北の大地へ2010年初夏編 Part6 根室本線

第7日目 2010年6月30日
① 厚岸6:47(快速「はなさき」3625D)→8:13根室
② 根室8:22(5628D)→9:49厚岸

昨夜からの小雨が続く朝を迎えました。起きて直ぐにTVをつけて、昨夜のワールドカップの結果を聞きました。結果はご存知の通りですが、もし見ていたら興奮して寝られなかったでしょうね。
友は「天候に恵まれない雨の日こそ、めったに見られない光景を写せるチャンスがある。」と、有名な鉄道カメラマンの言葉を言いますが、小雨に加えて霧も出れば、白い世界しか写らない。どうしたらいいんだと言いたくなります。しかし行動を起こさないと、チャンスは生まれてきません。他のオートキャンパー達が眠る道の駅「厚岸グルパーク」を出発して厚岸駅に向かいました。
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北の大地へ2010年初夏編 Part5 根室本線、太平洋石炭販売輸送㈱臨港線

第6日目 2010年6月29日
朝起きると、「道の駅しほろ」の駐車場は、車で寝泊りしながら道内を観光する全国各地からの車が数多くありました。立派なキャンピングカーもあれば、小型車で簡単な窓隠しをしただけの車もあり様々です。その方々のご年齢層は、私達より高く70歳前後以上です。男性一人の方もおられれば、ご夫婦もおられます。どなたも約1ヶ月かそれ以上をかけて、ゆっくりと道内を見て回ると言っておられました。ようやく日本も、退職後の余暇を楽しむ方が増えだしたなあと感じました。
6:00、ゆっくりと朝食準備されている方々を見ながら、我々は早朝からの撮影に出発です。

6:50池田駅着。1番ホームに新得行きキハ40-1723、2番ホームには、浦幌行きキハ40-1774、芽室行きキハ40-722+キハ40-1778+キハ40-751が縦列で停車中。

▲ 7:31豊頃駅を通過して、池田方面に向かう特急「スーパーおおぞら2号」を73号線の高架橋から撮影しました。

7:50新吉野駅着。ここで、先行する2523D新吉野駅で追いつきました。

8:00浦幌駅着。帯広~浦幌の区間列車が走るだけに駅周辺は、住宅街です。きっと池田や帯広に通勤通学客があるのでしょう。


次の上厚内駅は、木造駅舎ですので、じっくり訪ねることにしました。国道側に駅舎はなく反対側です。行き過ぎてから踏切を渡ろうとすると、良い感じのカーブとなっています。丁度釧路からの特急「スーパーおおぞら4号」が通過する時刻です。振子式を撮るにはカーブが1番です。1つ邪魔なハエタタキがありましたが、まずまずでした。

8:26上厚内駅着。待合室にFRP製椅子が設置されていますが、ドアや窓もアルミ製ではなく、外観は純木造駅舎です。この後もぶんしゅう7号での各駅停車の旅は続きます。


上厚内
からの道路はJR線と分かれたので、直別駅まで行ってしまいましたが、手前で逆Ⅴ字形に折り返して、厚内駅へと海岸沿いをロケハンしながら向かいました。

丘陵が海岸近くまでせり出して、わずかな間に根室本線と側道が走っています。丘陵上から海岸線を入れて撮りたいのですが、土砂崩れ防止コンクリート壁が設置されているので、これが邪魔です。また電柱・太い電線もあります。邪魔物がなく丘陵が途切れる間を見つけては止まって、撮影可能か確認しますが、なかなか条件が揃った場所はありません。
それでも1ケ所、何とか撮れそうな場所が見つかりましたが、たどり着ける道がありません。こうなれば、2人で道を開拓するしかありません。庭バサミを取り出して、線路を横切り丘陵の多い雑草を刈り取りながら道を作り、滑りやすい斜面を上へと登って行きます。二人いたからこその作業です。一人ですと、途中で滑り落ちて動けなくなったら最後、誰にも見えず分らずで天国行きです。
約30分をかけての作業で適当な撮影地にたどり着きましたが、快晴でなく水平線が見えません。しかし雨が降らなかっただけでも良かったと、列車を待ちました。
10:14釧路行きの特急「スーパーおおぞら1号」が通過。

アングルに収めきれない通常より1両多いありがたくない8両編成です。

約30分後に貨物列車が追走してきます。音別~古瀬間に絶景ポイントがあるので移動しようと向かいました。途中の尺別駅は、かつて尺別鉄道の起点駅なので立ち寄ってみました。約40年前は数千人が居住していた駅周辺は、廃屋が数軒あるのみで、跡は自然へと戻っていました。駅構内もC12形機が往来したヤードの面影は、全くありませんでした。

絶景ポイントに到着しましたが、手前の音別駅で交換のため約40分間停車するのを忘れていました。急いで引き返しましたが、貨物列車が来てしまいました。ベテラン二人がいても、疲れていると考えられないミスをしてしまいます。

11:04音別駅着。駅員の方が、丁寧に交換する列車と時刻を教えてくださりました。ありがとうございます。
音別駅で2093コンテナ貨物列車は、入換作業をします。久しぶりに途中駅での作業を見ました。約半分のコンテナ車を切り離して、留置貨物線に牽引します。音別駅近くには、Kioskで販売されるオロナミンCの製造工場があって、この輸送のための停車だったようです。



入換光景を撮影後、音別~古瀬間の丘陵地帯へと戻り、まず釧路行きの特急「スーパーおおぞら8号」を待ち受けます。次に音別駅で交換した2093貨物列車を待ちました。
12:05キハ40系2連の2525Dを撮影後は霧がたちこめてきて、撮影不可能となりました。


自然には勝てません。撮影は諦めて釧路へと走り釧路運輸車両所に立ち寄りますと、国鉄色キハ183系4両編成が留置されていました。これには、総本家さん大喜び、他に休車等の留置車両多しで予定を変えて撮影会としました。



今回の訪問希望地の1つだった太平洋石炭販売輸送㈱臨港線には、14:40着。事務所によってダイヤを聞くと、残念ながら今日の運行は終わっていました。運行は、当日の採炭量によって決まるとかで、石炭輸送専用ですので炭鉱トロッコと同様扱いです。撮影許可を取って、構内のDL・石炭車を撮りましたが、総本家さんGE製DE601の美形にうっとりです。私は、初めて見る連接式の石炭車セキ6000形にびっくりです。走っているシーンが撮りたかったですが、次回にしました。


▲ 他にも珍しいロッド駆動式のD401機等の凸形機がありました。D701機を除いての現役機のラジエーターファンの上に屋根が付いていますが、なぜでしょうか?

今日の宿営地は道の駅「厚岸グルメパーク」です。ここからは、約50kmで楽勝と思っていたら、途中でナビにない新しい道を走ってしまい迷走です。結局、元来た道に戻らざるをえなくなって、大幅に遅れ16:15門静駅に到着しました。ホームの先から海が見えました。少し戻って、山間のオーバークロスで撮ろうとの提案がありましたが、先を見てから決めようと向かいましたら大正解でした。海岸沿いに広がる厚岸の町並みをバックに線路があります。小高い丘をまた二人三脚で道を開拓して、見渡せる撮影場所を造りました。

私が最も好きな光景です。16:32釧路行き5638D17:14室行きの5637Dの2本撮った後は、順光で夕陽もさしてきました。本命の17:325640D撮影を楽しみにしていましたら、直前に突然ご覧のような雲が下りてきました。

宿営地は道の駅「厚岸グルメパーク」には温泉がないので、電話をして近場の温泉を聞きましたが、1時間以上行かないとないそうです。代わりに厚岸には1軒しかないという銭湯を紹介してもらいました。十勝沖地震以前は町内に4軒あったそうですが、ここを残すのみだそうです。中は番台におばちゃまが座って、常連の入浴客と話している昔の銭湯光景で、レトロなお湯を楽しめました。

夕食は勿論、厚岸の牡蠣料理を「厚岸グルメパーク」内で堪能しました。ワールドカップの決勝トーナメントパラグアイ戦の放映がありましたので、車内観戦できるように準備万端しましたが、高台なのに地デジもワンセグも映りません。帰宅間際の道に駅の事務員さんに聞きましたら、この位置ならアナログは入ると言われ、秘密の場所を教えてもらい移動しましたが、放映直前に眠気がおそってきて諦めました。
 Part6 へ続く

西鉄北九州線

湯口先輩より1957年(昭和32年)3月14日に撮影された西鉄北九州線の超貴重な画像を公開していただいたが、この時代に地元の方以外で撮影された方は非常に珍しい。我々団塊世代の現役時代、九州ではまだまだ蒸気機関車が大活躍しており、皆さんの目がどうしてもそちらに向いてしまうため、この方面の撮影者は少数派であった。限られた時間とお金の中で、自分が撮影したいものを最優先に行動するのは当然のことであり、私の場合、魅力を感じていたローカル私鉄と路面電車の撮影を優先し、国鉄の蒸気機関車は「ついで撮影」であったように思う。

西鉄北九州線の印象は非常に速かったことで、北九州の各都市を結ぶインターバンとして建設されたため専用軌道区間の最高速度は60㎞/H、併用軌道区間でも40㎞/Hで目一杯走っていた。路面タイプの電車が60㎞/Hまで出すと体感速度は10㎞/H以上速く感じた。以前ぶんしゅう様が万葉線やポートラムが専用軌道でも40㎞/Hまで出さないことを嘆いておられたが、都電荒川線も含めて、専用軌道区間は是非60㎞/H位で走行してもらいたいものである。

それでは上から順に解説する。参考までに湯口先輩が撮影された12年後、1969年(昭和44年)3月撮影の画像を貼り付けたので、湯口先輩の画像と合わせてご覧いただければ幸いである。

1)79・80(形式/66形)

北九州線の前身、九州電気軌道により、昭和4年66~85の20両が作られた全鋼製車で、昭和25年に車体を軽量化するため、70・76~78・80~85は車内を木製化して半鋼製に、車体の状態が悪かった66~69・71~75・79は当時の新製車600形とほぼ同じ車体を新製して乗せ替えた。

湯口先輩が撮影された1番上の79は車体新製車、2番目と3番目の80は半鋼製改造車、最後の廃車体は、新製車体に乗せ替え時の廃車体である。

その後の経過については、他形式を含め1950年代にビューゲルをパンタに取替えが実施された。半鋼製改造車はダイヤの合理化により余剰となったため、ワンマン化されることなく昭和47年に廃車された。車体新製車は昭和39年から42年にかけて福岡市内線の木製車100形(元北九州線1形・35形)を置き換えるため79を除く9両が同線に転属した。昭和50年福岡市内線一部廃止により余剰となり、福岡で廃車になった75以外の8両は北九州線に復帰したが、路線廃止に伴い66~68が昭和60年、69・71~74が平成4年に廃車された。

 

77(半鋼製改造車) 昭和44年3月26日  魚町

 

75(車体新製車/福岡市内線転出後) 昭和44年3月24日  博多駅前

(2)    104・156(形式100形)

昭和11年から15年にかけて57両(101~157)作られた車両で製作時期により大きく3つのグループに別れる。

    101~117

昭和11年に作られたグループで前述の66形と同系のスタイルである。66形との相違点は窓が大きくなったため扉間の窓枚数が11枚から10枚に減少、扉が窓よりも高くなったこと等があげられる。

    118~137

昭和14年から15年にかけて作られたグループで、スタイルが大きく変わり、正面が当時流行の流線型、窓が上窓固定の2段窓、扉の配置が前・中となった。屋根の形状は汽車会社製の118~124が従来と同じであったが、日本車輌製の125~137は張上げ屋根となった。昭和27年から28年にかけて、前中扉は前後扉に改造され、元中扉部分の窓幅が狭くなっている。

    138~157

昭和15年から16年にかけて作られたグループで扉は前後扉になった。138~147は日本車輌、148~157は汽車会社で作られたが、どちらも張上げ屋根となり差異はなくなった。このグループの内、138~140・142~145・147・148・150の10両はワンマン化されたが、それ以外の車両は昭和47年から53年にかけて廃車された。148が「北九州市交通科学館」に保存されたが平成16年4月に閉館となり、現在は門司港レトロ地区で保存されている。画像で見る限り状態は良く、リタイヤ後是非行きたいと思っている。

同一形式ながらスタイルが大きく異なるため、118~124を118形、125~137を125形、138~157を138形と呼ばれることもある。

 

104  昭和44年3月26日  大門/昭和11年日本車輌製

 

111  昭和49年1月19日  大門/昭和11年日本車輌製

 

119  昭和44年3月26日  大門/昭和13年汽車会社製、元中扉部分の窓が狭くなっている。

 

129  昭和44年3月26日  大門/昭和13年日本車輌製

 

152  昭和44年3月26日  大門/昭和15年汽車会社製、

 

139(ワンマン改造後)昭和49年1月19日  大門/昭和15年日本車輌製

(3)    204(形式/200形)

北九州線の前身、九州電気軌道の開業時から使用してきた1形のうち初期車の9両と余剰の散水車3両の台車と電装を流用して、昭和9年から12年にかけて66形に準じた車体を新製した車両である。前述の100形よりも製造年が古いのは、当時神戸市電から譲り受けた2軸車が100形を名乗っていたためである。(前述の100形は元神戸の100形が廃車後に新製されている)ワンマン化されることなく昭和48年から52年に廃車となった。

 

203  昭和44年3月26日  大門/昭和9年日本車輌製

 

205  昭和44年3月25日  小倉駅前/昭和9年日本車輌製

(4)    618(形式/600形)

昭和25年から28年にかけて50両作られ、平成12年11月26日北九州線全廃時まで主力として活躍した。601~605・636~643が昭和25年新潟鉄工所、606~610が昭和25年川崎車輌、611~635・644~650が昭和27年近畿車両で作られた。メーカーによる車体の差異はないが台車が異なる。昭和45年にワンマン改造、昭和56年から車体強化改造、昭和61年から冷房の取付けが実施されたが、全車には及ばず約半数の23両に止まった。全線廃止時まで残っていた621が「北九州線車輌保存会」により、元北方線324と共に筑豊本線筑前山家駅の近くで保存されている。毎月第4日曜日に一般公開されており、リタイヤ後是非行きたいと思っている。余談になるが、リタイヤ後に行きたい所が山ほどあり、生きている間に全部回れるかどうか甚だ疑問であるが、可能な限り回りたいと思っている。

 

606  昭和44年3月25日  小倉駅前/昭和25年川崎車輌製

 

612  昭和44年3月25日  小倉駅前/昭和27年近畿車両製

 

640  昭和44年3月25日  小倉駅前/昭和25年新潟鉄工所製

 

647  昭和44年3月26日  大門/昭和27年近畿車両製

 

627(ワンマン改造後)昭和49年1月19日  大門/昭和27年近畿車両製 

(5)    1001・1009・1020(形式/1000形)

昭和28年から42年にかけて作られた連接車で1001A+1001B~1064A+1064Bの64編成が在籍した。製造年が15年に亘るため、時期により変化が見られるが、大きなものを取り上げると、昭和28年の1001A+1001Bから30年の1020A+1020Bまでは半鋼製、昭和33年の1021A+1021B以降全金製、翌34年の1031A+1031B以降窓枠のアルミサッシ化、最終増備の1062A+1062B~1064A+1064Bの方向幕大型化が挙げられる。後日1045・1052~1056の6編成は、ラッシュ対策のため扉のない中間車体Cを挿入して3連接車となった。

路線廃止後、筑豊電鉄に譲渡された車両が多いが、現在も原型を保ちつつ残っているのは最終増備の1062と1064の2編成のみで、1063編成改造の中間車体を挿入して3連接車となっている。

・筑豊電鉄2006ABC編成(1062A+1063B+1062B)

・筑豊電鉄2007ABC編成(1064A+1063A+1064B)

また、1043A+1043Bと1044A+1044Bは中間車体に改造され、元福岡市内線1301A+1301B~1304A+1304Bの中間に挿入されている。(筑豊電鉄2001ABC~2004ABC編成)

 

1003A+B 昭和44年3月25日  小倉駅前/昭和28年川崎車両製

 

1021A+B 昭和44年3月26日  大門/昭和33年近畿車両製

 

1026A+B 昭和44年3月26日  大門/昭和33年川崎車両製

 

1038A+B 昭和44年3月26日  大門/昭和34年帝国車両製

 

1045A+C+B 昭和44年3月26日  大門/昭和34年日立製作所製

 

1058A+B 昭和44年3月26日  室町/昭和39年日本車両製

 

1062A+B 昭和44年3月26日  室町/昭和42年九州車両製

(6)    506(形式/500形)

昭和23年に501~510、24年に511・512の2両が汽車会社で作られた。全長13.6m、車体中央に両開き扉を設置した3扉の運輸省規格形電車で、大阪市電1711形、横浜市電1300形とは同形であった。昭和28年頃に急カーブでの接触事故防止のため車体両端を絞る工事と中央扉の廃止工事を行った。ワンマン化されることなく、昭和51年から52年に運用を離脱し、501・502・504が広島電鉄に譲渡され、それ以外は廃車となった。広島電鉄では600形(601~603)となり、後部扉を廃止して片開きの中扉を設置した。現在602のみが残っており西鉄色に塗られている。

 

505  昭和44年3月25日  小倉駅前/昭和23年汽車会社製

湯口先輩の「北九州シリーズ」の続編で、西鉄宮地岳線や福岡市内線の貴重な画像が続々と公開されているが、機会があれば関連の話題を書き込みしたいと思っている。

こんなんあるでぇ!シリーズ

【9057】北の大地へ2010年初夏編 Part4 富良野線、狩勝峠のなかの狩勝峠で、特派員氏とぶんしゅう氏が旧線を探しておられるのを見て手元の古い資料を探してみた。須磨の大人風に言うと「またぶんしゅう氏の挑発に乗った」ということになる。

撮影はいずれも昭和40年8月、早朝の信号所からクマザサをかき分けながら登ること3時間、頂上(らしいところ)に到着したが深い霧で足下もおぼつかないほど。待つこと一時間、その間ドラフト音は聞こえるのに見えないのがつらかった。するとアッというまに霧が晴れた。そこで見たのはこの世とも思えぬ大眺望!いまでも人生最高の眺めであったと確信している。

さて、ぶんしゅう氏と特派員氏が見たのもこの眺望だろう。見比べてみていただきたい。

新緑の北海道 余話-2-

懐かしい車両と出会う

北海道には、国私鉄の廃止後に造られた鉄道博物館・資料館が数多くあり、ぶんしゅうさんが紹介された三笠鉄道記念館はその代表です。幌内線の廃止後、三笠駅跡と幌内駅跡の2ヵ所に造られた、ゆかりの車輌が50両近く保存される、全国でも最大規模の鉄道博物館です。
北海道ではその後も多くの保存車両に接することになるのですが、そのいずれも、定期的な塗り替えなどのメンテナンスが行われ、野外展示でもたいへん美しい姿で保存されています。保守に携わる関係者の熱意には心打たれました。

ここに鉄道記念館が造られた理由を、よく理解しないまま訪れたのですが、北海道で初めての鉄道である幌内鉄道が開通したのが、1882年の手宮~札幌~幌内間で、おもに幌内で発見された良質の石炭を小樽・手宮港へ運び出すのが主目的でした。廃止前の幌内線は、岩見沢から三笠を経て幾春別までと、三笠から分岐して幌内まで、計20キロ余りのローカル線に過ぎませんでしたが、元を正せば、札幌・小樽へ通じる、明治の幹線でした。三笠鉄道記念館は、言わば北海道鉄道発祥の地にある、由緒正しき鉄道資料館と言えるでしょう。
保存車両を見ていると、ぶんしゅうさんから「このDD51、御召を牽いている」と聞かせてもらいました。説明板を見ると、展示のDD51548は確かに昭和43年に御召牽引と書いてあり、その時にも撮っていたことを思い出しました。他も見ていくと、現役時代にも撮っていた車両があり、思わず40年前にワープしていました。

旧三笠駅跡にある、クロフォード公園と呼ばれる一番目の保存場所に置かれたDD51548。ここには、三笠駅の旧称である幌内太駅を模した駅構内が復元されている。その中に貨車を牽くDD51548が置かれている。ホームや跨線橋も復元され、現役時代を髣髴させている。

以前の掲示板でも記したが、DD51548は昭和43年9月、開道100周年に際して、千歳線・函館本線・石北本線で御召列車を牽いている。写真は旭川四条~新旭川間で旭川発上川行の御召を牽くDD51548。真夏のような陽射しの中、ロギング太郎さんと一緒に撮りに行ったことを覚えている。
この頃、北海道ではDD51が釧路・旭川区に配置され始め、次第に蒸機を駆逐して行った。同機は、言わば北海道のDD51の生え抜きでもあり、御召牽引の実績とともに、保存にふさわしい車両であろう。

2番目の会場である幌内駅跡には、多くの保存車両があり、その大部分は野外だが、一部は庫の中に保存されている。そこにいたのが、北海道最初の電気機関車のうちの1両、ED76505である。腐食もなく、美しい姿で保存され、運転室への立ち入りもできる

北海道の鉄道で、初めての電化区間は、昭和43年8月に開業した小樽~滝川間であった。電車は711系、電機はED76 500番台がいずれも新造された。写真は、電化直後、まだ地上時代の札幌駅で421列車を牽くED76505だ。421列車は函館発釧路行の普通列車で、延々680キロを通す普通列車として、その当時も名を馳せていた。

成田スカイアクセス開業と253系N`EXラストラン

一昨日の2010年7月17日、成田スカイアクセスが開業しました。また、JRでは、253系成田エクスプレスのラストランがありました。

地元ということもあり、双方を撮影してきました。

成田空港行きの初列車は、京浜急行の神奈川新町を5:20に出た553Hアクセス特急です。京浜急行の1000系が充当され、地元の印西牧の原駅を120キロに近いスピードで通過していきました。

 

二番列車は、新線区間では、160キロ運転を行う新型スカイライナーです。先日、試乗会で160キロを体験しましたが、なかなかのものです。

京成上野を6:30に出たスカイライナー1号です。途中、日暮里では、出発式が行われたようでしたが、定刻どおりです。

 

三番目は、京浜急行の三崎口を5:05に出た557Hアクセス特急です。京浜急行の600系が充当されました。この車は、他の電車と違い方向幕を使用していたため、「成田空港」との表示がしっかり撮影できました。

四番目は、都営地下鉄の西馬込を6:33に出た601Kアクセス特急です。京成電鉄がこの成田スカイアクセスのために新造した3050系が充当されていました。

成田空港行きの初列車から4本目まで、自宅近くの印西牧の原付近で撮影しましたが、いずれの電車にもヘッドマークや装飾の類はされていませんでした。京急車はともかく、京成の車両ぐらいは期待したのですが・・・・高速走行のため、無理なのかもしれませんね。

一旦、自宅に引き上げた後、JR成田線に移動し、佐倉~酒々井間で、JR東日本横浜支社主催の「253系成田エクスプレスラストラン」の団体臨時列車を待ちます。炎天下で待つこと二時間。陽炎が立つ彼方から、253系6連 Ne-07編成がやってきました。現役時代は、12連ですのでちょっと短いN`EXです。鹿島貨物の撮影の合間、30分ごとに走ってきた253系に、ここで出会うのも最後かと思うと不思議な感じです。

スカイアクセスに続き、こちらもヘッドマークの類は、一切つけられておらず、一般の営業列車と同じいでたちでした。

北の大地へ2010年初夏編 Part4 富良野線、狩勝峠

第5日目 2010年6月28日
ペンションは、「ほしの灯屋」のオーナーは、奥さんの事故後遺症治療のために、効能良い温泉を探しペンションを始められただけあって、ご自慢の源泉かけ流しの湯は、疲れ限界に達した我々には最高でした。昨夜寝る前、朝も入って、元気になりました。

宿泊客は、香港から来られた親子連れもいらっしゃいまして、5組9名でした。山や動物写真を撮っておられる猟友会の方々もおられ、今年は雪が多く餌不足で、熊やエゾシカが人里に下りてきている。遭遇する可能性が高いので気をつけるように、熊は嗅覚聴覚が人間の数10倍以上優れているので、声や鈴で音を出していれば遠ざかってくれるが、偶然出会いがしらに会った場合は一撃でやられる。そんな時は身の回りのものを置きながら熊の興味を引き付け、ゆっくりと離れる事。約50m外が安全ラインなので、越えたら一目散に逃げるようにしなさい。
エゾシカはグループで行動する。1頭が道路を横断した時は、避けられたと安心してはいけない。鹿は必ず2、3頭目が続いてくる。皆これと衝突する。衝突すれば被害は甚大で車が大破する。暗くなると行動が密になるので我々は、夜は絶対に走らない。とアドバイスを受けました。

夕刻の撮影が好きな我々です。そのため撮影後、夕闇の中を走る機会が日常的です。聞いた途端に夜の走行は止めなければと思いました。
お薦めします温泉ペンションは、白金温泉「ほしの灯屋」です。
http://www9.plala.or.jp/hoshinoakariya/

朝食をゆっくりとって、遅めに出発しました。9:20上富良野駅着
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1955/57年北九州福岡2

西日本鉄道宮地岳線多々良車庫の車両は当然もっとある。モ2は木製車体の3扉車で、博多湾鉄道汽船―非電化時代の1925年ナハ1~3として川崎造船所で作られた、100%電車タイプのいわゆる「電車型客車」―方向幕窓まであった。
すなわち将来電化を予想していたわけで、このような客車は佐久、筑波、河東、東武、松阪電気鉄道など結構あり、予定通り電車になったケースも勿論あるが、客車で終始した例も少なくない。博多湾鉄道汽船では1929年めでたく電装され、デハ1~3に。

西鉄宮地岳線モ2←デハ3←ナハ3 

モ6←デハ6 電化に際し日車で製造された半鋼製車 窓配置が古めかしいが小田急モハ1→デハ1101型と寸法は殆ど同じだそうな

ク59←国鉄モハ316←鶴見臨港鉄道モハ316 台車は長軸だからTR11であろう

ク61←国鉄クハ6005

ク62←国鉄クハ17074 仮台車を履いている

ク62

ク55←サ55←国鉄キハ5026←北九州鉄道キハ9 西鉄で片ボギー車を両ボギー化 偏心台車は先回アップした旧中国鉄道ガソリンカーのものと思われるが、菱枠が三角リブで補強されている 元来は汽車会社製の無骨な60人乗り気動車

東芝製標準凸型電機202

吉塚駅前は3線式になっていて 1067mm軌間には木製で独特のB電機がセムを曳き続行運転をしているのが珍しかった 右手にオート3輪車が覗く

西鉄1012 電機か電貨か迷うが前者らしい オート3輪車も全盛期

西鉄1014 これも電機より電貨がふさわしそうだがやはり電機に分類されている

北の大地へ2010年初夏編 Part3 三菱美唄鉄道、三笠鉄道記念館

第4日目 2010年6月27日
昨夜は「道の駅三笠」に到着後、隣接する超大型スーパーで食材のお買い物をして、出発時の舞鶴港同様にテーブルをひろげてのアウトドアの夕食をゆっくり楽しみました。私は、家族や友人達とアウトドアを楽しんでいましたので、慣れたベテランですが、総本家さんは学生時代DRFC合宿以来です。抵抗があるかなと思いましたが、旅行慣れでこだわりなくよく食べておられましたので安心していました。

食事後に入浴されるのが習慣だと、隣接する温泉に行かれましたが、20:30で入館は終わっていて、入浴料も1500円と高かったとがっくりとして帰られてきました。温泉施設は全国各地に行っていますが、20:30が入館最終時間と聞くのは初めてです。1500円という入浴料も、超有名旅館の日帰り入浴並みです。道内は500円が相場です。我々の一日当たりの食費に匹敵する高さです。

昨日は、真夏日だったので、洗面所で汗を拭くだけでは不快だったと思います。加えて高速・主要道そばでの連泊ですので熟睡できなかったと、見ていてもハッキリと分かる程、身体全体に疲労が充満しています。私も移動距離が長いので運転疲れで限界です。今夜は安い温泉宿をとって、早めにゆっくりすることにしました。撮影地は、富良野線ですので、白金温泉の露天風呂付きのペンションを早め予約しました。

朝からは、静態保存の4110形蒸機を見学予定でしたが、10:00開園となっていたのでそれまでの間に、函館本線を走行する多彩な列車を撮影する事にしました。美唄までの約15kmが候補地ですが、決まった場所はありません。
▲ 9:09、峰延→光珠内 大人気のキハ183系0台4両編成の特急「旭山動物園号」。今日は、なぜかチンパンジー号が連結されていない。
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宵山の京都から

北海道余話、ぶんしゅうさんと連携しながら書き進める必要もあり、その調整として、別テーマでちょっと横道にそれることにしました。
きょう7月16日、京都は祇園祭の宵山で賑わっていました。
以前は、電車と祇園祭を組み合わせを写すために、京阪四条駅や、古くは市電四条河原町新京極へよく行ったものでした。
今では、鉾町から離れたJR京都駅で、それをかろうじて叶えることができます。
毎年、烏丸口改札の上に駒形提灯が掲げられ、コンコースに祇園囃子が流れ、祭りへの高揚感を演出しています。
そんな中、今や1往復にまで減ってしまった485系「雷鳥」が0番ホームに到着します。折からの、急な夕立落雷でホームが混雑する中、懐かしい国鉄色はひときわ存在感を持っていました。

今年が最後? 485系「雷鳥」と祇園祭

北の大地へ2010年初夏編Part2 旧白滝駅・丸瀬布森林鉄道

第3日目 2010年6月26日
昨夜は小樽港到着後すぐに札樽自動車道、札幌から道央自動車道を眠気感じる砂川SAまで走り、宿泊しました。

5:00前に起床、すでに太陽は内地と比べると、はるかに高く上がっています。SAも内地と違って、大きなキャンピングトレラーや普通乗用車も多数泊まっていました。ここから北の大地1番目の撮影地石北本線白滝付近までは、約2時間の所要時間です。

▲ 7:05、「村名”白滝”発祥の地」記念碑前に到着。白滝を見下ろす高台が、湧別川沿いに走る石北本線撮影地です。
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初夏の北海道 余話-1-

旧白滝を訪ねる

待望の連載”ぶんしゅう旅日記 初夏・北海道編”、今回は、当特派員も同行させていただいての二人旅となりました。特派員にとっての北海道は、社会人時代に観光や仕事で行ったことはあるものの、鉄道写真の撮影となると、実に学生時代以来、約40年ぶりとなりました。
それだけに、見るもの、写すもの、すべてが新鮮で驚きの連続でした。詳細な旅行記は、今後もぶんしゅうさんが記されますので、当特派員は、印象に残った事象を採り上げ、昔話も交えながら綴っていくこととしました。
北海道へ上陸して、まず向かったのは、丸瀬布の「いこいの森」ですが、開場前の時間を利用して石北本線旧白滝を訪れました。この駅の存在が、以前から気掛かりで、この眼でまず確認しておきたかったのです。


この世に”新”を冠する駅名はゴマンとあるが、”旧”が付くのは、ここ旧白滝だけだ。しかも、石北本線には、奥白滝、上白滝、白滝、旧白滝、下白滝と”白滝”の付く駅のオンパレード(奥白滝はのちに廃止)。
この謎は
、現場へ行ってみて氷解した。もともとこの地域、地名すらないような人跡未踏の地であった。地域を流れる湧別川に大きな滝があり、飛瀑で付近は白く見え、いつしか”白滝”が地名となり、村名も白滝になったという。事実、石北本線の撮影名所地になっている旧白滝~下白滝間には、「白滝発祥の地」の碑があり、この由来を説明している。

旧白滝は、この地域で真っ先に入植が行われ、のちに集落の中心が現在の白滝へ移ったため、その後に建設された石北本線の駅名には「旧白滝」の名が採用されたようだ。駅への昇格は1987年のことで、それまでは乗降場扱いであった。駅はホーム一面の棒線駅で、典型的な北海道の無人駅スタイルだ。もっと山深いところかと想像したが、意外に開けたところに駅は所在し、国道からも容易にアプローチできる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もうひとつ、旧白滝を有名にしたのは、発着本数の少なさだ。上りこそ午後に3本あるものの、下りに至っては7時16分発の1本のみ。始発列車が終列車と揶揄されたものだ。どうしてこのような偏った列車ダイヤになったのか。おそらく1人か2人はいたはずの通学生の利便を考えたものだろう。朝に丸瀬布・遠軽方面への列車を停車させ、午後は選択できるように3本設定している。この需要以外にこの駅での乗降客は考えられず、それ以外の普通列車はすべて通過扱いだ。 

待合室をのぞいて見ると、他の駅にも見られる備え付けのノートが一冊置かれていた。それを見ると”秘境駅”にも認定されたこの駅には、毎日のように訪問者がいるようだ。「いこいの森」で撮影の後、16時53分発の上り旭川行きを迎えた。ホームには旅行者が一名待っていた。彼は約3時間前の上り列車で来たのだろうか。キハ40の2両編成が、35度を超す暑い空に、紫煙を上げて、まっすぐな線路に消えて行った。

 

餘部橋梁 塗装塗替の頃

去る、平成17年8月30日餘部駅を訪れた処、運良く(?)塗り替え工事中でした。それまでは列車撮影ばかりに気になっておりましたが、塗装作業を目の当たりにしますと橋梁の構造に大いに興味が引かれ、その鉄組等備に見るに付け先人の知恵と苦労に敬意を払わざるを得ません。

架橋工事から既に100年の月日が経って、足下に及ぶ風雪によく耐えたものと感傷に浸っておりました。ご覧のように腐食が甚だしい部分も散見せられます。

完成イメージ図も発表せられておりますが、私のような世代にとって鉄橋の記憶が強すぎて馴染むのは何時のことになりますやら。

帰りは「快速 あまるべロマン号」普通のキハ47 2+キハ47 15 編成でした。残念。
草生した餘部駅は、混凝土に覆われた駅になるのでしょうか。

ライブカメラ
http://www.town.mikata-kami.lg.jp/www/contents/1270077904503/

北の大地へ2010年初夏編 Part1 行きがけの駄賃

第1・2日目 2010年6月24・25日
①舞鶴港0:30(新日本海フェリー)→20:45小樽港

2009年10月の紅葉前線を追いかけての北の大地は、道南以外は既に紅葉は終わった後で、初冬を迎えていました。道内各地の鉄道資料館等は殆どが冬季閉鎖で見る事ができず、初雪に追われるように引き上げざるをえなかった悔しい思いをしました。
次回にリベンジを誓ったので、今年は本土が梅雨に入る頃に梅雨のない北の大地へ訪問するのが一番と思いました。今回もぶんしゅう7号を相棒に一人旅予定でしたが、最近一人旅ゆえの撮影列車時刻の見過ごし等のミスが発生してきて、確認のためにも相棒が欲しくなっていました。

近くにDRFC-OBの総本家 青信号特派員さんがおられます。ただ、鉄道写真は鉄道で移動しながら撮る事を信条とされておられますので、お誘いするのは難しいかなと思っていましたが、昨今のローカル線は勿論幹線でも列車本数が激減して、撮りたい列車が移動に乗車するため撮れないとの現実に直面しておられました。同行の打診をいたしましたところ、車で宿泊移動する長旅は未経験だが、約40年ぶりとなる北の大地を見るのは良いなあとなりました。 続きを読む

1955/57年北九州/福岡

高校を卒業し浪人になった1955年と、何とかドーヤン生になれる権利を確保した57年とも、3月に九州に行っている。1955年18~21日まで、1957年は19~24日までで、特に吉塚~福岡市内は撮影対象も重複するので、2年の差異はあるがまとめて記すため、話が少しややこしいかもしれない。

1957年は西鉄北九州軌道線砂津車庫から到津遊園地へ。ここに旧大川線の2号コッペル機が保存してあるからで、入口ゲートから見える。もぎりの親父に、あの機関車の写真を撮るだけだから、切符なしで入れてくれ、ものの2分もかからないし、質草にこのバッグを預けるから、と掛け合ったが、貧しい浪人(まだ大学生の身分は取得していない。学割証だけはうんとこさ持っていたが)生は友好的な返答を得られなかった。致し方なく身を切る思いで何十円かで入園券を買わされたのは、後年犬山遊園で蒸気動車を撮った時と同じ。これだけありゃ、腹いっぱい食えるのに。


到津遊園地の大川線4号機 コッペル1911年製 

これは大川鉄道1→西鉄大川線(大善寺-大川、1951年9月25日休止、1966年5月6日廃止)4で、軌間こそ1067mmでも、軽便同様の8トン機で、国鉄との貨車乗り入れもなく、連結器も最後まで螺旋連環式。この旧大川線4号は、撮影時点かなり荒れており、前部バッファーは左側ががっくり首を垂れ、後部は失われていた。キャブ内も当然荒れっぱなし。今ではどうなっているんだろうか。

ところで話は2年前に戻る。その年(1955年)に卒業したS先輩と一緒に、長門鉄道を一覗き後九州入りして鹿児島本線を西南へ。香椎から箱崎、吉塚のあたり、国鉄と西鉄が並行する区間があるが、まず気づいたのが松林の中にズラリ並んだ路面用木製2軸単車の一群で、直ちに衆議一決、次なる駅で下車。


松林の中の単車5両

窓こそ下段上昇に改造され、折り戸も付されているが、ポールは1本。福岡市内線の廃車であろう。そして貝塚に近い宮地岳線(→貝塚線)車庫には、我々好みの車両―元車両を含め―がどっさりいた。旧博多湾鉄道汽船は吉塚以東が戦時中買収で勝田線になったが、電化残存部分が現在の宮地岳線で、車庫最寄駅は確か競輪場前といわなかったか。撮影は1955、57両年のものが混じっている。


これは2年前松林に並んでいたうちの1両だろう さざえ食堂と落書きしてある

上下とも旧大川線ガソリンカーの成れの果て フォードV8装着のキハ6、7だった


これらの旧2軸客車は博多湾鉄道汽船や大川線等の残党であろう



これは旧中国鉄道キハニ161→省キハニ161→西鉄ク58 台車はTR11に振り替えられている 同僚だった旧キハニ160はク57に 共に加藤車輛製作所1934年製

木製国電末期の姿だが手入れは良い クハ17072→西鉄ク63
モ8 電化で新製された半鋼製電車 小田急モハ1→デハ1101型と貫通扉以外同型の由

モ12 これは汽車1936年製デハ10→ クロスシート車だった由

江若鉄道 三井寺下駅・本社

西村様
江若鉄道の復元工事が着々と進んでいること、同慶の至りです。つぎの目標は、三井寺下駅周辺のこと、ここには、江若鉄道の本社・車庫の所在駅であり、いつ行っても個性揃いの車両がびっしり詰まっていたことを思い出します。
今回の探求は、駅舎・本社ということで、探してみました。なんとか2点は撮っていました。復元工事のお役に立てば幸いです。
三井寺下の駅舎は、大通りから一歩下がったところにありました。本社・車庫の所在駅だけに、他駅に比してかなりの大きさでしたが、乗降客はわずかなものでした。廃止直前の姿で、正面には廃止の挨拶看板が立てかけられています。
一方の本社は、駅舎の左手にあり、駅用地とは塀で仕切られ、「江若鉄道株式会社」の門標もありました。ご覧のように木造下見板張りの2階建てで、この建屋は、鉄道廃止後も、江若交通の本社として長く在りました。撮影時は、駅・車庫用地すでに撤去後で、手前には新設の道路が見えます。この本社も昭和60年前後に付近の再開発に伴い、取り壊されたと記憶しています。

▲三井寺下駅駅舎、右手にホームがあり、車庫に留置された車輌も見える

▲右手が江若鉄道本社、左は組合の建物か。鉄道廃止後15年後の姿

江若鉄道白鬚駅復元工事(その7)

梅雨明け、水泳シーズンの開業を目指して工事を進めてきましたが、何とか完成に近づいてきました。あとは松並木が残っていますが、車両や建物と勝手が違って 手が止まってしまいます。とりあえず開業し、木はぼちぼち植えてゆくことにしましょう。というわけで完成間近かの様子をご覧下さい。

高島町、白鬚とできたのですが、こうなると次はどうするかということになります。浜大津、三井寺下、近江今津・・・。浜大津を作るとなると京阪浜大津も作りたくなるし・・・、近江今津は実は行ったことがないし・・・、三井寺下は再現したいが、部屋に収まらないような大きさになりそうだし・・・とあれこれ思案を始めています。三井寺下の構内配線はほぼわかるのですが、駅本屋、本社社屋など建物の写真がないのです。三井寺下の駅前風景など車両以外の写真があれば 是非ご紹介ください。

「電車は1両もええ 続編」補足

前回取り上げた丹波橋駅に停車中の三条行で、積み残し客が出る程満員であることが、お判りいただけると思う。(昭和39年5月10日)

準特急様が旧国鉄、JRの単行電車について書き込みされたが、文中で触れられている小野田線の支線「通称本山支線」と鶴見線の支線「通称大川支線」について補足する。

本山支線のクモハ42

平日、休日ともに運転は朝・夕のみで土曜日のみ学生の下校時間帯に1往復運転されていた。(現在は学校が完全週休2日制になったため運転されていない)私自身乗車したのは1度だけで撮影した前日の夕方1往復したが日没後のため撮影はしていない。翌日宇部新川駅で朝のラッシュ時に撮影後、雀田駅に行ったが午前中の運転は終了しておりパンタを降ろして昼寝をしていた。クモハ42の運行は平成15年3月14日までで、その後はクモハ123が運行されている。

 

雀田駅で昼寝中のクモハ42005(昭和49年1月20日)/本山支線の他、クハを連結して宇部線・小野田線の運用に入ることがあるため、下り向きには貫通幌が付いていた。

大川支線のクモハ12

平成8年3月15日までクモハ12051か052が単行で運行されていたが、3月16日のダイヤ改正で103系3連に置き換えられた。その際に武蔵白石駅の大川支線ホームが急カーブにより20m車が入線できないため撤去され、大川行は一つ鶴見寄りの安善駅との間の渡り線から上り線を逆走し、武蔵白石駅を通過して大川駅に至っている。平成16年8月より205系への置換えが開始され、103系は平成17年12月17日をもって引退した。

 

大川駅に進入するクモハ12052(昭和47年5月1日)

その他の単行

大垣~美濃赤坂間、大垣~垂井~関ヶ原間のローカル運用の昼間の閑散時間帯にクモハ40、クモハ12の単行が使用されていた。

 

美濃赤坂駅に停車中のクモハ40069(昭和39年9月21日)

【参考】

この時の主目的は西濃鉄道の蒸気機関車で、当時「2105」と「2109」が在籍しており、当日は「2105」が稼働していた。廃車後「2109」は大井川鉄道に行き、現在は日本工業大学で動態保存されている。

高槻電車区の職員通勤車

営業運転ではないが、高槻駅から電車区の間に職員通勤用にクモハ32002が運転されていた。車体の内外は営業車と同レベルに整備され、いつでも営業運転に使用できるようになっていた。現役の時、高槻電車区見学会の帰りに便乗させていただいたので参加された方は覚えておられると思う。

 

(昭和41年11月12日)

【参考】クモハ32について

クモハ32は、昭和9年7月20日吹田~須磨間の電化開業による電車運転開始時に、主として増結用に使用するために新製された両運転台付のモハ42を戦時改造で4扉化した電車である。13両中5両改造されたが、戦災と事故で2両廃車となり、生き残った3両が昭和28年の改番でモハ32000~002となった。昭和40年代は32000が岡山区、32001が淀川区に在籍し、通常の営業運転に使用されていた。

 

宇野線の8連の先頭に立つ32000(昭和47年7月30日)

 

片町線で中間に入った32001(昭和49年3月23日/住道駅)

 

牽引車代用として向日町運転所に貸し出された時(昭和41年11月28日)

青梅線・五日市線のクモハ40

五日市線の電化開業時、昼間の閑散時にはクモハ40の単行が見られた。この画像を見る限りでは単行に見えるが、実はラッシュ時の増結車である。当時、ラッシュ時は基本4両にクモハ40が1両増結され、5両で運転されていた。

 

クモハ40039(昭和49年5月1日/青梅駅)

 

クモハ40061他5連(昭和49年5月1日/拝島駅)

クモハ123

準特急様が塩尻~辰野間のクモハ123-1と身延線のクモハ123-602を紹介されておられるが、同形式について少し説明したい。

国鉄末期の昭和61年から分社後の63年にかけて手荷物・郵便輸送廃止により余剰になった荷物電車を旅客用に改造したものである。JR東日本はクモハ123-1が1両のみ、JR東海は123-41~45(改造により5041~5044・5145に改番)・601、602の7両、JR西日本は123-2~6の5両が在籍したが、JR東海は平成19年までに廃車、JR東日本とJR西日本は全車両健在である。JR西日本は宇部・小野田(本山支線を含む)線を主体に山陽本線の宇部~下関間で使用されている。

JR東日本 クモハ123-1(昭和62年1月15日/塩尻駅)

改造当初は白と緑のツートンであったが、走行区間に緑が多く目立たないことから現在の塗装に変更された。

 JR東海 クモハ123-5043+123-601+123-602

JR東海は当初、身延線の富士~西富士宮(一部は芝川)間と甲府~鰍沢口間の区間運転用に投入されたが甲府~鰍沢口で使用する車両の送り込みのため、富士~甲府間の全線を走破する運用も存在した。トイレがないことから乗客からの苦情が殺到したため、甲府~鰍沢口間の区間運転から撤退し、それに伴う富士~甲府間の全線通し運用もなくなった。但し、平成19年3月18日のダイヤ改正まで、沼津~身延間の4229Mに2連で使用されていた。富士~沼津間を3連で回送、沼津で検査後11時30分頃3連で出庫して、11時40分頃先頭の1両が回送で発車、後2両が11時50分発身延行となった。

 

上/クモハ123-5043 中/クモハ123-602 下/クモハ123-601(平成17年6月24日/沼津駅)

代理投稿:人間国宝より須磨の大老へ

湯口徹氏へ
52年前の海底トンネルの県境の写真、ありがとうございました。私はいつまで学生
服を着ていたか憶えていません?
喜々津ー大草間は湯口氏の記事の通り、誘われたに違いありません。3月22日(土)
夜門司駅で待ち合わせ、3月23日(日)昼過ぎ湯口氏と別れ、私は一旦京都へ帰っ
て3月28日(金)午後出発、夜行で九州へ。
29日(土)午後海老津の駅で再会し、翌3月30日(日)に喜々津ー大草へ撮影に
行ったということです。
                                  佐竹保雄

1957年3月19日西日本鉄道北九州線

この日は天気もよく、ずいぶんフイルムを費やした。それも西鉄北九州線砂津車庫で路面電車をバンバン撮ったのである。かような電車は拙老の最も不得意とする処であり、ともかく写真を羅列するので、解説は乙訓ご老人あるいは藤本哲男氏にお願いできないだろうか。何卒よろしく。


西日本鉄道北九州線79

80


101

156

204

618

1001

1009

1020

廃車体 パンタは後ろの車両のものである

先日ええ歳こいだ仲間の年中央での懇親=要は酒盛りで「年中会」と称す。勿論年末の忘年会もある=で広島に行き、翌日電車を借り切って走行、車庫で撮影会。そのうちの数名が松山で再泊。元気な二都市の路面電車をイヤというほど堪能した。思い出すまでもなく、かつては日本中に路面電車が走っていたし、その大方は元気だった。しかしともかく米国に倣えと、片端からひっぺがしてバスに切り替え、それこそが進歩だと、ジャーナリストも政治家も、心底信じ込んでいたのが1960年代以降であった。関西でも万博を控え、大阪青年会議所は声を大にして路面電車の撤廃を叫んでおり、特に阪神国道線を槍玉に上げていた。小生の知る限り、路面電車は残すべきで、米国ではなく、ヨーロッパに学ぶべきだと主張していたのは、奥野利夫氏ぐらいではなかったか。後悔先に立たたずとはいうが。