【 シェイと桜 】
阿里山に桜が咲いて、シェイ31号機が走行する、一度は見たい撮りたいと思っていたシーンが今年も3月11日と18日に実現するとのニュースが入りました。これは逃してはならないと行くことを決めましたが、問題は桜が満開になるのはこの両日のどちらなのかです。毎年春には桜前線を追いかけていますが天候と桜満開時期の把握には苦労しています。
昨年12月4日の阿里山に行く前日、阿里山鉄道に勤務する友人達と夕食を共にした時に聞いてみましたら3月初旬から末まで咲いているとのアバウトな返答しか聞けませんでした。そんなに長い期間に咲いているとは日本ではありえません。ネット情報も探しましたら3月30日に満開の桜とシェイの写真もあり、何が本当なのか混乱するばかりです。
また今回の旅にはいつか行きたいと思っていたもう一つの森林鉄道、大平山ポンポントロッコの乗車と撮影も加えました。
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「紀行文」カテゴリーアーカイブ
あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~40~
あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~39~
西のC59・C62全記録 (11)
昭和44(1969)年3月29~31日 DRFCメンバーとともに撮影
広島のユースで一泊した翌日3月29日は、DRFC春の狂化合宿が、呉市の国民宿舎「音戸ロッジ」で華々しく行われる日、九州で泥池にはまって風邪気味で体調は万全でないものの、メンバーとの再会を楽しみにして、ユース前からバスに乗り込み、広島駅へと向かいました。
▲合宿の最終日の「安芸」狙いは、煙が期待できる安登~安浦の勾配区間へメンバーとともに向かった。と言うものの今まで、この区間で煙に恵まれたことは無かったが、今度は違った。北海道ヤマ線のC62重連も顔負けの凄い爆煙だ。見始めは違和感を覚えた「あき」のヘッドマークも、見慣れて来ると必須のアイテムとなった。体調は最悪だったが、それを吹き飛ばすシーンとなった。
癒しの島 台湾鉄道2024年厳冬の旅 Part 8 帰国
第8日目 1月30日
① 新竹 8:15( 普悠瑪 278次) ⇒ 9:16 台北
② 台北 9:30(空港MRT) ⇒ 10:09 桃園空港T2
【 普悠瑪号のきっぷがない 】
8日間の厳冬の冬の台湾旅も今日は帰るのみです。桃園空港のJALカウンターでのチェックインは10:55からで余裕はあります。前回12/7は桃園MRTの台北側とは逆の老街渓を見てみたいと臺鐵中壢から老街渓までの未開通区間を歩きましたが今日は疲れてもいるとの実感がありましたので台北へ出て空港MRTに乗車する行程を選びました。
8:10 新竹駅の自動きっぷ販売機で発券手続きをしますが普悠瑪号は満席です。8:36 次発の自強号も同様です。
今回の旅では満席は経験していなかったので取れるものだと油断していました。朝の混み合うラッシュ時の列車です。前夜は駅構内にいましたので確認して確保しておくべきでしたね。またPPの自強号なら先頭の12号車には桟敷席がありました。これに挑戦してみる方法もありましたね。
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西のC59・C62全記録 (10)
昭和44(1969)年3月28日 DRFC合宿を前に一人で足慣らし
前記のように、ポールが建ち始めた呉線で丸一日撮った後は、九州各地へ転戦しました。DRFCメンバーとも要所で顔合わせしながら、17日間に渡って各地で蒸機を撮影。最終日は筑豊でたっぷり写したあと、夜行で広島へ向かいました。DRFCの春の合宿が開かれる前日であり、まずは一人で呉線撮影となりました。
▲折尾から夜行の座席急行「桜島」に乗って、広島に4時30分に到着、呉線の一番列車622レが発車する7番ホームへ行く。外はまだ暗いが、ホームは明るく照らし出され、C62が堂々と待機していた。ほんの数年前、まだ山陽本線の蒸機が華やかな時代、次つぎに夜行列車が発着していた広島駅の昔日を思い起こさせるような雰囲気だった。C62 41[糸]
癒しの島 台湾鉄道2024年厳冬の旅 Part 7 台中港線
第7日目 1月29日
① 台中 8:46(区間車 2604次)⇒9:33 台中港
▲ 8:04 今日は前回12/2にも訪問しました台中港線へと参ります。その前にまだ保存改装が終わった台中站をまだ見ておられない方々とご一緒しましたがまだ開店前で外から見るにとどまりました。
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癒しの島 台湾鉄道2024年厳冬の旅 Part6 虎尾糖業鉄道
第6日目 1月28日
① 高雄 6:10(MTR)⇒6:22 左営
② 左営 7:25(高鐵 806次)⇒8:11 雲林
今日は台湾で唯一現役で残るシュガートレインを撮るため虎尾へと向かいます。いつもは斗南站から路線バスで向かうのですが極力早く着きたいと今回は新幹線で雲林まで行きTaxiをチャーターする行程です。
▲ 8:11 高鐵雲林に降り立ちましたが裏站Taxi乗り場には何も停まってはいません。しばらく待ちましたが来る様子はありません。どうする事も出来ませんでしたがTaxi乗り場とは違って送迎車が停まる表站一角に黄色のTaxiが入る姿が見えましたのでダッシュして捕まえました。どうやら裏站のTaxi乗り場の方は近距離利用者が多くTaxi運転手からは不評だったようです。
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西のC59・C62全記録 (9)
昭和44(1969)年3月 1年ぶりの呉線へ
ふたたび呉線に移ります。前回は昭和43年3月の呉線行きでしたが、この年の10月にはヨンサントオ改正がありました。呉線には大きな変更はなく、列車番号の変更や、一部ダイヤの手直しで交換駅の変更が行われた程度でした。いっぽうで、昭和45年10月を目指して行われている電化工事は着実に進み、全区間でポールの建植が進んで来ました。DRFCでは、ちょうど昭和44年春の“狂化合宿”が呉の音戸ロッジで行われることになり、絶好の機会と、例によって九州方面との撮影と兼ねて、1年ぶりの呉線入りとなりました。
▲「安芸」にヘッドマークが付いた! 何の予告もなく、雑誌に掲載されて驚いたことを覚えている。蒸機牽引の優等列車は、特急にはヘッドマークが付き、急行には無いのが、われわれ世代の常識で、“ヤラセ”っぽくて違和感を感じたものだった。「あき」とかな書きしたのも気になる。改めて写真を見ると、ヘッドマークより、続く客車に眼が奪われた。ヨンサントオでカニ38などの荷物車の連結はなくなり、機関車+ハネフ+ロネ2両+ハネ‥が通常編成だが、なんとオロネ10が3両、間に挟まっているのは、10系ではなく、青色に塗られたスハネ30のようだ。安芸幸崎~忠海
あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~38~
あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~37~
東京でも撮ってまっせ ④ 東急渋谷駅を記録する 2008年2月22日
東急東横線の渋谷駅が、東京メトロ副都心線との直通運転に伴い、地下化され、駅も地下に潜ったのが2013年3月のことで、もう10年以上経つことになります。撮影の合い間に、それまでの高架駅も記録したことがありました。いま駅の跡地周辺では、高層ビルが建ち再開発ラッシュが続いています。最近、会合で、年に1、2回、渋谷に行くことがあり、渋谷で都電を写していた世代にとっては、異次元の世界に戸惑うことばかりでした。
▲9000系急行が終点の渋谷に到着、両側の扉が開いて降車客が吐き出される。2004年には、みなとみらい線との相互直通が始まっていて、9000系にとってはいちばん華やかな時代だった。
癒しの島 台湾鉄道2024年厳冬の旅 Part5 南廻線を撮る
第5日目 1月27日
台湾ではもうじき小正月(2/5)を迎えます。各地でお祭りが開催され、ここ台東も
お祭りの一つとして幻想的な光の祭典「台東光祭(台東ライトフェスティバル)」が予定されているそうです。
7:30 台北発23:58、台東着5:48の台鉄に残る週末だけ運行される夜行列車莒光666次で来られた893-2さんは暖房がなく寒くて寝られなかったと言われながらも無事に合流されました。宿泊しました台東の娜路彎花園酒店(フォルモサ ナルワン ガーデン ホテル)の1階ロビーに全員が集合したロビーの天井には従業員の手作りと思われるランタンが吊るされていました。
癒しの島 台湾鉄道2024年厳冬の旅 Part3 もう一度高雄トラム全線開通区間を撮る
癒しの島 台湾鉄道2024年厳冬の旅 Part2 高雄トラム全線開通区間に乗る・撮る
癒しの島 台湾鉄道2024年厳冬の旅 Part1 旅立ち 嘉義へ
台湾に行く時にいつもご一緒させていただいておりますDRFC-OB会の台湾大好きメンバーから1月末にツアーを予定しているが参加されますかとのお誘いが来ました。
11月末に行ったばかりですが、まだまだ撮り足りません。二つ返事で参加を伝えました。参加者は一日Taxiをチャーターして撮影場所を回りますので1台当たり4人が限界と言う事で東京方面から参加のクモハ73106さん、千住のヤスベイさん、不銹鋼號さん、デカンショまつり号さん、関西からは大津の86さん、893-2さん、ブギウキさん、そして私を含めた8人となりました。
全員が一緒に行動しますのは1月27日だけで前後はそれぞれの希望と都合を考慮してバラバラで、いつものように現地集合現地解散です。
第1日目 1月23日
① 長岡京 6:15(快速)⇒6:23 高槻 6:34(はるか3号)⇒7:41 関空
② 関西空港 10:00(JL8667)⇒12:15 桃園空港 ( 搭乗;3時間15分 )
7:41 前回11/28に参りました時は 8:19 到着でしたがセキュリティチェックが行われる出発口にたどり着くまで長蛇の列が出来ていて約1時間を要しました。これに懲りて今回は1本早いはるかに乗車しての到着でしたが今日はガラガラです。待ち時間は、なしでした。
あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~36~
東京でも撮ってまっせ ③ 中央線複々線区間で撮る 2007(平成19)年1月8日
首都圏の多くの通勤路線のなかで、都心部と多摩地域を結ぶ中央線の近郊区間、なかでも御茶ノ水~三鷹は緩行線・急行線の複々線区間で、ラッシュ時の通勤電車は、緩行・快速あわせて一時間に40本程度が走り、圧倒的な輸送量を誇っています。急行線を走る快速・特急は、その後、車両も世代交代していますが、訪れた十数年前は、快速は201系、一部でE233系が運転を開始した頃です。また特急列車も、ひと世代、ふた世代の前の車両が走っていました。
▲中央線複々線区間の駅撮りとして有名なのは、高円寺か阿佐ヶ谷だろう。今回は阿佐ヶ谷の下り方ホーム端から順光下の列車を狙った。平日の午前8時、「中央特快」が次つぎ通過して行く。これは、クハ201-1先頭のH1編成、量産化の第一編成であり、総数1000両余りの201系のトップナンバー車。この車両、201系が無くなってからも保管され、ネットで見ると、いま改修中の青梅鉄道公園に展示されるようだ。
あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~35~
東京でも撮ってまっせ ② 朝も夜も583系 平成20(2008)年2月22日
583系はこの時代、定期運用から離脱し、波動輸送、団体輸送に使われていました。JR西日本の京都車は、JR西日本の独自色に変更されたのに対して、JR東日本の仙台車(当時)は国鉄色を堅持していて、先の485系とともに、東は国鉄スタイル・カラーを纏っていることが魅力的でした。冬のこの時期、583系季節運転としては、まだ盛んだったスキー臨や、さらにディズニーランドへ向けて団体臨も多く運転されていました。

▲583系の「ゲレンデ蔵王」、クハネ583-8ほかの583系6連、大船が始発で、埼京、東北、仙山線経由、山形行きの快速列車、JR東の「びゅう」の旅行商品としてのツアー専用列車だった。寝台も設営がなく、全車“ゴロンとシート”での運転。 続きを読む
あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~34~
東京でも撮ってまっせ ① 「能登」を撮る 平成19(2007)年1月
デジ青誌上であまり紹介のできなかった首都圏の撮影、今回、集中的に10~20年前のデジカメ撮影分を紹介します。元日に石川県能登地方を襲った能登半島地震の発生から、ちょうど1ヵ月が経ちました。改めてお見舞いを申し上げますが、「能登」を冠する列車が、かつて走っていたことを思い出しました。
▲早朝の上野駅16番ホーム、6時05分、憧れの489系ボンネットの急行「能登」が姿を見せた。485系のボンネットは関西でも「雷鳥」で馴染みはあったが、先頭が原型の正調ボンネットは、定期列車では上野発着の「能登」「白山」でしか見られず、しかも夜間で撮影が限られていて、関西からも憧れがあった。この日は、最後の鹿島鉄道を撮るため、「ムーンライトながら」で東上し、乗り換えの間に上野駅で姿をとらえることができた。
あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~33~
2008年1月19日 紀州鉄道へ
取材の依頼で、紀州鉄道へ行ったことがありました。いまも発行されている「50代からの旅と暮らし発見マガジン」がキャッチの月刊誌で、創刊まもない頃、まだ編集体制が手探りの時期で、私のような人間にも声が掛かりました。「春を探して、身近なローカル線散歩」が与えられたテーマ、関西圏からの日帰り先として、選んだのが紀州鉄道と御坊市内の街散歩でした。
▲雑誌のテーマどおり、春を思わせる日差しに誘われるように、カーブの向こうから列車が現れた。この時の車両はキハ603、大分交通から移って来た同番号車で、耶馬渓線で使われていたが、同線の廃止で紀州鉄道に来た。この時は、金土日は収容力の大きいキハ603、そのほかの平日は、北条鉄道から来たレールバスのキテツ1が使われていた。
西のC59・C62全記録 (8)
昭和43年3月 再び安登へ
広島機関区でC59・C62の形式写真を撮影して、広島10:36発の糸崎行きに乗車、呉線の撮影に向かいました。この頃になると、鉄道雑誌の撮影地ガイドにもたびたび呉線が登場するようになります。新規の撮影地へも行きたいところですが、往きに寄った安登付近に再び行くことにして、その際に撮れなかったリベンジ撮影としました。往きに紹介したカットと、ほぼ同じようなシーンばかり続きますが、“全記録”として、ご了承ください。
▲広島から、呉線に乗って安登へ向かった。乗車列車が呉に到着すると、17分の停車アナウンスがあり、ホームの先頭に行ってみる。3番ホームには上り、貨物も待機するなか、下り「安芸」の到着だ。やって来たのは、常磐線から転属したばかりのC6246で、さっそく急行を牽いての登板だった。C62以上に興味深いのは、次位に側面総シャッターの荷物車、三軸ボギーのカニ38が連結されていること。昭和34年に、マロネフ37を種車として、手小荷物をパレットごと搭載できる試作車として誕生した
一形式一両、翌年の昭和44年には救援車スエ38に改造されるが、この時期は「安芸」専用のように連結されていた。そして、続く編成にはオロネ10が2両も連結されている。まだ等級制の時代だから、“一等寝台”となる。黒いC62+茶色の3軸荷物車+黄緑帯を巻いた青色の一等寝台2両‥の編成は、当時、数多く走っていた急行列車のなかでも、「安芸」だけに見られた異色の豪華編成だった。▲▲現在の呉駅同一地点、周囲は大きな建物に囲まれてしまった。 続きを読む






