▲ 13:01 ガラタ橋の袂から出るフェリーで、ご一緒になったとっても可愛いお嬢さん。
カモメにパンくずを投げながら、一緒にしませんかと声をかけてくださいました。今からカドゥキョイに住まれる友達の家に遊びに行かれるとかで、英語の会話勉強をしたいと乗船中は指さしながらイスタンプールを案内してくださいました。わずかな間でしたが、楽しい時をいただきましてありがとうございました。
活躍する103 〔1〕
“国鉄型”と言われる車両は、根強い人気があるようだ。とくに京都・大阪では、首都圏で消えてしまった車両も、国鉄色をまとって頑張っている姿が見られる。なかでも昭和37年度から20年余りに渡って3447両が製造され、国鉄電車の最大製造両数を誇る103系は、首都圏では、平成18年3月の常磐線快速線の運用終了で見られなくなったが、JR西日本ではまだ活躍が見られる。格別に電車に興味も示さなかった私も、業務もあって昨年来から103系の撮影を行なっていた。そのなかから、吹田総合車両所の奈良、鳳、森ノ宮支所の103系の活躍を見てみよう。
奈良支所の103系
奈良支所には6両編成が3本、4両編成が13本の計70両の103系が在籍し、カラーは「ウグイス色」と呼ばれる黄緑6号で、前面は、JRマークも加えた白帯を巻いている。ウグイス色は、103系で最初に使われた車体色だ。山間部の走行もあり、ウグイス色だけでは識別が困難という理由で、国鉄時代に黄帯が巻かれ、JR化後に白帯となった。6両編成は、201系と共通運用で、関西・おおさか東線で使用、4両編成は奈良線で使用され京都駅に顔を出す。また4両編成×2の8両編成は、関西・大阪環状線で使用されている。今回、紹介するのは、その8両編成で、平日の朝夕のみに大阪環状線を走るウグイス色の103系だ。
▲大川を渡る 桜ノ宮 運用は、奈良を7時06分に出る天王寺行き区間快速321Yから始まり、関西、大阪環状線外回りで天王寺へ向かう。天王寺からは、そのまま環状線内を外回りで周回し、都合3周半して京橋に終着、森ノ宮支所に入区するもの。昼間は、同支所に留置され、夕方に出区し、京橋16時46分発の内回りから始まり、大阪環状線を3周半してから関西本線に入り、区間快速2460Yで加茂に向かうもの。
大阪環状線をメインとする森ノ宮支所の103系は、すべてオレンジ色、体質改善40N工事の高運転台車であり、奈良支所の103系は、全盛時代の103系を彷彿とさせ、大阪環状線で異彩を放っている。
京急黄色い電車
京急はその走りっぷりから「赤い稲妻」と言われているかどうか定かではないが、本年5月1日から「黄色い稲妻」イェローハッピートレインが走り始めた。既に趣味誌やデジタル情報でご存知と思うが、INUBUSEさんの[47966]「あじさいの花咲く世田谷線」へのコメントでその黄色い電車について言及したところ、「(まだ見ていないので)お目にかかりたいものだ」とのリプライをいただいたので早速発表する。運行状況については京急案内センター(03-5789-8686平日7:30~21:00、土日祝9:00~17:00)で教えていただける。なお、京急には「青い稲妻」ブルーインパルス、正式には京急ブルースカイトレインもあり、昨年撮影の京王井の頭線の紫陽花電車と共に関連投稿した。
2014.6.16 新馬場(新馬場のホームで撮影するも列車の位置は800m先に見えている青物横丁との中間である) 快速特急青砥行き 1064~1057(アルミ車8連) ▼ 続きを読む
2014年 遥かなる東欧の旅 Part30 バルカン諸国一人旅 イスタンプールのトラム その3 フニキュレル、テュネル
第14日目 2月28日 その3
① ソフィア18:45(列車)→8:10イスタンプール
② エミノニュ15:36(Tram)→16:04トロビュス16:20→16:30ゼイティンブルヌ
③ ゼイティンブルヌ16:43(Metro)→17:05アクサライ
④ アクサライ17:24(Tram)→17:42エミノニュ17:44→17:54カダタシュ
⑤ カダタシュ18:00(フニキュレル)→18:03タクスィム
⑥ テュネル広場20:22(テュネル)→20:24カラキョイ20:40(Tram)→スルタンアフメット
バルカン半島最大の1,416万人(2013年調査)が住む大都市のど真ん中に公共機関として、地下にフニキュレル(トルコ語でケーブルカー)があるとは驚きです。
T1号線の終点カダタシュ(Kabataş)駅の横からは地下へのエスカレーターがありました。
▲ 17:57 地下ホームに着きました。フニキュレルは、カダタシュとタクスィムの594mを約2.5分で結んでいます。開業なったのは2006年6月29日で、車両はスイスのCWA社製です。
保存蒸機とその現役時代(29)
2014年 遥かなる東欧の旅 Part29 バルカン諸国一人旅 イスタンプールのトラム その2
第14日目 2月28日 その2
14:30 ホテルで一休みとった後、イスタンプールの街歩きに出かける事にしました。
まずはイスタンプールでの市内移動には必需品のイスタンプールカードの購入です。
これがあれば交通機関は全て利用できて割引料金になります。
ちなみに1回券は4TL(約180日本円)ですが、1.95TLと約半額になります。チケットを買う手間も省けますのでとっても便利なのですが、ホテル近くの電停には売っているKioskが見当たりません。困った事です。Kioskを探すためにトラム線に沿って、坂道を下りて行く事になりました。
▲ 朝の到着時と比べると車が動けないほど増えてきています。しかしトラムの走行には支障がないように離れて待っていますので立派なものです。よほどトラム廃止から復活までにルール厳守、交通マナーが徹底されたものと思われます。
続きを読む
近鉄モ400型+特別付録
2014年 遥かなる東欧の旅 Part28 バルカン諸国一人旅 イスタンプールのトラム その1
あじさいの花咲く世田谷線
梅雨の晴れ間の東急世田谷線 先月藤本先輩と写しに行ったとき「あじさい」はまだつぼみでしたが 6月13日にもう咲いているのではないかと思い立ち行ってみました。朝からきれいな青空で、宮の坂駅の「あじさい」はきれいに咲いていました。
宮の坂駅ホームからの写真です。車両は300形306号でレリーフイエロー 世田谷線はすべて300形で10編成すべて違う色となっています。中でも黄色のこの編成は「幸せの黄色い電車」と一番人気の車両のようです。
宮の坂から下高井戸方面に歩き途中たくさんの花が咲いていましたが 山下–松原間でもきれいに「あじさい」咲いていました。 続きを読む
ハルカスその後
お久しぶりです。あべのハルカスも全体開業後は大変な混雑ということで展望台まで行く気は起きなかったのですが先日決心して行ってきました。金曜日の午前中ということもあり、日時指定の入場券をゲットしていましたので待ち時間なしですんなりと入場できました。これまではハルカスを見上げていましたが今回はハルカスから見下ろした写真を紹介します。全てガラス越しとなりますがこれは仕方ないですね。まず東側から下を見ますと、JR環状線・阪和線・大和路線・近鉄南大阪線が全て見渡せます(当たり前ですが)。JRの3線の繋がりが一目瞭然です。
2014年 遥かなる東欧の旅 Part27 バルカン諸国一人旅 ソフィアからイスタンプールへの国際寝台列車(Balkan Express)
第13・14日目 2月27・28日
ソフィア18:45→8:10イスタンプール
2月24日にサラエボを出発してからようやく最終目的地のイスタンプールへと向かうBalkan Expressに乗ることになりました。出発する際は、本当に走っているのか?、時間は合っているのか?、切符は買えるのか?、言葉は通じるのか?等々の心配事が多く不安だらけでビビッていましたが、いつもの調子で何とか切り抜けてきました。旧共産国とも今日でお別れです。明日は文明国のイスタンプールに着けます。
▲ ソフィアからイスタンプールまで(約472キロ)の切符です。運賃は、寝台料金も含んでの58.67Lv(約4,100日本円)と格安です。手書きはなく印字されたまともな切符でした。
釧路近辺 駆け足旅
梅雨が無いと言われる北海道の6月は野鳥や花の観察には最適の時期ですから 早くから航空券や宿を押さえて意気揚々と出かけました。ところが 何でも今年はエルニーニョ現象の影響とかで 7日間のうち晴れたのは1日だけと 昨今のカープの戦いのような旅になりました。新千歳から日高本線、広尾線、根室本線、白糠線、釧網本線、標津線に寄り添うようなルートで中標津までレンタカーで1000Kmを走ってきました。野鳥や花がメインとは言え、鉄分抜きの旅は考えられず 釧路周辺では短時間でしたが しっかり鉄分を吸収してきました。
2014年 遥かなる東欧の旅 Part26 バルカン諸国一人旅 ソフィアのメトロ(地下鉄)、トラムその3
第13日目 2月27日 その3
ソフィア18:45→8:10イスタンプール
15:24 トラムの撮影を一旦切り上げて、メトロを視察してみる事にしました。
▲ ソフィアMetroの公式HPで掲載されています路線図です。開業は1998年1月28日で、現在2路線31キロが営業されています。DC825V、集電は第三軌条方式。
そして、ここМетростанция Сердика(セルディカ)駅では、2路線がクロスしての乗換駅となっています。
地上から地下駅コンコースに下りますと遺跡が掘り出された状態でそのまま展示されています。
ソフィアの町の歴史は紀元前7世紀に始まるそうです。地下には古代からの歴史的埋蔵物が多く、Metro建設では避けて通れない難題でした。出来るだけ残した形でトンネルは掘削されたそうです。 続きを読む
窓から写した駅・列車 -7-
高山線の交換列車
関西からは近くも遠くもない高山線、しかし、撮影には行きづらい線区だった。蒸機の時代、旅客はC58、貨物は高山を境にして、南部はD51、北部は9600、富山口の区間旅客はC11も牽いていた。いずれも、特段の魅力を感じない機種だったことも起因しているのだろうか。
今でこそ、国鉄色に塗られたキハ40系が飛騨川沿いを行く写真などが発表されているが、当時は、発表された写真はあまり見かけなかった。そんな時、私がDRFCに入会した直後のB0Xのアルバムには、高山線の写真がベタベタ貼られていた。しかも、もっとも行きにくい猪谷付近の神通川沿いを行く列車で、よくぞ行ったものだと感心した。何でも、前年の新入生歓迎旅行が富山・猪谷方面だったとかで、DRFCの奥深さを、とくと感じたものだ。
私は、高校3年生の時、所属していたクラブの旅行で高山まで行き、初乗車している。しかし高山~猪谷は、ずっと未乗車区間として残っていたが、一昨年、青春18きっぷで同区間も乗車し、やっと全線乗車が果たせた。その高山線、全線が開業してから、今年が80周年で、いろいろなイベントが行なわれるそうだ。
▲高山線 岐阜発富山行き831レ C58116〔山〕 渚 昭和42年7月 高山での撮影会を終え、急行「たかやま」に乗って京都へ帰る途中、海とは縁のない山のなかの渚駅で、C58の牽く旅客列車と交換した。起点から終点までを忠実に結ぶ、全線を走り通す列車。灼熱の窓の外なのに、風がないせいか、黒煙がまっすぐに上がっている。この撮影時点で、高山線にはDD51が投入されており、一部の旅客、貨物の牽引に当たっていた。 ▲45年後の青春18きっぷの旅、同じ渚駅で「ワイドビューひだ」と交換する。
2014年 遥かなる東欧の旅 Part25 バルカン諸国一人旅 ソフィアのトラム その2
前回Part24を投稿してから次の旅に出かけました。途中で続編を投稿予定でしたが、連日5時起床即行動開始、ホテルに戻るのは22時前後とハードな行程が続きました。ようやく時間が作れてましたが、今度は契約していますサーバー会社は、今年3月より海外からの不正アクセスを防ぐために、海外からのPHPプログラム(Wordpresなど)へのアクセスを遮断しているそうで、新規投稿不可です。以前は問題なく出来ていたので想定外でした。そんなこんなで中休みが長くになりまして申し訳ありませんでしたが、続編を投稿させていただきます。
第13日目 2月27日 その2
ソフィア18:45→8:10イスタンプール
▲ 12:22 撮影地⑤ ソフィア中央駅から市内中心部に入る1,009㎜ゲージ路線と平面交差する1,435㎜ゲージ路線は狭い石畳を行きます。走ってくるのは、1994年にボンから譲渡されたDuewag T4型、9編成が在籍します。
三江線 全線復旧へ
昨年8月の豪雨で大きな被害を受け、現在代行バスが運行されている江津・浜原間は、7月19日に運転再開の運びとなり、陰陽連絡線が1本復活します。今朝の中国新聞の記事をご紹介します。
窓から写した駅・列車 -6-
東海道線電車急行
今年は東海道新幹線開業から50年、と言っても、開業当時は、めったなことでは乗れなかった。料金だけでなく、世紀の新幹線に乗るような“ハレ”の場もなかった。しかも、東海道線には、特急こそ走らなくなったものの、電車急行が、新幹線開業後も残っていた。現在のように、新幹線が開業すると、在来線の全優等列車を廃止するようなことはしなかった。当時の旅行の主流である、均一周遊券なら、自由席にそのまま乗れる。じっさい、私が初めて東海道新幹線に乗ったのは、昭和45年のことで、開業後6年が経っていた。それまでは、全くの在来線ユーザーだった。
▲ 急行「六甲」 浜松 昭和40年8月 東京~大阪の昼行急行電車は、新幹線開業後も「なにわ」「六甲」「いこま」「よど」が残り、とくに「なにわ」2往復は、昭和43年10月改正まで残った。上り「なにわ1号」を例にとると、大阪8時30分、京都9時10分、東京16時30分着と、最適な時間帯を走っていた。ただ、考えるのは誰でも同じで、結構混んでいた。とくに京都からの乗車では座席の保障がない。そこで奥の手を使うことになる。
確かに東京~大阪の昼行急行は限定されていたが、まだ東京~中京圏を結ぶ「東海」が昼行で4往復も残っていた。そのうち2本は大垣発だから、京都~大垣は普通列車で移動し、始発の「東海」にゆっくり座っていくと言う算段だった。直行の急行より多少時間は掛かるものの、この時代は準急だから料金も安く抑えられる。
前置きが長くなったが、その「東海2号」に乗って、浜松に着いたとき、ちょうど大阪へ向かう「六甲」と交換した。「六甲」は、撮影後すぐの昭和40年10月改正で廃止されている。どう言うこともない写真だが、積み上げられた手小荷物、台車、跨線橋、地上駅と、当時の幹線の主要駅の雰囲気が感じられる情景だと思っている。
神足 早暁
梅雨入りし、早速大雨が来襲した今日この頃であるが、昨年のこの時期に総本家青信号特派員さんがデジ青に[34990]「梅雨の晴れ間は近場で撮る<2>」と題して地元長岡京付近をの早朝に走るスーパーレールカーゴ(SRC)を発表された。その際に私も当時は神足であった長岡京に住んでいたことがあり、夜明けの列車を撮ったことをコメントしたところ、それなら載せよと言われ、本日総本家さん投稿と同じ6月8日に拙作を投稿させていただいた。何れも神足(現長岡京)~山崎間での撮影である。
最も早い時間に撮影したのは富山21時40分発の寝台急行「金星」で大阪着は5時である。神足は4時半頃に通過、後部に3両の2等座席指定車を連結している。
西武鉄道 モハ241に寄せて
モハ134+クハ1217/ (42-7-22) 彦根
彦根のお寺でゼミの勉強会があり、始まる前に鉄鈍爺氏と北陸線の田村~坂田間で撮影し、その後彦根車庫を訪れた時に撮影した。
「昭和の電車」は、路面電車が6回続いた後、鶴見臨港鉄道の4扉車、国鉄クモハ32と続いたので4扉車が続くのかと思いきや予想に反して遠州鉄道モハ1が登場した。
その後は東武鉄道デハ5、今回の西武鉄道モハ241と続いているので、今後は戦前の古豪が順次登場するのかも知れない。いずれせよ今後の展開が楽しみである。
田野城会長が「近江鉄道に移籍してからの姿が見たい」と言われているので取り急ぎ記述した。
車両についての解説は、関 三平氏が記述されておられる通りであるが、少し補足すると昭和3年川崎造船所で新製され、当初の車号はデハ5561・5562、サハ5661・5662で、旧西武鉄道を吸収合併し、新西武鉄道発足後の改番でモハ241・242、クハ1241・1242となった。
以前紹介された近鉄モ5201形(旧吉野鉄道モハ201形)は、この車両の影響を強く受けている。
【19154】全鋼車 近鉄5201系 (https://drfc-ob.com/wp/archives/19154)
【19667】吉野鉄道モハ201形→近鉄モ5201形について(https://drfc-ob.com/wp/archives/19667)
続きを読む
秀書紹介 和久田康雄さんの労作
鉄道ファンのための私鉄史研究資料
老人は幼い頃から辞典を見るのが好きで、父親の書棚にあったものを引っ張り出し見ていた。ある日、富国房大辞典の中に「地図」と命名されたものを見付け開いてみると、大日本帝国鉄道全図と名付けられた折り畳みのものがあった。開いてみると当時(昭和一桁)の鉄道路線図があり、官設鉄道は黒、私鉄電化線は赤、私鉄非電化線は青で分類してあったと記憶するが鉄道名の記入はなかった。これでは片手落ちで、私鉄名のあらましを知ったのは中学生になってからであった。それは北大路通で始まった夜店に月遅れの交通公社時刻表が並んでおり、それを買って私鉄名と区間がノートに整理可能となった。高校生となり京都鉄道趣味同好会の一員に加えてもらい、奥野さんから年刊書「私鉄要覧」を教えて貰ったのは同志社入学の1957年で、購入すると共に電鉄の項に夢中になった。
1965(昭和40)年春、鉄道ピクトリアル170号(1965年5月号)から【資料・日本の私鉄】の連載が始まった。執筆者は和久田康雄氏である。ピクトリアル誌を購読するようになったのは中学2年、1952年・通巻№.13号からだが、今回の執筆者の名前を誌上で認識したことがない。どのような経歴の持ち主なのだろうかと関心を抱いたまま毎号が楽しみになった。まえがきでは「過去にわが国にはどのような私鉄があったのかということは、これから研究をはじめようとする方や地方に住んで資料の入手の困難な方には、なかなか解り難いことと思われる」。と記されている。安楽マニアを決め込んだ老人にはもってこいの資料となり、日常生活に追われる中で有難く拝読させて頂いた。内容は日本の営業鉄道として馬車軌道から起され、人車軌道、蒸気軌道、内燃軌道、電気軌道、蒸気鉄道、そして内燃鉄道、電気鉄道、特殊鉄道の順であった。掲載は210号(1968年6月号)迄、この間20回に及んだ。
この労作は連載終了と共に冊子となり、【資料・日本の私鉄】と名付け鉄道図書刊行会から上梓された。老人は即座に飛びつきオーム社書店に申込んだ。奥付を見てびっくり、著者は1934年生まれ、運輸省の方で赤門鉄路クラブ会員とある。ありゃ「てっちゃん」ではないか、老人より4歳上のお兄さんで、どんな方だろうか、との思いを持つに至った。上梓された図書には第2部として都道府県別私鉄分布表、年度別私鉄増減表、50音順私鉄名称索引、地方別私鉄路線図、日本の私鉄参考文献が添えられており、中でも私鉄名称索引はとても嬉しかった。
1994年正月、恒例行事となっている老人の生家、京都市下鴨の実兄宅に新年の挨拶に出向いた。杯を重ねるうちに「君らの同好会も認知されたなあ……」と、兄は【私鉄史ハンドブック】を取り出した。「あれ、何処で仕入れてきたの?オーム社書店が店を閉めたのでピクに申し込もうと思っていた」。「暮に梅田の旭屋書店に立ち寄ったら、店頭にあったので買ってきた。知っていたのか?」。「ピク586号に郵便振込みの申込書があり、近く払い込む予定にしていた」。「19ページ冒頭に湯口徹「三菱鉱業美唄鉄道」(急電101)となっているぞ」。以下、湯口兄18、田口4、重沢兄2、沖中16鉄軌道で参考記事枠に名前を連ねていた。
この時のハンドブックは、先に和久田氏が上梓された【資料・日本の私鉄】を推敲されたもので、地方運輸局管内別に整理番号を付与され、当該私鉄の誕生からの経過を辿ったもので、1968年版を更に進化させたものであった。以来、この書は老人の座右の書となり、今日に至っている。また、老人は1988年に日本路面電車同好会に入会、和久田氏がこの会の重鎮である事を知った。
2000年早春、総本家こと福田君共にJTB Can Books「京都市電が走った街 今昔」を制作した。発売されるや和久田氏から来信があった。「27ページ、東山三条西入ルの耳鼻咽喉科は鶴岡医院と思われるがどのような関係なのか、そうであるなら縁類に当たるように思うが……」と。老人はびっくりした。従姉妹である鶴岡夫人に尋ねたら、和久田氏の奥さんが鶴岡先生と従兄弟関係になると教えられた。後に鶴岡先生の告別式で、実兄と共に挨拶に向った。ハンドブックについてはその後、内容についての正誤表、追補を2度に亘り和久田氏から頂戴している。
そして今回【鉄道ファンのための私鉄史研究資料】が電気車研究会から上梓された。氏から「1993年に刊行した【私鉄史ハンドブック】を全面的に書き改めたものであり、その前身は1968年に刊行した【資料・日本の鉄道】であります」、との書状が送られてきた。1968年に刊行された時、「東大在学中で大学図書館に保存されている書類を写し取ったのが最初だ」と、あとがきに記されていた。それから勘定すれば60年余取り組んでこられたことになる。書状には「私自身が今年80歳を迎えたことを祝う意味を込めて……」とも書き添えられている。
さて本書は1882 to 2012年の私鉄が取り上げられている。日本最初の私鉄は日本鉄道1883年3月28日開業で、区間は上野-熊谷(現JR東日本・高崎線)である。最新の開業区間は名古屋市(地下鉄)櫻通線(6号線)2011年3月27日開業で、区間は野並-徳重4.2kmである。関西では阪神電気鉄道(西大阪高速鉄道)2009年3月20日開業で、区間は大阪難波-西九条3.8kmである。これらは1887年の私設鉄道条例、1890年軌道条例に始まり、現今の1987年施行の鉄道事業法に括られた日本の鉄道事業のすべてを収録されたものである。当然のことながらJR旅客鉄道、日本貨物鉄道、第三セクタ-鉄道も含まれているが、JR旅客及び貨物の内容は(省略)となっている。参考文献も私鉄ごとに紹介されており、現今は勿論、後世に名を残す名著として皆さんに推薦させて頂く次第である。
発行所:(株)電気車研究会、定価:本体2,685円+税、書店にない時は申し込めば入手可能である。
老人は体調不良のため皆さんに紹介するのが1ヶ月遅れとなってしまった。乞うご容赦!