山口線は地福ー益田間が不通のまま 代行バスが日に10往復走っています。そんな中 新山口ー地福間でC56160による「やまぐち号」が復活するそうです。ごく限られた日だけの運行なのかなど詳しいことは不明ですが、うれしいニュースです。地福駅は島式ホームの最もシンプルな交換駅で、無人駅です。機回しを含め地福駅での折り返し時間は? その間客車の扉は締め切りで乗客はホームに出さないのか? 無人駅での機回しは機関士、機関助士と車掌だけでできるのか? などいろいろと気になります。地福から先 県境を越えて津和野、益田までの一日も早い復旧も望まれます。中国新聞10月11日朝刊記事を添付します。
秋田にまぼろしの電車を求めて
どうも、信貴電の呪縛から逃れることが出来ない。信貴電に関することを調べていく中で過去に秋田で走っていた電車がなにやら関係があるかもしれないのではと感じたのであるが詳しいことがわからない。もやもやとしていたのであるが、ふとしたことから秋田県立博物館で「あきた大鉄道展」を知り、8月25日までは小特集として「機関車・電車のものがたり」で秋田の電車についても展示があるという。ということで、なにか手がかりがないかと秋田へ向かったのである。秋田行きからまもなく2ヶ月になるので秋田弾丸ツアーの一部始終を述べてみよう。
秋田へ行くには特急日本海があれば大阪駅発17時47分で秋田駅には翌日5時32分に着く。しかし、もはやお盆の時期でも不定期で走らなくなったようだ。飛行機以外は新幹線を乗り継ぐか日本海側を特急3列車乗り継ぎでいけるのであるが、どちらも秋田で用を済まして帰ってくるには秋田で2泊しなければならない。しかも旅行代金として高くつく。そして夜行ではないので効率が悪い。残る手段は船便とバス便である。
8月19日、敦賀10時出港の新日本海フェリーの新潟、秋田寄港の苫小牧行「あざれあ」に乗船して秋田へ向かったのである。秋田に到着するのは翌日5時50分の予定である。船旅では時間がタップリあるので、これをうまく利用するに越したことがない。私は日頃ゆっくりと本が読めないので、本を読むことにしている。沿岸を航海しているときは風景を眺めたり、船内をブラブラしたり、本を読んだりと好きなことをしているとすぐに時間がたつ。考えてみればたいへん贅沢な旅であるが、ツーリストJ船室(このクラスは従来の2等船室である。)であれば運賃は秋田まで6800円である。こんなに安い料金で贅沢な気分を味わえるのはすこぶるよろしい。
C57110,C577
鉄道が好きな者、愛している者にとって事故ほど見たくないモノはありません。人は勿論、それが鉄道車両や蒸気機関車の姿におよべはなおさらです。ここに登場するC57110は、準特急さんの記述にある通り、悲惨な事故を経験してしかも、見事に復活を遂げた機関車です。デジ青のこのページ右上に検索用テキストボックスがあります。ここに『六軒駅』と記入して検索をかけて下さい。【7158】『亀山の参宮線事故機』と題した湯口先輩の投稿記事があります。事故の詳細がよく判ります。同時に3両のC51とこのC57110の悲惨な画像が見えます。とりわけC57110の姿は目を覆うばかりです。『台枠がさして損傷がないようだ』とのコメントがありますが、よくぞ復活したものと感心しています。
さて、加太越えの補機はD51が主体でしたが、時にC57も補機役を務めていました。撮影機会が何度かありましたが、下の画像はC57110、貨物列車の補機姿です。なお、この画像は村田屋旅館の物干し台から撮ったもので、手前には10数本の電線が写っていたのですが、すべて削除処理を施したもので、実際の姿とは異なります。
▼関西本線 加太-中在家信号所 貨763レ 補機 C57110 【亀】 1967.05.07 14836
こちらは本務機として。早春の午前6時半すぎです。
▼同上区間 客725レ 機 C57110 【亀】 1966.03.06 12502
変わってC577。有名な築堤を過ぎて亀山に向かう同機です。加太会発祥の日、急行大和を撮影後、一同気が抜けた時にやってきたので、構図もなく慌ててシャッターを切った一コマでした。初冬の午前7時半過ぎ。この列車が終着和歌山市駅に着くのは21時21分でした。
▼同上区間 客742レ 機C577【亀】 1964.12.06 09708
クモハ73383のこと
中国新聞10月8日朝刊社会面に載った記事を転載します。クモハ73383の運転台回りだけを修理・保存するという話です。片上鉄道の吉ケ原駅跡にクモハ73は何だか違和感がありますが、保存に奔走されている方にエールを送ることにしましょう。FUJIMOTO大先生様、このクモハ73383の解説にご出馬をお願い致します。
保存蒸機とその現役時代(16)
和歌山県には3両のC57が保存されている。何れも晩年は国鉄天王寺鉄道管理局管内で活躍した機関車である。
徳川御三家の一つ紀州和歌山城の西端の一角にある岡公園にはC57119が保存されている。C57119は1939年11月三菱(製番269)で製造され、新製後は宮原→白河→高崎第一→大宮へ配属、1949年5月鹿児島→1956年11月山田→1959年5月和歌山へ来て1972年3月に廃車となり1973年3月同地へ保存されている。尚、近接して南海和歌山軌道線の321号も保存されているが、何れも高い柵で囲まれており撮影にはコンデジが必要である。保存のC57119は集煙装置を付けておりとても貴婦人には見えない。岡公園へはJR和歌山駅からバスで10分お堀端徒歩5分である。
2013.8.31和歌山市岡公園保存のC57119↓
1963.8.6 紀勢本線東和歌山(現和歌山)~宮前間を行くC57119[和歌山]牽引の2106列車準急「しらはま」天王寺発白浜口(現白浜)行き↓
JR和歌山線、南海高野線橋本駅から西側の坂道を30分ほど登った所にある橋本運動公園の奥にC57110がこれまた柵で囲まれて保存されている。C57110は1939年4月に三菱(製番260)で製造され、当初の配属は不詳で、戦後の1946年に平配属後→宇都宮→山田(伊勢)→亀山→和歌山→亀山となり廃車されている。山田時代には六軒駅の事故機となりその後復活している。ボイラ端面はC57119同様に角型となりC55に似た顔である。保存状態は悪い。
2013年8月31日 橋本市運動公園保存のC57110↓
1972年9月10日 亀山駅朝7時過ぎの伊勢市行き牽引C57110[亀山]↓
和歌山県のもう1両の保存機C577は田辺市湊(会津公園)に保存されているが、現地で撮影された方がおられたら発表なり、私の方へ添付送信いただければ有難いです。
出ました!“合いの子”43型
ツアーいろいろ
昭和40年代の水島臨海鉄道
西村雅幸氏より8月24日【38958】で、水島臨海鉄道の近況報告があったが、昭和40年代を車両中心に振り返ってみた。併せてK.H.生氏がコメントされているクハ16についても解説したい。
沿革
三菱重工業水島航空機製作所の貨物及び工員輸送を目的として、戦時中の昭和18年6月30日に専用線として開通した。戦後の21年5月に鉄道の管理が三菱地所に移管され、更に22年4月には水島工業都市開発に移された。当時倉敷~水島間は両備バスが運行されていたが、輸送力不足のため旅客輸送が要望され、23年6月地方鉄道免許を取得して営業を開始した。しかし企業誘致が進まず経営不振に陥ったため、27年4月倉敷市に譲渡され、市営鉄道として再スタートをきった。
45年4月1日倉敷市、国鉄、岡山県等が出資して設立された第三セクター水島臨海鉄道に移管された。62年4月1日の国鉄分割民営化により国鉄が保有していた株式はJR貨物に譲渡された。
倉敷市の株式保有割合は35.3%で、代表取締役社長には倉敷市長が就任している。
車両
機関車
DD503/ (44-3-19)
35年日立製作所製の45t機で、当時在籍していたDC501(→別府鉄道DC302)、DC502(→茨城交通ケキ104)の追番で503が付番された。機関はDMH17S(240PS)を2基搭載。
続きを読む
同志社・関大・大市大対抗模型運転会
方言
特急「つばめ」や「はと」の頃、東京と大阪を同時に出発した列車は浜名湖の鉄橋あたりですれ違ったと聞いたことがある。在来線の同区間は556.4Kmでその半分278.2Kmは鷲津と新所原の中間になる。中間地点よりやや東京寄りの浜名湖の鉄橋ですれ違ったとすれば、西側に勾配区間があることと停車駅の数の影響があったものと思われる。新幹線はどこですれ違っているのであろうか。
2010.9.1新居町~弁天島の浜名湖橋梁を行く豊橋行き117系とそれを追い抜く新幹線↓
私は現在東海道五十三次徒歩の旅を続けている。これをやっていると青春18切符の早いこと、安いこと、便利なことを痛感する。さて、その徒歩の旅であるが、先日、新居と二川の間にある白須賀宿にある休憩所で地元の古老と話す機会があった。以前から興味のあった各地の方言についてこのあたりは大きく分けて関東系と関西系の言葉のかわるところではないかと思って訊いてみた。答えははっきりしなかったが、舞坂宿と新居宿の間の東海道は渡船で渡ったとのことで、多分この付近で日常の往来が途切れていたのではないかということであった。また、二川の古老は言葉は浜松に近いが買い物は豊橋であるとのこと。言葉にも山頂というものがあるような気がするが、交通が発達した現在は山頂の両側の往来が頻繁となり、さらに全国的に同じ言葉になってきたような気もする。豊橋に来ると名鉄沿線になるので名古屋弁と思っていたが、岡崎あたりは三河弁という。三河弁がどういうものかよくわからないが、名古屋とは違った言葉があるのであろう。関東でも横浜の「〇〇じゃん」と山梨の「〇〇ずら」は有名であるが全体的には関東系の言葉の範疇と私は思っている。同じ日本語でも例えば「雨が降ってきた」は関東は「あ」にアクセントがあり、関西は「め」にあり、「降ってきた」もアクセントが違うので同じことを言っても東西どちらの人間かはすぐわかる。私は個人的には名古屋弁は東西どちらとも異なる方言と思うが、テレビなどで街頭インタビューなどを聴くと名古屋の人は標準語に近い感じがする。関東のうどんは真っ黒けの汁であるが、きしめんの汁はどうであっただろう。名古屋弁は大垣までは続くが関西弁が出てくるのはどのあたりかこれも興味がある。個人的には関ヶ原か柏原あたりと思う。
京都駅のC5711
C5711の記事は大変楽しく、懐かしく読ませて頂きました。
当時の記録があったと思い出して探したら出てきました。
例によって、いつ撮ったものかが不明確です。この当時は私もまだ子供で、時間があれば梅小路機関区や京都駅構内が遊び場となって徘徊しておりました。実家がカメラ店なので、新品カメラやフィルムはもらえませんでしたが、中古カメラやお客さんが捨てていったフィルムはふんだんにあり、使わせてもらえたので、ろくな写真はありませんが枚数だけはかなりあります。
そんな中に京都駅山陰線側留置線で待機するC5711を撮ったものがありました。記録では昭和37年頃(1962年頃)になっていますがわかりません。
梅小路機関区で撮ったのは記録がありませんが煙突のクルクルパーが無いので時期は違うのでしょう。どなたか検証をして下さい。
さて、C5711は子供心に他とは違う、なにか特別な機関車だと感じました。それはテンダー周りや、キャブの窓周りにクロームメッキした帯が貼り付けられていたからです。
遠い昔が懐かしく思い出されました。ありがとうございました。
梅小路でのC5711
準特急さま
「保存蒸機とその現役時代」シリーズを毎回楽しみに拝見しております。門デフC5711をたまたま梅小路で撮影しておりました。昭和39年5月24日です。中学3年生のときで 買ってもらったばかりのハーフサイズのオリンパスPen-Dで撮ったものです。
45年前の9月30日
昭和44年9月30日、京都市交通局のトロリーバスが廃止された。
当時を偲び、最終日の様子等を振り返ってみた。
(1)歴史
昭和7年4月1日、四条大宮~西大路四条間1.6kmを開業した。都市交通としてのトロリーバスは日本初であった。
33年7月1日、市電梅津線西大路四条~梅津間2.1kmをトロリーバスに置換え、四条大宮~梅津間を直通運転とした。梅津は後日高畝町に改称した。
37年5月1日、高畝町~松尾橋間1.5kmを開業した。
44年9月30日に廃止され、翌10月1日より同区間を市バス77系統が運行された。
停留所は、四条大宮、四条坊城、四条中新道、四条御前通、西大路四条、西院巽町、四条中学前、梅津車庫前、南広町、高畝町、段町、北浦町、西浦町、梅ノ宮、松尾橋の15箇所で、平日の朝7時~9時までの急行運転中(37年3月27日から市電全廃まで実施)は四条坊城、四条御前通、西院巽町、北浦町は通過となっていた。
交通局では市電と同一の扱いで、運賃は市電と同額であった。
(2)戦後新製された車両
100形6両(101~106)、200形2両(201・202)、300形18両(301~318)の26両在籍した。
100形(101~106)
戦前製の1形の代替に27年4月に101~104、28年7月に105、106が作られた。車体はナニワ工機、車台(シャーシ)は日野ディーゼル製であった。
扉は中1扉で、当初は通常のバスと同じサイズの幅の狭い2枚折戸であったが、後に4枚折戸に改造した。
廃止1年前の43年9月に廃車され、105のみ大宮交通公園で展示保存されたが、50年頃解体されてしまった。
105/(45-1-4) 大宮交通公園
続きを読む
保存蒸機とその現役時代(15)
201両のC57にあって最も有名なのが全盛期に特急「かもめ」を牽引したこの11号機。保存機の説明にも比較的物資に恵まれた時代にうぶ声をあげ、戦前型の部材の良さが目立つと好意的な表現がある。製造は昭和12年9月 製番は1503で主な配属は新製後小郡区で山陽本線で活躍。昭和18年頃に門司に移り以降門司港区が長く、門鉄デフの颯爽とした姿で鹿児島本線で活躍した。その後昭和32年豊岡、35年福知山と移り、山陰、福知山線で活躍した。晩年は豊岡区で播但線の客貨を担当し、昭和47年11月に廃車された。
2013.8.30 豊岡市豊岡中央公園(駅から東側円山川方向徒歩15分)保存のC5711↓
晩年集煙装置をつけた時に改造されたのか煙突が心なしか短く感じる。現役時代に赤ナンバーをつけたことがあったのだろうか。集煙装置と重油併燃装置が外されているのは保存には好配慮。しかし、屋根付きにしては保存状態が良好とは言えない。↓
井笠鉄道 4題
井笠鉄道の保存車両の近況と井笠鉄道バスの路線縮小についてお知らせします。
(1)新市クラッシクゴルフクラブのコッペル3号機とホハ12
福塩線上戸手駅の北 約1.5Kmの高台にゴルフ場があり、その入口ゲート横に保存されています。
この2両は 井笠鉄道廃止後 JR山陽本線備後赤坂駅の北側にあった赤坂遊園という小さな遊園地に保存展示されていたのですが、遊園地が廃園になり、ここへ移ってきたものです。このゴルフ場は急な坂を登った高台にあって、トレーラーに積んでここまで持ってくるのは大変だったろうと思うような場所です。ゴルフ場と何の関係もなさそうですが、ゲート脇のフェンスの中に置かれています。芝生はさすがにきれいに管理されていますが、車両の方はかなり色あせています。
国鉄モハ40型
60年前の宇治川の反乱
60年前1953年、中学3年であった。9月25日から10日間の出来事は今も覚えている。台風13号上陸、京都直撃の報に同志社は全校休校になった。何時のようにトースト・紅茶の朝食を摂った後、出雲路橋近くの生家から鴨川沿いに自転車を走らせ三条大橋に向った。京阪三条駅、電車の出入りウォッチングのためであった。ダイヤ改正で9月1日から7時代下り急行が4連化、9月25日奈良電乗り入れ列車の橿原神宮行急行を見るためであった。7時31分を少し廻った頃、近鉄車モ600+ク500の2連。到着後は川沿い降車ホームで折り返しまで一時の休息。宇治行普通、特急、急行、準急の後を追い7:51橿原急行は3番線から出発して行った。これが見たかったのである。この日はこれにて奈良電は不通となった。木津川鉄橋以南が強風域となったからであった。
この急行は戦後最初の式年遷宮が10月2日挙行されるに際し設定されたもので、大和八木で宇治山田行急行に連絡するが、この頃の急行は榛原通過であったので田舎へ行く便とはならなかった。何時も乗る京都駅発橿原急行は木造200系の運用であり、三条発橿原急行は格上のように思えた。この急行発車後、雲行きは怪しく風が強くなり急いで帰宅したが、ずぶ濡れになったのは言うまでもない。
昼前から風雨は一段と激しくなる。夕方自宅近くの鴨川出雲路橋の水量を見に行ったが、濁流はうねりを見せていた。翌26日朝、ラジオのニュースで宇治川南岸が観月橋下流で決壊した事を知り、奈良電が危ないと思った。それはこの時期、観月橋を渡ってからの車窓で見る稲穂満載の田圃はどうなっているのだろうか、との心配であった。27日朝刊は京阪本線でも異変があった事を報じていた。これらについては京阪電鉄50年史を転載する事にする。
保存蒸機とその現役時代(14)
奈良県西部大阪府との県境に近いJR関西本線(大和路線)王寺には少し離れているが2台の蒸機が保存されている。ここは信貴山電車や台車の研究など最近メキメキ頭角をあらわしてきたどですかでんさんのお住まいの地と聞いている。
一つは王寺駅から大和川を渡った高台にある三郷小学校校庭に保存されているC57160である。大勢の学童がいる中を場違いの高齢者がトボトボ歩くのは恥ずかしい気がするが皆挨拶をしてくれるので余計に恥ずかしくなる。
説明板には主なと断って運転区間が紀勢線、和歌山線と地元を考慮しており、東海道本線も書かれている。交友社のSLNo3を見ると新製後宇都宮、千葉、新小岩と関東で活躍し晩年の1969年に和歌山に転属してその後紀伊田辺に移動しているようだ。東海道本線は走っていたのだろうか↓
“八重の桜”ゆかりの地を訪ねる 〈4〉
山本覚馬邸
少し時代を遡るが、大河ドラマでも重要な舞台となっていた山本覚馬の邸宅について、市電がらみで探見してみたい。
覚馬は、言うまでもなく、同志社の創立時、襄の最大の協力者であり、同志社の名も彼の命名とされている(ただこれは、確かな史実はなく、伝聞に過ぎないようだ)。
明治3年、覚馬は京都府顧問となる。翌、明治4年、八重は京都へ来て、兄である覚馬の家に身を寄せる。京都府大参事であった槇村正直(のちの京都府知事)の邸宅近くに、覚馬は居を構えていた。
八重は、覚馬の家で暮らし、新島襄と結婚後も、寺町丸太町上ルの新居ができるまでは居候していた。ドラマでは、史実かどうか疑わしいが、覚馬の家に西郷隆盛も来訪している。
さて覚馬の邸宅だが、現在の河原町御池付近にあったと言われている。現在、東北角には京都ホテルオークラがあり、幕末にはここに長州藩の屋敷があった。当時の御池通の細い道を挟んで、南側には、加賀藩の前田屋敷があった。明治維新後は上地され官用地になっていた。京都府の重職に就こうとしていた覚馬に、府知事が与えた居宅と想像できる。
大河ドラマの後の“歴史紀行”でも、河原町御池付近にあったと紹介されていた。ただ、現在の河原町御池は、広い交差点であり、その場所を特定することは難しい。
河原町通は明治末期の市電敷設時、御池通は戦争中の強制疎開で、それぞれ拡幅されており、その前は、ごく狭い道幅だった。資料を調べると、河原町通は、通りの西側、御池通は、通りの南側を拡幅していることが分かった。そこからすると、現在の河原町御池交差点の南西角付近と類推される。
▲山本覚馬の居宅があった河原町御池を行く河原町線の市電。覚馬の居宅は画面右、交通指令塔の当たりになる。河原町線は昭和52年廃止、36年も前のことになる。
老いて益々意気軒昂
【老いて益々意気軒昂】
湯口徹兄の新著「日本の内燃動車」が先日上梓された。これで何冊目なのだろうか?
発行者も古くはエリエイ社から始まり、今回は成山堂書店である。同書店は「陸海空の交通がよくわかるシリーズ・交通ブックス」を刊行しているが、その執筆者はその筋の玄人である。
今回、湯口兄は趣味者から「その筋の専門家」に認定されたことになる。
それはそうだろう、2005年大作「内燃動車発達史」、2006年「戦後生まれの私鉄機械式気動車」に始まり、2008年「日本の蒸気動車」、2009年「石油発動機関車」をネコ・パブリッシング社から上梓され、日本全国に「湯口徹あり」と鉄道趣味界に銘記されるようになった。
彼は学生時代から気動車の研究家であった。私が気付いたのは京都鉄道趣味同好会会誌【急電】誌上で、高校2年の時であった。投稿内容からして彼は社会人だと思っていた。
1957年同志社進学の時、経済学部新入生として彼の名があり実は驚いたのである。当時、師事していた奥野利夫さんからも「湯口徹さんが君とおんなじとこへ入ったぞ」、と言われたのを今も覚えている。翌年5月、DRFC旗揚げに際し駆けつけてくれ、羽村兄から紹介され付き合いが始まった。
今回の著書を紐解いてみよう。彼ならではと思う箇所を幾つか探してみる。先ず1頁、第1章・黎明期のわが国内燃動車、「1内燃動車の定義」以下を熟読してみた。彼は若い頃から趣味者として追い求める内容を整理していたのである。趣味者は鉄道の一部分としての車両を対象とする事が多いが、その範囲を定義づけた上で調査活動に入る人は少ないようだ。
私が彼を知って、先ずこれに気付いた。一種の頑固者である。そして調査を始めると徹底的に追いかける。一次資料として鉄道事業者のものを入手するや、それを彼なりの観察記録に基づき裏づけを取っていく。その範囲を広げ、検証を1点に絞ることなく多角的に展開して行くのである。交通博物館の倉庫に続き、国立公文書館での調査を今も続けているのはその証と言えるであろう。