岳南鉄道の機関車


                                 デキ1+デキ2       (
43-4-6)   岳南江尾

HPを開けると飯田線119系に変わって、3月16日で運行を終了した岳南鉄道の電気機関車と貨物列車の名場面が表示されるようになった。
最後まで残った機関車は、元松本電鉄のED402、403、元上田温泉電軌→三河鉄道→名鉄のED501、休車の元豊川鉄道→国鉄のED291の4両である。製造年の新しいED402、403は工事用に残るかも知れないが、古いED501とED291は稼働する機会は少ないと思われるが、由緒ある機関車であり是非残していただきたい。
岳南鉄道に足跡を残した機関車を入線順に紹介する。但し、昭和24年11月、開業時に駿豆鉄道から譲り受けた元国鉄アプト式電機のED4012、ED4013と26年5月駿豆鉄道から譲り受けた木製電機デキ3は廃車時期が早く写真が無いため割愛した。

デキ1・2(形式デキ1)
昭和27年3月、国鉄から譲り受けた、昭和2年ドイツA..G社製のB型機。当初は宇部電気鉄道のデキ1、2として誕生し、宇部鉄道との合併により同社のデキ1、2、18年5月鉄道省に買収されたが車号は変わらなかった。44年9月架線電圧1500Ⅴ昇圧時に廃車となった。/上:(43-4-6) 岳南江尾、下:(44-8-30) 岳南富士岡

ED301(形式ED3000
昭和28年帝国車両製の唯一の自社発注の新製機である。屋根の庇がデッキまで伸びた独特のスタイルであったが、出力が80KW×4と弱かったため、48年に廃車となった。当初はED3011を名乗っていたが、後日ED301に改番された。/(49-2-17) 岳南富士岡


ED291(形式ED29)
昭和34年、国鉄から譲り受けた。昭和2年日本車輌製(電気機器は東洋電機)で、飯田線豊橋~大海間の前身豊川鉄道デキ52として誕生。鉄道省買収後、27年の改番でED291となり、34年3月廃車となった。かなり以前から休車中であったが、昨年再塗装され、外観は綺麗になった。/上:(43-4-6) 比奈、下/(49-2-17 比奈)


ED321(形式ED32)
昭和35年国鉄から譲り受けた。昭和2年三菱電機製で、飯田線辰野~天竜峡間の前身伊那電気鉄道デキ10として誕生。鉄道省買収後、27年の改番でED321となり、35年廃車となった。昭和51年水害で岳南江尾に取り残されて以来、留置されたままであったが、63年10月廃車になり解体された。/(44-8-30) 比奈


ED311(形式ED31)
昭和42年3月、伊豆箱根鉄道から譲り受けた。書類上は昭和28年西武鉄道所沢工場製であるが、前歴を遡ると旧国鉄アプト式電機ED4011に辿り着く。22年伊豆箱根鉄道の前身の駿豆鉄道が譲り受け、28年西武鉄道所沢工場で大改造して、機器、台車を取り替え、普通のB-B型になり、アプト式時代の面影は僅かに車体に残るのみとなった。42年3月に入線したが、5年後の47年廃車になった。 /(43-4-6) 吉原

ED281(形式ED28)
昭和44年8月、小田急から譲り受けた。昭和5年川崎造船所製で元小田急101として作られ、東急合併後デキ1021に改番された。側面の丸窓が特徴で、戦前では吉野鉄道→近鉄デ51、52以外に例は無い。63年まで在籍したが、60年頃からは休車中であった。/上: (45-9-14) 西武鉄道所沢駅/西武所沢工場入場時、下:(60-8-11) 岳南富士岡




ED271(形式ED27)
昭和44年9月、国鉄から譲り受けた。昭和3年日立製作所製で元南武鉄道1000形(1001~1004)の1002号機として新製、昭和19年8月1日戦時買収により鉄道省になったが、車号はそのままであった。27年の改番でED34形(ED341~4)のED342となり、昭和31年の再改番でED27形(ED2711~14)のED2712となった。私鉄時代から引き続き南武線、青梅線で使用されていたが、昭和43年に11と12が廃車され、翌年12が岳南鉄道に譲渡された。国鉄時代に側面の乗務員室扉が埋め込まれ、正面の扉から出入りするようになっていたが再度復活した。48年に廃車となり、僅か4年の在籍であった。/上: (44-8-30) 国鉄から入線直後のED2712→ED271、下: (45-3-11) 吉原


ED501(形式ED50)
昭和45年3月名鉄から譲り受けた。昭和3年川崎造船所製で、貨物営業最終日まで現役で稼働していた。経歴は複雑で上田温泉電軌デロ301として新製。予想外に貨物が少なかったため15年三河鉄道に売却して同社のデキ501となり、昭和18年名鉄との合併により同社のデキ501となった。主に比奈駅の入れ替え、小運転に使用されていた。/上:パンタグラフ1個時代 (45-3-11) 、下:比奈 (49-2-17 比奈

ED103(形式ED10)
昭和45年9月大井川鉄道から譲り受けた。昭和24年日立製作所製で、大井川鉄道電化時にE103として新製した。同時期のE101、E102が作られたが、こちらは三菱電機製であった。貨物量の減少により、岳南鉄道が譲り受け、本線貨物列車を牽いて活躍した。貨物量の減少により61年2月廃車になり、元の大井川鉄道に譲渡した。/上:大井川鉄道 E103 (43-4-6) 新金谷、下:
 (49-2-17) 岳南富士岡


 

ED402、ED403
昭和47年1月に入線した元松本電鉄のED402、403で、東京電力の梓川3ダム(奈川渡、水殿、稲核の各ダム)建設工事の資材輸送用として、402が40年10月、403が41年5月日本車両で作られた。ダム建設の主体となるセメントは、八高線高麗川駅の日本セメント埼玉工場から出荷され、D51の重連で八王子まで行き、EF64の重連で南松本へ、南松本からは再度D51で南松本~松本~渚まで行き、ここで松本電鉄ED40にバトンタッチされ赤松(現在の新島々)行き、トラックに積み替えられ建設工事現場に運ばれた。ダム建設工事が終了すると、仕事がなくなり岳南入りして貨物列車の主力として活躍した。上: 松本電鉄時代 (45-3-18) 森口、下: (60-8-11) 比奈
 



【借入車】
44年8月30日に訪れた時、名鉄デキ401が入線していた。架線電圧1500V昇圧時に改造工事で一時的に機関車不足になるため、名鉄から借り入れたものと思われる。
名鉄デキ401は昭和5年日本車輌製(機器はウェスチングハウス)で現在も健在でバラスト輸送に使用されている。/ (44-8-30) 岳南富士岡


岳南鉄道は営業収入の中に占める貨物輸送により収入のウエイトが高かったため、地元富士市では早くも廃止問題が話題に上がってきたようである。営業距離が9.2㎞と短く、沿線に目ぼしい観光地があるわけでもないが、今後とも地元の足として頑張っていただき、最悪の事態にならないように祈る次第である。
                          

万葉線紀行 連節車と除雪車

万葉線 いつの間にか加越能鉄道から第三セクタ-の万葉線株式会社になっていました。5月12日土曜日 久しぶりに降りたった高岡駅前は新幹線工事で何がなんやらわからない状況で 万葉線の停留所に行き着くのに一苦労しました。七夕で有名な駅前の通りも普段の土曜日でひっそりとしていました。高岡駅前の電停は昔のままの風情で7070形は似合っていましたが、MLRV1000形「アイトラム」は26年3月にJRの駅前広場に電停が移転すれば似合うと思われます。


デ7070形 7076号です。
デ7070形は1967年製で デ7071(冷房車)、デ7072(初代アニマル電車・・・籍なし)、デ7073(アニマル電車 冷房車)、デ7074(非冷房車)、デ7075(非冷房車)、デ7076(非冷房車)の5両が在籍しています。


MLRV1000形「アイトラム」1006号です。
2004年から2009年にかけて作られた、1001号から1006号の6編成が在籍しています。
ボンバルディア社の技術提供により、新潟トランシスで製造された2車体連節の100%低床車です。
後方が工事中のJR高岡駅です。
この電車に乗り 市内線の併用軌道の単線区間を通り米島口の車庫へ向かいます。車内放送は立川志の輔さんの声で車内アナウンスがされていました。


事務所で撮影の許可を頂き 車庫での撮影となりました。
車庫では数人の社員さんが電車の入れ替え中で、もうすぐバスツア-の電車の撮影会が有るので 写しやすいように並べているとのことでした。左から 7072,7073,1001,5022です。


庫内でお休み中の車両達 左から 1003,6000,7074です。
初めて見た6000がいったい何者か この時はわかりませんでした。


1001号です。2003年12月導入2004年8月から営業運転開始です。
当初はフランジの問題での脱線事故やブレ-キ故障など大変だったようです。
右に少し顔をだしているのが1002号です。


1002号です。2004年1月導入1001号と同じ2004年8月から営業運転開始です。


その1002号の右は元デ5010形5022号です。1950年元富山地鉄デ5022、車籍は無く除雪に活躍していましたが 後任の6000が出来たため引退とのことでした。保存の予定とのことですが 最後の5010形ですのできちんと保存をお願いしたいところです。


デ7072号(初代アニマル電車・・・車籍なし)です。どちらかというとネコ電車として有名です。


デ7073号 二代目のアニマル電車(ネコ電車) 冷房車です。
デ7070形は5両の在籍です。1000形は乗り心地やバリアフリ-の点ではすぐれていますが、ハイテク車で安全装置がたくさんあり運転しずらいとのことで、乗務員としては7070形の方が思うように走り 運転しやすいとのことでした。特に雪の日や、架線が凍った時は困るそうです。


今日は車庫内でお休みの デ7074号です。


新しい除雪車 6000が庫内から出てきました。軽いエンジン音、畳んだままのパンタグラフ 異様な感じです。


右のボンネット内にエンジンがあり単純な下回りは模型のようです。メンテナンスを簡単にするためだそうです。
平成24年 新潟トランシス製で 後で知ったのですが車籍を有する鉄道車両とのことです。主に米島口から越ノ潟方面の専用軌道で使用されるとのことでした。パンタグラフはトロリ-コンタクタ-用です。


元デ5022号も少し前に移動です。若い係員(運転手さん)が屋根に上りパンタグラフの鍵を外し(下からベテランさんが 架線に気をつけろよ- と言っていました)自走して 移動です。車内は機材がいろいろ置かれていました。


5両がきれいに並びました。左の3名の社員さんで移動を行っていました。もう一名女性の運転手さんがいましたが途中で乗務に向かいました。(後でその運転手さんの運転する電車に乗りましたが 思いっきりのいい みごとな運転でした)


ようやく少し晴れ間も出て、きれいな5両の並びとなりました。
左から 7072,7073,1001,6000,5022です。貴重だ体験でした。
その後 越ノ潟方面に移動しました。

米島口での1006号です。(2009年4月営業開始)
この角度 きれいです。いい電車です。


デ7076で移動し、途中で赤いデ7075と行き違いました。


庄川 鉄橋でのデ7071号です。


同じ場所での 1005号です。(2009年4月営業開始)


反対側から海をバックに 7076号です。夕日の時がきれいだそうです。


1004号です。(2008年3月営業開始)
庄川口から越ノ潟まで乗車しました。


越ノ潟終点です。1966年富山新港の工事で線路が途切れてしまいました。今は無料の県営フェリーでつながっています。後ろの橋ができればまた状況が変わりそうです。

フェリーボート 「こしのかた」 自転車も乗れます。5分ほどで対岸に着きます。

船の中から見た工事中のつり橋 さわやかな船旅でした。
対岸の堀岡発着場に着きました。


ここからバスで 富山ライトレールの岩瀬浜へ向かいます。土日の限定連絡バスです。以前は射水線廃止後の代行バスが有ったようですが今はありません。


乗客は 私一名でした。せっかくの射水市企画のバスですが 観光客の少ない季節でもありさびしい限りです。右のサイクリングロードは射水線の線路跡のようでした。


20分ほどで岩瀬浜の駅前に着きました。
ちょうど富山ライトレールの電車が到着です。
車庫で遊び過ぎ後の時間が迫ってきましたので、この折り返し電車に乗り富山に向かいました。
高岡の万葉線 車庫でいろいろな話を伺ったり きれいな電車を見たり乗ったり写したり 楽しい時間でしたが、経営は厳しい状況が続いているようです。JR高岡駅内に延長されると利便性はかなり良くなると思います。車庫でお世話になった皆様ありがとうございました。みなさま頑張って乗りに行きましょう。
犬伏 孝司

アメリカ鉄道のたび(その2)アムトラック

 アムトラックの予約は時刻表の検索とともにインターネットで簡単にできます。チケットは駅員のいるところ、またはQuik-Trakと呼ぶ発券機のある駅から乗車する場合は予約票をプリントアウトすれば発券できるのですが、駅員も機械もない駅からの乗車の場合はチケットが郵送または、宅配便のようなもので送られます。ところが、これはアメリカ国内とカナダにしか対応しておらず、海外からは購入できないので注意が必要です。私もグランドキャニオンからロスアンゼルスまでの切符を購入しようとしたところ、グランドキャニオンの連絡バス、グランドキャニオン鉄道の駅の両方共駅員も機械もないため購入できず、駅員のいるフラッグスタッフからの乗車にして何とか購入できました。プリントアウトした予約票のバーコード部分を、駅においてあるQuik-Trakの読み取り機部にかざすとチケットが印刷されて出てきます。

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鳩マークについて

鳩マークに拘ってみる。千垣の鉄橋中心に「鉄」をやった後、稲荷町の車庫へ寄ってみたら3組の車体が新たに届けられ改造工事の真っ最中であった。3013、3513、3014、3514、3017、3517の6両の車体であった。そのうち前4両については「電照式鳩マーク」つきであった後の3017、3517は鳩マーク無しで、どの時点で外されたのか、帰ってから「ぷるぷる」さんに聞こうと思っていたが忘れたのか、車両部を離れていた時か?のままである。
この3年後だったと思うが、「ぷるぷる」さんから大井川にも2両1セット行くことになった。白井昭さんと打合せで連絡取り合っていますと言っていた。その数ヵ月後、先日準特急氏に紹介してもらった名古屋市電3001型の連接部の台車を撮影していたら、背後から大声で「沖中さーん、お宅の3000型、近くうちに到着しますよォー」と言っている人がいた。誰かと思って振り向いたら白井昭さんであった。後日、梅雨前だったと思うが、東上する際に新金谷に寄って電照マーク入りを取っておいた。それから3年前まで毎年1、2回、東海道上り下りの度に「大井川」に寄るようになった。DRFC40年は大井川にいらっしゃいと、白井さんに誘われ、澤村君に引き継ぐ事が出来た。今はtsurukame氏が通っている。
構内けん引車は各社まちまちだが、阪神電車尼崎車庫には怪物がいた。来歴は忘れてしまった。
左端のイケメンは山科から参加の京阪特急メイト

左端のイケメンは山科から参加の京阪特急メイト

新金谷到着2ケ月後、鳩マークあり
新金谷到着2ケ月後、鳩マークあり
阪神尼崎車庫の怪物
阪神尼崎車庫の怪物

教えてください。天下茶屋のTORI

 京阪特急3000のオリジナルカラーで西村さん、INUBUSEさん、乙訓の老人さまから投稿があり、うれしく思っています。特に乙訓の老人さまの投稿で、はるばる越中に京阪3000が再就職した時、すべて塗り替えたのではなく京阪特急の現役時代の塗装のままで走っている写真を見た時は驚きと、またうれしく思いました。

 さて、フィルムで撮影した写真のデジタル化を行っています。総本家青信号特派員さまの「写真整理学-3-」に書かれていたビネガーシンドローム症状のフィルムがあり、このフイルムからデジタル化を行っています。症状はひどくないのでホットしているしだいです。このなかにINUBUSE様とW氏と一緒に行った九州の蒸機の写真があり、これがだめになるとかなりの痛手となります。なにせ、九州の蒸機の写真はこれしかないのです。このデジタル化をしているフィルムの中にいつ撮ったかわからないが、南海天下茶屋車庫で撮った写真で入換用だと思いますが、「TORI」と車体側面にかかれた機関車があります。これはいったいどのようなものなのでしょうか。ご存知の方は教えていただきたいと思います。

 

 

 

 

 

アメリカ鉄道の旅(その1)

6月5日から19日までの2週間アメリカの中西部に行ってきました。

この旅行の主な目的は3つ、アムトラックに乗って大陸横断鉄道の雰囲気を味わってみたい、SL保存鉄道を訪問したい。世界最大といわれるBIG BOYを見たい。これに加えていくつかの博物館を訪問したいと言うことでした。ところがアメリカの場合、公共交通の面で制限があります。アメリカはご存知の通り車社会で移動はフライ&ドライブという、空港でレンタカー借りて旅行するのが一般的です。アメリカの都市部をレンタカーで走る自信はありませんので、レンタカーでの移動は田舎に限り、それ以外は公共の交通機関が使えるところと言うことで計画を立てました。その結果BIG BOYを見るのに比較的アクセスしやすいデンバーを選び、サンフランシスコからアムトラックのカリフォルニアゼファーでデンバーまで移動、そこから飛行機でデュランゴに飛び、デュランゴでレンタカー借りて、デュランゴシルバートン鉄道を訪問。また折角アメリカにいくのなら一度見てみたかったグランドキャニオンを入れ、この移動にフラッグスタッフからロサンゼルスまでサウスウエストチーフを使い、ロスアンゼルスからサンフランシスコに戻るのにコーストスターライトを入れると言う盛りだくさんな計画となりました。

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ふるさとへ帰る岡山電軌3010

岡電営��部ニュースと��国新聞記事

岡電営業部ニュースと中国新聞記事

6月25日の中国新聞に「岡山から栃木へ路面電車”帰郷”」という写真入り記事がありました。調べてみると 今年4月に岡電の100周年記念として「路面電車を無料で差し上げます!!」という表明をしていたことを知りました。対象車両はもと日光軌道線の3010号です。発表後には公開説明会もあり、2ケ月ほどで引き取り先が決まったようです。今年の秋にふるさとの「日光霧降高原チロリン村」に引き取られてゆくそうです。もともと10両あった3000型も 今では3005,3007,3010の3両になってしまっています。昨年9月に車庫をのぞいたときには、3両が仲よく休んでいました。

左は7501、右の7201のうしろに日光3両
左は7501、右の7201のうしろに日光3両

今回の対象車両は水色の通称「おしゃれ電車」と呼ばれている3010号ですが、日光に帰るのであれば どうせ静態保存でしょうから、そのうしろの日光色の3005号に変更すればよいのにと思いますが・・・。3010は代わりに私が引き取りましょうか・・・。トレーラーでの輸送実費は引き取り者の負担だそうですから たいしたことはない?

富山の京阪特急

1991年春、東京から転勤で帰京した旦那(DRFC2代目会長)と京阪特急が富山で走る日を待ちわびていた。その日は立山のドライブウェイ開通の日だろうと決めつけ、旦那は富地鉄に電話をかけて確認していた。ところが走行に支障ありで延期になったと連絡があった。2人はGWにスバルでいくつもりであったが、中止とした。この年の盆休み、泊り込みで富山に行こう、と言っていたが旦那は家庭の事情で駄目になった。老人は路面電車同好会の仲間に呼びかけたら、山科、豊中、都民の3人が指に停まってくれた。18キップで行こうとなり、富山着は15時頃、電鉄富山でこの日の京阪特急の筋を聞きだし、
先ず向ったのが「寺田」であった。立山帰り満載でやってきたのが最初の一景である。折り返し再度、立山行きとなるのでそれを待って乗車した。車内はテレビが点いており高校野球の実況中であったが、岩峅寺あたりから受信不能となった。
この日は旦那が手配してくれた有峰口駅から徒歩20分の亀谷(カメガヤ)温泉の旅館へ向った。翌朝5時に起き出し、千垣の鉄橋に向った。朝1番は北陸線夜行普通列車の接続となり3連で富地鉄単行車先頭でやってきた。2番列車、これは富地鉄MM編成先頭の4連でやってきた。この列車は北陸線夜行急行接続であると言う。7時半まで橋の上、その周辺でウロウロして旅館に戻り朝食とした。この時2泊3日、寺田以西で京阪特急中心でとっぷり富地鉄に浸かったのであった。
初対面は寺田駅で夕方であった

初対面は寺田駅で夕方であった

赤は電鉄富山初発で立山に向け登って来た
赤は電鉄富山初発で立山に向け登って来た
緑は富地鉄の先輩より早く新標準色で登場
緑は富地鉄の先輩より早く新標準色で登場

まだあるロクサン!京成電鉄モハ109

これだけ続くとロクサンの影響力の大きさがわかります。しかし、京成電鉄もあまり系統や伝統には興味が無いのでしょうか。

同じ形式でこれだけ形が違うのが珍しいのでは?でも昭和62年まであったとはたいしたものです。

富山地方鉄道の元京阪3000型

どですかでん様  西村様
私も先月(5月12日)電鉄富山駅で京阪特急色の元京阪3000型を見ましたが、4月27日からの運行とは知りませんでした。主に路面電車を写していましたので鉄道線はあまり見ておらず、たまたま駅で写した中に一枚ありました。やはり見慣れた色はいいですね。次回はきれいな景色の中で撮りたいと思います。
15時少し前駅に行くと ちょうど休日のみ特別仕様に改装したサハ112を挟んだ アルプスエキスプレス(元西武特急車レッドアロー) 16013+112+16014の編成が宇奈月温泉から到着するところでした。(平日は 16013+16014の2両編成だそうです)


朝8:55発で立山まで普通電車で往復し11:05電鉄富山到着 折り返しは12:14発 特急うなづき5号で宇奈月温泉へ、折り返し14:56着の特急うなづき10号で電鉄富山に戻り、その後普通電車で立山往復の運用のようでした。


レッドアローいやアルプスエキスプレス到着です。
ホームには 3本の元京阪3000型が待っていて 東西の元特急車4本並びです。


はとマークがきれいです。

いかつい顔のレッドアロー号と、優しい顔つきの京阪3000の並びです。


その後 右の10041+10042の編成に乗車して南富山へ向かいました。


モハ11042の車内です。なつかしい京阪特急ですね。
市内軌道線、富山ライトレール、万葉線も行ってきましたので 連節車(連節車)を中心に紹介させていただきたいと思っています。
犬伏

富山の京阪特急に寄せて

どですかでん様 やはり3000は黄色と赤がお似合いですネ。昨年秋に訪問したときの写真を見ながら、現在の地鉄の塗り分けの黄色と薄緑が同系統の色なので軽い感じがするのか、あるいは貫通扉両サイドの凹型塗り分けがモッサリ感を与えるのか なぜだろうと思案しています。 いずれにせよハトマークと赤黄がベストです。雪景色にもより映えると思います。今年の秋の浜大津イベントの際に再訪し、昨年行かなかった立山線に行ってみようかナ。

富山地鉄にあの懐かしい京阪特急が

今日、子供が帰ってきて、富山に行ってきてこんな写真を撮ってきたと見せてくれました。それが左の写真です。携帯のカメラで撮影したものですのであまり鮮明でありませんが、これを見てびっくりしました。すでにご存知の方がおられるかもしれませんがとりあえず報告まで。

いつから、どうなったか富山地鉄のホームページで調べましたがわからなかったので、「富山地鉄京阪特急」で検索すると、北日本新聞の記事に出ていました。これによると4月27日から運行していて、8編成のうち1編成を京阪オリジナルカラーにしたとありました。写真にあるようにハトのマークが付いています。記事には地元の富山レールクラブの会長さんも「鉄道ファンの間では、黄色と赤の”京阪色”が車体にマッチすると話題になっていた。本来の色に戻った車両を今後撮影したい」と言われています。また富山地鉄の人も「富山でぜひ乗ってほしい」といわれています。私も富山にいましたので美しい富山の風景のなかを走る京阪特急はすばらしいものと思います。西武のレッドアローの観光列車やなかなか話題の多い富山地鉄です。また、楽しみが増えました。

長春(新京)の路面電車  Part1 連節車

日本占領下時代に建国された満州国の首都新京(現;長春)に走る路面電車は、1941年開業以来71年を迎えています。

▲ 現在の長春地図に満州国時代の路面電車路線図を重ねてみました。
■線は1941年11月1日■線は1942年9月12日、■線は1942年2月1日、■線は1941~1942年、■と■は1942年以降、■は1942年12月29日の開業路線です。現在運行しています54路は、1945年日本敗戦以降に開業した路線と思われます。

これまで4度の訪問をいたしましたが、最近2012年5月15日の長春訪問記事に、走行する車両を連接車と書き、乙訓の老人様より 「おいおい違うよ、連節車だよ。」 と、ご指摘を受けました。

発音は同じです。 恥ずかしながら、「連接車、連節車、どう違うの?」 と、全く分かっていませんでした。調べて初めて連接台車を使用しているのが連接車、使用していないのが連節車と理解できました。長春の走っているのは連節車です。訂正させていただきます。

また、「どんな音を立てていました? ドイツ方式なら直角カルダンでしょうね。西安大路の市電、車体は現代風ですが、台車や駆動装置はどうでした? まだKR8とPV弁ですか。」とのお問い合わせもいただいておりますが、気にしていませんでしたので、同じく分かっていません。天津1・ 2・ 3・ 4上海で走行している1本レールのトランスロールは、日本では営業走行がない路面電車ですので興味深く観察しましたが、こちらの方は、中国では大連、国内では広島や岡山で見ましたのと同じタイプの路面電車でしたので、さほどの探究心がわきませんでした。次回に訪れる時はもっと詳しく報告させていただきますのでお許しください。
※ 上記をクリックしていただきますと、過去の訪問記をご覧いただけます。
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熊本電気鉄道 モハ51など

湯口徹先輩の撮影に遅れること8年、筆者も訪問し撮影していました。関三平先生の撮影からもずっと後年のようです。その明瞭な相違は車番の表記方法です。湯口先輩、関先生の写真にある、大きな書体で前面2か所の表記が後年、普通の書体で1か所に、側面前方と後方の2カ所表記がやはり1カ所に変更されています。書体の変化は著しく、PCのフォントに例えれば、Century や Times New Roman が、MS明朝に変わったようなものです。ただ車体に大きな変化はなかったようです。詳細な説明はできませんので、写真をのみご覧ください。

湯口徹先輩の記事はこちらです。
https://drfc-ob.com/wp/?p=9650


モハ51の写真は、フィルムの痛みが相当激しく、時間を掛けて修復しました。ご了承ください。

日本セメント上磯工場


10号機の牽く万太郎沢発の列車

6月9日【21120】で西村雅幸氏より「佐渡金山」、続いて6月11日【21205】でINUBUSE氏より「串木野金山」の訪問記が掲載されているが、昭和50年5月1日に日本セメント上磯工場を訪れた時の様子を紹介したい。

沿革は、明治23年4月函館市の有力者により設立された北海道セメントにより工場建設。大正4年7月アサノセメントに合併。アサノセメントは昭和22年5月日本セメントに社名変更。平成10年10月秩父小野田セメントと合併して太平洋セメントとなり、現在は同社の上磯工場となっている。

工場~峩朗鉱山間 (6.6)、同~万太郎鉱業所間 (3.4)の直流600Vで電化された専用鉄道が敷設され、峩朗鉱山からは石灰石を、万太郎沢鉱業所からは粘土が運搬されていたが、昭和48年に峩朗鉱山~工場間に長距離ベルトコンベアが完成して鉄道と併用となった。平成元年(月日不明)全面的にベルトコンベアによる輸送に切替えられ、鉄道は廃止となった。

〔電気機関車〕
1号機~10号機(4号機は欠)まで9両在籍し、2両が保存されている。連結器は1~5号機がピンリンク式、6~10号機は、自連とピンリンク式の両方を装備していた。

1~3号機/大正11年東洋電機(車体は汽車会社)で作られた。自重16tの2軸の小型電機で、ブレーキは手ブレーキと電磁吸着ブレーキであった。
2号機が生まれ故郷の東洋電機横浜工場で保存されている。

 5号機/1~3号機の増備車として大正12年に作られた。メーカー、仕様等は1~3号機と同じである。
こちらは上磯工場近くの北斗市運動公園に保存されている。

7号機/昭和23年日立製作所製の自重25tD型機で、京福福井支社→えちぜん鉄道のデキ521、522と同形機である。

9号機/昭和59年東洋電機(車体は東洋工機)製の自重35tD型機である。

10号機/昭和61年東洋電機(車体は東洋工機)製の自重35tD型機で、9号機とほぼ同じスタイルである。
 

6号機(昭和10年東洋電機、車体は日本車輌製の自重25tD型機)は庫内で修理中、8号機は(昭和27年東洋電機、車体は日本車輌製の自重25tD型機)は万太郎沢鉱業所に行っていたため撮影していない。

〔客 車〕
201~204の4両在籍し、峩朗鉱山、万太郎沢鉱業所の従業員輸送に使用されていた。連結器はピンリンク式であった。メーカー、製造年等は不明のため写真のみとする。

201号車/客車の中では一番大型で、リベットの目立つ車体は鋼製のようである。2軸車ながらウィングバネがあり乗り心地は悪くなさそうである。扉は片側のみ中央に設置されていた。

202号車/中1扉の小型車で、この車のみ両側に扉があり、吊革が設置されていた。

203号車/物置小屋に車輪をつけたような、いかにも鉱山の人車というスタイルである。車体は木製鉄板貼りのようである。

204号車/203号車と同様の車両であるが車体は木製。

〔貨 車〕
撮影した車両のみ紹介する。

ヲキ1/国鉄のセキ3000と同型で国鉄から購入したのかも知れない。元秩父鉄道にも「ヲキ」が存在するが「ヲ」が何を意味するのか未だに判らない。鉱石の「コオセキ」とか鉱石の英語「ore」からきているとか云われているが、どちらも違うような気がする。石灰石運搬用貨車の形式を「ヲ」にしただけと思っている。

3号車、5号車
片方に自連、もう片方にピンリンク式連結器を持ち、自連付の車両とピンリンク式車両の併結時の控車である。
かつて山陽本線の153系急行電車が瀬野~八本松間の勾配区間を自力で越えることができないため、EF61の補機連結時に使用されていたオヤ35と同様の役割を果たしている。
余談であるがJR東日本の「リゾートエクスプレスゆう」が非電化区間乗入れ時に機関車と間に控車として連結されるマニ502186(ゆうマニ)は両側共に双頭連結器を装備している。

薬剤散布車

架線点検修理車

車石と中国少数民族イ族のこと

 先日、「佐竹さんを囲む会」に参加して新たに興味深い話をお聞きしました。まず、乙訓の老人さまと例の勢和鉄道についてワイワイガヤガヤとやって、形見分けとして「新日本鉄道史 下 」をいただきました。その後、総本家青信号特派員さまからOB会員ではありませんが今回参加された南草津図書館におられるN氏を紹介していただきました。勢和鉄道やら信貴電やらその他関西周辺の鉄道建設計画などについて面白い話を伺いました。その中で鉄道ではありませんが「車石」の話が出て来ました。これについては私はまったく知りませんでした.

 勢野北口駅近くにある飛鳥時代に聖徳太子が創建した平隆寺が生駒線のすぐ横にあります。このお寺の近くを走る生駒線の電車を以前から撮ってみたいと思っていました。下の写真がそれです。右の電車のうしろの木があるところが平隆寺です。左のお寺は勢谷寺です。地名は「野」ですが寺は「谷」となっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

写真を撮ってから家に帰る途中で不思議なものを見つけました。それが下の写真にあるものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最初は何じゃこれはと思いながら通り過ぎましたが、気になったので戻ってきて写真を撮った次第です。荷車を屋敷の中に入れるため、登りやすくしたものではないかと考えました。間隔がちょうど荷車の車輪間みたいで、溝がある石のレールの様でした。このときはまだ車石のことは知りませんでした。ひょっとしたらこれは車石ではないでしょうか。N氏のお話やインターネットで調べたら旧東海道で京の町へ荷物を運ぶために敷設?されていたようで、大津周辺でその遺物 が多くあるようです。私が見つけたのは奈良県で大津周辺から遠く離れています。そうすると、この車石方法は一部の地域だけ知られていたのではなく、他のところでもこの方法が伝わって使われていたのでしょうか。もしかしたら他のところでも見つかるかも知れません。

 さて、「佐竹さんを囲む会」がお開きになったので佐竹さんにあいさつして帰ろうとしましたが、写真展初日にお会いしたとき伺った少数民族イ族の話で再び盛り上がってしまいました。この話に興味があるのは日本文化の基盤のひとつとして考えられている照葉樹林文化がイ族が暮らしている地域から西日本にまで分布しているとされているからです。これについては多く本がでているし、国立民族学博物館にいけば知ることができると思います。大阪モノレールに乗って行きましょう。そして、すでに半分は読みましたが最近ご無沙汰している司馬遼太郎の「街道をゆく 中国・蜀と雲南のみち」を買いました。しばらく時空の旅をしようと思います。(NHKの街道をゆくというシリーズで”時空の旅人 ”といっていました。なかなかいい言葉だと思います。)昔の鉄道を探るのも時空の旅になるのでしょう。

信貴電の不思議によせて

京阪交野線の前身は信貴生駒電鉄であったため京阪本線とは異なる部分があった。最大の相違点は、京阪本線は軌道法が適用されていたことに対し、交野線は地方鉄道法が適用されていた。駅の構造が明らかに京阪とは異なっていた。京阪本線の駅は駅舎には切符売場と改札口があるだけで、乗客はホームのベンチで電車の到着を待つが、交野線のすべてに当てはまるかどうかは不明であるが、比較的大きい村野、交野は駅舎内にもベンチがあり、電車到着まで駅舎内で待つような構造であった。

未開業区間の私市~生駒間は、昭和50年代は奈良交通のバスが4往復運行されていたが、阪奈県境の田原地区までは京阪バスも運行され、大阪府内は京阪バスの免許路線で奈良交通が乗入れる形であった。昭和50年代前半頃まではボンネットバスで私市~八ノ坪・八ノ坪~大和田間各3往復、リヤエンジン車に変わってからは交野市~私市~山口川~大和田間直通運転で4往復となった。勤務場所が京阪大和田駅近くの頃、気が向いた時に大和田駅を18時30分頃発車する交野市行の最終バスに乗り、交野線経由で帰宅した。

現在奈良交通は田原台1丁目~私市駅は廃止、京阪バスは交野市~大和田間の直通運転は取り止め、交野市~田原台1丁目間土休日のみ2往復と路線免許維持路線のような運行になっている。奈良交通の生駒~田原台1丁目間は頻繁に運行されているが、未開業区間を走破できるのは土休日のみである。

話がバスにそれてしまったが、もし戦前に予定通り生駒~私市間が開業し、かつ順調に経営されていれば、枚方~生駒間は京阪の準幹線となっていた筈で、更に枚方~高槻間が開業されていれば、東武野田線のような感じになっていただろう。

初めて生駒線を訪れたのは、近鉄合併直後の昭和39年12月21日(合併は同年10月1日)で、目的は木製車モ200形の撮影と乗車であったが、生駒駅に停まっていたのはモ660形であった。モ200形は同年10月1日の合併時に引退したようであった。

昭和44年9月21日、奈良線、京都線、橿原線、生駒線等の600Ⅴ区間が1500Ⅴに昇圧されると、旧大和鉄道→信貴生駒電鉄(大和鉄道は昭和36年10月1日信貴生駒電鉄と合併)の田原本線と共通で、モ400形+ク300形の2連に変わり、モ400形+ク300形が廃車になると元奈良線の特急車モ820+ク720が主力となり、ラッシュ時にはモ800+サ700+ク710+モ800の4連が加わった。
その頃の生駒線を写真で振り返ってみた。

信貴生駒電鉄デハ3→玉川工場入換車(50-1-15)
昭和元年、信貴山下~生駒間の開業時に田中車輌で新製された半鋼製車で4両(デハ1~4)在籍した。半鋼製車としては初期の製品である。
近鉄と合併時に継承されず廃車になったが、デハ3のみ機器扱いで玉川工場の入換車として再記した。正面の貫通扉は改造時に設置されたもので、オリジナルは非貫通の正面3枚窓であった。

近鉄モ665→玉川工場入換車(50-1-15)
昭和16年参急デニ2000形を名古屋線転出時に元の足回りを流用して作られた車両で、モ661~665の5両在籍した。ラストのモ665は昭和39年に荷電代用車となり、廃車後玉川工場の入換車になった。生駒線、田原本線でよく使用され、1500Ⅴ昇圧時にモ661→ク516、モ662→モ410、モ663→モ411、モ664→ク518となり、モ410、411は引き続き生駒線、田原本線で、ク516、518は京都線、橿原線で使用された。

モ409+ク309/南生駒~一分 (53-12-9)
元奈良電のデハポ1300形で、昭和32年に日本車両で新製された全金属製車であるが、電装品、台車は電動貨車デワポ501とデトボ351のものを流用している。
近鉄合併後モ455形455、456となり、更に昭和39年にモ455の電装品と台車の交換とモ456を電装解除してク355とする工事が実施された。昭和44年9月の昇圧時にモ400形とク300形に編入され、モ409+ク309となった。車体が比較的新しかったため、他のモ400形は昭和52年までに廃車されたが、その後も使用され、昭和62年に廃車になった。晩年は生駒線にこの車両専用のダイヤが引かれていた。

モ404+ク304/西田原本 (49-6-16)
モ404は元モ672で、昭和23年近畿車両で奈良電鉄デハポ1102として作られた車両。ク304は元ク574で昭和23年近畿車両で奈良電鉄デハポ1101として新製。昭和32年に電装解除してクハポ704となった。

モ405+ク305/新王寺~大輪田 (50-1-15)
モ405は元モ641で、昭和24年近畿車両製。前述のモ604と似ているが、こちらは近鉄のオリジナル車両である。ク305は元ク591で昭和17年木南車両で奈良電鉄クハポ651として作られた車両である。

モ824+ク724/南生駒~一分 (53-12-9)

モ822+ク722/池部~箸尾  (53-12-9)


昭和36年近畿車両で奈良線の特急用として新製された車両である。新生駒トンネル開通により大型車が奈良までは入れるようになると京都線、橿原線に回り、京阪三条乗入れにも使用された。奈良線、橿原線の車両限界拡大後は生駒線、田原本線で使用されたが、昭和59年から南大阪線6800形ラビットカーの台車、主電動機を利用して狭軌化し、伊賀線に転属した。

函館の連接車と単車とバス

先日機会があり函館へ行ってきました。連接車(連節車)は2組在籍し当日(2012年6月14日)は2007年製9601号が車庫待機、2010年製9602号が営業運転中でした。アルナ車両リトルダンサーシリーズ初の2車体型で函館初の全面超低床車です。台車部分が少し傾斜し高くなっていますが、いい乗り心地でした。


らっくる号 9602号です 市役所 函館駅前間にて


函館駅前にある幼女の像「函館の妖精 夏」と9002号です。


駒場車庫で待機中の9601号と機器調整中の39号です。

30型39号は火曜水曜日を除き4月中旬から10月末まで毎日昼間運転しています。当日は朝1往復ののち一旦車庫で調整のうえ午後出庫しました。
「元は1910年製造 成田市の成宗電気軌道車両で1918年に函館へ移り、1936年まで客車として運行、1937年にササラ電車に改造、1992年函館市制70周年記念事業のひとつとして、当時の姿に復元、台車は、製造当初の米国ブリル社製をそのまま使用し、車体は当時の図面を基に製造され1993年より「箱館ハイカラ號」の愛称で、函館の街を走っています。 2010年に箱館ハイカラ號は,生誕100周年を迎えました。」とのことです。


定番の撮影地 (十字街 末広町間) 午後も運休かと思っていましたが 摩周丸をバックに走ってきました。
運転手、車掌の2名が乗務しています。もう少し天気が良ければと悔やまれます。駒場車庫発どっく前行きです。


折り返しの駒場車庫行きに乗りました、9600形とはまるで違う非バリアフリー車の社内では車掌さんがお年寄りに一生懸命説明して切符を販売していました。この4月からの新人車掌さんとのことでした。乗車するたびに一人ずつ行先を聞き切符を売っていましたが、この電車を見かけて行き先も決めず乗った人も数人いました。私もそうでしたが。
パンフレットを見ていると五稜郭公園前で降りるとボンネットバスに接続しているようですので降りることにしました。

五稜郭公園前を発車した39号のサイドビューです。
乗り心地は柔らかいバネが良く効いてみごとなピッチングで、線路状態の悪いところやポイント通過時には徐行していました。
線路状態のいいところは快適です。


車掌さんに教えていただいたバス停で待っていると ボンネットバスがやってきました。五稜郭行きですが、そのまま乗っていると函館駅まで行くことができます。


車内です。函館浪漫号はエンジンや駆動系も昔のものと同じでレストアされていまして、運転出来ない運転手もいるようです。結構力もあり50km/hほど出ていました。路線の運転手ではなく観光バスの運転手とガイドさんでの運用とのことでした。函館バスの社長の趣味で買ってきたようなものだそうです。車内で車掌さんからのお話でした。
藤本先輩に素性を調べていただきました。
以下は藤本先輩からのコメントです。
ボンネットバスに詳しい知人に聞いたところ、次のような回答がきました。
元々高松の五色台の上にあった廃車体。福山の時計と自動車博物館でレストアの上、金毘羅宮の裏手にあった「四国お祭り広場」の送迎に使用。「お祭り広場」廃業後、岡山の宗教団体で使用。その後岡山の中古車業者「リマニットモーター」に売却。「リマニットモーター」が再整備の上売り出していたものを函館バスが購入したということでした。
五色台の前が不明で、琴電か琴参ではないかと言っておりました。
営業ナンバーを取得しているバスの中では日本一古いです。」

函館駅前で一休み。
函館では今までいろいろな使われ方をしていたようですが、今年は「函館はいから号」に接続して五稜郭への足として、また五稜郭と函館駅のシャトルとして活躍しています。

五稜郭へと走っていきました。
再び「函館はいから号」を谷地頭で待ちました。

少し遅れて坂を下りもうすぐ終点です。


谷地頭停車中です。ここから 湯の川へ行き折り返して駒場車庫入庫です。


運転台です。
この電車に再び乗車して函館駅まで行きました。

函館駅前です。

湯の川へ向けて走り去りました。
函館は青函連絡船のあって頃、北海道の玄関口として栄えていましたが、飛行機の時代となって、函館山や五稜郭、トラピスト修道院、洋館、朝市 いろいろと観光資源はありますが高速道路にも恵まれず、いまひとつというところでしょうか。 路面電車の路線も縮小してきましたが現在の路線で安定しそれなりの乗客もあるようです。当日は修学旅行の小学生が5,6人のグループで何組も路面電車を利用して市内観光をしていました。一日乗車券は600円と格安ですし6分間隔の電車は便利です。函館バスも頑張っています。
写真はすべて2012年6月14日です。    犬伏 孝司

写真整理学 -3-

今日は台風の接近で一日家に閉じこもったまま。こんな時こそ、写真の整理の絶好機、何事もコツコツとやりたいものです。
 モノクロフィルム(2)
もうひとつ、モノクロフィルムで大きな問題は、経年による劣化だ。
本掲示板でも、tsurukameさんらからも報告のあったビネガーシンドローム現象がその代表例である。フィルムのベースに、経年による加水分解が起こり、酢酸が発生し、あるレベル以上になると急激な劣化を招く現象だ。初期には酢酸臭とともにフィルムベースが湾曲する程度だが、進行すると、フィルムはストロー状に丸まってしまう。こうなると、引き伸ばし機にも掛からず、スキャンさえ不可能になってしまう。当会では”八つ橋”と京都らしい雅びな愛称で呼ばれるが、実態はたいへん深刻な問題である。個人が所蔵するフィルムだけでなく、図書館などで古文書などを保存しているマイクロフィルムにも、その現象が及んでいる。
ただ、幸いなことに、後述する以外には、私のフィルムにその現象はまだ見られない。この現象が顕著なのは、ある時期に製造されたF社のフィルムと言われている。ある時期とは、昭和40年以前を指すようで、その時期、F社のフィルムは、国産フィルムの中では高価で、値の安いSフィルムをもっぱら愛用していた。結果的には、倹約志向が良好な結果を得ているのは皮肉なものだ。
とは言うものの、昭和40年代前半に十数本はFフィルムを使用しており、酢酸臭とともに、若干の湾曲が確認できた。正常なフィルムにも感染すると言われているので、このフィルムだけは現在、隔離中である。
ビネガーシンドロームの初期状態のF社フィルム、強烈な酢酸臭のため、現在隔離中

意外にネガが健在なのは、保存方法にも理由があるようだ。フィルムは、密封せず、ある程度の空気の流入のある容器に保存するように言われている。私も、ファイバー製の紙箱、プラスチック製の整理ケースに保存しているが、いずれも空気の流入するようになっている。年に一度は、天日に干して虫干しし、乾燥剤も欠かさない。そして、ネガカバーの材質も大きいと思う。私のネガカバーは昔ながらの硫酸紙を使った紙製のネガカバー、これだと、湿気を吸収するが、現在のビニール製だと、フィルムが密着して、フィルムの呼吸ができないように思う。
しかし、ビネガーシンドロームの症状がなくても、フィルムをよく観察すると、出し入れするたびに擦り傷が多くなり、経年によって、粒子に”緩み”が生じているのか、プリントしても軟調気味になって、以前のような締まった写真になかなか上がらない。加えて、長く愛用してきた引伸機もついに手放し、銀塩プリントを自家処理することはできなくなった。将来、フィルム劣化がますます進行することも考え合わせると、フィルムのデジタル化も急務の課題だ。
一昨年から、フィルムスキャン機を導入し、現状では、外部へ提供写真については、すべてデジタル化しており、印刷時の効果実証も得ているが、自家保存を目的としたデジタル化までには手が回っていない。長くお付き合いのある方からの報告では、毎日一定量のフィルムをデジタル化することを日課として、数年かかって数万枚のモノクロフィルムのデジタル化をついに完了したそうである。これぐらいの決意がないと達成は難しい。
モノクロフィルムの将来の着地点は、前記の撮影リストのデータベース化、デジタル化したフィルムとのリンク化を計ることとなるだろう。その実現には、膨大な時間と、絶えることのない熱意・根気が絶対に必要だ。

モノクロネガの整理状況、ネガカバーの番号順に並べてケースに収納。ベタ焼きアルバムの番号とは対応しているので、ベタ焼きで目的のコマさえ見つかれば、即座にネガへたどり着ける。