函館港まつり その2

(2015年)8月2日は 函館港まつりのパレードが行われる日ですが 朝から雨模様です。
パレードには函館ハイカラ號30形39号と花電車 装1号、装2号、装3号が参加予定ですが花電車はその構造上雨の日は走れませんので気になります。
駒場車庫の5~7番線では親子見学会?のようでした。函館まつりDSC_6123

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函館港まつり その1

函館港まつりが今年(2015年)も8月1日(土)から5日(水)まで開催されました。
花電車が運行されるとのことで8月1日と2日に行ってきました。
今回は青函トンネル経由特急白鳥で行きましたので まず函館駅のキハ183系とモハ789系の並びからご覧ください。北海道新幹線の開業が2016年3月26日と発表されましたので798系の白鳥もその時点で廃止されそうです。
函館まつりDSC_5122
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大井川を渡る列車の紹介

大井川には水力発電所が沿線のそこかしこにあり、その建設で鉄道が敷かれたことで知られている。JRになった後も金谷駅構内で接続箇所があった。それが面白い事に折り返し用の引き込み線がトンネル内まで伸びていた。最近直通列車が設定されておらず、レイルの接続は解除されたように思う。構内配線の観察などがうわの空の老人は、本年(2015年)5月のイベント?では気にもしなかった。大井川鐡道の列車は金谷駅の一端から出入しているが、その単線はしばらく草陰に並行しており見え隠れするが、次駅新金谷方面には下り坂となっている。それがレベルとなると左折して大代川を渡る。左折地点(先の写真では311+511の編成)では東海道線とは5Mぐらいの高低差がありが、その先が今回の撮影地としての紹介点となり近くに踏切ありで、大代川沿い道路からも上がりやすい地点である。

 

千頭行き一番電車を待っていると寝台特急がやってくるが列車名は?

千頭行き一番電車を待っていると寝台特急がやってくるが、列車名は?

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近鉄吉野線と伊賀線の写真

 乙訓の長老様が大井川鉄道で走っている近鉄吉野特急の写真を見て、写真を探してみたが意外と撮っていないもである。中学生の時に飛鳥ハイキングで橘寺駅(今の飛鳥駅)付近でオリンパスペンS(ハーフサイズカメラ)で撮ったものがあったが、見事に正面の真ん中に電柱がかぶっている写真がほとんどで見せられるものでない。昭和49年3月に吉野へ行った時の写真があった。吉野駅で撮ったものである。そして伊賀線であるが昭和48年の10月に伊賀線に行ってみようや、ということでその時の写真であるが不適切な露出なのか印画紙に焼き付けたが出来が悪く3枚しかプリントしていない。今までお蔵入りしていた写真がデジタル画像処理のおかげで見ることができるようになったのである。

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名鉄8800系

ご無沙汰しましたが、先週からプリンター兼スキャナーが故障しまして修理中だったため一週間遅れです。もっとも今週の月曜日は休刊日で、しかも車両は余り人気の無い名鉄の8800系ですから問題は無かったようです。

名鉄8800系_0001_NEW 名鉄8800系(文)_NEW_0001

※不手際により画像が表示されませんでした。どですかでん様のご指摘で確認したところ、150dpiでスキャンする設定が300dpiになっていました。スキャナーの修理後の設定が間違っていました。どですかでん様、ありがとうございました。

 

川根路に 関西の特急車3社で4種そろい踏み!

京阪3000系が走りだすと共に元近鉄特急車であった1編成は、外部塗色を元の特急色に戻すことになった。1996年訪問時、新金谷工場は塗装下地作業に追われていた。翌1997年関西の電車ファンの一部で話題となっていた近鉄南大阪線の特急車が、大井川鐡道に到着したとの報を得て老人が訪ねたのは8月13日午後であった。岳南鉄道に京王3000系が入線したとの情報も得ており、新幹線新富士経由で吉原へ、そこで金谷へ急いだ。先ず近鉄特急の留置先を運転手に聞いて直行だ。千頭駅ではお馴染みとなった留置線に出向いて【びっくり!】した。

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先頭車16001号の特急標識の上には貼り札がある。それを見た時「日本制輪子工業所有車」の文字にびっくりしたのだ。阪急2800系が廃車になったとき、どこやらのブレーキシューメーカーが【阪急と富山地鉄】との橋渡しをしたらしいが、阪急京都線特急は高速で酷使されており車体に緩みが生じており、京阪3000系に変更になったそうだ、との噂話を耳にしていた。その時は部品メーカーが廃車物件に手を出すなんて信じられない話で、終戦直後の喉から手が出るほどに車両不足の時代なら分かるとして、経済成長時代では「あほかいな」と一笑に付される話が本当にあるのかと、わが目を疑ったものだ。その後、伏木あたりのスクラップ(リサイクル)業者がJR車両の解体をしているのをテレビで見たが、こうした業者が一枚噛んだのかな? それで使用済みのブレーキシューの後始末屋の出番となったのかな? 真相はわからない。どんな背景を担いで近鉄特急がやって来たのか、だれか教えて下さーい!

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川根路を京阪特急が走っていた!

1994年春に新金谷に送られた京阪3008+3507編成は、1995年盆休みに走っていなかったと先のデジ青【63160】に投稿したが、実は走っていた。ここに皆さんにまたもや【お詫び】でございます。年を取るとあれこれと思い出す事があり、澤村君から聞いた話が残っていたようで1995年末に運転開始との情報が染みついていたようだ。実は1995年8月12日撮影のフィルムが先日出て来たのだが、3000系の姿があった。それは京阪特急を待ち受ける時は田野口駅から下流の橋を対岸へ渡り、川沿いで西日を迎え輝くはずのシーンであった。当日は早朝の新幹線乗継で新富士へ、岳南鉄道で2時間ばかり時間をつぶし浜松行きで金屋へ、連絡の大井川鐡道線で田野口に向かったのだ。対岸に渡ってみたが川巾広く2両編成では遥かなたとなる事が分かり、諦めて橋の手すりにもたれての1枚となった。

川沿いを走る姿は叡電鞍馬線とオーバーラップしないかな

川沿いを走る姿は叡電鞍馬線とオーバーラップしないかな?

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関東勢の一掃と関西の特急車両が続々と!

老人が大井川鐡道に目をつけ、年に一度は顔出しするようになったのは白井昭さんから「お宅の3000が新金谷に近日入りますよ」と、1994年春の彼岸の日に声を掛けられた事に起因している。それを前に澤村君から白井さんとのやり取りの一端を耳にしており、関西ではあまり話題にならない大井川鐡道に喰らい付いてみよう、との気持ちが沸いたのであった。この年5月に東京出張があり、その帰路に金屋口に顔出し1回目があった。その時の光景の一端を紹介しょう。

回送された時の姿をこれより1年近く保持された。

回送された時の姿はこれより1年近く保持された。

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ビデオから写真の作成

先日は、総本家さんが「デジカメで遊ぶ」を、どですかでんさんが「フィルムのデジタル化」と最近の技術を堪能されていました。デジタルの進化で以前は難しかったことが簡単に実現するようになりましたね。私も昔の8mmを見直して今のビデオを試したくなりました。鉄道以外の目的もありビデオカメラを手に入れたのですが、そこにあったのが「ビデオから写真が作成できる」という説明でした。パナソニックから4Kビデオと写真の撮れる機種は出ていますが、普通(?)のビデオカメラからどれくらいの写真が作成できるか試してみたくなりました。ビデオカメラはパナソニックのHC-V550Mです。ビデオ撮影時のシャッタースピードを1/1000にマニュアル設定し、撮り終わってスローで再生しながら最適な絵のときに「フォトショットボタン」を押して一枚作成します。その例を示します。2枚とも多少「滲み?」は残りますが予想以上の出来映えでした(2.1M)。M1020002M1030003-1

 

東京で見た電車、それに乗れた話

老人は富山から大阪へ転勤後も東京出張に恵まれた。其の時は旅館宿泊でなく民家の2階を丸ごとアパート代わりに仕立てた家屋があり、会社はそれを社宅代用で借用していた。東京出張所は文京区で、社宅代用は西武鉄道池袋線桜台下車徒歩5分の地であった。これで東京へ出張すれば西武電車に乗れることになった。ある朝、池袋駅に10両編成が山手線を乗り越えて入構するのに気付いた。湘南型6両+4両の固定編成で10両である。その頃の関西私鉄は6両編成が最長で、関西では見られない10両編成がしずしずと下り勾配を降りてくる姿に見入った。その電車の兄貴分あたる車両に大井川鐡道で出会ったのだ。大井川での車号は312+512、313+513の2編成となる。これらの編成が10連になったのではないが、湘南型と言われている前頭部の姿があっさりしているのが特徴で、老人は好きなのだ。

一目で西武電車所沢工場製作車両とわかる面構え

一目で西武電車所沢工場製作車両とわかる面構え。312+512号車

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あの頃は蒸気機関車が新車の自動車を運んでいたんだ。

 古いネガをデジタル化してみると、意外なものが写っているのでびっくりすることがある。デジタル化すると画像処理ソフトで露出設定などがうまくいっていない写真でも何とか見られるようになる。印画紙に焼き付けると何が写っているかわからないものでもよくわかるようになるし、モニター画面で拡大してみることもできるので細かい部分もよくわかる。そのようなネガの中で最近、総本家青信号特派員さんが50年前に山科で撮影された列車群の写真に刺激されて、1969年に大阪市内で撮った写真をデジタル化してみた。優等列車や貨物列車、それに蒸気機関車が牽引する貨物列車も写っている。その中に問題の蒸気機関車の写真があった。煙が巻いていたので、当時の印画紙に焼き付けた写真でははっきりわからなかったのであるが、デジタル化して拡大して貨物列車の積荷を見てみると・・・・

webS-MN02519-東海道線塚本尼崎間

大阪方面に向かってD51が走っていく。多分、宮原を通って吹田へ行くのであろう。背景に巨大なガスタンクが見える。これは神崎川の川べりにあった。

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ゲテモノは遊覧のためか?

老人は学生時代、東京からの帰途に大井川鐡道に立ち寄り、多彩な中古車群に驚いた後はそのままとなってしまった。1994年春、彼岸の日に名古屋市交通局日新車庫で白井昭さんから声掛けを頂き、翌年の盆休みからご先祖さまに義理欠く行為を取るようになった。その発端は大井川鐡道が各地でお払い箱となった電車の再生工場であることに気付き、その指揮者が名古屋鉄道から出向されていた白井昭さんであった。

先ずオープンカークハ861号、種車は名鉄2805号だとされている。ならば戦後、京阪にもあった1300、1600型の兄弟で、車体長17m級の大型車となる。これを1986年に改造したもので、台枠と屋根を残しての工事を金屋口の工場で施工している。車内を見ていただきたい、木製対向座席の間にはテーブルがあり、表は白生地張となり御客様を迎える準備がされている。窓はなく雨が降ればどうするのか心配だ。30年ぐらい前から流行している各地のトロッコ号の先走りのようだが、こちらはボギー車で、単台車の貨車改造より乗り心地は上々であろう。千頭方に運転台があり、種車と同型の2822+2829(M+Tc)が牽引していたとのこと。

その牽引車の写真だが変色姿でごめんなさい。光沢紙裏面にはKodakとなっているが、20年たてばこんなに変色するのかと、実は驚いている。お詫びの印としてもう1景、京阪特急と並んだ1997年のKonika100年プリント、この年にクハは廃車となり牽引車も翌1998年に後を追い役目を終えた。
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おとぎ電車のこと

 総本家青信号特派員さんが宇治でおとぎ電車のミニ写真展が開催されていることを投稿されているのを見て、DRFC現役時代に「青信号」に「おとぎ電車の話」として記事を書いた時に叔父から受け取った資料を久しぶりに見てみた。青信号に記事を書いた時と違って、学生時代と違うことを感じてしまう。資料をよく見てみると昭和25年とか昭和26年1月などの日付があることから最初の 改造資料のようである。

おとぎ電車資料-1

資料が入っていた紙袋と線路図

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盆休みに先祖を迎えず電車三昧(Ⅰ)

盆休みとなると毎年のように大井川鐡道に通っていた。その起源は元京阪特急が走るようになったからで、新金谷駅徒歩1分の吉川(きっかわ)屋旅館が定宿になった。ある年は準特急氏、逗子の旦那様、総本家氏に加えJTS牧野1号氏と共に在庫ビールを飲み干してしまったが、翌朝は5時前に起床、金谷駅近辺に散開して寝台特急を迎えた。

その頃、木造国電のなれの果てに次いでステンレス車体の両運転台車が千頭駅に留置されるようになった。1950年代中期から各地で見られた日車型スタイルなのだが、このステンレス車1105号の銘板では昭和35年汽車会社となっていた。1105号は岳南鉄道に入線、お払い箱となるや大井川に来たものだ。

大鐡にはステンレスカー以外にアルミカーもあった。こちらは正真正銘の昭和38年日本車両製で、北陸鉄道加南線で走っていた。「しらさぎ号」と名付けられ国鉄のお株を奪ったようなものだ。日頃は2両だが多客時となると電気機器の相性あう2両と4両編成で走った。近鉄特急のお古が揃った時点でこちらも休車となり新金谷車庫の本線側の留置線が定位置となった。何時の間にやら見られなくなったので、車庫で聞いてみたら故郷の山中温泉に里帰りしたそうだ。

孤独な1両でのステンレス製

孤独な1両でのステンレス製

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撫順炭鉱鉄道101系(満鉄ジテ)

№880に準特急氏が投稿されたのがまさしくこの電車で、それに№899で解説を下さったのが湯口先輩でした。 関先生によると、この車両はすでに鬼籍に入ったとのことですから、準特急氏の写真は大変な貴重資料と言うことでしょう。
撫順101型(満鉄ジテ)_NEW 撫順101型(満鉄ジテ)(文)_NEW

老人の69年前の広島での思い出

8月3日早朝、3時に目覚めテレビをつけて見た。原爆投下の日に広島で市内電車を運転していた若い女性の、今も健在の方の実話をまじえてのドキュメントが放映されていた。過去に何度も彼女達の話は紹介されているが、広島電鉄が今も残る車両を提供し、千田車庫内で彼女たちがハンドルを握るシーンを再現したものであった。原爆投下後の町の姿を紹介するシーンでは、1946年8月に兄と共に電車から見た光景だな、と思うや蒲団を上げて正座した。

原爆投下後の広島の姿を見た時の老人は満8歳、小学校2年であった。7月、夏休みになるや父母に連れられ母の実家、田舎:島根県鹿足郡六日市町に向かった。呉線まわりの下関行きで目覚め、広島の街を見てびっくりであった。横川駅を出ると大田川の築堤となるが、築堤下には貨車が転がっていた。そして己斐駅、スッカラカン、改札口だけに屋根があった。祖母の葬儀の帰路で乗った宮島線の電車、そして市内線の電車も留置されていた。電車は走っている。乗りたい! 父母は3泊して老人を残し帰京した。一人になっても実家周辺には同年輩の遊び仲間が多数おり心配なしだが、電車狂いには気になるのは己斐駅で見た電車の姿であった。迎えに誰が来るのか、ばんざい!願い通りの兄がやってきた。しめたとばかりに帰路は己斐で途中下車、市内電車で広島駅に出る交渉は成立した。
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南満州鉄道京城管理局ジハ

南満州鉄道京城管理局サイズ小
関センセ記事紹介への米手作市氏リードにあった、ン10年前ボックスでの記憶=朝鮮ジハとは、南満州鉄道京城管理局の蒸気動車1~4である。機関部がB型とお書きだが、1Aのシングルドライバーで、ピギーバック式に客車部を背負っており、運転整備全重量50噸とは、流石に標準軌間である。機関部は大阪の汽車会社本店、客車部は現地京城工場製とされる。汽車会社の蒸気動車というと工藤式と思い込まれ勝ちだが、これは1923年7月製――工藤式の発明者工藤兵治郎が汽車会社退社後であり、彼の特許は何一つ使われていない。ただ使い勝手が良くなかったか(方向転換に15メートルの転車台必要)、欠陥車輌だったかで、2両の機関部は単独で入換機?21、22に改造されてしまい、シングルドライバーのタンク機関車として「シグ」なる記号が付され、その重量運整28.5噸というから、日本での小型機顔負けである。
南満州鉄道京城管理局ジハ形式図

朝鮮鉄道デハニF

学生時代に部室で朝鮮鉄道・「鮮鉄」にあった、蒸気機関車とダブルルーフの客車を1両にした「ジハ」と言う車両を見たことがありました。本で見たのか、写真を見たのか、模型を見せて頂いたのかは忘れましたが、B型の小さな機関車と一体になった緑色の客車がかわいらしく、もう一度みたい思いに駆られています。
朝鮮鉄道デハニF_NEW 朝鮮鉄道デハニF(文)_NEW

母が写した葵橋

デジ青を開いて驚きました。湯口氏の京都市電河原町線延伸工事の写真です。実は老母が先月末に92歳で他界し、遺品を整理していましたところ出てきたのが この写真です。母自身が撮影したようです。

京都家庭裁判所前風景

京都家庭裁判所前風景

母は昭和49年から平成8年まで家裁の調停委員を務めていた関係でよく家裁に出入りしていましたので、葵橋を渡って歩いている途中でなぜか撮影したものと思います。撮影年月は判りませんが、プリントの裏に 79FUJICOLOR とあることから 1979年(昭和54年)ではないかと思われます。旧庁舎が取り壊されることを知っていて、記念に撮影したのかもしれませんが、今となっては知るすべがありませんし、ネガもありません。湯口氏ご紹介の写真がまさにこのカーブ地点であり、母自身が撮影したこのひとコマを見つけたばっかりだったので驚いた次第です。もう1枚同時に撮影したと思われる5系統 2602号の写真がありました。窓を開け放していることから、夏場のようです。35年も前のひとコマです。

葵橋を行く2602

葵橋を行く2602

(追伸;湯口様 この延伸区間は11年間ではなく21年間ではないかと・・・?)