なにわ筋線いよいよ出発進行!?

新聞の報道によると以前から出ては消えていた幻の新線・なにわ筋線が橋下大阪府知事の肝いりで政府も調査に乗り出したとか。大阪市やJR,南海電鉄など思惑が入り乱れて決定までの道のりはまだ遠いようだが笑い話からはまじめな提案に変わった事はまちがいない。そこで物知りな会員諸氏に教えを請うのだが、はたしてこの線は必要なのか?効果があるのか?作るとしてこのルートでいいのか?費用対効果はどうか?など無知な私にも分かるように教えて欲しい。

素人が考える問題点

①3000億円もかかるといわれるが短縮時間は新大阪から10分ほど

②南海汐見橋とJR難波に接続するが南海難波にはつながらない。南海のメリットは?JRのメリットは?

③おおさか東線との関係は? など

伊予は良いとこ、湯も電車もイヤされる

伊予は良いとこ、湯も電車も

イヤされる

 

伊予鉄道古町車庫は器用な工場で、四国では一番の細工をする工場だと思っている。これには須磨の大人も多分賛同してくれるであろう。図らずも老人も須磨と同じ年に伊予鉄道を訪ねている。1955年8月、前年暮れに母を天国に送り、高校生であった老人は寂しさを癒すために伊予へ向った。善通寺を午後10時頃出発、多度津から夜行列車で西へ向ったのだが満員で、今治までデッキで立ちん坊となった。松山に着くや待合室で暫くぐっすり寝てしまった。目が覚めたのが何時だったか覚えはないが、南堀端廻りで道後温泉へ、そして城北線・古町経由で高浜へ行きその後、三津浜から船で宇品へ渡った。従って古町車庫で「今日は、京都から来たのですが・・・・・・」と名乗り上げはない。

 そして2年後、1957年9月、氷屋のアルバイトを終えるや4度目の宇高連絡船の世話になり四国へ渡った。今度は琴参電車で丸亀へ。同じ筋の夜行列車としたが、夏休み後のお蔭で松山まで座席にありつき、ぐっすり寝る事ができた。バイトの稼ぎでポケットも膨らんでおり、先ず道後温泉に浸かりに行った。その後、古町車庫訪問となり、伊予の電車のあらましを知る事が出来た。今回、大人が吃驚するほど出てきたものが車号順にご高覧に供するとしてくれたので、それに従うことにする。

1号:明治44年、東京天野工場製造

松山中心に、周辺部に勃興した軽便を集約した伊予鉄道は、好調な成績を上げていたが日露戦争後、松山電軌に殴りこまれた。慌てた伊予鉄は高浜-古町-城北経由-道後-一番丁(現城北線より北寄りルート)を改軌・電化して対抗した。営業開始は明治4488日であった。松山電軌は遅れること24日、91日であった。この時、伊予鉄が導入した電車が16号であった。前面3枚窓の上部は弧を描いており、鉄道線タイプながらもオープンデッキのモニター屋根の4輪車であった。写真は戦前に軌道線用にステップ改造後、戦後の昭和30年頃に屋根をシングルアーチ化した姿である。この伊予鉄最初の電車6両のうち1354両は戦災に遭い、この16を改番したものである。昭和35年に廃車となった。

2号:1号と同じ

屋根は昭和33年廃車になるまでモニタールーフそのまま、へそライトは小屋根に上げられた。正面中央窓左下端に少し見えている伊予鉄名物、丸ハンドル型の手用ブレーキ装置である。京都のN電をはじめ大概の明治の電車は、運転台左にある鶴首形のLハンドルがブレーキ装置の相場であったのに、伊予は一味違った。

35号:大正10年、汽車会社東京支店製造

元を糺せば金沢電軌809698。戦中、呉に徴収され8082となったものが戦後解除となり昭和22年に貰われて来た。戦災で20両中9両を失った松山では、まさに干天に慈雨となった。昭和29年に休車となり、いち早く古町車庫東留置線に枕を並べていた。これら3両の屋根のスタイルをレィルロードタイプとアメリカでは云い、モニタールーフやダブルルーフとは言わない。昭和31年廃車。

67号:元大阪市電の木造4輪車の車体

大阪市電は大正~昭和初期の路線網拡大期に明治の木造4輪車の車体を近代化改造し、閑散路線用とした。元呉払い下げ車の整備をした広瀬車両が、自社にあった元大阪市電更新車体を使い、伊予鉄戦災車34号の台車を利用して仕上げたのがこの2両であった。昭和32年には既に休車状態であった。 昭和33,34年廃車。

8号:既に仙台市電、秋保電鉄で述べたので省略。昭和31年廃車

914号:大正12年、自社古町工場製造

伊予鉄は松電と経路が少し異なり、高浜、三津浜の松山の玄関口である港と城下町と道後温泉を繋なげるものであった。松電も三津港と松山市内中心部を結んだため、両社は苛烈な競争を繰り広げた。結果は資本力に勝る伊予鉄に軍杯は上がり、松電の古町付近から南堀端に向かう現在の城南線ルートは改軌されることになった。その時に増備されたのが旧716号の10両である。松電が開業時に新造した広軌車両110号は処分され、その行方は謎に包まれている。

伊予鉄は戦後昭和22年初頭に改番をしているようで、最初の自社電車を12号としているが、38号の付番は転入車とし、その後を自社増備車としている。その増備車716号の10両のうち戦災車は911,154両で,79,810,1611の改番で穴埋めをしている。写真の9,14号は原型で、13号は昭和28年から始まった車体更新後の姿。このグループは全車シングルルーフとなった。昭和3739年廃車。

1518号:昭和2223年、オガタ正機製造

蒲鉾電車第1陣であった。熊本電鉄で見られた完全切妻ではなく、前頭部は少し丸くなっていた。従って蒲鉾形と言って63スタイルとは区別していた。戦災車91115の復旧車で、旧番号を引き継いでいる。先の914号同様、同時期に車体更新をしており車体のスタイルは1号と同じ。蒲鉾車体製造は徳島のオガタ正機だとか。

1921号:大正15年、自社古町工場製造

自社製造増備車第2陣で、第1陣と同型の旧1720号の4両となった。戦災車は201両だけ。17201821と改番された。この3両も車体更新され1号同スタイルとなった。20,21は昭和38年廃車、19は先の1518と共に昭和40年廃車。

2224号:昭和24年、オガタ正機製造

蒲鉾電車第2陣。第1陣同様、昭和3132年に車体更新を受けている。戦災車1520の復旧車で、旧番号を引き継いでいる。昭和3738年廃車。

 

一味違った伊予鉄の丸ハンドル型手用ブレーキ装置だが、床面に対して約30度の角度の丸ハンドルに握り玉が付いており、最初はこれでくるくるまわす。ブレーキが効き始めたら運転手はハンドルの正面に位置を変え、足で歯止め操作と共にハンドルの輪を握りしめ、両脚をふんばり、ぐいと力を入れ停車させた。N電の鶴首型と異なり、腹を打つことなく安全であると思い、しげしげと眺めたものである。伊予鉄オリジナル車20両全てがこうした装置であったと思う。

1957年の訪問時、古町車庫内ウロウロしていたら若者に声をかけられた。藤田照明さんと云い、同じ年であった。京都鉄道趣味同好会に入会してもらい、しばらく文通が続いた。1967年、向日町に転居後、プツンと切れた。

1992年夏に古町車庫訪問の時、社員の方に尋ねたら健在であることがわかった。

 

 今回、和歌山の「蒲鉾型電車」の姿のみの紹介にしておく。

和謖・?の蒲鉾電車

1954年3月高校生東京へ

高校2年から3年になる春休みの1954年3月、中学時代の同級生(高校は分かれた)と2人で東京を目指した。大学生相手の下宿(当時のこととて賄い付き)をしていた親戚が、春休みなら手が空くから何泊でもOKといってくれていた。相棒は荒物屋の息子で、中学生から高校生・浪人まで、年末はずっと彼の店でアルバイトさせてもらっていた。小遣いがなく買えなかったTMS(ピク発売まではこれが唯一の鉄道雑誌だった)は彼から毎月借り、図面をせっせとフリーハンドで写し取っていたものであった。

当然夜行列車利用、北陸・信越本線、東海道・関西・奈良線経由という、最も単純な「一筆書き」ルートなのだが、北陸本線の確か杉津だったか新保だったかで土砂崩れがあって不通。夜行列車は臨時に高山本線経由での運行で、始発の大阪駅まで並びに行った。ホームへの誘導までは順調だったが、編成に17メートル車オハ31が混ざっていたため折角の行列が大混乱し、結局座席は1人分しか確保できず、交代で座る羽目に。

キ607 富山

ヤ41 富山 これはヤ40と共に除雪列車と交信する「無線車」で 勿論真空管による無線基地=右側に高いアンテナが建っており 要は建物代わりである 妻面に電源コンセントがある

睡眠不足の目をこすりながら富山着。随分以前にご高覧に供した富山港線の木製社型電車の大方はこの時の撮影である。富山地方鉄道の電車には当時として珍しい5桁ナンバーがあり、末尾2桁が番号、頭の3桁ないし2桁は馬力数だとは聞いていた。この流儀は子会社の加越能鉄道のディーゼルカーにも適用されていた。


富山地方鉄道モハ12512 125がモーター馬力を表すんだそうな

富山市内線デ3515 富山駅前 木製車で窓下段ガラスにはまだ継ぎ目がある

富山から北陸・信越線夜行経由上野行に乗車。当時の時刻表で見ると富山15時37分発上野終着5時00分の522レだったのであろう。本来米原8時16分始発列車だが、上記北陸本線不通のため米原-富山間は運休で、富山始発であったかと記憶する。今度は間違いなく2人共座れた。

記憶はすっかり薄れてしまったが、ネガに小山で撮った数枚があるので、高崎で下車し、5時31分発快速「おおとね」で小山7時54分着、その後上野に向かったと思われる。どうせなら日本ニッケル鉄道(→上武鉄道)や東武熊谷線を覗いておけばよかったものを、と今頃悔やんでも致し方ない。


水戸線811レC5054 小山 客車7両は全部木製車である この時点C50は京都駅はじめほぼ入換用で本務機は珍しかった

C5777牽引の快速「おおとね」高崎発小山経由上野行

入換機2386

上野では先ずは便所に。そこでカルチャーショックというか、当時の首都の裏口を垣間見る事になった。「個室」の天井は世界中吹きぬけが常識だが、そこに厳重な金網が張ってあった。すなわち、懸命に用足し中棚の荷物への注意が散漫になるのを「隣室」で察知し、それを吊り上げて盗む「タコ釣り」防止網だったのである。

上野で乗車券を買い直し、また夜行で小海線、身延線を経由して東京に戻り、数日滞在する計画だったのだが、相棒がここから一人で帰ると言い出した。実は用心金として親から特別給付されたン千円を、祖母の発案で腹巻に入れていたのを、個室での用足し中に「奈落」に落とし、完全に意気阻喪してしまったのであった。当方は左様な心遣いは一切なし=ほぼ完全な自由放任ではあった=にアルバイトで稼いで旅をするなら勝手にしたらいい。三度のメシは親が食わすが他は知らん、という家庭だったから、羨ましくもあった。

致し方なく以後一人旅となって上野23時00発直江津行327レに乗車し、憧れの小海線に乗車することになる。

1970年韓国

 米手作市様昨年9月の中国韓国旅行のレポートで旧満鉄ジテなどを報告した時最終日の韓国どうなっているのかと言われ、その日は曇天でろくな写真撮れなかったですが、漢江の特急と今回1970年に行ったときの韓国の古い写真のっけます。

漢江をわたる韓国ご自慢の特急2008.9.24

慶州駅ミカサ1970.4.22

水原ナロー混合列車1970.4.24

 

桜を求めて三岐鉄道へ(2)

(祝!「デジタル元祖青信号」復旧。見られないときは一日が終わった気がしませんでした。管理人さんのご苦労を偲びつつ、投稿を続けます。)

桜満開の大安駅付近で撮影を終え、ひと駅だけ戻って梅戸井へ、往きのロケハンで見つけた場所へ向かいます。まず大安寄りのJA横にある桜並木へ。車内から見る限りでは、線路と並行した桜並木はここしかありません。光線もバリ順、待っていると計ったようにすぐに貨物が通過する効率の良さ。

続いて反対側の北勢中央公園口側へ。ここにも田んぼの中をキレイなカーブが走り、午後からはインカーブで定番写真を撮ることができます。電機も去ることながら3両編成20m車の電車も二丁パンタを上げて堂々と通過していきます。

桜並木の横を行く下り貨物 梅戸井~大安

電車は自転車の持ち込みも可能

電車はすべて西武鉄道の中古電車です。2両編成と3両編成があり、先ごろ751系(元西武新101系)がデビュー、代わりに601系(元西武571系)が廃車となり、冷房化率1005%を達成しました。1編成の広告電車を除き、すべて三岐オリジナルカラーに塗られているのも好ましく感じます。
駅に戻ると、初老の駅員が迎えてくれ、あれこれと話し込みます。三岐の駅は、無人の西野尻駅を除き、あとすべての駅が駅員配置になっていて、無人化を進める他のJR・私鉄とは全く逆行する充実振りには目を見張ります。会社としては、近鉄と一体となった自動改札の導入を計画しているようですが、初期費用の高さで実行に踏み切れず、退職した職員などで人件費を抑えて、駅員配置を維持しているとのことでした。そのため、各駅とも整備が行き届き、たいへん気持ちよく駅を利用できます。そして何より、コミュニケーションのある、今では忘れ去られた駅での光景がまだ三岐には残っているのです。今日も、高校の入学式を終えた親子がさっそく駅の窓口で初めての通学定期券を買い求める、懐かしい光景がありました。
しかし、人的なサービスが充足されても乗客減少に歯止めはかかりません。四日市周辺のこの地のこと、工場に通う通勤客も多そうに思いますが、最近の工場は電車線から離れた郊外に立地することが多く、好んで電車を使っても下車駅からの移動手段がなく、電車通勤は皆無に近いと嘆いていました。そこで三岐では、自動車・自転車のパークアンドライドを実施、各駅には無料の駐車場・駐輪場が確保され、自動車・自転車からの転移に期待をかけています。見る限りでは、自動車・自転車とも相当埋まっています。また、自転車は、平日は三里~西藤原間、土日ではほぼ全区間、無料で車内に持ち込めるサービスも実施しています。空いた車内では全く問題はないと思いますが、この日見かけたのは皆無でした。
電車は、富田から車庫のある保々までは30分ヘッド、保々~西藤原間の閑散区間は、ほぼ1時間ヘッドでしたが、2003年に倍のほぼ30分ヘッドに増強、前記のパークアンドライドの実施、“ひと駅いちテーマ”で特徴のある駅、鉄道博物館などのイベントの実施などの手を打ち、下げ止まりの傾向が出てきているのでしょうか。確かに30分ヘッドだと撮影するにしても移動がたいへん楽で効率的です。

桜のなか、電機の魅力に酔い、三岐の魅力に触れた一日でした。

大カーブを行く上り貨物

20m3両編成 北勢中央公園口~梅戸井

一輪の花が印象的な梅戸井駅

 

2009年青春18きっぷの旅Ⅲ Part5 土佐くろしお鉄道

友人から、せっかく高知に来たのだから、是非とも土佐くろしお鉄道に乗って、夕陽の車窓を楽しむように、お勧めがありましたので、復路を夕陽時刻に合わせて、初乗車としました。
土佐くろしお鉄道 安佐線

土佐くろしお鉄道 安佐線

続きを読む

2009年青春18きっぷの旅Ⅲ Part4 とでん

初めて、伊野駅に降り立ち、直ぐに隣接する土佐電の電停に、向かいました。高知には、仕事を含めて何回か来ています。『とでん』は、見ていますが、乗車するのは、初めてです。

とでん いの駅 毎月1日だけだが、100円は安い!

とでん いの駅 毎月1日だけだが、100円は安い!

とでん 路線図

とでん 路線図

続きを読む

桜を求めて三岐鉄道へ (1)

今年の桜は開花時に天候に恵まれ、近年になく花持ちが長くなりました。
今年はどこへ行こうか…。最初は、ぶんしゅうさんに刺激されて四国や、クローバー会の重鎮と小湊鉄道へと考えていたのですが、遠距離は仕事で諦めざるを得ず、以前の掲示板でぷるぷるさんが三岐鉄道の訪問記を載せられていたのを思い出し、青春18きっぷを手に関西本線は富田へと向かいました。
以前にも、クローバー会のメンバーと三岐を訪れたことはありますが、一人で走行写真を撮るのは初めて、まずはロケハンも兼ねて、1000円のフリー切符を購入し、近鉄富田駅3番ホームに停車中の電車に乗り込みます。終点の東藤原までが片道500円ですから、十分にモトの取れる切符です。まず藤原岳をバックに直線区間を俯瞰できる定番の撮影地で撮るため、丹生川で下車。ところが向かっている途中で早くも踏切が鳴り出し、ED45重連の上り貨物が通過。機材を撤収したと思ったら、隣の駅で交換した下り貨物がまた通過と、あまりの効率の良さにニンマリしてしまいます。どうやらこの3月のダイヤ改正で貨物にも変更があったようです。やはり私鉄では珍しくなった定期の貨物列車が頻繁に通過するのが三岐の最大の魅力です。

三里~丹生川間を行くフライアッシュ輸送の下り貨物

廃車の電機も見える東藤原駅構内、セメント工場が背後に迫る

ここで三岐の貨物列車の概要を…。藤原岳から産出される石灰岩を、東藤原駅近くにある太平洋セメント藤原工場で生成し、セメント原材料をJR富田まで輸送するのが、三岐の貨物の主務です。重量貨物だけにED45はすべて重連総括制御となります。戻りの列車は返空もあるものの、一部はフライアッシュ輸送も行っており、特異なスタイルをしたホキ1000を見ることもできます。一時は、中部国際空港埋立用の土砂輸送も行い、他社から電機を購入するなど盛期を迎えます。ピークは過ぎたものの、本業のセメント輸送はなお盛んに行われ、貨物収入が旅客収入を上回ります。電機はED45が8両、前歴は異なりますが、ほとんど同タイプで、重連×3組の6両使用、2両予備となっています。ただ片パンとなりますので、撮るにはパンタが前に出る富田行きの方が絵になります。
早くも上下2本の貨物を撮ったあと、丹生川から乗って終点の西藤原駅まで往復してみます。乗っていると気がつきませんが、北勢線とはほぼ1.5キロの間隔で並行しています。今は同じ会社ですが、こんな地域に元は経営体の違う私鉄が並行しているのは稀有なことです。そういえば、以前、クローバー会の面々と乗り歩きしたときは、三岐の伊勢治田駅で降り、そこから小走りに歩いて北勢線の終点、阿下喜まで行ったことを思い出します。このように歩いて行けるほどに両者は近いのです。セメント工場のある東藤原駅まで来ると、異様な山容の藤原岳が眼前に聳え、構内ではホッパ車、タンク車の入換が盛んに行われています。一転して山間区間を走った電車は終点の西藤原駅へ。駅構内には、ウィステリア鉄道と呼ばれる模型鉄道があり、実物のEL、DL、SLも保存展示されています。

西藤原から乗った戻りの電車で降りたのが大安という縁起のいい駅。駅舎は図書館に併設されており、地域のコミュニティの中心施設としての役割も果たしています。5分ばかり北へ歩くと宇賀川鉄橋があり、堤防は両側とも桜が真っ盛り。バーベキューのいい匂いを嗅ぎながら、つぎつぎに来る電車・貨物を写します。撮り鉄もほんの2、3人、最高の条件のなかで、好きな写真を撮れる至福の時間でした。

重連回送が桜満開の宇賀川鉄橋を行く

電車のカラーも青空によく映える

一時間に一本は貨物が来る電機天国

2009年青春18きっぷの旅Ⅲ Part3 宇和島→伊野

祈りが、叶ったようで、快晴の朝を迎えました。今日は、車窓が評判の 『しまんとグリーンライン予土線』の初乗車です。8時には、駅に行き、発着光景を撮りました。
早朝の宇和島駅 1番線は、さっき到着した宇和島1号、2番線は松山行き4632D

早朝の宇和島駅 1番線は、さっき到着した宇和島1号、2番線は松山行き4632D

続きを読む

思い出のブルートレイン

3月14日のダイヤ改正で「富士・はやぶさ」が廃止され、東京~九州間のブルートレインの歴史に幕が閉じた。総本家青信号特派員さん、893-2さんを筆頭に多くの会員の皆様がその雄姿をカメラに収められたことと思われる。廃止間際には、ごく普通の一般人やにわかマニアを含め、多くの人々がその雄姿を撮影すべく、駅のホームや線路端に押し寄せ、東京駅をはじめ場所によっては罵声の嵐となり、SL末期同様の様相を呈した所もあった。私は決してブームに踊らされまいと思っていたのであるが、なくなるのが判っていて何もしない訳にはいかず、年末から年始にかけて外出の際、時間帯が合えば撮影することにしていた。(列車の通過時間に合わせて外出したわけではない)

私自身はブルートレインのごとく「よそ行き」の特急用の車両より、「普段着」の一般用車両の方が好みであるため、撮影した回数は数えるほどしかなく、撮影場所も駅のホームに限られるが、ご笑覧いただければと思う。

 

平成21年3月6日   田町駅 (田町駅は勤務先から徒歩15分)

平成21年1月5日 浜松町駅(普段通勤で乗降している浜松町駅は勤務先から徒歩10分)

 

平成20年12月30日  有楽町駅

 

昭和50年9月15日 湯河原~真鶴

昭和41年9月23日 京都駅「さくら」

昭和41年10月13日 京都駅「はやぶさ」カニ221

昭和41年10月13日 京都駅「さくら」ナハネフ223

東京発着のブルトレの京都駅停車時刻は深夜であるが、台風でダイヤが大幅に乱れたため撮影することができた。1番線には「はやぶさ」が停車中。

 

昭和39年8月18日 博多

イヤというほど伊予鉄道し


ぶんしゅう旅日記で盛り沢山伊予鉄道の路面電車が披露された。坊ちゃん列車(のダミイ)が健在なのは嬉しいが、ディーゼルエンジンをボイラー(もどき)の内部に隠し持っているから、本来丸いはずのボイラーの裾が広がっているのは仕方がないか。

ところで拙老も松山は確か2回行っているから、電車の写真もあるはずと、すっかり乏しくなった記憶を基にネガを探すと、自分でも吃驚するほど出てきた。どうしてそれだけの時間とエネルギーを、非電化線=横河原線、森松線に投じなかったのか、今頃になって悔しく思っても後の祭り。

で、折角だからというより、自分でもすっかり忘れていた路面電車を「イヤ」というほどご高覧に供する。うんざりする? そう、年寄りは、嫌がらせが大好きなんじゃよ。

説明は乙訓老人にお任せしよう。8は秋保電鉄に同型車がいたのを以前ご覧頂いた。また2軸車末尾の20代は、食パン屋根で、しかもでっかいグローブベンチレーター(ロクサン並み?)が載っている。元来グロベンは雨宮が大好きで、小型のグロベンを花巻の2軸サハに載せていたし、ガソリンカーにも採用していた。撮影は1955年3月17日と1957年3月10日。


















2009年青春18きっぷの旅Ⅲ Part1 四国へ

 家の用事で四国に、行って参りました。終わってから、家内達は、家にすぐ帰っていくので、私は一人残り、桜前線を求めての鉄道の旅に出る事にしました。

 

予讃本線 伊予石城~双岩 1917D キハ54-11

続きを読む

2009年青春18きっぷの旅Ⅱ 急行『つやま』

我々が貧乏学生だった頃、周遊券等で度々利用した急行列車、それは、鉄道旅行には、欠かせない存在でした。2009年3月13日は、最後に残った昼間の急行『つやま』が、消える日でもありました。

天気予報では、最終日は、どうやら雨模様です。12日朝、起きると、快晴です。1日早いが、もう行くしかありません。青春18きっぷで、一路岡山を目指しました。

岡山までは、新旧いろいろな電車が行きかう。

① 長岡京8:39(快速735T)→9:06新大阪 223系
② 新大阪9:09(新快速3423M)→10:17姫路 223系12両
③ 姫路10:38(普通957M)→11:09播州赤穂 223系4両
④ 播州赤穂11:49(普通1915M)→13:03岡山 クモハ114-1098+クモハ115-1505
⑤ 岡山13:13(快速3936D)→14:21津山 キハ47-44+キハ47-1128

続きを読む

少し前の飯田線Ⅲ

(3)- ② 戦前型2扉車 42系

42系は、昭和9年7月20日、吹田~須磨間の電化に伴う電車運転開始の際に新製された電車である。その後、同年9月20日に須磨~明石間、昭和12年10月10日に吹田~京都間と電化区間が延伸され、同時に電車運転区間も延伸された。通称「合いの子」と呼ばれた広窓半流車は、次の流電の項で解説する。

1.クモハ42形

昭和8年電車運転開始に備え13両(001~013)製作された、両運転台付2扉車で、パンタの向きは、002、004、006の3両が偶数向き、その他の車両は奇数向きであった。戦時中の昭和19年に001~010の4扉化、011~013の片運化と3扉化が計画されたが、4扉化が実施されたのは002~004、007、010の5両、片運3扉化は012の1両のみで、実施は戦後の昭和28年であった。42形で残った7両は、昭和25年9月中央線のモハ51形改造のモハ41形と交換で横須賀線に転属したが、昭和31年に008、009、011、013の4両が飯田線用として豊橋区に、001、006、007の3両が宇部、小野田線用として宇部区に転属。豊橋区の4両は主に快速に使用され、快速が準急に格上げの上80系に置き換えられた後も、主として30番台の4連貫通運用に使用された。2扉、貫通幌付の堂々たるスタイルでファンを魅了していたが、昭和53年に80系300番台投入により運用を離脱し廃車となった。

 

42009   昭和43年4月4日  豊橋   (両端クモハ42で長躯辰野に向かう1227M  

 

42011  昭和43年4月4日  豊橋

 

42013  昭和41年3月13日 本長篠  (前日1227Mで辰野まで行き、その日の内に260Mで飯田まで戻り、1泊後飯田発一番電車646M 豊橋行)

 

42008他3連 昭和54年5月1日 飯島~伊那本郷  (クハユニ56を含む3連の40番台の運用)

クモハ43形

昭和8年から9年にかけて37両(001~037)製作された片運の2扉車で、奇数車は奇数向き、偶数車は偶数向きであった。戦時中、全車4扉化が計画されたが実施されたのは13両に留まった。残り24両の内、事故と戦災で5両廃車となり、19両が中央線のモハ51形改造のモハ41形と交換で横須賀線に転属した。昭和26年から性能を70系と合わせるため出力増強工事が実施され、7両が新形式モハ53形となり、残りの12両の内004、007、009、013、015、022、025の7両が飯田線に転属、昭和45年3月、004、022、025の3両が低屋根に改造され身延線に転属した。残り4両は主に伊那松島区の所属し、昭和53年、80系300番台との第1次置換えで007、009、013の3両が廃車、015のみが昭和58年の最終置換えまで生き延びた。飯田線転属後、運転台側の貫通幌が撤去されたため、スタイルは前述のクモハ42形よりは多少劣るものの狭窓、2扉の堂々たるものであった。

 

43007  昭和46年9月25日  辰野 

 

43009  昭和48年7月28日  辰野 

 

43009  昭和48年9月2日  辰野 

 

43013  昭和48年9月1日  伊那本郷  (伊那2号の通過待ちで停車中の257M) 

3.クモハ53形

前述のクモハ43形の出力増強車で、昭和26年から28年にかけて7両改造された。当初は43800番台を名乗ったが昭和28年6月の称号改正で新形式モハ53形000~006となった。旧車号は順に016、017、018、011、020、021、012である。昭和53年2月000、001の2両が伊那松島区に転属し、2両とも昭和58年の最終置換えまで活躍した。クモハ43形同様、運転台側の貫通幌が撤去されていた。

 

53000   昭和52年5月3日  辰野

 

53001   昭和45年11月23日  辰野

 

53001   昭和50年1月2日  豊橋(649M伊那大島行)

 4.クハ47100番台←クハ58形

42系列の制御車として、昭和8年から10年にかけて25両(001~025)製作された片運の2扉車で、全車両偶数(下り)向きであった。昭和10年に唯一両作られたラストの025は半流であった。戦時中全車4扉化が計画されたが実施されたのは13両に留まった。尚半流の025は4扉化された。残り12両の内3両が戦災と事故で廃車となり、残りの9両が昭和25年横須賀線用として東鉄に転属した。比較的早い時期に身延線と伊東線に転属となり昭和28年6月の改番でクハ47形に編入され100番台が付与され、全車車両の向きに合わせて100~116の偶数番号となった。但し、旧番号順ではなく、当時身延線にいた002、003、007、008、018、020、021が100~112に、伊東線にいた014、016が114、116となり、後日、114、116も身延線に転属した。その後、静鉄局の方針で、電動車を偶数向きに、制御車を奇数向きに統一することになり全車両奇数向きに方転された。昭和33年飯田線快速を4連貫通にするため、102、104、108、114、116の5両が豊橋区に転属の上、114、116を偶数向き方転、後に108も方転された。昭和46年3月に伊那松島に転属した104のみが昭和58年の最終置換えまで活躍したが、豊橋に残った4両は昭和53年、80系300番台との第1次置換えで廃車となった。104、116の2両は運転台側の貫通幌が撤去されていた。

 

4710   昭和43年4月4日  豊橋

 

47108   昭和49年8月27日  宮田

 

47104  昭和54年5月1日 伊那市  (茅野発平岡行238Mで、6両で茅野を発車して辰野、伊那松島で夫々2両を切離し、伊那松島~平岡間は2両であった。今は殆どの列車が2両であるが、旧形時代は少なかった)

1953年3月15日特急「かもめ」処女列車

56年前になってしまったが、この日から東海道・山陽本線に特急「かもめ」が運行を開始した。今では掃いても捨てきれないぐらい日本全国特急だらけで、新幹線や特急に乗らずに旅ができるもんならやってみろといわれているのと同じ。急行が激減し、準急は消滅してしまった。1953年時点の国鉄には、特急と名が付く列車は東海道本線東京―大阪間の「つばめ」「はと」のみ。この「かもめ」が実に敗戦後3番目の特急だったのである。

下りは京都始発8時30分、広島14時15分着、20分発。門司17時54分着、58分発、博多終着19時10分。停車駅は他に大阪、神戸、姫路、岡山、小郡、下関のみ。上りは博多10時00分、広島14時48分着、53分発。京都終着20時40分である。

機関車は処女列車用に綺麗に磨き上げられ、煙室扉ハンドルが梅小路にちなみ梅模様の真鍮磨きだしと御召し並みのC59100だった。スハニ、スハ3両、マシ、スロ3両、最後尾スハフで一等車がないところが「つばめ」「はと」と差がついた。運転局では将来展望車を新製したかった由だが、これは遂に叶わなかった。

このとき小生は高校1年生で、特急とは撮るものであっても、自分が乗るなどとは考えもしなかった。学生時代に国鉄特急に乗車した経験は、北海道均一周遊券が急行料金抱き合わせに改悪された代償に、急行との差額を払えば特急にも乗れるようになり、一番安い名古屋-京都間を、差額特急券という珍券ほしさに一度だけある。ただし電車特急「こだま」だったが。

写真は何れも1953年3月15日の京都発処女列車。今なら大騒ぎの押し合いへしあい、怒号が飛び交うところだろうが、この時は「何人か」は撮影に来ていた程度。それも大方は顔見知りだった。カメラさえ持っていれば線路下りても目くじらは立てられなかった。

恥ずかしい質問

最近、同級生とちょっとした論争になりました。負けられない論争です。

論点は昭和三十年代前半の奈良電のことです。私が「子供の頃奈良電に乗ると車掌が扉を手で締めて回っていた。しかも一両と言うことも多かった」といったところ、「アホ抜かせ!それは京阪の電車や、奈良電は自動で閉まったワイ!」と威張っています。彼は久津川の出身ですがその頃は本当に京阪だけが手動開閉だったのでしょうか?乙訓の老人様、覚えておられたらお教え下さい。

2009年青春18きっぷの旅Ⅰ Part4 高山本線

いつものように朝風呂にゆっくりと浸かって、頭を覚ましました。朝食に行く間のひと時、夜明けを待っていると、眼下に富山駅が見えました。どちら様か、津山駅でホテルの窓から見られたのと同じ光景です。窓は、少ししか開きませんので、カメラを落とさぬようにシャッターを切りました。

JR&地鉄の富山駅

続きを読む

おじん2人ヨーロッパ軽便 その最終版

SNOWDON MOUTAIN RAILWAY

YVでも公開された「ウエールズの山」という映画(1955年)をご記憶だろうか。原題は「The Englisyman who went up a Hill but came down a Mountain」と長く、けして大作ではないが、心温まるものだった。1917年ウエールズのとある小村に、英国政府測量官2名がやってくる。村人自慢の「山」を測量したら、規程(1,000フィート=306m)に16フィート足らず、「山」から「丘」に格下げになると知った村は大騒ぎになる、というお話。 

老齢の司祭が檄を飛ばし、先ずは測量官の自動車に細工=故障させて足止め。その間に村人たちは文字通り老若男女こぞって仕事をおっぽり出し、麓から土を運び上げて1,000フィートを回復しようというのである。しかし無情の大雨が降り折角の土が流出してしまう。鉄道員も協力し、鉄道が雨で不通として測量官の足止めを続け、さらに土を運び上げる。サッカー場の芝まで剥がし土止めに。82歳の老司祭が倒れ、山上に葬られる。

再測量の結果1,000フィートを満足し、若い測量官は村娘とむすばれ、万事めでたしめでたし。六甲山最高峰が931.3m、西宮市の甲山ですら309.4mである。いかに英国に山が乏しいかだが、その英国で登山なるスポーツが発祥したのも不思議である。

この部分のみはほぼレベルに近い 左手の建物は最初の離合地である

ところでウエールズとイングランドで最も高い「山」がこのスノードン山の1085mで、しかも登山鉄道がある。全長7.53km、平均勾配12.5%、最急が18%、2連式アブトで軌間800mm(2フィート7 1/2インチ)とメートル法なのは、スイス方式だから。開業は1896年4月6日、平均速度は5マイル/時(8km)。


DLは流石に強力だが、ブリエンツ・ロートホルン同様、全然面白くない

勿論蒸気機関車だったが、現在ではスイス・ロコ=ウインターツール1895、96、1922年製が4両現役。1986、92年製DLが4両。さらに1995年電気式のディーゼルカーが3両加わったが、最新ホームページには Out of Service とあるのは何故だろうか。不人気なのか、それとも欠陥があったのか。この時は2両重連(総括制御ができる)で運行していた。パンフの表紙に使うぐらいだから、少なくともこの時点では自慢の車両だったろうに。

http://www.snowdonrailway.co.uk/


総括運転の電気式DC 麓側の台車部分床上に機関と発電機が載っている

我々おじん2人はマン島とウエールズの旅の最後にこのスノードンを訪ねた。乗車はせず撮影だけだったが、線路は羊の放牧地をグネグネ延々と曲がって突っ切る。厳重に囲い込まれていながら、それでいて歩行者のための Foot Path が通じており、所々に柵を越すハシゴがある。画面に点々と白いものが見えるのは、ネガのホコリではなく、放牧の羊である。

フットパスを徒歩下山するグループ


借り物の300mm望遠レンズを使い、3個列車を写し込む。画面をクリックし、拡大してご覧あれ

なお長らくご愛顧を頂き?この延々と続いた「おじん」シリーズは、今回を以って終わりとさせていただく。ヤレヤレやっと終わったかと喜ぶ向きもあるかもしれないが、油断は禁物。いつ何時別の「どこまで続くぬかるみぞ」シリーズが始まるか分からない。世の中一寸先は闇なのですぞ。

羊放牧のための厳重な柵を乗り越えるフットパスのはしご 上にいるのは相棒=先達=写真の名手=全行程ボランティア運転手=全プラン立案推進者=ツアーコンダクター

貧乏学生二人『はやぶさ』に乗る

話の前に、訂正があります。前回 『ブルートレインのこと』 の写真3枚目(04917)は、蒸機がC6217【下】となっていますが、正しくはC6225【下】です。

さて、1963年3月、K.Y.さんと九州に出かけました。行動は常に同一でなく、時々場所と時間を決め一緒になり、主に国鉄の蒸機を撮影しました。一日か二日後には、それぞれのテーマに向けて 別れての行動で、K.Y.さんは非電化の私鉄を、私は私鉄電車でした。

鹿児島で落ち合い、1962年3月24日(日曜日)、西鹿児島 発6レ『はやぶさ』に、二人で熊本まで乗車しました。指定券は旅行出発前に、神戸大丸内交通公社で購入。大枚300円も(旅行中、私の一日の食費に相当する。駅弁は150円で、買えば一日二食になる)払ったその特急券です。 出発は午前11時30分、熊本到着が15時02分、わずか3時間30分間の乗車。車両は7号車、博多までの7両編成の先頭、ナハフ2153(1960年日立製)でした。今となって記憶はほとんどありませんが、K.Y.さんと二人有頂天で乗車、あっという間に熊本に到着だったと想像されます。
下車後、隣のホームから蒸機C6114【鹿】と、わが客車の出発を見送りました。

6レ『はやぶさ』、蒸機C6114【鹿】、熊本駅、’63.3.24.  06811

同上、ナハフ2153  06812

そして二人は大畑に向い、その夜は大畑のステーションホテル(注・駅のベンチで寝袋に入り寝ることを指す。この回数の一番多いのはT.Y.先輩で、次点が筆者の35回です)に宿泊したのでした。

その後、九州各地で何度かブルートレインを撮影したので紹介します。

 5レ『はやぶさ』、機C6131【鹿】、上田野浦-肥後二見間、‘63.3.26.  07028

潮干狩りか、海岸には人が見えます。

5レ『はやぶさ』、機ED7220【門】、吉塚-箱崎間、’63.4.2.  07711

西鉄電車撮影の合間に撮ったもの。

6レ『はやぶさ』、電機ED727【門】、博多駅、’63.4.2 07813

6レ『はやぶさ』、電機ED727【門】、博多駅、’63.4.2  07813

同上、ED727【門】、蒸機C6132【鹿】、博多駅、’63.4.2 07814

同上、ED727【門】、蒸機C6132【鹿】、博多駅、’63.4.2   07814

博多からの増結車を従え電機が待機、役目を終えた蒸機と並ぶ。

C6132【鹿】と、2レ『さくら』の蒸機C6026【鳥】、博多駅、’63.4.2 07815

C6132【鹿】と、2レ『さくら』の蒸機C6026【鳥】、博多駅、’63.4.2    07815

ヘッドマークを収納して退避線で休む蒸機、そこへやはり役目を終えた『さくら』の蒸機が並ぶ、夕刻18時30分頃、博多での光景でした。

半世紀以上走り続けたブルートレイン。日本での役目を終え、既に海外で活躍中のもの、あるいはこれから活躍予定のものもあるとか。