンが撮りたかったですが、次回にしました。


▲ 他にも珍しいロッド駆動式のD401機等の凸形機がありました。D701機を除いての現役機のラジエーターファンの上に屋根が付いていますが、なぜでしょうか?

今日の宿営地は道の駅「厚岸グルメパーク」です。ここからは、約50kmで楽勝と思っていたら、途中でナビにない新しい道を走ってしまい迷走です。結局、元来た道に戻らざるをえなくなって、大幅に遅れ16:15門静駅に到着しました。ホームの先から海が見えました。少し戻って、山間のオーバークロスで撮ろうとの提案がありましたが、先を見てから決めようと向かいましたら大正解でした。海岸沿いに広がる厚岸の町並みをバックに線路があります。小高い丘をまた二人三脚で道を開拓して、見渡せる撮影場所を造りました。

私が最も好きな光景です。16:32釧路行き5638D17:14室行きの5637Dの2本撮った後は、順光で夕陽もさしてきました。本命の17:325640D撮影を楽しみにしていましたら、直前に突然ご覧のような雲が下りてきました。

宿営地は道の駅「厚岸グルメパーク」には温泉がないので、電話をして近場の温泉を聞きましたが、1時間以上行かないとないそうです。代わりに厚岸には1軒しかないという銭湯を紹介してもらいました。十勝沖地震以前は町内に4軒あったそうですが、ここを残すのみだそうです。中は番台におばちゃまが座って、常連の入浴客と話している昔の銭湯光景で、レトロなお湯を楽しめました。

夕食は勿論、厚岸の牡蠣料理を「厚岸グルメパーク」内で堪能しました。ワールドカップの決勝トーナメントパラグアイ戦の放映がありましたので、車内観戦できるように準備万端しましたが、高台なのに地デジもワンセグも映りません。帰宅間際の道に駅の事務員さんに聞きましたら、この位置ならアナログは入ると言われ、秘密の場所を教えてもらい移動しましたが、放映直前に眠気がおそってきて諦めました。
 Part6 へ続く

西鉄北九州線

湯口先輩より1957年(昭和32年)3月14日に撮影された西鉄北九州線の超貴重な画像を公開していただいたが、この時代に地元の方以外で撮影された方は非常に珍しい。我々団塊世代の現役時代、九州ではまだまだ蒸気機関車が大活躍しており、皆さんの目がどうしてもそちらに向いてしまうため、この方面の撮影者は少数派であった。限られた時間とお金の中で、自分が撮影したいものを最優先に行動するのは当然のことであり、私の場合、魅力を感じていたローカル私鉄と路面電車の撮影を優先し、国鉄の蒸気機関車は「ついで撮影」であったように思う。

西鉄北九州線の印象は非常に速かったことで、北九州の各都市を結ぶインターバンとして建設されたため専用軌道区間の最高速度は60㎞/H、併用軌道区間でも40㎞/Hで目一杯走っていた。路面タイプの電車が60㎞/Hまで出すと体感速度は10㎞/H以上速く感じた。以前ぶんしゅう様が万葉線やポートラムが専用軌道でも40㎞/Hまで出さないことを嘆いておられたが、都電荒川線も含めて、専用軌道区間は是非60㎞/H位で走行してもらいたいものである。

それでは上から順に解説する。参考までに湯口先輩が撮影された12年後、1969年(昭和44年)3月撮影の画像を貼り付けたので、湯口先輩の画像と合わせてご覧いただければ幸いである。

1)79・80(形式/66形)

北九州線の前身、九州電気軌道により、昭和4年66~85の20両が作られた全鋼製車で、昭和25年に車体を軽量化するため、70・76~78・80~85は車内を木製化して半鋼製に、車体の状態が悪かった66~69・71~75・79は当時の新製車600形とほぼ同じ車体を新製して乗せ替えた。

湯口先輩が撮影された1番上の79は車体新製車、2番目と3番目の80は半鋼製改造車、最後の廃車体は、新製車体に乗せ替え時の廃車体である。

その後の経過については、他形式を含め1950年代にビューゲルをパンタに取替えが実施された。半鋼製改造車はダイヤの合理化により余剰となったため、ワンマン化されることなく昭和47年に廃車された。車体新製車は昭和39年から42年にかけて福岡市内線の木製車100形(元北九州線1形・35形)を置き換えるため79を除く9両が同線に転属した。昭和50年福岡市内線一部廃止により余剰となり、福岡で廃車になった75以外の8両は北九州線に復帰したが、路線廃止に伴い66~68が昭和60年、69・71~74が平成4年に廃車された。

 

77(半鋼製改造車) 昭和44年3月26日  魚町

 

75(車体新製車/福岡市内線転出後) 昭和44年3月24日  博多駅前

(2)    104・156(形式100形)

昭和11年から15年にかけて57両(101~157)作られた車両で製作時期により大きく3つのグループに別れる。

    101~117

昭和11年に作られたグループで前述の66形と同系のスタイルである。66形との相違点は窓が大きくなったため扉間の窓枚数が11枚から10枚に減少、扉が窓よりも高くなったこと等があげられる。

    118~137

昭和14年から15年にかけて作られたグループで、スタイルが大きく変わり、正面が当時流行の流線型、窓が上窓固定の2段窓、扉の配置が前・中となった。屋根の形状は汽車会社製の118~124が従来と同じであったが、日本車輌製の125~137は張上げ屋根となった。昭和27年から28年にかけて、前中扉は前後扉に改造され、元中扉部分の窓幅が狭くなっている。

    138~157

昭和15年から16年にかけて作られたグループで扉は前後扉になった。138~147は日本車輌、148~157は汽車会社で作られたが、どちらも張上げ屋根となり差異はなくなった。このグループの内、138~140・142~145・147・148・150の10両はワンマン化されたが、それ以外の車両は昭和47年から53年にかけて廃車された。148が「北九州市交通科学館」に保存されたが平成16年4月に閉館となり、現在は門司港レトロ地区で保存されている。画像で見る限り状態は良く、リタイヤ後是非行きたいと思っている。

同一形式ながらスタイルが大きく異なるため、118~124を118形、125~137を125形、138~157を138形と呼ばれることもある。

 

104  昭和44年3月26日  大門/昭和11年日本車輌製

 

111  昭和49年1月19日  大門/昭和11年日本車輌製

 

119  昭和44年3月26日  大門/昭和13年汽車会社製、元中扉部分の窓が狭くなっている。

 

129  昭和44年3月26日  大門/昭和13年日本車輌製

 

152  昭和44年3月26日  大門/昭和15年汽車会社製、

 

139(ワンマン改造後)昭和49年1月19日  大門/昭和15年日本車輌製

(3)    204(形式/200形)

北九州線の前身、九州電気軌道の開業時から使用してきた1形のうち初期車の9両と余剰の散水車3両の台車と電装を流用して、昭和9年から12年にかけて66形に準じた車体を新製した車両である。前述の100形よりも製造年が古いのは、当時神戸市電から譲り受けた2軸車が100形を名乗っていたためである。(前述の100形は元神戸の100形が廃車後に新製されている)ワンマン化されることなく昭和48年から52年に廃車となった。

 

203  昭和44年3月26日  大門/昭和9年日本車輌製

 

205  昭和44年3月25日  小倉駅前/昭和9年日本車輌製

(4)    618(形式/600形)

昭和25年から28年にかけて50両作られ、平成12年11月26日北九州線全廃時まで主力として活躍した。601~605・636~643が昭和25年新潟鉄工所、606~610が昭和25年川崎車輌、611~635・644~650が昭和27年近畿車両で作られた。メーカーによる車体の差異はないが台車が異なる。昭和45年にワンマン改造、昭和56年から車体強化改造、昭和61年から冷房の取付けが実施されたが、全車には及ばず約半数の23両に止まった。全線廃止時まで残っていた621が「北九州線車輌保存会」により、元北方線324と共に筑豊本線筑前山家駅の近くで保存されている。毎月第4日曜日に一般公開されており、リタイヤ後是非行きたいと思っている。余談になるが、リタイヤ後に行きたい所が山ほどあり、生きている間に全部回れるかどうか甚だ疑問であるが、可能な限り回りたいと思っている。

 

606  昭和44年3月25日  小倉駅前/昭和25年川崎車輌製

 

612  昭和44年3月25日  小倉駅前/昭和27年近畿車両製

 

640  昭和44年3月25日  小倉駅前/昭和25年新潟鉄工所製

 

647  昭和44年3月26日  大門/昭和27年近畿車両製

 

627(ワンマン改造後)昭和49年1月19日  大門/昭和27年近畿車両製 

(5)    1001・1009・1020(形式/1000形)

昭和28年から42年にかけて作られた連接車で1001A+1001B~1064A+1064Bの64編成が在籍した。製造年が15年に亘るため、時期により変化が見られるが、大きなものを取り上げると、昭和28年の1001A+1001Bから30年の1020A+1020Bまでは半鋼製、昭和33年の1021A+1021B以降全金製、翌34年の1031A+1031B以降窓枠のアルミサッシ化、最終増備の1062A+1062B~1064A+1064Bの方向幕大型化が挙げられる。後日1045・1052~1056の6編成は、ラッシュ対策のため扉のない中間車体Cを挿入して3連接車となった。

路線廃止後、筑豊電鉄に譲渡された車両が多いが、現在も原型を保ちつつ残っているのは最終増備の1062と1064の2編成のみで、1063編成改造の中間車体を挿入して3連接車となっている。

・筑豊電鉄2006ABC編成(1062A+1063B+1062B)

・筑豊電鉄2007ABC編成(1064A+1063A+1064B)

また、1043A+1043Bと1044A+1044Bは中間車体に改造され、元福岡市内線1301A+1301B~1304A+1304Bの中間に挿入されている。(筑豊電鉄2001ABC~2004ABC編成)

 

1003A+B 昭和44年3月25日  小倉駅前/昭和28年川崎車両製

 

1021A+B 昭和44年3月26日  大門/昭和33年近畿車両製

 

1026A+B 昭和44年3月26日  大門/昭和33年川崎車両製

 

1038A+B 昭和44年3月26日  大門/昭和34年帝国車両製

 

1045A+C+B 昭和44年3月26日  大門/昭和34年日立製作所製

 

1058A+B 昭和44年3月26日  室町/昭和39年日本車両製

 

1062A+B 昭和44年3月26日  室町/昭和42年九州車両製

(6)    506(形式/500形)

昭和23年に501~510、24年に511・512の2両が汽車会社で作られた。全長13.6m、車体中央に両開き扉を設置した3扉の運輸省規格形電車で、大阪市電1711形、横浜市電1300形とは同形であった。昭和28年頃に急カーブでの接触事故防止のため車体両端を絞る工事と中央扉の廃止工事を行った。ワンマン化されることなく、昭和51年から52年に運用を離脱し、501・502・504が広島電鉄に譲渡され、それ以外は廃車となった。広島電鉄では600形(601~603)となり、後部扉を廃止して片開きの中扉を設置した。現在602のみが残っており西鉄色に塗られている。

 

505  昭和44年3月25日  小倉駅前/昭和23年汽車会社製

湯口先輩の「北九州シリーズ」の続編で、西鉄宮地岳線や福岡市内線の貴重な画像が続々と公開されているが、機会があれば関連の話題を書き込みしたいと思っている。

こんなんあるでぇ!シリーズ

【9057】北の大地へ2010年初夏編 Part4 富良野線、狩勝峠のなかの狩勝峠で、特派員氏とぶんしゅう氏が旧線を探しておられるのを見て手元の古い資料を探してみた。須磨の大人風に言うと「またぶんしゅう氏の挑発に乗った」ということになる。

撮影はいずれも昭和40年8月、早朝の信号所からクマザサをかき分けながら登ること3時間、頂上(らしいところ)に到着したが深い霧で足下もおぼつかないほど。待つこと一時間、その間ドラフト音は聞こえるのに見えないのがつらかった。するとアッというまに霧が晴れた。そこで見たのはこの世とも思えぬ大眺望!いまでも人生最高の眺めであったと確信している。

さて、ぶんしゅう氏と特派員氏が見たのもこの眺望だろう。見比べてみていただきたい。

新緑の北海道 余話-2-

懐かしい車両と出会う

北海道には、国私鉄の廃止後に造られた鉄道博物館・資料館が数多くあり、ぶんしゅうさんが紹介された三笠鉄道記念館はその代表です。幌内線の廃止後、三笠駅跡と幌内駅跡の2ヵ所に造られた、ゆかりの車輌が50両近く保存される、全国でも最大規模の鉄道博物館です。
北海道ではその後も多くの保存車両に接することになるのですが、そのいずれも、定期的な塗り替えなどのメンテナンスが行われ、野外展示でもたいへん美しい姿で保存されています。保守に携わる関係者の熱意には心打たれました。

ここに鉄道記念館が造られた理由を、よく理解しないまま訪れたのですが、北海道で初めての鉄道である幌内鉄道が開通したのが、1882年の手宮~札幌~幌内間で、おもに幌内で発見された良質の石炭を小樽・手宮港へ運び出すのが主目的でした。廃止前の幌内線は、岩見沢から三笠を経て幾春別までと、三笠から分岐して幌内まで、計20キロ余りのローカル線に過ぎませんでしたが、元を正せば、札幌・小樽へ通じる、明治の幹線でした。三笠鉄道記念館は、言わば北海道鉄道発祥の地にある、由緒正しき鉄道資料館と言えるでしょう。
保存車両を見ていると、ぶんしゅうさんから「このDD51、御召を牽いている」と聞かせてもらいました。説明板を見ると、展示のDD51548は確かに昭和43年に御召牽引と書いてあり、その時にも撮っていたことを思い出しました。他も見ていくと、現役時代にも撮っていた車両があり、思わず40年前にワープしていました。

旧三笠駅跡にある、クロフォード公園と呼ばれる一番目の保存場所に置かれたDD51548。ここには、三笠駅の旧称である幌内太駅を模した駅構内が復元されている。その中に貨車を牽くDD51548が置かれている。ホームや跨線橋も復元され、現役時代を髣髴させている。

以前の掲示板でも記したが、DD51548は昭和43年9月、開道100周年に際して、千歳線・函館本線・石北本線で御召列車を牽いている。写真は旭川四条~新旭川間で旭川発上川行の御召を牽くDD51548。真夏のような陽射しの中、ロギング太郎さんと一緒に撮りに行ったことを覚えている。
この頃、北海道ではDD51が釧路・旭川区に配置され始め、次第に蒸機を駆逐して行った。同機は、言わば北海道のDD51の生え抜きでもあり、御召牽引の実績とともに、保存にふさわしい車両であろう。

2番目の会場である幌内駅跡には、多くの保存車両があり、その大部分は野外だが、一部は庫の中に保存されている。そこにいたのが、北海道最初の電気機関車のうちの1両、ED76505である。腐食もなく、美しい姿で保存され、運転室への立ち入りもできる

北海道の鉄道で、初めての電化区間は、昭和43年8月に開業した小樽~滝川間であった。電車は711系、電機はED76 500番台がいずれも新造された。写真は、電化直後、まだ地上時代の札幌駅で421列車を牽くED76505だ。421列車は函館発釧路行の普通列車で、延々680キロを通す普通列車として、その当時も名を馳せていた。

成田スカイアクセス開業と253系N`EXラストラン

一昨日の2010年7月17日、成田スカイアクセスが開業しました。また、JRでは、253系成田エクスプレスのラストランがありました。

地元ということもあり、双方を撮影してきました。

成田空港行きの初列車は、京浜急行の神奈川新町を5:20に出た553Hアクセス特急です。京浜急行の1000系が充当され、地元の印西牧の原駅を120キロに近いスピードで通過していきました。

 

二番列車は、新線区間では、160キロ運転を行う新型スカイライナーです。先日、試乗会で160キロを体験しましたが、なかなかのものです。

京成上野を6:30に出たスカイライナー1号です。途中、日暮里では、出発式が行われたようでしたが、定刻どおりです。

 

三番目は、京浜急行の三崎口を5:05に出た557Hアクセス特急です。京浜急行の600系が充当されました。この車は、他の電車と違い方向幕を使用していたため、「成田空港」との表示がしっかり撮影できました。

四番目は、都営地下鉄の西馬込を6:33に出た601Kアクセス特急です。京成電鉄がこの成田スカイアクセスのために新造した3050系が充当されていました。

成田空港行きの初列車から4本目まで、自宅近くの印西牧の原付近で撮影しましたが、いずれの電車にもヘッドマークや装飾の類はされていませんでした。京急車はともかく、京成の車両ぐらいは期待したのですが・・・・高速走行のため、無理なのかもしれませんね。

一旦、自宅に引き上げた後、JR成田線に移動し、佐倉~酒々井間で、JR東日本横浜支社主催の「253系成田エクスプレスラストラン」の団体臨時列車を待ちます。炎天下で待つこと二時間。陽炎が立つ彼方から、253系6連 Ne-07編成がやってきました。現役時代は、12連ですのでちょっと短いN`EXです。鹿島貨物の撮影の合間、30分ごとに走ってきた253系に、ここで出会うのも最後かと思うと不思議な感じです。

スカイアクセスに続き、こちらもヘッドマークの類は、一切つけられておらず、一般の営業列車と同じいでたちでした。

北の大地へ2010年初夏編 Part4 富良野線、狩勝峠

第5日目 2010年6月28日
ペンションは、「ほしの灯屋」のオーナーは、奥さんの事故後遺症治療のために、効能良い温泉を探しペンションを始められただけあって、ご自慢の源泉かけ流しの湯は、疲れ限界に達した我々には最高でした。昨夜寝る前、朝も入って、元気になりました。

宿泊客は、香港から来られた親子連れもいらっしゃいまして、5組9名でした。山や動物写真を撮っておられる猟友会の方々もおられ、今年は雪が多く餌不足で、熊やエゾシカが人里に下りてきている。遭遇する可能性が高いので気をつけるように、熊は嗅覚聴覚が人間の数10倍以上優れているので、声や鈴で音を出していれば遠ざかってくれるが、偶然出会いがしらに会った場合は一撃でやられる。そんな時は身の回りのものを置きながら熊の興味を引き付け、ゆっくりと離れる事。約50m外が安全ラインなので、越えたら一目散に逃げるようにしなさい。
エゾシカはグループで行動する。1頭が道路を横断した時は、避けられたと安心してはいけない。鹿は必ず2、3頭目が続いてくる。皆これと衝突する。衝突すれば被害は甚大で車が大破する。暗くなると行動が密になるので我々は、夜は絶対に走らない。とアドバイスを受けました。

夕刻の撮影が好きな我々です。そのため撮影後、夕闇の中を走る機会が日常的です。聞いた途端に夜の走行は止めなければと思いました。
お薦めします温泉ペンションは、白金温泉「ほしの灯屋」です。
http://www9.plala.or.jp/hoshinoakariya/

朝食をゆっくりとって、遅めに出発しました。9:20上富良野駅着
続きを読む

1955/57年北九州福岡2

西日本鉄道宮地岳線多々良車庫の車両は当然もっとある。モ2は木製車体の3扉車で、博多湾鉄道汽船―非電化時代の1925年ナハ1~3として川崎造船所で作られた、100%電車タイプのいわゆる「電車型客車」―方向幕窓まであった。
すなわち将来電化を予想していたわけで、このような客車は佐久、筑波、河東、東武、松阪電気鉄道など結構あり、予定通り電車になったケースも勿論あるが、客車で終始した例も少なくない。博多湾鉄道汽船では1929年めでたく電装され、デハ1~3に。

西鉄宮地岳線モ2←デハ3←ナハ3 

モ6←デハ6 電化に際し日車で製造された半鋼製車 窓配置が古めかしいが小田急モハ1→デハ1101型と寸法は殆ど同じだそうな

ク59←国鉄モハ316←鶴見臨港鉄道モハ316 台車は長軸だからTR11であろう

ク61←国鉄クハ6005

ク62←国鉄クハ17074 仮台車を履いている

ク62

ク55←サ55←国鉄キハ5026←北九州鉄道キハ9 西鉄で片ボギー車を両ボギー化 偏心台車は先回アップした旧中国鉄道ガソリンカーのものと思われるが、菱枠が三角リブで補強されている 元来は汽車会社製の無骨な60人乗り気動車

東芝製標準凸型電機202

吉塚駅前は3線式になっていて 1067mm軌間には木製で独特のB電機がセムを曳き続行運転をしているのが珍しかった 右手にオート3輪車が覗く

西鉄1012 電機か電貨か迷うが前者らしい オート3輪車も全盛期

西鉄1014 これも電機より電貨がふさわしそうだがやはり電機に分類されている

北の大地へ2010年初夏編 Part3 三菱美唄鉄道、三笠鉄道記念館

第4日目 2010年6月27日
昨夜は「道の駅三笠」に到着後、隣接する超大型スーパーで食材のお買い物をして、出発時の舞鶴港同様にテーブルをひろげてのアウトドアの夕食をゆっくり楽しみました。私は、家族や友人達とアウトドアを楽しんでいましたので、慣れたベテランですが、総本家さんは学生時代DRFC合宿以来です。抵抗があるかなと思いましたが、旅行慣れでこだわりなくよく食べておられましたので安心していました。

食事後に入浴されるのが習慣だと、隣接する温泉に行かれましたが、20:30で入館は終わっていて、入浴料も1500円と高かったとがっくりとして帰られてきました。温泉施設は全国各地に行っていますが、20:30が入館最終時間と聞くのは初めてです。1500円という入浴料も、超有名旅館の日帰り入浴並みです。道内は500円が相場です。我々の一日当たりの食費に匹敵する高さです。

昨日は、真夏日だったので、洗面所で汗を拭くだけでは不快だったと思います。加えて高速・主要道そばでの連泊ですので熟睡できなかったと、見ていてもハッキリと分かる程、身体全体に疲労が充満しています。私も移動距離が長いので運転疲れで限界です。今夜は安い温泉宿をとって、早めにゆっくりすることにしました。撮影地は、富良野線ですので、白金温泉の露天風呂付きのペンションを早め予約しました。

朝からは、静態保存の4110形蒸機を見学予定でしたが、10:00開園となっていたのでそれまでの間に、函館本線を走行する多彩な列車を撮影する事にしました。美唄までの約15kmが候補地ですが、決まった場所はありません。
▲ 9:09、峰延→光珠内 大人気のキハ183系0台4両編成の特急「旭山動物園号」。今日は、なぜかチンパンジー号が連結されていない。
続きを読む

宵山の京都から

北海道余話、ぶんしゅうさんと連携しながら書き進める必要もあり、その調整として、別テーマでちょっと横道にそれることにしました。
きょう7月16日、京都は祇園祭の宵山で賑わっていました。
以前は、電車と祇園祭を組み合わせを写すために、京阪四条駅や、古くは市電四条河原町新京極へよく行ったものでした。
今では、鉾町から離れたJR京都駅で、それをかろうじて叶えることができます。
毎年、烏丸口改札の上に駒形提灯が掲げられ、コンコースに祇園囃子が流れ、祭りへの高揚感を演出しています。
そんな中、今や1往復にまで減ってしまった485系「雷鳥」が0番ホームに到着します。折からの、急な夕立落雷でホームが混雑する中、懐かしい国鉄色はひときわ存在感を持っていました。

今年が最後? 485系「雷鳥」と祇園祭

北の大地へ2010年初夏編Part2 旧白滝駅・丸瀬布森林鉄道

第3日目 2010年6月26日
昨夜は小樽港到着後すぐに札樽自動車道、札幌から道央自動車道を眠気感じる砂川SAまで走り、宿泊しました。

5:00前に起床、すでに太陽は内地と比べると、はるかに高く上がっています。SAも内地と違って、大きなキャンピングトレラーや普通乗用車も多数泊まっていました。ここから北の大地1番目の撮影地石北本線白滝付近までは、約2時間の所要時間です。

▲ 7:05、「村名”白滝”発祥の地」記念碑前に到着。白滝を見下ろす高台が、湧別川沿いに走る石北本線撮影地です。
続きを読む

初夏の北海道 余話-1-

旧白滝を訪ねる

待望の連載”ぶんしゅう旅日記 初夏・北海道編”、今回は、当特派員も同行させていただいての二人旅となりました。特派員にとっての北海道は、社会人時代に観光や仕事で行ったことはあるものの、鉄道写真の撮影となると、実に学生時代以来、約40年ぶりとなりました。
それだけに、見るもの、写すもの、すべてが新鮮で驚きの連続でした。詳細な旅行記は、今後もぶんしゅうさんが記されますので、当特派員は、印象に残った事象を採り上げ、昔話も交えながら綴っていくこととしました。
北海道へ上陸して、まず向かったのは、丸瀬布の「いこいの森」ですが、開場前の時間を利用して石北本線旧白滝を訪れました。この駅の存在が、以前から気掛かりで、この眼でまず確認しておきたかったのです。


この世に”新”を冠する駅名はゴマンとあるが、”旧”が付くのは、ここ旧白滝だけだ。しかも、石北本線には、奥白滝、上白滝、白滝、旧白滝、下白滝と”白滝”の付く駅のオンパレード(奥白滝はのちに廃止)。
この謎は
、現場へ行ってみて氷解した。もともとこの地域、地名すらないような人跡未踏の地であった。地域を流れる湧別川に大きな滝があり、飛瀑で付近は白く見え、いつしか”白滝”が地名となり、村名も白滝になったという。事実、石北本線の撮影名所地になっている旧白滝~下白滝間には、「白滝発祥の地」の碑があり、この由来を説明している。

旧白滝は、この地域で真っ先に入植が行われ、のちに集落の中心が現在の白滝へ移ったため、その後に建設された石北本線の駅名には「旧白滝」の名が採用されたようだ。駅への昇格は1987年のことで、それまでは乗降場扱いであった。駅はホーム一面の棒線駅で、典型的な北海道の無人駅スタイルだ。もっと山深いところかと想像したが、意外に開けたところに駅は所在し、国道からも容易にアプローチできる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もうひとつ、旧白滝を有名にしたのは、発着本数の少なさだ。上りこそ午後に3本あるものの、下りに至っては7時16分発の1本のみ。始発列車が終列車と揶揄されたものだ。どうしてこのような偏った列車ダイヤになったのか。おそらく1人か2人はいたはずの通学生の利便を考えたものだろう。朝に丸瀬布・遠軽方面への列車を停車させ、午後は選択できるように3本設定している。この需要以外にこの駅での乗降客は考えられず、それ以外の普通列車はすべて通過扱いだ。 

待合室をのぞいて見ると、他の駅にも見られる備え付けのノートが一冊置かれていた。それを見ると”秘境駅”にも認定されたこの駅には、毎日のように訪問者がいるようだ。「いこいの森」で撮影の後、16時53分発の上り旭川行きを迎えた。ホームには旅行者が一名待っていた。彼は約3時間前の上り列車で来たのだろうか。キハ40の2両編成が、35度を超す暑い空に、紫煙を上げて、まっすぐな線路に消えて行った。

 

餘部橋梁 塗装塗替の頃

去る、平成17年8月30日餘部駅を訪れた処、運良く(?)塗り替え工事中でした。それまでは列車撮影ばかりに気になっておりましたが、塗装作業を目の当たりにしますと橋梁の構造に大いに興味が引かれ、その鉄組等備に見るに付け先人の知恵と苦労に敬意を払わざるを得ません。

架橋工事から既に100年の月日が経って、足下に及ぶ風雪によく耐えたものと感傷に浸っておりました。ご覧のように腐食が甚だしい部分も散見せられます。

完成イメージ図も発表せられておりますが、私のような世代にとって鉄橋の記憶が強すぎて馴染むのは何時のことになりますやら。

帰りは「快速 あまるべロマン号」普通のキハ47 2+キハ47 15 編成でした。残念。
草生した餘部駅は、混凝土に覆われた駅になるのでしょうか。

ライブカメラ
http://www.town.mikata-kami.lg.jp/www/contents/1270077904503/

北の大地へ2010年初夏編 Part1 行きがけの駄賃

第1・2日目 2010年6月24・25日
①舞鶴港0:30(新日本海フェリー)→20:45小樽港

2009年10月の紅葉前線を追いかけての北の大地は、道南以外は既に紅葉は終わった後で、初冬を迎えていました。道内各地の鉄道資料館等は殆どが冬季閉鎖で見る事ができず、初雪に追われるように引き上げざるをえなかった悔しい思いをしました。
次回にリベンジを誓ったので、今年は本土が梅雨に入る頃に梅雨のない北の大地へ訪問するのが一番と思いました。今回もぶんしゅう7号を相棒に一人旅予定でしたが、最近一人旅ゆえの撮影列車時刻の見過ごし等のミスが発生してきて、確認のためにも相棒が欲しくなっていました。

近くにDRFC-OBの総本家 青信号特派員さんがおられます。ただ、鉄道写真は鉄道で移動しながら撮る事を信条とされておられますので、お誘いするのは難しいかなと思っていましたが、昨今のローカル線は勿論幹線でも列車本数が激減して、撮りたい列車が移動に乗車するため撮れないとの現実に直面しておられました。同行の打診をいたしましたところ、車で宿泊移動する長旅は未経験だが、約40年ぶりとなる北の大地を見るのは良いなあとなりました。 続きを読む

1955/57年北九州/福岡

高校を卒業し浪人になった1955年と、何とかドーヤン生になれる権利を確保した57年とも、3月に九州に行っている。1955年18~21日まで、1957年は19~24日までで、特に吉塚~福岡市内は撮影対象も重複するので、2年の差異はあるがまとめて記すため、話が少しややこしいかもしれない。

1957年は西鉄北九州軌道線砂津車庫から到津遊園地へ。ここに旧大川線の2号コッペル機が保存してあるからで、入口ゲートから見える。もぎりの親父に、あの機関車の写真を撮るだけだから、切符なしで入れてくれ、ものの2分もかからないし、質草にこのバッグを預けるから、と掛け合ったが、貧しい浪人(まだ大学生の身分は取得していない。学割証だけはうんとこさ持っていたが)生は友好的な返答を得られなかった。致し方なく身を切る思いで何十円かで入園券を買わされたのは、後年犬山遊園で蒸気動車を撮った時と同じ。これだけありゃ、腹いっぱい食えるのに。


到津遊園地の大川線4号機 コッペル1911年製 

これは大川鉄道1→西鉄大川線(大善寺-大川、1951年9月25日休止、1966年5月6日廃止)4で、軌間こそ1067mmでも、軽便同様の8トン機で、国鉄との貨車乗り入れもなく、連結器も最後まで螺旋連環式。この旧大川線4号は、撮影時点かなり荒れており、前部バッファーは左側ががっくり首を垂れ、後部は失われていた。キャブ内も当然荒れっぱなし。今ではどうなっているんだろうか。

ところで話は2年前に戻る。その年(1955年)に卒業したS先輩と一緒に、長門鉄道を一覗き後九州入りして鹿児島本線を西南へ。香椎から箱崎、吉塚のあたり、国鉄と西鉄が並行する区間があるが、まず気づいたのが松林の中にズラリ並んだ路面用木製2軸単車の一群で、直ちに衆議一決、次なる駅で下車。


松林の中の単車5両

窓こそ下段上昇に改造され、折り戸も付されているが、ポールは1本。福岡市内線の廃車であろう。そして貝塚に近い宮地岳線(→貝塚線)車庫には、我々好みの車両―元車両を含め―がどっさりいた。旧博多湾鉄道汽船は吉塚以東が戦時中買収で勝田線になったが、電化残存部分が現在の宮地岳線で、車庫最寄駅は確か競輪場前といわなかったか。撮影は1955、57両年のものが混じっている。


これは2年前松林に並んでいたうちの1両だろう さざえ食堂と落書きしてある

上下とも旧大川線ガソリンカーの成れの果て フォードV8装着のキハ6、7だった


これらの旧2軸客車は博多湾鉄道汽船や大川線等の残党であろう



これは旧中国鉄道キハニ161→省キハニ161→西鉄ク58 台車はTR11に振り替えられている 同僚だった旧キハニ160はク57に 共に加藤車輛製作所1934年製

木製国電末期の姿だが手入れは良い クハ17072→西鉄ク63
モ8 電化で新製された半鋼製電車 小田急モハ1→デハ1101型と貫通扉以外同型の由

モ12 これは汽車1936年製デハ10→ クロスシート車だった由

江若鉄道 三井寺下駅・本社

西村様
江若鉄道の復元工事が着々と進んでいること、同慶の至りです。つぎの目標は、三井寺下駅周辺のこと、ここには、江若鉄道の本社・車庫の所在駅であり、いつ行っても個性揃いの車両がびっしり詰まっていたことを思い出します。
今回の探求は、駅舎・本社ということで、探してみました。なんとか2点は撮っていました。復元工事のお役に立てば幸いです。
三井寺下の駅舎は、大通りから一歩下がったところにありました。本社・車庫の所在駅だけに、他駅に比してかなりの大きさでしたが、乗降客はわずかなものでした。廃止直前の姿で、正面には廃止の挨拶看板が立てかけられています。
一方の本社は、駅舎の左手にあり、駅用地とは塀で仕切られ、「江若鉄道株式会社」の門標もありました。ご覧のように木造下見板張りの2階建てで、この建屋は、鉄道廃止後も、江若交通の本社として長く在りました。撮影時は、駅・車庫用地すでに撤去後で、手前には新設の道路が見えます。この本社も昭和60年前後に付近の再開発に伴い、取り壊されたと記憶しています。

▲三井寺下駅駅舎、右手にホームがあり、車庫に留置された車輌も見える

▲右手が江若鉄道本社、左は組合の建物か。鉄道廃止後15年後の姿