写真整理学 -2-

モノクロフィルム(1)
写真を媒体別にモノクロフィルム、カラー(ネガ・ポジ)、デジタルに分けると、圧倒的に多いのがモノクロフィルムだ。なんせ1961年、小学校6年生から鉄道写真を撮り始め、2002年に幕を下ろすまでの40年余り、モノクロフィルムで撮り続けた。整理番号「1」から始まった35ミリのネガカバーは、カラーポジのメイン化、その後のデジカメの導入により、「1707」でついに途絶えてしまった。これ以外に6×6も数十本あるから、コマ総数は約6万3000となる。フィルムの銘柄は、初期は国産SSフィルム、大学生の頃からコダック社トライXになり、途中で、国産SSS(ISO200)・ISO400、コダック社プラスXなども試験的に使い始めたが、またトライXに戻っている。多少、粒子は粗いものの、カリカリッとしたトライX独特の描写は大好きだった。高校生の時にフィルム現像を覚えたので、大部分は自家現像処理である。初期は、国産の現像液、その後はずっとコダック社の現像液D76の1:1現像を標準とした。
コマ数は、もっと多く撮っておられる方も多いので、自慢することもないが、唯一、我ながらよくやったと思うのは、すべてのコマのコンタクト(ベタ焼き)を取っていることだ。ベタ焼きは6コマずつに切り、ネガカバー番号別に、アルバムに貼り付けている。アルバムも、年代によって様式が異なるが、総数が67冊になった。ネガではなかなか読み取りにくい中身も、ベタ焼きでは、かなり読み取れる。もちろん、すべてプリントできれば最善だが、費用的にも時間的にも困難だ。
問題は、撮影データとの関連付けだ。大学生の前半まで、まだ撮影枚数の少ない時期は、アルバムにひとコマずつの撮影データを書き込んでいた。ところが、枚数が多くなってくると手が回らなくなり、撮影データを書き留めた台帳に分離する形を取った。こうなると、ひと目で閲覧が出来ない。ベタ焼きはネガカバー単位だが、台帳は流れに任せて、記入の基準も思いつき、杜撰な時期もあって、互いにリンクしていないからだ。目的のコマを探し出そうとすると、場合によっては大仕事になる。
今後の方策は、そのために、関連付けをより密接にした撮影データ一覧化が急務になる。エクセルでデータ化できれば、検索も容易だが、自分の技量と照らすと一気には実行困難で、ひとまず、紙ベースでの手書きリスト化を考えている。自作したA4用紙一枚の撮影リストに、フィルム1本36枚分の撮影内容(撮影場所、列車名、車号、年月日など)を記入するようにする。書くという作業は、記憶にも繋がり、ページを繰るという原始的な検索方法も、一番手っ取り早い。

ベタ焼きアルバムと撮影台帳の一体活用が、モノクロフィルム整理の課題。

塩江温泉鉄道跡を訪ねて

湯口先輩の20981「長春の旧塩江温泉鉄道気動車」を拝見して、2009年の年末に塩江温泉鉄道跡で少し写真を撮っていたので、ご紹介します。徳島県側から山越えし 塩江を通ったときのスナップです。線路跡は「ガソリン道」と呼ばれているようですが、知らない人には何のことかわからないネーミングですネ。
ガソリンカーの漫画がよく描けている

ガソリンカーの漫画がよく描けている

塩江温泉駅跡に建つ食堂と香東川の橋台跡
塩江温泉駅跡に建つ食堂と香東川の橋台跡
香東川の橋脚と橋台跡
香東川の橋脚と橋台跡
道路として使われているトンネル
道路として使われているトンネル
手前は鉄道橋の橋脚、向こうに見えるのは沈降道路橋
手前は鉄道橋の橋脚、向こうに見えるのは沈降道路橋

以上のように 塩江温泉から香東川沿いに線路跡はよく残っていましたが、谷が開けて平野部に入ると高松空港もあって道路が整備され、琴電仏生山駅付近も殆ど痕跡が見れませんでした。昭和4年から昭和16年までの短い生涯の鉄道だったにしては、よく遺構が残っているほうだと思いました。撮影は平成21年12月29日ですから、今は少し変わっているかもしれません。 

 

佐渡の鉄道

道遊坑から破砕場に向かう坑外線

道遊坑から破砕場に向かう坑外線

島の鉄道と言えばまず淡路島、戦前の沖縄県営、屋久島の林鉄、サトウキビの南大東島を思い浮かべるのですが、佐渡島にも鉄道があったのです。佐渡と言えば金山で有名ですが、この金鉱山の鉱山鉄道です。実は鉄分抜きのつもりで佐渡旅行をしてきたのですが、思いの外 多くの車両や遺構に接することができました。佐渡の鉱山鉄道についてはJTBキャンブックス 岡本憲之著「全国鉱山鉄道」に1ページだけ紹介されていますが、もう少し詳しくご紹介しましょう。

佐渡金山は約400年前に開山され、江戸幕府の財政の基盤となったのですが、明治維新後は官営鉱山となり、明治29年からは三菱に払い下げられ、三菱金属、三菱マテリアルと名を変えながら平成元年3月末に閉山しています。現在は「金山資料館ゴールデン佐渡」として多くの観光客を集める史跡となっています。残念ながら鉄道車両は静態保存ですが、まずまずの保存状態でした。

道遊坑と道遊の割戸

道遊坑と道遊の割戸。庫内に4Ton機関車が見える。草むらにレールが埋もれている。

 開山当時は露天掘りから始まるのですが、後ろの山の真ん中にV字型の切れ込みが見えます。現在は木が生い茂っていますが、金脈を掘り下げて行った大きな切れ込みで「道遊の割戸」と呼ばれる佐渡金山の象徴です。この金脈に向かって入ってゆく坑道と線路が道遊坑です。

2Ton蓄電池機関車No.6と人車

2Ton蓄電池機関車No.6と人車

この鉱山鉄道の軌間は508mm(1フィート8インチ)と三菱鉱山規格の500mmが混在していたらしいのですが、その区別は不明です。機関車は日本輸送機(ニチユ)製です。ニチユ製の小型蓄電池機関車にはいくつかのタイプがあって、この2Ton車はF型と呼ばれた量産機です。ともあれ佐渡でニチユにお目にかかるとは思いませんでした。ニチユと言えば神足、神足と言えば乙訓のご老人をはじめぶんしゅう殿、特派員殿の地元ということで不思議な縁を感じました。

6号機の銘板、製番は��み取り不能

6号機の銘板、製番は読み取れず

 

昭和13年に三菱電機製の5Ton電気機関車が4両導入される以前には輸入電機が働いていたようですが、詳細はわかりません。蓄電池車ではなく架線式の電機だったと思われます。坑外には2Tonガソリン機関車もいたようですが 、これも詳細不明です。須磨の御大のお出ましを乞う次第。

10号機。機関車だけはきれいに整備されている。

10号機。機関車だけはきれいに整備されている。コントローラーのノッチも軽く動いた。

8号機と鉱車

8号機と鉱車

ニチユの古いエンブレムがついている。号機不明。

ニチユの古いエンブレムがついている。号機不明。

蓄電池機関車は仕事を終えると充電のため車庫に戻ります。今は機械工場ということで工作機械などが展示されていますが、レールの上に旋盤などが置いてあるところを見ると この建物は本来の機械工場ではなく 機関庫だったと思われます。小さなターンテーブルがいくつかあって、充電エリアと整備エリアになっていたようでした。

ターンテーブルと充電エリア並ぶ5,3,2号機。もう1両は坑内に展示。

ターンテーブルと充電エリア並ぶ5,3,2号機。もう1両は坑内に展示。

ここで使われているレールは主要坑道が15Kgレール、一般坑道が12Kgレールということで錆びた古レールが棚に並べられていました。棚にバラ積みされたレールというのも珍しい光景でした。

坑道から2Ton車に牽かれて出てきた鉱車は、坑外は牽引力の大きい4Ton機関車に牽かれて破砕場のホッパーへ運ばれたようです。その4Ton機関車も別棟に保存されていました。

4Ton機関車

4Ton機関車

機関車がニチユ、電池や整流器がGS日本電池、充電制御継電器がオムロン立石電機製と なんとすべて京都で生まれたものというのも京都人としてはうれしい限り。今は亡きSさんが御室にお住まいだったり お父様が確かGSにお勤めだったことも思い出され ここでも不思議なつながりを感じてしまいました(考え過ぎ、こじつけのようですが・・・・)。ところで佐渡島は北前船の寄港地で越後とのつながりよりも関西との文化的なつながりが深い島です。佐渡おけさも もとは北九州地方のハンヤ節が関西、北陸と伝わったものだったり、今も村毎に立派な能舞台が数多く残されて能の伝統があり、料理も関西風のうす味だったりで興味が尽きない島でした。その佐渡金山に京都生まれの機関車たちが働いていたのも おもしろい縁だと思った次第です。

ダルマ転てつ器の残る坑外線

ダルマ転てつ器の残る坑外線

この金山には江戸時代の様子を再現した宗太夫坑と明治時代の様子を再現した道遊坑の2つの観光用坑道があり、両方を見ると1時間半程度を要します。観光バスで乗りつける団体客は時間に追われるため宗太夫坑とお土産店だけで次の名所へ行ってしまうようで、ご紹介した道遊坑の鉱山鉄道跡まで足を延ばす人は少数です。従ってゆっくりと見学できました。この2つの坑道のほか選鉱場跡、製錬所跡などの古い産業遺産も含め、また金とともに金の量の30倍を産出した銀とあわせた金銀鉱山として世界遺産登録を目指して活動しているようでした。今は静態保存の鉱山鉄道ですが、その一部でも動態保存化できれば 集客力も増えるのではと思いました。特にニチユは盛業中であり、比較的良い状態で保存されている機関車ゆえ 復元は楽なように感じます。

現在国内で稼働中の鉱山鉄道がいくつあるのか不勉強ですが、稼働中の鉱山鉄道があっても 普段は見学や撮影は難しいでしょうから 閉山しているとはいえ その様子がよく判り 楽しいひと時を過ごすことができました。わざわざ金山だけのために佐渡に渡ることはないと思いますが、花の島、トキの住む島、古い文化の残る島と様々な顔を見せてくれる島に興味のある方は是非訪れてみられてはいかがですか。

2012年 春の中国鉄路の旅  総集編

44日間の人生最長の旅は、ビザ滞在期限の問題から帰国せざるをえず、帰国後は急を要する用事を済ませて直ぐに、大地へと戻りました。気持ち的には延長のようなものでしたが、堪能するには余りに大地は広く、寧ろもっと行きたい撮りたい所は増えるばかりとなってしまいました。


▲ 前回の乗車距離は12,000キロオーバーでしたが、今回は10,000キロ届かずでした。満州地区での移動が多かったのと、南への移動がなかったせいと思います。特筆は京滬高速鉄道の運賃です。グランシート車に乗車しましたので、1,750元と他の列車を圧倒します。しかし、乗り心地も抜群でクセになりそうです。
続きを読む

京福にもあった?ロクサン!

ロクサンシリーズはまだ続くようです。今回はロクサンのコピー車両?が京福福井支社にあったというお話です。

思えばロクサンは品質は別にして鉄道業界には渇望されたのですね。知りませんでした。のちの80系のコピーブームとは違い、戦後の混乱期のわびしさが身につまされます。

他の私鉄でもコピー車両はあったのでしょうか?

補足 「長い投稿記事について」

田野城会長より、説明のありました「長い投稿記事について」について、補足説明をさせていただきます。「2012年春の中国鉄路の旅 Part25」投稿後、直ぐに説明をさせていただくつもりでありましたが、突然に身内で不幸の連絡が入りまして、急遽宇和島から南へ約1時間の地にある愛南町まで車を飛ばしました。先ほど帰宅したばかりで、大変遅くになりましたこと、お許し願います。

「長い投稿記事について」は、6月2日の役員会席上に何らかの良い対応策がないものかと、議題に上がりました。その中で、「この投稿の続きを読む」を文面に入れて、タブをクリックすることで、以下の投稿原稿を読める方法もあるとの意見が出ました。
これにつきまして、投稿原稿を作成した時に、偶然に作成画面のツールバーから発見したのを思い出しまして、出来るのなら試してみようとのことになりました。もっと、早くに分かっておれば問題なかったのですが、投稿原稿を作成するだけでも大変時間がかかる作業で、偶然に見つけたとは言え、使えるものかの確認ができていませんでした。

まだツールバー全体を掌握していませんので、もっと便利な使用方法があると思われますが、今後試しながら、分かりましたらご紹介させていただきます。
では、今回試用した、「この投稿の続きを読む」についての作成方法をご紹介いたします。

この投稿の続きを読む」 の、作成方法

① まず、投稿原稿をすべて作成してください。

② 右上の「投稿を表示する」をクリックして、校正を行ってください。ここまでは投稿された方なら、通常にされておられる作業です。この段階で、どの位置で 「この投稿の続きを読む」 を挿入したいかをお選びください。

③ 再び、投稿作成の画面に戻り 、②で選んだ挿入したい文章の頭にカーソルを置いて1回クリックしてください。 ※クリックした場所から下の文面は、後で掲示板を見た際に、第一段階では表示されなくなります。

④ 次に投稿作成のツールバーの赤○印を付けました「小さな口、下に大きな口のマーク」をクリックしてください。すると、③で指定された文面に、「・・・・・・・・・・・More・・」との表示がでます。OKでしたら、「保存」をクリックしてください。

⑤ これで終了です。後は、「公開」をクリックすれば、投稿完了です。

⑥ 投稿原稿の確認は、左の掲示板から新しい掲示板をクリックしていただければ、投稿された原稿を再確認できます。もし、間違いがあった場合は、原稿下の「この投稿を編集する」をクリックして、訂正を行ってください。

以上です。よく分からない場合は、コメントを入れてください。

やってみますと簡単な作業です。今までにもっと早くに分かっていましたら、活用できたのですが、前述しましたように発見は偶然で極々最近のことでした。
私のように長い投稿となります際には、是非にご活用願えれば幸いです。

長い投稿記事について

先日、佐竹先輩の写真展で話が出ていました「長い投稿記事があると、以前の記事がすぐに前ページへと飛んでいき、探すのに苦労する」との意見を反映して頂きました。

【20970】2012年春の中国鉄路の旅の記事では、下の方に「続きを読む」というタブがつきました。これをクリックすると長大な投稿記事の延長が開く仕組みです。

これでとりあえずサワリだけ読めるし、続きを読みたければタブをクリックすれば全文読めます。これは投稿者が記事を書いたときにそのように設定するとのことですが、どうすれば良いのかは管理者にお聞き下さい。

皆様のご感想をお知らせ下さい。

ふるさと銀河線での「またきてね」

♯21036 kawanaka_t氏「またきてね」の写真を見て、16年前の北海道ちほく高原鉄道―ふるさと銀河線での記憶が蘇った。60歳になり、あと5か月で定年という時期北海道出張があり、恐らく見納めと根室本線池田まで特急に乗った。北海道ちほく高原鉄道に乗るためである。

学生時代、何度か釧路や根室まで足を伸ばしたのは、いずれも私鉄―十勝、雄別炭鉱、根室拓殖鉄道、鶴居村営軌道、標茶町営軌道等のためで、観光地とは全く無縁だった。池田-北見間の池北線は、1961年3月まで網走本線であり、北見は1942年9月まで野付牛という駅名だった。小生が初めて通して乗ったのは1957年8月だが、沿線ともかく材木だらけ。駅のヤードにはうずたかく材木が積まれ、足寄、陸別、置戸には営林署があり、森林鉄道―流石に小型蒸機の姿はなかったが、ディーゼル機が這い回っていた。沿線ことごとく、活気にあふれていたのである。

それから40年以上経ち、足を踏み入れたふるさと銀河線は過疎、それもただ事でない超超過疎の一言に尽き、駅前の旅館兼料亭、営林署をはじめとする官庁出先機関、材木商、諸商店、民家は綺麗に消滅。駅も側線を外し、かつて材木が山をなしていたヤードは単なる空き地と化し雑草が生い茂っていた。ここにぎっしりレールが敷かれ、大勢の人が立ち働いていたなどとは、初めて来た人には到底想像すらできないだろう。


陸別駅の標識 ここには辛うじて店もあったが駅周辺はご覧のとおり

左側停車中ディーゼルカーの右2階建がお目当ての宿泊棟だが貸切で残念

新潟製ディーゼルカーの車内で、隣の人が当方の沿線での宿泊希望を聞き、そりゃ陸別にしなされ。あのホテルはいいとのお墨付きを。沿線住民自慢の施設だったのである。ところがシーズン外で観光客皆無、ホテルは建設会社に貸切で、作業員が一杯でお気の毒様。駅前に辛うじてもう一軒あった旅館も別の土建会社が借り切っており、当方の願いは聞き入れられず、宿無しとは相成った。

段々日は暮れてくる。あと2時間後の列車で北見まで出れば、当然ビジネスホテルはあるだろう。それともこの駅でステホ?と迷っていたが、先ずは缶ビールで気を落着け、電話帳を繰ると2駅北の川上近くに民宿らしきものがある。電話すると、どうも応対が芳しくない。当方は通常の旅館と思われると困ります。男女別部屋で、風呂も御気に召さないかもしれないという。どんな宿でもこの歳になってのステホよりマシと食下がり、OK取り付けに成功。真っ暗の中川上に下車したが、駅は乙女チックだが無人で、周囲には民家など一軒もない。

先ほどの電話では駅から真っ直ぐ、500mぐらい歩けとのことで、乏しい星明りの下を歩き出しかけたら、若い兄ちゃんから声がかかり、4駆車に乗せて宿まで運んでくれた。てっきり宿の人かと思ったが、単なる宿泊者で、初めての人が真っ暗な道では大変だろうと、ボランティアで迎えに来て呉れたのだった。

これは廃校になった小学校で、脱サラ夫婦がバイク野郎相手の民宿を開業したもので、客はバイクか4駆車で北海道を走り回る「北海道オタク」の若者ばかり。皆さん菓子や焼酎などを持ち寄って、素朴な夕食後はそれをつまんだり、回し飲みで話を弾ませていた。この沿線が材木で賑わっていた事、ましてナローの森林鉄道が縦横に走っていたなど、宿の主人も含め誰も知らない。小生だけが手ぶらだったから、焼酎をご馳走になったかわりにそんな昔話をすると、皆の衆感心して聞いてくれていた。

夜半、星が綺麗に見える場所があると、観星ツアーが企画され、各人の車に分乗して出発。生憎天気が良くなく星はそれほど見えなかったが、戦時中以来の「真っ暗」はたっぷり体験できた。


無人の川上停留場に終結した「見送り隊」

翌日ふるさと銀河線に乗車するのは小生一人。出発前宿の主人が一声掛けると、全員が500mほど離れた駅まで見送ってくれたのに驚いた。犬も一緒だったから、宿はこの間完全に空っぽである。こんな経験は後にも先にも、これだけ。このときの写真を大きく伸ばし、宿に送ったから、しばらくは居間に張ってあったことだろう。


白ゴム長は宿の奥さん 犬だけがソッポを向いていた

川上駅を後にディーゼルカーは北見へ かつてはこの駅も左右は材木だらけだったのだが

「また来てね」の写真

KAWANAKAです。

しばらく東京で仕事をした後、関西に戻って和歌山にいましたが、高槻のトレインビューの我家に無事戻ってきました。

何の記事かな?と思われますでしょうが、小生気になっていたことがありました。実は前の写真展で、「また来てね」というタイトルの写真を出しました。この写真は昨年の秋に仕事の帰りに小港鐵道を訪問し、日が暮れるまでの僅かの時間を海士有木の駅(ここまでしか時間的に行けなかった)でロケ/その間の時間つぶしをしたときに撮ったものです。

そのとき時間があったので、駅の業務委託を受けているおばさんと世間話、打ち溶けましたが、帰りの車窓から見ると手を振っているのが見えたので、瞬間的にシャッターを切りました。準特急先輩がこの写真は写真展決まりや、と言い、福田氏などの選定もあって「また来てね」の写真となったのだが、せっかく写したのであるのでお渡ししたいとずっと気になっていました。

たまたま出張で午後に時間ができたので、6ツに引き伸ばした写真を海士有木まで持って行きました。行ってみるとおばさんがいません。「このおばさんは?」と写真を見せて聞くと「交代でもうすぐ来ます」とのこと。待つこと10分。中村さんというおばさんが現れ、話すうちに次第にそのときのことを思い出してきました。写真を撮られるのは好きではないが、だいじに額に入れておきますとのこと。販売機からジュースやコーヒーを買ってきて精一杯の接待?をしてくれました。

たった、それだけのことです。次の上り列車で五井経由都内に戻りました。また手を振っていましたが、今度は写真を撮りませんでした。半日使いましたが、肩の荷が降りたような気がしました。今度は本当に「また来てね」と言っていました。

投稿するような高尚な内容ではありませんが、鉄道を通じて触れ合ったひとつの出来事としてUPしました。掲示板には写真展の写真がありませんが、「また来てね」を掲示します。瞬間に撮ったので拙写ですが、家に飾ってもらえているとしたら幸甚です。

こんなん、出てきました。 レンゲと蒸気機関車と・・・加古川線の段

 明延の一円電車の写真が見つかった時に、すでに忘れていた写真が多く出て来ました。その中にレンゲ畑の中を加古川線のC12が引く貨物列車の写真がありました。前回の時にぶんしゅうさんからニコンのCaptureNX2という画像処理ソフトを教えていただいて、さっそく体験版で実際に画像処理をしてみると、なかなか具合がよろしいので購入いたしました。それを使って加古川線で撮った写真をなんとか見ることが出来るようにしました。

上の写真が退色復元し、カビで変色した部分などを修正したものです。ごらんのように天気が悪く、ねむい写真になっています。このときの事情が私が保存している「青信号」とともにDRFCの重要な情報誌である「補機」35号に記事として載っていました。

ごらんの写真の様に「青信号」と同様に全手動孔版印刷によるものです。表紙の絵は熊本市交通局350型電車です。

 さて、その記事の題名は「1日Ⅱ←(1or 2)?本もとれる加古川線を訪ずれて」です。原文どおりに書きましたが、実は一部おくり仮名が間違っています。それでは本文ですが「5月3日の憲法記念日、私は加古川線に 蓮華の花とC12を求めて京都8:05発の快速に乗車した。茨城からI氏が、大阪からY氏が乗って来て、ここに第2次青野ヶ原現地闘争のメンバーが集まった。」とあります。人名はイニシャルで記載いたしますので、だれか想像してください。どうも5月連休の時に行ったようです。筆者は蓮華の花とC12にこだわっていたようです。「・・・、10時10分発の鍛冶屋行のディーゼルの乗車、車はキハ177である。とにかくロケハンというので青野ヶ原より一つ向うの社町迄乗ったのであるがクサイので青野ヶ原に、次の上りで引き返す。」今では廃線となった鍛冶屋線の終点鍛冶屋行に乗ったようです。この文章のなかで「クサイ」とあるのは臭いが「クサイ」のではなく、写真にするには風景として雑然としてよい写真にならない時などに使用する言語で、当時のDRFC人が好んで使用した言語です。ほかに「クサイ写真やな~」とかいろいろな場面に使用されていた様です。いまではこのような言葉は不適切な表現となるのでしょうか?

 青野ヶ原に戻ってから本文はI氏がフィルムが買うために八百屋や散髪屋などをうろちょろしているくだりがあり、その後「5分程歩くとコッテリ蓮華のある所があったので、そこに三脚を据える。まだ時間があるので持参した弁当で腹ごしらえをする。どうせのろいのろいとタカをくってゆっくり食っていると突然汽笛一声とともにスサマジイスピードでやって来た。C12167+貨車3両である。」 このときの写真が最初の写真で、さらに接近したときの写真が下の2枚の写真です。

 

そして、筆者は「あわててシャッターを切ったが、アッというまにポコポコ行ってしまった。普通、写真を撮った後は何か余いんが残るのに今度ばかりは何も残らなかった。C62がはやいのはいいもんだがC12があんなに早く走ってはワヤクチャである。」と書いています。とにかく天気が曇りと光の具合が悪く、鮮やかさに欠けた写真になってしまいました。露出やシャッター速度の条件もまだ未熟なのでうまくいかなかったのでしょう。最近のデジカメであれば機械がうまく調整してくれるのでこんなにひどくはならないと思いますが・・・ 。とにかく、画像処理のおかげで何とか見ることが出来ますが、カビによる変色についてはもう少しよくなるように研究が必要です。

 さて、この後は下りの貨物列車までに4時間ほどあるので神戸電鉄で小野の町まで行って時間をつぶしたと書かれてあります。再び、青野ヶ原に戻り、「そして青野ヶ原-社町間の大築堤の所でタップリ蓮華を入れて三脚をセット。まず2本の気動車を狙う。」この時に撮った写真がごらんのようなピントがどこに合わしたか、狙いの定かでない写真が出来上がりました。

前ピンでもない、中ピンでまったく恥ずかしい写真となりました。まあ、これはこれで斬新的な試みとして慰めるしかありません。そして「・・・、いよいよ本日のメンエベントである下り貨物を今や遅しと待ち受ける。しかしホンマに遅いがな!!貨物は15:58青野ヶ原通過であるが来いヒンがな。いやな予感がした。・・・いやそんな筈は無いと言い聞かせ、しばらく待つと、スワッ!! やっぱり運休である。・・・、家に帰るために16時20分の748Dに乗り粟生迄行く。車両は木破銃菜々七である。帰りは、神戸電鉄で新開地、阪急で河原町迄と帰って来たが家に着いたのは8時過ぎであった。もちろんヨレボロである。」結局、このときは上りの貨物列車と気動車を撮っただけであったが、今となってはレンゲ畑とC12の貨物列車という貴重な写真になったとしだいです。そして筆者は「しかし、加古川線はエエ、皆様に勧めます。」と締めくくっています。さて、これを読んで加古川線に行った奇特な人はいたのでしょうか。

そして、上の写真はレンゲの花と戯れる筆者の姿です。さて、だれでしょうか?はるか、41年前の出来事でした。

横浜線の183系修学旅行臨時列車

横浜でも田植えの季節となりました。この時期毎年神奈川地区から日光への修学旅行臨時列車が運転されます。地元の横浜線でも本日から田町の183(189)系で運転を始めました。本日の編成は田町のH81編成(クハ189とモハ183,182の8連)でした。田町から新宿、八王子経由で小机7:31着で折り返し8:08発で日光へ向かいました。(八王子、武蔵野線経由大宮、宇都宮、日光とのことです。)

眠そうな曇り空の183(189)系8連、横浜線ではめったに見られない国鉄特急色です。小机行きの回送です。(十日市場 中山間)

折り返し 日光へと向かう列車です。先頭はクハ189-10です。(鴨居 中山間)

日光行きの少し前に来た 田町の185系 松本行特急「はまかいじ」です。(中山 鴨居間)

いつもお世話になっている 205系です。(中山 鴨居間)

修学旅行列車といえば昔は専用車があり我々の年代ではお世話になった方も多いのではないかと思います。155系、159系、167系、キハ58-800 28-800などがありました。今でも「こまどり」クハ159-4に名古屋から乗った時のことはよく覚えています。
ハマ線の205系も置き換えが発表され、田町の183(189)系、185系もいつまで見られるか 日常の電車の写真を普通に写していきたいと思っています。犬伏

2012年春の中国鉄路の旅 Part25  长春(満州国首都 新京)から一路、上海へ 京滬高速鉄道、開業1年後の乗車レポート

29日間に及んだ春の中国鉄路の旅も、帰国への途を迎えました。今日は、夜の列車に乗って北京へ、そして北京南駅に移動して昨年6月30日に開業した京滬高速鉄道のグランシートで上海へと向かいます。移動距離は、一気の2,321キロです

第28・29日目 5月16・17日 長春→北京→上海→帰国

① 長春 22:00(Z62次)→6:00 北京      1,003キロ  8時間
② 北京南 8:00(G11次)→12:55 上海虹橋  1,318キロ   4時間55分
③ 上海浦東空港 18:10(JL898)→21:25 関西空港→なんば→梅田・大阪→長岡京

▲ チェックアウトタイムまで粘ってから、長春駅前のホテルへ行き、午後4時から休憩チェックインするので荷物を預かって欲しいと言った後で昨日ロケハンしておいた撮影地へと向かいました。カラフルな車体色の軽軌車両です。


▲ 上下線が分かれている芙蓉橋の道路高架橋に行って見ましたが、なぜか右側通行ではなく逆です。予定していた列車が撮れず後から来た貨物になりました。再度移動して機務段への連絡橋で電気機関車たちを撮りましたが、 続きを読む

長春(新京)の旧塩江温泉鉄道気動車

いささかも年齢を感じさせず、世界を縦横無尽に駆け巡り、只管列車を追いかけ、美食を求め、ビールを喰らい続ける”ぶんしゅう”氏のエネルギーと胃袋には端倪すべからずというか、感嘆するほかはない。近年さっぱりやる気を失い、指折り余命を数えるだけの小生にとってはこの世の話とも思えないが、彼氏の爪の垢を頂戴し煎じて服用すれば、いささかなりともあやかれるのだろうか。

で、6月2日アップの長春(新京)その2には、2005年訪問時展示されていた旧新京の路面電車写真が4枚掲載されている。その左下は、まさしく四国讃岐は塩江温泉鉄道の、旧ガソリンカーであるから、覇気生気を失った老人とて、黙っているわけには参らないではないか。

川崎車両英文カタログ掲載の塩江温泉鉄道ガソリンカー 車内がやったら長く見えるのは超広角レンズ撮影のため

これは我国標準軌間鉄軌道として唯一の非電化で、琴平電鉄仏生山から分岐し、塩江温泉まで16.25km。高松から専用貨車を、事平電鉄に併結し、自社線は瓦斯倫機関車で牽引直通する目的で標準軌間を採用した。しかしその後トラックと競争にならないとして、旅客専業で1929年11月12日開業。車両は終始半鋼片ボギーガソリンカー5両のみであった。

川崎車両がガソリンカー第一作として受注したが、先発の日車に負けてなるものかと、欧州風の車体、前後を絞った妻面1枚窓、側面は2個セットの窓の間(吹き寄せ)にも、細い嵌め殺し窓を設けるなど、他例のない構造・デザインである。少し前松井車両が中遠鉄道に2輌納品した木製・鋼板張り片ボギー車に追随した、我国ニ例目であった。

機関はブダDW-6、自重6.5トン、定員40(内座席20)人で、この点はほぼ問題はないが、日車との対抗意識が強すぎたか、極端とも言える軽量化設計とし、それが裏目に出て、購入側も納入側も手ひどい目に会うことになる。

納品が遅れ、ロクに試運転ができないままの開業で、何と輪心が車軸から抜け出すなど、聞いた事のない低次元な故障や不具合が続出。川車も必死で対応はしたのだが、散々な体たらくで、要は川車がガソリンカーでの無経験を無視し、自己技術を過信して突っ走ったためと思われる。

営業報告書には「故障頻発製造者川崎車両会社ノ熱心ナル修復アリシニモ拘ラス著シク運転状態ヲ乱シ大ニ人気ヲ阻害シタリ其ノ後拾壱月下旬ニ至リ漸ク故障原因ヲ発見修繕ニ努メタル結果無事平常運転ニ復スルヲ得タルモ時既ニ閑散季ニ入レリ」とある。

通常車両は1から納入されるものだが、この鉄道では3~5が早く、その3両で開業したようだ。1、2は数か月遅れているので、この間手直しをしたのであろう。価格も1両1万円と高価な車両だった。琴平電鉄に合わせ50分毎、一時25分毎と頻発したこともあるが、乗客は少なく、1938年5月1日琴平電鉄に併合。石油消費規正に対し代燃化もなされず、1941年5月11日廃止された。

ぶんしゅう氏の写真はこれから後で、車体をそのまま、ブリル単台車を装着して電車に化け、新京にデヴューした次第であった。

なおこの車両は両端が絞ってあるため、写真からは車体幅が極端に狭く見え、従前誰も確認しないまま「標準軌の軽便」だの、「車体巾は軌間より僅かに広いだけ」などと無責任に記され、信じ込まれていたが、現実の車体実幅は2,250mmである。また掲載英文カタログ記載軌間は1067mmとあるが、単なる間違いか、川車として何らかの思惑があったのかは不詳。

佐竹さん、三たび“東北を旅して”写真展

我らが人間国宝、佐竹さんが、3回目となる、東北の鉄道の写真展を開催されている。
    佐竹保雄の鉄道写真展 ”東北を旅して”
    6月2日(土)~30日(土)(月曜日休廊)
    集酉楽サカタニ2階喫茶ギャラリー(京阪七条駅東)
昨年来、東北の鉄道の復興を願って、各所で写真展を中心としたイベントを開催されてきた佐竹さん、今回は、前回展示に加えて、未発表の作品も加えた、約30点を展示されている。聞くところによると、昭和29年に初めて東北を訪問以来、昭和49年に撮影を止めるまで、実に46回も東北へ行かれたそうだ。とても凡人には真似のできない、その厚みだ。
本日は、TUYANとともに、飾り付けの手伝いをしたが、佐竹さんはその準備で前日は徹夜されたそうだ。決して無理されないよう、今後のますますのご活動を願いながら、観覧したいものだ。

東北でいちばんのお気に入りは五能線とのこと。手前はりんご畑の中を行くハチロク。海岸では、一夜干しのスルメをかじりながら撮影されたそうだ。

2012年春の中国鉄路の旅 Part24  长春(満州国首都 新京)その2 長春の軽軌と路面電車

第27日目 5月15日 長春の軽軌と路面電車

いつものように元気に目覚めましたが、無理をせずに午前中はPC作業に没頭して、外へはお昼からにしました。目指すは、久しぶりの長春の路面電車です。
人民広場近くに泊まっていましたので、路面電車54路が走る所までは遠いです。まずはホテルを出発して、2011年6月30日に試運転(客扱い有り)を開始した軽軌4号線の初乗車兼ねて向かう事にしました。、


▲ ホテル前からバスに乗って軽軌の东大桥站(東大橋駅に着きました。ガラス張り円形のすばらしい駅です。4号線の総延長は、16.33キロ(地下軌道3.3キロ含む)で、16駅(内、地下3駅)が設置されています。駅に入りICカードを購入しようとしましたが、まだ売っていません。改札口はICカード対応になっていますが、どうしてかなと思いましたが、乗車してみると分かりました。まだ工事中で未完成な駅が2駅ありましたので、暫定開業扱いなのです。4号線の使用車両は、2000系3000系の2種類です。


▲ 仕方なく切符を買う事にしましたが、下車駅が分かりません。メモ用紙に54路路面電車に乗りたいと書いて渡すと、起点の长春北站まで行って降りて、3号線に乗り換えるのが早いと申されます。いや、私は遠回りになっても良いので3号線との接続駅で乗換えて行きたいと言うのですが、理解してもらえません。またいつもの挨拶です。その頃には、駅員が全部集まってきてしまいました。駅員を見ると全員20代前半のの若いお嬢さんばかりです。新しい路線ですので、全て若い女性に絞って採用したようです。一人が手書きで乗換駅
卫星路站)と下車駅(卫星路站)を書いていただきました。老人にはやさしい娘さんばかりです。


▲ 早速乗車しました。軽軌と言っても4号線を走る車両は鉄道車両ではなく、路面電車です。こんな立派な高架軌道を走れるとは、この路面電車は幸せですね。 他の都市では軽軌のホームに駅員がいて、撮影しようとすると撮影禁止とか危ないと言って、静止させられることが多いですが、ここでは誰もいませんので気にすることなく撮れました。3000系
70%低床式C型軌道電車で、連接6両編成です。車両長62m、車高3,600mm、車幅2,650mm、最大定員能力500人、座席定員132人、走行音は65デシベルに押さえられています。最高速度は70km/hですが、現在40km/hに抑えられてのノロノロ走行です。


▲ 3号線への乗換の卫星路站(衛星路駅)に着きました。この駅も設備は路面電車が走っているとは思えないほど立派です。

▲ 3号線を走る路面電車です。こちらにも3000系は走っていますが、主力は開業時に導入された連接3両編成の2000系です。

3号線は、2002年10月30日に长春站~卫光街が開業、2006年12月26日に长影世纪城まで延伸され、全線34.4キロとなりました。33駅が設置されています。最高速度は、開業当初は40km/hでしたが、今は70km/hで運転されています。乗客は多く3両編成では、日中でも満員で走っていました。富山のライトレール同様に市民に定着した感があります。
最初に敷設された区間は、国鉄線と平行した地上線を走行しますので、道路が線路上を跨いでオーバークロスしていますが、離れてからは道路とのの平面交差があります。軌道優先とはなっていなく、停車しての信号待ちとなります。
運賃は、4号線と同じ乗車キロ制で、14.5キロまで2元(約26円)、14.5~24.5キロは3元(約39円)、24.5キロ以上は4元(約52円)となっています

今後、軽軌を市内交通の中心として新規開業されます。1、2号線、5~7号線と、2050年には総延長距離179キロとなる計画です。1、2号線は市内中心部を走行しますので、全線地下化されます。ただし、同じ車両が走るかは現在、発表されていません。

▲ 軽軌3号線4号線有轨电车(路面電車)が走る54路の路線図です。

▲ 卫星路站で降りて、54路路面電車に乗換えて、終点の西安大路へと向かうことにしました。

長春路面電車は、1999年8月に長男と一緒に東北旅行で初めて訪れて以来、4度目の訪問です。


 


▲ 春の日差しを受けて緑一杯の専用軌道を走ります。13年前と比べると、緑も増えて綺麗になりました。

【長春の路面電車の歴史】
1932年3月1日、日本は中国東北部に満州国建国宣言をしました。首都は長春に定められ、名前も新京と改められました。建国後、大規模な都市計画が実施され、上下水道・ガスが完備された近代的な人造都市が誕生しました。街路は、60m幅の舗装された大路となり両側には街路樹が植えられ、美観を損ねる電線は土中に埋められました。

都市交通は、都市美観を守るためにバス・Taxiによって運行されていました。1939年には瀋陽と同様に当時最も進んでいた大阪市交通局の指導のもとに地下鉄計画が立案されました。1940年より工事着手となっていましたが、戦争による資材不足のため断念され、1941年1月から路面電車の敷設工事が始まりました。路線は都市美観を守るためにメインストリートは避けて、翌年にはさらなる新線も建設され、総延長距離は37.3キロに達しました。
使用される車両は、日本車両名古屋工場で新造された車両の他、玉川電気鉄道の2軸ボギー車5号、武蔵電気鉄道の車両や、四国仏生山からの塩見温泉鉄道の気動車が電装化されて送られ走行したそうです。

▲  2005年に訪問した時に長春号の車内に展示してあった写真です。これが本土から送られた車両ではないかと思いますが、どうでしょうか?

敗戦による満州国崩壊後は、トロリーバスに転換されたりして、全長7.64キロの54路を残すのみとなりました。最初に訪れた1999年当時は、まだ道路共用軌道もありましたが、2000年6月から突然線路撤去工事が始まり、一時廃線かと案じましたが、約1年間の間にPCコンクリート枕木化、架線柱のセンターポール化、屋根付きホーム整備、道路共用軌道から専用軌道への配線替えが行われ、近代化した都市交通へと変貌を遂げ、国産新車(800型)も投入されました。最後まで残った満州時代の日車製200型も車体更新して生き残りましたが、その後に廃車となり現在は走っていません。



▲ 上の写真は、1999年、2005年と2012年の西安大路駅での比較光景です。1999年では泥だらけの道路と道床でしたが、迴に植林された木々も育ち、徐々に整備されてきました。戦前の200型は、床の木材が磨り減って所々は下が見えているような状態でしたので、この国では補修が出来ていないのだと思いました。


▲ 54路を全線乗車・撮影後、明日北京圣由にて上海へと乗車するリニューアルなった長春駅を視察に参りました。夕食はいつものように麺です。  Part25  へ続く

秩父鉄道デハ801によせて


 羽生駅に停車中のデハ807
-クハ857+デハ808-クハ858 (H1-4-29)

このところ63形の話題が続き、関 三平さんの「昭和の電車」も国鉄に続き南海と山陽電鉄の63形が登場した。

ロギング太郎さんが発表された三井三池のホハ203の写真は非常に貴重で、正面のグリル、扉上の水切り等63形の原形をよく残しており、サモハ63形そのものである。但し、モハ63形の私鉄向け割当車ではなく自社発注車である。

西村雅幸さん発表の秩父鉄道デハ801の前身は、記述されている通り元小田急デハ1800形であるが、更に前身を辿ると、名鉄から購入した車両と事故廃車国電が混在しておりややこしい。

簡単に述べると、終戦直後の大東急時代、運輸省から国鉄向けのモハ63形の割当てを20両受けた。内訳は電動車と制御車各10両で電動車はデハ1800形(1801~1810)、制御車はクハ1850形(1851~1860)であった。デハ1803~1808、クハ1853~1858は経営受託中の相模鉄道で使用、昭和22年11月受託解除後デハ1806~1808、クハ1856~1858は正式に譲渡した。23年3月名鉄から電動車、制御車各3両を譲受け、デハ1811~1813、クハ1861~1863とした。国鉄から事故廃車となったモハ42004(4扉改造車)とモハ60050を27年と24年に譲受け、デハ1821、クハ1871(←クハ1661)とした。

26年6月から車体整備とデハ、クハ間の貫通路の拡幅と貫通幌の設置が実施され、デハ1809~1813、クハ1859~1863はデハ1806~1810、クハ1856~1860に改番された。
32年から33年にかけて元国電のデハ1821、クハ1871共々全金属製の新製車体に乗せ換えられ、デハ1821、クハ1871はデハ1811、クハ1871はクハ1861に改番された。

54年から56年にかけて廃車になったが、22両全車両秩父鉄道に譲渡された。秩父鉄道では、車号の1000番台を取ってデハ800形、クハ850形となったが、デハ1806とクハ1856は部品取り車となり、デハ1811、クハ1871がデハ806、クハ856となった。塗装は当初他車と同じエンジとクリームであったが、61年元国鉄101系のデハ1000形が黄色に茶色の帯で登場すると同じ塗装に変更された。その後もデハ1000形の増備が続き平成元年から2年にかけて廃車になった。秩父鉄道での在籍期間は約10年と比較的短かったが、以降の普通列車用の車両は、元国鉄101系のデハ1000系、元都営地下鉄三田線6000形の5000系、元東急8500系の7000系、同8090系の7500系と4扉車を増備している。(一時期3扉の元東急7000系の2000系が在籍したが比較的短期間で廃車された)

西村雅幸氏投稿のデハ801の車歴は下記の通りである。
東急デハ1801→小田急デハ1801→秩父鉄道デハ801
ちなみにデハ801の置かれていた場所には、現在京王電鉄井の頭線の中間車デハ3063が置かれており、デハ801は別の場所に移されたようである。高崎方面に行った時に現地で確かめたい。

デハ807/車歴は東急デハ1810→小田急デハ1810(初代)→デハ1807(2代目)→秩父鉄道デハ807 (H1-4-29 羽生)

 クハ858/車歴は名鉄クハ2704(初代)→小田急クハ1861(初代)→クハ1858(2代目)→秩父鉄道クハ858 (H1-4-29 羽生)
 

デハ1000形の近況
昭和61年から平成元年にかけて、オリジナルのデハ100形、今回のデハ800形等の置換えに3連×12本=36両導入され、普通列車の主力として運用されていたが、平成21年から廃車が始まり、現在は次の4編成が残るのみとなった。現在のところ日常的に運用に入っているが、車齢等を考慮すると早めの撮影をお勧めする。

デハ1001-デハ1101-クハ1201(旧国鉄クモハ100117-モハ101100-クハ10158)/(H20-9-5 三峰口)

 デハ1003-デハ1103-クハ1203(旧国鉄クモハ100133-モハ101118-クハ10162)/(H24-5-20 広瀬河原)

 デハ1007-デハ1107-クハ1207(旧国鉄クモハ100130-モハ101112-クハ10161)/(H20-9-5 三峰口)

 デハ1010-デハ1110-クハ1210(旧国鉄クモハ100160-モハ101208-クハ10173)/(H20-9-5 三峰口)

 5月20日付で運用離脱したデハ1002-デハ1102-クハ1202(旧国鉄クモハ100140-モハ101179-クハ10161)/旧々塗装であるが違和感はなかった。デハ800形も入線時はこの色であった。/(H24-5-20 広瀬河原)

 秩父鉄道の他の在籍車両は、元都営三田線6000形の5000系4本、元東急8500系の7000系2本、同8090系の7500系6本、急行列車用として元西武新101系の6000系3本で、元東急車のウエイトが高くなっている。