2016年 西方見聞録 Part37 ウイーン市内から空港へ、帰国

第18・19日目 10月5・6日

フィンランドのヘルシンキ、スイスのチューリッヒとゴッタルゴ峠周辺、ウクライナの西ウクライナ地方、オーストリアのウイーンと4ケ国を訪問した西方見聞録の旅も帰路を残すだけとなりました。
今日のウイーン国際空港からのフライトは11:15発とゆっくりめですが、国際線ですので8時半までには空港に到着してラウンジに早めに入って休みたいところです。5時半には起き上がりました。

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東海道の電車を楽しむ-その7-

宮(熱田神宮)宿に着いた旅人は、次は船で海越えとなる事に胸をときめかせていたであろう。那古野(なごや)と言われていた地域の西方(美濃)は大河が集積しており、海に繋がる地であることは今に至るも変化がない。幕府が川越ではなく、船で伊勢湾を乗り越える経路を東海道としたのは賢明であった。その渡船の事を七里の渡しと言っていた。七里とは乗船地から下船場所までの距離で、ウィキペデアでは27.5Kmとしている。このコースは上手く設定されており、東海道最大の宿場と言われた宮宿で神社参拝を済ませ、僅かな陸路を辿れば渡船場に到着、又は下船場となっていた。後は船の揺れにわが身を任せば何時の間にか対岸に到着、一丁上りとなる。到着地点は現在の鉄道各社が集積している桑名駅東側の浜であった。所要時間は日替わりメニュウで、分からない。

桑名から京都までの宿場は13ヶ所となっており、電車と関係ない宿場には*印をつけ分類すれば42宿桑名、43宿四日市、*44宿石薬師、*45宿庄野、46宿亀山、*47宿関、*48宿坂下、*49宿土山、50宿水口、51宿石部、52宿草津、53宿大津、54宿京都三条となる。電車と関係ある元宿場には今も電車が出入りしているが、ここ10年余りの間に経営主体、電鉄名が変わるだけでなく車両の外部塗装が変更されることもあり、頭の整理が必要となった。

1956年6月、田舎(父の生誕地)から中川経由で四日市を経て桑名駅に降り立った。四日市では三重交通湯の山線、内部線の訪問が目的で、そのため養老線、北勢線はホームで観察するだけとなってしまった。帰宅後、奥野利夫さんから桑名には路面電車が走っていた時期があり、営業距離は1Kmだったと知らされ驚いた。京都市電河原町通では、四条河原町~河原町二条ぐらいになる。この話を野崎さんに持ちかけたら、掲載の写真を頂いた。

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「北海道寒中見聞録」に大いに期待

「半世紀前の旅物語」が始まった。誰しも何回かは北海道に行っているはずだから、各人夫々の「旅物語」があって、期待すること極めて大である。それにしても3人旅とは羨ましい。小生の場合ドド田舎の簡易軌道やら、軽便やら、炭礦鉄道やらとあって、付き合ってくれる仲間などなく(誘ってもいないが)、九州などごく僅かな3人、2人旅があっただけ。佐竹先輩や、故羽村兄と1回、故高橋弘氏とは2回ごく短期間の旅を、卒業後重澤旦那とはそれこそ数えられない程同行したが。

長ずるに及んでというより、定年間近あるいは定年後のヨーロッパ軽便めぐりには、幸い好伴侶(辞書通り単なる「道連れ」だから、くれぐれも誤解のないように。この点に関し小生は断じて吉谷先輩の仲間ではない)が得られたのだが。

ところで「半世紀の旅物語」第1号車に、北海道均一周遊券が添えられている。金額が1万円を超えているではないか。学割2割引で9,680円であろう。正直絶句したが、ただ我々の時は特急は愚か急行、準急(なんて列車があった)には、当然ながら別途特急、急行、準急券が必要であった。ただ、急行しかない、などというケースはなく、夜行を含め急行が走る線には必ず各停列車もあったから、急行に乗らずとも旅はできたのである。特急に言及がないとお思いなら、小生が同ヤン生になった1957年現在、特急とは、つばめ、はと、かもめ、あさかぜ、さちかぜ=東海道、山陽、鹿児島本線と、さちかぜが長崎まで走っていた5本だけ―東京以北に特急はなかった。

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2016年 西方見聞録 Part36 ウイーンのトラム、メトロに乗る、撮る4

▲ 18:51 撮影地⑮ Jägerstraße Google座標;48.211763, 16.339495
今回最後の撮影に選んだ古い教会とトラムとのツーショットです。このカトリック教区教会は、U6バーンJosefstädter Straße駅をぐるりと1周するトラムのループ線横にあります。1839年に建立されましたが第2次大戦の1945年に爆弾破壊にあいました。1998年に復旧工事を終えて再建されています。
【DATA】NikonD800E、ズーム36㎜、1/25秒、F2.8、ISO1600
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北海道寒中見聞録-半世紀前の旅物語 1号車

寒中北海道見聞録  1号車

今を遡ること半世紀。昭和の時代、そう昭和44年の冬の終わり頃のお話です。丁度、試験が終わり、年度末の休みになったときに、今や高齢者であるクローバー会の会員が冬の北海道に蒸機を求めて旅をしたときの記録です。その報告は青信号22、23号に既に発表されていますが、これはその復刻版であります。内容は忠実に従っていますが、所々に深い内容の解説を入れて読者の理解を助けるようにしました。元々22号は参加者の小林氏が執筆していましたが、今回復刻版を作成するに当たって、川中が承認を得て多少文も変え色々編集しました。3月4日からの後半は23号と同じく参加者の西村氏が青信号と同じく執筆する予定です。

なお、1号車は旅に出る前を中心にしているため、お楽しみの写真は余りありません。ご期待に添えませんが、痔、間違えました次号車から多くのお写真様がご乗車になるはずです。

今から考えると、へえ!というものがあるかも知れない隔世の感がある時代のこと。旅の情報に関してもIT時代の今では、北国の否、世界の果ての情報も瞬時に知ることができる世の中ですし、入学試験の最中でも解答を得られ答案を書けるほどの時代なので、へえ、そんなあ!と思われるものがあるでしょう。宿(このころは若いモンはYH=)はユースホステルを利用するのが常であり、先輩諸氏のようにステホに宿泊する覚悟でなければ往復はがきを出して、「よっしゃーっ予約が取れた」、と言って出掛けた時代です。その頃にはすでに先輩諸氏は冬の北海道に遠征し、成果を上げておられるのですが、またそこまで至らない若造3人があれこれ試行錯誤しながら冬の北海道の鉄路を彷徨したときの記録です。記録といえば今は亡きY大先輩のすかたんシリーズがありますが、この稿はそれには及ばないけれど「あんたら何してんねん?」というような旅であったと思います。

他人の紀行文など、行った本人は面白いかも知れませんが読む方は大抵退屈、下らんことばっかり書き腐って、となるのがふつうであります。拙稿ではそれを避けるため、また原文の青信号記載の今から言えば無知下品(?)な表現を今風上品(!)に改め、当時の鉄道風景を再現するために参考となる情報や画像を写真とともに豊富につけました。

また冬の北海道は当時あんまり訪れる人がいないと思っていましたが、旅をすると同業者、他趣味の人とも知り合いになり心温まる旅をすることができたのも収穫でした。ほとんどはその後音沙汰なくなっていますが遠い昔を思い出せば懐かしさがこみ上げるというものです。

では早速本文に入りたいと思います。文体もそれに応じて変わります。

ただいまから改札を始めます。こちらからお入りください。 続きを読む

C5546のこと

総本家青信号特派員氏が筑豊のすばらしい写真を次々と紹介されています。その中にC5546が登場し、大分で保存されていると書かれていました。そう言えば 番号は覚えていないけれども、大分市内でC55の保存機を写したことを思い出し、写真を探しました。すると46号機ではなく53号機なのです。

平成21年5月1日 大分市中央町 若草公園にて

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 地図を携えて線路端を歩いた日々 -4-

C地点

続いて折尾~中間のC地点付近に移ります。立体交差地点で複々線が入れ替わり、C地点では方向別運転になります。短い切り通し区間を過ぎると、左右が開け、ゆったりとした編成写真を撮ることができました。今でこそ宅地ビッシリですが、周囲は田が広がり、サイドからの真横写真も撮れました。そしてつぎの駅、中間駅へと至ります。
ここで、この区間の現状について記しておきますと、立体交差付近には昭和63年に新しく東水巻駅ができています。駅を中心に周辺は宅地化が進んでいますが、立体交差はそのまま残置されています。複々線もさすがに過剰インフラとなり、折尾駅は2線の対向ホームですが、発車するとすぐ単線になります。 また黒崎方面からの短絡線も単線化され、両者が寄り添う地点で両渡りポイントを設けて、ここからは複線構造となっています。さらに今は、折尾駅連続立体交差事業が進められ、付近の地形すら変えてしまうほどの大工事が2021年を目指して進行しています。

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2016年 西方見聞録 Part35 ウイーンのトラム、メトロに乗る、撮る3

第17日目 10月4日 その4

15:56 国鉄Sバーンとの乗換駅前の Franz Josefs Bahnhof からはD系統のトラムから5系統へと乗り換えることにしました。目的地が決まっているわけではありません。行先はトラムに聞いてくれとのぶらり乗り鉄旅です。
しかし、他のトラムが0~71系統と数字なのにこのD系統とだけはなぜに英語なのでしょうか? 1つ疑問が残ったウイーンのトラム乗り鉄旅でした。[googlemap lat=”48.225836″ lng=”16.360932000000048″ align=”left” width=”300px” height=”150px” zoom=”14″ type=”G_NORMAL_MAP”]48.225836,16.360932[/googlemap]
▲ 15:56 撮影地⑥ Google座標;48.225836, 16.360932

入線して来た5系統4554号車に乗車して出発です。ご覧のように道路幅はそんなに広くはなく駐車中の車もあって走行できる車線は1車線だけですが、軌道にはみ出してトラムの走行を邪魔する車は見かけません。公共交通優先のマナーがよく守られています。
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もうすぐダイヤ改正

3月4日のJRのダイヤ改正まで10日余りとなりました。さっそく時刻表3月号を買って眺めているところです。昨日の中国新聞朝刊には 可部線延伸開通を心待ちにする地元の記事がありました。

平成29年2月19日 中国新聞朝刊

新しい時刻表を見て驚いたのは 可部線の下り最終871Mが広島発0:05、安芸亀山着0:43、翌朝の始発730Mが安芸亀山発5:08というダイヤです。以前レポートしたように、安芸亀山駅には電留線もあり、電車が駐泊するのは驚くことではありません。しかし安芸亀山駅は無人駅です。最終871Mの乗務員は電車を留置したあと、始発での仕業開始まで どこでどうするのだろうと余計な心配が先に立ちました。

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 さよなら 関西の湘南色電車

JR西日本の関西近郊電車線区(旧称アーバンネットワーク)で唯一、湘南色で残っていた、吹田総合車両所京都支所(旧京都総合運転所)(近キト)の113系C10編成4連が、いよいよ来週に工場入りし、例の地域色(抹茶色)に塗り替えられることになりました。関西に113系湘南色がお目見えしたのが、新幹線開業直前の昭和39年7月で、53年目にして、いよいよ関西からはオレンジ/グリーンの湘南色が見られなくなります。
草津線にある天井川の大砂川トンネルを抜けた近キトC10編成(甲西~三雲)

 

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 地図を携えて線路端を歩いた日々 -3-

夕陽にC55のスポーク動輪が透けて見える。本数の多いこの区間で初めて流し撮りも試みた。

B地点

折尾~中間のハイライト区間であるB地点の立体交差付近について写真を続けます。
前回投稿のコメントにも記しましたが、複々線区間の開業時は二つの鉄道でした。若松を始発として折尾を通り、中間・直方へ向かう筑豊本線は、明治24年に筑豊興業鉄道として開業、これにより、水路に頼っていた石炭の輸送は、鉄道で若松港まで運ばれます。のちに若松は日本一の石炭積出港として発展しますが、増産される石炭は、若松だけでは賄いきれず、その前に開業していた九州鉄道(現・鹿児島本線)は折尾付近で、筑豊興業鉄道への短絡線を設け、連帯運輸を始めます。同時に、別々に設けられていた折尾駅も、現在のように共同駅として筑豊本線、鹿児島本線の交差地点に移設されました。複々線の誕生で、従来の若松だけでなく、九州鉄道経由で、戸畑、門司でも石炭の積み出しが行われ、また八幡製鉄所への石炭輸送も担うようになります。これによって、明治40年の両線の国有化の頃には、鉄道収入の半分以上は石炭輸送で占められる、黄金期を迎えたのでした。

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「国境鉄路」写真展開催のお知らせ

中朝国境訪問の紀行記を掲載させていただいておりますが、このたび小竹先生の国境鉄路の写真展が大阪でも明日から開催されることになりました。半分以上はご同行させていただいた中朝国境ですが先生の鋭い目で撮られた作品の数々はデジ青に掲載しました写真よりも一味違ったものがあろうかと思います。
大阪に行かれてお時間がありましたら是非にご覧になってください。私も都合がつきましたら会場に行きたいと思っております。

開催場所は地下鉄四つ橋線本町駅真上のオリンパスギャラリー大阪です。よろしくお願い申し上げます。

2016年 西方見聞録 Part34 ウイーンのトラム、メトロに乗る、撮る②

第17日目 10月4日 その3

昼食後はグランドホテル前のリング通りに出ました。旧市街を環状に取り巻くリング通りは全長5.3㌔、沿道には1860年代から1890年代までに建築された歴史的な建築の数々が並んでいます。そんな街中を走るトラムが撮りたいと雨降る中に出ました。
▲ 14:06 撮影地① Wien Oper Google座標; 48.202414, 16.369950
リング通りの電停は西回り一方通行を挟んで歩道側に上下線が分かれています。トラム軌道上に自動車は入ることなく流れています。
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古写真から見た昭和京都の生活~市電の音が聞こえる風景~

表題の展示会が開かれるのでご案内いたします。

当会の方の中にもご存じの方もおられると思いますが、好軌会会員で京福や市電の研究家の中村進一氏からご案内を頂きました。
会場は「ひと・まち交流館」河原町五條下ル東側1F
期間 2/22~2/24

ぜひ、ご覧下さい。

 N電 夜の梅小路を走る

先ごろ京都・梅小路公園のライトアップイベント「京都・冬の光宴2017」が行われ、その一環として、通常は昼間のみ公園内を走っているN電27号が、特別に夜間も運転されました。鉄鈍爺さんの極寒撮影ほどではありませんでしたが、時おり雪も降るなか、寒さ対策バッチリで写しに行ってきました。

N電が夜間運転されたのはイベント期間中の土曜日の2日間のみ、20時まで約30分ヘッドで運転された。吹きさらしの運転台はさすがに寒そう。

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2016年 西方見聞録 Part33 ウイーン国鉄近郊電車、ウイーンのメトロに乗る、撮る

▲ 撮影地 シュピッテラウ(Spittelau)駅はÖBBのS40バーンとMTRのU4・6バーンが交わり、またTramも乗り換えられるターミナル駅です。
Tramが走る上の高架軌道を通過するのはU6バーンのTramと同サイズの電車です。U6号線はU4号線と同じく、かつて建設されたウイーン都市鉄道(シュタットバーン )をMTRにリノベーションした路線です。ほぼ造り直されたU4号線に比べてそのまま活用できたU6号線は高架区間が多くなっています。

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東海道の電車を楽しむ-その6-

Wikimediaでは東海道の中間点を28宿見付と29宿浜松の中間(247,75Km)としている。それに合わせると現在のJR線では、東京~京都間513.6Kmの中間点256.8Kmは浜松257.1Kmが該当する。図らずも江戸と京都の中間点が良く似た位置にある事が分かった。その中間点から5宿離れた34宿吉田からの東海道は北に経路を取り西に向かっている。明治維新後建設された東海道線は浜辺(常滑)を辿り宮宿(熱田神宮)に向かった。後発の名古屋鉄道は旧東海道のルートを追うようにして名古屋から延伸してきた。そのため両線が肩を並べる熱田神宮前では国鉄線の経路80.7Kmに対し名鉄線62.2Kmとなり、その差は18.5Kmとなる。さて現在、JRと名鉄は豊橋~名古屋間で熾烈な速度競争をしているが本稿では取り上げない。

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闇鉄「淡い冠雪」

関東の友人から「闇鉄」との撮り鉄の中での小分野名(渾名?)を頂きましたので、今後それで行きます。(笑)
京都駅の辺りで雪が積もるのは年に数回です。従って今年は2度目の出動となります。満月が優しく照らしていました。

サンライズ瀬戸・出雲、258系、5031M

サンライズ瀬戸・出雲、258系、5031M

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