山形での2線の車庫訪問は歓待を受け目的を全うすることが出来た。山形駅改札を18時30分ごろに出て付近を見渡すと上品なオバサンに声を掛けられた。「お宿ですか?今夜は空いております。1泊2食6百円で如何でしょうか?」。これに飛びついたのは正解で、8畳の間でゆっくりした風呂、銚子2本で50円の追加で終わった。作並機関区のことは古いデジ青で紹介したので一挙に仙台駅に飛ぶが、仙台市2008年発行の【文集「仙台市電」市民が綴る50年の軌跡】に投稿したら採用された。それを「引用箇所は【】で包む」しながら話を進めことにしよう。
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関西駆け足撮影旅行
8月10日(水)
駆け足とは車利用と早朝からの行動の結果である。8月10日は5時起きでクモハ73106東ウラさんの車に総勢5名が乗り込み新東名経由で最初の目的地JR関西線の永和~弥富間に向かった。皆さんDD51の貨物が目的で既に同業者もチラホラ見られた。私自身は架線の下を走るディーゼル機や快速「みえ」、特急「南紀」にはあまり興味がなく一応シャッターを切るのみでむしろ頻繁に来る313系電車を何とかうまくものにしたいと考えていた。
単線で角度によっては名古屋近郊の関西線らしからぬ風景が得られるこの区間。1964年3月にはC57、D50、D51を撮ったことがあるがもう少し永和よりであった。列車はクモハ313-1314先頭の317G四日市行き。▼
真夏の蒸機-半世紀前
残暑お見舞い申し上げます。真夏の炎天下、飯山線と米坂線で撮った蒸機です。
▼飯山線客214レ機C56109【飯】 越後鹿渡-越後田沢間 1965年8月16日 C1407
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もう一本あった行方不明のネガフィルム
行方不明になっていた近鉄内部線の6コマ分1本のネガフィルムが見つかったと投稿しましたが、もう一本あったことに気が付いていませんでした。下津井電鉄の写真で6コマ分1本です。その写真はというと
京津線80型
こと京阪電鉄京津線とあらば、この老人も黙ってはおられない。老人は1970年12月尼崎に引っ越すまで山科に住まいを致し、中学校、高校、予備校(というより映画館と木製客車のいるところ)、ドーヤンに通ったのである。しかしこの80型は卒業後の1971年8月、四ノ宮で見たのが最初。すなわちサラリーマン3か月の初年兵時代である。従って老人がこの電車に毎日のように乗ったわけではない。
関センセのたまうように、確かに京津線には「びわこ」3輌以外、パッとした車輌には乏しかった。55型の回生制動とても、こんな短線区用としても恐らくは歴史にも残るべき代物だったはずだが、お説の通り、車体はお世辞にもスマートとは申しかねた。その後の高床車とて、台車や電気部品はお古ばかりである。
で、突如1971年に、30型以来の新製車としてお目見えした80型だが、これまた確かに釣掛け車には違いないが、勾配をものともしない快速ぶりと、回生制動、裾を丸めたデザイン等々、恐らくは路面電車デザインとしても関西のみならず、日本的にも優れ、ベストテン入りは確実―かどうかはどれだけの人が知っているか、で決まるだろうが―入って然るべき車輌である。
京阪電鉄京津線81 四ノ宮1971年8月13日 本線並の日鋼式密着自連だが、この時点まだ20型等との連結に備え、ドロ-バーとも繋げるようになっており、まだ単行運転である 後2連貫通式に改造され、クーラーも付いた。そういえば、レトリバーなる代物も今では見ることがあるまい。
こんなに素晴らしい電車で、さして古くもないのに、どうして引き取り手がなかったのか。ひとえに回生制動に恐れをなしたとしか考えられない。
なお四宮車庫は長らく引込線が本線(東海道線)と直角だったが、この時点では並行に敷き直されている。
京阪電鉄京津線80型
行方不明のネガフィルムが見つかった。そしてフィルム保管に困ったのだ・・・
行方不明のネガフィルムが一本あって、しかし一本と言っても6コマの一本でネガフィルムです。そのフィルムには近鉄内部線の内部で撮った写真で、その中でも気にいっているものが含まれていました。探すとべた焼きをしたものがあったので、それをスキャンして修正して画像として残すことにしていました。今回、発見出来て良かったと思っています。ただし、どのようないきさつで行方不明になったかわかりません。それはそれとして、この6コマ一本以外は例の酢酸臭がして隔離しています。使用不可になるような深刻な状態ではありませんが、ひどくならないように紙製フィルムホルダーにいれて保管しています。というのは樹脂シートでつくられたフィルムホルダーで保管していた時にフィルムが液状のようなものでべったりと樹脂製ホルダーに付着していたので取りだして以前に使用していた紙製フィルムホルダーに入れ換えました。酢酸臭がしますがそれほど悪くなっていません。今回、見つかった行方不明だったフィルムは紙製ホルダーに入っていて、酢酸臭がほとんどなく正常な状態です。そのフィルムの一コマの写真はというと
鳥羽快速と参宮線(下)
1964年12月30日、姫路発鳥羽行快速2442レは無事12時11分鳥羽に定時到着。ここで不思議なのは、鳥羽駅構内だけでなく、三重電気鉄道志摩線の写真も一切ないことである。51年前とあって記憶が全くないのだが、すぐ鳥羽から鳥羽港の入江、鞍部状峠を越えて浜辺浦をバックに、参宮線列車を撮ったとしか考えられない。なお近畿日本鉄道が宇治山田から五十鈴川、さらに鳥羽へと延伸するのは、1969年12月15日/1970年3月1日である。
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鳥羽快速と参宮線(上)
山科大築堤を行く鳥羽快速440レ 本務機C57110 後補機C51101 1956.1.9
右端の古枕木柵は、花山地区住民が京津線御陵駅への日常交通路として、築堤犬走を歩行しているのを遮るためだが、効果は全くなく、すぐ別のバイパス?が作られた。左側直線部には架線支柱が建っている。C57110はC51101共この年10月15日参宮線六軒での大事故で大破するが、C57110はその後復旧した
上の440レ後尾から。直前に投身自殺があり、左側複数の人物はその処理班。当時人身事故での列車ダイヤ乱れは極少=ほぼ即時回復した
姫路-鳥羽間の快速列車1往復は、詳しく調べていないが昭和初期に設定され、列車番号は終始440、441。戦時中は恐らく伊勢神宮参拝客輻輳のため2往復に。戦局不利になった1943年12月15日訂補ダイヤでは、京都-鳥羽2往復になり、何故か宇野-鳥羽1往復がある。1952年9月1日訂補ダイヤでは京都-山田、京都-鳥羽各1往復、1953年11月11日改正では3440、3441レとして姫路-鳥羽1往復が復活している。 続きを読む
叡山電鉄デオ300型
温泉直行便は高速線
国鉄福島駅から飯坂温泉に直行する飯坂西線は、福島市を取り巻く農村地帯を結ぶ飯坂東線とは別の性格を有し、独立したものであった。そこで西線を独立させ高規格路線に仕立て直したのであった。長岡車庫では西線の車両とは言わず高速線の車両と言っていた。先日、瀬古龍雄氏の調査記述をピク誌477号で発見、それを参考に話を進めることにしよう。写真3枚は第2次世界大戦前後、福島に疎開された野崎さんが昭和23年頃に撮影されたもので、映りは悪いが貴重なものである。 続きを読む
ほろ苦い「或る想い出」
先に「或る列車」を投稿したが、実はこれに関し、ややほろ苦い想い出がある。50年近く前だったか―記憶は定かでないが、ある時ある人(故人だから実名を出しても差し支えないか。確か茅ヶ崎在住だったかの松本一なる御仁)から、「或る列車」に関しての図や資料類の提供を頂けないかとの要望を受けた。どんなルートで、どこで知ったのか、手書きガリ版時代の「青信号」4号(号数は青信号特派員氏が先般教えて下さった)の小生の記事を見たらしい。他人では絶対になし得ない精密な模型を作りたいとの意気込みで、それはご奇特なと全面協力した。今だから話せるが、勤務中に業務用の4×5スピグラ(当時20万円したプレスカメラで前板だけだがあおりが利く。米国グラフレックス社製でボディは木製、レンズはコダック製エクター5吋=ピントの良さは抜群)で鉄道趣味26号「或る列車」公式写真を複写。その他昭和3年版の客車形式図下巻からの形式図コピーに、小生撮影や所蔵写真など、できる限りのものを揃えて差上げた。
初対面ではあったが真面目そうな人で、腕は確か=モデルマニアというより、職人という感じだった。実は彼は自分用ではなく、某大金持ち氏のお抱え職人であり、抱え主の趣味というか、要望で次々と大サイズの精密模型を作り続けていたのであった。もうお分かりかと思うが、某大金持ちとは、これも故人の原信太郎氏(コクヨ重役)である。
芦屋六麓荘の広大な原邸内に、ちょっとした体育館?ぐらいの別棟があり、ここに彼の口癖である「博物館」が展開していた。1番軌間の線路が敷き回され、2階やらあらゆるアングルでそれを見ることが出来る。電車は架線集電で、スパーギヤ1段駆動。直流モーターだから、手で押すと、モーターが発電機になり、その発生電流で、隣の線にいる別の電車も少しだが動く(事実だった)のがご自慢であり、車輌数は数知れず。彼の好みの電車等が山ほどあり、「或る列車」もそのコレクションの一環であったとは、これも遙か後日知ることになる。模型列車走行中、原氏(常に和服で白足袋姿であった)は、一人ハモンドオルガンを弾き、ご満悦であった。
松本氏は阪国の「金魚鉢」も作りたいというので、当時小生が住んでいた伊丹の中野=尼宝線沿線に好事家が保存しているのを教えた。彼は寸法を実測しに行き、その成果も原コレクションの一員になったのであろう。こんな実情を知ったのは、恐らく20年以上後だったか。別段騙されたというわけでもなく、まあお人好しにもホイホイと全資料を、熨斗を付けて呈上させて頂いただけの話だが、やはり何か少しほろ苦い想いも正直消し難い。
こんな個人的なことを今更思い出し、わざわざ記すのは、「或る列車」に関し先日デジアオにアップしたことに重なり、偶々だが、横浜の原鉄道模型博物館での「原信太郎世界の旅展」中に、「いま話題の『或る列車』模型を見てみよう」なるコーナーがあって、展示されていると漏れ聞いたからである。原氏の模型観は独特(模型観だけではないが)で、室内等にはあまりこだわらなかったようだから、職人松本氏も小生の(50年前)資料で十分だったのであろう。ついでながら、東武鉄道がオランダはマドローダムの有名な野外ジオラマ―やはり1番軌間ぐらいの模型鉄道が走りまくっている―の日本版コピーの如き庭園鉄道を展開しているが、その車輌全部が松本一製だそうな。彼は確かOJ軌間だったかで、津軽鉄道DC201のキットも発売したことがあったはず。
北陸鉄道モハ5000型
ブリル3軸台車
日本のボギー客車は当初台車共の輸入で、すぐ車体の国産化がなされたが、中には台枠だけの輸入もある。概ね1906年の私鉄国有化直前時点では、ボギー客車といえども台車とも国産化が通常だった。例外は九州鉄道が1907年7月1日の国有化前に発注した、連結器と車体幅以外100%米国スタイルの豪華5輌編成で、米国ブリル社からの輸入であった。到着したときは国有化後で、そのまま鉄道院の記号番号が付された。
「或る列車」鉄道趣味28号から バッファーが独特な形状である 続きを読む
旭川電軌モハ1000型
地方私鉄での京王帝都5000系
京王帝都5000系の譲渡先の姿としてデジ青【73063】で一畑電鉄のそれを取りあげたが、今回は一畑以外の残りである。全部網羅といきたいところであるが個人の力では限界があるので補足写真があれば幸いである。
まず一畑と同様に車両カラーがバラエティーに富む富士急である。最初は元京王帝都5000系の富士急1000、1200のオリジナルカラーである。1000、1200は車内シートのロング、クロスの違いである。この1208の編成は既に廃車されているが、もとJR205系である6000系入線により他の元京王車にも廃車が出ている。ところで最初に説明すべきであったが京王は日本では数少ない1372ミリゲージのため他社譲渡に際しては台車を履き替えたり改造しておりここでは営団(現東京メトロ)3000系のFS510である。
お入用の方あらば
1967年~85年ごろの、新聞、時事通信ファクシミリニュース(報道機関用)等のスクラップブックが3冊あります。小生の趣味として、経営不振私鉄廃止(頸城鉄道自動車、寿都鉄道、南部鉄道、阪神国道線等々)、江若鉄道廃止、国鉄赤字、第3セクター転換関連などです。神戸新聞に連載された「私鉄を走る」(片上、下津井、北丹、別府等)、日経連載「ローカル線」などなど。小生傘寿が目前(目出度いことなんぞなーんにもないが)ですので身辺整理の一環として、お引き取り下さる奇特なお方はいらっしゃいませんか。できることならば「着払い」でお願いしたいのですが。
2016年 初夏の北陸路一人旅 Part11 えちぜん鉄道、福鉄北府車庫と福武線鉄道ミュージアム
第7日目 6月6日 その3
▲ 次回に備えて発坂までの俯瞰できる場所を探した後はバイパス、北陸高速道を経由して越前武生駅に向かいました。
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2016年 初夏の北陸路一人旅 Part10 えちぜん鉄道、福井鉄道を撮る
第7日目 6月6日 その2
10:04 田原町から鷲塚針原への戻りにも相互乗り入れの列車に乗ってみたいのですが、日中は1時間に1本ダイヤです。田原町の次発は10:58発と、時間があります。市役所前まで撮りながら向かうことにしました。
▲ 10:07 時刻表に記載のない770形(774+775)が来ました。方向幕は”回送”の表示です。福鉄の車庫は北府にあって逆方向への走行です。田原町で折り返す運用でもあるのか? 続きを読む
地元の話題から ―3月26日ダイヤ改正―
4月24日準特急様より【70736】「東京メトロ16000系地上区間(小田急多摩線)の姿」で3月26日ダイヤ改正によりJR東E233系2000番代の小田急線に乗入れたことが報告されている。
今までは小田急車は綾瀬(回送では北綾瀬)、JR車は代々木上原までであった乗り入れ区間が、3社直通車の増発(常磐線内昼間1時間2本から3本)により小田急車が取手まで、JR車が唐木田、本厚木まで(回送では伊勢原まで)乗入れるようになった。
常磐線緩行区間の近況をお知らせしたい。 続きを読む