学生時代最後の旅行

先に投稿した山形交通に続き1974年12月、翌年3月の卒業を目の前にした学生時代最後の北海道旅行の写真が出てきました。当時旅行の記録をつけていなかったので、購入した北海道周遊券を見ると網走と小樽の途中下車印が押してあります。改札で下車印を押さない駅も多く、記憶ではこのほか根室まで足を延ばしていました。目的は最後の蒸機の撮影で、このころ既に本州からは蒸機がなくなり、北海道でも室蘭本線の石炭列車の他は入替作業が中心で、旅客列車の定期運用は室蘭本線しかなかったのではと思います。 続きを読む

まだまだ続くよ、台湾鉄路への遠征その1

虎尾のサトウキビ列車

今年の1月前半の台湾鉄路撮影記をレポートします。新型コロナウィルス禍が世界中に拡がる前の記録です。台湾については、諸先輩方が詳細なレポートをこのデジタル青信号で何度も発表されており、とてもその域に達するものではありませんが、内容は、振り返りも込めて、また、この状況を乗り越えた先に再び訪台出来ればとの願いも込めて発表するものです。 続きを読む

廃止直前の山形交通

世間ではコロナ禍で不要不急の外出を避けるようにとのことで、私もコロナに感染してはいけない事情がある為、家でおとなしく過ごしています。主に学生時代に撮ったモノクロネガフィルムはデジタル化が終わっていたものの、ポジフィルムが200枚ほど手つかずで残っており、こちらのデジタル化を進めることにしました。駅撮りに近いものが多く、色も劣化していますが、50年近く前のカラー写真ということに免じて紹介させていただくことにしました。↑ 三山線羽前高松駅 続きを読む

 こんな時こそ 元気に活動したい ‥‥‥‥ ⑨

満開の桜を求めて、数日遅れの活動報告です。なかなか、開花と好天が一致しませんが、一瞬の晴れ間を求めて近場を訪れています。まず嵐山で開花を確認したあと、嵐電北野線へと向かいました。訪問した3月24日はまだ全体に三分咲き、おなじみ鳴滝~宇多野の桜のトンネルは、最適の撮影地が封鎖されたうえ、昨年までのアジア系撮影隊が今年は皆無のため、全く人影がありませんでした。嵐電では、この3月20日から、駅名改称、施設の新設などが行なわれましたので、桜を見ながらのウォッチングとしました。
何ヵ所かある嵐電の桜のなかで、毎年まず訪れる御室仁和寺駅の一本桜だ。

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 こんな時こそ 元気に活動したい ‥‥‥‥ ⑦

富山の南北接続へは、現地へ前乗りして、まずはお隣の万葉線へ向かいました。万葉線は、好んで庄川や内川の鉄橋へ何度も行きましたが、行った日は曇りで、鉄橋上でのシルエットやギラリも期待できません。考えたら、高岡からは、すぐ万葉線に乗って奥のほうまで行ってしまうため、途中区間の観察ができていません。それなら、と氷見線に乗って、途中の「能町」で下車し、駅周囲の廃線跡を見てから、すぐ近くの万葉線「新能町」まで歩きました。近くのスーパーのイートインコーナーで遅めの昼食として、そこから北上して行きます。周りは工場地帯で、お世辞にも優れた風景ではありませんが、自分の足で歩いて発見に努めると、隣の富山の大賑わいに比べて、静かで穏やかな自分好みの風景を見い出した気持ちでした。
模型? いやいや現物の保存電車が、途中の「新吉久」のすぐ横に置かれていた。

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 こんな時こそ 元気に活動したい ‥‥‥‥ ⑥

“コロナ”に負けない“古老”の活動報告、続けます。昨日21日(土)、富山へ行き、路面電車の南北接続の営業初日を見てきました。富山駅の北側の富山ライトレールと、南側の富山地鉄の富山軌道線を、富山駅の高架直下で接続し、一体化する市の事業です。新幹線開業後、壁のように聳えていた高架を挟んで、南と北でほんの数十メートルにまで接近していた両線ですが、在来線の高架工事も済んで、ついに結ばれた訳です。機会を見て進捗状況を確認してきた私にとっても感慨深いものがあります。ましてや富山に縁の深い、どですかでんさんや、一時は富山におられた乙訓老人さんには、その思いも深いこととでしょう。当日は、状況に鑑み、終日全線無料の太っ腹企画や集客イベントは中止されましたが、多くの市民が集まり、乗車を楽しみました。古~いネタも良いものですが、新しい鉄道ができて、みんなが笑顔になる、つくづく鉄道ってエエなぁと思った一日でした。 市内の環状線を走って富山駅へ。岩瀬浜行きは渡り線を通るので、ポイントの表示を指差確認して入線していく。

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 こんな時こそ 元気に活動したい ‥‥‥‥ ⑤

ローカルネタ、しかもバス関連で失礼します。元気な趣味活動の報告とご理解ください。全国的には14日(土)が春の改正でしたが、京都では、市バスが20日(金)から新ダイヤとなります。旺盛な観光需要などに対応した増便・延伸など、利便性の向上が中心ですが、いっぽうでは径路が重複する三つの系統が廃止されることになりました。京都市バスは、分かりやすい「多便少系統」が叫ばれる時勢に逆行するかのように、改正のたびに、どんどん系統を増やしてきましたが、久しぶりに系統が縮小されることになりました。なかでも、中心部を回る「循環1号系統」、通称“100円バス”は、土休日のみ運転のため、本日が最終日となりました。自分なりに京都の交通の変化は記録しておきたく、京都の街に繰り出しました。
京都の“100円バス”は、2000年4月から四条→河原町→御池→烏丸のルートで運転を開始し、土日のみ42回/日運転されていた。乗客数は一日780人程度だったが、他系統でも代替できるところから廃止されることになった。バス代の高い京都では、100円はデビュー当時は衝撃的だったが、慣れてしまうと価値を感じなくなったし、それに一周しても4キロ足らずでは、歩いた方がずっと早く、利用価値は低かった。

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 こんな時こそ 元気に活動したい ‥‥‥‥ ④

明後日あたりに寒波が到来と報じていますが、ことしは記録的な暖冬で終わりそうです。でも富士山に関しては、例年どおりの冠雪があったようです。いつの時代も富士山は憧れです。とくに、日常的に見ることができる首都圏の在住者より、めったに見られない関西人のほうが、潜在的な憧れを抱いているような気もします。ことし1月、東のほうで用事を済ませて、翌朝、のんびり帰ろうかと思って普通列車に乗り込むと、窓に飛び込んできたのが、雪を抱いた富士山でした。急遽、予定変更、結局は陽が暮れるまで、定番撮影地3ヵ所を歩き回り、その姿を拝んだ一日となりました。
最初に行ったのは、伊豆箱根鉄道駿豆線の三島二日町から南へ歩いた地点、ここは以前来たものの、全く富士山が見えず、悔しさのあまり何も撮らずに戻って来たところだ。それだけに冠雪した富士山を見て感激、しかも、最初に通過したのが、今回の改正でも生き延びることになった185系「踊り子109号」。

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 こんな時こそ 元気に活動したい ‥‥‥ ③

“阪堺線”と言えば、初詣で活躍する旧型車は有名ですが、そのほかの時期にも通うことが多くなりました。以前は恵美須町から出ている阪堺線の寂れた雰囲気が好きで、北天下茶屋などへよく行ったものですが、いかんせん乗客減で本数も減ってきて、日中は24分ヘッド、もはや路面電車とは言えない間隔になりました。いっぽう、天王寺駅前から出る上町線は、阿倍野・天王寺の再開発事業も終わって商業施設への乗客も増えて、改正のたびに増発されて、日中は6分ヘッドの運転となりました。自分好みの撮影地も多いのですが、なかでもハマっているのが、あべのハルカスとのコラボです。本欄でもWAKUHIROさんらが発表された写真が刺激になったのがきっかけです。東京に勝てるものが何もない大阪ですが、今のところ高さ日本一を誇っているのが、あべのハルカス、まもなく、その座も東京に奪われるようで、今のうちに日本一高いビルと現役最古の電車が走る阪堺線を、との思いで通っています。
高いだけあって、ハルカスは遠くからでも望むことができるが、できるだけ膝元で大きく取り入れたい。そこで選んだのが「松虫」、ここは、あべの筋の併用軌道から専用軌道に入るところにあり、クルマにも邪魔されることも少なく、その全容を収めることができる。午後の遅い時間帯から、夕景、夜景を楽しんだ。

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 こんな時こそ 元気に活動したい ‥‥‥‥ ②

終端の小さな駅が、日没とともに、はなやかな光彩に包まれた。

叡山電鉄の八瀬比叡山口駅で、毎年冬に行なわれている“イルミステーション”に行って来ました。開業当時の面影を残す、八瀬比叡山口の駅舎をはなやかなイルミネーションで飾るイベントで、12月から2月までの開催で、ことし5回目、冬の叡電では定番行事となりました。ただ、きらびやかな構内も、平日の夕方とあっては人影も見えず、ただ老人が一人だけ走り回って必死にカメラを向けているのでした。

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 こんな時こそ 元気に活動したい ‥‥‥‥ ①

深刻な事態が続いています。クローバー会の活動も影響を受け、私のまわりの行事・イベントも中止・延期に追い込まれています。感染が早く収束し、以前の日常に戻れるよう願うばかりです。この事態に及んでの趣味活動は、団体での行動は自粛すべきでしょうが、前向きな姿勢を失わないためにも、個人の活動は元気に取り組みたいものと思っています。
私もデジ青投稿を、老齢人生の第一の使命と考えて投稿を続けていますが、家に引き籠って文字を打ち込み、カビの生えたモノクロ写真を載せただけでは、決して元気さが伝わりません。もっと明るく、リアルで空気感の伝わる写真も載せて、多少なりとも誌面から元気さを感じてもらいたいと、最近の撮影記録を、しばらく紹介させていただきます。少し前に岡山へ行って、岡山電軌を撮ってきた。目的はこれ、東武日光軌道線から来た3000形のうち、日光線の塗色に復刻された3005号だ。岡電では予備車的な存在で、冷房も無いところから、秋冬春に月に一回だけ運転される。

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 廃駅をめぐる  【11】

臼ノ浦  (昭和46年12月廃止)

九州の炭鉱地帯と言えば筑豊や三池だけでなく、松浦半島にも小規模な産炭地がありました。その運炭を目的として、現・松浦鉄道の前身、松浦線から3つの支線が伸びていました。臼ノ浦線(佐々~臼ノ浦3.8km)、世知原線(肥前吉井~世知原6.7km)、柚木線(左石~柚木3.9km)で、行き止まりの短い盲腸線は、採掘された石炭の輸送、または積出港への輸送を目的に敷設されたものです。そのうち、私は臼ノ浦線だけ乗ることができました。同線は、佐世保北部の炭鉱から運炭輸送を目的に佐世保軽便鉄道によって昭和6年に建設された762mmの鉄道がルーツで、国有化、改軌ののち、戦後に臼ノ浦線となったものです。機関区のあった佐々から分岐して、臼ノ浦までの3.8kmで、中間に駅はありません(以下、昭和44年3月)。訪れた昭和44年、臼ノ浦線には、まだC11の牽く石炭列車が走っていた。セム、セキの混合、トラ、ワフも混じる興味深い編成だった。

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 廃駅をめぐる  【10】

香月  (昭和60年3月 廃止)

つぎは九州、筑豊などの炭鉱地帯には、かつて無数の支線が伸びていました。今ではすべて廃止されて、あれほど複雑だった時刻表の地図もすっきりしました。筑豊本線の中間から分岐していた香月線のそのひとつでした。沿線では、石炭の採掘が古来から行なわれていて、九州鉄道によって敷設免許を得て、工事が着工されます。九州鉄道は明治40年に国有化され、その後も工事が進められ、明治41年7月に、中間~香月の3.5キロの路線が開通し、途中には、新手、岩崎の駅が設けられました。水運に頼っていた石炭の輸送は、香月線の開通で飛躍的に増加、最盛期には、中間~新手は、九州初の3線区間(貨物用複線+旅客用単線)となり、わずか3.5キロの区間に、3列車以上の貨客列車が走っていたと言います。しかし、エネルギー革命によって昭和30年代後半から探鉱が次つぎ閉山し、訪問時には気動車のみの旅客列車で、貨物列車はもう見られませんでした。第一次特定地方交通線として、昭和60年3月限りで廃止されました。ちょうど、扇町から輸入炭を秩父鉄道三ヶ尻まで運んでいた、日本最後の石炭列車が無くなったニュースが入ったばかりでした。(以下、昭和46年12月)

香月駅で発車を待つ130D、キハ4520+キハ1010という当時の新鋭気動車と10系気動車の始祖が仲良く繋がっていた(以下、昭和46年12月)。

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 廃駅をめぐる  【9】

郷津  (昭和44年9月30日廃止)

今回の郷津は、以前の記事でも触れていて既出ですが、改めて“廃駅”として紹介します。郷津は、北陸本線の最東端に当たる駅で、地滑りが多く発生する災害多発地帯でもありました。昭和40年代に進められていた北陸本線の複線電化の改良工事に際しては、西隣にある谷浜と、東隣にある直江津を長大トンネルで直結することになり、その中間に当たる郷津には、代わりとなる駅も新設されず、昭和44年9月限りで廃止されることになりました。郷津は、明治44年に国鉄信越線の駅として開業し、のちに路線名が変わって北陸本線の駅となりました。昭和39年には、集中豪雨で地滑りが発生し、土砂で駅が埋まったこともあります。駅舎は山側の国道8号沿いにありましたが、周囲に人家はほとんどなく、訪れた時は、北陸本線の糸魚川~直江津の最後の非電化シーンを収めるため、能生、谷浜といくつかの駅に降り立ち、夕方になって、郷津に降り立ちました。郷津を通過する大阪発青森行き特急「白鳥」、堂々14両編成の82系特急が日本海沿いを行く姿は、“クイーン”の称号にふさわしいシーンだった(以下、昭和44年8月)

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 廃駅をめぐる  【8】

岩代川俣  (昭和47年5月14日廃止)

“岩代川俣”と言っても、私にとっても記憶が繋がらない駅でした。線名である川俣線も、今となっては正確な場所を言い当てることはできないと思います。廃止されたのが昭和47年で、地方交通線の大規模な廃止よりもっと先に、ひっそりと消えています。開業は大正15年で、松川~岩代川俣の12.2kmが開通しています。本来は、常磐線の浪江までの敷設を目的としていましたが、建設は途中でストップ、盲腸線のまま終わりました。途中に岩代飯野、岩代大久保(戦前に廃止)を設置していました。川俣、浪江、と来て思い出すのは、福島第一原発事故による放射線量の高い帰還困難区域などの居住制限に指定されたことです。昭和43年に、国鉄がまとめた、鉄道より自動車が相応しい赤字83線区のひとつに挙げられて、昭和47年5月14日に廃止となりました。川俣線の始発は、東北本線の松川、われわれ世代にとっては、松川事件のあったところとして認知されている駅。

川俣線の終点の岩代川俣、到着した727Dは、キハ52141+キハ22328の2連、いずれも郡山区の所属で、キハ22328は、郡山に1両だけ配置されていたキハ22。寒冷地用のキハ22の本州での配置は、青森、八戸、山形などは知られているが、これはキハ22南限の1両に当たるだろう(昭和46年9月)。

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 廃駅をめぐる  【7】

神居古潭  (昭和44年9月30日廃止)

“廃駅”、関西を離れて、全国の廃止された駅をランダムに巡ります。北海道は旭川の近く、深川を出た列車は、やがて石狩川の渓谷沿いを走ります。そのなかに、今回の駅、神居古潭がありました。昭和44年10月の函館本線滝川~旭川の複線電化によって、石狩川沿いの区間は、5つのトンネルが掘られて、ショートカットする新線に切り換わり、納内~神居古潭~春志内(信)~伊納が廃止となりました。駅がなくなる直前の北海道旅行の途中、乗車した列車は、神居古潭で10数分停車して急行列車の通過待ち、その間を利用しての駅周辺の撮影となりました。

神居古潭に降りたのは、無くなる直前、深川から乗った321レが、上り列車と交換のため10数分の停車で、翌月に無くなることも知っていたので、すぐ飛び降りて撮影した(以下、昭和44年9月)。 続きを読む

 廃駅をめぐる  【5】

片町駅

「廃駅」、兵庫から大阪へ移ります。平成9年3月のJR東西線京橋~尼崎の開業によって、片町線の片町駅が廃止されました。JR東西線の工事中、片町駅は仮駅舎となっていましたが、以下の写真は、仮駅舎になる前の片町駅です。

片町駅は、明治28年、浪速鉄道によって片町~四條畷9.8kmを開業したことに始まります。片町駅のあった場所は、寝屋川北岸に沿った、文字どおり片側にしか街がないような寂しいところで、なぜ浪速鉄道は大阪の始発駅としたのか、不思議な思いですが、川沿いにあったことを考えると納得がいきます。寝屋川を航行する船による物資輸送の代替、または船からの積替え輸送を担っていたのです。前掲の「廃駅」の尼崎港も同様ですが、明治期、蒸気鉄道の敷設は、旅客以上に、貨物輸送が大きな目的だったのです。

当時の片町駅の外観、昭和7年に片町線が電化され、関西に初めて国電が走った際に建てられた。真四角の何の愛想もない、無骨な造りだった(以下、昭和51年3月)。

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 廃駅をめぐる  【4】

鍛冶屋駅

鍛冶屋線は、加古川線の野村(現・西脇市)から分岐して、鍛冶屋へ向かう13.2kmの路線で、途中には、西脇、市原、羽安、曽我井、中村町の各駅がありました。その前身も、前回で紹介の三木線・高砂線と同様の播州鉄道で、西脇~鍛冶屋の全通が大正12年5月のことでした。播州鉄道は、現在の加古川線加古川~谷川のほか、北条線(現・北条鉄道)も開業しており、加古川を中心にした地域ネットワークを形成していました。その後、播州鉄道は播丹鉄道に譲渡され、さらに昭和18年に国有化されて鍛冶屋線となりました。鍛冶屋線の輸送密度は、2000人を切っていて、第三次特定地方交通線に指定されましたが、野村~西脇のラッシュ時の輸送量が多く、この区間だけでも存続を希望する意見が多かったものの、部分存続は認められず、JRに移行後の平成2年3月限りで野村~鍛冶屋13.2kmが廃止となりました。なお第三次特定地方交通線に指定されたのは、JR西日本では大社線(廃止)、宮津線(転換)、能登線(転換)がありました。JRになった平成の時代に、第三次特定地方交通線として廃止された鍛冶屋駅、一面一線の終端タイプの駅で側線が何本かあった(以下、平成2年3月17日)。

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 北のC62 全記録 〈18〉

昭和46年3月20日 一人で再び目名へ

前掲の上目名での撮影を終えて、馴染みの倶知安ユースに泊まり、翌日、今度は目名へ向かいました。ずっと同行していたT君は、どうしも室蘭本線礼文でD52を撮りたいと一時的に離れて、本日は久しぶりの一人での目名行きとなりました。前回の目名下車は、蘭越寄りに歩きましたが、今回は上目名寄りに歩きます。上目名に向かっては、連続20‰勾配が続いています。
目名から上目名寄りに1キロほど歩いたところ、撮影地として特に知られていないところで、周囲には誰もいない。右手はなだらかな斜面で、目名の集落が眼下に広がっている。いつもどおり10分前ぐらいから、例のドラフト音が風に乗って聞こえてくる。カーブの向こうから、爆煙を吐いた巨体が見えた。フィルムを巻き上げ続けて、連続シャッターを切る。“つぎが本番!”と思った瞬間‥‥。

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