久々の投稿は、フィルムの話から

 気がつけば、デジ青投稿を離れてから数か月も経ってしまいました。季節は巡り巡って、もう9月。出版の仕事にどっぷり漬かった数か月でした。“一体どうしたのか”と激励していただいた、会内外の約2名の方にも、ご心配をお掛けしました。
この間に思ったことは多々ありましたが、残された年月が限られてきた人間にとって、自分の足跡を各種の媒体に残していくことは、重大な使命だと思い知らされました。これからは、時間を見つけては、デジ青に自分の足跡を書き連ねて行きます。

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錦織の80型

玉電の80型の話が京阪の80型の話に拡がっていますね。丁度1年前に錦織で写した写真がありましたので、大津のハチロク様をさしおいて恐縮ながら アップしてみました。

平成27年8月28日 錦織車庫の82号

平成27年8月28日 錦織車庫の82号

確か82号はすでに京阪から第三者の手に渡っているのに、しばらく置かせて欲しいということで置いてあったとどなたかに聞いたように思います。手狭な車庫故京阪も迷惑だったようです。ようやく搬出されていたのですね。この時点でも塗装が剥げて錆が浮き、せっかくの美男子が可哀想な状態でした。

ところで 81号の頭部だけが保存されていましたが、これは今もあるのでしょうか。これは何のための保存なのでしょうか。この81号はきれいな状態でしたが。

81号の頭部 

81号の頭部

こうして改めて見ると 片運に改造される前のポール時代の方が格段にかっこ良かったですね。

玉電デハ80型

その昔、ムーミン型の連接車で三軒茶屋にあった友人の下宿へ遊びに行って、洗面器を使って水炊きをしました。帰りに乗ったのがこの電車です。乗り心地などは覚えていませんが、なにかマンガのような(赤塚不二夫描くところのレレレのおじさん!)顔に見とれていました。

文中に「京阪電鉄の方から80型は保存してない」とのこととありますが、廃車になったのでしょうか?
玉電デハ80型_NEW

今夏の撮影

残暑厳しいもののススキの穂や虫の声に秋を感じる今日この頃である。この夏の撮影の一部であるが、しばし御付き合い願いたい。

最初は交流電化発祥の地作並を行く仙台行きの快速電車JR東E721系。色気のない電車であるが、梅雨の晴れ間、峠を越えて飛ばしてきた。

2016.7.1 仙山線作並-熊ヶ根 快速3838M▼s-06.07.01作並3838M快速721系仙台

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会員インタビュー記事の紹介

1900先輩より教えていただきましたが、当会会員’88年度生志水仁さんのインタビュー記事が8月28日付け「乗り物ニュース」に掲載されましたのでご紹介します。
志水さんは1992年3月商学部を卒業され、同年4月日本貨物鉄道株式会社に入社、吹田機関区助役、広島機関区長などを歴任され、現在はJR貨物鉄道ロジステック本部運輸部副部長の要職につかれています。
2012年のホームカミングデー集会には「震災輸送に携わって」という表題で講演していただき、東日本大震災被災地向けの石油輸送についての苦労話などをお聞きしました。

今回のインタビューは札幌-福岡間を走る長距離貨物列車の話で、運用を中心に興味深いお話をされています。詳しくは http://trafficnews.jp/post/56503/ をご覧ください。

面白山トンネルを潜り、仙台12時半に到着

山形での2線の車庫訪問は歓待を受け目的を全うすることが出来た。山形駅改札を18時30分ごろに出て付近を見渡すと上品なオバサンに声を掛けられた。「お宿ですか?今夜は空いております。1泊2食6百円で如何でしょうか?」。これに飛びついたのは正解で、8畳の間でゆっくりした風呂、銚子2本で50円の追加で終わった。作並機関区のことは古いデジ青で紹介したので一挙に仙台駅に飛ぶが、仙台市2008年発行の【文集「仙台市電」市民が綴る50年の軌跡】に投稿したら採用された。それを「引用箇所は【】で包む」しながら話を進めことにしよう。

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関西駆け足撮影旅行

8月10日(水)

駆け足とは車利用と早朝からの行動の結果である。8月10日は5時起きでクモハ73106東ウラさんの車に総勢5名が乗り込み新東名経由で最初の目的地JR関西線の永和~弥富間に向かった。皆さんDD51の貨物が目的で既に同業者もチラホラ見られた。私自身は架線の下を走るディーゼル機や快速「みえ」、特急「南紀」にはあまり興味がなく一応シャッターを切るのみでむしろ頻繁に来る313系電車を何とかうまくものにしたいと考えていた。

単線で角度によっては名古屋近郊の関西線らしからぬ風景が得られるこの区間。1964年3月にはC57、D50、D51を撮ったことがあるがもう少し永和よりであった。列車はクモハ313-1314先頭の317G四日市行き。▼s-16.8.10永和-弥富317Gクモハ313-1314

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もう一本あった行方不明のネガフィルム

 行方不明になっていた近鉄内部線の6コマ分1本のネガフィルムが見つかったと投稿しましたが、もう一本あったことに気が付いていませんでした。下津井電鉄の写真で6コマ分1本です。その写真はというと

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京津線80型

こと京阪電鉄京津線とあらば、この老人も黙ってはおられない。老人は1970年12月尼崎に引っ越すまで山科に住まいを致し、中学校、高校、予備校(というより映画館と木製客車のいるところ)、ドーヤンに通ったのである。しかしこの80型は卒業後の1971年8月、四ノ宮で見たのが最初。すなわちサラリーマン3か月の初年兵時代である。従って老人がこの電車に毎日のように乗ったわけではない。

関センセのたまうように、確かに京津線には「びわこ」3輌以外、パッとした車輌には乏しかった。55型の回生制動とても、こんな短線区用としても恐らくは歴史にも残るべき代物だったはずだが、お説の通り、車体はお世辞にもスマートとは申しかねた。その後の高床車とて、台車や電気部品はお古ばかりである。

で、突如1971年に、30型以来の新製車としてお目見えした80型だが、これまた確かに釣掛け車には違いないが、勾配をものともしない快速ぶりと、回生制動、裾を丸めたデザイン等々、恐らくは路面電車デザインとしても関西のみならず、日本的にも優れ、ベストテン入りは確実―かどうかはどれだけの人が知っているか、で決まるだろうが―入って然るべき車輌である。
京津81四宮1971.8.13S
京津81四宮S
京阪電鉄京津線81 四ノ宮1971年8月13日 本線並の日鋼式密着自連だが、この時点まだ20型等との連結に備え、ドロ-バーとも繋げるようになっており、まだ単行運転である 後2連貫通式に改造され、クーラーも付いた。そういえば、レトリバーなる代物も今では見ることがあるまい。
こんなに素晴らしい電車で、さして古くもないのに、どうして引き取り手がなかったのか。ひとえに回生制動に恐れをなしたとしか考えられない。

なお四宮車庫は長らく引込線が本線(東海道線)と直角だったが、この時点では並行に敷き直されている。

 

京阪電鉄京津線80型

先回の京福電鉄叡山線デオ300とともに驚いた電車がこれ。
静かさと加速減速のスムーズさは、どちらも場違いな、早く言えば“もったいない”電車でした。あまり乗る機会が無いまま廃車されましたが、ポールの時代からあったのですね。なぜ他の地方鉄道に行かなかったのか不思議に思いました。
京阪電鉄京津線80型_NEW

行方不明のネガフィルムが見つかった。そしてフィルム保管に困ったのだ・・・

 行方不明のネガフィルムが一本あって、しかし一本と言っても6コマの一本でネガフィルムです。そのフィルムには近鉄内部線の内部で撮った写真で、その中でも気にいっているものが含まれていました。探すとべた焼きをしたものがあったので、それをスキャンして修正して画像として残すことにしていました。今回、発見出来て良かったと思っています。ただし、どのようないきさつで行方不明になったかわかりません。それはそれとして、この6コマ一本以外は例の酢酸臭がして隔離しています。使用不可になるような深刻な状態ではありませんが、ひどくならないように紙製フィルムホルダーにいれて保管しています。というのは樹脂シートでつくられたフィルムホルダーで保管していた時にフィルムが液状のようなものでべったりと樹脂製ホルダーに付着していたので取りだして以前に使用していた紙製フィルムホルダーに入れ換えました。酢酸臭がしますがそれほど悪くなっていません。今回、見つかった行方不明だったフィルムは紙製ホルダーに入っていて、酢酸臭がほとんどなく正常な状態です。そのフィルムの一コマの写真はというと

MN内部線001-N

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鳥羽快速と参宮線(下)

1964年12月30日、姫路発鳥羽行快速2442レは無事12時11分鳥羽に定時到着。ここで不思議なのは、鳥羽駅構内だけでなく、三重電気鉄道志摩線の写真も一切ないことである。51年前とあって記憶が全くないのだが、すぐ鳥羽から鳥羽港の入江、鞍部状峠を越えて浜辺浦をバックに、参宮線列車を撮ったとしか考えられない。なお近畿日本鉄道が宇治山田から五十鈴川、さらに鳥羽へと延伸するのは、1969年12月15日/1970年3月1日である。
参宮線列車鳥羽1969.12.30S
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鳥羽快速と参宮線(上)

鳥羽快速440レ1956.1.9山科S
山科大築堤を行く鳥羽快速440レ 本務機C57110 後補機C51101 1956.1.9
右端の古枕木柵は、花山地区住民が京津線御陵駅への日常交通路として、築堤犬走を歩行しているのを遮るためだが、効果は全くなく、すぐ別のバイパス?が作られた。左側直線部には架線支柱が建っている。C57110はC51101共この年10月15日参宮線六軒での大事故で大破するが、C57110はその後復旧した
鳥羽快速440レ山科1956.1.9S
上の440レ後尾から。直前に投身自殺があり、左側複数の人物はその処理班。当時人身事故での列車ダイヤ乱れは極少=ほぼ即時回復した

姫路-鳥羽間の快速列車1往復は、詳しく調べていないが昭和初期に設定され、列車番号は終始440、441。戦時中は恐らく伊勢神宮参拝客輻輳のため2往復に。戦局不利になった1943年12月15日訂補ダイヤでは、京都-鳥羽2往復になり、何故か宇野-鳥羽1往復がある。1952年9月1日訂補ダイヤでは京都-山田、京都-鳥羽各1往復、1953年11月11日改正では3440、3441レとして姫路-鳥羽1往復が復活している。 続きを読む

叡山電鉄デオ300型

タイトルの、叡山電鉄デオ300型より私には「京福電鉄叡山線デオ300型」のほうがしっくりきます。と言うのは、高校時代はこれで通っていたからです。音が静かで乗り心地がよく、加速性のもいいので「もったいないなぁ」と思いつつ、この電車がくるのを楽しみに待っていました。
当時の京福には知り合いの社員さんがいて、床下機器の配置が悪く、(どちらかに:忘れました)傾いていると教えてもらったことがありましたが、本当だったのかは分かりません。

関先生にしては、ちょっと架線の交差が曖昧ですね!
京福電鉄デオ300型_NEW

温泉直行便は高速線

国鉄福島駅から飯坂温泉に直行する飯坂西線は、福島市を取り巻く農村地帯を結ぶ飯坂東線とは別の性格を有し、独立したものであった。そこで西線を独立させ高規格路線に仕立て直したのであった。長岡車庫では西線の車両とは言わず高速線の車両と言っていた。先日、瀬古龍雄氏の調査記述をピク誌477号で発見、それを参考に話を進めることにしよう。写真3枚は第2次世界大戦前後、福島に疎開された野崎さんが昭和23年頃に撮影されたもので、映りは悪いが貴重なものである。 続きを読む

ほろ苦い「或る想い出」

先に「或る列車」を投稿したが、実はこれに関し、ややほろ苦い想い出がある。50年近く前だったか―記憶は定かでないが、ある時ある人(故人だから実名を出しても差し支えないか。確か茅ヶ崎在住だったかの松本一なる御仁)から、「或る列車」に関しての図や資料類の提供を頂けないかとの要望を受けた。どんなルートで、どこで知ったのか、手書きガリ版時代の「青信号」4号(号数は青信号特派員氏が先般教えて下さった)の小生の記事を見たらしい。他人では絶対になし得ない精密な模型を作りたいとの意気込みで、それはご奇特なと全面協力した。今だから話せるが、勤務中に業務用の4×5スピグラ(当時20万円したプレスカメラで前板だけだがあおりが利く。米国グラフレックス社製でボディは木製、レンズはコダック製エクター5吋=ピントの良さは抜群)で鉄道趣味26号「或る列車」公式写真を複写。その他昭和3年版の客車形式図下巻からの形式図コピーに、小生撮影や所蔵写真など、できる限りのものを揃えて差上げた。

初対面ではあったが真面目そうな人で、腕は確か=モデルマニアというより、職人という感じだった。実は彼は自分用ではなく、某大金持ち氏のお抱え職人であり、抱え主の趣味というか、要望で次々と大サイズの精密模型を作り続けていたのであった。もうお分かりかと思うが、某大金持ちとは、これも故人の原信太郎氏(コクヨ重役)である。

芦屋六麓荘の広大な原邸内に、ちょっとした体育館?ぐらいの別棟があり、ここに彼の口癖である「博物館」が展開していた。1番軌間の線路が敷き回され、2階やらあらゆるアングルでそれを見ることが出来る。電車は架線集電で、スパーギヤ1段駆動。直流モーターだから、手で押すと、モーターが発電機になり、その発生電流で、隣の線にいる別の電車も少しだが動く(事実だった)のがご自慢であり、車輌数は数知れず。彼の好みの電車等が山ほどあり、「或る列車」もそのコレクションの一環であったとは、これも遙か後日知ることになる。模型列車走行中、原氏(常に和服で白足袋姿であった)は、一人ハモンドオルガンを弾き、ご満悦であった。

松本氏は阪国の「金魚鉢」も作りたいというので、当時小生が住んでいた伊丹の中野=尼宝線沿線に好事家が保存しているのを教えた。彼は寸法を実測しに行き、その成果も原コレクションの一員になったのであろう。こんな実情を知ったのは、恐らく20年以上後だったか。別段騙されたというわけでもなく、まあお人好しにもホイホイと全資料を、熨斗を付けて呈上させて頂いただけの話だが、やはり何か少しほろ苦い想いも正直消し難い。

こんな個人的なことを今更思い出し、わざわざ記すのは、「或る列車」に関し先日デジアオにアップしたことに重なり、偶々だが、横浜の原鉄道模型博物館での「原信太郎世界の旅展」中に、「いま話題の『或る列車』模型を見てみよう」なるコーナーがあって、展示されていると漏れ聞いたからである。原氏の模型観は独特(模型観だけではないが)で、室内等にはあまりこだわらなかったようだから、職人松本氏も小生の(50年前)資料で十分だったのであろう。ついでながら、東武鉄道がオランダはマドローダムの有名な野外ジオラマ―やはり1番軌間ぐらいの模型鉄道が走りまくっている―の日本版コピーの如き庭園鉄道を展開しているが、その車輌全部が松本一製だそうな。彼は確かOJ軌間だったかで、津軽鉄道DC201のキットも発売したことがあったはず。

 

ブリル3軸台車

日本のボギー客車は当初台車共の輸入で、すぐ車体の国産化がなされたが、中には台枠だけの輸入もある。概ね1906年の私鉄国有化直前時点では、ボギー客車といえども台車とも国産化が通常だった。例外は九州鉄道が1907年7月1日の国有化前に発注した、連結器と車体幅以外100%米国スタイルの豪華5輌編成で、米国ブリル社からの輸入であった。到着したときは国有化後で、そのまま鉄道院の記号番号が付された。
「或る列車」鉄道趣味28号より
「或る列車」鉄道趣味28号から バッファーが独特な形状である 続きを読む