5月12日読売新聞夕刊に、佐藤優(同志社神学部出身・元外務省主任分析官)が「裏切りマナー」と題した一文を草している。冒頭に『旧ソ連崩壊前後の政争で裏切りを何度も目撃した。共産党に忠誠を誓っていた忠実な官僚が、崩壊後は、反共路線を掲げたエリツィン大統領の側近となった。こういう裏切りをした官僚が過激なほど反共的になった』こと。彼自身拘置所に512日収容されている間、旧同僚や親しくしていた学者などが検察庁に迎合したことも記している。
これは別段今に始まった事ではない。拙老幼少のみぎりの悲しい体験だが、戦時中「軍国おじさん」と称された人たち、教員が、学校だけでなく、町内にも必ず複数いた。当然職場にもいたのであろう。彼らは実に元気に「鬼畜米英」「撃ちてし止まむ」「神風が吹く」と唱えまわっていた。
それはそれでまあいい。新聞という新聞も全部が「軍国新聞」(朝日新聞は旗頭だった)だったのだから。問題は敗戦後で、彼ら、かの新聞は、ことごとくが手のひらを返し、生まれながらの平和主義者であったかのように、実に見事に「親米・平和主義者」に変身したのであった。ある数学の教師は、「英語はすばらしい。名詞に単数・複数の区別がある」といい、中学生だった拙老は、複数といっても、sがつくだけで2でも10万でも同じじゃないか、と感じた記憶が鮮明である。
鉄道趣味(というか、模型)界にもいた。戦時中の「科学と模型」誌に勇ましい「軍国模型観」めいたものを書き続けていたYなる御仁も、たちまち華麗に変身し、「自分は戦時中反戦主義者であった」「空威張りの軍部は着々と敗戦を招く」などと書きだした。流石にTMS誌で山崎主筆にボロクソに非難され、確かその後はピク誌に浜松工場のC53のことなどの短信ぐらいで姿というか、名前を見せなくなったが。
なんでこの欄にこんな事を、といぶかしく思われるだろう。こうした手合いは、別に軍国主義や平和、親米などとは、実は何の関係もない、とあるとき(勿論長じてからだが)気付いた。つまりは、常にその時代、最も有利で余人との差別化がなしえるものを、いち早く(他の人たちより)察知し、人より早く、かつ声高に、あたかもそれが自分の変わらぬ、昔からの信念であるかのように唱えているのである。
しかしそれとて、誰でも出来るというわけではないから、一種の能力、あるいは処世術には違いない。要は鉄面皮であり、恥知らずなのだが、こうした手合いに共通するのは、恐らく自分自身、その不合理性や非道徳性などに「全く」気付いていないことであろう。
で、この話は起承転結とは参らぬが、例えばかつての北海道C62騒ぎを思い出されたい。あの時、どれだけの人間が、集団ヒステリー状態で北海道へ行ったか。行った人間をこき下ろしているのではないから誤解の無いように願いたいが、この一連の蒸気機関車ブームで、俄かマニアがどっさり誕生し、しかも彼らに共通点があった。実は昔から蒸気機関車が好きだった、と異口同音に唱えていた事で、そんならもっと早く写真を撮っていればいいのに、と正直思ったものである。
次の共通点は、これらの「俄かマニア」のエネルギー発散状況が尋常でなく、拙老にはマニア歴の短さ(引け目?)を、ボルテージの高さで一生懸命補い、繕っていたように思えてならない。そして見事に、数年で彼らは姿を消した。要は「流行りもの」にいち早く飛びついただけで、彼らは今は何をターゲットにしているんだろうか。
これも誤解の無いように願いたいが、何をし、何に熱中しようと、他人や社会に迷惑を与えない限り、何時やめようと、その人の勝手である。これは拙老とて全く異論はない。しかし、どうもこういう御仁は、あることに熱中しているその間、なんやらいい訳?めいた、自分を納得させるような言動も必然のようだ。
最近若干下火になった感もないでもないが、燎原の火のごとく燃え盛り続けた「廃線跡訪問記」も、ややこれに似たところがあるように思える。これも別段人に迷惑をかけるわけではないから、何をしようと、書こうと、その人の勝手だし、現実にその本が「猛烈に」売れるのだから、そのようなものが書けない拙老にはねたましい限りである。中には廃止されないと興味の対象たりえないとしか思えない、ある程度の年齢の方も居られるが、彼らはその鉄道が健在な時には、一体何をしておられたのか。彼らも一種の「軍国おじさん」だと理解すれば納得もするのだが。
やれやれ、徹頭徹尾、老人の「怨み節」になってしまった。こんな事を書くとは、即ち先がそう長くないことでありますな。