元東急5000形改造の両運車5101Aと5102Aの後継として銀座線の01-136,01-636と01-135,01-635の2両編成2本が2015年3月16日と2016年3月1日に入線しています。
その2編成の内2015年入線の01-136,01-636の編成が「くまモンの電車」として2016年6月から上熊本、北熊本間で運行されています。
上熊本駅に向かう01-636です。入線後に大きなスカートが取り付けられ印象が少し変わっています。
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元東急5000形改造の両運車5101Aと5102Aの後継として銀座線の01-136,01-636と01-135,01-635の2両編成2本が2015年3月16日と2016年3月1日に入線しています。
その2編成の内2015年入線の01-136,01-636の編成が「くまモンの電車」として2016年6月から上熊本、北熊本間で運行されています。
上熊本駅に向かう01-636です。入線後に大きなスカートが取り付けられ印象が少し変わっています。
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長ったらしい表題であるが、内容は二題あって別のものである。一つは2016.9.17付けデジ青[75248]関三平先生の貴賓車「京王電軌500号」を紹介された米手作市さんにその成れの果てらしき車両があることをコメントで申しあげたところ発表するように言われ用意した次第である。もう一つは同じく関先生のシリーズで京王帝都5000系が紹介された時、地方私鉄へ譲渡された姿を16.6.26付けデジ青[73063]および16.7.15付けデジ青[73443]で紹介したが、わたらせ渓谷鐵道のトロッコ列車に使用されている車両と今年になって活動を始めた京王→伊予鉄→銚子の遍歴を持つ銚子電鉄初の京王5000系車両を紹介できなかったので追加発表を行う。
まず、NHKブラタモリの高尾山をご覧になった米手作市さんから頂いた宿題の車両であるが、京王電軌貴賓車500号は1931年(昭和6年)雨宮製作所で半鋼製14m車両として製造され御陵線で使われる予定であった。以下は鉄道ピクトリアル2003年7月臨時増刊号NO734の合葉清治さんの「京王中形車の思い出」の中にある貴賓車に関する記述で、「御陵線開通後いくらも経たないうちに省線東浅川駅ができたので、皇族方の利用は一度もないまま1938年(昭和13年)に格下げされて一般車として使用された。この車両は1形式1車両で罹災(1945年5月の空襲)したため、原形は残っていない。日本車両東京支店で復旧して番号だけは残っていた。」とある。また、保育社カラーブックス「京王帝都」の著者合葉博治さんはその中で次のように述べておられる。「(大東急から分離独立して)京王帝都となった1年後の昭和24年5月、京王線に日車東京支店から7両の更新車が搬入。被災車の台枠を流用、14m化、京王初の全室仕切り運転台。車号も原番を踏襲、元貴賓車の2500の他、2501、2502、2205、2304、2305と両運転台車2407とされた。台車、主電動機は手入れ復旧、制御器は新製ながらHL、空制は京王初の自動ブレーキAMM、警笛はAW5型タイフォンを装備。のち全車が混成スモールT車とされ、昇圧後まで活躍した。」とある。
以上であるがもう少し付け加えると1938年に一般車への格下げ時に中間にあったトイレを撤去しそこに扉を増設して3扉ロングシート化している。1944年の大東急時代には元京王電軌の車両は2000番台となったためこの車はデハ2500となった。罹災復旧後1960年3月に東横車両で電装解除して運転台撤去、2010系の付随車サハ2503となり1963年(昭和38年)8月の昇圧後も使われたが1968年(昭和43年)12月に廃車されている。
写真は廃車が迫ったころのサハ2503である。尚、右の車両は同じような経緯を経たデハ2305を付随車化したサハ2553である。
こんにちは。二回目の投稿になります。先日の投稿ではコメントをくださりありがとうございました。改めて、今後ともよろしくお願いします。
近年、インターネットでは画像投稿もTwitterで済ませることが多く、ブログも休止中のために長い文章と適切なキャプションをつける機会が減ってしまいました。一方で、この掲示板はこれまで小出しにしてきた写真たちを整理して残せるので非常に有難い場所だと感じました。デジタルカメラ世代らしく、撮り鉄歴12年目の若造にして総撮影枚数だけは5万枚ほどあるため、様々な写真を掲載していきたいと思います。
先日の初投稿日は渋谷で583系の団臨を撮影していました。583系をはじめて撮ったのが2004年9月でしたので、12年目の撮影となりました。よくぞ今まで残ってくれたものだと感心するばかりです。
583系についてはここで解説の必要がない車両だと思いますので割愛いたしますが、気が付けば残り一本となってしまいました。走行の度に沿線は大賑わいで、私も時にはその熱狂に混じったり、あるいはうんと距離を置いて変な場所から撮ったり、コマ数があることを良いことに自分なりのアプローチを試みています。
(2009年3月 東北本線 岩切駅)
撮影枚数はそれなりにあるものの、ヘッドマークが付いた写真は僅かです。「はつかり」のマークはとても似合っていますが、やはり短さについ目がいってしまいます…。
京阪2代目16号の室内写真が確かあった筈と、日々限りなく薄れゆく記憶を駆使して3コマ見つけた。上は御座所であろう。
これは侍従の控室であろう。テーブルの下に古めかしい電話機があり、この時期無線電話はあるまいから、電鉄側の添乗責任者への連絡用か。
WordPress プラグイン「WPtouch」の不具合により、昨日頃より当ホームページにアクセスできない状態が続いておりました。該当プラグイン削除によって、現在は復旧しております。ご迷惑をおかけいたしました。
カープ優勝を記念して 江波車庫の奥で眠っていた貨51号がカープレッドに塗られて 装いも新たに広島市内を走ることが広電ホームページで公表されました。9月30日(金)14:00に広島駅前で出発式が行われ、翌10月1日からは 江波→紙屋町→広島駅→西広島→横川→江波の第1便と そのあと江波→紙屋町→広島港→比治山線→広島駅→江波の第2便が走ります。詳しい通過時間は広電ホームページをご覧下さい。同ホームページのイラストをコピーさせて頂きました。
はじめまして。2012年度生の寺田と申します。今年の3月に卒業し、現在は京都を離れて東京で働いております。現役生の頃は、写真展の企画などで名前を目にした先輩方も多いかと思います。今後はクローバー会の会員として活動をしていきます。どうぞよろしくお願いします。
はじめての投稿で、何を書こうかと非常に悩みました。もう一つの活動分野である音楽を絡めて書こうか、はたまた昨年の青信号で書いた300系新幹線の記事の補足をしようか…。ネタを考えつつ掲示板を眺めていると、特派員様の清水市内線の記事が目に入りました。自分の出身である静岡の写真をこの場を借りて整理してみるのも面白いと思い、テーマが確定しました。写真をとりはじめた2004年から静岡から国鉄型が一掃された2007年頃までの写真を中心に振り返ってみます。小学生から中学生の頃の写真で、見苦しいものばかりですが、あたたかい目で見ていただけると幸いです。
(2006/3 フェルケール博物館)
静岡市清水区(旧清水市)内に保存されていた65号です。一度は所有していた博物館が解体を決定しましたが、地元有志による保存団体の尽力により解体を免れ、現在は富山県の伏木ヤードにて保管されています。
現役生達の活躍で、DRFCの歴史に残る一大イベントは成功裏に終わりましたが、その時に現役生、それも一回生のU君から参宮線事故の写真を見せてほしいと言ってきました。
聞けば古い鉄道の歴史に興味があるとのことで、井原さんに紹介されたらしい。写真はお見せするので来訪を快諾しましたが、事故の詳細はよく知らないので、デジ青に湯口先輩の投稿があったので読んでおこうと思い立ちました。
さすがに湯口先輩、ご自分の写真と共に簡単な解説があり、その中に「ピク65号を参照した」旨の注釈がありました。たしか我が家にもあったのではと探したところ、残念!66号からしかありませんでした。それ以前の59号が最初で次は66号まで飛びます。そもそも戦後生まれの私はまだピクを定期購読出来る年齢ではありませんでした(59号が昭和31年6月号)。実は高校時代に寺町の古書店に縄でくくって積まれていたピクを大人買いしたものです。だから飛んでいるのは私のせいではありません。
この機会に整理をしたのですが、なんと本がボロボロ、酸化してもろくなっていました。本の“ビネガーシンドローム”です。表紙や後表紙もとれた本を一冊ずつクリアーホルダーにはさんで並べ直しましたが、どうしても読んでしまいます。
そこでピクトリアル1956年6月号59号をご紹介しましょう。
この当時は48ページで110円です。表紙はEH1013の牽くワキの急行貨物列車。
最初のページにトピックフォトがあります。
曰く、「京阪特急用新テレビカー」1800系が四条に停車しています。「丸の内線新車400系6両増備」「国鉄初の20m2機関のキハ44700誕生」のちのキハ51です。
今月の話題
「東海道本線の電化は本年11月に米原-大阪が完成して、東京-大阪間の電気運転が開始される。北陸本線の電化方針は当初直流を計画していたが、急遽交流に変更された。」「国鉄本庁、4月より本社と改称。ゆくゆくは地方局を支社言うようになるかもしれない」
私鉄車両めぐり
京都市電:地図では千本今出川から白梅町間、河原町今出川から宝ヶ池公園間が予定線になっている。写真には200型、300型が現役で紹介されている
質問に答える
現在建設中の国鉄線
ほとんどがすでに廃止された線ですが、「津軽線:蟹田-三厩」「越美線:福井-朝日」「紀勢線:新鹿ー尾鷲」「赤穂線:日生-西大寺」などの現役線もありました。
私鉄で建設中となっている中で気になるのがありました。「紀泉鉄道:熊取-粉川」どなたかご存じありませんか?
おもしろいのを一つ
問:小海線のオハ608は夏と冬で定員が違うのにオハ607は変わらないのはなぜですか?
答:オハ608は冬期座席を外してストーブを取り付けるため定員が減る。オハ607は未改造のため変わらない。(国鉄運転局客貨車課)
読者短信
京阪ニュース
空気バネの電車が出来る。千チハのキハ48102でテストしたものに似た奴(ママ)。1816を予定する。
大阪地下鉄ニュース
値上げした分だけサービスしましょうと全車両に各6個の扇風機をつける。
こんな内容ですが、この頃でも佐竹保雄先輩は写真に記事に大活躍でした。
現物をご覧になりたい方はいつでもどうぞ!
西村さんの記事に書かれていた『豊橋鉄道には3203号を改装した「おでんしゃ」があります』の夏バージョンの「ビール電車」を紹介させて頂こうかと思います。今年2016年は6月13日から9月25日迄の運行で車両は3200形3203号です。
昼便(土日祝のみ)11:54駅前発 夜1便 18:00駅前発 夜2便 20:00駅前発
コースは駅前 → 運動公園(トイレ休憩)→ 駅前 約1時間20分とのことです
豊橋市役所近くの東海道と田原街道の交差点 西八町でいろいろな電車を写していると 赤岩口の車庫を出た回送電車が まだ日の高い17:20頃にやってきました。思ったより早かったのであわてました。元名古屋鉄道580形豊橋鉄道3200形のすれ違いです。3203号「ビール電車」と3201号です。
運行開始して間もない近鉄南大阪線、吉野線の観光特急貸切電車はたのしいものでした。このツアーを企画実行していただいたDRFC現役生の皆さんには頭が下がる思いですし、頼もしく思いました。ありがとうございました。
さて、乗車記念としておみやげに何を買ったらいいかと思っていたのですが、「青の交響曲カステラ・ラスク」がパッケージも面白そうで、値段も手ごろなので買うことにしました。おもちゃにもなりそうです。孫が2人いているので一つだと、とり合いのケンカになりそうなので2つにしました。
西村さんの記事に誘われて 広電のビール電車の紹介をさせて頂こうと思います。
「トランジュール」768号でのビール電車は平日は1便 土日は2便設定され7月1日より8月31日までの運転予定でしたが好評につき9月末まで延長されたようです
平日の時刻は広島駅発18:30→横川→19:20西広島着(20分休憩)→20:10広島駅着です。
768号が千田車庫を17:52に出て 広島駅前に向かいます。
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名古屋市電1070形は「仙台市電の注文流れ」とずっと信じていましたが車両事情が悪い名古屋市に国が振り向けたものとのこと。なるほどと改めて仙台市の名誉回復を思った次第です。名古屋在住のころ時々目にしていましたが他の形式より小型でかわいい感じの車両でした。仙台市電109号の写真をお見せ頂き これを名古屋市電の色にすると名古屋市電1070形とそっくり同じではないかと思われます。
仙台市電117号は長崎電気軌道1051号として保存車的に在籍しています。仙台時代のワンマン化改造時に後ろ扉は中央に移設され 前面3枚窓が非対称の2枚窓に改造されていますので少し印象が違いますが 仙台時代の塗色に戻されきれいな状態で ICカードリーダーも設置されいつでも走れる状態とのことですが 通常運用には使用されずイベントなどで使用されているようです。
今年2016年5月25日の写真をご覧ください (浦上車庫にて)
きれいです。台車も変わっているようです。
めったに走らないようですが 一度乗ってみたいものです。
総本家青信号特派員さんの9月9日付[75019]「18きっぷで東海道を巡る-2-」のコメント欄で西村雅幸さんより静岡鉄道清水市内線に関連して近くの国鉄清水港線が不便さもあって乗れなかったと告白されていた。西村さん、まずはカープ優勝おめでとうございます。それに比べてタイガースという球団は最低でいつぞや10数ゲーム離していた巨人に追いつかれて優勝をのがし、今シーズンも本拠地甲子園で巨人に勝ったことがないという体たらく。
本題に移るが、何度となく乗った東海道本線であるが清水で降りて路面電車を撮影したことがない。オールラウンドプレイヤーとは言え総本家さんはよく撮ったなと脱帽である。さて、清水港線は昔C50が客車を牽いていたような記憶があり、その存在は知っていたが、結局乗ったのは廃止直前の1984年3月11日でその時の数カットである。
尚、この月は同時期に廃止された新潟県の赤谷線、魚沼線の乗り鉄を行っている。
老人の年輩ともなると訪問先の鉄道で戦争中はどうでした?との質問をしたものだ。仙台も佐藤さんへの質問は先ず戦災からであった。【電線路はかなり被害があったが、車両は2両がちょっと外板を焦がしただけで、奇跡的に1両も焼けず、戦災地区の真ん中にあった変電所も防空建築で無事であった。車両は深夜になると毎晩、八幡線や北仙台線に手数を掛けて避難していたのと、車庫(北2番町)も際どいところで戦災を遁れる事が出来た。先の2両も工員輸送の深夜便で営業線にあって空襲に遭遇したのだが、大事に至らず大変幸運だった。新車の補充など思いもよらない時期に、可動状態のものは貴重品であった当時のこと、他都市からえらく羨ましがられた。】と佐藤さんは語ってくれた。以下【 】は佐藤さんの記述。
戦時中に東京市電名義車60形9両が導入されたが、中古車であるため一早くお払い箱となり、その代替ともいえる東京都電の中古車70形10両が入線したのは1948年11月であった。これより先、ボギー車80形5両が入線していた。【ボギー車については1942年に5両の新造計画があり木南車両に発注されたが、着手が遅れ中途半端の状態となっていた。それが戦後竣工し名古屋市電1070形となったことから「仙台市電の注文流れ」と言われているが、戦災都市で車両事情が悪い名古屋市に国が振り向けたもので、いくら財政状況が逼迫していたとはいえ、注文したものをキャンセルするようなことはしていない】と、きつく言われた。 続きを読む
気がつけば、デジ青投稿を離れてから数か月も経ってしまいました。季節は巡り巡って、もう9月。出版の仕事にどっぷり漬かった数か月でした。“一体どうしたのか”と激励していただいた、会内外の約2名の方にも、ご心配をお掛けしました。
この間に思ったことは多々ありましたが、残された年月が限られてきた人間にとって、自分の足跡を各種の媒体に残していくことは、重大な使命だと思い知らされました。これからは、時間を見つけては、デジ青に自分の足跡を書き連ねて行きます。