市電誘拐事件!?

京都市内の高架下(コンプライアンスのために場所を秘す)に保管されていた京都市電(700型、500型など)がいつの間にかなくなっているのに近くに住んでいる市電マニアが気づいて大騒ぎになっている。

いなくなったのが分かったのが10日の日曜日。散歩していた市電マニアがいつもの様に高架下に目をやると、トタン葺きの小屋は跡形もなくなりきれいに整地されていた。あわてて付近を探したが行方はようとして分かっていない。また今のところ身代金などの要求は来ていない模様。

だれか行き先を知っている方があれば編集部までご連絡願いたし。

老人の妄言

5月12日読売新聞夕刊に、佐藤優(同志社神学部出身・元外務省主任分析官)が「裏切りマナー」と題した一文を草している。冒頭に『旧ソ連崩壊前後の政争で裏切りを何度も目撃した。共産党に忠誠を誓っていた忠実な官僚が、崩壊後は、反共路線を掲げたエリツィン大統領の側近となった。こういう裏切りをした官僚が過激なほど反共的になった』こと。彼自身拘置所に512日収容されている間、旧同僚や親しくしていた学者などが検察庁に迎合したことも記している。

これは別段今に始まった事ではない。拙老幼少のみぎりの悲しい体験だが、戦時中「軍国おじさん」と称された人たち、教員が、学校だけでなく、町内にも必ず複数いた。当然職場にもいたのであろう。彼らは実に元気に「鬼畜米英」「撃ちてし止まむ」「神風が吹く」と唱えまわっていた。

それはそれでまあいい。新聞という新聞も全部が「軍国新聞」(朝日新聞は旗頭だった)だったのだから。問題は敗戦後で、彼ら、かの新聞は、ことごとくが手のひらを返し、生まれながらの平和主義者であったかのように、実に見事に「親米・平和主義者」に変身したのであった。ある数学の教師は、「英語はすばらしい。名詞に単数・複数の区別がある」といい、中学生だった拙老は、複数といっても、sがつくだけで2でも10万でも同じじゃないか、と感じた記憶が鮮明である。

鉄道趣味(というか、模型)界にもいた。戦時中の「科学と模型」誌に勇ましい「軍国模型観」めいたものを書き続けていたYなる御仁も、たちまち華麗に変身し、「自分は戦時中反戦主義者であった」「空威張りの軍部は着々と敗戦を招く」などと書きだした。流石にTMS誌で山崎主筆にボロクソに非難され、確かその後はピク誌に浜松工場のC53のことなどの短信ぐらいで姿というか、名前を見せなくなったが。

なんでこの欄にこんな事を、といぶかしく思われるだろう。こうした手合いは、別に軍国主義や平和、親米などとは、実は何の関係もない、とあるとき(勿論長じてからだが)気付いた。つまりは、常にその時代、最も有利で余人との差別化がなしえるものを、いち早く(他の人たちより)察知し、人より早く、かつ声高に、あたかもそれが自分の変わらぬ、昔からの信念であるかのように唱えているのである。

しかしそれとて、誰でも出来るというわけではないから、一種の能力、あるいは処世術には違いない。要は鉄面皮であり、恥知らずなのだが、こうした手合いに共通するのは、恐らく自分自身、その不合理性や非道徳性などに「全く」気付いていないことであろう。

で、この話は起承転結とは参らぬが、例えばかつての北海道C62騒ぎを思い出されたい。あの時、どれだけの人間が、集団ヒステリー状態で北海道へ行ったか。行った人間をこき下ろしているのではないから誤解の無いように願いたいが、この一連の蒸気機関車ブームで、俄かマニアがどっさり誕生し、しかも彼らに共通点があった。実は昔から蒸気機関車が好きだった、と異口同音に唱えていた事で、そんならもっと早く写真を撮っていればいいのに、と正直思ったものである。

次の共通点は、これらの「俄かマニア」のエネルギー発散状況が尋常でなく、拙老にはマニア歴の短さ(引け目?)を、ボルテージの高さで一生懸命補い、繕っていたように思えてならない。そして見事に、数年で彼らは姿を消した。要は「流行りもの」にいち早く飛びついただけで、彼らは今は何をターゲットにしているんだろうか。

これも誤解の無いように願いたいが、何をし、何に熱中しようと、他人や社会に迷惑を与えない限り、何時やめようと、その人の勝手である。これは拙老とて全く異論はない。しかし、どうもこういう御仁は、あることに熱中しているその間、なんやらいい訳?めいた、自分を納得させるような言動も必然のようだ。

最近若干下火になった感もないでもないが、燎原の火のごとく燃え盛り続けた「廃線跡訪問記」も、ややこれに似たところがあるように思える。これも別段人に迷惑をかけるわけではないから、何をしようと、書こうと、その人の勝手だし、現実にその本が「猛烈に」売れるのだから、そのようなものが書けない拙老にはねたましい限りである。中には廃止されないと興味の対象たりえないとしか思えない、ある程度の年齢の方も居られるが、彼らはその鉄道が健在な時には、一体何をしておられたのか。彼らも一種の「軍国おじさん」だと理解すれば納得もするのだが。

やれやれ、徹頭徹尾、老人の「怨み節」になってしまった。こんな事を書くとは、即ち先がそう長くないことでありますな。

伊予鉄道横河原線/森松線


森松駅

[2904]ぶんしゅう旅日記で伊予鉄道の鉄道線が出た。つい先頃路面電車の写真をこれでもかとばかりに並べ、多分に顰蹙を買ったばかりだが、横河原線ときては黙っておれない。で、また懲りずに40年以上前の写真を探し、いそいそとスキャンする事に。撮影は1965年7月12日と1966年4月29日。

周知の通り伊予鉄道は四国最初の鉄道(私設鉄道)であり、762mm軌間は我国最初である。機関車始め2軸客車は当初ドイツから輸入され、連結器は螺旋連環式だが、通常左右にあるバッファーが中央にユニコンのような1本のみ。

1911年以降路面電車が加わり、軌間762mmの主要線区は1067mm軌間に拡幅改築し電化。非電化の線区も次々と1067mmに改軌されたのは、単に貨車を直通させるためで、車体も連結器も元のまま。単に軌間を1フィート拡幅したのみで、予讃線が松山に達した以後も貨車の相互直通はなかった。

空襲でかなりの被害があったが、敗戦後1950年に郡中線が電車化したのち、非電化で残った横河原、森松線は1954年蒸気機関車を廃止しディーゼル機関車に。客車、貨車は全部2軸車だったが、客車2両をつなぎ、旧軸箱守を生かしてTR23タイプ?のボギー台車(メタル軸箱とコロ軸受とがあった)をはいたボギー客車に改造。DL1両がボギー客車3両(型式ハフ550+ハ500+ハニフ570)を牽引するのが基本で、ラッシュには重連DLがボギー客車6両を牽く列車もあった。森松線は1965年12月1日廃止。横河原線は松山市-平井が1967年6月10日、平井-横河原が10月1日、それぞれ改築・電化されて今日に到っている。
横河原駅を裏から見る

横河原駅

横河原線の列車

退校時の見奈良駅 駅員はラッシュ時以外無配置

横河原駅の本屋内部の写真がなく、現在の姿と照合できないのが残念だが、森松は撮っており、恐らく雰囲気に大差はないと思われるので、代用させていただく。改札口上部の発車時刻表ではおおむね60分毎の発車で、発駅の松山市では30分毎に横河原、森松行が交互に発車。だから両線が分岐する伊予立花では、上下DL牽引列車が1時間計4本=15分毎に行き交っていたことになる。


森松駅改札口と出札口 7、1019時台以外は1時間1本しか列車はない

森松駅 結構駅員がいるのは当時どこでも同じ 手小荷物も扱っていた



伊予立花駅 上下DL牽引列車が15分毎に行違う プラットホームが低い

入鋏式車内補充券は通常丸穴パンチだが、伊予鉄道では駅改札口で使うパンチを車掌も使っていたのが極めて珍しく、他例を知らない。

江若バスの色

西村雅幸様

高島町駅の模型、細かい所までよく表現されており、感心して拝見しております。江若鉄道OBの方がご覧になれば泣いて喜ばれるのではないかと思います。

江若バスの写真は、鉄道廃止後も東京に引越しするまで、関係者の方とお付き合いさせていただいた関係で、ボンネット車、リヤエンジン車を含めていっぱいあり、ボンネット廃車時のイベント時のお手伝いをさせていただいたりしておりました。ボンネット車の最後の1両がいよいよ廃車になる時、会社の方に半分冗談のつもりで「以前走っていた栗原線と和邇~途中線に走らせたら」と提案したところ、その方から「運用を変更したから」と電話がありました。最終日に栗原バス停で、集落の人達がバスと一緒に記念撮影されているのを見て「よかった」と思いました。

 

滋2い1074(昭和41年式BXD30) 昭和56年2月12日付廃車/廃車後、堅田の名鉄マリーナホテルで送迎用として使用されていたが、現在は近江鉄道の所有となり、彦根市内で「ご城下巡回バス」として使用中。

 

滋2い1082(昭和42年式BXD30) 昭和56年2月12日付廃車/廃車後、濃飛自動車に譲渡され、観光路線で使用中。ボンネット部分が古いものと取り替えられたり、扉の移設が行われためスタイルは変化している。

 

 滋2い1081(昭和42年式BXD30) 昭和57年2月16日付廃車/最後まで残ったボンネットバスであるが、廃車後の動向は不明。多分どこかに残っていると思われるが営業用ではないのは事実である。

 

和邇・途中線の栗原道~下竜華間を走行する滋2い1074

 

栗原線の栗原道~栗原間を走行する滋2い1074

 

白髭神社前(右側は江若鉄道の線路跡) 昭和57年1月17日、お別れイベント走行時

 

朽木学校前の車庫 昭和57年1月17日、お別れイベント走行時

町居付近 昭和57年1月17日、お別れイベント走行時/走行している道路は、京都と小浜を結ぶ通称「鯖街道」国道367号線であるが、今もこんなに狭いのだろうか。

 

坊村  昭和57年1月17日、お別れイベント走行時

 

江若鉄道バスの色を教えてください

江若鉄道高島町駅の本屋がほぼ完成しました。数枚の写真からのでっちあげですが なんとか雰囲気だけは再現できたのではと自己満足にひたっています。この他にも上下ホームの待合所や貨物上屋も完成し、日通事務所、タクシー営業所、保線小屋、便所のキットも出来上がって建物関係は大体揃ったので いよいよベース基板の作成、レール敷設などの工事を始めます。以前にも写真を投稿しましたが、駅前に江若バスが停まっていて、藤本先生から日野BT31型であることを教えて頂きました。BT31の図面も作って自作しようと意気込んでいましたが、曲線の多いバス車体製作は私の手におえず、断念してオークションでボンネットバスを手に入れてこれを江若鉄道バスに変身させることにしました。このモデルは1966年式いすずTSD40型で 国際興業飯能営業所のさわらび号です。江若にこの形式がいたようには思えませんが、色だけを江若風に塗り替えて再現しようと思います。さてここでまた問題はバスの塗装色です。おおよその色は記憶にあるものの、やはりカラー写真があれば見てみたいのです。欲を言えばボンネットバスの場合の塗りわけが判ればなお有難いのですが・・・。写真そのものでも、どこかのWEBサイトの紹介でも 何か参考になる情報を教えてください。今年は車両製作は少しお休みして 高島町駅の完成に向けて慣れない工作に挑戦です。ではよろしくお願いします。 

「みんなの鉄道」写真展のお知らせ

~おいでよ!レールエンターテイメント~と題して写真展が東京の富士フイルムスクエアー1階ギャラリー「PHOTO IS」で開催中です。

6月から弁天町・鉄道科学館でDRFC写真展「鉄路輝く」が開催されますがわれわれの腕前向上にはプロの作品を見ることが欠かせません。東京の六本木なので関西在住の我々はなかなか行けませんが東京支部員の皆さんは見てきて感想などを聞かせてほしいものです。

出品者は、牛山隆信、栗原景、中井精也、真島満秀、持田昭俊、矢野直美、山崎友也

その他、特別イベントも開催されるらしい。入場料無料

【日時】5/27まで。 10:00から19:00

【場所】東京都港区赤坂9-7-3 東京ミッドタウン内 03-6271-3350

1953年3月高校生東京へ

先回が4月22日だったから、半月近く空いてしまったが、その3をご覧頂く。


小海線ホハ12000型から中央線に乗換え、甲府へ。かなり暗くなっていたが駅前の山梨交通を見る。この線は恐らく日本最後となったダブルポールが健在で、その後いきなりビューゲルになったと記憶する(乙訓ご老人さま、それでよろしいかな?)。動力車はすべて雨宮製とは、流石に雨宮敬次郎はじめ雨宮一族の出身地である。1号有蓋貨物電車は単台車でなく単軸受だが、両方の軸箱間に桁を渡し、モーターを支える変わった方式である。ほぼ同時に開発製造された2軸木製ガソリンカーも軌を一にする発想で、両軸箱で機関台枠を支えていた。


身延線クハ58007 甲府

これから身延線を乗り通し、富士か沼津で生まれた初めてのステーション・ホテリング(駅待合室で睡眠し一夜を過す=略してステホ)する計画だったが、途中天気が悪化し大粒の雨が半端でなく降りだした。そのうちダイヤも乱れて長時間の停車後、車掌が土砂崩れがあって不通になったので、この電車は身延で打ち切ると残酷に宣言。

身延駅に放り出されたが、ステホできる雰囲気はなく、疲労困憊していたので、やむを得ず宿を探す事にした。なるべく汚い(当然安かろう)旅籠=行商人や修験者用と思しき宿を選び投宿。16歳にして一人で宿(旅館などといえた代物ではない)に泊まった初体験ではあった。当時安宿は股旅映画のように、隣室との仕切りは襖のみで鍵もなく、貴重品は当然帳場に預ける。風呂も家庭用に毛が生えた程度のもので、1人が上がると女中さんが次の客に入浴順序の到来を告げ、愚図愚図していたら間引かれてしまう。宿賃は2食付で確か350円だったか。だから食事のグレードなんぞ知れているが、それでも家を出て以来はじめての、夕食らしい夕食ではあった。

翌朝になると、多少ダイヤは混乱していたが、幸い電車は動いていた。しかし天気が悪くカメラを取り出す気も起こらないほど。幸い東海道線まで出、沼津に着いた頃には回復した。凸型(流石に戦時型からは多少改修されていた)のEF13を初めて見、構内ではB6―型式2120のトップナンバ-が入換をしていた。B6は東京の周囲、大崎や田端等々にイヤになるほど、掃いて捨てるほど入換に従事していた。


EF1318 

EF1319

EF1318

EF57

モハユニ81も初めて見た
関西では見られない第一次型クハ86 金太郎腹掛けが大きくなっている
2120のトップナンバー

16連の湘南電車にもお初にお目にかかった。TMS誌で「東西電車自慢」があった際、東京方の赤井哲郎が、関西の80系急行電車に対し、「4連、確か4連でしたね。こっちは16連ですぜ。4倍ですぜ」と書いていたのが忘れられない。当時京都-神戸間の急行電車にはまだサハがはさまらない4連だったのである。


駿豆鉄道軌道線7

駿豆鉄道軌道線17

沼津駅前から路面電車が三島まで伸び、本線に接続していた。旧東海道に併用したのんびりした路面電車は、花巻電鉄鉛線は当然として、秋保電鉄(のち仙南交通)、松本電鉄浅間線と共に、大いに小生のお気に入りとなり、その後何度か訪れることになる。

2009年青春18きっぷの旅 Ⅳ-Ⅴ Part3 伊予電

① 宇和島6:17(626D)→8:36伊予市 キハ185-3103+キハ185-3106
伊予市駅で下車後、いつものように駅前の朝市場で、食い物を物色後に隣接する伊予電郡中港駅に着きました。駅は、それほど古くはありませんが、掲示板は、ご覧のようにレトロを残しています。   

運賃表を見ると、全線乗車するには、結構な運賃です。市内線では、1日400円全線乗車券(3月末までは、300円)が発行されていますが、残念ながら、郊外線には、1日乗車券の設定は、ありません。終点まで600円の切符を購入しました。 続きを読む

続:見に行くよりあらしません

高校同級生の葬儀ありで、西院着は11:40、やれやれ間に合った。やってきた準急最後部でロートルカメラを取り出しスタンバイ。桂到着、上りホームに7人。意外に少ない。そのうち1人は友の会のS君。「撮る位置違うやないか」と言えば、「さっきまでそこにいました」と。下りホームは3人。4人目と思っていたら「今日は、お元気ですね」、と声掛けあったので振り向いてみると関鉄の成瀬伸夫氏だ。仲間と2人。そしてもう一人。対岸はさらに増えて12、3人。特急の後追いで8300系6連が列車標識を「臨時」でやってきた。「あらしません」ではなく「ありまっせ」。

一仕事済ませて14:50に桂駅跨線橋へ。早いので中華料理屋で車庫配線眺めながらチビリチビリ。15:40に支払いすませ先に眼を付けておいた場所へ行ったら40ぐらいの先客あり。ホームから逃げ出してきたのかと思い声掛けしたら、「朝はホームで夕はここですよ」とサラッとおっしゃた。それから15分ばかり昔話のやりとり。本日は8304、8311、8313・6Fの順で6300系の戦列に加わった。成瀬氏も「河原町方面からの入れ込みより、特急からの乗り換え客の方が多いですょ」とおっしゃっていた。ならば河原町へ上らすより、その昔のように長天へ準急の後追いとし、河原町発の臨特接続とした方が、JR対策にならないかと思う。ちなみに今回の臨時列車、途中停車駅は烏丸、桂~嵐山間です。H.M.なし。

懐かしくて涙の出る映画

これをみて下さい。「大いなる驀進」

三国連太郎のカレチ、中村嘉津雄のレボ、その他中原ひとみ、佐久間良子など往年の美男美女も見物ですが主役は20系さくらとC62,EF58です。この数年前に作られた「大いなる旅路」は映画館では見逃しましたが主役は8620でした。これを見たあと、下に並んだアイコンの中で「紀勢線開通」もぜひみて下さい。

http://otou96.iza.ne.jp/blog/entry/1019371/

都電荒川線 8800形 営業運転開始

4月26日(日曜日)都電荒川線待望の新車、8800形(8801、8802)が営業運転を開始した。当日は荒川車庫で9時30分から出発式が行われ、交通局長、荒川区長、荒川区議会議員等の長い挨拶が延々と続いた後、9時59分発早稲田行(8801)、10時発三ノ輪橋行(8802)から営業運転を開始した。ロギング太郎さんと出発式の様子と、営業一番電車の撮影のため荒川車庫に赴いたが、ざっと500人位の人出でごった返していた。営業1番電車は、早稲田行を諦め、三ノ輪橋行を先回りして町屋駅前で撮影したが、ここでの撮影者は我々2人だけであった。

同日から6月7日まで限定1000枚(売り切れ次第終了)で「8800形デビュー記念・都営まるごときっぷ」が発売されたが、絵葉書、レジャーシート、クリヤーホルダー、マグネット、お菓子のオマケがついていた。

昨日、出勤途中に町屋で途中下車して、大塚駅前行の8802に荒川車庫前まで乗車したが、内装や座席間に取り付けられた黄色のスタンションポール等は、JR東日本のE233系に通じるものがあり、車内の蛍光灯は8500形がケース付き連続構成に対し、剥き出しの1本おきと簡素化されていた。

8800形は本年度5両と来年度5両、計10両作られ、代替に7500形が廃車される予定である。昨日、本日とフレックスタイムを使用して、朝のラッシュ時間帯を2日間連続で観察したが、7500形は、大塚駅前、町屋駅前、王子駅前、荒川車庫前で折返しの区間運用が多かった。意識的なものか、「たまたま」なのかは不明である。

都電荒川線は、これから沿線のバラが咲き始め、撮影には最適の季節となる。8800形、レトロの9000形、間もなく姿を消す7500形の乗車と撮影を兼ねて是非訪れていただきたい。

 

出発式準備  荒川車庫  2009. 4.26

三ノ輪橋行営業運転の1番電車

 

記念都営まるごときっぷ

 

レジャーシート

 

マグネット

 

お菓子の包装紙

 

町屋駅前で折り返し大塚駅前行となる8801  2009. 4.30

 880   荒川車庫前  2009. 5. 1

 

8802   荒川車庫前  2009. 5. 1  (向きが逆になっている)

行ってみるしかあらしません

阪急河原町・嵐山間に直通臨時列車が5/2~5/6間、運転されます。発車時刻は次のとおり.

河原町発 10:42、11:02、11:22、11:42、15:42、16:02、16:22、17:02、17:22、        所要時分23~24分

嵐 山発 10:09、10:29、10:49、11:09、11:29、15:10、15:29、15:49、16:09、16:  29、16:49、17:09
所要時分22~23分 使用車両は一般車6連、6300系ではありません。HMについては不明

*5/16、5/17、5/23、5/24、には天下茶屋~嵐山間に臨時列車が、1往復運転されます。

(往路)天下茶屋10:19-地下線は普通-天六10:35-桂11:14-上桂11:18-松尾11:21-嵐山着11:24 他は発

(復路)嵐山16:32-松尾16:35-上桂16:37-桂16:43-天六17:19-地下線は普通-天下茶屋着17:36 他は発
使用車両は一般車6連。2300系で運転されることはありません。以上お知らせします。

2009年青春18きっぷの旅Ⅳ-Ⅴ Part2 予土線

初めて乗車した予土線の印象は、忘れられません。山の多い日本では、近くの保津峡をはじめとして、山の渓谷に沿って、蛇行しながら走る路線は、たくさんありますが、いずれも狭い。一方、四万十川は、渓谷でありながら、広くてゆったりと、流れているように感じられました。
その感じを、ファインダーから見たいと、第1回目に乗車した時に、ロケハンしておいた撮影地を訪れました。

4月3日、宇和島駅前でレンタカーを借り、予土線沿いの道路を走りました。北宇和島駅~務田間6.3キロが、最初の撮影地です。車窓からは、最高30‰もある勾配の連続を走る様子は、圧巻でした。今回は、山桜も満開です。

しかし、撮影地に行き着くまでには、難行しました。道路との交差がなく、線路へ上がる土手は、急坂すぎて老力では、登れません。それでも、空き地を見つけて車を止め、滑りながらも、よじ登りました。若い頃なら、何でもなかったでしょうが、足腰が弱ってくると、撮影地に行くにも、時間と苦労が必要となります。列車3本の撮影を予定していましたが、1本は、足が進まず、撮影目的地に着けずで、撮り逃がしてしまいました。

次の撮影地は、四万十川の支流の吉野川沿いを、並行して走る真土駅~江川崎駅間です。トロッコ列車を狙いました。1日1本の列車です。撮り逃がすわけには、いけません。時間がありましたので、前もって撮影場所を確認しました。そして、通過時間を読むと、何回は、追い越しての撮影が可能と、分かりました。山間の道路ですが、通過車両も殆どなく、列車が駅に止まる時間中に高速移動で、シャッターチャンスを掴みました。今回の撮影時は、途中から曇りだし、雲が厚くなってきました。日光が当たらないので、折角の山桜や新緑が、ぼやけてきて、ファインダー内から見る、写真の奥行きが、消えてしまいましたので、山間での撮影を中止して、夕焼けの下灘に向かいました。

3回目の撮影時は、それから6日後の4月9日となりましたので、山桜は、散りだし、葉桜模様でした。春霞ながら、晴天に恵まれての撮影ができましたが、絶好の撮影場所なのに、山間での撮影に適したわずかな時間には、列車の運行がなく、残念な思いをしました。自然の中での鉄道撮影は、何度撮っても難しいものです。SL時代は、温度と風に、大きく左右されました。驀進するSLの煙の出具合が、違ったからです。

煙がなくなったとは言え、同じ場所で撮っても、季節、時間、天候、特に撮影条件に不可欠なライティングは、自然任せです。シャッターチャンスや、撮影角度は、その人のセンスとなって、味付けとなりますが、センス不足の小生には、運しか良い写真を撮れる要素は、ありません。運を掴むには、1回や2回の挑戦では、とても無理な話です。下灘と、同様に来春のリベンジを誓いました。 Part3 へ続く

1953年3月高校生東京へ2

先回(2643)でとんだミスというより、致命的に拙老の(遅進行性らしいのがせめてもの救い?)アルツハイマーぶりを露出する大ポカがあった。なにしろ1年間違えたのである。すなわち、1954年3月ではなく、1953年3月、高校1年から2年になる春休みであった。従ってタイトルも変更を余儀なくされた。歳はとりたくない。

ン千円を上野駅個室の「奈落」に落とし、意気阻喪して一人京都に帰った相棒と別れ、当方も一人で上野駅で23時発夜行各停直江津行327レを待つ。大分後まで、大阪や上野駅では夜行列車を待つ客のため、鉄道弘済会が風呂用みたいな木製の小さな椅子を10円で貸出し、改札の大分前に回収するシステムが存在した。10円も惜しい高校生は勿論拾った新聞に腰を下ろした。横では絶え間なく手小荷物を満載したカートを何両も連結した牽引車が忙しく往来し続ける。

小諸着は4時24分、震えながら待った小海線初発は5時51分の2レ。この時点では列車番号にディーゼルカーを表すDは付いていないが、キハ41310であった。東小諸のみ通過し、小海着7時05分。ここで113レ(C56128)や6レを撮ったが天気は悪い。小海9時52分発162レ(C56100)に乗車して、憧れの小海線走破を目指した。


キハ41310 (←キハ41210←キハ41088) のちキハ0411 天然ガス車から勾配線区のためDMF13装着に改造し300台に 最終倉敷市交通局キハ311→水島臨海鉄道キハ311

C56128牽引113レ 客車はすべて木製中型車で、小海から2両が増結された

116レ 同じ列車が小海を堺に列車番号が113レに変わる

C56132牽引貨物列車
期待の野辺山―清里―甲斐大泉間は、致命的な睡眠およびカロリー不足で、扉を開けたデッキで頑張ったがともかく寒く、意気は上がらず、上野で挫折した相棒の跡を追いそうだった。人影などあるはずのない荒漠たる野辺山原野には、ただただ溜息ばかり。明治期警官隊に追われ、襲撃された群馬県自由民権派の一団がこの地で壊滅したとは、はるか後になって知ったのだが。


小淵沢到着の162レ


ホハ12238←ホハ7108 妻面に窓のあるタイプ

重苦しい鉛色の空の下、ともかく小海線を走破して、甲府、身延線を経由して、今晩は富士でステーションホテル(略してステホ=駅待合室で一夜を過す)予定である。

京阪のポスター???

京阪電車に乗るとき、こんなポスターに目が行きました。これってなんか変ではないですか?

快速急行・通勤快急共に3000系の三扉車で運用していますからこのポスターの言いたいことは「足下の黄色の△(8000系二扉位置)とみどりの△(特急に三扉車を使ったときの中央扉位置)でお待ち下さい」です。

「または」を使うと「どちらか」の意味になり混乱するのでは?と思いましたが皆様はいかがでしょうか?

この場合は「足下の黄色及びみどりの△位置でお並び下さい」でいいのではないでしょうか。

2009年青春18きっぷの旅Ⅳ-Ⅴ Part1 祝時刻表1000号&下灘

祝時刻表1000号!
今日朝のTVを見ていると、4月20日発行の時刻表は、発行されて84年、1000号になったと、特集をしていました。見られておられない方のために、知られていないエピソードとして、

① 間違えが、あってはならない書籍なので、校正が大変ですが、未だ、間違えはない。
② 時刻情報は、増える一方だが、重さは、変わっていない。これは、第3種郵便としての認可範囲の1kgを超えないためです。
③ また、超えないための苦労として、紙の厚みを薄くしている。
④ そして、紙を薄くすると、透けるといった新たな問題が生じる。このために、両面印刷の際に、表裏の印刷をダブらせて揃える事で、見えにくくなるのを、防止する対策をした。お手元にある時刻表を、透かせて見てください。確かに、外枠が、裏表とも揃っています。
⑤ 表紙のデザインは、日本の鉄道を続けているが、ただ、ソウルオリンピックの1回のみ韓国の鉄道を題材とした。

今では、インターネットで検索する事が、多くなったので、発行部数も最盛期の250万部から15万部へと減少した等々、以上の事を放映していました。 私も。以前は毎月買っていた時もありましたが、会社でも買っているのと、だんだんと高くなったので、今では、3月の時刻改正と、青春18きっぷ利用時しか、買うことがなくなりました。 しかし、旅に出る際には、パソコン、デジタルカメラと同等の重さになる時刻表は、ずしりと重く、老体にはこたえます。

夕陽が見える海に、最も近い駅の下灘駅から見る夕陽

夕陽が見える海に、最も近い駅の下灘駅から見る夕陽

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2009年青春18きっぷの旅Ⅲ Part7 伊野→帰宅

 翌朝、お世話になったお礼を言って、伊野駅に向かいました。高知駅で、一旦降りて、まだ未乗車の『とでん』の桟橋線乗車と、撮影です。

 帰宅までの行程です。今日も各種9列車を乗り継ぎます。
① 伊野9:24(736D)→9:47高知 キハ1020+キハ1016
② 高知13:21(5836D)→13:40後免 キハ9640-4
③ 後免14:02(248D)→16:31阿波池田
キハ32-20+キハ32-18+キハ3217
④ 阿波池田16:34(4252D)→17:18琴平 キハ32-19
⑤ 琴平17:25(1274M 快速サンポート)→17:57坂出
クモハ121-12+クハ120-12
⑥ 坂出18:24(315M 快速マリンライナー54号)→19:03岡山
⑦ 岡山19:16(1332M)→20:41姫路 115系6両編成
⑧ 姫路20:57(3316M新快速)→22:17高槻 223系12両編成
⑨ 高槻22:20→22:31長岡京 321系
伊野駅   高知駅

伊野駅 土佐くろしお鉄道車両  高知運転所

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桜三分咲き、大井川鉄道

何年ぶりかの連休が取れたので大井川鉄道を訪れました。DRFCの犬山行きの時は、生憎行事が重なり行けず、皆様には失礼しました。
春休みのお花見シーズンの書入時、大井川鉄道ではSL列車を一日三往復運転する日があります。3月28、29、30の三日間、笹間渡温泉を根城にして撮影して来ました。桜を蒸機のバックにと意気込んだのですが、最後の寒波襲来で三分咲き、わずかにピンク色を帯びた程度、一週間後に満開でした。その代りに桃の花や、早咲きの枝垂れ桜などが代役を務めてくれました。

鉄ちゃんは相変わらず沢山いました。例によってあまり行儀が良くなく、立ち入り禁止のロープなどは越えて当たり前。蒸機には再三にわたり警笛を鳴らさせていました。彼等の移動はみんな車、そのくせ写真はほとんどが線路際で望遠レンズ使用。車どころか自転車もない私は、電車利用と徒歩。山にも丘にもリュックを担いで、楽ではありませんが登れば、そこは人影を見ない絶好の場所。空気もおいしく命の洗濯をしてきました。

先ずは、第一日目28日(土)。9レ旧近鉄車両で笹間渡着、大井川第一橋梁へ。橋梁のイン側は既に一杯、立ち入る余地なし。アウト側は無人。一人で1001レ、ヘッドマーク『さくら』のC108号。5両の客車に電機を従え勢いよく登場です。
この後、河原に降りて1003レとイン側特等席で101レを撮影。

01レ通過後、上りが返ってくるまでに2時間30分あり、なるべく橋梁全体が見渡せる小高いところに登ることにした。
川 の水量は少な目、向こうの山は緑に混じりところどころに桜らしき色も見える。1002レと1004レを撮影。

1004レC11275は電機の後押しもなく、全車両が橋梁上で上手く収まった。私は、全車両を画面に収めるのが好きで、大したカメラでもないのに遠景写真が多い。そして伸ばしてはピントが悪いと残念がっていることが多い。昔、英国の鉄道写真の撮り方なるものを聞いたことがある。車両は最後尾まで入れるべし、カーブでの撮影はイン側で撮るべし、アウト側からの場合は高所から撮るべしなどなど。今時こんな話は通用しないが、できるだけ全車両を入れて撮りたいと思う。

この場所から更に上に昇った場所からは、抜里駅や抜里トンネルまでが一望できる。次回は下り列車をここから撮影しよう。この日最後の撮影は、下に降りて、やはり橋梁を下流側から眺めた。桜は二、三分咲きで今一つ色が足りない。この間からの寒波で開花がすっかり遅れてしまった。その分、蒸気の白さははっきりしてよかったが。この夜は笹間渡温泉(入湯料500円)に浸かり、東屋旅館泊。

翌日は、東屋旅館裏の線路で少し撮った後、家山に向かった。桜の開き方にすごく差がある。ある木は花で白っぽく、ある木はまだ淡いピンクだ。駅を出て左手に進み、以前予約して結局行けずにキャンセルした森屋旅館を過ぎ、駿遠橋を渡り対岸についた。そこから河原を進み、ちょうど家山駅の対岸の河原に陣取った。かなり遠いが、家山川付近にかかるこいのぼりが元気に泳いでいる。これをバックにしようとするのである。昨年真岡鉄道でも試みたが、この時は先着組に占領されうまく行かなかった。今年5月にも真岡に出かけよう。

残念ながら蒸機は絶気。こいのぼりだけの姿だ。この後も川原で1003レを。引き戻って駿遠橋の斜め上から101レを。橋の上を大型観光バスが通過するとかなり揺れる。撮影時と重なると、三脚も無用となる。時差があるようにと祈る。幸い上手くいった

家山駅から少し離れたところで昼食。よい天気なのでビールを注文したら大瓶しかない。半分残せばよいものを丸1本、意地汚く飲み干した。そしてリュックと共に峠を徒歩で登る。まだ元気だ。車など要らない。20分ほど歩いて抜里の茶畑を眼下に一望できる所に着いた。昨日同様午後は高所から見下ろしだ。一時間近く待ち、1002レ登場。

大井川近くの公園風の桜が二、三分咲き、わずかにピンク色。惜しいなあ、あれが満開なら最良だのに。蒸機はトンネルに向いやや上り勾配ながら絶気状態。今一つ面白くない。茶畑には大型扇風機が無数に見える。地元の人の話では、霜除けの扇風機が回転するとかなりの騒音だそう、維持費も結構高いとのこと。
この後、山から急坂を下り、抜里の平坦な茶畑に向かった。昨日に比べ天気は絶好、茶畑中央に八重の桜がある。八重の方が先に咲くのか少し不思議。15レと合わせる。

あと1004レと102レを茶畑で撮り、早々に笹間渡に戻り、まだ日の高いうちから温泉へ。室内の風呂は良いが、露天風呂は湯から出ると寒い、垣根から首を出すと、第一橋梁が近くに丸見え。そうだ、同志社ゼミの次回の酒盛りはここでやろう。関西・関東両方からの丁度中間地点だ。山の空気は良いし、温泉もあり、何よりも蒸機が走っている。2010年春にしようなどと温泉で一人決議。

いよいよ3日目。笹間度近くで2、3撮影。先ずは桃と12レ。

もっと奥地に出かけるのは止して、笹間川橋梁に行く。吊橋を渡ってと考えたが、鉄チャンの車が多い、月曜日だというのに。で渡らずに手前から待つこと40分。幸い風が弱く、川面は水鏡状態。1001レを撮る。山の桜は相変わらず少しだけ。手前の柳や竹の青さもまずまず。

再び笹間渡駅に折り返して旅館裏で1003レを待つ。ところがやってきた団体の貸し切り列車のヘッドマークは興ざめ。なんともセンスのないのには呆れた。喩え貸し切りと云えども、公共に供する物故、もっと上品なものにして貰いたい。いや、公共物を害するようにも見えた。で撮影はヤメ。
すぐさま、18レで抜里へ向かうべく笹間渡駅へ。快晴のこの日、駅前やホームから見える桃の花がひときわ美しかった。

抜里駅近くで101レを撮影。やや逆光だ。

再び家山に戻り、昼食。この日もビールの中瓶なし。
家山駅東側桜並木の土手、家山川の河原、月曜日にも関わらず桜の見物人で満員。大型観光バスでの見物人も。一方鉄っちゃんも多数。その間で上り蒸機牽引列車を3本。初めに1002レを。

最後は101レのタイ塗装C56。さすがに17本も撮ると、最後は少し惰性気味に撮り贅沢な仕草となった。

好天続きでご機嫌な撮影行であった。次は5月の連休、また真岡鉄道か、鹿島臨港鉄道に出かけます。

青春18きっぷの旅Ⅲ Part6 土讃線2の1

久礼大正町市場

友人が案内を、かってでてくれた土曜日になりました。朝食後、彼の愛車で、土佐の鰹1本釣りで有名な『久礼』に、立ち寄りました。お互い酒が好きなので、まずは、今夜のおかず探しから、始めます。

大魚と航海の安全を願ったであろう、久礼八幡宮近くの地元大正町市場に入りますと、鰹が並べられていました。まだ、初鰹の時期ですので、高い。横に並べられた天然ブリと同じ大きさですが、1本の値段は、ブリが7,000円超なのに、鰹はそれ以上の値札が、付いています。
最盛期になりますと、一挙に下がって1本1,000円前後になります。今日は、ブリの美味しそうな所やら、数々をゲットして、今夜のアテを用意しました。

影野駅、仁井田駅

影野駅、仁井田駅

影野駅通過 南風16号

影野駅通過 南風16号

 最初の撮影地は、影野駅構内です。久礼からの道路は、いろは坂の連続です。鉄道が、25‰の上り勾配とトンネルの連続だったのが、分かります。

駅舎が一風変わった造りをしています。ホームの屋根も変わっています。駅正面には、坪庭もあります。

かって、影野駅から四万十川を渡って、森ケ内まで森林軌道が走っていました。明治43年に全線が開通し、昭和26年頃まで運行されたとの記事があります。最初は、人馬トロッコ軌道でしたが、内燃機関車を使用しておりますので、ご長老先輩は、行かれたご記憶が、あろうかと思います。当時は、いかがだったのでしょうか?思い出してください。

影野駅では、痕跡を見る事はできませんでしたが、伐採した材木の置き場所としたであろう用地は、今でも十分に残っています。

仁井田駅停車 4752D  キハ1015号車

仁井田駅停車 4752D 高知行き キハ1015

仁井田駅発車 4743D キハ1039号車

仁井田駅発車 4743D 窪川行き キハ1039号車

仁井田駅通過 南風20号

仁井田駅通過 南風20号

影野駅からは、窪川方面へと走り、高知県では、最もお米が美味しいと言われている仁井田米の産地仁井田駅構内での撮影をしました。

列車待ちの間、近くのドライブインで、友人お薦めの、ご当地名物の『鍋やきラーメン』を、初めて食しました。煮込んでものびないように硬めの麺で、さぬきうどん同様にコシがありました。

この後は、行く間に見つけた土佐新荘駅~安和駅間で、太平洋をバックに撮りましたが、天候がすぐれずで、青い海とはならず、どんよりとした写真になってしまいました。

他にも、車窓から見た好撮影地は、何ヶ所かあったのですが、この天気では、いずれも期待する結果はでないと諦めて、伊野まで戻り、枝川駅~朝倉駅間での近場の撮影に切り替えました。こちらは、丁度満開となった桜並木を横に、まあまあの撮影ができました。

土佐新荘駅~安和駅 4751D 窪川行き

土佐新荘駅~安和駅 4751D 窪川行き

朝倉駅~枝川駅 南風11号 中村行き

朝倉駅~枝川駅 南風11号 中村行き

同じく 759D 須崎行き

同じく 759D 須崎行き

仁淀川のトラス橋を渡る列車も撮影をしましたが、まだ桜が5~7分咲きで、思ったほどの写真にはなりませんでした。
撮影後は、仁淀川鉄橋を渡る列車が、眺められるという友人お薦めの『かんぽの宿』の温泉につかって、疲れを取りました。
明日は、いよいよ帰京の日です。4日間お世話になった友人と、今回の青春18きっぷの旅の、最後の夜の宴を楽しみました。 Part 7 へ続く